連合王国設定集
人物関連設定
女王>> 16 首相>> 17 副首相>> 19 外務大臣>> 29
性別:男性 年齢:59歳 誕生日:2月10日 職業:陸軍大将 思想:植民地政府 呼び名:特になし 出身地:カーディフ 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:レコード 色々:数年前ブライアン・マッケンジーはガラパゴスへの悲惨な介入で賞賛され名声を得た。そして今トラストでの無政府状態に対する究極的な勝利の中で、彼は軽蔑と憤りだけを見出した。運常戦争からだちだら続く反乱へと状況が変わる中、マッケンジー将軍は反乱を鎮圧し、トラストの政治的未来を決定するという不快な立場に置かれている。
トラストにおけるWOLF続治の進産は、マッケンジー将軍の下では見られ、政権からの変化よりも継続性がそこにはあった。心をつかむためにリップサービスをしているにもかかわらず、マッケンジーはトラストで活動している企業と戦争で荒廃した国で生き延びようと奮闘している現地民の両方に慎重な対処をしていた。南昌での攻勢の際に自軍が行った虐殺の疑惑により、すでにロンドンからの非難を受けているが、マッケンジーはまたこの地域で企業に行動の自由を認めなければいけないという大きな経済的プレッシャーにもさらされている。
マッケンジーにとって南昌事件以来、状況は大きく変化した。この戦争に栄光はなくどんな勝利であっても、何千人もの命が失われたことへの慰めにはならない。本国のマスコミが兵士たちの帰運を叫ぶ中、マッケンジー将軍は、必然的に帰囲する前に、この地域に連合王国の痕跡を残すための最善の方法を決めなければならない。
ただし、それが成功するかどうかは彼以外にもかかっている。
性別:男性 年齢:43歳 誕生日:3月7日 職業:貴族院議長、連合王国臨時首相 思想:キリスト教保守主義 呼び名:上院のローレンス卿、片目のチェスター 出身地:ロンドン 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:オペラ 色々:ほとんど首相にとって、就任式は長年にわたる政治的な野望と成功の集大成であり、彼らを国の最高職に就かせ、最終的に理想とする国家を形成する機会をもたらす。しかし元貴族院議長のチェスター・ローレンスは、そのような首相の一人ではない。
正義と汚職の日に議会からロンドンに急遽呼び出された彼は混乱に陥った国と向き合うことになった。エイムズ首相のトラスト侵攻に関する行動への怒りが議会内の政治的な礼儀のようなものを完全に無視し、絶え間ない怒号合戦が弾劾裁判の判決が出されるよりも多くの時間を費やしていた。また国民も声を上げ、毎週のように暴動や抗議行動が起こり、有権者は労働党の急進派を支持するために登録を変更した。
ローレンスはロンドンに閉じこもり、国家に影響を及ぼす問題について、倍頼のおける側近や友人たちにだけ話し、連合王国が直面している荒波を静めるのは副首相と内務大臣に任せることにした。危機に瀕した保守党、分断を招く人種隔離問題、そして急速に段階的拡大をするに直面し、消極的な首相の今後の数日間が、この国の今後数年の方向性を変えることになるだろう。
性別:男性 年齢:61歳 誕生日:9月9日 職業:陸軍元帥、西方方面軍総司令官 思想:軍事政府 呼び名:特になし 出身地:リーズ 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:CD 色々:戦争で最も激しい戦いが繰り広げられたトラストはWOLFの統治以来、現在のブランチャード将軍までの指導者にとって常にとげのある存在であった。トラスト利軍委任統治領は、連合王国とチェコの攻勢をうけて現地のゲリラが崩壊したために急遽設立されたもので、ほとんど国家とは言えない状況であった。 不安定な皆定国家は今、政権の残忍な弾圧を生き延びた共産主義者による反乱と戦わなければならない。
ウィリアム・ブランチャード将軍は、当時最初の攻勢に勝利したことで連合王国のマスコミで広く称せされ、後に彼の物議を醸し出した損耗戦略という仕事ができる唯一の男である。爆撃機と火砲における連合王国の優位性を最大限に活用したブランチャードは、戦場で大成功を収めたが、本国からは強く非難されていた。トラストの秩序を維持するために必要と考えられる残忍な抑圧は一層本国からの非難を強めるだろう。優れた火力は、敵が優れた戦力に直面した場合、ジャングルの中に溶け込んでしまうだけで、ほとんど意味を持たない。
平和をもたらすことを使命とする戦争の男、ブランチャードは、反乱理を倒し、トラストを安定させるために、本国からわずかに残された好意が尽きる前に、時間との戦いに身を投している。
性別:男性 年齢:55歳(死亡) 誕生日:1月29日 職業:元CPGB書記長 思想:マルクス・レーニン主義 呼び名:スターリンの申し子 出身地:ピーターヘッド 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:談話 色々:ハーヴィー・ホワイトには多くの言葉が当てはまるが、その中に「首相」は含まれていない。 彼はアバディーンシャーの広大なピーターヘッドで、スイス移民の子供としてフリッツ・フォン・ヴィルトとして生まれ、9人の兄弟と共にドイツ語を話しながら、極寒の丸太小屋で育った。 ホールは15歳にして、家族を接うために学校を中退して伐採所で働き、すぐに共産青年同盟に加入した。その組織での活動のおかげで共産主義の聖地たるグ連に行くことができ、ホワイトは国際レーニン学校で数年間勉学に励んだ。1980年代には、様々な州で鉄工所や農家、チームスターズなどのストライキに参加し、警察や上司を相手にして戦った。
その後革命的祖国防衛主義に基づき海軍に入隊した後、ホールは2000年代の大半を、連合王国政府の転覆を提案したとして検察に追われていた、だが彼はリバティニア共産党のメンバーとして、大学のキャンパスで講演をしたり、テレビの生放送で保守党議員と討論をしたりして、その名を知られるようになった。しかしこのままでは、連合王国政界のマイナーな存在として終わるはずだった。しかしそれは、労働党とLCPの台頭によって覆された。今、ホワイト首相となった彼は、連合王国で虐げられた人々を高揚させ、労働者階級を団結させ、少数派の富裕層では なく多数派の労働者のための新たなリバティニアを創造しようとしている。
ハーヴィー・ホワイトは首相として急進的な道を歩んでいる。彼は公約にて、富裕層への増税だけではなく、自身の社会主義的ビジョンを実現するために、連合王国経済を全面的に再構築することを立言している。この公約の一環として、 反動や保守派が主導してきた組織は一掃されることとなる だろう。そして、社会主義は世界中で推進され、古き帝国主義の連合王国の野望は、新しい、赤い鷲に取って代わら れるだろう。労働組合ーー一古き偉大な発明ーーーは、産業界 でのかっての地位を取り戻すだろう。平等主義と公平性を支持する判事が任命されるだろう。ハーヴィー首相は、何よりも民主主義の維特・促進を目指すことになるだろうーーーそれが連合王国の死を怠味することになろうとも。
彼は確かに「首相」ではないかもしれない。だが、ハーヴィー・ホワイトは確かに革命的なリバティニアを目指している。
注意:首相就任後の説明です
