どうすればいいんだろう? アニメや小説のカテジナのキャラクターにパロディを加えるのではなくて……宇宙の歴史の空白時代にも絶えず行われただろう諸々の伝説を想像してみる。伝説上の聖カタリーナとかカテジーナというありふれた聖人の名に、ある生きた人物像が求められたときに、そこにそれらしい話が付託される。
宇宙世紀、四〇〇年や七〇〇年頃のことだ。 地球上の人口が少なくなり、宇宙戦争の噂も聞かなくなると、宇宙から地球に降下してくる人々の数もめっきり減る。ヨーロッパ地域に残る特別区においても宇宙世紀以前の遺跡の保全といった意味・目的は失われ、都市は衰退に任された時代があった。自給自足する居住地と居住地の間の交渉は疎遠になり、どこかからどこかへ旅をする人の姿は稀になっていく。遠く点在する集落の間は広い荒野と再生する森が覆い、旧い舗装道は突然途切れて当てにならない。大地の汚染だけは、過去の戦争世紀が過ぎても千万年の間残る。
そんな地球の無人時代に、ある日、荒野からやってくる異人があると、地平線からトボトボ進んでくる一台のワッパの姿は、きっと幽霊を見るようなゾッとする体験だろう。保護区の少数の居留者や保全局員の間に、それは地球伝説のさまよえるワッパ、地上を放浪する盲目のカテジナだ、という風説が語られる。
カテジナがワッパに充電したと伝えられるスタンドが北ヨーロッパ地域には数多くあり、多くは現在も使用中である。
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説経節のような話を読むときに、障害のある人が「聖なるもの」のように民衆に担がれて運ばれていく話はあるとして、盲なることが「世の中の罪障や闇を代わりに引き受けてくれるから」というストーリーが語られる――とはかぎらず、たとえば「聖者の生まれ変わりの特徴がそれだから」とか、尊い理由にはまた何か別のストーリーかもしれないがその型がある、というとき。
「おりん」をカテジナと結びつけて考えたようなことは、今までもべつにない。これは偶然、同じような話題に読み合わせたので連想したこと。
説話語りの語り手(瞽女=ストーリーテラー)を主人公とする物語を、小説という体の説話語りを多く踏襲した語りをして、最後には説話そのものにしてしまう。『人々はその哀しい物語を聴いて涙ぐむのである』の、『涙ぐむ』までがフィクションであるという。大方の読者はその態度に不審感などは抱かないで「哀しい話」と現代にも読んでいるはず。涙を疑え、ではなく、そこには作者にも「文芸のスタイルへの関心」があることは見せている、とまでは意識して読まれたい、という話をした。
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【聖カテジナ伝説】
どうすればいいんだろう? アニメや小説のカテジナのキャラクターにパロディを加えるのではなくて……宇宙の歴史の空白時代にも絶えず行われただろう諸々の伝説を想像してみる。伝説上の聖カタリーナとかカテジーナというありふれた聖人の名に、ある生きた人物像が求められたときに、そこにそれらしい話が付託される。
宇宙世紀、四〇〇年や七〇〇年頃のことだ。
地球上の人口が少なくなり、宇宙戦争の噂も聞かなくなると、宇宙から地球に降下してくる人々の数もめっきり減る。ヨーロッパ地域に残る特別区においても宇宙世紀以前の遺跡の保全といった意味・目的は失われ、都市は衰退に任された時代があった。自給自足する居住地と居住地の間の交渉は疎遠になり、どこかからどこかへ旅をする人の姿は稀になっていく。遠く点在する集落の間は広い荒野と再生する森が覆い、旧い舗装道は突然途切れて当てにならない。大地の汚染だけは、過去の戦争世紀が過ぎても千万年の間残る。
そんな地球の無人時代に、ある日、荒野からやってくる異人があると、地平線からトボトボ進んでくる一台のワッパの姿は、きっと幽霊を見るようなゾッとする体験だろう。保護区の少数の居留者や保全局員の間に、それは地球伝説のさまよえるワッパ、地上を放浪する盲目のカテジナだ、という風説が語られる。
彼女に偶然に出会ったという人が話を広める。物語の語り手は、彼女がカテジナとは最初知らないが、話していると昔のこと(宇宙移民の初期世紀、宇宙戦争の頃)を異常に詳しく知っているので、ああこれはカテジナであったよと後にわかる。
カテジナがワッパに充電したと伝えられるスタンドが北ヨーロッパ地域には数多くあり、多くは現在も使用中である。
世の中の罪業を一身に引き受けて闇を歩くこと
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説経節のような話を読むときに、障害のある人が「聖なるもの」のように民衆に担がれて運ばれていく話はあるとして、盲なることが「世の中の罪障や闇を代わりに引き受けてくれるから」というストーリーが語られる――とはかぎらず、たとえば「聖者の生まれ変わりの特徴がそれだから」とか、尊い理由にはまた何か別のストーリーかもしれないがその型がある、というとき。
「おりん」をカテジナと結びつけて考えたようなことは、今までもべつにない。これは偶然、同じような話題に読み合わせたので連想したこと。
説話語りの語り手(瞽女=ストーリーテラー)を主人公とする物語を、小説という体の説話語りを多く踏襲した語りをして、最後には説話そのものにしてしまう。『人々はその哀しい物語を聴いて涙ぐむのである』の、『涙ぐむ』までがフィクションであるという。大方の読者はその態度に不審感などは抱かないで「哀しい話」と現代にも読んでいるはず。涙を疑え、ではなく、そこには作者にも「文芸のスタイルへの関心」があることは見せている、とまでは意識して読まれたい、という話をした。