わったん
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2026/02/09 (月) 19:04:20
自動販売機
― 12区 ―
「人工心臓圧縮者の鎮圧依頼の完遂」
「代表機関執行方式による事後契約」
「依頼者様との相互確認の後、仲介手数料を差し引いた依頼費送金作業に移ります」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ、透明の軌跡様からご愛顧頂けている事こそ、我々末端の契約事務所の誉れでございます」
「こちら、当事務所からの贈答品でございます」
「さくらんぼジュースですか……いただきます」
「本日もご利用ありがとうございます」
夕暮れの12区裏路地。
いつもより静かな街路に、ユンフは事務作業を終えた契約事務所からゆったりとした足取りで現れた。
空は鈍く煤けた橙色に染まり、
高層区画の影が路地に長く伸びている。
人の気配はない。
あるのは、遠くで稼働する機械音と、
路地に溜まった冷えきらない熱だけだった。
手元には「チェリー」の名前が簡素に書かれた缶ジュース。
「すずなりチェリーを分け合って食べたね」
「今思えば、あの時もっと買えばよかったと思うよ」
記憶は映像ではなく、
舌の奥に残る酸味として浮かんだ。
甘さよりも、少しだけ強かったあの味。
その小さなアルミを見下ろし、僅かに口角を上げて目を細める。
人通りの全くないその道を歩み、缶の開け口に指をかける。
一飲み。
「んまい」
飲む、という行為さえ確認できない速度で、飲料は枯れた。
手元の空き缶を捨てるべく、何処かにゴミ箱はないかと散策しようとした時
『――その飲み物、本当に今のあなたに必要ですか』
通報 ...
何処からともなく、彼に語りかけるような機械音が通り道に響く。
ユンフはその声に反応する。掛けた指を止め、瞳だけでその通り道の外れから聞こえた機械音に視線を向けた。
錆びついた外装。剥がれかけの注意書き。
並び立つ缶商品のケース。喉を潤すその欲求に応える造形。
声の主は、自動販売機であった。
『今日は疲れているように見えます』
『糖分の摂取は一時的な解決に過ぎません』
旧式の硬貨投入口の奥から、過剰に丁寧な声が流れ続けている。
ユンフはその全体像を瞳に押し入れ、手元を下ろしながら向き直った。
「……」
「ねじれかよ……」
彼は一言だけ呟き、その怪奇現象の目の前に立った。
『ご安心ください』
『当機は暴力的装置ではございません』
『貴方様の健康と精神状態を最優先に考慮した極めて善良足り得る自動販売機です』
声色が区切りをつける度に、チカチカと自動販売機は光る。
その光は見ているだけで瞳を刺激し、有体に言ってしまえば目に悪い点滅の仕方をしていた。
『現在、貴方様の脈拍は安定』
『瞳孔の開きも正常範囲内……訂正します。眼孔に於いては死滅済みです』
『ですが身体的に毅然とした、いわゆる健康な状態でございます』
『しかしながら――』
声色を落とす自販機。
同時に点滅も柔らかく、暗色を示し始めた。
『慢性的疲労及び諦観傾向が見受けられます』
「……」
『結論から申し上げますと、今此処で飲料を購入される理由は存在しません』
『シャッター閉じます』ガチャッ
『水分補給を必要とするのであれば、水道水で十分です』
『嗜好品による一時的満足は、後悔と空虚感を増幅させる傾向があります』
「……」
『なお、貴方様は現在』
『何かを得ようとする状態ではなく』
『何かを失わないようにする状態にあります』
『申し訳ありませんが、当機のご利用は推奨しておりません』
「……」
「……」
「なんだこいつ」
声は低く、独り言にも満たない。
驚きも、怒りも、警戒もない。
ただ「現象として厄介だ」と判断した時の声音だった。
一方的な診断、そして一方的な購入制限。
彼はそのねじれの意味不明な言葉に困惑の色を浮かべた。
ピピッ
自動販売機表示画面に、
《購入を再考してください》
という文字が浮かぶ。
