テレパシーでからかう迫水
旧32新20、続き。
バイストン・ウェル物語シリーズや、富野由悠季の小説にかぎらず、戦記やロマンを物語っている間にも戦いの合間にキャラクター達が集合してこれまでの知識を寄せ合い、語る、ディスカッション、ブレインストーミング的な場面が挿まれるのは型。『リーン』の中では、これまでは迫水のアマルガンとの対話が主で、お互いの腹の内を探る中で新たな認識に至ったりして、戦いのストーリーの中に再びフィードバックしていくだろう。
今回は捕虜にしたガダバの士官ダーナ・ガハラマを相手。既にそこそこ長い付き合いになり始めているが、彼を食事には迎えても、今ここで懐柔しようという気は迫水にそんなにない。あくまで警戒を緩めないダーナに対して悪戯っ気が生じて彼をからかう気になった。「青年二人」というタイトルの若々しい気概のやり取りは結構面白いエピソード。
そこで、『バイストン・ウェルに初めて来たとき、ガダバの地にも行ったことあるのだ――』と、作り話を始める迫水について。読者は半ば忘れているだろうけれど、スラスラと嘘の描写をならべている迫水は、物語中この時点でもまだ、迫水はガダバの兵士とは流暢に現地語で喋れないはず。言葉の通じないところはテレパシーで意思を通じているとは思っていいだろう。テレパシーで、嘘をついている。
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「テレパシーで嘘をつけるか」は、FTやSFの脈だと重要度のあるテーマだと思え、そのたびピンと来るのだけども、富野監督アニメや小説作品の中では、とくにそこに重い興味はないのかもしれない、と思っていた。
でも多くの作品を通読していると、テレパス的な問題をどうしても避けて通れなくなったか、作者の中でも徐々にそのことが浮上してきたかで、およそ逆シャア頃を境にし、新しい作品の中にはじわじわと入り込んできているように、わたしには見える。
富野アニメ中の蓋然論とか、道具としての言葉の使い方、といったテーマも含めて。そうなるともう文学論だが、むしろ富野を切っ掛けに文学にも入っていく、という読者の態度でもいいだろう。FTジャンルからの目線でわたしの興味のあるところだ。年代的に、ル・グウィンを参考にするとわかりやすいので再読に積んでいたが、ル・グウィンはまたわたしは億劫でしばらく停まっている。
つまり、原作者としても別の考え方もあるのだが本作中ではこれでまとめた、ということもある。
「民草」と言ったときの迫水の言い方はガダバ人ダーナにはわからず、
あえてテレパシー的な共感を書き足しているところは、完全版でのこれまでの配慮と同じ。
完全版で迫水の会話中のテレパシー要素に逐一書き込みが加わっていることは、後に、バイストン・ウェル滞在が長くなれば迫水はコモンの言葉による会話になじみ、かえって地上の、日本語を忘れていくという筋でもあった。これはずっと後の話を先取りしてしまうが。