性別:男性 年齢:44歳(死亡) 誕生日:12月10日 職業:国民戦線党首 思想:ファシスト・ポピュリズム 呼び名:道化師 出身地:ニューキャッスル 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:執筆 色々:レイフ・エドワード・ハリソンは、首相としての権力を身につけるとは、ほとんど予想だにしなかった人物である。しかし、今、連合王国史上最も論争的な選挙の後、率直なファシストがロンドンに座っている。 もともと作家、皆学者であったハリソンは、1930年代に世界各地で起こった権威主義、ファシズムの動きに魅了された。弁護士を目指しながらアドルフ・ヒトラーの著作に興味を持ち、反ユダヤ主義、超軍国主義といったナチスの思想を取り入れた。「帝国主義:あらゆる大国の鉄則」という自称の大作を出版した後、ハリソンは有権者達の新たなる投票先として極右政党を設立し、連合王国政治に新しい動きを起こした。 ハリソンたちは、当初「ナショナル・アクション」と名乗っていたが、すぐに連合王国の他の政治勢力から忌み嫌われ、単に「極右」と呼ばれるようになった。しかし、敵の失 態と天の恵みで、彼の派閥は今や連合王国の政治体制に勝利している。
ハリソンの首相就任は、少なからぬ木造所からネズミをかき集めることになった。連合王国では、多くの都市で、クー・クラックス・クランを真似たフード付き白衣を着た男達を見かけることが少なくない。同様に、過去数十年間にかけて制定された画期的な新公民権法の廃止も公然と語られている。黒人のリンチはますます多くなり、気づかれることなく、調査されることもない。要するに、惜しみが連合王国全土で普通になっており、政治体制内外の多くの人々がこの権威主義の波の行く先に怯えているのである。
ハリソンは、地球上で有数自由主義国家のリーダーであるにもかかわらず、自由についての意見は不明瞭で矛盾している。多くの人は、彼が連合王国の自由を維持するためにどんな外見的な見せ方をしようとも、彼は依然としてファシストであり、首相の地位を強化するためにできることは何でもやるだろうと思っている。ハリソン自身は 「文化の破壊者」と断じて、西洋文明を守ると主張してい るだけだ。ハリソンが何から守っているのかは不明だが、十字架と星条旗のマントを持って、レイフ・エドワード ・ハリソンは首相官邸に座り、連合王国に自分の意志を実行しようとしているのだ。
性別:男性 年齢:50歳 誕生日:8月25日 職業:国民党保守派議員 思想:ディキシークラット 呼び名:ジム=クロウの亡霊 出身地:ペンザンス 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:執筆 色々:国民の大切な権利と自由を擁談しつつ、ジャップの脅威から自身の誇らしい祖国を守ろうとする唯一の存在である高潔な紳士かのように、あるいは真の勇ましいアングロ・サクソンかのように、ジョージ・C・ウォリックは自らを見立てている。しかし実際のところは、彼は卓越した日和見主義者であり、自身の得票率を最大化するためには喜んで自分のイデオロギーを好きなように成形する。故郷ペンザンスの知事として良き白人有権者を取り込もうとした結果、彼は必然的に、地方分権を損なおうとする非連合王国的第五列をあらゆる面で防ぐ、頑強な隔離主義制度の擁護者となった。1999年の内乱によって議会が混乱に包まれし、「結束の南部」の忠誠が揺らぐと、ウォリックはジョージ・オーチャード・テムズが創設したばかりの国民党へ参加し、同党をの上位に導けるよう確固たる手腕で貢献した。
選挙戦においては、フランケンシュタインのようにつぎはぎな国民党の支持層、ひいては国民の大多数の支持を十分勝ち取るために、ウォリックは自分の立ち位置をうまく穏健化させた。しかしの座を得た今、国民党の多くの保守派議員との便宜的な同盟関係は急速に薄れつつある。 自分が体制側なのに、体制側を憎むことだけに縛られた政党をどうまとめるというのだろうか?しかしウォリックは、この同盟が長く続ぐとは考えていないようだ。むしろ彼は隔離政策を法的に後押しすることに、可能な限り時間を使うつもりであるようだ。そして隔離制度が事実上除去不可能になったとき、彼は故郷に帰り、南部の救世主として永遠に不滅の存在となるのだろう。
性別:男性 年齢:54歳 誕生日:4月13日 職業:MI6長官 思想:国民保守主義 呼び名:ロー・ブランド 出身地:ダグラス 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:ドラマ 色々:マドリードの外務宰相とロンドンの首相が始めた新冷戦は多くの国々やそこに住まう国民たちに様々な影響を及ぼした。そしてそれは新冷戦が終結した今でも続いているように思える。その一例が新植民地主義と情報戦の到来だ。我々は新たな時代に備える必要があるのである。
古き良きダグラスにて上流階級の子として育ったジェームズ・ロー・ブランド卿はケンブリッジ大学を卒業後すぐ自身の夢を叶えるべくジャーナリストの道へ突き進んだ。それはお世辞にも楽な選択肢とは言えないものではあったが彼にとってその生活は充実しきったものであるとはっきり言えるものであった。しかし彼は向上心を忘れることは一度たりともなかったといえる。1999年にアイルランドの人民が自由を求めて戦うことを選択したとき、彼は自身の力を国益のために活かすためMI6の職員となり二重スパイとして活動することを選択した。
彼の才能と忠誠心はここでも活かされることとなる。ロンドンからの信頼を得た彼は徐々にその地位を獲得していった。そして新冷戦が終結した時、彼は首相による指名のもと長官の地位に就く。その先にある道は一体どこへ続いているのだろうか。ただ一つ確実なことは、連合王国は彼を必要としているということだけだ。
性別:男性 年齢:52歳 誕生日:2月27日 職業:元労働党党首 思想:改革社会主義 呼び名:パイプ・エイヴォン 出身地:ハダーズフィールド 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:執筆 色々:社会主義と民主主義は相容れないという議論がある。労働者は、その苦労に対する正当な報酬を得ることができず、同時に政府に対する投票権を持つことができないというのだ。 しかし、ハロルド・エイヴォンは、そのような主張が間違っていることを証明するだろう。
第二次アイルランド独立戦争の最中、一介の公務員に過ぎなかったエイヴォンは、秩序と平穏が崩れ去るのを目の当たりにしながら、何もできなかった。その影響もあってか、彼はアーサー・フリーマンが首相となり、彼自身も財務大臣に抜擢された時、あらゆる手段を用い愛する国家とアイルランドの復興を最大限できるよう経済を支え続けた。
やろうと思えば、フリーマンに直談判しアイルランド人を見捨てることもできたかもしれない。しかし、彼はそれをしなかった。社会主義に民族の壁はない。そして民主主義は万民に選挙権が与えられ、望む候補に投票する権利である。この選択こそ、エイヴォンとは、ハロルド・エイヴォンとは一体何かを他の者全てに物語っている。エイヴォンは、彼の率いる社会主義的な民主主義者や労働組合の擁護者などからなる分裂した党と今も戦っているのだ。