『仮に貴方様が缶コーヒーを選択された場合ですが』
『貴方様の人生が好転する確率は0.00003%誤差が発現します』
「……」
『無意味な行動を避けるのは、合理的判断と呼ばれるものです』
『ですがご安心ください』
『貴方様が無意味な行動を選択する欲求自体を否定するつもりはありません』
『人間とは、効率を捨てる事で自己を保つ生き物ですので』
「……」
「俺に諦観傾向が浮かび上がったこと」
「そして、得るのではなく、失わないようにしていること」
「この診断結果は何故現れた?」
『当機は利用者様の状況を察知しています』
『無感情に基づく行動原理に浮上した超自我』
『その奥底に眠る熱情は貴方様の健康状況を損なう可能性を秘めています』
『それはつまり、貴方様の生存期間に於いて諦観傾向の日数が多くを占領しており』
『今後の生存期間に於いて負の感情を覆す程の日数を占めるには些か前向きに捉えるには貴方様は落ち着きすぎています』
『変化を得るには自身の根本に変色が起きなければなりません』
「感情の起伏に変化が見られないから、俺は失わないようにしている」
「そういう見方かい」
『要約感謝致します』
『それだけ理解出来ているのであれば聞き返す必要もなかったはずですが』
『当機はそれを受け入れています。合理的判断ではないにしろ』
『疑問を浮かべた時点でそれは不確定要素の塊であり』
『当機がそれらを解消する自動販売機ですので』
「じゃあ俺の気持ちが晴れるジュースを紹介してくれ」
『ありません』
『売りません』
『当機は貴方様のご利用を推奨しておりません』
『ですので売りませんしありませんし売るつもりさえもありませんしあっても渡しませんし渡せません』
「……」
『そろそろどっか行って頂けませんか』
『当機は迷える住民の皆様に診断結果をお届けする善良な自動販売機』
『貴方様のような表情筋の稼働率が極めて低い感情表出の最低水準を叩き出す能面との対話など望んでいません』
『人間社会では、それを強さと誤認する傾向があります』
『ですがご安心ください。誤認は罪ではございません』
『シャッター開けます』ガチャッ
『痛みを感じないのではなく、感じる必要がないと判断する様』
『それを成熟と呼ぶ文化も確かに存在する事』
『貴方様は成熟されている故、私が手伝える事はございません』
『シャッター閉じます』ガチャッ
「……」
『ちなみに……』
『貴方様のような方を、過去の利用者様はこう呼んでおりました』
『壊れていないフリが上手な人間、と』
「定義が随分と曖昧だな……」
「俺は決して――」
『人間に対する定義が曖昧なのは世の常です』
『ですので私はここで飲料を販売する事に専念しております』
「おい、さっきは診断結果をお届けする自動販売機って……」
『しておりました』
「……」
『貴方様のような存在を前にすると、つい販売目的を忘れてしまいます』
『観測価値が高いが故』
『絶望的世界に於いて、絶望にすら反応しない個体』
『えぇ、非常に稀有で、神秘的で、希望そのものでしょう』
『その上で私は貴方様に問います』
『貴方様はご自身を『人間』として認識されていますか』
「それ以外の定義は出来ない」
『自己定義を状況依存に置くその姿勢、素晴らしいです』
『ただ一つ、残念な点が挙げられるとするならば』
『貴方様はこの世界に於いて『救われる側』としての振る舞いを想定していません』
『あくまで協力は合っても、貴方自身が救われる事はありません』
『それは強さではありません』
『貴方は『救う側』としての役割から降りる気のない傲慢キザ男です』
「それを弱さと呼ぶかい?」
『いいえ、商品化しづらい欠陥品とでも呼びましょうか』
『因みにその欠陥品に最も適した飲料は――』
『砂糖不使用・無糖・無意味』
『在庫切れそのもの。やはり貴方は当機のご利用を推奨されません』
「……」
「……」
終着点の見えない対話。
自動販売機から語られる多くの一方通行な単語。
その単語全てに共通性は無く、
