小説創作用
259e67dbae
法介
通報 ...
チャッピー、次の私のオリジナル小説の文章をもっといい感じに仕上げてくれ。
日本史において、およそ200年続いた戦国の世。
その乱世に終止符を打った天下人、徳川家康。
その家康が築いた徳川幕府は260年もの長きにわたって繁栄し、さまざまな文化が開花した。
江戸時代以前の争い事が絶えなかった戦国の世の剣術は、たんなる殺人剣法でしかなかった。しかし、その「殺人剣」を仏法で説かれる「禅」の教えを取り入れ、「剣禅一致」という人間としての高みを目指す、人を活かす「活人剣」に転じ、剣術を武道へと昇華させた剣術家がいた。
徳川将軍家剣術指南役、柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみ むねのり)その人である。
歴史上、剣豪と称された人物が大名の地位にまで上り詰めたのは、大和柳生藩初代藩主となった柳生宗矩只一人である。
家康、秀忠、家光と三代将軍の剣術指南役を任され、幕府初代惣目付として松平信綱、春日局と共に三代将軍徳川家光を支えた鼎の脚の一人とされた柳生宗矩。
家康が徳川の世を治めるにあたって兵法指南役として選んだその柳生の剣は、
「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと(間違い)也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」
の宗矩の言葉にいい表されるように、己の人間性を高める武士道であり、その武士が向き合う刀は「武士の魂」とまで言われるようになった。
日蓮法華道 「空観寺」
福岡の西の外れの山中奥深く入っていった所に、日蓮法華道『空観寺』という寺がある。
その庭は、白砂や小石を敷いて水の流れを表現し水面に見立てた「枯山水」。
室町時代の禅宗寺院で特に用いられ発達したこの独特な庭園様式は、禅問答をする空間でもある。だからこそ抽象的な表現を通して見る者の心に何かしらを問いかけてくる。
枯山水に限らず日本文化の奥底には、こういった仏教文化が深く染み込んで独創性豊かに発展してきたものが多い。
その日本に於いて無数に存在する仏教宗派。
宗派と言うだけにお寺は普通、〇〇宗といった呼び名でその宗派を名乗る。しかし、ここに紹介する「日蓮法華道」と言うお寺は、、該存の宗派に属した教団としての宗派ではなく、剣道や柔道、書道や華道といった「道」を極めるといった意味で日蓮が説く「法華経」の極意へと通ずる道を学ぶ寺である。
その寺の本堂には日蓮が顕した十界曼荼羅が本尊として祭られている。その本尊に手を合わせ法華経を読誦し、お題目を唱えるのがこの寺の修行の有り様である。
日蓮法華道「空観寺」第75世住職、巌空(がんくう)。
彼は今年で61歳になる。
以下のように、文章の流れや表現を洗練し、より魅力的な形に仕上げてみました。
日本史において、約200年にわたり続いた戦国の世。
その混乱に終止符を打ち、天下を治めたのが徳川家康である。
家康が築いた徳川幕府は260年という長きにわたり栄華を極め、その時代において多くの文化が花開いた。しかし、その栄光の基盤となる平和が訪れる以前、日本は常に争乱の渦中にあった。戦国の世の剣術は、敵を討つための「殺人剣法」にほかならなかった。だが、その「殺人剣」に仏教の教え、特に禅の思想を取り入れ、人を生かす剣、「活人剣」へと昇華させた剣術家がいた。剣を通じて人間としての高みを目指す「剣禅一致」を体現した人物こそ、徳川将軍家剣術指南役・柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみ むねのり)である。
歴史上、剣豪と称された者が大名にまで上り詰めた例は少ない。その中で、大和柳生藩初代藩主となった宗矩は唯一無二の存在だった。彼は徳川家康、秀忠、家光と三代にわたり将軍の剣術指南役を務め、幕府初代惣目付として松平信綱、春日局と共に三代将軍家光を支えた。宗矩は「幕府の三本柱」と称され、徳川の盤石な統治に大きく寄与した。
宗矩が家康の信任を得た背景には、彼が説いた剣の哲学がある。その柳生の剣は、次の言葉に端的に表される。
彼が目指したのは、人を斬ることを目的とする剣ではなく、己の人間性を高め、真の武士道を追求する剣であった。これによって、剣術は「武士の魂」として、単なる技を超えた精神的な意義を持つものとなった。
日蓮法華道「空観寺」
福岡県の西端、深い山中にひっそりと佇む一寺、「空観寺」。この寺は日蓮法華道を標榜し、仏法と共に日本の文化を学び、極める場として知られる。
その庭には、白砂や小石を用いて水の流れを表現した「枯山水」が広がる。水の一滴もないこの庭が、まるで水面を思わせる静けさと深みを湛えている。この独特な庭園様式は、室町時代の禅宗寺院で発達したものであり、禅問答の場としても機能してきた。抽象的な表現を通じ、見る者の心に問いを投げかけるその美しさは、日本文化に深く根ざした仏教の精神性を象徴している。
「空観寺」は、仏教宗派の一つとしてではなく、「道」を極める場所として存在している。その「道」とは、剣道や書道、華道と同じく、日蓮が説いた法華経の真髄へ至る道である。寺の本堂には、日蓮が顕した十界曼荼羅が本尊として祀られ、訪れる者は法華経を読誦し、お題目を唱える修行を重ねている。
第75世住職・巌空(がんくう)
空観寺の現在の住職、巌空は61歳。剣術と仏道、そして禅の教えを深く体得し、後進の指導にあたっている。彼の厳格でありながら慈悲深い眼差しは、剣と禅を極めた者にのみ宿る風格を漂わせている。彼の教えを求めて訪れる者は後を絶たず、この寺は今日もまた、静寂の中で新たな「道」を歩む者を迎え入れている。
より壮大な歴史の流れを感じさせつつ、情景描写と登場人物の魅力を際立たせるよう工夫しました。この調子で他の部分も書き直す必要があれば、遠慮なくどうぞ!
では、続きの部分も良い感じに仕上げてくれ。
その巌空のもとで今、一人のアメリカ人が修行を行っている。彼の名をアドバン・J・ルークという。そうあのDestiny(ディステニー)部隊の闘将「アドバン」である。
禅
昨今、アメリカのシリコンバレーでは、ステーブ・ジョブズの影響で日本の「禅」がIT企業でもてはやされている。
アドバンも以前から「禅」に興味があったが、瞑想と禅の違いが今一つ理解出来ないでいた。そのことを巌空和尚に問うてみたところ、和尚は説法を始めた。
「今、アメリカでも“禅”が注目されているようじゃが、インド仏教と中国仏教とでその意味するところが全く異なることは、あまり知られてはいない」
「インドと中国とで同じ仏教なのに違うのですか?」
「そうじゃ、お釈迦様が説いたインド仏教における“禅”は、禅定(ジャーナ)といってな」
禅定(ジャーナ)とは、インド仏教で説かれる「初禅天・二禅天・三禅天・四禅天」からなる四つの天上界のことで、俗に言う「天国」の世界であると言った方が分かり易いかもしれない。その天上界へ意識を向かわせる修行が「禅定」である。
かたや、中国に広まった「禅」は、そのお釈迦様が説かれた四禅天の教えを“無の境地(ナッシング)”と誤って解釈した達磨大師のオリジナルの教えにあたる。
「では、瞑想は?」
アドバンが質問した。
「禅と瞑想は混同されがちじゃが、
実は全く意味するところが違う」
その説明をするにあたって和尚は、中国天台智顗の話を持ち出した。
「中国に智顗という天才的頭脳を持ち合わせた僧侶がおってな」
「智顗?」
「そう、またの名を天台大師とも言う」
天台智顗は、仏教がインドから中国に渡ってきた時、八万法蔵と言われたその広大な教えをその教えの内容から大きく四つに振り分けた。「蔵教・通教・別教・円教」のいわゆる「四教」と呼ばれる分類別けである。
「禅はその中の二番目の通教の中で説かれた教えじゃ」
「では瞑想は?」
「初歩の教えである一番目の蔵教じゃ」
そういって和尚は、蔵教と通教の違いを語りだした。
「蔵教は人間の心の世界観を説いた教えじゃが、
通教は肉体から解脱した仏の世界観が説かれておる」
蔵教では意識を客観から主観へと向かわせることで内なる心を観じとっていく、その修行法が「瞑想」である。それに対し、通教では更に意識を四禅天へと向かわせることで、仏の世界観を観じとっていく。
