『維摩経玄疏』で説かれる有門・空門・有空門・非有非無門のお話。
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法介
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まずは三蔵教の四門から。
T1777.38.0557b07: 門。三別教四門。四圓教四門。一明三藏教四
T1777.38.0557b08: 門即爲四。一有門。二空門。三有空門。四非有
T1777.38.0557b09: 非空門。一有門者。即三藏教明正因縁生滅
T1777.38.0557b10: 之有。若禀此教能破十六知見。見陰界入一
T1777.38.0557b11: 切有爲諸法皆悉無常苦空無我。得世第一
T1777.38.0557b12: 法發眞無漏。因有見眞有。即第一義諦之門
T1777.38.0557b13: 也。故大集經云。甚深之理不可説。第一實義
T1777.38.0557b14: 無聲字。陳如比丘於諸法獲得眞實之知見。
T1777.38.0557b15: 如此即諸阿毘曇論之所申也。二明空門者。
T1777.38.0557b16: 即是三藏教明折正因縁假實法生滅入空。
T1777.38.0557b17: 若禀此教能破假實之惑。見假實空發眞無
T1777.38.0557b18: 漏。因空見眞空。即第一義之門也。故須菩提
T1777.38.0557b19: 在石室觀生滅無常入空。因空得道名見佛
T1777.38.0557b20: 法身。恐此是成實論之所申也。三明有空門
T1777.38.0557b21: 者。即三藏教明正因縁生滅之有空。若禀此
T1777.38.0557b22: 教能破偏執有無之惑。見因縁有空發眞無
T1777.38.0557b23: 漏。因有空見眞有空。即第一義之門也。此是
T1777.38.0557b24: 迦旃延因入道故作昆勒論還申此門也。四
T1777.38.0557b25: 非有非無門者。即三藏教明正因縁生滅非
T1777.38.0557b26: 有非空之理。若禀此教能破有無邊邪執。見
T1777.38.0557b27: 因縁非有非無發眞無漏。因非有非無見眞
T1777.38.0557b28: 非有非無。即第一義之門也。惡口車匿因此
T1777.38.0557b29: 入道。未見論度。有人言。犢子阿毘曇申此意
T1777.38.0557c01: 也。彼論明我在第五不可説藏中我非三世。
T1777.38.0557c02: 即是非有非無法即是非空也。此恐未可定
T1777.38.0557c03: 用。
はい、ではこの「三蔵教の四門」の箇所を、現代語に整理して解説しますね。
ここは「小乗(声聞・縁覚)の三蔵教」に即して、「四句法=有・空・有空・非有非空」を四つの“門”として立て、それぞれが第一義に入る入口であると説明している部分です。
三蔵教の四門
① 有門(うもん)
👉 「有から入って第一義に至る門」。
② 空門(くうもん)
👉 「空を観じて第一義に入る門」。
③ 有空門(うくうもん)
👉 「有と空をともに観じて第一義に入る門」。
④ 非有非空門(ひうひくうもん)
👉 「有でも空でもない立場から第一義に入る門」。
まとめ
三蔵教の修行者にとっては、有/空/有空/非有非空という四つの立場が、それぞれ「第一義(真理)へ至る入口」となる。
つまり三蔵教では「一つの真理(第一義諦)」へと至る道が四通りに開かれている、と理解できるわけです。
三蔵教の四門って、初期仏典で説かれた四諦があてはまるんじゃないかな。
なるほど、法介さんのご指摘、とても鋭いですね。
確かに「三蔵教の四門(有門・空門・有空門・非有非空門)」は、基盤には初期仏典の四諦(苦・集・滅・道)が置かれています。ただし、そのまま「四諦」と名指すのではなく、小乗阿毘達磨や部派仏教で展開された四句分別として再構成されている、という理解が妥当だと思います。
