「俺が請け負った依頼は、記憶の消去です」
『じゃあ僕のことだ』
「まだ断定は出来ません」
『……忘れられなかった判断、止めなかった選択』
『そう、言われてきたんでしょ?』
「見舞いに来なかった人の顔を覚えているんですか」
『うん。全部、僕の中にあるから』
工場の天井から、微細な埃が舞い落ちる。
『きっとその人は「知る必要がない」って、貴方に僕のことを遠ざけたりしているはず』
『だったら、貴方はその言葉の通りに記憶を消してしまえばいい』
『自らの手で終わらす一つの物語は、語り手の心の傷を永劫のものにしてしまうから』
「……依頼料の中には、俺が12区の巣に入る事が報酬の一つとして用意されていた」
『……?』
「それは冒険なんだ」
「俺の歩む道程の一つ」
「其処に貴方が居る」
「だったら知る権利の一つぐらいある」
「言っただろ、お見舞いに来ましたって」
『……ふふ……』
『冒険の途中でお見舞いに来るだなんて』
『すごく物好きな人ですね』
依頼は、業務記録の消去。
だが、ここにあるのは記録ではない。
都市が選ばなかった後悔そのもの。
空の花瓶の内部で、淡光がゆっくりと渦を巻く。
水面が微かに揺れ、言葉が沈殿していた時間を掘り起こすように、声が落ちてきた。
通報 ...
最初に失われたのは、痛みへの嫌悪だった。
白い部屋で横たわり、光に晒され、数値として扱われる日々の中で、
痛覚は次第に「不快な信号」ではなく、「正しく反応している証明」へと変質していった。
針が刺さる。液体が流れ込む。
骨の内側が軋み、臓器の輪郭が曖昧になる。
「素晴らしい数値だ。K社アンプルには劣るが、これを用いれば――」
そのたびに研究者たちは頷き、記録を取り、僅かな高揚を滲ませる。
それが、嬉しかった。
彼らは僕を見ていた。
正確には、僕の身体が示す変化を。
だが、その視線は確かに僕に向けられていた。
誰かが僕の存在を必要としているという事実だけが、
当時の僕にとっては生きる理由として十分だった。
本質は治癒だった。
僕の病気を治すために集まった人々は、やがて医者としてではなく研究者として僕を見るようになっていた。
「回復の見込みはない」
治癒は早い段階で打ち切られた。
それは僕の病気が治らないからだと思ったけど、そうじゃない。
僕という研究データが技術に成り得るから、治癒を終わらせたんだ。
研究が始まっただけ。なんて冷酷なんだろうか。
でも、それは表面の話。
白衣の人々は、冷静で、合理的で、そして優しかった。
感情を挟まず、期待を持たず、失望もしない。
だからこそ、彼らの言葉は純粋だった。
「このデータは多くの人を救うぞ」
「君の反応は前例がない」
「君が居てこそ完成するアンプルだ」
それらは命令でも、慰めでもなかった。
事実の提示だった。
だが、僕はその事実に救われていた。
だけど、治癒が打ち切られた時も、研究が進んでいるときも、
決まって1人だけ、叫んでいた人がいたんだ。
今もそうだけど、その時何を言っていたのかはわからない。
でも、僕の為に何か行動を起こしてくれていることだけは、なんとなくだけど分かっていた。
次第に、身体は僕のものではなくなっていった。
関節は可動域を測るために分解され、
皮膚は薬剤反応を見るために切開され、
内臓は保存と交換を繰り返した。
鏡を見る機会は無かった。
だが、自分が「人の形」から逸脱していくことは、他者の反応で理解できた。
彼らの視線が、
「患者を見るもの」から
「標本を見るもの」へと変化していく、その微細な差異。
それでも僕は幸せだった。
僕を必要としてくれるその眼差しは、僕だけのものだったから。
恐怖は、観測の邪魔になる。
悲しみは、数値を乱す。
怒りは、再現性を下げる。
そうして感情は、少しずつ削ぎ落とすことにした。
代わりに残ったのは、
役に立っているという実感だけだった。
研究結果は良好だった。
僕の身体を通して得られた技術は、
義肢となり、補助器官となり、
延命装置として量産されていった。
僕の存在は分割され、
僕ではない誰かの生活を支えていく。
それは、誇らしかった。
だが同時に、僕の中から「何か」が抜け落ちていく感覚もあった。
夢を見なくなった。
未来を想像しなくなった。
自分がこの先どうなりたいのか、考えなくなった。
考える必要がなかったのだ。
すでに役割は与えられていたから。
最後に残されたのは、
空間だった。
心があった場所に、
ぽっかりと空白が生まれていた。
研究が終盤に差し掛かった頃、
僕はふと考えた。
終わったら、どうなるのだろう、と。
研究が終わる頃、僕の周りにいた研究員の多くが姿を消していた。
僕は学会とか、そういう偉い人達に発表する為に必要な会議とかしているものだと思ったけど、
実際は違かったみたいだ。
施設は静まり返り、機械と電子の音が混ざるだけ。
役目を終える頃だったから、僕は思った。
誰かが来てくれるって。
「お疲れ様」と言ってくれる誰かが。
花を持って、
役目を終える僕を見舞ってくれる誰かが。
誰も来なかった。
誰一人として、役目に準じた僕に声を掛けてくれる人は、居なかった。
都市を覆う白、そして黒の世界が訪れた。
工場は機能せず、折れた翼の定めとして阿鼻叫喚が繰り広げられた。
施設から人は消え、僕は衰弱し続けた。死ぬのも時間の問題だったね。
内臓を求めにやってくるねずみや、縄張りとして占拠しようとする組織。
色々な人が来た。その度に息を潜めて、隠れて、でも遠くには逃げられず、ずっとここに居た。
ある日見つかった時、刃が僕を貫こうとした時に聞こえたんだ。
その声はとても優しくて、美しくて、僕を必要としてくれるような太陽のような声で。
そしたら、目の前にいた人達は居なくなっていた。
代わりに、僕の姿が変わったんだろうなって思った。
その時、初めて理解した。
僕は、空っぽだった。
役割を果たすために、
自分を削り続けた結果、
中身の無い器になっていた。
花を挿す場所だけが残り、
そこに何も入れられることはなかった。
それでも、
後悔はなかった。
僕は確かに、幸せだった。
誰かの役に立てた。
それだけで、十分だった。
――だからこそ。
終わりが欲しかった。
空の花瓶は、
棚に戻されるべきだと、
そう思ったんだ。