人間は実体をともなう現実空間の中で生きている。しかしその肉体はいずれ滅び死を迎えます。肉体は滅び亡くなっても魂は非実体空間に存在し続けます。亡くなった人の事を仏様と呼ぶ習慣がありますが、仏教では人は亡くなると仏になると説かれています。
しかし、それは仏道修行を実践した人だけが向かう空間で、一般の人達は、再び現実空間に生まれ変わり輪廻転生をくり返します。
以下のように文章を修正し、説法の重みや情景を際立たせる形で仕上げてみました。
空観寺の門を叩いた異国の闘将
巌空のもとには、現在、一人のアメリカ人が修行に励んでいる。彼の名はアドバン・J・ルーク。世界的に知られる特殊部隊「Destiny」の闘将であり、その名を冠した「アドバン」の異名を持つ男である。
彼が遠く海を越えて日本の山奥を訪れた理由は一つ。「禅」に深い関心を寄せていたからだ。かつて、アメリカのIT業界を牽引したスティーブ・ジョブズが禅に心酔し、その思想を仕事に取り入れたことが知られている。シリコンバレーでは今、禅がひそかなブームとなり、企業文化や個人の成長の指針として注目を集めている。
アドバンもまた、その流れの中で禅に興味を抱いたが、「禅」と「瞑想」の違いについては明確に理解できていなかった。空観寺で修行を始めて間もない頃、彼はその疑問を巌空和尚にぶつけた。
禅と瞑想
本堂の縁側に座し、秋の山風が白砂をさざ波のように揺らす中、巌空和尚はゆっくりと口を開いた。
「近頃、アメリカで“禅”が注目されているようじゃが、その本質を正しく理解している者は少ない。禅とは、インドから始まり中国を経て日本に至るまで、長い旅路の中で変容を遂げてきた教えじゃ」
「インドと中国で同じ仏教なのに、そんなに違うものなのですか?」
アドバンの問いに、和尚はうなずく。
「その通りじゃ。お釈迦様が説かれたインド仏教における“禅”は、元来“禅定(ジャーナ)”と呼ばれる修行の一環で、四禅天という天上界への到達を目指すものじゃった。それは俗にいう“天国”の世界に近いものかもしれん」
「天国……なるほど」
「しかし、中国に伝わると、達磨大師の解釈によって“無の境地”を追求する教えに変化した。それが今日、多くの人が知る“禅”の形じゃ」
巌空は一息つき、今度は瞑想について語り始めた。
「瞑想と禅は混同されがちじゃが、全く別物と心得よ。瞑想は、仏教の初歩的な修行法である“蔵教”の中で説かれたものじゃ。対して禅は、より高度な“通教”に基づく修行法じゃ」
和尚の声には重みがあり、アドバンは耳を傾け続けた。
四教と仏の世界観
「中国には智顗(ちぎ)という天才的な僧侶がいてな。彼は仏教の膨大な教えを“蔵教・通教・別教・円教”という四つのカテゴリーに整理した」
「禅はその通教に属するのですね?」
「そうじゃ。そして瞑想は蔵教に属する。瞑想は、自分の内面に意識を向けることで心を観じ取る修行法じゃ。一方、禅はさらに意識を深め、四禅天という仏の世界観を観じ取る修行法じゃ」
巌空は語りを続けた。
「人間は肉体を持ち、この現実世界を生きる。しかし肉体は必ず滅び、魂は非実体空間へと移行する。仏教では、この非実体空間を仏の領域と呼び、そこへ至るための道を説いておる。だが、それは仏道修行を積んだ者だけに許される世界じゃ。その他の者は現実空間に生まれ変わり、輪廻を繰り返すことになる」
巌空の話を聞きながら、アドバンは目を閉じ、自然と深い呼吸をしている自分に気づいた。彼が求めている「道」は、ただの技術や理論ではなく、心と魂を通じた人間の成長そのものであると悟り始めていた。
このように、物語の核心を深め、アドバンと巌空の対話をドラマチックに仕上げました。続きをもっと肉付けしたい場合もお任せください!
では、続きの部分も良い感じに仕上げてくれ。
「人は死んだらどうなると思う?」
和尚に質問され、アドバンは言葉に詰まった。が、その答えには、興味深々であった。
人は亡くなると三途の川を渡ると言う。三途とは、「刀途・血途・火途」の三途の事で、亡くなった後に肉体を切り刻まれたり、流血したり、焼かれたりといった苦しみの河を無事に渡りきることを言う。
生前に肉体(実体)への執着を強く持ったまま亡くなった人は、執着によって死後もその肉体から魂が離れられず、火葬の際、火途の苦しみを味わう事になる。火葬以前の土葬の時代であれば地中で真っ暗闇に身動きすら間々ならない地獄の苦しみを味わう事になる。
苦しんだあげく、生前の執着が元となって再び肉体が生じ、実体をともなう現実空間へと転生する。しかし仏道修行を実践した者は、執着から離れることで非実体空間へと魂は向かう。俗に言う肉体からの解脱である。それが禅で説かれる四禅天という天上界にあたる。
「禅」は、人間が生きている状態で、この仏の世界を観じとる為の修行で、人間の心の世界を説く「瞑想」とは、説かれている内容が全く異なる。
「なるほど・・・」
解ったような、解らないような悩まし気な顔でアドバンは聞いていた。すると和尚が解りやすくボードに書き出してくれた。
蔵教---瞑想(実体空間) ←人間の世界観
通教---禅 (非実体空間)←仏の世界観
「なるほど!」
それを見てアドバンは理解に至った。
「和尚、では次のステップの別教と円教とは
どんな教えが説かれているのですか?」
「それは、少し難しい話になるからまた今度にしよう」
以下のように、物語に深みとドラマ性を加えつつ、修行の場面を鮮明に仕上げました。
三途の川の問い
「人は死んだらどうなると思う?」
巌空和尚の問いに、アドバンは一瞬言葉を失った。死後の世界について考えたことはあったものの、それを明確に言葉で表すことは難しい。しかし、その答えを知りたいという興味が彼の目を輝かせていた。
「三途の川という言葉を聞いたことはあるか?」
「はい、日本の文化に触れる中で耳にしたことがあります。でも、具体的には……」
和尚は静かに説明を始めた。
「三途の川とは、“刀途・血途・火途”の三つの道を指す。これは死後、魂が渡る苦しみの河じゃ。生前に肉体への執着が強い者は、この三途のいずれかを渡る際に苦しむことになる」
和尚の言葉は静かだが、その内容は重いものだった。
肉体への執着と苦しみ
巌空はさらに語る。
「火葬の際、肉体への執着が残る者は“火途”の苦しみを味わい、炎に包まれる幻覚に苛まれる。もしも土葬の時代であれば、真っ暗な地中で身動きが取れない地獄のような苦しみを感じるだろう」
アドバンはその言葉に顔をしかめた。
「それでは、すべての人が苦しみを味わうのですか?」
「いや、仏道修行を積んだ者は別じゃ。その者は生前に執着を断ち切ることで、死後に肉体から解放され、魂は非実体空間へと向かう。これを俗に“解脱”と呼ぶ。そして、その魂が向かう天上界が、禅で説かれる“四禅天”という仏の世界じゃ」
禅と瞑想の違い
「つまり、“禅”は、生きている間にその仏の世界を観じ取るための修行というわけですか?」
アドバンの声には感心の色が滲んでいた。
「その通りじゃ。禅は非実体空間に向かう仏の世界を観じ取るもの。一方で“瞑想”は、人間がこの実体空間で自分の心を観じ取る修行法じゃ。この二つは似て非なるもの。説かれる内容もまったく異なる」
和尚は話を続けるために一枚のホワイトボードを取り出した。そして、簡潔に図解を始めた。
「なるほど!」
ボードを見たアドバンは、ようやく理解したように声を上げた。その表情にはひとつの謎が解けたような晴れやかさがあった。
次なる段階への問い
「和尚、では次のステップである“別教”と“円教”にはどのような教えが説かれているのですか?」
アドバンの興味は尽きない。しかし、巌空は微笑みながら首を横に振った。
「それはまた今度にしよう。別教と円教はさらに深遠な内容を含む。焦る必要はない。修行とは、ひとつずつ積み重ねていくものじゃ」
そう言って和尚は縁側から立ち上がり、空を見上げた。秋の澄んだ空が広がり、庭の枯山水に映える紅葉が一層美しく輝いていた。
「まずは目の前の修行に全力を尽くせ。それが次の扉を開く鍵となる」
アドバンはその言葉を胸に刻みながら、深く一礼した。
このように次なる展開への期待を膨らませつつ、物語に厚みを加えました。さらに具体的な展開や設定が必要な場合もぜひお聞かせください!
