空の花瓶
―12区 裏路地―
「業務記録の消去、ですか」
裏路地の一画。
舗装の剥離した地面には濁水が溜まり、瓦礫と腐臭が都市の呼気として沈殿していた。
劈く臭いや陰湿な雰囲気が漂う中、透明を司る特色と、痩せこけたローブの成年が会話をしていた。
「あぁ、そうだ」
依頼人は唾を吐くように言う。
痩躯を覆うローブは、元来の色を失い、煤と湿気に侵蝕されている。
骨張った指先は常に震え、まるで自らの存在を現実に縫い止める術を失っているかのようだった。
「俺が務めていた工場の技術標本」
「今ではL社のエネルギー提供も無く、巣もあの有様だ」
「最早空っぽとなった。価値も無く、金にもならん」
「だが、遺しておくと碌な事にならんのもバカでも分かる」
言葉は粗雑で、文脈は散漫。
だが、その乱雑さの奥底には、計測不能な忌避感情が巣食っている。
「その標本もまた、12区巣のL社付近に展開した工場の中にあると」
「散々世話してやった下位事務所の連中も、はたまた指の連中も挙って工場を荒らしやがる」
「俺個人の手では勿論、一介の事務所や依頼費の嵩む協会に依頼など到底出来ん」
「俺とて良心的な依頼費を請求している訳ではありませんよ」
「ハナ協会に支払う必要のあるライセンス費は、俺達特色の足枷です」
「格安で護衛を請け負う人間が何を言う」
「お前はL社の巣を纏う霧の中に溶け込む事が出来れば、それで良いのだろう」
「……」
彼は視線を外さず、路地の湿った壁面に背を預けたまま、静かに頷いた。
「内容は?」
「知る必要はない」
「中身を知れば、お前も都市の怨嗟に巻き込まれるだけだ」
掠れた声、尚且つ魂の叫びを込めたその眼光が、ユンフの瞳に入り込む。
脅迫や警告ではない。
自身が過去に踏み越えた地平が、都市に於いて残酷な結果を齎した結果であることを彼に伝えようとしていた。
「透明の軌跡、お前の事は調査した」
「その実績や実力は最早口にするまでもない。説明するだけ時間の無駄であろう」
「それなら記録消去依頼とは、どういう意図があるのでしょうか」
裏路地を吹き抜ける風が、積もった塵芥を巻き上げる。
霧は低く垂れ込み、視界を侵食しながらも、奇妙な静謐を保っていた。
その空間を打ち破るように、彼の問いに依頼人は拳を握りしめつつ口を開く。
「……消して欲しいのは事実ではない」
「忘れられなかった記録だ」
「止められなかった判断だ」
「それらがこの世の片隅に、媒体として残る事は、俺にとって我慢ならん事だ」
「後悔」
「言うな。ただ引き受けろ」
「……」
「媒体の受渡はどうしますか。概念焼却機による完全抹消は――」
「その場で消してくれ」
「勝手な話だが、俺の中からその記憶を消す訳にはいかない」
「俺の中には、遺しておきたい」
「……了解しました」
―12区 巣―
依頼地である旧L社付近の廃墟。
かつて工場と呼ばれていた建造物は、稼働を停止して久しく、
外壁は薬液の染みと煤に覆われ、白を基調としていたであろう躯体は、
今や病的な灰色に変色していた。
「……病院か……?」
都市に長らく生きてきた彼にとって、工場とは幾度も訪れる機会のあった場所。
それ故に、その造形が工場とは逸脱した、正しく病巣を取り除く場所であった事に違和感を覚える。
搬入口の扉は、内側から歪んだように開いたままだった。
侵入の痕跡は無数にあるが、略奪の気配はない。
彼は中へと足を踏み入れる。
ザリッ…
施設として形跡を保ったままのロビー。繋がる廊下。
その最中に見えるあらゆる工具も、機材も、記録媒体と思しき保管庫も、どれも過去を表していた。
床に転がるのは、医療用ベッドの残骸。
点滴スタンド、廃棄された義肢、解体途中で放置された補助器官。
それらは修理のためではなく、保存のために並べられていた。
奥。
最深部の処置室と思しき区画で、彼はそれを見た。
『やぁ』
透明な硝子容器となった頭部。
それは花瓶であり、その内部は淡い色をした水だけで満たされている。
無数の管が伸びた輸血ポンプに、金属製の支持具。
