幻聴の記憶
―12区 巣―
床に沈殿するような霧が、12区全体を覆い尽くしていた。
それは単なる気象現象ではない。都市が吐き出した疲労と、積み重ねられた諦念が、形を持って滞留しているかのようだった。
幾度訪れようとも、この区画特有の重圧が軽減されることはない。
かつて人と物資が行き交い、活気を帯びていたであろう繁栄の名残は、今や輪郭を失い、霧の向こうに沈んでいる。
ザッザッ……
呼吸をすれば、肺の奥にまで湿気が絡みつく。
空気は冷え、重く、衣服の表面には撥水されきらない水分が膜のように張りついていた。
白ではなく、灰でもない。
煤と湿気と、都市の呼気が混ざり合ったような、濁った霧が路地から路地へと滲み出し、
建物の輪郭を曖昧にし、人の距離感を狂わせている。
「ユンフさん、地理観測の方角は間違いありません」
「しかし、数歩先の人間さえ見えない程に立ち込めたこの霧の中、このような軽装で進むのは危険です」
その声は、霧を押し分けるように背後から届いた。
普段通りの歩幅で道路を踏みしめる彼の後ろ。
南部セブン協会の制服を纏ったセイブが、片手に握った剣を光らせながら端末を覗いていた。
「インフラも正常に働いていない空間です」
「俺からすりゃ、こうして生物の拠り所のない場所の方が、『人間』には襲われずに済みます」
「ですが……」
「今回の依頼は12区巣に所在を構えていた住民からの要望です」
「L社本社から比較的近隣に居住区を構えていた事務所」
「その内部に置いていった『思い出の品』の回収、でしたよね」
「出来るだけ早い方がいい」
その歩幅は変わることは無い。
足取りは一定で、立ち止まらず。
視界を奪われた都市において、歩調を乱すことは恐怖を招く。
なれば彼は、その恐怖を感じさせないよう、セイブへと声を掛けつつも自身の足取りに間違いが無いことを示そうとしていた。
「お願いしますよ、ユンフさん……」
「貴方に触発されてから、私たちは生への渇望が強くなってきたんです」
「ご安心を」
「俺の都市での仕事は護衛ですから」
「ははは、なんだか、特色フィクサーが私のためだけに動いてくださっているという事実が」
「どうにも優越感に浸らせる叙事詩として上等すぎて、怖いですね」
歩みを重ねるうちに、目的地の気配が濃くなる。
霧の向こう、L社跡地からわずかに外れた街区。
そこには、視認できないにもかかわらず、確かな“存在感”だけが漂っていた。
図書館。
感覚としては、そこに在ると分かる。
だが、到達という概念だけが欠落している。
近づいても、辿り着けない。
都市に生じた歪みの象徴だった。
「……ここに来るまでに、幾度も絡まれましたね……」
折れた翼の巣。
其処は無法地帯を意味しており、指は勿論、その傘下組織やフィクサー協会、他の翼までもが領土を巡り暗躍する。
一介のフィクサーが歩きまわるには、死と隣接した苦痛の空間であった。
「ですが、大多数は刃を隠してくれた」
「少し安心しましたよ」
だが、彼にとっては最早それは試練ですらなかった。
以前であればその存在を確認される度、不届きものによる刃物が彼目掛け飛んできていたが、
今回はただ何故特色が此処にいるのかという疑念の声があがるだけで、戦争の火種は最早煙さえ熾す事はなかった。
「透明の軌跡という肩書きは、其れほどまでに影響を及ぼしているんです」
「貴方のことを語る学校さえありますから」
「ただ方向標に向かって歩んでいるだけなんですけどね」
依頼書の文面を改めて確認する。
セイブが取り出した電子端末に映し出されたマップ。
その目的地と所在地がほぼ同等で有る事を認識する。
目の前の罅割れたコンクリートの塊の内部に、依頼主の目的の品があることを確認した。
「人は誰しも、『これだ』と思う物に向かって歩みはするんです」