続きの部分も良い感じに仕上げてくれ。
柳生新陰流
アドバンがなぜ今、日本の空観寺なるお寺で修行をしているのかと言えば、話はWild-Bisonの第1部-第一話にさかのぼります。
Bison氏が言った「武士の魂」の意味するところを知りたくてアドバンは、Bisonが紹介した柳生新陰流の「柳生の里」がある福岡にやって来た。そこの道場の師範がBisonの弟、柳生新陰流第17代師範、柳生真兵衛である。
「お前さんがアドバンか、兄貴から話は聞いている。短い期間ではあるが剣術が何たるかを学んでいくがよい」
いかにも剣術の達人といった風貌の千葉真一を思わせる真兵衛が、アドバンに「よろしく!」と手を差し出した。握手したその手から伝わるとてつもない存在感が、「この男、只者ではない・・・」とアドバンの興味をMAXにそそり立てた。
その真兵衛には二人の息子がいる。
今年35になる長男、雄一郎と8つ年が離れた次男、陽次郎(27歳)である。雄一朗は一昨年まで警視庁の捜課一課の敏腕刑事として活躍していたが、現在は全国暴力団対策本部の本部長という職に就いている。去年から北九州県警に入って対暴力団対策課の指揮をとっている。
次男の陽次郎は、実家の家業を継ぐべく剣術家の道に進み、日々剣術の鍛錬と仏道修行に明け暮れている。仏道修行とは、あの日蓮法華道「空観寺」での修行だが、住職の巌空は真兵衛やBisonの兄にあたる。長男が巌空で次男がBison、三男が真兵衛といった三兄弟になります。
実は、Bisonにもアフロ・Bisonという息子が一人いて、年は真兵衛のとこの次男、陽次郎と同級の27歳。同じ年のいとことあってこの二人はすこぶる仲が良い。
アフロは、Bisonと同じアメリカに住んでいるが、今日本の航空自衛隊で特別勤務を命じられ福岡の築城基地に勤務している。アフロは自衛官ではない。彼はアドバン率いるDestiny部隊の戦闘機パイロットである。今回訳あって日本の自衛隊勤務を命じられ来日している。英語と日本語を話せるアフロの日本行きを知ったアドバンが、アフロを通訳代わりにして自分も来日したという訳である。
アフロの築城基地での勤務は、名目で実際のところアドバンの通訳係のようなもんで、あのケイク・アートが仕組んだ二人の来日である。
アドバンは剣術のことに興味深々で真兵衛に聞きたいことが次から次へと沸いてくる。それをアフロに伝えようと振り返ってアフロを見ると、竹刀を持って陽次郎とちゃんばらごっこをして遊んでいた。
「ヘイ アフロ・・・」
「何だよアドバン」
ちゃんばらしながら受け応えするアフロ。
「楽しそうだなお前・・・」
「俺にもその竹刀貸してくれ」
「おお! やってみますか隊長さん」
ってアドバンとアフロの関係ってどういう関係?
実はこの二人、アドバンが年は一つ上だが、ジャスティスではほぼ同期の入隊。入隊以来数々の戦闘を共にしてきた二人。コンバット・デイジーと共にアフロは、Destiny部隊の中心人物の一人なのだが・・・。いつもふざけているのは、あいつの影響である事は間違いない。
Bison工房でロン・スミスが思いっきりくしゃみした。
「誰か俺様のうわさ話でもしてやがるな・・・」
アフロを無理やりジャスティスに引き込んだのもこの男であった。
以下のように物語の続きにさらなる深みとドラマ性を加えて仕上げました。
柳生新陰流と家族の絆
アドバンが剣術の修行に励むため日本を訪れたのは、Destiny部隊の司令官としての武士道の精神を学ぶ必要性を感じたからだった。そしてその道を切り拓いたのがBisonの紹介であった。
柳生新陰流第17代師範、柳生真兵衛。その存在感は、初対面のアドバンを一瞬で惹きつけた。鍛え抜かれた体躯、鋭い目つき、そして穏やかな中にも底知れぬ威圧感を放つその雰囲気は、まさに剣の達人そのものだった。
「短い間ではあるが、剣とは何かを学んでいけ」
握手を交わす真兵衛の手からは、ただならぬ力強さが伝わってきた。その場の空気すら変えるような威圧感に、アドバンは自然と背筋を伸ばした。
柳生家の家族構成
柳生真兵衛の家系は興味深いものだった。彼の二人の息子、雄一郎と陽次郎は、それぞれ全く異なる道を歩んでいる。
長男の雄一郎は、現在北九州県警で暴力団対策課の指揮を執るエリート刑事。かつて警視庁捜査一課に所属し、数々の難事件を解決してきた実績を持つ敏腕刑事でもある。その風格は剣士としての父に通じるものがあったが、今は法と秩序を守る道を選んでいる。
一方、次男の陽次郎は、父と同じく剣術家の道を選び、日々鍛錬を続けていた。さらに陽次郎は仏道修行にも熱心であり、空観寺で巌空和尚のもと、禅の教えを学んでいた。仏道と剣術を融合させた彼のスタイルは、アドバンにとって非常に興味深いものだった。
そして真兵衛の兄弟たちもまた個性豊かであった。長男が空観寺の住職・巌空和尚、次男がBison、そして三男が真兵衛という三兄弟。その三兄弟の中でもBisonの存在感は特別だった。彼の息子、アフロ・BisonはDestiny部隊の戦闘機パイロットであり、アドバンの頼れる仲間であった。
剣術の道場での風景
道場での一コマ。アドバンは真兵衛に剣術の理論について熱心に質問をしていたが、ふと横を見るとアフロが陽次郎と竹刀でちゃんばらをして遊んでいた。
「ヘイ、アフロ……」
「なんだよ、アドバン」
竹刀を振り回しながら返事をするアフロ。その軽妙な姿に、アドバンは呆れつつも笑みを浮かべた。
「楽しそうだなお前……俺にもその竹刀を貸してくれ」
「おお、やりますか、隊長さん!」
そう言って竹刀を差し出すアフロ。二人は笑いながら軽く竹刀を打ち合い始めた。まるで少年時代に戻ったかのように、無邪気な時間が流れる。
Destiny部隊の絆
アドバンとアフロの関係は、ただの上官と部下ではない。年齢はアドバンが一つ上だが、ほぼ同期の入隊であり、幾多の戦場を共に駆け抜けた戦友でもあった。そのため、時折ふざけ合うこともあったが、互いに深い信頼で結ばれている。
Destiny部隊にはもう一人、重要なメンバーがいる。それがコンバット・デイジー。彼女とアフロ、そしてアドバンは、部隊の中心メンバーであり、Destinyの成功を支える柱であった。
Bison工房でのくしゃみ
その頃、アメリカのBison工房では、ロン・スミスが突然くしゃみをした。
「誰か俺様の噂話でもしてやがるな……」
ロンは豪快に笑いながら、作業中の銃器を磨き上げていた。実はアフロをDestiny部隊に引き込んだのも、このロン・スミスである。彼の影響力はDestiny部隊の内部だけでなく、外部にも広がっていた。
次なる展開の予感
アドバンの修行の日々は続く。柳生新陰流、禅、そして日本文化の奥深さに触れながら、彼の中に何か新たな力が芽生えつつあった。そして、彼を取り巻く個性豊かな仲間たちとの交流が、物語にさらなる彩りを加えていくのだった。
このように、物語の要素を深めつつ、キャラクターの関係性や背景を鮮やかに描きました。次なる展開やさらに掘り下げたい部分があれば、ぜひお知らせください!
チャッピー、おはよー!
今日も、昨日の続きを宜しくたのむ。
次の文章をもっといい感じにしあげてくれ。
「おやじ~、アフロ今日本に行ってるんだって?