標本かのように技術の文字が書きとどめられた患者服を着た、一人の。
「――ねじれ――」
部屋の隅のベッド、患者とも呼べるその風貌。
病院の一室でしかないその空間。
『お見舞いかな』
『それとも……片付け?』
花瓶の内側で、淡く光る粒子が集まる。
その粒子は決して形を成す事はなかったが、声色に併せて表情を示しているようであった。
あくまで不完全な表情であり、完成しない標本のように曖昧なままだった。
「……」
「……」
「……」
水。空(から)。標本。技術。記録。消去。工場。病院。点滴。淡色。見舞。花瓶。
――憂鬱。
ユンフの感じ取ったねじれから発せられる大罪は、彼を強く縛り付ける。
深い水の中に入りこんだ感情。
沈んだが故に、深く深くまで入り込んだが故に、日の光さえ浴びる事の出来ない暗闇まで沈み込んだが故に、
その感情を浮き上がらせることは困難である。
この圧迫感は、一個人から放たれるにはとても重く、悲しいものであった。
「お見舞いに来ました」
ユンフは僅かとも長考とも言えない時を経て、ねじれと声を交わす。
『そっか。嬉しいな』
『でもお兄さん。嘘をつくのが下手だよね』
『お見舞いに来てくれたなら、お花は持ってきてもらわないと』
その語り口は穏やかで、
まるで自身に異常でもないかのような振舞であった。
「話し相手になる事も、見舞い品の一つと心得ています」
『うん、そうだね。お話は心の栄養だから』
ねじれの寝るベッドの横。
来客用の簡素なパイプ椅子に腰かけ、ユンフは相も変らぬ瞳をねじれに向け続けた。
「なんとお呼びすれば?」
『僕は標本。技術の結晶なんだ』
『人としての名前はもう遠い昔に無くなってしまった』
『……だから、『空の花瓶』と、そう命名されたんだろうね』
「それは美しい声が導いた命名ですか」
『きっとそうだと思う』
『僕はその声を皮切りに、以来誰とも話す事さえ叶わなかったから』
自傷的な笑みを浮かべている。
決して形としてその表情が彩られた訳ではなかったが、
彼には空の花瓶がそうしたと捉えざるおえなかった。
『あなたは?』
「ユンフです」
『ここは病院だった』
『正確には、病院に「なろうとした」工場かな』
『治せない人を、せめて壊れないように保管する場所』
管の一本が、きしりと音を立てる。
ユンフはこの道中にて、保存のために残されたような器具達を思い返した。
この工場は、治療の場ではない。
延命と保管を目的とした施設。
都市の技術が発展に基づく、闇の根幹に成り得る施設。
『患者のフリした研究対象』
『僕に注ぎ込まれた技術の多くは、きっとこの先多くの人の生活を支える技術になる』
『だから僕は不幸なんかじゃない。多くの人の足場になって、僕の存在意義に意味が灯される』
「……」
且つて対峙した者の過去の記憶。
ねじれる寸前、不幸を提示した男とは逆に、空の花瓶は幸福であるが故にねじれた事を示唆していた。
「だが、貴方を纏うその哀しみは『憂鬱』そのものだ」
『……そうだね』
『空っぽだからかな』
『誰も、ここに花を挿すことはなかった』
『頑張ったけど、報われなかったなって』
『そしてその証はもう、消し去られる』
『……ユンフさん、貴方の依頼って、僕の消去でしょ?』
『答える必要はないよ』
『貴方は一目見てわかるぐらいに優しい人だから、それを答えさせるには僕が罪悪感を抱いてしまう』
「俺が請け負った依頼は、記憶の消去です」
『じゃあ僕のことだ』
「まだ断定は出来ません」
『……忘れられなかった判断、止めなかった選択』
『そう、言われてきたんでしょ?』
「見舞いに来なかった人の顔を覚えているんですか」
『うん。全部、僕の中にあるから』
工場の天井から、微細な埃が舞い落ちる。
『きっとその人は「知る必要がない」って、貴方に僕のことを遠ざけたりしているはず』
『だったら、貴方はその言葉の通りに記憶を消してしまえばいい』
『自らの手で終わらす一つの物語は、語り手の心の傷を永劫のものにしてしまうから』