「ですが、貴方のように決して折れず、尚且つ向き合いながら歩を進められる人は中々いません」
「それが人格者であるなら、尚更」
首の皮一枚、といった繋がり方の玄関扉は、辛うじて蝶番に繋がっているだけだった。
歩むたびに天井から砂埃や瓦礫の屑が啜り落ち、衣服に纏わりつく。
暗闇にさえ匹敵する程の光の無さに加え、霧による視界の悪さの中、
彼らは思い出の品である『写真』を探していた。
「そうして貴方はいつも決まって無表情で、それでもこう言いたげです」
「『思い出のために生きているだけだ』と」
「……そして、こんな暗闇の中でさえ……」
瓦礫に埋まった箪笥の脇。
視界も定まらない中、ユンフはその隙間に手を伸ばし、額縁を手にする。
「貴方は尚、力強く進み続けている」
「手放しに誉めてくれますね」
「事実じゃないですか」
「曇り空さえ晴らすような太陽と共に時を過ごしてきたんです」
「見えない道は俺には無いから」
写真の明度の邪魔をする埃や汚れを手でそっと払う。
映し出された人々の笑顔が僅かに見えるその額縁の中の存在を見ると、
良かった、と小さく呟き、セイブへと差し出した。
「ありがとうございます」
「これで戻れば依頼は完了ですね」
捜索用次元鞄に写真を保存する。
暗がりの中、霧の光だけがわかる外へと視線を向けつつ、その後の足取を確認し始めた。
「……ユンフさんの故郷では、写真という物はありましたか」
「いいえ」
「全て、書き留めていたんですか」
「えぇ」
外へ出る。
霧は相変わらず、都市を覆っている。
「……記録媒体は書物のみ」
「此方に来てから随分経ったと思います」
「確かに貴方は記録に残し、種が咲かせた花の色や温度を感じて生きているのでしょう」
周囲に敵性存在が居ない、安全に手を振って帰路につけるか目線で確認する。
その必要もない事を悟ると、二人は再び歩み始めた。
「ですが、都市の物語さえも貴方は包み込み、それを伝える為に記す」
「全てを記憶に留めるなんて、とてもじゃありませんが無理です」
「書き換えられてしまうものだってある。そうして紡ぎ続けた冒険の一幕でさえ、記憶は朧気になってしまう」
「繋ぎとめるには、現物が存在してこそです。色鮮やかにその時を思い返すには、紛れもなく脳に直感的に示す記録が必要です」
「それを味わう事がなければ、人は忘れる。その人と話した会話の内容、一緒に行った場所、顔も、声も」
「……忘れてしまわないのですか、思い出を」
歩を緩めることなく、顔を合わせる事もなく、12区の巣の危険地帯を悠々と進む。
セイブの問いかけには、彼の色があった。
その問いかけは決して問い詰めるものではなく、ユンフの思い出に対する向き合い方に対し、
何処か救いを求めているような色があった。
「セイブさんは、物心ついたときの記憶ってありますか」
「……記憶に残っているのは、母を困らせるような、赤子らしい行動をしている自分ですね」
「……ユンフさんはあるんですか?」
「俺はないんです。物心ついた時の記憶が」
「両親は早くに他界してしまっていたが故に、その声も顔も、俺の記憶に存在しない」
「確かに居た事は、村の人々からの思い出を通じて感じているんですが」
「俺という枠を形成する要因にはなってもらえなかったんです」
「貴方が村長の保護下の基で、村で暮らしていた理由ですね」
「そう。結局、俺の旅路に於いて、『肉親』という存在は彩りを持たなかったんです」
「だからでしょうね。物心ついたときから、僕という存在として、俺は憂鬱に沈みこんでいた」
「ただ、思った事があるんですよ」
「両親は、俺を愛してくれていたんだろうなって」
「……それは、何故……?」
「ティパの村にはいろんな技術を持った家がありました」
「鍛冶屋、錬金術、猟師や農家」
