この言葉を、深夜に目が覚めて思い出していた。
催眠術の支配力に柔道の物理で勝ったというのでは、それほど面白くはない。それは、雅君への愛で精神支配を破ったわけでもなかったはず。
精神支配力(カリスマ)の話は、野阿作品でも共通してあるはず。わたしは、ストリンドベリのヴァンピールなどに遡って辿っていたが、父権的や男性的支配という言い方にすれば、男の言いなりになって抵抗もできない女性…というフェミニズム小説のシチュエーションが思い浮かぶ。それをぶっ壊すことをモチベにしている点では、ゲイのサイキックは弱いのか。「LGBTだから」というのでも、それほど強みなのかはどうなのか。
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人間性については、『バベル』の譲次は、雅日子を人間と認めることで魔少年の魔性を破ったが、上に言ってるようにわたしは譲次の態度はいけ好かない。それは、今度は「語り」の問題。その点ではタニスはリフレーミングの名手だった。
「クィア」を名乗るのはそんなに格好いいことか。鼻持ちならないことには何にだって反感をもつ。「You are not alone」と歌っているコミュニティになどわたしは絶対にその輪に入れそうにない。……
それはこのまえの現代の音楽、向井航「クィーン」のときに考えていた。群れるのが悪いとは言ってない。
野阿梓作品のゲイはマイノリティの意味では全然ない、あらかじめ。耽美小説のゲイは、純粋に男の子と男の子が美しいし気持ちいいからだ。でもサイキック戦には弱みがあるように思う。