帰るために
V社に聳立する摩天楼群。
その最上層に位置する一室は、既にティダの黄金畑、その残滓に蝕まれていた。
硝子と鋼鉄で構築されたはずの無機質な空間は、もはや都市特有の硬質性を失い、
黄金色の穂波と、乾いた土壌の匂い、そして懐旧の幻影に侵蝕された異界へと変貌している。
「……」
嘗て、自らの足で踏み入り、そして喪失した故郷の残響。
ユンフは、その魂魄そのものが具象化したかのような空間の只中で、静かに立ち尽くしていた。
視線の先。
結晶の牢獄に封じられた、一人のキャラバン。
「……」
目前で感情に塞がれたねじれ。
それは自身の根幹に関わる存在。
彼が居たからこそ、彼が多くを選択したからこそ、
ユンフという存在が今を成している事。
アトリという思い出がある事。
多くの根源が、今目の前で瓦解していた。
掛ける言葉が見当たらない。
胸奥では、感情が荒れ狂っている。
だが彼は、それを決して表層へ押し上げなかった。
都市に生きる人間の一人として。
フィクサーとして。
そして、思い出を背負う旅人として。
彼は、静かに双眸を開いた。
「……レビさん……」
「俺は今、都市の人間として生きている」
「そして、都市の人間として生きる所以が、俺達の故郷での物語の原点にある」
「こうして此処で対話を成せるのも」
「俺が思い出を探していけるのも」
「あらゆる俺の根源を」
「貴方が護ってくれたんです」
「……だからこそ、掛けるべき言葉はあるはずなんですが……」
「貴方も俺も、今は都市に居る」
「そして、ねじれとして貴方は顕現している」
「……心苦しいですが……」
「どうか、今は都市の人間としての俺に、付き合ってください」
『……』
「俺にティダの記憶を見せた以上」
「貴方には意思疎通が可能な範囲でのねじれ進行度に留まっているはず」
「……俺の声は、聞こえていますか?」
淡泊な声色。
だが、その声の通りは、レビに向けられたもの。
里帰りとしてねじれ化した彼は、その結晶内で力無く首を動かし、
赤き装飾を揺らしながら
拘束具の鎖が、鈍い金属音を響かせた。
『……突然だった』
声が、響く。
それは耳ではなく、直接心臓へ浸透してくるような、異質な共鳴だった。
『俺を纏う闇は、瘴気のように苦痛で』
『俺と言う自我の殻が裂かれる世界だった』
『ラモエ……アレは、俺の魂を取り込み、その存在をこの都市で確立させようとしていた』
『だがそのラモエでさえ、囚われの身だ』
『ある空間に、本として囚われた奴は、感情の昂りによって具現化しかけた』
本。
その単語に、ユンフは反応を示す。
『だが、不安定な昂りだ』
『其処はシェラの里のような本に囲まれた世界であり』
『戦っている奴らが居た』
『開きかけた本は、そいつらの感情に吸い寄せられるように力を無くす』
『その時だった』
『その本から、俺は飛び出した』
『決して形が合った訳ではない』
『ラモエが逃げたがっていた中で、俺だけが抽出された』
『ギラギラ燃える夕焼けの背景の中』
『その声と共に、俺の魂は都市に投げ出された』
里帰りの抑揚の無い声が、沈むように部屋全体に響く。
否、その響きは、心に直接語り掛けるような反響があり、
彼の内側に語るものがあった。
「……」
ユンフは里帰りから得た情報で、糸を結び直していく。
故郷。都市。ティダの村。ラモエ。L社。図書館。幻想体。ねじれ。感情。転移。
断片。断章。断絶。
決して致命的ではない情報が羅列する難問。
過程を失い、結果だけが累積した難解なる事象。
それでも彼は、目の前のねじれがどういった経緯で此処まで来たのかを、推測した。
「……そうか……」
「貴方は、図書館に居るラモエから引き離された魂」
「肉体は既に無くなっている」
「残留思念となった貴方は、図書館内での戦いに巻き込まれ」
「其処の生存者の転移に巻き込まれたのか……」
「……V社は、楔事務所の構えている拠点だ」
「転移装置を付けられた人や、オスカーさん達に関連しているかは定かじゃないが」
「貴方は図書館での戦闘の区切りで、このV社に辿りついたんですね」
「そして、『声』を聴いてしまったのか」
