- Gray Traveller
- 710
「随分と遅かったな」
霧掛かった巣の風景。
濃霧というにはあまりにも粘つき、靄というにはあまりにも重い白濁が、都市の輪郭をことごとく曖昧にしていた。
遠方に聳える建造物も、足元を這う路地も、幾重にも折り重なる巣の構造さえも、その境界を失っている。
その朦朧たる景色の只中で、男は佇んでいた。
双眸に霧を映しながら、ダンクは帰還した透明の軌跡を静かに迎える。
「私の読みでは、『生きた走馬灯』との戦闘に時間を有するとは思わなかった」
「ものの数分で帰ってくるものだと思っていたが」
「……」
霧の向こうから現れた透明の軌跡の姿には、
戦闘を終えた者特有の疲弊だけでは説明のつかない陰翳が滲んでいた。
「フッ、先までの生意気な態度は何処へ行った」
「諭されたか?」
「君でない君を知る者からの言葉に」
「君の道筋を示され、感傷的になっているようだな」
「……」
「どうにも気に入らねぇ」
「俺は俺が成したい事に忠実で」
「それを実現しようとした結果、望まぬ結果に至った」
「だが、その結果に伴う感情は、思い出として俺を構成する」
「……ほう」
僅かに。
ダンクの口元に浮かんでいた不敵な笑みが、その言葉によって別種の色を帯びた。
嘲弄でもない。
愉悦でもない。
まるで、目の前にいる青年の言葉の奥底に沈んだものを、慎重に拾い上げるような笑みだった。
「望まぬ結果」
「ねじれた誰かを救う事が出来なかったというところか」
「そうなると見越して派遣でもしたか?」
「言っただろう。私は数分で帰ってくると思っていた」
「それはつまり、君がねじれを倒す事を前提として組み込んでいた事」
「君の心理状況に変化が起き、其処にまさか『思い出』という単語が派生するとは思わなかった」
「……」
霧が、二人の間を横切る。
白い靄が一瞬だけ透明の軌跡の姿を覆い、また晴れていく。
その僅かな間隙にさえ、彼の表情には拭いきれない沈痛があった。
記憶を喪った者の顔。
その記憶を拒む者の顔。
それでいて、その記憶に潜む『思い出』というものに、向き直ろうとする顔。
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「それで、私の元に来たということは」
「ねじれ鎮圧の報告だけではなく、他に聞きたい事があるのだろう」
「今、この時」
「こうして俺とアンタが話している時間は」
「互いのとっての横道になってんだろうか」
神妙に語る彼の口元。
声音こそ平静を装っていたが、その視線には僅かな逡巡が宿っていた。
まるで、自分の言葉が正しいのかすら分からない。
それでも誰かに問い掛けなければ、次に踏み出すべき場所すら定められない。
そんな有様だった。
ダンクはその表情をしばし見つめる。
そして、クッ、と。
喉の奥で息を零すように笑った。
「私がそんな事を知ると思うかね」
「透明の軌跡」
「私達は親指だ」
「他者に対する道は、上下にしか無い」
「礼節と階級が全ての世界」
「見るべきは天辺への恒久的な欲望のみ」
「難しいもんだな……」
「あぁ」
「だが、それは親指としての私だ」
「過去の君は、私個人を絆す程の過去を有していた」
「だからだろうな」
「今の君の、過去として背中を支える事が出来るのであれば」
「それもまた、私個人の欲望と成り得る」
「……アンタ」
「結構好きだったろ。『ユンフ』のこと」
「礼節を弁えた青年であり」
「礼節を重んじるフィクサーであり」
「礼節を取り除いた友」
「私は勝手にそう認識している」
「フッ、君とは大違いだな」
「そうかい」
「……ねじれの鎮圧は完了した」
「図書館の情報、再認識って形にはなったが、助かったよ」
それ以上は語らない。
語る必要もない。
用件は済んだ。
そう判断したように、ユンフは静かに踵を返した。
その背中には、以前のような確固たる目的地を目指す者の力強さがない。
ただ、歩く。
行き先を定めるためではなく、歩かなければならないから歩いている。
そんな空疎な歩みだった。
「何処へ行くのかな」
「そちらは図書館ではない」
透明の軌跡の背へと、ダンクの張った声が響いた。
「裏路地へ戻る」
「一度、頭を冷やしたい」
「透明の軌跡」
「『思い出』の軌跡を探すというのであれば」
「黒霧事務所の跡地から離れた仮宿を探すといい」
「君の嘗ての拠点地だ」
彼は振り返り、ダンクへと視線を置く。
「過去の横道」
「恐らく、あるんじゃないか」
「嘗ての君がしそうなことだ」
「……」
「ダンク」
「どうぞ」
「俺は、アンタにとってどう見える」
その問いだけは、ひどく静かだった。
記憶を失った者が、自分自身の輪郭を他者に尋ねている。
名前も。故郷も。旅の軌跡も。
自分が何者だったのかを証明するものが、己の中から零れ落ちてしまったからこそ。
それでもなお、自分という存在を他者の眼差しの中に探そうとしている。
ダンクはしばらく沈黙した。
やがて、いつものような落ち着いた声音で答える。
「君は君だ」
「ユンフではない、君だ」