性別:男性 年齢:48歳 誕生日:5月1日 職業:労働党党首 思想:左翼ポピュリズム 呼び名:組合の代弁者 出身地:ロンドンデリー 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:読書 色々:マイケル・チャリントンは現代の議会ではなく、ディズレーリやグラッドストンの時代の人間だ、と同僚の下院議員が言ったことがある。教養のない人間には、ばかげたことに思えるかもしれない。 急進派であり、アトリーやフリーマンの後継者であり、労働組合の意思の代弁者であるチャリントンが、ヴィクトリア朝時代の人間であるはずがない。しかし、その急進的な外見の裏側には、労働者階級の苦境を語るのと同じくらい簡単にブルジョワの批判を口にすることができる知識人がいる。
チャリントンは、同時代の多くの人々と違って、労働者階級の生まれではなかった。自由主義者に育ったチャリントンが、初めて社会主義に傾倒するようになるのは、連合王国全土の不平等を目の当たりにした後であり、彼が最初に社会主義に身を投したベルファストでは、それが最も顕著であった。90年代を通じて、チャリントン自身は新聞雑誌編集を通じて労働党に身を捧げることになるが、その中でも、保守党政権が続けていたアイルランド政策に対する痛烈な批判を執筆し、『Guility Men(罪を犯した男たち)』(アイルランド政策に対する痛烈な批判)という本に結実させた。
第二次アイルランド独立戦争が勃発すると、チャリントンも軍に入隊しようとしたが、病状のために戦えなかった。にもかかわらず、国民政府の失敗を意に介さず戦争努力を支持し続け、保守党政権がいかに連合王国に戦争への備えをさせず、直面している敵そのものに協力したかを指摘し続けた。別の世界では、この美辞麗句がアイルランド共和軍による彼の死を招いたかもしれないが、『デイリー・ミラー』紙で働きながらチャリントンと親密な関係を築いていたローレンス卿の介入のおかげで、チャリントンはドーバーに疎開し、政治家としての職務を諦めさせずにすんだ。戦後の復興の最中でも、空想にふけるチャリントンはあきらめなかった。彼は海外での活動を続け、最も影響力のある労働党指導者の一人となった。さらに連合王国への献身を続けた結果、やがて彼は労働党副党首に選出され、その役割を得意とするようになる。労動党副党首として、彼は台湾の人々とともに行進し、カーチス・キシと食事をし、自国の解放のためだけでなく、世界の自由のためにも絶えず戦ってきた。そして今、チャリントンはついに故郷に戻った。新しいエルサレムに立つチャリントンには、前途多難な任務が待ち受けている。 何千人もの人々が飢えに苦しみ、 何万人もの人々が貧困にあえぎ、何十万人にもわたるアジア人は自身の権利を求め活動を続けている。この仕事は困難を極めるだろうが、もしチャリントンが成功すれば、連合王国には永遠に赤旗が旗めくことになる。
性別:女性 年齢:47歳 誕生日:1月6日 職業:国民党保守派議員 思想:新保守主義 呼び名:特に無し 出身地:オックスフォード 宗教:プロテスタント 使用言語:英語 趣味:執筆 色々:ラーリーン・ドブソンは、支持者の歓喜と敵対者の恐怖 の中で不可能を可能にした。この過激な保守派は実力者たちを打ち負かして連合王国首相となったのだ。数年前までこんなことが起こるなど夢にも思われていなかった。2000年代、ドブソンは中西部の右翼たち以外では ほとんど知られていない人物であった。彼女は、保守派の研究者、活動家として活動しており、夫と共に、共産主義者とファシストの浸透に関する弁護士協会の報告書を執筆した。彼女はサウス・ウェスト・ノーフォーク選挙区からの下院議会選挙に出馬したが、いずれも落選した。国防に関する彼女の著書は少しの関心を集めた。
2010年代の混乱がすべてを変えた。ドブソンは2018年、新公民権に関する行動を要求するという綱領を追加するという保守党の決定に反対する抗議活動を主導し、支持を集めた。リベラル派の腐敗といわゆる「ロンドンの貴族達」 を糾弾した彼女の著書『伝統を保護せよ』は、ジョージ・ウォリックを国民党の候補者に選出する決定に影響を与えた。冷戦に伴う世界的な混乱によって、統治者たちの「国防政策」を非難する彼女の著書は新たに注目を浴びることになった。ドブソンが「無益な国際主義」と「キリスト教的家族観への攻撃」を批判して国民党に入党する頃には、彼女は自分たちを置き去りにするような国に激怒する何百万人もの不満を抱いた白人の象徴となっていた。
彼女はその深い不満を利用して、国民党の保護者、アングロ・サクソンからの支持、そして連合王国首相の座をつかんだ。今、これまで選挙で選ばれた経験の無い強硬な反動主義者が、国家で最も強力な役職に就いている。彼女の登場によって連合王国は新しいタイプの闘争、すなわち文化戦争への突入が約束された。
注意:首相就任後の説明です。
企業関連設定
コンテンツ
種類:株式会社 業種:電気機器 設立年:1996年 創設者:翁敬黎・榊貞一 代表者:榊貞一 従業員数:約57000人 本部所在地:広州 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 2006年に設立されたルコラ・エレクトロニクス株式会社は、2012年に買収を経験し、一時は消滅の危機に瀕したものの、2017年に再び独立。独立以降、ルコラは広東への積極的な進出を行うようになり、欧人技術者を中心とした最先端の電子計算技術の商品化に専念してきた。
しかし榊にとって、機械はあくまでも手段であり、その目的は人間の知的能力を全面的に高めることにある。食らいついていくのに十分な知性を持つ者たちのための、非常に野心的な実力主義の未来だ。榊の世界には、向上だけが唯一の道である。
・翁敬黎(中)&榊貞一(日) (2006~2012) ・大野瑛二(日) (2012~2017) ・榊貞一(日) (2017~)
種類:株式会社 業種:電気機器、金融業、軍需産業、情報サービス業、不動産業、インフラ 設立年:2002年 創設者:トーマス・バラカ・フェリックス 代表者:トーマス・バラカ・フェリックス 従業員数:約193000人 本部所在地:ロンドン ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第二次アイルランド独立戦争により疲弊した連合王国にて台頭したフェリックス・インターナショナルはスマートフォンやタブレットなどの開発を盛んに行い事業を拡大。広東国への進出や軍需産業との結びつきなどを進め、今や連合王国を代表する企業の一つとなった。
海外進出は連合王国の息のかかった領域のみにとどめ、発展していく植民地と自治領にて事業を展開している。一方で近年海外進出も視野に入れつつあり、科学技術の発展を彼らは望んでいる。
・トーマス・バラカ・フェリックス(英) (2002~)
種類:株式会社 業種:石油、石油化学、ガス、再生可能エネルギー 設立年:1909年 創設者:アレキサンダー・ローゼンベルク 代表者:オースティン・デイヴィッド・ローズ 従業員数:約132000人 本部所在地:ポーツマス ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 大英帝国が中東へその版図を拡大したとき、ドイツ系移民であるアレクサンダー・ローゼンベルクは石油という無限大の可能性を秘めた資源に目をつけた。イランを始めとした石油産出国、近代化に伴い発生した石油需要を自国内で解決するため、ローゼンベルク石油株式会社は事業を広げ、二度の大戦によりその地位を完全に確立した。
