回帰を終える。
靄のように薄らとした概念焼却の香の中、ニゲラと語られていた依頼人はその顔を上げ、ユンフに視線を向ける。
視線が持ち上がるまでに、わずかな躊躇があった。
過去を見終えた者が、現在へ戻る際に必ず生じる空白。
その隙間を埋めるように、ユンフの懐から淡く漏れ出す光が、霧を照らしていた。
だがその輝きは、依頼人にとって決して希望には見えなかった。
それは救済ではなく、焼却したはずの過去を再び輪郭づける証明。
忘却に失敗した罪を、静かに突き付けてくる光だった。
「あの子の身体には、研究員が詰め込んだ技術の痕が標本として残っていた」
「耐えられないのさ。俺が消したはずの連中の技術が、彼を通してこの世に残っている事」
「そして俺の後悔そのものを模した彼が、まだあの場で生きている事」
「……あぁ……」
「逃げたさ、俺は。最早どう記憶していいかさえ分からない程、狂ったように」
言葉が落ちるたび、霧が僅かに揺れる。
吐露というより、圧迫された感情が自壊して零れ落ちていく様だった。
「……」
回想を目に、俯瞰したユンフは眼を伏せる。
同情ではない。拒絶でもない。
彼は、ニゲラが選び続けてきた分岐のすべてを、一本の線として捉えていた。
ニゲラが示した選択や感情は、常に反転していた。
救おうとすれば壊し、守ろうとすれば手放し、肯定しようとすれば否定する。
そのすべてが、結果として同じ地点――崩壊へと収束している。
彼にとっての救いは無い。
あるのは、圧迫感によって沈殿し続けた後悔だけだ。
それは沈泥のように、ニゲラという人物の思考と判断を蝕んでいた。
「そうか……俺がついさっきまで忘れていた連中の顔や声を思い出してしまったのは」
「あの子に刻まれた標本と、お前が持つ本の仕業だったか……」
「……」
「分かっただろう。俺が彼に会う事は、赦されてはならない選択」
「なら、俺達は消えるべきなんだ」
「何にも成れず、何にもしてやれなかった、矛盾めいた存在だから」
「故に「記録の消去」と曖昧な定義を示したんですね」
「俺に残る後悔は、決して消滅する事はない」
「あぁ、絶対にない。最早この先の事さえ碌に考える事すら出来なくなる程」
「俺はあの工場での日々を恋焦がれている」
「それも全て、自分で焼き払ったものだと知って尚」
「その中に、彼を交えて生きて往きたかったという……」
「なんとも、汚らわしい願望を携えて……」
その瞳に映るのは、自ら命を絶ちたいという願望ではなかった。
ただ、その選択さえ後悔に陥る事を恐れた怠惰。
ニゲラという男が欲しているのは、言葉ではなく、終わりを告げる力であった。
「透明の軌跡、お前は俺に方向標を示すと言ったな」
「それは結局、この後悔を抱いた俺を、彼に会わせるという最悪のシナリオのことだろう」
「お前が示したその道は、俺にとって歩く事さえ叶わない絶壁で覆われている」
「それでも、あの子に会えと言えるのか」
歯を食いしばりながら吐き出された言葉。
それは問いというより、拒絶の最終確認だった。
目を僅かに開き、目の前の後悔に縛られた男を瞳に納める。
彼は、幾度となく開いてきたその口から、言葉を紡ぎ始めた。
「俺が示す方向標は、貴方が思うような優しいものじゃない」
「俺は、彼に会う道を、貴方に提示している訳じゃないんです」
声色は変わらない。一切の濁りも無く。
慰めでも叱責でもない、ただ俯瞰的な彼の言葉。
「……何……?」
「貴方が立っているその場所は、"選択"の前じゃない」
「既に終わった選択の残骸の上だ」
「だから、絶壁に見える」
「……言葉遊びはやめろ」
「絶壁があるから会えないんじゃない」
「貴方は、その壁と向き合ってみればいい」
「扉があるはずだ」
「その絶壁には、あの子に会うための扉が」
「……いいや……」
「俺には資格がない」
「あの子の全てを奪った」
「存在を歪めた」
「その結果が、あの姿だ」
「なら、俺はその扉を開くことさえ赦されないだろうが……」
「えぇ、きっと赦されない」
「その通りだと思う」
ユンフの言葉には、残酷な程、静謐な肯定があった。
その俯瞰した肯定を受けて、ニゲラの口角が僅かに落ちる。
「貴方は加害者だ」
「研究者で、観測者で、黙認者で、最後には破壊者だった」
「残酷な話ですよ」
「貴方と、彼だったからこそ、そうなってしまった」
「貴方の気紛れの選択が、彼の善良な心を灯すきっかけとなり」
「その全てが解れ、彼は空の花瓶となった」
「……だが、会う資格がないからといって」
「他者が望む道筋を途絶えさせるのは、貴方が嫌う後悔になりえませんか」
言葉が刃のように並べられる。
だが、それは切り捨てるためではなく、逃げ道を塞ぐためだった。
「……」