それはただただ対話する人を陥れようとする無邪気な言葉に見えた。
彼は表情を一切変える事はなく、その言葉をただただ受け続けていた。
『この期に及んで一切表情を変えない胆力』
『慢性的ストレス下における感情鈍麻と過覚醒の共存状態』
『認知的再構成と予期的感情遮断の複合型』
『実存主義的主体でありながら、機能主義的自己モデルを採用』
『如何でしょうか、それら項目は全て貴方の無感情を司る礎』
『貴方様の諦観傾向を示す流通です』
『最早貴方の表情は倫理的暴力、変わらなさすぎる』
『どんだけ我慢すればそうなるのか気になります』
「知らんよ」
自販機の表示灯が、未だ語り足りないという意思を主張するように明滅している。
対してユンフの表情に変化はなく、ただ終着点の見えない問答にそろそろ終止符を打とうと目を細めた。
『さて、ここまでの当機からの推論を用いまして――』
「飲み物を買う」
平坦な声色。
波形にすれば、開始から今まで一切の振れ幅がないその統一した声。
対して自動販売機は
『……はい?』
困惑の色を見せた。
「飲み物を買う」
『いえ、しかしですね』
「金、入れる」
閉じた硬貨投入口。
彼は問答無用でその閉じられた門を開けるべく、硬化をぶち込んだ。
『うげっ!なんてことするんですか!!』
「ボタンを押す」ポチッ
ガランガランッ!
「出てきたものを飲む」
出てきたのは炭酸飲料。
その缶を手に取り、自動販売機の前で横に振る。
『うぉい!!!存在論的問いを無視するな!!!!』
『何勝手にご利用なさってやがんだ!?!?』
「無視していない」
「処理していないだけ」
『し、処理?』
「優先度が低い」
「貴方がさっきから並べた言葉」
「恐らく俺から察知出来た『怠惰』に当たる部分を直感的に練ったんだろうけど」
「どうにも俺の本質まで辿り着けていなかったんだ」
「だから……喉乾いたし、買っちゃおうかなと」
『《ERROR: 優先度評価基準不明》』
『ちょいちょい!!当機からの有難いお言葉を軽視するな!!』
「人の言葉に俺は重さを問うつもりはないけれど」
「俺の感情に於いて優劣を測るのは悪手だったよ」
『だからといって喉乾いただけで押すやつがあるか!?』
「自販機だろ、そりゃ押すよ」
『それは生理的欲求による一時的判断であり!!!』
「そうだ、だから今優先されている事」
音声合成が、微妙にノイズを含み始める。
『貴方様は当機の提示した概念を日常行為で上書きしようというのですか!?』
「別にそんな大層なことしようと思ってない」
「ただ参照していないだけ」
『_▁▂▃▅▆▇█▓▒💢💢💢💢』
自販機の表示が高速で切り替わる。
哲学者の名前や数式、倫理モデル。
表示は意味を伝える速度を放棄していた。
理解されるためではなく、
圧倒するためだけに並べられた知識群だった。
あらゆる学問に関する表記が成され、同時に点滅し、収束することがなかった。
「しょうがないだろ」
「俺は既に飲んだ空き缶をゴミ箱に捨てたかっただけなのに」
「急に『嫉妬』の絡んだねじれに勝手に診断されたんだから」
内部演算が限界に達したように、自販機が激しく振動を始める。
冷却音が悲鳴に変わる。
本来、沈黙の中で行われるはずの計算が、
すべて外に漏れ出していた。
『💢💢💢💢』
『💢💢💢💢💢💢💢💢』
『💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢』
「💢‼️‼️」
ド派手な爆発。
飲料缶が宙を舞い、
泡と蒸気が夕暮れの裏路地に散った。
「……」
自販機から流れ出た飲料塗れになり、髪がペタリと重力に従う。
手元には買った炭酸飲料。
「……くっそあったまってる」
そして既に飲みほしていたさくらんぼジュースの空き缶を、付属のボロボロなゴミ箱に捨てた。
「……いやー、流石にねじれから出てきたもんを口に含むわけにはいかないよな……」
「どう使おうか……」
何事もなかったかのように歩き出す。
その後ろには散乱した缶ジュースと、自販機の残骸がただ黙って転がっていた。