「……依頼料の中には、俺が12区の巣に入る事が報酬の一つとして用意されていた」
『……?』
「それは冒険なんだ」
「俺の歩む道程の一つ」
「其処に貴方が居る」
「だったら知る権利の一つぐらいある」
「言っただろ、お見舞いに来ましたって」
『……ふふ……』
『冒険の途中でお見舞いに来るだなんて』
『すごく物好きな人ですね』
依頼は、業務記録の消去。
だが、ここにあるのは記録ではない。
都市が選ばなかった後悔そのもの。
空の花瓶の内部で、淡光がゆっくりと渦を巻く。
水面が微かに揺れ、言葉が沈殿していた時間を掘り起こすように、声が落ちてきた。
最初に失われたのは、痛みへの嫌悪だった。
白い部屋で横たわり、光に晒され、数値として扱われる日々の中で、
痛覚は次第に「不快な信号」ではなく、「正しく反応している証明」へと変質していった。
針が刺さる。液体が流れ込む。
骨の内側が軋み、臓器の輪郭が曖昧になる。
「素晴らしい数値だ。K社アンプルには劣るが、これを用いれば――」
そのたびに研究者たちは頷き、記録を取り、僅かな高揚を滲ませる。
それが、嬉しかった。
彼らは僕を見ていた。
正確には、僕の身体が示す変化を。
だが、その視線は確かに僕に向けられていた。
誰かが僕の存在を必要としているという事実だけが、
当時の僕にとっては生きる理由として十分だった。
本質は治癒だった。
僕の病気を治すために集まった人々は、やがて医者としてではなく研究者として僕を見るようになっていた。
「回復の見込みはない」
治癒は早い段階で打ち切られた。
それは僕の病気が治らないからだと思ったけど、そうじゃない。
僕という研究データが技術に成り得るから、治癒を終わらせたんだ。
研究が始まっただけ。なんて冷酷なんだろうか。
でも、それは表面の話。
白衣の人々は、冷静で、合理的で、そして優しかった。
感情を挟まず、期待を持たず、失望もしない。
だからこそ、彼らの言葉は純粋だった。
「このデータは多くの人を救うぞ」
「君の反応は前例がない」
「君が居てこそ完成するアンプルだ」
それらは命令でも、慰めでもなかった。
事実の提示だった。
だが、僕はその事実に救われていた。
だけど、治癒が打ち切られた時も、研究が進んでいるときも、
決まって1人だけ、叫んでいた人がいたんだ。
今もそうだけど、その時何を言っていたのかはわからない。
でも、僕の為に何か行動を起こしてくれていることだけは、なんとなくだけど分かっていた。
次第に、身体は僕のものではなくなっていった。
関節は可動域を測るために分解され、
皮膚は薬剤反応を見るために切開され、
内臓は保存と交換を繰り返した。
鏡を見る機会は無かった。
だが、自分が「人の形」から逸脱していくことは、他者の反応で理解できた。
彼らの視線が、
「患者を見るもの」から
「標本を見るもの」へと変化していく、その微細な差異。
それでも僕は幸せだった。
僕を必要としてくれるその眼差しは、僕だけのものだったから。
恐怖は、観測の邪魔になる。
悲しみは、数値を乱す。
怒りは、再現性を下げる。
そうして感情は、少しずつ削ぎ落とすことにした。
代わりに残ったのは、
役に立っているという実感だけだった。
研究結果は良好だった。
僕の身体を通して得られた技術は、
義肢となり、補助器官となり、
延命装置として量産されていった。
僕の存在は分割され、
僕ではない誰かの生活を支えていく。
それは、誇らしかった。
だが同時に、僕の中から「何か」が抜け落ちていく感覚もあった。
夢を見なくなった。
未来を想像しなくなった。
自分がこの先どうなりたいのか、考えなくなった。
考える必要がなかったのだ。
すでに役割は与えられていたから。
最後に残されたのは、
空間だった。
心があった場所に、
ぽっかりと空白が生まれていた。
研究が終盤に差し掛かった頃、
僕はふと考えた。
終わったら、どうなるのだろう、と。
研究が終わる頃、僕の周りにいた研究員の多くが姿を消していた。