戦後クウェートやUAEなどで石油が発見され、彼らは地主や首長と結びつくことでその利益を確保。現在では多数企業との提携や広東国への進出などにより順調に事業を拡大しており、多角化を進めている。
アレキサンダー・ローゼンベルク(英) (1909~1921) ・オースティン・デイヴィッド・ローズ(英) (2023~)
軍事関連設定
カート・コバーン級ミサイルフリゲート 計16隻 デヴィッド・ボウイ級ミサイルフリゲート 計24隻 ナッシュ級フリゲート 計12隻 ハリー・スタイルズⅡ級フリゲート 計24隻 キャボット級フリゲート 計18隻 トール級コルベット 計18隻 エルマ級コルベット 計16隻 ホンコン級ミサイルコルベット 計18隻 アイディン級哨戒艇 計16隻
ルイス級哨戒艇 計12隻 フィリップス級ミサイル艇 計8隻 ポセイドン級可潜航空巡洋艦 計2隻 シナトラ級原子力潜水艦 計12隻 マーセルス・ウォレス級原子力潜水艦 計24隻 アッツ・ブロックII級原子力潜水艦 計24隻 アクセル・ローズ級原子力潜水艦 計18隻 ソリッド級原子力潜水艦 計3隻 モヴェーレ・クルース級戦略原子力潜水艦 計9隻
トマス・アーン級補給艦(帝国製) 計12隻
大型艦:80隻 小型、中型艦:380隻 潜水艦:92隻 補助艦艇:12隻 合計艦艇数:564隻
チャレンジャーⅢ 主力戦車 エレファント 歩兵戦車 ケントゥリオ ATCV-L クロムウェル 装甲兵員輸送車 エイジャックス 歩兵戦闘車 ウォーリアー 歩兵戦闘車 モントゴメリー 歩兵戦闘車
GPWV:ホース 汎用四輪駆動車 GPTS 八輪軍用輸送車
スピッドファイア 多用途戦闘機 F-19C:クックロビン 多用途戦闘機 F-17C:リープ 多用途戦闘機 A-4D:サーペント 攻撃機 B-4B:ブラックバード 戦略爆撃機 B-18G:ジャスティス 戦略爆撃機 E-4A:ヴァルチャー 早期警戒機 KC-121:エイフェツト 空中給油機
C-19J:スーパーケルピー 戦術輸送機 AC-19J:フォートレス ガンシップ AR-26:ペンブローグ COIN機 MQ-10:スパーク 無人戦闘機 MQ-7:ヒュドラ 無人攻撃機 RQ-8:チャイニーズ・ドラゴン 無人偵察機 MR-10:アームストロング 高高度偵察機 MR-12:シューティング・スター 戦略偵察機
ケルト 攻撃ヘリコプター グリフォン 攻撃ヘリコプター ハル 汎用ヘリコプター ストーク 輸送ヘリコプター
シーファイア 艦上戦闘機 F-23E:ソロモン・グラビティ 艦上戦闘機 F-14B:ヘルキャット 艦上戦闘機 E-3C:ビーグル 艦上早期警戒機 S-6C:カナロア 艦上哨戒機 MQ-11:チャコール 無人戦闘攻撃機 ケルト 攻撃ヘリコプター シーガル 汎用ヘリコプター シーライオン 輸送ヘリコプター
LA-18 自動小銃 M19A1 半自動式拳銃 パシフィック・リボルバー ダブルアクションアーミー
特殊部隊など
創設:1944年8月28日 所属組織:王立陸軍 司令官:ヒューイ・アンダーソン少将 隊員数:約1000名 愛称:なし 標語:Loyal to orders.(命令に忠実で) 目的:特殊工作 その他: リバティニア陸軍の特殊部隊。
創設:1951年1月1日 所属組織:リバティニア海軍 司令官:ドナルド・メンデンホール少将 隊員数:約2000名 愛称:なし 標語:With the sea(海と共に) 目的:特殊工作、上陸支援 その他: 利海軍の特殊部隊。隊員全員がフェイスベールを装備しているその独特な見た目から「妖怪」とも呼ばれている。
創設:1952年10月3日 所属組織:近衛局 司令官:エリザベス1世 ジョン・E・カニンガム 隊員数:約8000名 愛称:ロイヤルホームガード 標語: Her Majesty the Queen's Loyal Servant(女王陛下の忠実なる僕) 目的:衛兵任務 その他:王立陸軍近衛師団麾下の各部隊に所属する精鋭兵達からなる組織。君主の警護や衛兵任務だけでなく、一般部隊と同様に実戦部隊としての任務もこなしており、そのための訓練を受け、最新の装備も支給されている。また、正装である赤い上着に熊の毛皮の帽子という格好と、直立不動の姿勢で警衛する姿は観光資源としても、非常に有名であり連合王国を代表する部隊の一つである。
国内関連設定
組織関連設定
設立年月日:1909年10月1日 種類:諜報・諜報活動 管轄:連合王国外務省 人員:7465名 本部所在地:ロンドン 監督大臣:マティアス・クリス・トレント(外務大臣) 現行政官:ジェームズ・ロー・ブランド 支局一覧: 太平洋支局 北米支局 中米支局 南米支局 欧州支局 極東支局
連合王国の対外情報機関、MI6と呼ばれる。主に人的情報(HUMINT)を利用して世界中から国家安全保障に関する情報を収集分析することを任務としている。
設立年月日:1909年10月7日 種類:保安活動、治安維持 管轄:連合王国内務省 人員:5863名 本部所在地:ロンドン 監督大臣:エドワード・メイ 現行政官:ミア・ゴウ 一般的な名称はMI5。主に国内における治安活動を中心に活動する連合王国の秘密警察。2020年のガラパゴス紛争後には同地域の反乱者を鎮圧しており、現在でも政府直属の組織として展開している。
・海峡艦隊 司令官:ヘンリー・ウィリアムズ少将 旗艦:空母ブレイズリープ 拠点:ポーツマス
・北海艦隊 司令官:エドワード・オリンズ中将 旗艦:空母ヴィンテージ 拠点:エディンバラ
・大西洋艦隊 司令官:アラン・M・ストリンガー大将 旗艦:空母オーゼン 拠点:ゴールウェイ
・太平洋艦隊 司令官:ウィリアム・D・ポーター大将 旗艦:空母ミッドウェイ 拠点:ホノルル
・地中海艦隊 司令官:ロバート・マディソン中将 旗艦:揚陸艦タランティーノ 拠点:リマソール
連合王国史
統べよブリタニア
イングランド及びウェールズ王国として長年ブリテン諸島に君臨してきたこの国の最も大きなの転換点は名誉革命の有無にこそあろう。イングランド国王及びスコットランド国王でありプロテスタント信仰に改宗したジェームス2世が議会とカンタベリー大司教を説得し、名誉革命を未然に防いで絶対君主制を存続させたのである。当然それでも国民からの支持はあまりなかったが、娘のメアリー2世と娘婿のウィリアム3世の力を借りクーデターが起きないよう自らの地盤を強化したジェームズ2世は1701年に崩御するまでグレートブリテン王国を建国するべく活動した。その後に登場したのはステュアート朝最後の君主であり、後にブランデー・アンと呼ばれるようになるアン女王である。1707年にイングランドとスコットランドの合同法を成立させた彼女は、両王国のそれまでの同君連合という関係からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化させるという偉業を成し遂げた。さらに国力をつけた王国はスペイン継承戦争に呼応しアン女王戦争を開始、これでもまた勝利を収め、先代と異なり大衆の支持を獲得したアン女王であったが唯一の欠点として17回も子を授かったにも関わらず20歳まで生きた子供が1人もなく後継が誰もいなかったことが挙げられる。