カオスドラマX

Gray Traveller / 716

716
わったん 2026/08/16 (日) 23:51:48

芸術

―薬指ギャラリー―

「あぁ……!2回目の落第……」
「つ、次はない……次落ちたら、私は……!」

白亜に塗り潰された建築物。
その佇まいは大学施設そのものを偽装することなく、
構内には学生服めいた装いの裏路地の住人たちが、談笑しながら校庭を闊歩していた。
一方では、蒼白な顔貌に絶望を滲ませる者もいる。
芸術を謳う世界の中で、生死の狭間に立たされているような佳境を演出していた。
昇降口を過ぎ、内部のエントランスホールには、透明の軌跡が受付付近で立っていた。

「来校履歴の確認……ですか」
「身分証のご提示をお願いします」

身分証を求められ、彼は懐へ手を差し入れる。
本来であれば、特色を示すバッジを提示すれば事足りるのだろう。
しかし、それが都市において如何ほどの効力を有するのか、彼には判然としない。
ただの装飾品程度にしか認識していなかったそれを、今さら取り出すという発想にも至らなかった。
懐を探り、何かを見つけようとしては手を止める。
その所作は、まるで無声劇の一幕だった。
すると、隣に腰掛けていたもう一人の受付スタッフが、慌てたように小声で囁く。

「ちょっと、この人は顔パスよ」
「失礼いたしました、透明の軌跡様」
「ギャラリー内部への通行証を発行いたします」

指の組織でありながら、そこには意外なほど外交的な融通が存在している。
透明の軌跡は僅かに怪訝な表情を浮かべながらも、差し出された通行証を受け取り、受付を通過した。

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  • 717
    わったん 2026/08/16 (日) 23:52:19 >> 716

    内部へ足を踏み入れる。
    そこに展示されていたのは、悍ましさという言葉だけでは到底括れない作品群だった。
    生体そのものを素材とした芸術。
    血肉の表現を忌避するどころか、生命が有する生々しさそのものを作品へと昇華させている。
    臓腑を想起させる造形。
    生物の輪郭を歪めた彫塑。
    生命そのものへの畏敬と冒涜が、判然とした境界を持たぬまま混在している。
    猟奇的な発想から生まれたそれらは、生命を嘲弄しているようにも見えれば、
    逆説的に、その脆弱さと儚さを誰よりも凝視しているようにも見えた。

    「趣味の悪い……」

    心の奥底に湧き出る感情を抑え込みながら、ギャラリー内部を歩む。
    目的地と言える部屋の途中、ベレー帽を被ったスチューデントに声を掛けられた。

    「内部監査……でしょうか?」

    「複雑な事情があるだけだ」
    「ユンフが彩った軌跡の中の、重要な何かがある場所」
    「それが此処だって直感的に信じた道」

    「とてもじゃありませんが、特色はオークションが催されでもしなければご来校する事はありません」
    「貴方のような『線』を描いてきた人が、我々点描派の作品に共感を示すとは到底思えないのですが……」

    「……作品を見に来たわけじゃない」
    「ただ、其処の部屋に用がある」

    透明の軌跡が指し示した先。
    掲げられた名称は――

    『マエストロのギャラリー』

  • 718
    わったん 2026/08/16 (日) 23:53:12 >> 716

    部屋は、闇そのものを展示空間にしたようだった。
    壁も、床も、天井も、ほとんどが黒い。
    本来白であったその空間は、暗がりに満ちていた。
    照明は意図的に落とされ、広大なギャラリーの輪郭さえ、暗がりの向こうへ溶け込んでいる。
    中心で筆を動かす音だけが静かに響き、その音すらも黒い壁に吸い込まれていく。
    天井から伸びるスポットライトが、円形の光を床へと投げかけている。
    闇の中にぽっかりと開いたその場所だけが、別の世界のように明るい。
    光の中心には、ひとりの芸術家が立っていた。

    画像1

    P4号サイズのキャンバスの前で、筆を回す。
    描かれた芸術は、血の色をしており、其処に映し出された作品の意味を知るには精神を捻じ曲げねばならなかった。
    その作品を手掛けている薬指マエストロ・ドルドインの横顔を遠くから眺めながら、透明の軌跡を足音を響かせて近づいた。

    「アヴァンギャルドという言葉をご存じでしょうか」
    「芸術面に置いて革新的且つ実験的」
    「前衛美術として印象的作品を手掛ける思想の事です」

    ドルドインは静かに口角を吊り上げた。
    視線は依然として眼前のキャンバスへ向けたまま、透明の軌跡へ言葉を紡ぐ。

    「意味の分からない事、理解し難い常識を逸脱した先駆」
    「大衆が喜び、声を荒げる芸術への反撥の狼煙」
    「線を引き裂いだ先に残った僅かな点に潜んだ感情」
    「私のフェティシズム」

    「……」

    「業を背負う上で必要な覚悟は、如何なる共感を求める物ではないのです」
    「客観的な評を得てしまっては、進むべき道の当然感じるべき人の痛みを直で受けてしまいますから」

    「……」
    「マエストロ薬指、ドルドインだな」

    「薬指マエストロ、ドルドインです」
    「初めまして、透明の軌跡」

    ドルドインは筆を止める。
    そして、ゆるやかに身体を翻した。
    礼儀正しく一礼を終え、生気の希薄な瞳を透明の軌跡へ向ける。

    「会ったことはあるはずだろ」

    「そうですね」
    「ですが、私が拝見した芸術は『ガンパウダー工房』としての貴方です」
    「特異たる色彩に名を馳せた貴方は、また異色の芸術と成り得ました」