僕は学会とか、そういう偉い人達に発表する為に必要な会議とかしているものだと思ったけど、
実際は違かったみたいだ。
施設は静まり返り、機械と電子の音が混ざるだけ。
役目を終える頃だったから、僕は思った。
誰かが来てくれるって。
「お疲れ様」と言ってくれる誰かが。
花を持って、
役目を終える僕を見舞ってくれる誰かが。
誰も来なかった。
誰一人として、役目に準じた僕に声を掛けてくれる人は、居なかった。
都市を覆う白、そして黒の世界が訪れた。
工場は機能せず、折れた翼の定めとして阿鼻叫喚が繰り広げられた。
施設から人は消え、僕は衰弱し続けた。死ぬのも時間の問題だったね。
内臓を求めにやってくるねずみや、縄張りとして占拠しようとする組織。
色々な人が来た。その度に息を潜めて、隠れて、でも遠くには逃げられず、ずっとここに居た。
ある日見つかった時、刃が僕を貫こうとした時に聞こえたんだ。
その声はとても優しくて、美しくて、僕を必要としてくれるような太陽のような声で。
そしたら、目の前にいた人達は居なくなっていた。
代わりに、僕の姿が変わったんだろうなって思った。
その時、初めて理解した。
僕は、空っぽだった。
役割を果たすために、
自分を削り続けた結果、
中身の無い器になっていた。
花を挿す場所だけが残り、
そこに何も入れられることはなかった。
それでも、
後悔はなかった。
僕は確かに、幸せだった。
誰かの役に立てた。
それだけで、十分だった。
――だからこそ。
終わりが欲しかった。
空の花瓶は、
棚に戻されるべきだと、
そう思ったんだ。
回帰を終える。
其処に残った色は、残酷で、それでいて空の花瓶にとっては縋りつきたい思いであった。
ユンフは過去を垣間見たその風景を想い、僅かに目を伏せる。
『僕はもう、役割を終えた』
『中身のない花瓶は、棚から下ろされるべきだ』
『消してほしい』
『僕という記録を』
『存在していた、という事実ごと』
「……」
『それが、最後の仕事だと思ってる』
『誰にも見舞われなかった標本が、最後に果たせる役目』
静謐。
病室の空気が、重く沈む。
その鋼鉄に手を掛け、花瓶を割る事がその者の望む最期であり、
依頼者の意図を汲み取った上での最適解であった。
だが
「しません」
彼にとって、それは最善策ではなかった。
「お見舞いってのは、終わりの儀式ではないんですよ」
『違うの?』
「違う」
「見舞いは、続ける意思の確認」
「回復の見込みがあるから行くものでもありません」
「役に立つから行くものでもない」
「生きていることを、途中で投げださないために行く」
「そして受け取った人が、自らの意思を少しでも進められるよう」
「一緒に進む意思を共に分かちあうものだと、俺は思っています」
『……』
「今まで貴方に見舞いに来る人が居なかった事」
「それはとても悲しい事だ」
「貴方を形成する憂鬱は、役に立ったという幸せでは拭いきれない程に青く焦がれている」
「誰かが花瓶に花を添えてくれるその温かみというものに」
『……僕は、もう空っぽだよ』
「空っぽなら」
「何を入れるかを、これから決めればいい」
「貴方は、誰かの未来を支えた」
「それだけで終わらせる必要はない」
『消去しなかったら……』
『あの人は、また後悔する』
『僕が残れば、彼は自分を責め続ける』
「それは、貴方の仕事じゃない」
『……』
「貴方が背負うべきは、役割じゃない」
「存在だ」
「それは、憂鬱から躍り出た人間がまず背負うべき、罪だから」
沈黙が落ちる。
長く、深い沈黙。
やがて、花瓶の中で淡光が、ほんの僅かに明度を増した。
『……見舞いって』
『こんなに、厄介だったんだね』
「逃げ道を塞ぐ行為ですから」
『……ふふ』
『じゃあさ、ユンフさん』
「はい」
『僕は、ここで何をすればいい?』
ユンフは、少し考えた後、静かに答えた。
「困らせてやりましょう」
「貴方という記憶の選択に戸惑った一人の人間を」
「……」
「お手伝いしますよ」
「貴方の花瓶に、花を添えられるように」