視線を逸らす事は無く、空洞にさえ思える里帰りの表面を見つめ続ける。
その堂々たる姿を見据えて、里帰りは再びゆったりと首を下ろした。
『……お前』
ほんの僅か。
結晶越しに、苦笑にも似た気配が揺れた。
『そんな声してたのか』
『似ても似つかねぇもんだな』
「……」
意思疎通が図れる事を知ると、彼は鋼鉄に触れる予備動作への思考を取り止める。
『ラモエは俺だけじゃ飽き足らず、お前という存在にも手を掛けてたのか』
「……俺の事は、どこまで?」
『ラモエの記憶が見せた、お前の哀しい思い出ってのは』
『俺にとっちゃ胸糞悪いもんだった』
「それも全て、俺を構築する行路です」
『元々行路が一つだった奴は、基盤となる旅路に総てを委ねる』
『お前は元々がどうしようもなかったから、その哀しい思い出さえ自分のものにすんだろうな』
『……』
『零れ落ちた』
『俺の生きる意志も、仲間達に託された想いも』
『その全ては、俺が今、残存する世界には存在しない』
「えぇ、だから貴方は創ったんですね」
「ティダの村を」
「……村人の人格は、嘗て貴方が思い出として所持してきたもの」
「旅で培った人々との交流が、そのまま反映されているように見えた」
『……敢えて聞くが』
『俺がそうする理由は何だと思う』
「故郷で成せなかった風景を再現するため」
『半分ってところか』
『その半分にしか至らないところが、お前自身が既に都市に染まっている理由かもしれねぇ』
「……」
『……違うか』
『お前も、足掻いている人間だもんな』
『俺と同じ、故郷の風景を胸に秘め、都市を生きるクラヴァット』
『諦観を拒絶したはずが、受け入れちまっている憐れな存在』
黄金畑によって開かれた窓から、高い位置の風が室内に吹き荒ぶ。
結晶内の風景は一切揺れず、大切な時を護るかのようにその固有結界は微動だにする事はなかった。
『何故、お前のような存在が都市に居るのか』
『簡単な話だ』
『何の因果か、都市と繋がれたラモエという存在』
『奴が最後に食ったのは、ティパの村のクリスタルキャラバンの思い出』
『絶望とは程遠い、希望に溢れた尊き思い出だ』
『その中に、お前の存在は無い』
「……」
『裁縫屋の繋がりは、家族を思う呪いだった』
『お前も知らない代々受け継がれたキャラバンの意志』
『その光を浴びたラモエは、さぞ苦しかっただろうな』
『哀しき思い出さえ打ち破る、あの黎明』
『その黎明を愛するお前を見たアレは、その抑鬱を欲するだろう』
『お前を哀しみが続けば、きっといつか復活出来ると』
『だからティダの村を選んだんだろう』
『お前を誘う地』
「……何故そこまで、ラモエの心情を……」
『奴の懐に囚われていたんだ』
『そして、奴の心情に嫌気が差しながらも』
『その渇望する生存本能に、同情さえ感じる』
『俺は目的を成す為に、此処いるからこそ』
『ラモエの存在さえ今は認めざるおえない』
「……」
『不思議か?』
『ティパの村のクリスタルキャラバン』
「……」
『そこまで答え合わせをしたつもりはないが』
『残り半分、分かるだろ』
「……」
「里帰り」
「貴方は帰郷を目指している」
「だが、その身は都市に囚われた思念体」
「だからV社の一部を侵食したその力は」
「帰郷できる場所を作る力だと思った」
「嘗てのティダの村を作ることで」
「都市の中で帰る事の出来る場所を用意したんだと……」
「だが、そうじゃない」
「そうだとしたら、貴方はねじれてなんかいない」
「過去の貴方は、仲間を喪い、故郷を失い、家族を失い……」
「それでも、前へと歩む為に、過去を以てして振り返らず、新たな故郷で生きる決心をした」
「その時の貴方だったら、この都市においても、仲間の死に応える為に立ち上がったはずです」
「でも、そうじゃない」
「帰郷を願うからこそ、声に従い、自身の心根を掘り返してしまった」
「……本当に帰ろうとしているんですね」
「ティダの村に」
『バカげた話だよな』
『俺の目的は常に単一でありながら、欲望に塗れていたんだ』
『黄金畑の中で、妻と子供の笑顔を見ながら、ただ仲間に祝福されたかった』
『そう。だからこそ、帰らなきゃならなかった』