「望む答えと違ったかな?だとしたら申し訳ない」
「だが、何と言おうと君の沈痛なる表情に変化は無いだろう」
「……」
「ヴォールカとは違う事を言うんだな……」
「フッ、あの男ちゃんと生きているんだな」
「万人の望む事が一致するとは限らない」
「君は他者の言葉に応える必要は無い」
「もし応えたいと真に想うのであれば」
「それは決して意図せず発生する思い出になる」
「……」
「答えに辿り着かない旅路を、君は歩んでいる」
「ハハハ、都市の人間としては聊か気にしすぎなような気もする」
「透明の軌跡。他者の視線に重きを置くのであれば」
「アンダーボスである私からの視線は、君という存在に向いている事」
「それを横道として考えてくれてもいいんじゃないか?」
「……は……」
「ありがとう」
口元だけで浮かべた笑みで、彼はダンクに応える。
そうして鋼鉄を背に、巣の霧へと消えて行った。
「……」
「……」
「……ふむ」
「根底は変わっていない」
「ただ都市という風景に当てられているだけ」
「……そうか」
「今の君は、ユンフが背負った『思い出』を」
「傷つけたくないんだろうな」
「フフフ……都市に染まる事を選ぶ理由」
「いつかそれが覆される日が来る事」
「願っていよう」
―12区 裏路地―
裏路地の風景に、目立った変化はなかった。
煤けた建築物の隙間を縫うように、陰鬱な空気が澱み、
湿った石畳には都市特有の昏い気配が纏わりついている。
路地の彼方から向けられる組織の視線は、無遠慮に彼の背へと突き刺さっていた。
最も、その視線の意図は、「関わりたくない」という意思そのものではあったが。
12区における活動地。
ダンクの言葉を頼りに、黒霧事務所の跡地へと足を運ぶ。
かつて己が立ち、幾つもの出来事を積み重ねたはずの場所。
しかし、そこに嘗ての事務所を偲ばせる景観は、既に欠片ほども残されていなかった。
黒霧事務所という名も、其処で交わされた会話も、積み重ねられた時間も。
それらを一切知らぬ者が見れば、ただ新たな事務所が建造された、それだけの場所にしか映らない。
「随分立派な建物だ」
「巣の中心に行けば行くほど、荒廃的な住まいしかなかったってのに」
「……」
独白めいた言葉を零したものの、彼は建物へ足を止めることなく、そのまま素通りした。
既に情報として得ている、仮宿の位置。
そこへ至る道程だけを脳裏に刻み、余計なものへ視線を向けることなく、ただ黙々と歩を進める。
およそ十分。
その僅かな時間の中で、幾人もの人間とすれ違った。
その中には、彼へ声を掛ける者もいた。
だが、どう返せばいいのかが分からない。
相手が自分を知っている。
けれど、自分は相手を知らない。
その齟齬を埋めるだけの記憶を、彼は持ち合わせていなかった。
だからこそ、無難な挨拶だけを返す。
それ以上でも、それ以下でもない。
人と人との間に本来あるはずの繋がりを、表層的な礼節だけで繕いながら、彼は歩き続けた。
そうして辿り着いた仮宿。
人が住む上での最低限を模したような木製コンテナ。
「ま、まさかこんなところを拠点としてたんじゃねぇだろうな……?」
思わず苦笑が漏れる。
扉を開けて中へ入る。
一歩踏み込むたび、床板が乾いた軋音を奏でた。
長らく焚かれていない暖炉には煤が堆積し、その周囲だけが黒々と染め上げられている。
炎が消えた後の熱まで失われたような、ひどく空疎な空間だった。
向かい側には、一脚の机。
その上には、何者かが纏めたのであろう紙束が幾重にも積まれている。
長い間、人の手に触れられていなかったのだろう。
紙の表面には薄い埃が降り積もり、文字の輪郭さえ朧にしていた。
彼は最も上にあった資料を手に取る。
指先で表面の埃を払う。
さらり、と乾いた音がした。
「『安寧の煌めき』の事件詳細」
「……過去に解決した事件」
「横道」
紙面へ視線を落とす。
そこには、かつて彼自身が関わった事件の記録が、淡々とした、
だがそれでも色彩に富んだ筆致によって綴られていた。
それを読んでも胸の奥に何かが響くことはない。
文字は読める。
意味も理解出来る。
それなのに、その出来事が自分自身の過去であるという実感だけが、どこまでも希薄に浮かんでいた。
資料を捲る。
その下に埋もれていた別の資料へ、視線が移る。
あらゆる指との因果関係。
そこから派生した事件の数々。
複数の組織が絡み合い、都市の各所へと波及していった事象。
それらの詳細が、『セブン協会』時には『ハナ協会』との連携を以て記録されていた。
一枚。また一枚。
紙を捲るたび、過去という名の墓標を掘り返すような感覚があった。
「……」
その中でも、彼が直感的に視線の移った文字。
その無数の記録の中で、彼の視線が吸い寄せられる。
『薬指ギャラリー潜入捜査』の資料。
其処に描かれた『思い出』の単語。
「……」
直感的な意志。
彼はそれを手にすると、早足に仮宿を出て行った。
残された室内には、再び静寂だけが沈殿していく。
埃を被った机と、冷え切った暖炉。
そこに残された無数の過去だけが、忘却された時間の証人として、誰にも読まれぬまま佇んでいた。