結局状況が改善されることはなくアン女王は1714年に49歳の若さ崩御し、王国は議会による審議の下ステュアート朝と血の繋がりがあるドイツのハノーヴァー朝を向かい入れた。連合王国は議会による審議の末王位継承権を制定し同家のゲオルク・ルートヴィヒをジョージ1世として向かい入れた。しかしジョージ1世はすでに50歳を過ぎていた上、当時の国際語はフランス語であることから英語の理解に限界があると判断され、その後プリンス・オブ・ウェールズに即位した次代のジョージ2世も既に30歳をすぎていたことにより、連合王国の政治参加にあまり興味がなく既にハノーファーの軍事や政務を担っていたので徐々に国王の権限は弱まっていった。それに加えて彼らは即位後もしばしばドイツに滞在し、連合王国を留守にすることが多く、これを見た連合王国議会はホイッグ党リーダー、後の連合王国初代首相となるロバート・ウォルポールを中心に無血クーデター(自由革命)を決行。これは成功しジョージ2世を廃位に追い込んだ。その後1738年にジョージ2世の孫でありハノーファー朝で最初の連合王国出身の国王であるジョージ3世が即位するまでの間ウォルポール首相と後に2代目首相となるスペンサー・コンプトンは臨時的に議会による共和政を行い、議院内閣制民主主義の基礎を完成させ、現在の連合王国の基礎を築いた。またリバティニアという国号は改革に対する演説の際にコンプトンが発言した「自由の民の王国」という言葉に由来している。
パクス・ブリタニカと独立戦争
連合王国は権利の章典を発布後すぐ、ポルトガル、スペインに遅れること1世紀、17世紀初頭にオランダ共和国とともに大航海時代に乗り出した。東インド会社はインドを中心とするアジアに進出し、約1世後の1858年には英領インド帝国を設置。また北米大陸にも13植民地を設置しフレンチ・インディアン戦争の勝利により広大なルイジアナ地域を獲得するなど領土拡大を推し進め、多数の植民者を送り出していった。しかしこの戦争の影響は経済にも及び、議会は戦費によって膨らんだ国家債務の償還および植民地維持のために送られた軍隊の費用を13植民地への増税で賄う方針を採択。だがこれは植民地からの反感を買い、間もなくこの2つの税法は廃止に追い込まれることとなる。連合王国はなおも植民地に対しての課税を諦めず、1773年には茶法を制定し、植民地での東インド会社による茶の独占と課税を実施。案の定上手くは行かず、これに対し更なる不満を持った植民地人は同年にボストン茶会事件を起こし2年後の1775年にはレキシントンにて王立軍と植民地軍との間の武力衝突が起こった。ジョージ・ワシントンを指揮官とする植民地軍は植民地全域にまで蜂起を拡大し翌年に独立宣言を発表(アメリカ独立戦争)。さらにベンジャミン・フランクリンが妨害工作の実施を諸列挙に呼びかけたことにより連合王国は欧州にて孤立し厳しい戦いを迫られ1783年、パリ条約により独立戦争は13植民地の勝利で幕を閉じた。また、これを機に勃発したフランス革命は、連合王国史史においても次のエポックを作り出すことになる。ウォルポール以来のホイッグ党の優位がアメリカ独立運動の対応に躓いたことによって縮小し、代わりに一連の対応で国民の支持を得たトーリー党が徐々に力を伸ばす結果となった。
ユニオンジャックとナポレオンの台頭
アメリカ独立戦争の影響は連合王国の従属国であったアイルランドにも波及し、アイルランドにおける連合王国の影響力が弱体化。アイルランド議会が徐々に力を伸ばし、続くフランス革命では、これに呼応することによってアイルランドの地位を向上させようとする政治運動が活発になった。これに危機感を覚えた連合王国議会はカトリック解放とバーターで1800年に合同法を成立させ、アイルランド議会をウェストミンスター議会に統合しアイルランド王国を併合した。これによりブリテン諸島は連合王国により統一されグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立する。そんな中、ドーバー海峡の向こう側に位置するフランスは転換点を迎えることとなる、フランス革命とナポレオン・ボナパルトの登場である。後に欧州におけるフランスの時代を築く立役者となるナポレオンはイタリアやオーストリアなどの近隣諸国を瞬く間に蹂躙、さらに連合王国と植民地インドとの連絡を断つ為エジプト遠征を行った。しかしフランスの目論み通りにはいかずアッカの戦いで連合王国とオスマン帝国の連合軍に敗北、さらにナイルの海戦でフランス艦隊がホレーショ・ネルソン提督率いる艦隊に大敗し、さらに欧州における劣勢に立たされたフランスはエジプト遠征を中止した。これを機に連合王国とフランス間で講和が進みアミアンの和約が締結されたが、双方の対立が理由ですぐさま破棄され、さらに翌1804年にナポレオンが皇帝宣言したことにより連合王国は欧州諸国と対仏大同盟を結成した。その後再びオーストリアとロシアに侵略を開始したナポレオンは次に連合王国を下す為海軍を出したがネルソン提督率いる艦隊に再度敗北。本土への攻撃は不可能と判断し大陸封鎖令を出して連合王国を経済的に攻撃しようとした。しかし、これは全くの逆効果で、かえって連合王国との経済交流の場を喪失した大陸諸国の方が疲弊する結果となった。一方連合王国は反ナポレオン闘争に積極的に加担するようになり、ポルトガルとスペインの対仏ゲリラを支援する結果となった。こうした中で1812年にロシア遠征が失敗に終わると欧州諸国はフランスに対する反抗作戦を実施しイベリア半島戦争においても王立陸軍がヴィットーリアの戦いにて勝利を収め、1814年、連合軍はパリに入城した。
産業革命と連合王国の近代化
ナポレオン戦争後、今後の欧州秩序について話し合うべくウィーン会議が開催されたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず。」と言われる状況であり、各国の利害が対立して会談が終結する見通しすら立たなかった。こうしたヨーロッパ各国の対立の空白を狙って、ナポレオンがエルバ島から脱出。瞬く間にパリに駆け上がり、帝位に返り咲いた。これを受け欧州諸国は一旦対立の矛先を収め、ナポレオンを再びヨーロッパから追放することで結束し、各国はフランスを包囲するように軍を展開。ワーテルローの戦いにてウェリントン公爵が勝利を収め、再び進撃を開始し、再びナポレオンは退位させられセントヘレナ島へ幽閉された。一方このような欧州の混乱を好機と見た国家もある。それは独立からまもなく大国へと成長を遂げた新大陸の王者、アメリカだ。アメリカはナポレオン戦争中、英領カナダに宣戦布告し米英戦争を開始、これを受け連合王国軍、カナダ軍、インディアン部族が連合して戦いを実施した。しかし欧州における戦いが進行中であったこともありアッパーカナダでのジョージ砦の戦いにて連合軍は敗退、ガン条約によって講和することとなる。旧大陸における勝利と新大陸における敗北をきした連合王国は、欧州における旧秩序の維持を目的としたウィーン体制のもと外交政策を進め、セイロン島やケープ植民地のほかマルタ島の支配も開始した。しかし一方で欧州での影響力維持のため外相ジョージ・カニングのもとも自由主義的、民族主義的運動を支持し、ウィーン体制とは一線を画そうとした動きも見られた。その中でも有名なものがギリシャ独立の支持である。連合王国は外交的な自由主義政策ばかりではなく、内政でも穀物法の緩和やカトリック解放令、奴隷制度廃止運動にともなう奴隷貿易法の制定など自由主義的な政策を実施した。さらに連合王国は世界に先駆けて18世紀ごろより蒸気機関の開発、改良を進め、工場制機械工業が発達し民族資本による産業革命が発生した。軽工業や綿織物の分野における工業化が進み工場での大量生産が可能となった。またこれにより石炭の需要が高まり構成国の一つであるウェールズの経済成長が発生、各国からの石炭輸入を行う積出港、綿布の原料となる綿花を引き受ける貿易港でも、労働力を集中させるだけの需要が生まれた。一方でこのような社会的変動は同時に社会制度にも変化の嵐を呼び都市部で新たに労働者や資本家が誕生、資本主義と呼ばれる新時代の経済体制が確立され、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスなどの思想家が1848年にロンドンで生産手段の国有化を謳う共産党宣言を行うなど共産主義の台頭も目立つようになった。
