ティダの記憶
その日は、驚くほど空が澄んでいた。
けれど、街道を一歩外れれば、そこには死の霧――瘴気が揺らめいている。
俺は左手にクリスタルケージを抱え、右手で剣の柄を確かめながら、アルフィタリア盆地の草原を歩いていた。
ケージの中で静かに呼吸するクリスタルの淡い光だけが、この世界の理不尽な残酷さから俺たちを切り離し、唯一許された安寧を形作っていた。
「レビ!」
風の音色を纏い、太陽の恵みを一身に受けて響く天使の声。
草原の隙間から零れ落ちる純粋な愛情は、風に連れ去られて空へと萌ゆる。
背後から弾むような気配がし、俺の肩に柔らかな重みが預けられた。
「そんな慌てんなよ、テト」
彼女は俺の背中に隠れるように歩きながらも、好奇心の灯火を瞳に宿し、身を乗り出している。
その姿があまりに愛おしく、何処までも続く地平線の境界線よりも、俺はこの微笑みを護り抜きたかった。
「これが慌てずにいられましょーかー!」
「だってほら、見て見て!」
「去年の今頃はまだ雨が続いてて、こんな綺麗な景色、見られなかったでしょ?」
視線の先、ジャック・モキートの館を象徴として抱く大地には、背後に浮かぶジェゴン川が鈍色に光っている。
浮かび上がるファム大農場の豊かな黄金畑が、陽光を受けて宝石のように煌めいていた。
その背景を横目に、いたずらっぽく笑みを浮かべて、俺の横顔を覗きこむテト。
彼女の瞳には、空の青とクリスタルの光が混ざり合い、まるで宝石のような煌めきが宿っていた。
その時もそうだが、俺は今も常に思っている。
この宝石のような輝きこそが、俺の生きる糧であり、思い出を開く時の鍵だったことを。
好きだった。
「また見れるようになる」
「でも、今年のこの景色は、あと何回も見れないでしょ?」
「すぐにメタルマイン丘陵に行くんだから」
「だから!この景色を一緒に見れたって思い出を焼きつけておかなきゃ!」
そうして俺の首に手を回し、背に乗っかるテト。
身体の密着が、俺に激しくも生きる故の安心の高揚を与えてくれる。
「おい!あんまり無理して動くなよな」
「心配しないで!私、去年よりかは丈夫になったんだよ」
「両手に武器とケージを持ってる身になってくれよ」
「私が持つよ!」
「いいですいいです。お姫様はそのまんま楽しててくーださい」
瘴気の世界とは思えない程、美しい風景が俺達の旅路を拓く。
俺は、何てことのない日常も、これから先訪れる全ての苦難さえも、
全部全部、思い出に変えていけるって、そう信じられていたんだ。
3年目の旅路。
村を出たばかりの1年目や2年目は、ただ生き延びて、雫を持ち帰ることに必死だった。
けれど、二人での旅に慣れ始めたこの頃、俺たちはようやく「旅を楽しむ」ということを覚え始めていた。
道端に咲く名もなき花。
野営の火で焼いた、少し焦げた魚の匂い。
夜空を見上げながら語り合う、他愛もない冒険の話。
彼女との時間だけではなく、
広大にも無限に続くこの世界という人生の物語の中で、
唯一無二の伴走者たちと巡り合えたこと。
焚火を囲んで、夜空の下で煤の音を聞く。
その最中は、キャラバンのそれぞれは思うがままに過ごしていた。
「レビ。剣の綻びを無視すんな」
武器の手入れ。
ルーンブレイドの刃先を篝火の赤光で照らしている時、リルティの覇気ある声が冷水を打つように届いた。
「わかってるよ。別にわざと無視してたわけじゃねぇんだから、んな怒んなって」
「いいや、怒る。魔物と戦っているときに剣が折れたらどうする」
「お前の命だけじゃない。俺様達も危険な目にあうんだぞ」
小柄な体躯、野菜の形をした種族。
ミルド=デリスは、常に気を張ってくれていた。
野営中のそれは外部からの攻撃だけではなく、
俺達の旅路に於ける準備に司る部分まで、しっかり見てくれていた。
「俺の剣術についてこれねぇ剣が悪い。新調してぇの」
「この前オーガのキバを手に入れただろ」
「あとは「しょうりのぶき」があればマール峠の鍛冶職人に新武器を鍛造してもらえる」
「それまでの辛抱だ。お前が居なくちゃ、ティダの村のキャラバンじゃないだろうが」