『そんな叶いもしない夢を打ち砕く為に』
『俺は死を選んだ』
『だが結果はどうだ』
『結局、あのクソ野郎に弄ばれただけ』
『クラヴァット一人の人生が、潰えただけ』
「……」
「なら、嘗ての村を再現するこの現象には、何の意味があるのでしょうか」
「貴方も理解しているはずだ」
「これは本質じゃない」
「虚像だという事を」
『都市は、あの世界じゃない』
『俺が帰りたいのは、あの世界のティダの村なんだ』
「なら、ここで再現するのは――」
『まだ理解に至っていないようだな』
『縋ってんだよ、俺は』
『希望など何処にも残っちゃいないと悟った日から』
『何度も見せられてきた希望の欠片』
『それを握りしめ、ようやく自身を未来へと送り出そうとした時に』
『ふと燃え上がる故郷への熱情』
『それさえも振りきって生きて往こうとしたってのに』
『結局俺は振り出しに戻って、全てを奪われるだけ』
『故郷にも帰る事が出来ず、拝むことさえ出来ず』
『夕日の微睡に死に往くだけ』
『誰のための戦い』
『誰のために生き』
『誰のために俺は倒れた』
『分からなくなった』
『だが、ただただ思うのは』
『俺は必ず帰らなければならない』
『あの世界に、帰らなければならない』
『声に従った俺の能力は、故郷を思うが故に出来たものだ』
『だから、都市の一部を俺の記憶に変換した』
『そんな再び叶えもしない夢を掲げた俺を、嘲笑うかのように都市はこう呼ぶ』
『里帰りと』
『お前もそうだろ、ユンフ』
『お前も、帰郷を願う一人』
『俺の成す事は、お前にとっても理解の示せるもののはずだ』
「……」
思い出を探し、故郷に帰る。
ただいまを言う人が居る。
彼はその願いを胸に、都市を奔走してきた。
嘗て対峙してきた者達は、そのユンフの胸中を推し量る度量はあれど、
その心中における風景を体験してきたものは居ない。
それ故に、これまでの対話において自身の思い出を語り、
自身の方向標を示す事で、成すべき行路の一つとして語り相手と心を共にしてきた。
だが、目前で縛られた者は違う。
既に、体験してきたものだった。
ましてや、自身の成り立ちの根源であり、
ひいては、自身が存在する所以。
更に、同じ志を持つ都市に生きるキャラバンであった。
だからこそ、ユンフは彼がねじれとして成そうとしている事に、
同じ心を重ねてしまっていた。
そんな彼に理解を示す事が出来なければ、
アトリと共に帰る為に、都市を奔走する自身を否定してしまうようで、
彼は心の内を掴まれているような苦しさを、隠していた。
『ユンフ、お前は何故生きている』
唐突に差し込まれる問い。
『思い出のため』
『そう、お前は言う』
『だがな、それはお前自身や、都市の人間から見たお前の像だ』
『俺は、お前の同類』
『だから分かる』
『お前は、生き残っちまったんだろ』
「……」
『アトリという思い出が眠り、自分が起きたままの世界』
『望まぬ世界』
『お前は、生き残っちまったんだ』
「……」
『本来、お前と云う存在は普通だったんだろうな』
『だが、瘴気に満ちた世界で生まれ、親を亡くし、重責に囚われ、憂鬱に沈んだが故に普通から外れた』
『最初からそうだったんだろ』
『お前はただ生きていた』
『旅の楽しさ、世界の尊さ』
『そんなもん度外視だ』
『ただ生き残る為に、ただ村を存続させる為に』
『ただ同郷の子を護る為に』
『そんな奴が、ある日から生きる意味を見出した』
『希望を持ち始めた』
『だが、結局は生かされていただけ』
『俺もお前も、ラモエの玩具になっただけ』
「……」
『……』
『ユンフ、一つはっきりさせよう』
『俺は、必ず帰る』
『あらゆる方法を使い、倫理観にさえ抗い』
『都市という絶大な絶望にも』
『ラモエという邪悪にも』
『お前という旅人にも』
『決して絆される事は無く』
『消えていった希望を記憶に』
『手離せなかった思い出を胸に』
『俺は、帰る』
『その為に俺が今、している事』
『お前も理解出来ていない部分だ』
『なんだか分かるか?』
「……」
「……まさか……」
ティダの村を再現した都市。
崩壊したティダの村が存在する世界。
そしてその二つの繋がりが存在する空間。