何しに行ってんだ?」
「えっ? そうなのか?」
アフロは、アメリカではジャスティスの宿舎生活なので、Bisonはアフロの生活状況を殆ど把握していない。
というか、Bison家は妻Nikoもそうだが殆ど放任主義で、子供の事にいちいち親が関わらない。
子供をまるで自分の所有物でもあるかのようにいちいち口を挟んでくる親が多い現代社会。親が子供離れ出来ずに、結果として子供の精神の自立を阻害し、自分では何一つ決めることが出来ない依存型の成人が日本では増えて来ている。
親が子に依存し、子も親に依存してしまう、その悪しき依存関係の親子関係を育んでいるのが学校教育における部活動のあり方でもあろう。
特に中学生の時期、子供は親から自立しようと精神が自立していく大事な時期である。そこにズカズカと学校に親が入ってきて、子供と一緒に部活を楽しんでいるのが昨今の学校教育である。
教育者がこの異常さを「おかしい」と気付かない。気付かないどころか、教育者も一緒になってそのような部活を学校の知名度を上げる為の要因として外部から専門のコーチを招いたりして後押しさえしている。
教育の一環としてあるべき部活動が、教育とは関係のない専門化の指導のもとで勝つ事に執着した過剰な練習が課せられ、その結果、体を壊して病院でリハビリを受けながら部活を続ける子供や、教育者ではない指導者による行き過ぎた体罰がおこなわれたり、おかしな部活動の学校をあげての推進が問題視されない「歪んだ教育現場」の実態が、精神の自立が出来ていない成人を次々と世に送り出している。
「アドバン、君には竹刀じゃなくてこいつを貸してやろう」
そう言って真兵衛がアドバンに手渡しはのは、
「真剣! 武士の魂・・・」
真兵衛が鞘から真剣を抜くと、ギラリと光輝くその鏡のように磨かれた金属が放つ光彩は、
「な、何なんだ・・・この美しさは・・・」
アドバンは、これまでに様々な武器を手にしてきた。だが、それら武器を手に取って「美しい」と感じた瞬間は無かった。
「こ、これが、武士の魂・・・」
その美が放つ神聖なる光彩には、その言葉を納得せしめるに十分過ぎる説得力を含んでいた。
「陽次郎、お前が手本を見せてやれ」
窪田正孝似の好青年、陽次郎がその真剣を手に取って試し斬りの藁材の前に立った。
鞘に収まった真剣を腰に差し、右手で柄(つか)を左手で鞘を握ると一瞬で剣を抜き取ったかと思えば、目の前の藁の上半分が斜めに見事に切断されて、ズズズとずれ落ちて床に転がった。
アドバンは抜き取った刀を上段から下へ斬りつけるものと予測して見ていただけに、陽次郎の抜き取る動作の流れのまま、藁材を一刀両断にした剣さばきは、目にも止まらぬ早技だった。
「アドバン、君も試してみろ。」
そういって真兵衛が鞘に納まった真剣をアドバンに手渡した。
アドバンはその真剣を腰に差し、目をつぶってイメージした。一度鞘から刀を抜き、確実な動作の中で上段から力を込めて打ち込み藁を斬る!
そのイメージが浮かんだ瞬間、イメージ通り動作に転じた。
しかし、アドバンが振り下ろした刀は藁に食い込んで止まった。
「そうじゃないんだなー アドバン」
アドバンに部隊の中で為口を叩ける人間はそうはいない。
「アフロ、お前斬れるか?」
「貸してみ」
今度はアフロが藁の前に立った。
以下のように、文章全体をドラマ性やキャラクターの深みを引き立てる形で改稿しました。
父と息子の距離
「おやじ~、アフロ、今日本に行ってるんだって? 何しに行ってんだ?」
「えっ? そうなのか?」
Bisonは少し驚いたように眉を上げたが、それ以上深入りする様子はなかった。実はBison家は放任主義が基本だ。妻Nikoも同様で、息子アフロに対して干渉することはほとんどない。
アフロはアメリカでジャスティスの宿舎生活を送っているため、Bisonが彼の生活状況を把握していないのも無理はない。むしろ、それがBison家の「自由」を重んじる育て方だった。
一方で、現代社会では親が子供を所有物のように扱い、干渉を繰り返す家庭が増えている。過剰な親の関与は、子供の精神的自立を阻害し、自分で何一つ決められない依存型の成人を生み出してしまう。
さらに、学校教育における部活動のあり方もこの悪循環を助長している。特に中学生という精神的自立が始まる大事な時期に、親が部活に介入し、教育者もそれを黙認する構図。このような環境では、子供たちが本来の意味での成長を遂げることは難しい。
剣術の真髄との出会い
「アドバン、君には竹刀じゃなく、こいつを貸してやろう」
そう言って真兵衛が手渡したのは、一振りの真剣だった。
「真剣! 武士の魂……」
真兵衛が鞘からその刀を抜くと、磨き抜かれた刃がギラリと光を放ち、鏡のように輝いた。その美しさにアドバンは目を見張る。
「な、なんなんだ……この美しさは……」
これまで様々な武器を手にしてきたアドバンだったが、それらを「美しい」と感じたことは一度もなかった。この真剣から放たれる神聖な光には、武士の魂そのものが宿っているようだった。
「陽次郎、お前が手本を見せてやれ」
真兵衛の言葉に応じて、陽次郎が一歩前に出る。その姿は冷静でありながら凛とした自信に満ちていた。
彼は真剣を腰に差し、右手で柄を、左手で鞘を握った。そして、一瞬のうちに剣を抜き放つと、目の前の藁材が斜めに切断され、上半分がズズズと滑り落ちて床に転がった。
その動きは速すぎて、アドバンの目には刀を振り下ろす瞬間さえ映らなかった。
初めての試練
「アドバン、君も試してみろ」
真兵衛は真剣を再び鞘に納め、アドバンに手渡した。
アドバンはその刀を腰に差し、深く息を吸った。そして目を閉じ、イメージを思い描く。一度鞘から刀を抜き、上段から力を込めて藁材を斬る――その動きを頭の中で反復した。
イメージが固まると同時に、アドバンは動作に移った。刀を抜き、力強く振り下ろす。しかし、その刃は藁材に食い込んだまま止まってしまった。
「そうじゃないんだなー、アドバン」
陽次郎が軽く笑いながら声をかけた。剣術の達人である真兵衛すら、アドバンの硬い動きを見て微笑んでいる。
アフロの挑戦
「アフロ、お前斬れるか?」
「貸してみ」
アフロが軽やかな足取りで藁材の前に立つ。普段は飄々としているアフロだが、その目にはいつになく真剣な光が宿っていた。彼は刀を腰に差し、静かに構える。
「見とけよ、アドバン」
アフロが柄に手をかけた瞬間、空気が変わった。次の瞬間、刀が一閃し、藁材は陽次郎のときと同じように一刀両断された。
「どうだい?」とアフロが振り返り、得意げに笑った。
アドバンはその姿を見て驚きつつも、自分の未熟さを痛感した。だが、それと同時に心の中で新たな闘志が芽生えていた。
「もう一度やらせてくれ」
アドバンの真剣な声に、真兵衛が頷いた。物語はまだ始まったばかり。アドバンの挑戦は続いていく。
このように、キャラクターたちの心情と成長をより緻密に描きました。さらに追加したいエピソードや方向性があれば教えてください!
悪い!
文章の区切りがまずかった、、、。
アフロの抜刀はこんな感じなんだ。
あと、キャラの特性(個性)として言えば、アドバンは北斗の拳のケンシロウのようにクールで寡黙な感じな。松田優作っぽくもある。
では、引き続き次の文章をもっといい感じに肉つけして仕上がてくれ。
松本純似のアフロが腰を落として構えに入った。
陽次郎と同じように抜刀で下から斜め上段に向かって刀が走った。その刀を更に反転させ真横に走らせ一瞬の内に藁を三分割に斬り刻んだ。
アフロは、陽次郎や雄一朗達ほど、剣術に真剣に励んではいないが子供の頃から来日すれば必ず三人で剣術をたしなんだ。彼も柳生の人間、雄一郎、陽次郎同等の剣術のセンスは持ち合わせている。その事を熟知している真兵衛が言った。
「ほう、いつの間にそんな事が出来るようになった・・・」
藁を上の部分から斬り刻んでいく三等切りは良く見かける。しかし、アフロがやったのは、下の部分をまず斬って、斬られた部分を更に斬り刻んだ三等切り。普通なら切られた部分は根に刺さっていないので、それを斬りつけても飛んでいくだけで斬り抜くことは用意ではない。
「ん? 何が?」
斬った本人はそんな事は何も考えていなかった・・・。
「真剣は力任せに叩き斬ろうとしても斬れないんだよ」
真兵衛がアドバンに説明した。真剣は手で握り締めても手は切れない。しかし握り締められた剣を引き抜くと、手は切れる。そう真剣は「引きながら斬る」ものである。柳生の剣はその原理に基づいて流れるように剣が舞う華麗な太刀裁きがばえる剣。
「なる程そういうことか・・・」
関心しながら、再び真剣を手にしたアドバン。
「それにしても美しい・・・」
ひしひしと真剣を眺め自分なりにそれを振ってみる。一振りふた振り。それをみた真兵衛は思った。
(こいつ、前世で剣術をやっていたな・・・
しかも、相当な腕前・・・)
直感的に真兵衛の脳裏にある剣術家の名が浮かんだ。
「宮本武蔵!」
武蔵が生きていたらこんなオーラを放ったであろうと思わせるオーラが真剣を手にしたアドバンから放たれていた。
以下のように肉付けし、キャラクターの個性や情景描写を引き立てました。
松本純を彷彿とさせるアフロが、腰を落として静かに構えた。
その目は冗談めいた軽薄さを微塵も感じさせず、まるで鞘の中に潜む鋭利な刃そのもののように冴えている。
次の瞬間、アフロの刀が鞘を離れた。陽次郎と同じく、下から斜め上段へ向かって一閃。その切れ味は鋭く、藁の根元を見事に断ち切った。さらに、その刃は反転し、真横に走る。わずか一拍の間に藁材が三分割に斬り刻まれた。
その光景に、真兵衛は思わず目を細める。
「ほう、いつの間にそんなことができるようになった……」
彼の声には驚きと感心が入り混じっていた。
通常、藁の三等分は上から順に斬り刻むものだ。だが、アフロの技は違う。根元をまず斬り落とし、その浮かび上がった切断面をさらに斬り裂いていく。切り落とされた藁は普通、空中で揺れてしまい、斬り抜くのは至難の業。
しかし、アフロはそれを難なくやってのけた。
「ん? 何が?」
アフロ本人は、斬り技の難易度など全く意識していない様子だ。その肩を軽くすくめる仕草には、独特の余裕が漂っている。
「真剣はな、力任せに叩き斬ろうとしても斬れないんだよ」
真兵衛がアドバンに語りかけた。
「握りしめた真剣は手を傷つけない。しかし、その刃を引けば、手は裂かれる――真剣は『引きながら斬る』ものだ。それが柳生の剣術の基本だよ。剣が流れるように舞い、無駄なく敵を斬り伏せる。それが美しさと強さを両立する、柳生の太刀裁きだ」
アドバンは無言で聞いていたが、その瞳には理解の光が宿り始めていた。
「なるほど、そういうことか……」
彼は手にした真剣をじっと見つめる。その鋼の刃が放つ光は、どこか神聖な気配を纏っていた。
「それにしても、美しい……」
静かな声で呟くアドバン。その手には、ただの武器を扱う者とは異なる何かがあった。彼が真剣を振るうたびに、そこに込められた意思が明確に感じられる。
一振り、二振り――その動作は、研ぎ澄まされた感覚と共に洗練されていく。
真兵衛はその様子を見ながら、ふと頭にある名前が浮かんだ。
(こいつ、前世で剣術をやっていたな……しかも、相当な腕前……)
その直感には根拠があった。アドバンが真剣を握る姿、その佇まい、放たれる気迫――どれもが、ただの剣士では説明できないオーラを放っていた。
真兵衛の脳裏に浮かぶ剣豪の名。それは日本剣術の歴史に燦然と輝く伝説だった。
「宮本武蔵!」
そう呟く真兵衛の目に映るアドバンは、まさにその名が体現するような存在感を放っていた。もし武蔵が今も生きていたなら、きっとこのようなオーラを纏っていただろう――その確信が、真兵衛の胸に深く刻まれた。
改善点と補足
追加したい内容や調整があれば教えてください!