喧嘩腰に近い声色。
あん時の俺はガキだったんだ。許してくれ。
「俺の剣が折れても、ミルド=デリスの槍があんだろが」
「だからって俺様に負担押し付けんじゃねーよ!」
「いーだろーがよ」
「獲物を寄越せ寄越せっていつもうるせーくせに、我儘な心配してくんじゃねーよこういう時だけよー!」
互いに青筋を浮かべて、睨み合ったな。
あの時もそうだったが、俺はミルド=デリスと喧嘩をするのが好きだった。
やってやろーじゃねーか、と、どちらかが言い始めるのが恒例だったよな……。
そして、決まってその頃に
「もー!あんたらうるさい!こんだけうるさいんじゃソニックバットも食いついてこないよ!」
「意味わかんねーよ」
俺達を諫める……というよりか、無理やり抑え込むような、奔放な母みたいなセルキーが声をあげるんだ。
大人びた風格、それでいて自由の象徴とも云える種族。
ラ・セナは、常に俺達を見守ってくれていた。
見守るってのは、監視とか、保護とか、そういう意味合いじゃない。
自由で居られるように、付かず離れずの距離。
自分も、相手も縛られることのない、柵の無いそんな人だった。
「セレパティオンの風でさえ、何処かそよ風を纏っているってのに、アンタらの騒音ときたら」
「喧しさで言ったらお前だって――」
「なんか言った野菜頭?」
「すんません」
「怒られてやんの」
「あんたも」
「はい」
「まったく。野営中ぐらい静かに過ごして欲しいわね。そんなにアタシの旋律は気に入らないかしら?」
ラ・セナは決まって鼻唄を風に乗せる。
その揺らした静穏は、旅に疲れた者を癒す憩いの歌――という訳では無かったな。
俺からすれば、故郷に帰るための、希望の歌。
安らぎというより、魂の深淵に火を灯すような、不屈の感謝の歌。
だから好きだった。
耳から浸透して、心に残るその歌声は、俺達キャラバンにとっては支えの一つだった。
「ラ・セナ女史。風は常に其方(そち)の喉を待望しておる」
「斯様に言の葉を荒げては、大地に咲きし種に其方の栄えある感情が達せず」
篝火を頼りに、書物へ知性の灯を捧げる語り部たるユークもまた、この活況に心を投じる。
達観した哲学的な物言い。だが人情には敏感な不思議な種族。
トルブジータは、常に俺達に知識を与えてくれた。
……正直、何言っているかは分からない時の方が多い。
だが、確かに指し示す行路は、雄大で、それでいて浪漫に満ち溢れている。
詩人の魂を持っていたんだ。
その魂から零れ落ちる言葉の断片が、俺は好きだった。
「トルブジータ。あんたは相変わらず本の虫~?」
「左様。某は夜空の欠片に身を注ぐ」
「常に天へと登りし川へと渡る為、知識という財産をこの身に宿さねばならぬ」
「故、其方の旋律もまた、我が知識の一部となりて」
「トルブジータさん、この女をあんま褒める必要はないぞ」
「手癖の悪いセルキーの中でも、とっぅううぉぅっぅぉおおおおっくに性悪だからな」
「アタシ、人生で一度はカレー作ってみたかったのよね~!材料は揃ってるかしら~!」
「おうおう、何処の誰が材料だって???」
「某も香辛の妙味に感動を求めん」
「トルブジータさん!?!??」
「トルブジータ、アンタのボケは天然過ぎるから冗談に聞こえねぇって」
「レビ氏。某は冗談とは疎遠の表紙」
「冗談だって言ってくれや」
ティダの村のクリスタルキャラバン。
あぁ、其処はクラヴァットの住む村だ。だけど、俺達キャラバンは4つの種族が集まっていた。
不思議だよな。旅路を通して仲間になってくれたこの人達は、
俺より遥かに円熟した魂を持ち、俺達を救ってくれていた。
「クスクス……」
そうして、俺達のやり取りを横目に、テトは微笑む。
彼女の呼吸を孕んだ、透き通った笑い声が好きだった。
仲間たちとの喧噪に、さらに清涼な風を吹き込んでくれる。
俺の女神。俺の天使。俺の生き甲斐。
「そんなに面白かったか?」
「すっごく!」
「テト、ダメよこんな奴ら相手に面白がったら!笑いのセンスがゴブリン以下になっちゃうわ!」