帝国主義と民主主義の近代化
産業革命の到来は政界にも影響を及ぼした。その中でもチャーティズム運動と保守党、自由党や労働党などの近代的な政党の誕生は代表格と言えるだろう。ナポレオン戦争での勝利は、国内のフランス革命に共感していた知識人と産業革命で勃興しつつあった資本家と労働者たちへの反動政権の勝利でもあった。それにより腐敗選挙区などの前近代的な制度が存続し続け、これに対し労働者らが立ち上がったことにより始まったのがチャーティズム運動だ。彼等の運動は男子普選や腐敗選挙区の解消などを目的にはじまり、近代的な民主化運動の一つであったが、トーリー党とホイッグ党は1832年の改正でほぼ満足した資産家、中産階級を味方にしてチャーティズムを押さえようと試み、遂に1848年革命に呼応した最後の大規模なデモンストレーションの後に沈静化した。この騒動の後トーリーの有力議員であったロバート・ピールは自身の選挙区の有権者に対して最初の政権公約であるタムワース・マニフェストを示した。これは同年にトーリーの綱領として採択され、トーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である保守党へ進化した。ピールはその後首相に就任し、穀物法を廃止。その後就いたジョン・ラッセルのもとで航海法もが廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として自由党が発足した。この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にして連合王国議会政治が発展した。有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念と男子普選を充実させた。しかしこの陰で自由党や保守党以外でこれら労働者の支持の受け皿として労働者政党を結成しようとする運動が19世紀末に起こった。これにより1884年に誕生したフェビアン協会から発足する形で1906年に労働党が誕生。彼らは同年緒総選挙で26議席を獲得し議会勢力に足場を築いた。続く1910年の総選挙では自由党と連立し政権入りを果たすこととなる。
ヴィクトリア帝国
19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパは連合王国のヘゲモニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、古代のパクス・ロマーナに習い、この時期を称してパクス・ブリタニカ(Pax Britanica)と呼ぶ事がある。五賢帝時代のように、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、シティには世界中から資本が集まり平和裏に各国に影響力を行使することができた。これにより連合王国はヴィクトリア女王の名から、ヴィクトリア帝国と呼ばれるようになる。しかし、フランスやスペインとのアフリカに場所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代である。1901年1月22日のヴィクトリア女王死去後、ハノーヴァー朝からサクス=コバーグ=ゴータ朝となり、エドワード7世国王が即位した。この後、外交面では1902年1月30日に、ロシアの南下政策に対抗するため利害関係の一致による目的により日本と日英同盟を締結した。この後、日本はロシアとの日露戦争において講和成立により勝利を果たした。その後、日本との軍事同盟は第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新された。1910年5月6日にエドワード7世が死去し、ジョージ5世国王が即位した。
不適切なコンテンツとして通報するには以下の「送信」ボタンを押して下さい。 現在このグループでは通報を匿名で受け付けていません。 管理者グループにはあなたが誰であるかがわかります。
どのように不適切か説明したい場合、メッセージをご記入下さい。空白のままでも通報は送信されます。
通報履歴 で、あなたの通報と対応時のメッセージを確認できます。
人物関連設定
女王>> 16
首相>> 17
副首相>> 19
外務大臣>> 29
性別:男性
年齢:59歳
誕生日:2月10日
職業:陸軍大将
思想:植民地政府
呼び名:特になし
出身地:カーディフ
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:レコード
色々:数年前ブライアン・マッケンジーはガラパゴスへの悲惨な介入で賞賛され名声を得た。そして今トラストでの無政府状態に対する究極的な勝利の中で、彼は軽蔑と憤りだけを見出した。運常戦争からだちだら続く反乱へと状況が変わる中、マッケンジー将軍は反乱を鎮圧し、トラストの政治的未来を決定するという不快な立場に置かれている。
トラストにおけるWOLF続治の進産は、マッケンジー将軍の下では見られ、政権からの変化よりも継続性がそこにはあった。心をつかむためにリップサービスをしているにもかかわらず、マッケンジーはトラストで活動している企業と戦争で荒廃した国で生き延びようと奮闘している現地民の両方に慎重な対処をしていた。南昌での攻勢の際に自軍が行った虐殺の疑惑により、すでにロンドンからの非難を受けているが、マッケンジーはまたこの地域で企業に行動の自由を認めなければいけないという大きな経済的プレッシャーにもさらされている。
マッケンジーにとって南昌事件以来、状況は大きく変化した。この戦争に栄光はなくどんな勝利であっても、何千人もの命が失われたことへの慰めにはならない。本国のマスコミが兵士たちの帰運を叫ぶ中、マッケンジー将軍は、必然的に帰囲する前に、この地域に連合王国の痕跡を残すための最善の方法を決めなければならない。
ただし、それが成功するかどうかは彼以外にもかかっている。
性別:男性
年齢:43歳
誕生日:3月7日
職業:貴族院議長、連合王国臨時首相
思想:キリスト教保守主義
呼び名:上院のローレンス卿、片目のチェスター
出身地:ロンドン
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:オペラ