「……透明の軌跡、一ついいか……」
「どうぞ」
「お前なら、どう選んだ……」
「一つの命を犠牲に、多くを救うか?」
「それとも、多くを見捨て、善良な一つを救うか……」
「……」
「俺はきっと、貴方と同じ立場だったら」
「都市の人間であれば、前者を選んだでしょうね」
「……」
「都市の人間の病を一手に救う研究」
「1を捨て100を得る選択」
「それはどれも間違いではなく、限りなく未来に貢献できる犠牲だろう」
「……あぁ……やっぱり――」
「だが、貴方は違うんだろ」
「貴方は、善良な一つを護ろうとした」
「それが、ニゲラさんの選択であり」
「後悔を担った未来だ」
沈黙が落ちる。
それは拒絶ではなく、理解が追いつくまでの時間だった。
「その未来は、自らが消される事を覚悟していた」
「『忘れられなかった判断、止めなかった選択』」
「そう、誰かに言われたんだろうと、彼は言っていた」
「――」
「貴方が背負った後悔の中に、彼は後悔を感じる事はなかったんだ」
「幸せだったと、役に立てたと」
「だが実際は、彼は空っぽになってしまっただけ」
「憂鬱に呑まれ、ただ役割を終えたがっていた」
「だが空っぽになったということは、同時にまた何かを満たすことの出来る器が出来たって話なんだ」
「その器が成り立ったのは、ニゲラさん。貴方の選択が故に」
「彼は花を受け入れる器に成り得たんですよ」
「――」
「ニゲラさん」
「選択に後悔が付き纏うのは、如何なる現象に於いても付随するもの」
「排他的に生きてきたが故に、貴方はその感情を拭いきれず、崩壊してしまったと思う」
「俺もそうだ」
「始まりは不安だった」
「村を救う為の旅に出る時、俺はその選択が本当に最善だったのか考える時があったけど」
「ある時、思ったことがある」
「俺はこの笑顔を見る事が出来れば」
「きっとそれでよかったんだ、と」
「……最も、そう思ったんだろうなって思い出せるのは、また何年も先の出来事だったんですけどね」
「……」
「だから、俺の魂に於いて後悔はない」
「確かに、あの時こうすればよかったと嘆くようなこともある」
「だが、その全てが俺を築き、道を拓き、未来を示す」
「俺はあの笑顔を、あの太陽を手放したくないが故に」
「選んだ道を突き進むんだ」
「……貴方もそう出来るよ」
「だって、都市の誰もが選ぶことのなかった彼の命を」
「護りたいと、そう思えたのだから」
「……」
「分かったと思う」
「俺が示し方向標は、彼の目の前までの道じゃない」
「その手前、絶壁」
「其処にある、扉」
「貴方が開くべき、扉」
「"見舞い"だ」
「……」
「俺が……出来ると思っているのか……」
「出来なくても、やるしかないだろう」
断言だった。
逃げ道を残さない、背中を押す言葉。
「貴方は、彼と向き合わなかった」
「同時に、彼の笑顔を求めた」
「その中途半端さを、都市は罪とも善とも呼ばないだろう」
「……呼ばないからこそ、その地点からは、貴方が歩むんだ」
風が吹き抜け、霧が揺らぐ。
遠くで金属が擦れる音がし、都市がまだ生きていることを告げていた。
「……それは、救いじゃないだろ……」
「ええ」
「だから前向きになれるんだ」
「救われたと錯覚しない分、足は地面についている」
ニゲラは、ゆっくりと息を吐いた。
胸に溜まっていたものが、完全には抜けないまま、形を変えて流れ出る。
「……俺は、後悔を消したかった」
「消えません」
「形を変えるだけです」
「記録を焼いても、技術を壊しても、存在を消しても」
「後悔は、"次の行動"に姿を変える」
「……それが、俺の罪か」
「そう捉えるのもいいけど」
「それは俺と似すぎているかな」
ユンフは首を横に振った。
「罪じゃなく、それが貴方達がまだ生きている証拠だ」
ニゲラは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
霧の向こうで、僅かな光が揺れていた。
それは希望と呼ぶには弱く、絶望と呼ぶには遠い。
「最終的にどうするかは貴方が決めることだ」
「だが、消えるという選択だけは塞がせてもらおうか」
「……それは、彼も望んでいないから」
その言葉は、救済でも命令でもなかった。
ただ、進行方向だった。
「――」
「俺はツヴァイ協会直属である黒霧事務所、そして其処と提携関係だったガンパウダー工房フィクサー」
「護衛を格安で受ける」
「思い出を抱えていくフィクサーです」
「さて、こんなにも適任なフィクサーが目の前に居るんですから」
「あとはどうすべきなんでしょうね」
「……」
「……透明の軌跡」
「頼む、俺を、あの病院にまで連れて行ってくれ」
「未来に歩む為に」
「扉を開けたい」
「勿論」