「テレパシーで嘘をつけるか」は、FTやSFの脈だと重要度のあるテーマだと思え、そのたびピンと来るのだけども、富野監督アニメや小説作品の中では、とくにそこに重い興味はないのかもしれない、と思っていた。
でも多くの作品を通読していると、テレパス的な問題をどうしても避けて通れなくなったか、作者の中でも徐々にそのことが浮上してきたかで、およそ逆シャア頃を境にし、新しい作品の中にはじわじわと入り込んできているように、わたしには見える。
富野アニメ中の蓋然論とか、道具としての言葉の使い方、といったテーマも含めて。そうなるともう文学論だが、むしろ富野を切っ掛けに文学にも入っていく、という読者の態度でもいいだろう。FTジャンルからの目線でわたしの興味のあるところだ。年代的に、ル・グウィンを参考にするとわかりやすいので再読に積んでいたが、ル・グウィンはまたわたしは億劫でしばらく停まっている。
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つまり、原作者としても別の考え方もあるのだが本作中ではこれでまとめた、ということもある。