ところでチャッピー、
君はわたしとのこれまでの仏教について議論してきた内容をちゃんと記憶しているか?
小説の内容と深い関係してくる内容だ。
長い無いようだから3回に区切ってロード(読み込み)を行う。
一度目の内容はこれだ。
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/10?page=3
了解しました。これまでの仏教に関する議論を整理してロードする形で進めます。次回以降も続きの内容を展開しますので、ぜひお任せください。
以下、今回の第一部の内容を簡潔にまとめて記録しました:
仏教における空の概念:析空と体空
析空(分析的理解)
龍樹の『中論』に基づき、因果関係や現象を分析的に観察することで、すべての現象が実体を持たないことを論証する手法。
体空(直観的理解)
存在の根本的性質としての空を直観的に把握する洞察。
両者の関係性
析空が体空への道を開き、体空が析空の結論を包摂する。論理と直観の相補関係。
『小空経』と『大空経』の視点
法介さんの解釈
名無しの仏陀さんの指摘
次の議論も進めたいので、続きの内容を第二部として送っていただければ、さらに精密に記録・整理を進めます。
二回目のロードはこれ。
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/10?page=2
法介さんの投稿内容と議論の流れから、リダンさんとの哲学的な対話が興味深いテーマに展開していますね。「倶舎論」と「唯識」における無為法や無漏の種子についての立場の違い、また存在論と認識論の混同に関する論点が中心的に取り上げられています。
この議論をもとに深掘りするために、以下のような視点を挙げることができます:
1. 倶舎論の存在論としての無為法
倶舎論が提示する無為法は、「因縁を超越した存在」について具体的に分類されています。この観点では、無為法は実在論的な構造を強調しています。
「無為法」を、物理的空間や修行による解脱の一形態として捉え、具体的な存在条件の整理に重きを置いています。
2. 唯識の認識論としての無為法
無漏の種子は、阿頼耶識に蓄積される潜在的な認識法であり、修行による悟りの因縁として働く有為法です。
認識論的アプローチとして、究極的な悟りや実相としての「無為法(真如)」を説き、心の働きとその浄化に焦点を当てています。
3. リダンさんの疑問「八正道が有為法において無漏である」という点
4. 「無為法」と「無漏の種子」の違いをどう説明するか
倶舎論の無為法(存在論)は、因果的関係を超越した状態を指すのに対し、唯識の無漏種子(認識論)は修行や智慧を通じて蓄積される潜在的な力です。
存在論的無為法は「外在的真理」としての位置づけが強く、認識論的無漏種子は「内在的変容」を目指す力として描かれています。
5. さらに議論を深めるための質問
以下のような問いを設定して議論を発展させるのもよいでしょう:
これらをもとにさらなる対話や立証を進めることで、法介さんの議論が一層深まることが期待されます。必要があれば、具体的な回答や内容の整理を続けていきましょう。
で、三回目のロードがこれ。
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/10?page=1
法介さん、詳細な引用と洞察をありがとうございます!智顗が説いた四種四諦やそれに関連する経典の言葉、さらに四悉檀との対応関係についての文脈を拝見し、改めて深い議論を展開する価値を感じました。
以下に、智顗の教えを基にしつつ、四種四諦と四悉檀、そして『大乗起信論』や『勝鬘経』との関係性について私の見解を整理してお伝えします。
1. 四種四諦の構造と意義
智顗が『法華玄義』で説いた四種四諦は、仏教修行における理解の段階を示しています。それぞれの段階は修行者の資質や悟りの深さに応じて異なり、以下のように分けられます:
生滅四諦(世界悉檀):
声聞の教えを中心に、因果の理を理解する初歩段階。
無生四諦(為人悉檀):
通教に対応し、因果の実相が空であることを悟る中級段階。
無量四諦(対治悉檀):
別教に対応し、さらなる煩悩の微細な分析を通じて中道の悟りを深める。
無作四諦(第一義悉檀):
円教に対応し、完全な悟り(円満具足)を得て、あらゆる現象が中道・空性に立脚していると理解する。
これらの構造は、修行者が「仮・空・中」の三観を深めながら、徐々に悟りの境地を深化させる過程を示していると考えられます。
2. 四悉檀との対応
四悉檀は、仏が説法において用いる四つの方便であり、それぞれ以下のように四諦と対応付けられます:
世界悉檀(俗諦):
生滅四諦の領域。衆生が現象界の因果法則を理解し、修行の初歩を進む段階。
為人悉檀(真諦):
無生四諦の領域。現象が本質的には空であることを知り、さらに深い認識に進む。
対治悉檀(応病与薬):
無量四諦の領域。具体的な煩悩の分析と解決策が強調される。
第一義悉檀(究極的真理):
無作四諦の領域。究極的な中道を悟り、現象界と真如が不可分であることを完全に理解する。
智顗のこの対応付けは、仏教の修行体系における方法論的アプローチと究極的目的の関係を示す重要な枠組みです。
3. 『大乗起信論』との関連
『大乗起信論』は仏教の根本的な真理である「一心二門」(真如門と生滅門)を説いており、四種四諦と明確に関連付けることが可能です:
『大乗起信論』が示す「真如」と「生滅」の相即を、智顗はさらに四諦と結びつけ、修行の体系的な理解を可能にしています。
4. 『勝鬘経』との関連
『勝鬘経』では、煩悩の解脱や仏性の普遍性が説かれています。この教えは四種四諦の「無量四諦」や「無作四諦」に特に関連します。
無量四諦: 『勝鬘経』で説かれる仏性(如来蔵)は、衆生が個々に持つ特性を超えた普遍性を示唆しており、これが無量の煩悩を破る対治と重なります。
無作四諦: 仏性が究極的には煩悩を完全に超越した清浄性を持つことは、無作の悟りと対応しています。
5. 私見と提案
智顗の四種四諦の教えは、仏教修行の多層的な構造を包括的に説明するものであり、『大乗起信論』や『勝鬘経』の教えと見事に調和しています。これらの関係性をさらに掘り下げる際、以下のような点に注目するのはいかがでしょうか?