「ディスんなバカ」
「レビ、お前なんでこんな奴を仲間にしたんだ。俺様は反対だって言っただろ」
「テトの仲間になったんです~~~!アンタらはお呼びじゃないのよ!」
「某が夜空の欠片に成りし暁には、其方の名を星座に灯さんとせし」
「人によっては告ってるように聞こえるから止めな?」
あれはティパ半島での、忘れがたい一夜だった。
天上の星々が、まるで地上を祝福するように零れ落ちそうだった夜。
感傷に呑まれそうな静寂を、明るい希望が塗り替えた夜。
あぁ、よく覚えている。
リルティの我慢出来ない唸り声も、
セルキーの邪悪ながら恣意的な企み顔も、
ユークの知的で独創的な語り口も、
「あはは!」
「旅って、楽しいね!」
クラヴァットの愛おしい世界のすべてを。
「……テト、俺も楽しいよ」
「ふふ、レビ♪」
彼女の想いを孕んだ無邪気な瞳を見ると、
俺は故郷の風景を必ず思い出す。
其処は黄金に彩られた麦畑があり、
人の営みが約束された聖なる地。
俺達が人として生き抜き、
後世にまで伝える思い出の証。
俺はそれを、彼女と紡いで往く。
その為に、必ずミルラのしずくを故郷に届ける。
重圧、重責なんかじゃない。
当たり前にやっていくこと。
俺はテトと、暮らしていきたいから。
それなら、その過程は決して苦痛なんかじゃない。
俺の成し遂げることの断片に過ぎないのだから。
「テト……」
「♪」
「アタシらが寝た後にやってください」
「へいへい、ごちそうさん」
「情炎」
「……チッ……」
「おい、舌打ちしたろ?ふざけんな仲間に向かってなんだお前ェ!」ガタッ
「するに決まってんだろテメェら邪魔なんだよ!」ガタッ
\ドタアタバキバキドカバキコ!/
「テト~!今日はアタシと一緒に寝よ~!」
「オッケー!」
「官能は人心を養う術。いざ参られよ」
「え?うるさ???」
永遠にも思える戦いになる。
俺達は誰一人欠けてる事なく、思い出を紡いで生きて往く。
そう出来たら、俺は幸せだった。
故郷の畑を大いに育てて、
その伸び行く麦芽を、子供の成長と共に見守り、
同時にお前達に、俺とテトの将来を見て欲しかった。
瘴気で狂った世界でも、俺は一人の男として、
お前達と紡いだ思い出を持って、愛した女性と共にしているところを。
……仲間、友達。それより、親のように、お前達を想い馳せていたんだな、俺は……。
その日の野営番は俺だった。
皆、武器を枕にしてクリスタルケージの温もりを頼りに眠りに落ちる。
朝日が東の空を焦がすまで、彼らは先刻までの喧騒が嘘のように、静謐な彫像と化す。
「……」
そういう時、俺はいつも不安になった。
孤独な夜の帳の中。
この人たちは、生きている限り、俺の傍に居てくれんのかって。
俺は、記憶をする。
彼らが話した言葉を。記した手先を。描いた軌跡を。
そうして全てを思い出として、俺の中に内包する。
でも、俺だけじゃ覚えきれない。
この世界は、記憶が薄らになる事がある。
抜け落ちた物語を、離したくなかった。
だから、常に更新したいんだ。
だから、お前達には離れてほしくないんだ。
俺は、お前達との日々が好きだったから。
「レビ」
純真の囁きが、俺の肩でふわりと包み込む。
体躯の体温が染みわたる。篝火なんかよりも、ずっとあったかい心。
「ラ・セナと一緒に寝てたんだろ」
「野営番は俺だよ」
「テトは寝なくちゃ」
「眠れないの?」
「……?当番だからな」
「ううん、違う」
「なんだか、心が騒めいているように思えたから」
見透かされた本心を飾ることなく、彼女を抱き寄せる。
ただ、己の内側に渦巻く不安を鎮めたいという、独善的な渇望に過ぎない行動。
それを受け入れてくれる彼女は、何処までも俺にとっての聖女だった。
「大丈夫だ」
「テトが一緒に居てくれる限り」
「俺は生きているよ」
「……もー……」
「私も同じだよ」
胸板に感じる、确かな鼓動と熱。
魂を癒やす絶大な安らぎ。
言葉と行動で返してくれる俺の生き甲斐。
俺は君の笑顔の為に、
この先の旅路を描いていける。
それは、太陽が指示す故郷への道だったから。