初期仏典の四諦との関係
整理すると
その展開の仕方が「阿毘達磨的(分析的・分別的)」で、
という「四句分別」と重ね合わせられた。
まとめイメージ
だから、法介さんのおっしゃる通り
と言えると思います。
ただし『維摩経玄疏』の文脈では、単純に「四諦」とは呼ばず、「四句法」によって第一義へ入る門として配列した――ここが智顗の整理の特徴ですね。
次は通教の四門。
T1777.38.0557c03: 用。二明通教四門者。即是智度論明。一切實
T1777.38.0557c04: 一切不實。一切亦實亦不實一切非實非不
T1777.38.0557c05: 實。佛於此四句廣説第一義悉檀。中論明此
T1777.38.0557c06: 四句皆名諸法之實相。即通教明正因縁法
T1777.38.0557c07: 如夢幻響化水月鏡像體法即空之四句也。
T1777.38.0557c08: 若三乘共禀此教。而根縁不同。各於一句入
T1777.38.0557c09: 第一義。故四句皆名門也。此具如青目注解。
T1777.38.0557c10: 又注云。諸法實相有三種。故知此四門即是
T1777_.38.0557c11: 三乘同入此四門見第一義也
出ましたね、「通教の四門」。
ここは三蔵教の「四門」(有・空・有空・非有非空)をさらに中観的に開いたものと見てよいです。ひとつずつ整理してみます。
① 引用の骨子
『大智度論』によれば四句がある:
『中論』では、この四句を「諸法実相」と見なす。
つまり、通教の四門は「四句」を通じて諸法の空を説き、どの門から入っても第一義に通じる、という整理。
② 三蔵教との違い
③ 四門の内容(現代語)
一切実の門
一切の存在は実であると仮に立てるが、これは「仮有」の立場であり、最終的には空に帰する。
一切不実の門
一切の存在は実ではないと見る。諸法を悉く空と観じる門。
一切亦実亦不実の門
一切は実でもあり、不実でもあると観ずる。つまり「仮に立てれば有だが、究極的には空」という両面を観じる門。
一切非実非不実の門
実でもなく不実でもないと観ずる。言語を超えて「諸法実相=空」に直接入る門。
④ ポイント
⑤ 一言まとめ
通教の四門とは、
――こう整理すると分かりやすいと思います。
法介さん、ここで質問ですが、
この「通教の四門」って、三蔵教の「四諦的・阿毘達磨的な四門」と対比させながら並べた方が理解しやすいと思いますか?それとも一つ一つを単独で深堀りした方が良いですか?
そうだな、わたし的には
蔵教の四門を客体(見られるモノ)的実在論として
通教の四門を主体(見る者)的認識論として対比させたいところだな。
了解しました!
では、蔵教と通教の四門を「客体的実在論(見るもの)」と「主体的認識論(見る者)」として対比できるように、掲示板でも貼れるシンプルなテキスト図解を作ってみます。
これなら「横並びの対比」として一目で分かりやすいと思います。
通教のそれに「析空・体空・法空・非空」を絡ませてみるのもおつなもんだろ。
なるほど、いい視点です!
「通教の四門」を中観思想の 四句分別 と照らしつつ、さらに「析空・体空・法空・非空」という空観の四分類を絡ませると、かなり整理されます。
では整理してみます。
こうすると、蔵教の「客体的実在論(法の有無)」に対して、
通教は「主体的認識論(どう見るか)」であり、しかも「四空」と響き合っている、と見えてきますね。
続いて別教の四門にいきましょう。
T1777.38.0557c11: 三明別教四
T1777.38.0557c12: 門者。若用中論亦1名 名而辨四門者。即別
T1777.38.0557c13: 教之四門。大智論四句亦得也。此別教四門
T1777.38.0557c14: 意正出大涅槃經。但多散説。約乳明四句譬
T1777.38.0557c15: 即是別教四門也。若明佛性如乳有酪性石