色々:ほとんど首相にとって、就任式は長年にわたる政治的な野望と成功の集大成であり、彼らを国の最高職に就かせ、最終的に理想とする国家を形成する機会をもたらす。しかし元貴族院議長のチェスター・ローレンスは、そのような首相の一人ではない。
正義と汚職の日に議会からロンドンに急遽呼び出された彼は混乱に陥った国と向き合うことになった。エイムズ首相のトラスト侵攻に関する行動への怒りが議会内の政治的な礼儀のようなものを完全に無視し、絶え間ない怒号合戦が弾劾裁判の判決が出されるよりも多くの時間を費やしていた。また国民も声を上げ、毎週のように暴動や抗議行動が起こり、有権者は労働党の急進派を支持するために登録を変更した。
ローレンスはロンドンに閉じこもり、国家に影響を及ぼす問題について、倍頼のおける側近や友人たちにだけ話し、連合王国が直面している荒波を静めるのは副首相と内務大臣に任せることにした。危機に瀕した保守党、分断を招く人種隔離問題、そして急速に段階的拡大をするに直面し、消極的な首相の今後の数日間が、この国の今後数年の方向性を変えることになるだろう。
性別:男性
年齢:61歳
誕生日:9月9日
職業:陸軍元帥、西方方面軍総司令官
思想:軍事政府
呼び名:特になし
出身地:リーズ
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:CD
色々:戦争で最も激しい戦いが繰り広げられたトラストはWOLFの統治以来、現在のブランチャード将軍までの指導者にとって常にとげのある存在であった。トラスト利軍委任統治領は、連合王国とチェコの攻勢をうけて現地のゲリラが崩壊したために急遽設立されたもので、ほとんど国家とは言えない状況であった。 不安定な皆定国家は今、政権の残忍な弾圧を生き延びた共産主義者による反乱と戦わなければならない。
ウィリアム・ブランチャード将軍は、当時最初の攻勢に勝利したことで連合王国のマスコミで広く称せされ、後に彼の物議を醸し出した損耗戦略という仕事ができる唯一の男である。爆撃機と火砲における連合王国の優位性を最大限に活用したブランチャードは、戦場で大成功を収めたが、本国からは強く非難されていた。トラストの秩序を維持するために必要と考えられる残忍な抑圧は一層本国からの非難を強めるだろう。優れた火力は、敵が優れた戦力に直面した場合、ジャングルの中に溶け込んでしまうだけで、ほとんど意味を持たない。
平和をもたらすことを使命とする戦争の男、ブランチャードは、反乱理を倒し、トラストを安定させるために、本国からわずかに残された好意が尽きる前に、時間との戦いに身を投している。
性別:男性
年齢:55歳(死亡)
誕生日:1月29日
職業:元CPGB書記長
思想:マルクス・レーニン主義
呼び名:スターリンの申し子
出身地:ピーターヘッド
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:談話
色々:ハーヴィー・ホワイトには多くの言葉が当てはまるが、その中に「首相」は含まれていない。 彼はアバディーンシャーの広大なピーターヘッドで、スイス移民の子供としてフリッツ・フォン・ヴィルトとして生まれ、9人の兄弟と共にドイツ語を話しながら、極寒の丸太小屋で育った。 ホールは15歳にして、家族を接うために学校を中退して伐採所で働き、すぐに共産青年同盟に加入した。その組織での活動のおかげで共産主義の聖地たるグ連に行くことができ、ホワイトは国際レーニン学校で数年間勉学に励んだ。1980年代には、様々な州で鉄工所や農家、チームスターズなどのストライキに参加し、警察や上司を相手にして戦った。
その後革命的祖国防衛主義に基づき海軍に入隊した後、ホールは2000年代の大半を、連合王国政府の転覆を提案したとして検察に追われていた、だが彼はリバティニア共産党のメンバーとして、大学のキャンパスで講演をしたり、テレビの生放送で保守党議員と討論をしたりして、その名を知られるようになった。しかしこのままでは、連合王国政界のマイナーな存在として終わるはずだった。しかしそれは、労働党とLCPの台頭によって覆された。今、ホワイト首相となった彼は、連合王国で虐げられた人々を高揚させ、労働者階級を団結させ、少数派の富裕層では なく多数派の労働者のための新たなリバティニアを創造しようとしている。
ハーヴィー・ホワイトは首相として急進的な道を歩んでいる。彼は公約にて、富裕層への増税だけではなく、自身の社会主義的ビジョンを実現するために、連合王国経済を全面的に再構築することを立言している。この公約の一環として、 反動や保守派が主導してきた組織は一掃されることとなる だろう。そして、社会主義は世界中で推進され、古き帝国主義の連合王国の野望は、新しい、赤い鷲に取って代わら れるだろう。労働組合ーー一古き偉大な発明ーーーは、産業界 でのかっての地位を取り戻すだろう。平等主義と公平性を支持する判事が任命されるだろう。ハーヴィー首相は、何よりも民主主義の維特・促進を目指すことになるだろうーーーそれが連合王国の死を怠味することになろうとも。
彼は確かに「首相」ではないかもしれない。だが、ハーヴィー・ホワイトは確かに革命的なリバティニアを目指している。
注意:首相就任後の説明です
性別:男性
年齢:44歳(死亡)
誕生日:12月10日
職業:国民戦線党首
思想:ファシスト・ポピュリズム
呼び名:道化師
出身地:ニューキャッスル
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:執筆
色々:レイフ・エドワード・ハリソンは、首相としての権力を身につけるとは、ほとんど予想だにしなかった人物である。しかし、今、連合王国史上最も論争的な選挙の後、率直なファシストがロンドンに座っている。 もともと作家、皆学者であったハリソンは、1930年代に世界各地で起こった権威主義、ファシズムの動きに魅了された。弁護士を目指しながらアドルフ・ヒトラーの著作に興味を持ち、反ユダヤ主義、超軍国主義といったナチスの思想を取り入れた。「帝国主義:あらゆる大国の鉄則」という自称の大作を出版した後、ハリソンは有権者達の新たなる投票先として極右政党を設立し、連合王国政治に新しい動きを起こした。 ハリソンたちは、当初「ナショナル・アクション」と名乗っていたが、すぐに連合王国の他の政治勢力から忌み嫌われ、単に「極右」と呼ばれるようになった。しかし、敵の失 態と天の恵みで、彼の派閥は今や連合王国の政治体制に勝利している。
ハリソンの首相就任は、少なからぬ木造所からネズミをかき集めることになった。連合王国では、多くの都市で、クー・クラックス・クランを真似たフード付き白衣を着た男達を見かけることが少なくない。同様に、過去数十年間にかけて制定された画期的な新公民権法の廃止も公然と語られている。黒人のリンチはますます多くなり、気づかれることなく、調査されることもない。要するに、惜しみが連合王国全土で普通になっており、政治体制内外の多くの人々がこの権威主義の波の行く先に怯えているのである。
ハリソンは、地球上で有数自由主義国家のリーダーであるにもかかわらず、自由についての意見は不明瞭で矛盾している。多くの人は、彼が連合王国の自由を維持するためにどんな外見的な見せ方をしようとも、彼は依然としてファシストであり、首相の地位を強化するためにできることは何でもやるだろうと思っている。ハリソン自身は 「文化の破壊者」と断じて、西洋文明を守ると主張してい るだけだ。ハリソンが何から守っているのかは不明だが、十字架と星条旗のマントを持って、レイフ・エドワード ・ハリソンは首相官邸に座り、連合王国に自分の意志を実行しようとしているのだ。
