katka_yg
katka
2025/06/01 (日) 15:43:57
『夜の言葉』いま6節まで。わたしは一昨年末から昨年前半まで、ヴァンス、ダンセイニ、フリッツ・ライバー、ケネス・モリス……とここに挙がっている名前の作家をちょうど読んだり読み返ししていて、モリス集の『ダフォディルの花』の巻末解説にたしかこの、ル・グインがダンボール入りのエピソードがあり、こういう一連だったか……の大ざっぱなイメージを取り戻したような憶えがあるけど、べつにわたし自身が今ル・グインの信者だからこのような再読をしているわけではない。
このあいだ言っていることとやっていることがすでにちぐはぐじゃないか、なんでル・グインの話を「わたしが信じなければならないのか」、正しいかどうかは問題ではない、など前回のアルガーベンみたいな物わかりの悪さで反抗したくなる。そもそもル・グインに反抗してどうするんだよな……。『あらゆる規範に反抗せよ』というタニス・リーに対しても反抗する、のようだと、もうだいぶ訳がわからなくなり、反逆意思を保ち続けるよりひたすら無力で抑鬱になる。だいたい2025年の日本にいてどこのどいつに共有するような話なのだ、ファンタジー論など、など。
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それはともかく、わたしはもう5年くらいか、トールキンを読み返したい気持ちなのに、反面で薄っすらとトールキン敬遠感が覆って手がつかない自覚があって、ここまで戻るならやっぱりトールキンは一回戻っておこう。損とか得は関係ない。「一生に何回周回できるか」を自分でスコアにしてもいいくらいのことだろう、古典なんて……。
まあこういう過程がル・グイン疲れること……作品自体はそうでもないような。にもかかわらず、ゲド戦記通過したらそれ関連書籍をこのたびすでにニ冊積んでる。自殺か。
そういえば、アニメ映画版の「ゲド戦記」の話をこのあいだしていたのに、それはサントラ音楽の話だけでル・グイン原作ということはすっかり忘れていたようだった。それは寺嶋民哉のほうの興味だったからね。
それはC.W.ニコル原作「風を見た少年」のつながりだったのだけど、「ゲド戦記」の音楽は作曲家のキャリアではそれらからの関連の方が強くて、『なんでアースシーがアイリッシュなのか…』のことははっきり言って、ない。それとまたべつに、わたしは「テルーの唄」の詞がまたあまり好きではなく、日本人の詞で誰だったらル・グインも黙らせるだろう……谷山浩子あたりなら文句ないんじゃない?……と思ったらこれ谷山浩子の曲じゃないか! とか、今は何年ぶりだったかわからないが、記憶も変になっていた。
2015年頃を終わりにフォローしていないけど、寺嶋音楽による『カレワラ』というのも今頃興味あるなあ……。また憶えておこう。
交響曲獺祭みたいなものを連想するが、わたしの興味はそういうの。
これも先日、ジョン・ウィリアムズの2枚組ベストを聴いたらジョン・ウィリアムズが日本のガンダム等あれこれの印象の混ぜこぜに聴こえてしまい、(逆に)参るという感覚になっていた。わたしは最近は習慣的に音楽自体を聴かないのだがたまたまこの1年、数えてみれば6人の日本人作曲家によるウィリアムズの何かを聴いており(90-00年代頃)、そんなの言い出せば本当にきりがない。もはや当たり前すぎる、そういうことを「批評」とも言わない。
昨年以前の関心が「ソード&ソーサリー」だったので60-70年代まで来たときにムアコックを開いていて、そのエルリックの序文でムアコックがトールキン他について突っ張らかったことを書いており、読んでいるわたしはでも、そういうエルリックのほうが始まって二、三話ですでにマンネリしているような気持ちだった。いま三巻で停まっている。
そのエルリックに当時のめっているのが訳者の井辻朱美氏で、日本国内のFTでは80-90年代頃のこれで……というようなマッピングを今頃にまた追い直している感じなんだ。ジャンル史を網羅したいわけじゃない。リーなりル・グインなり一人の作家史を通しているほうがその記憶には強くなる。推しがあることが強い。