アマルガンの民衆史観
「27 祭」(旧)
「18 祭」(新)
ドラバロにリンレイを据えて本陣に奉る話、そのアマルガンのもくろみについて、アマルガンの諸国を巡って知っていた大衆の民意なるものの考え方とともに、完全版では加えて、近年になり地上界から地上人・地上の文物・発明品が続々と流れ込んでくるようになって『世界そのものがいびつになってきたのではないか?』という危機感が書き足される。
アマルガンの動機に彼個人の野心だけでない、世界のゆがみを正して世界を平穏にしようという、漠然とながらある種の使命感のあるのが『リーンの翼』新旧版で無視できない違いだろう。
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ここでは大衆の狡猾さ、英雄をスケープゴートとすること、という社会現象の見方(読み解き方)を紹介しているのだが、まず「スケープゴート」という言葉にはぽんと口にするには時々使われ方の怪しいことがある。
自分は人の上に立たず、名を求めないことで決して権力に根絶やしにされることもないという「民衆の強靭さ」については、決して、古代からも知られていない人間集団の性質ではない。古代中国やローマなどでも「王侯の権勢の虚しさ」を笑いつつ、雑草のように生きる無名の民衆としての自負――のようなものは、たとえば文学の中に見られるそれは、いつの時代にもある。
ただし、歴史の記述方法として、民衆を主役として民意なるものはいずこにあるかを歴史理解のテーマにすることは、比較的新しいことだ。歴史の法則は天意よりか民意にあるとして……そうした近代の史観を持って現れたのが前回はゴゾ・ドウだったろう。アマルガンもまたバイストン・ウェルに今までなかった歴史観でもってバイストン・ウェルの「現在」を理解しようとしている。
それは、作中ここまでのエピソードからするとゴゾやアマルガンが各々の人生の遍歴から磨き出してきた信念だったと思われていたが、どうやら最近になって地上界から人間がたびたび降りてくることが増え、そのインタビューから「地上の思想」を直接に学んでもいる想像もできる。迫水以前にもアマルガンはそれらに会っているだろうことと、ガダバにも地上の歴史学を教えている者がいると思える。
4月頃には『ドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる』とわりと軽く飛ばしているけど徐々にシリアスになる。
余計にこまごまと書き込んでいるようだけど、わたしはわたしなりに富野ファンの界隈など知っていても、読者としてあながち無用な指摘だと思ってない。むしろ『リーンの翼』の作中、アマルガンの性格は地上人の迫水に大らかで豪放、くらいに典型的な豪傑的性格としか大半の読者は読んでないんじゃないかと思う。「裏がある」と言えば野心家だ、というくらいか。
だがアマルガンはむしろ、登場した当初から得体の知れないほどインテリで、どうにもインテリ臭がするので自分でそれを隠そうとする、武人的に振る舞ってみせようとするような男だった。性格がそれで、なおアマルガンの思想はきっとそんなに理解されていない。
「歴史学は武器」信念
「異世界ものストーリー」(現代日本から異世界に行く話)について、人気でもあり定番でもある型が、現代の歴史学の成果によって更新されている歴史観を、中世や古代相当の思想しか持たない世界に投入することで圧倒的な武器になるという「歴史学は武器」信念は、今現在でもおそらく基本的に覆ってはないだろうと思う。
現代から、銃砲などの兵器や、農作技術や、経営マニュアル等などを抽出して武器にする個別話題は、今問題にしてない。「古代的な世界では、古代戦術の考え方が逆に有利なんだ」という逆転の提示も今はそれなりに説得的に広まっていると思う。もっとも、それ自体は近代思想である。
『バイストン・ウェル物語』は異世界に機関砲を持ち込むことが主要な問題だったことはない。「魂の物語」がメインテーマで、歴史解釈がどうかもその魂の話のついでにされることだ。
前回、『ガーゼィ』の間にも史観闘争のことに少しだけ触れたが、わたしは昨年まで、「歴史観の争奪戦」がテーマになっている日本のSF作家も数人見てて、アニメ監督では押井守を挙げていた。押井作品はそればかりをやっているわけではないけど……『獣たちの夜』『雷轟』のようなとくに小説作品を読んでみると、山田正紀みたいな作家との親和性はわかりやすい。今のは、富野的な立場ではむしろそれでないなと思うほう。