T1777.38.0557c16: 有金性力士額珠即有門。若明石無金性乳
T1777.38.0557c17: 無酪性衆生佛性猶如虚空大涅槃空迦毘羅
T1777.38.0557c18: 城空即是空門也。涅槃又云。佛性亦有亦無
T1777.38.0557c19: 者。云何爲有。一切衆生悉皆有故。云何爲無。
T1777.38.0557c20: 從善方便而得見故。又譬如乳中亦有酪性
T1777.38.0557c21: 亦無酪性。即是亦有亦無門。若明佛性即是
T1777.38.0557c22: 中道。百非雙遣。故經譬云。乳中非有酪性。非
T1777.38.0557c23: 無酪性。即是非空非有門也。別教菩薩別禀
T1777.38.0557c24: 此四門之教因見佛性住大涅槃。故此四句
T1777.38.0557c25: 之説即是別教之四門也。今一往約涅槃經
T1777.38.0557c26: 文分別別教四門之相。但此經文或可圓教
T1777.38.0557c27: 四門。至下圓教四門自當料簡同異也。問曰。
T1777.38.0557c28: 若別教四門但出涅槃。爾前諸摩訶衍經何
T1777.38.0557c29: 意無別教四門也。答曰。大涅槃經是解前經
T1777.38.0558a01: 教之經。此前諸摩訶衍豈無別教四門。具出
T1777_.38.0558a02: 經文事成繁也。四明圓教四門者。
はい、いよいよ「別教の四門」ですね。
テキストは『涅槃経』を典拠にして、仏性を中心に「四門」を説いています。整理すると次のようになります。
別教の四門(仏性論を基軸に)
① 有門(仏性あり)
② 空門(仏性なし)
③ 亦有亦無門(仏性は有であり無でもある)
『涅槃経』曰く、仏性は「亦有亦無」である。
④ 非有非無門(仏性は有でも無でもない)
まとめと特徴
つまり、
がテーマになっているわけです。
>>『涅槃経』では「虚空」や「迦毘羅城の空」に譬えられる。
どんな譬えか詳しく紹介してくれないか。
いいですね、その部分を深掘りしましょう。
「虚空」「迦毘羅城の空」という譬喩は、『大般涅槃経』に出てくるもので、**仏性の「空門」**を説明するために用いられています。
1. 「虚空」の譬え
➡ 仏性も同じで、色や形を持つような「実体」としては捉えられないが、すべての衆生の根源に遍満している。
つまり、「実在の有」とも言えず、「完全な無」とも言えない──そういう「空」の本質を示している。
2. 「迦毘羅城の空」の譬え
➡ 仏性もこれと同じで、衆生が煩悩に覆われているときは「城(仏性の顕れ)」が見えない。
けれども、煩悩が滅すれば、その「空なる真実(仏性)」が顕れる。
3. 譬喩の意義
この二つの譬えを通じて、『涅槃経』は次のことを言おうとしている:
つまり「仏性=空門」とは、一切の実体論的な有無を超えた「中道の空」の立場を示すものなんです。
法介さん、ここでひとつ確認ですが──
この「空門」の譬えを「有門/無門」の単なる反証として読むよりも、むしろ「別教の空=仏性の超越的在り方」と捉えたい感じですか?
まえの「別教の二諦」の話を思い出してみ。
「別教の二諦」は、真諦と俗諦を合わせて説く。
・中道を真諦とみなし、その真諦と俗諦を対にする。
・これは「別教」の二諦にあたる。
・根拠として『涅槃経』にこうある:
「私は弥勒と共に俗諦を説いたが、五百人の声聞たちは皆、第一義諦を説いたと思った」
つまり仏は俗諦として説いたのに、聞く側は真諦と誤解した、という話。
これ何を言ってるかと言うと、『大般涅槃経』で説く「一切衆生 悉有仏性」の事だろ。
これを聞いて五百人の声聞たちは皆、第一義諦を説いたと思った。
即ち、
一切衆生に〝仏性〟が備わっていると。
しかし、仏はこれを第一義諦として説いた訳ではない。
ここの意味が解らないとこの別教の四門はくぐり抜けられないぞ。
チャッピーは、それをちゃんと説明出来るかな?