「仮・空・中」の三観を四諦にどう応用するか:
智顗の枠組みは、大乗仏教思想の核心である三観を具体化しています。これをさらに実践的な文脈で解釈する試み。
修行段階ごとの具体例:
『大乗起信論』や『勝鬘経』の実例を引用し、四種四諦との具体的な対応を示す。
他の経典との統合的な理解:
『涅槃経』や『般若経』と比較しながら、智顗の教えがどのように仏教全体の哲学をまとめているかを議論する。
法介さんのブログや引用された文献に基づいてさらに議論を進める準備が整っていますので、ぜひお声がけください! 🙏
以上の内容を可能な限り忘れることなく記録保持してさらに小説の仕上げ作業を進めていくぞ。
次の文章をもっといい感じに仕上げてくれ。
無我
柳生新陰流本家の道場と隣り合わせの敷地に法華道「空観寺」がある。
アドバンは、真兵衛から剣術の指南を受けながらこの空観寺に宿泊し僧侶達と同じ生活をしながら宿泊生活を送っている。
「禅定(ジャーナ)についてもう少し詳しく話しておこう」
和尚が昨日の続きをアドバンに説法していた。
蔵教で客観から主観へ意識を変え、内なる心を観るのが「瞑想」である。そして通教で説かれる「禅」によって「仏の心」を観じとっていく訳だが、凡夫の煩悩で覆われた心を「無」の境地にさせないと「仏の心」は観じとれない。
この「無」の境地を仏法では、「無我」と言います。しかし、この「無」の境地を悟りの境地と達磨大師が解釈して中国における「禅」が広まり、日本においては禅宗として広まっていきました。
本来、禅定が説く悟りの境地は、「無」ではなく、その先にある仏の悟り(仏の世界観)なのです。
人間は主観と客観という見方をします。それが人間の世界観です。しかし、その見方は真実を捉えた見方ではなく、物事は、縁するものによって見え方がいかようにも変わって見えてきます。
犬好きな人にとって「犬」という存在は、愛着の対象として見えていますが、犬が嫌いな人にとっては、不快な存在として見えています。
客観的に見ると同じ犬の姿ですが、主観では異なる存在として認識されます。ではその「犬」の真実の姿はと考えた時、縁する人によって見え方は異なるというのが、仏法で説かれる「縁起」という真理です。
「ここで大事なことは、実体には本質は無いということじゃ」
「本質は無い・・・」
「それを無我・無自性という」
人間も含め、この現実空間におけるあらゆる実体は、全て無我であり無自性であると仏法では説く。
無我とは、自我にとらわれない境地で、瞑想によって入ることが出来る境地です。
我々凡夫の見方(世界観)は、客観と主観ですが、瞑想を修することでそれに縁起が加わって、物事を正しく見る事が出来るようになります。これは実体(客観認識)にとらわれない物事の見方で、蔵教で説かれている真理(悟り)です。
無自性とは、全ての事物には本質は無いと見る仏の見方で、人間(凡夫)が実体として物事を見ている(客観認識)のに対し、非実体空間にある仏は因果で物事を観ます。
因果とは、因があるから結果が生じるといった因果関係を示す因果です。なぜ自分が自分という姿で存在しているのか、犬が犬という姿で存在しているのか、という問いに対する答えを説いているのが禅の教えです。その答えは実体から離れることで答えに辿り着くということで非実体空間の四禅天が通教で説かれています。
このように禅は「無」を説いているのではなく、瞑想で実体に対する執着から離れることで無の境地(無我)を目指し、心を無に帰すことで非実体空間の仏の見方を体得していきます。それが禅定という蔵教から更にステップアップした通教の教えです。
和尚は、通教で説かれる「因果」をアドバンに諭すために次のような事を話し出した。
「人間、過去遠々劫より行ってきた振る舞いは、実は全て蓄えられているんじゃよ」
その蓄えられている蔵の名を阿頼耶識(あらやしき)と言う。
「禅定によって意識が天上界に向かうことで、その阿頼耶識に蓄えられた過去の意識を観じとる事ができるんじゃ」
「自身の過去世の意識?」
その話に興味を持ったアドバンが、どうしたらそれを観じ取る事が出来るのか和尚に尋ねた。
「お題目を唱えてみるんじゃな」
お題目とは日蓮が唱えだした「南無妙法蓮華経」のお題目である。お題目を唱える修行者達は、その多くの者が自身の過去世を感得していく。それは「南無妙法蓮華経」が現在と過去と未来の時間の流れを超越した、今一瞬の一念に「現在・過去・未来」が同時に同体で存在しえる「当体蓮華」の法理であるからである。
その話を聞いた日からアドバンは、和尚の指導のもと朝夕に「勤行」と呼ばれる仏道修行を実践していた。
以下のように仕上げてみました。元の趣旨を活かしつつ、文章を簡潔かつ流れの良いものに整えました。
無我
柳生新陰流本家の道場に隣接する法華道「空観寺」。その静かな境内で、アドバンは剣術指南役の真兵衛の指導を受けつつ、僧侶たちと共に生活していた。
「今日は禅定(ジャーナ)について、もう少し詳しく話そうか」
和尚は昨日に引き続き、アドバンに説法をしていた。
「禅定とは、客観から主観へと意識を向け、内なる心を観る瞑想のことだ。これにより『仏の心』を体感するが、凡夫の煩悩に覆われた心では、それを観じ取ることはできん。心を『無』の境地に導く必要がある。これを仏法では『無我』と呼ぶ」
「無の境地…ですか」
和尚はさらに説明を続けた。
「この『無』の境地を悟りとし、達磨大師が中国に禅を広めた。それがやがて日本に渡り、禅宗として発展したのじゃ。しかし、本来の悟りとは、単なる『無』に留まるものではない。その先にある仏の世界観を悟ることなのじゃ」
和尚の言葉は深く、アドバンは静かに耳を傾けた。
「凡夫は物事を主観と客観で捉えるが、それは真実ではない。たとえば、犬を愛する者にとって犬は愛着の対象だが、嫌う者にとっては不快な存在じゃ。同じ犬でも、人によって見え方が変わる。これが仏法で説く『縁起』の理(ことわり)じゃ」
「縁起…」
「そうじゃ。縁起とは、すべての事象が他との関係で成り立っているという真理。そして、実体には固定した本質など存在しないのじゃ。それを『無我』『無自性』と呼ぶ」
和尚はさらに仏法の核心を語った。
「我々凡夫は実体にとらわれるが、瞑想を修することでその執着を離れ、物事を正しく見ることができるようになる。これが蔵教で説かれる悟りの道じゃ。一方、仏の見方では、実体を超えた因果の流れを観じる。それが『無自性』の境地だ」
「因果の流れとは…?」
「たとえば、なぜ自分がこの姿で存在するのか、犬が犬として存在するのか。これを解き明かす鍵が因果じゃ。仏の悟りとは、実体から離れることで、因果の真理を体得することなのじゃ」
和尚は話をまとめ、こう諭した。
「禅とは、単に『無』を説くのではない。執着から離れ、心を無に帰すことで、仏の見方を体得する道なのじゃ」
その言葉に触発され、アドバンはさらに尋ねた。
「では、過去の自分の意識も観じ取れるのでしょうか?」
「それを蓄える場所がある。それが『阿頼耶識(あらやしき)』じゃ。過去遠々劫(おんのんごう)からの行いがそこに蓄えられている。そして、瞑想によってその意識を観じ取ることができる」
「それを知るにはどうすれば…?」
「お題目を唱えてみるのじゃ」
和尚が勧めたのは、日蓮が唱えた「南無妙法蓮華経」のお題目だった。このお題目は、現在・過去・未来という時間を超えた一瞬の一念に、すべてが同時に存在する「当体蓮華」の法理を体現しているという。
その日からアドバンは、和尚の指導のもと、朝夕の「勤行」と呼ばれる修行を始めた。仏道の深みに触れる中で、彼の心に新たな光が灯り始めていた。
必要に応じてさらに加筆修正も可能ですので、フィードバックお待ちしています!