    ドルドインはスポットライトの円環を横切る。
    白く塗られた椅子を手に取ると、
    透明の軌跡の傍にまでそれを丁寧に持ち運び、「座ってください」と促した。

  • 719
    わったん 2026/08/16 (日) 23:53:52 >> 716

    「これも誰かを模して造られた作品か」

    「私は身体派や立体派、ましてや野獣派のような暴力性に富んだ作品は好みません」
    「モニュメントに記されるべきはその儚さに美を追求した点であるが故」
    「貴方が想像するような猟奇的発想など、忘れ去られた記憶と共にゴミ箱へ投げ捨てました」

    「……」

    怪訝そうに表情を変える透明の軌跡に、ドルドインは小さく笑ってみせる。

    「構いません。悠々たる心情を表現する為に、座る必要はありませんから」
    「貴方から感じるインスピレーションは、悲劇の最中に過ぎず」
    「それを受け入れるには、立ち止まってなどいられないのでしょうね」

    「ユンフの事は何処まで知っている」

    「一度対話をしただけです」
    「互いの芸術、派生した思想を表現し合う」
    「キャンバスに彩った絵具と、描かれた表現に」
    「私は知る事の無かった芸術を見出しました」

    ドルドインは、遠い記憶を手繰るように天井を仰いだ。
    スポットライトの眩光がその瞳を灼いているにもかかわらず、目を細めることはない。
    その顔には、どこか狂気を孕みながらも、慈愛に似た柔らかな微笑が浮かんでいた。
    やがて、再び透明の軌跡へ向き直る。

    「透明の軌跡」
    「今宵の芸術は郷愁に浸れぬ哀傷の調べ」
    「貴方の今を語る時」
    「マエストロ自ら、課題評価をしましょうか」

    ドルドインの傍らに置かれていたキャンバスへ、新たな画材が添えられる。
    一切の色彩を記していない、真新しい画材。
    ドルドインはその画角から身を退き、透明の軌跡を手前へ誘うように視線を遣った。

    「……」

    透明の軌跡は、ゆっくりと歩み寄る。
    眼前に佇むキャンバス。
    その白紙は、何も描かれていないが故に、あまりにも饒舌だった。
    横からドルドインが、小さな筆を差し出す。
    描いてごらん、と促うような、微かな笑み。

    「点描派の事はお気になさらず」
    「思うがまま、表現を」

    透明の軌跡は目を細めながらも、その筆を受け取る。
    手元に残った小さな筆。
    それを暫し見つめた後、画材に筆を――。

    「……」

    奔らせることは出来なかった。

  • 720
    わったん 2026/08/16 (日) 23:54:52 >> 716

    「インテュイション(直感)さえ沸きませんか」

    「……アンタたちが表現し合ったそれは」
    「記憶があるから出来た事なんだろ」

    筆を持った腕を力無くぶら下げ、自傷気味に小さく笑う。
    その様子を見たドルドインは、そんな彼の笑みを見ないように目を伏せた。

    「現在から派生した過去や未来」
    「それらを描くのに必要な事はその人が人たる信念」
    「客観視から生まれた評価に怯える事はあれど」
    「何も表現出来ない事は、模倣(ミメーシス)さえ叶わぬ事」

    「俺には過去がある」
    「都市で出来た、横道が――」

    「では、それを表現出来ますか」

    「――」

    「透明の軌跡」
    「恐らく貴方は、記憶を喪ってから、新たな思い出を得たはずです」
    「それでも其処に描けない事は」
    「貴方のカタルシスは根源から異なる事を意味しています」

    「どういうことだ」

    「美的判断は概念によって完全に証明できるものではありません」
    「私が描いた絵を万人に見せた時、その美しさの証明、提示する事は出来ません」
    「それでも、私は『この絵を美しい』と胸を張って豪語するのです」
    「貴方はその前提に辿り着く事が出来ておらず」
    「傷心している」

    「……」

    「貴方が思い浮かべたその横道というもの」
    「其処に派生する感情に、貴方が自ら名前を付けられないというのであれば」
    「それは模倣しようとしているに過ぎず、しきれていない事の裏付けにさえなるのです」

    「……」

    「それもそのはず」
    「貴方が本来、思い浮かべ、描きたいであろう事は」
    『ユンフ』という絵具があり、『アトリ』という表現がなければ出来ない事なのですから」

    残酷な提示を、ドルドインは容赦なくつきつける。
    彼が表現したかった過去の線。
    その横道には生きた走馬灯があり、それでも自分の未来へと進む気概があった、
    だが、それをいざ表現しろと言われた時、
    彼はその思想をキャンバスに描く事が出来ずにいた。
    その思い出に名前を馳せる事も出来ず、ただ歩んだに過ぎない。
    そう言いつけるように、ドルドインは真っ新なキャンバスに手を添える。

    「彼は多彩な色の混じったが故、透明と成り得た」
    「ですが、貴方は灰色に染まった透明」
    「それさえ表現する事を恐れている」

    「……」

    「もう少しお話をしましょうか」

    「何のだ」

    「ユンフが描いていた芸術についてです」