『俺は統合する』
『俺達の世界と、都市を』
異なる世界を一つにまとめる。
「それは駄目だ」
「レビさん、それは帰郷じゃない」
「仮に無事に成功したとしても」
「それはもう――」
『ユンフ、お前はどうだ』
『思い出の為なら、手段を択ばず帰る』
『お前もそういう人間のはずだ』
「レビさん」
『例え全てを良い思い出にしようとしても』
『結果が伴わないなら、其れは思い出にすらなれねぇ』
『……俺は、ティパの村で過ごしたが、利己的な人間しかいなかったあの村の中でも』
『俺だけだろうな。こんな下衆に成り下がっちまったのは』
「だが、どうやって――」
『お前の哀しい思い出は、根源から成り立ってはいたが』
『大きなきっかけの一つとしてティダの村の存在があっただろう』
『その絶望の園を通じて、この絶望の都市に舞い込んできた』
『ゲートは出来ている』
『ラモエを通じて潜ってきた俺達のゲートだ』
『感覚的に理解出来ている』
『世界を繋ぐ手法』
『地下に流れる川から聞こえる』
『川の水を宿した花が芽吹かせた木』
『その記憶を繋げば』
『都市と故郷は統合される』
「……」
「統合した世界は、どうなる」
『比重を傾ける』
『都市を、崩壊させる』
「……」
『分かんだろ』
『お前なら、分かんだろ』
『帰りたい、なんとしてでも帰りたいと思う俺の気持ちを』
『混濁した意識、最早命さえなかった俺の魂が』
『死を通過してでも縋りついた帰路』
『一度手離したかけがえのない思い』
『ユンフ。お前も手放されてしまった人間だ』
『何も俺だけが良い思いをする訳じゃない』
『ユンフ。俺は、もう一度お前を救ってやれるんだ』
『俺の手で、俺の力で』
『あのラモエの野郎をぶっ飛ばして』
『お前が望む記憶を取り戻すことだって出来る』
『お前の思い出を、傍で護ることだって出来る』
『都市と故郷を繋ぎ、一つにするんだ』
『そしたら、俺達は帰れる』
『ここには故郷なんかないけど』
『故郷を作ることさえも空しいけど』
『故郷に帰る事は出来るんだ』
「……」
『ユンフ』
『何も協力しろとは言わない』
『ただ、そっとしておいてくれ』
『そうしたら、全てが上手くいく』
『もう希望にも、絶望にも振り回される必要はないんだ』
『だから、頼む』
『見逃してくれ』
「……」
肯定も否定も、諭す事も出来ない。
彼の提案は、自身が都市を駆け抜けるに当たって、答えに近しいものだった。
思い出を取り戻し、ただいまを言う。
これからも戻れる保障がある訳でもない。
現実的な観点から考えれば、レビの提案は思い出を持ち帰って、故郷に帰る為の最短ルート。
「……」
だからこそ、彼は答える。
「……出来ません」
都市に蒔いてきた種。
行路を歩み、方向標を立て、流れに抗い、
あらゆる思い出を咲かせてきた彼。
『……何故だ』
『お前は、俺の知るお前は』
『綺麗ごとの中にある汚い感情があったはずだ』
『何故』
その行路はどれも苦しく、美しく、
彼を彩る一つの旅路であった。
「……俺は、見送られた側の人間だからです」
多くの寄り道に、彼が示した旅路の途中の脇道に、
都市で関わってきた人々が立つ。
「レビさん、俺はいい思い出をたくさん抱えているんだ」
「その思い出を抱えられるように、生を宿せたのは」
「貴方のお陰」
「だが、この都市を歩む俺は、俺自身の利己で成り立つ物語」
「根源に浮かぶ思い出は、見送ってくれた思い出は」
「俺のこの物語を喪う事を」
「是としないのは分かっている」
「――だからこそ、俺の取る選択に」
「――きっと、怒るんだろうな……」
故、その瞳に宿された決意の揺らぎは、
レビにさえ捉える事の出来る恐怖の前兆。
だが、その恐怖さえ、彼は受け止め、
言葉を紡ぐ。
瞳を、向ける。
『……』
「……今、貴方が話しているのはティパの村のクリスタルキャラバンとは違う側面」
「都市の人間として此処に立つ、ガンパウダー工房フィクサー」
「透明の軌跡」
「……里帰り」
「俺の声を聴くのは後だ」
「今は、その胸中に秘められた感情と」
「俺の湧き出す憂鬱への前進を、抑え込もう」
「……」
「今日、都市の星が一つ沈むことになる」