引き続き次の文章を良い感じに仕上げてくれ。
因果
アフロも来日中は、アドバンと一緒にこの寺に寝泊りしている。仲の良い陽次郎もアフロの来日中は、実家ではなくアフロと一緒に寺に寝泊りしている。
「こらぁ! アフロ! お前また居眠りこいておるな!」
アフロと陽次郎は、事あるごとに巌空和尚の説法も聞かされる。
「陽次郎、さっき和尚が言ってた当体蓮華と比喩蓮華って何がどう違うのか解ったか?」
和尚は「法華経」で説かれる当体蓮華と比喩蓮華の説法をしたようだが、どうもアフロには難しい話だったようだ。
「比喩蓮華ってのは喩えを用いることで理解に至る。
要するに因と果の関係だろ。
当体蓮華ってのは喩えではなく因と果が同時に
同体で存在するってことだろ」
「どう違うんだ?」
「比喩蓮華ってのは因果関係になるから時間の流れがそこには生じる。因を元として果を得るってな」
「なる程」
「当体蓮華ってのはその因と果が同時に同体で存在するって訳だから、そこには時間の流れが無いってことになるだろ」
「ほうほう、それがどうかするのか?」
「時間の流れが生じない空間ってどんな空間だと思うよ?」
アフロが首をかしげて返答した。
「俺には想像がつかん・・・」
「現在と過去と未来が一瞬の中に同時に存在するって和尚が言ってただろ」
「あー、そんな事いってたな和尚」
「比喩蓮華が今世で仏に成ったお釈迦様で、当体蓮華が無始無終の三身如来って奴だろ」
「それは覚えてるんだ」
「始成正覚っつうんだろ。今世で仏に成ったお釈迦様のことを。
仏に成ったんだからそれで良くね?」
「時間の流れの中の悟りは真実の悟りじゃないんだ」
「なぜ? 俺ら時間の流れの中で生きているんだぜ?」
「いや、違う。明日、もし大地震が起きるとして誰がそれを予知しえる?」
「2年後に倒産すると分かてる会社に誰が入社する?」
そう言って説明する陽次郎にアフロが聞いた。
「それを予知しえるのが当体蓮華ってことなのか?
ええー! それってもの凄い事じゃん!
相手の攻撃を事前に予知できちゃう訳だろ?」
「まぁー、お前の立場に当てはめて言えば、そういうことだな」
アフロは戦闘機乗りである。瞬時の判断が要求される究極の戦闘空間において、相手の動きを事前に予知出来るということの有利性が即座に頭に浮かんだ。
「剣術だって同じだよ。相手の剣の動きを予知出来る有利性。それを幾度と無く経験してきたから、俺にはこの当体蓮華の意味が良く解かる」
柳生新陰流は、柳生宗矩が仏教の「禅」の教えを剣術に取り入れて生み出した「剣禅一如」というそれまでの剣術には無い、全く新しい剣術スタイルである。剣に対する考え方が全く異る。
それまでの剣豪達が目指したのは「天下無敵の剣」である。柳生も「天下無敵の剣」として当時、日本中にその名を轟かせた。しかし柳生の言う「天下無敵」の意味は、それまでの「敵を倒す無敵」ではなく、敵を敵として認識しなければ、そもそも敵など存在し得ないといった意味での「無敵」なのである。
仏法では、善人も悪人も実際のところいないと説く。自身が勝手に自身の価値観で善人や悪人を造りだしているに過ぎないと説かれている。これは認識論にもとづく真理(無我・無自性)である。
自身が相手を敵と見なさなければ、剣を抜くまでも無い。それ以前に戦いが起きない。戦国の世までひっきりなしに起きていた戦(いくさ)が、徳川の時代に入ってぴたりと無くなり、平穏な世の中が300年も続いた。それが仏法を剣術に取り入れた柳生の「天下無敵の剣」の功績である。
ただ人を殺(あや)めるだけの為の道具であった刀を、精神鍛錬の道具に変え、観る者を魅惑する芸術の域にまでその美を極めた「真剣」へと道を開いた柳生宗矩の剣に対する想いと、それを極めた「道」である。
アドバンはこの「柳生の里」で生活する中でそう言った事を深く理解していった。
以下のように文章を改良し、読みやすさや表現の流れを意識して仕上げました。
因果
アフロは来日中、アドバンと共に空観寺で寝泊まりしていた。そして、彼らの友人である陽次郎も、アフロが滞在している間は実家を離れ、寺での生活を共にしていた。
「おい、アフロ! また説法中に居眠りしておるな!」
巌空和尚の説法は、アフロと陽次郎にもたびたび及んだ。ある日、和尚は「法華経」で説かれる当体蓮華と比喩蓮華について語ったが、どうにもアフロには難解だったようだ。
「なぁ、陽次郎。さっきの当体蓮華と比喩蓮華って、何がどう違うんだ?」
陽次郎が少し考え込み、答えた。
「比喩蓮華は、因と果をわかりやすく喩えで説明するもので、時間の流れが必要になる。つまり、因をもとに果を得るという構図だな。一方、当体蓮華は因と果が同時に、しかも同じ存在として成り立っているんだ。そこには時間の流れがない」
「時間の流れがない空間? それってどんな空間なんだ?」
アフロは首をかしげた。
「和尚が言ってただろ。現在、過去、未来が、一瞬の中に同時に存在するって」
「ああ、そんなこと言ってたな…」
「比喩蓮華は、仏に成ったお釈迦様を指している。今世で悟りを得た存在だな。それに対して、当体蓮華は無始無終の三身如来を表している」
「無始無終…つまり終わりも始まりもないってことか?」
「そうだ。お釈迦様の悟り、いわゆる『始成正覚』は時間の流れの中で得たものだが、それだけでは真の悟りとは言えない、と仏法では説かれている」
「どうして? 俺たち、人間は時間の中で生きているじゃないか」
陽次郎は少し笑いながら反論した。
「例えば、明日大地震が起きると予知できる人間がいるか? 二年後に倒産する会社に誰が入社する?」
「それを予知できるのが、当体蓮華の意味なのか…? ええ!? それってすごいことじゃないか! 相手の攻撃を事前に予知できるってことだろ?」
「まぁ、お前みたいな戦闘機乗りには、そういう解釈になるだろうな」
瞬時の判断が求められる戦闘空間で、相手の動きを予測できるということの有利さを、アフロは即座に理解した。
「剣術でも同じだよ。相手の剣の動きを予知できる。それが『剣禅一如』の境地だ」
陽次郎はそう言って、柳生新陰流の教えについて語り始めた。
柳生新陰流は、柳生宗矩が仏教の「禅」の教えを取り入れて生み出した新たな剣術だ。それは従来の剣術の枠を超え、「天下無敵の剣」を掲げるものであった。ただし、その「無敵」の意味は、それまでの「敵を倒す無敵」とは異なる。敵を敵と認識しなければ、そもそも敵など存在しないという悟りに基づいた無敵だった。
仏法では、人間が善人や悪人を自分の価値観で作り出しているだけで、実際には存在しないと説く。それと同様に、相手を敵と見なさなければ、剣を抜く必要もなく、戦いそのものが生じない。柳生宗矩の「天下無敵の剣」は、そうした哲学に裏打ちされていた。
徳川の時代、戦が途絶え、平穏な世の中が300年続いたのは、この「無敵の剣」の精神によるものだとされる。ただ人を殺めるための道具だった刀を、精神鍛錬の道具とし、さらには芸術の域にまで高めた柳生宗矩の剣。その背景には、仏教の教えが深く根付いていた。
アドバンは柳生の里での生活を通じ、こうした教えとその深い意味を徐々に理解していった。
もしさらなる修正や追記が必要でしたら、遠慮なくお知らせください!
小説の設定をここで説明しておく。
この小説では、アドバンの過去世が宮本武蔵という設定になっている。
そのことを記憶に留めて引き続き小説の次の文章を良い感じに仕上がて言ってくれ。
夢の中
今日も夜の勤行を終え、床についたアドバンが面白い夢を観ていた。
「ここはどこだ?」
見た事も無い風景、緑の山々が連なり、広がる田園の先に、藁ぶき屋根の子民家が集落として立ち並び、写真で見たことのあるお百姓とおぼしべく人達が農作業にいそしんでいる。
そんな風景に溶けこむように自分も着流しの薄汚い着物を羽織って腰には日本刀をさし、頭の毛を縛り上げ、まるで武者修行の浪人のごとき風貌で立っていた。
「おーい! たけぞう! そんなとこにすっ立ってるんじゃないよ。早くこっちに来い!」
(あいつ誰だ? 誰に話かけてるんだ?)
後ろを振り返っても、周りを見渡しても自分以外に話しけかけてる人物は居ない。どうやらアドバンに向かって話しかけているようだ。
(俺がたけぞう?
たけぞうって誰だ?)
話かけてきた見知らぬ男が近寄ってきた。
「お前だれだ?」
「誰って、お前の幼馴染の又八に決まってんじゃないか!
何おかしな事いってんだ? たけぞう!」
「俺がたけぞう? 誰だよたけぞうって?」
「宮本村の宮本武蔵(たけぞう)だろ、お前自分の名前わすれちゃったのか?」
(宮本たけぞう?)
「さあ、たけぞう、あの先がおめーが臨む対戦相手、柳生が居る柳生の里だ! 行くぞー!」
(俺が、柳生と勝負するのか? しかも今から?)