「俺が生まれた家は、牛飼いだったんです」
「でも、後継人なんざ居ない。残された俺は赤子も同然」
「マレードさんや、村の皆が協力して、畜産業を補ってくれました」
「……」
「だけど、村の人々にも老いは来る」
「俺が一人で立てる頃、牛飼いに従事するには人も足りず、他の業種で手一杯な時だった」
「クリスタルキャラバンになる人は、皆若い人ばかりだったから」
「だから、俺は片手で数えられるぐらいの年齢にして」
「牛飼いの経験を積む事になったんです」
「皆が牛の世話をしているところを眺めていた」
「だから、見様見真似で出来るところもあったのかもしれない」
「ただ、皆出来るはずがないって心配してくれてたんです」
「限界集落においては、役割分担に幼子も担当を割り振られる可能性は十分にあります」
「……ですが、孤児も同然の貴方に……」
「皆、そう思ったんだろう」
「……初めて牛の目の前に立ったんだ」
「何かを学んだわけでもない。責任という漠然とした押し付けられざるおえなかった重圧を感じながら」
「俺は立ちすくんでいた」
「でもさ」
「その時、俺は何故かわからないけど」
【大きな大きな命の責任を担うんだ】
【愛情を以て、村の皆の為にも、頑張るんだぞ】
【大丈夫。皆貴方の事を分かってくれている】
【その小さな手で、命を繋いでいって】
「声も顔も知らない人の言葉が聞こえてきた」
「本当に言ってたのかも分からない」
「幻聴だったのかもしれない」
「その時の俺は塞ぎ込んでいて、何をするにしても無気力だったけど」
「ただ、その言葉を聞いた時」
「自然と牛の世話が出来たんだ」
「きっと俺の両親は、こうしてきたんだろうって、そう思った」
彼の表情が、僅かに緩む。
昔の風景に想いを馳せる。
「記憶に存在しないけど、声も顔も何もわからないけど」
「それでも『覚えていてくれている』んだと思うんです」
「俺という個は決して俺一人で成り立つことはなかった」
「それを作りだしてくれた人達が居た」
「記憶になくとも、魂に刻んでくれたものがあったから」
「それは、愛してくれていた証だったから」
懐かしむような口調。
傍ら、セイブは普段から表情を変えない彼のその僅かな変化を見て、瞳を縮小させていた。
「そうして牛飼いを営む俺の様子を、裁縫屋の人達が実は見守っていてくれたって事も」
「俺の両親が、彼らとの思い出を大切にしていたからこそ、気づけたことだったんだ」
「……それに気づけたのは、俺を引っ張りだしてくれた人が居たから」
「俺は忘れないんですよ。記憶が無くなろうと、例え冒険記が無くなろうと」
「俺は、思い出を紡ぐ旅人だから」
「……」
「ご両親から愛されていた事に、気づけたんですね」
「所詮は受け取り手の解釈次第ってところはあるんでしょうけどね」
「……でも、覚えているじゃないですか。貴方も」
「その『幻聴』を」
「……そうですね……」
互いに小さく息を吐く。
笑みを交えたその吐息は、霧の中でも強く輝いていた。
「……これは興味本位で聞くのですが」
「アトリさんとの思い出も、忘れずにいるんですよね」
「聞かせてください。ラックも聞きたがっていますよ」
「いいですよ」
「あの、聞きたい内容は色々あるんですけど」
「……ラックも聞きたがっているっていうのはあるんですけど」
「色恋的なところなんですが」
「……俺が彩る感情においては、自分の中で留めておきたいところです」
「それなら、彼女に向けたその感情の一端だけでも――」
「……」ダッ!
霧を晴らす事さえ厭わない程の超加速。
「あ……」
「ちょ、ユンフさん!待ってください!!」
「いつも優しげに話してくれるのに、何故逃げるんですか!」
L社の巣で展開された思い出の話。
二人は写真を持って、その霧の中を駆け抜けた。