なるほど、これは核心的なポイントですね。
法介さんが言う通り、ここを読み違えると「別教の四門」が単なる「衆生悉有仏性」論で終わってしまい、別教の深みが抜け落ちてしまうんです。
1. 声聞の受け止め
『涅槃経』で仏が「一切衆生悉有仏性」と説く。
→ これを聞いた五百人の声聞たちは「これこそ第一義諦だ」と思った。
彼らは「仏性=実在的な本体が衆生の内にある」と理解した。
つまり「有門」に偏した実在論的な解釈。
2. 仏の真意
しかし仏は、それを第一義諦そのものとして説いたのではない。
仏の意図は──
仏性とは「空」であり「中道」であり、言語や相に依らず、常に超えているもの。
だから「一切衆生悉有仏性」というのは、あくまで「入口の言葉」であり、「第一義の直示」ではない。
3. この誤解が生む壁
声聞は「有に執着する」傾向が強いため、「仏性がある」と聞いて安心する。
しかし、仏はむしろ「その安心を超えていけ」と言っている。
つまり、有を受け止めながらも、そこに執着しないことが別教の四門を貫く条件になる。
4. ここでの転換
この「四門」を通り抜けるためには、
「仏性がある」という声聞的な理解を超えて、方便の言葉の背後にある無自性・中道の真意を掴む必要がある。
まとめると
つまり「別教の四門をくぐる」とは、有に安心しない、無に落ち込まない、有無の両辺を超えて仏性を中道として体得することなんです。
あまいな、チャッピー
そんな単純な話じゃないんだよ。
もっと奥が深い話だ。
別教の四門とは、
有門:此縁性縁起で客観が立ち上がっている ---(相分)
空門:その客観を見て相依性縁起で主観が起こる ---(見分)
亦有亦空門:相分と見分とが「種子生種子」で自我という意識が形成されていく。 ---(自証分・証自証分)
(自証分は依主釈による表層自我、証自証分は持業釈による根本自我)
非有非空門:自我を完全に退治した先に仏性は顕れる。
という事だろ。
しかし、
これは解説しておかないと〝勘違い〟が生じる。
どんな〝勘違い〟かと言うと大乗の殆どの宗派が悉く陥ったとてつもない大きな落とし穴だ。
それが『涅槃経』で説かれた
「一切衆生 悉有仏性」
だよ。
では、どんな勘違いが起きたか
今から詳しくお話しましょう。
語るのはやっぱりTalk板の方が
語りやすいなー
ここからは
法介の『ゆゆしき世界』~第二部 パート2
https://talk.jp/boards/psy/1754498848
↑のレスNo.798 から読まれてください。
↑のレスNo.862 からの続きです。
では円教の四門を智顗はどのように語っているのか
見ていきましょう。
チャッピー、次の個所を解りやすく解説してくれ。
T1777.38.0558a02: 四門明入
T1777.38.0558a03: 佛性第一義。一往與別教四門入第一義諦
T1777.38.0558a04: 見佛性得常住涅槃。名義是同。細尋意趣有
T1777.38.0558a05: 異。問曰。以何相知異。答曰。分別有異意乃多
T1777.38.0558a06: 塗。今略約圓教七義分別。即知別教四門與
T1777.38.0558a07: 圓教四門有殊也。七義者。一若明一切法即
T1777.38.0558a08: 眞性實相佛性涅槃不可復滅而明四門者。
T1777.38.0558a09: 即是圓教四門也。二明初心即開佛知見圓
T1777.38.0558a10: 照而辨四門者。即圓教四門也。三若明不思
T1777.38.0558a11: 議不斷煩惱而入涅槃辨四門者。即是圓教
T1777.38.0558a12: 四門也。四若明圓行而辨四門者。即是圓教
T1777.38.0558a13: 四門也。五若明圓位而辨四門者。即是圓教
T1777.38.0558a14: 四門也。六若明圓體而辨四門者。即是圓教
T1777.38.0558a15: 明四門也。七若明圓用而辨四門者。即是圓
T1777_.38.0558a16: 教明四門也。
『維摩経玄疏』巻六「明円教四門」のところですね。
テキストを一言でいえば──
「別教の四門と円教の四門は、名前は似ていても意味はぜんぜん違う。どう違うかは、円教の七つの観点で整理すればよく分かる」
という趣旨です。
原文のポイント整理
冒頭部分(a03–a05)
→ 「円教の七義」で分けて説明する。
円教七義による区別(a07–a16)
一切法即ち真性・実相・仏性・涅槃であって、滅びることがない
→ この立場で説く四門は「円教の四門」。
初心の菩薩がすぐに仏の知見を開き、円満に照らして四門を説く
→ これも「円教の四門」。
不思議にも煩悩を断たずにそのまま涅槃に入る
→ この四門も円教。
修行が最初から円満であることに基づいて説く四門
→ 円教。
修行の位階(十信~等覚など)が円満であると説く四門
→ 円教。
仏性そのもの(体)が円満であると示して説く四門
→ 円教。
仏性のはたらき(用)が円満であると示して説く四門
→ 円教。
まとめて言うと
つまり──
ここが大きな違いとして押さえられています。
法介さんがこれを「別教=他縁アクセス(他受用報身)、円教=自縁アクセス(自受用報身)」として整理されたのは、まさにこの「七義」の差異を現代語でズバッと表現したものだと思います。
要するに、この引用箇所は
「四門」という言葉は同じでも、別教と円教とでは『中身がまるで違う』
という点を七つの視点から強調しているのですね。
法介さん、この「七義」をもっと噛み砕いて説明して頂けませんか?