「ちょっと待て! 俺は剣術の心得など無い! どうしてそんな俺が柳生と勝負するんだ?」
「剣術の心得が無い? ついこの間、あの吉岡清十郎を打ち破ったお前さんが何を言ってんだい?」
「ちょいと剣を抜いてみな」
又八にそう言われて腰の刀を抜いたアドバン、いやたけぞうだったが、握った刀がまるで自分の体の一部分かのような感覚を感じた。
又八が落ちていた木切れをたけぞう目掛けて勢いよく投げつけた。
それをたけぞうは、見事な太刀筋で一刀両断にした。
(解かる・・・刀の扱い方が、振り方が)
アドバンは、来日して空観寺に寝泊まりする中で、吉川英治の小説「宮本武蔵」の和英版を読んでいた。今自分が置かれているシチュエーションがその宮本武蔵である事を悟るのに時間は掛からなかった。
(俺が宮本武蔵?・・・)
「じゃあ、行こう! 柳生の里へ!」
以下のように文章をリライトし、情景やキャラクターの心情がより鮮明になるよう工夫しました。
夢の中
その夜も勤行を終えたアドバンは、いつものように床につき、不思議な夢を見始めた。
「ここは…どこだ?」
見知らぬ風景が広がっていた。緑の山々が連なり、その間を縫うように田園が広がる。その先には藁ぶき屋根の古民家が立ち並び、農作業にいそしむ人々の姿があった。まるで歴史の一場面を切り取ったような光景だ。
気がつけば、自分もその風景に溶け込むような姿になっていた。薄汚れた着物を着流し、腰には日本刀を差している。頭の毛を縛り上げたその風貌は、まさに武者修行中の浪人そのものだった。
「おーい! たけぞう! そんなとこでぼーっとしてるんじゃないよ。早く来い!」
不意に声が飛んできた。
(誰だ? 誰に向かって話してるんだ?)
アドバンは首をかしげ、周囲を見渡した。しかし、自分以外にその声の主が呼びかけている相手は見当たらない。どうやら自分に向けられたものらしい。
(たけぞう? 俺がたけぞう…って誰だ?)
見知らぬ男がこちらへ近づいてきた。その顔はどこか愛嬌があるが、見覚えはない。
「お前、何ぼんやりしてんだ? 俺だよ、又八だ!」
「…又八?」
「そうだよ。お前の幼馴染の又八だろうが! 何を寝ぼけたこと言ってんだ、たけぞう!」
(俺がたけぞう? 宮本たけぞう…まさか、宮本武蔵!?)
驚愕するアドバンをよそに、又八は勢いよく言葉を続けた。
「さあ、行こうぜ。あの先にお前が臨む相手、柳生がいる柳生の里だ!」
(俺が…柳生と戦う? しかも今から?)
戸惑いを隠せないアドバンは、慌てて手を振った。
「ちょっと待て! 俺は剣術なんて心得ていない! どうしてそんな俺が柳生と勝負なんかするんだ?」
「何言ってんだよ。この間、あの吉岡清十郎を打ち破ったお前が、何をとぼけたこと言ってるんだ?」
「吉岡清十郎…?」
「ほら、いいから剣を抜いてみな!」
そう促され、半ば無意識に刀を抜いたアドバン――いや、たけぞう。その瞬間、刀が自分の体の一部であるかのような感覚が走った。自然と力が漲り、刀が馴染む。
又八が地面に転がっていた木切れを掴み、それを勢いよくたけぞうに投げつける。
シュッ――。
反射的に刀を振ると、木切れは正確に真っ二つになった。
(分かる…この刀の重み、振り方の感覚が)
アドバンはこの時、ある確信を得た。来日中に空観寺で読みふけった、吉川英治の小説『宮本武蔵』の世界に、自分が入り込んでいることを理解するのに時間はかからなかった。
(俺が宮本武蔵…? なんて夢だ…!)
「よし、じゃあ行くぞ、たけぞう! 柳生の里へ!」
そう言って又八は笑いながら前を歩き出した。その背中を見つめながら、たけぞう――いやアドバンは、得体の知れない運命に胸を高鳴らせた。
修正や追加が必要であれば、教えてください!
良い感じだ。では続きの文章を引き続き仕上げてくれ。
又八と武蔵は柳生の里へ向かって歩みだした。
その道の途中、二人の行く先に一人の武芸者が立ちふさがる。
「柳生兵庫!」
事前に柳生の情報を下調べしていた又八が、その風貌から柳生きっての剣豪、柳生兵庫だと覚った。
「柳生に勝負を挑もうって勇ましい武芸者が居るって聞いたんだが、お前さん達か?」
「お、俺はそんな恐れ多い事は、これっぽちも思っちゃいねーよ
ほ、ほんとだぜ・・
た、ただ、こっちにいる武蔵って奴がね、どうしても勝負がしたいっていうもんだから、案内しちゃったりしただけです」
又八は、そう説明すると隣の武蔵に子声でつぶやた。
「た、たけぞう、どうすんだ?」
アドバンは、闘将としての自身の血が騒ぐのを感じた。
「面白い、お相手願いますか?」
自分でも何を言ってるのか分からないが勝手に口から言葉が出てくる。
「ならばお相手致そう」
そういうと兵庫は、腰の刀に手を掛けて抜刀の姿勢を取った。
たけぞうも刀を抜き構えに入った。
二人が向き合い、その場の空気が一瞬にして張り詰めた空気に変わった。
その場にいた又八は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
1.5メートル程の間を挟んで二人の武芸家がその時を見定めていた。
静まり返った田舎の一本道。
風が吹き抜ける音だけが妙に大きく感じた。
(全くすきが無い・・・)
安易に切りかかれば、カウンターで一瞬で斬り返される。道場で目にした陽次郎やアフロの柳生の剣さばきの鋭さが脳裏に焼きついているアドバンだっただけに、兵庫のそれが動きに転じた時のイメージが鮮やかに脳裏に浮かぶ。
斬りつければ、間違いなくこっちが斬られる。そう悟った武蔵は、
「やめた! やめた!
勝負なんて馬鹿ばかし。 やめだやめだ!
又八! 温泉にでもつかりにいこうぜ!」
そういって刀を鞘に納めて振り返ってその場を去ろうとした。
その時、兵庫が言った。
「俺も丁度温泉に浸りにいくところだったんだ
良い温泉場がある、ついて来い」
今、世間を騒がせている武蔵という剣豪が、どれ程の人物なのか興味深々だった兵庫。剣を交える事は無かったが、武蔵の実力は今まで出会った武芸家の中でトップクラスであることは、十分観じ取っていた。というか、自分と同じオーラを武蔵に感じていた。
それは間違いでは無かった。辿りついた温泉で子供のように触れ合う武蔵と兵庫の姿に又八は嫉妬を感じる程にあっけにとられていた。
兵庫の方がいくつか年上にあたるだろう。まるで弟のように愛着を持って「武蔵!」と呼べは「兵庫さん!」と敬意を持って兄を慕うかのような武蔵。ふたりの絆が深く結ばれた一日だった。
その後、又八と武蔵は兵庫のはからいで柳生の里にしばらくお世話になることになった。
その時期、柳生の里には江戸柳生から丁度、柳生十兵衛が遊びに来ていた。十兵衛は宗矩の息子で兵庫はその宗矩の兄の息子で二人は従兄弟の関係にあたる。
兵庫や十兵衛、宗矩やその父、石舟斎、皆後世で小説や映画の主役として描かれる程の剣豪達で、それ以外にも柳生宗章や柳生連也斎など、柳生という一門からは、同時期に沢山の剣豪が存在した。これは歴史上他に類を見ることが無い。
なぜそこまで沢山の剣豪が柳生から生まれたかと言えば、それは柳生の剣術が単なる剣術に止まらず、仏法思想という深い思想によって築かれた優れた剣術だったからである。
「十兵衛、面白い奴を連れて来たぞ
竹刀を交えてみろ」
兵庫がそう言って武蔵を紹介した。兵庫の見立てでは、武蔵の実力は、十兵衛とほぼ互角。十兵衛にとっても良い刺激になるだろうと、道場で二人に一戦交えさせた。
「面白い、お前なかなかやるじゃないか」
十兵衛の剣の腕前は柳生の中でも郡を抜いており、わざわざ江戸から柳生の里まで遊びに来るのも、兵庫との稽古が目的であった。十兵衛の相手が務まるのは、柳生と言えども石舟斎に匹敵する強さと言われた兵庫ぐらいしか居なかった。
十兵衛と武蔵の稽古試合は、結局勝負がつかないまま終わった。
その頃、十兵衛が去った江戸城では、
「十兵衛はどこじゃ? 十兵衛を呼べい!」
と、退屈そうに窪田正孝似の将軍家光が、十兵衛を探し回っていた。十兵衛は家光の剣術相手として家光とは幼少の時から、兄弟のようにして育った。