注意:首相就任後の説明です
性別:男性
年齢:50歳
誕生日:8月25日
職業:国民党保守派議員
思想:ディキシークラット
呼び名:ジム=クロウの亡霊
出身地:ペンザンス
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:執筆
色々:国民の大切な権利と自由を擁談しつつ、ジャップの脅威から自身の誇らしい祖国を守ろうとする唯一の存在である高潔な紳士かのように、あるいは真の勇ましいアングロ・サクソンかのように、ジョージ・C・ウォリックは自らを見立てている。しかし実際のところは、彼は卓越した日和見主義者であり、自身の得票率を最大化するためには喜んで自分のイデオロギーを好きなように成形する。故郷ペンザンスの知事として良き白人有権者を取り込もうとした結果、彼は必然的に、地方分権を損なおうとする非連合王国的第五列をあらゆる面で防ぐ、頑強な隔離主義制度の擁護者となった。1999年の内乱によって議会が混乱に包まれし、「結束の南部」の忠誠が揺らぐと、ウォリックはジョージ・オーチャード・テムズが創設したばかりの国民党へ参加し、同党をの上位に導けるよう確固たる手腕で貢献した。
選挙戦においては、フランケンシュタインのようにつぎはぎな国民党の支持層、ひいては国民の大多数の支持を十分勝ち取るために、ウォリックは自分の立ち位置をうまく穏健化させた。しかしの座を得た今、国民党の多くの保守派議員との便宜的な同盟関係は急速に薄れつつある。 自分が体制側なのに、体制側を憎むことだけに縛られた政党をどうまとめるというのだろうか?しかしウォリックは、この同盟が長く続ぐとは考えていないようだ。むしろ彼は隔離政策を法的に後押しすることに、可能な限り時間を使うつもりであるようだ。そして隔離制度が事実上除去不可能になったとき、彼は故郷に帰り、南部の救世主として永遠に不滅の存在となるのだろう。
性別:男性
年齢:54歳
誕生日:4月13日
職業:MI6長官
思想:国民保守主義
呼び名:ロー・ブランド
出身地:ダグラス
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:ドラマ
色々:マドリードの外務宰相とロンドンの首相が始めた新冷戦は多くの国々やそこに住まう国民たちに様々な影響を及ぼした。そしてそれは新冷戦が終結した今でも続いているように思える。その一例が新植民地主義と情報戦の到来だ。我々は新たな時代に備える必要があるのである。
古き良きダグラスにて上流階級の子として育ったジェームズ・ロー・ブランド卿はケンブリッジ大学を卒業後すぐ自身の夢を叶えるべくジャーナリストの道へ突き進んだ。それはお世辞にも楽な選択肢とは言えないものではあったが彼にとってその生活は充実しきったものであるとはっきり言えるものであった。しかし彼は向上心を忘れることは一度たりともなかったといえる。1999年にアイルランドの人民が自由を求めて戦うことを選択したとき、彼は自身の力を国益のために活かすためMI6の職員となり二重スパイとして活動することを選択した。
彼の才能と忠誠心はここでも活かされることとなる。ロンドンからの信頼を得た彼は徐々にその地位を獲得していった。そして新冷戦が終結した時、彼は首相による指名のもと長官の地位に就く。その先にある道は一体どこへ続いているのだろうか。ただ一つ確実なことは、連合王国は彼を必要としているということだけだ。
性別:男性
年齢:52歳
誕生日:2月27日
職業:元労働党党首
思想:改革社会主義
呼び名:パイプ・エイヴォン
出身地:ハダーズフィールド
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:執筆
色々:社会主義と民主主義は相容れないという議論がある。労働者は、その苦労に対する正当な報酬を得ることができず、同時に政府に対する投票権を持つことができないというのだ。 しかし、ハロルド・エイヴォンは、そのような主張が間違っていることを証明するだろう。
第二次アイルランド独立戦争の最中、一介の公務員に過ぎなかったエイヴォンは、秩序と平穏が崩れ去るのを目の当たりにしながら、何もできなかった。その影響もあってか、彼はアーサー・フリーマンが首相となり、彼自身も財務大臣に抜擢された時、あらゆる手段を用い愛する国家とアイルランドの復興を最大限できるよう経済を支え続けた。
やろうと思えば、フリーマンに直談判しアイルランド人を見捨てることもできたかもしれない。しかし、彼はそれをしなかった。社会主義に民族の壁はない。そして民主主義は万民に選挙権が与えられ、望む候補に投票する権利である。この選択こそ、エイヴォンとは、ハロルド・エイヴォンとは一体何かを他の者全てに物語っている。エイヴォンは、彼の率いる社会主義的な民主主義者や労働組合の擁護者などからなる分裂した党と今も戦っているのだ。
性別:男性
年齢:48歳
誕生日:5月1日
職業:労働党党首
思想:左翼ポピュリズム
呼び名:組合の代弁者
出身地:ロンドンデリー
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:読書
色々:マイケル・チャリントンは現代の議会ではなく、ディズレーリやグラッドストンの時代の人間だ、と同僚の下院議員が言ったことがある。教養のない人間には、ばかげたことに思えるかもしれない。 急進派であり、アトリーやフリーマンの後継者であり、労働組合の意思の代弁者であるチャリントンが、ヴィクトリア朝時代の人間であるはずがない。しかし、その急進的な外見の裏側には、労働者階級の苦境を語るのと同じくらい簡単にブルジョワの批判を口にすることができる知識人がいる。
チャリントンは、同時代の多くの人々と違って、労働者階級の生まれではなかった。自由主義者に育ったチャリントンが、初めて社会主義に傾倒するようになるのは、連合王国全土の不平等を目の当たりにした後であり、彼が最初に社会主義に身を投したベルファストでは、それが最も顕著であった。90年代を通じて、チャリントン自身は新聞雑誌編集を通じて労働党に身を捧げることになるが、その中でも、保守党政権が続けていたアイルランド政策に対する痛烈な批判を執筆し、『Guility Men(罪を犯した男たち)』(アイルランド政策に対する痛烈な批判)という本に結実させた。
第二次アイルランド独立戦争が勃発すると、チャリントンも軍に入隊しようとしたが、病状のために戦えなかった。にもかかわらず、国民政府の失敗を意に介さず戦争努力を支持し続け、保守党政権がいかに連合王国に戦争への備えをさせず、直面している敵そのものに協力したかを指摘し続けた。別の世界では、この美辞麗句がアイルランド共和軍による彼の死を招いたかもしれないが、『デイリー・ミラー』紙で働きながらチャリントンと親密な関係を築いていたローレンス卿の介入のおかげで、チャリントンはドーバーに疎開し、政治家としての職務を諦めさせずにすんだ。戦後の復興の最中でも、空想にふけるチャリントンはあきらめなかった。彼は海外での活動を続け、最も影響力のある労働党指導者の一人となった。さらに連合王国への献身を続けた結果、やがて彼は労働党副党首に選出され、その役割を得意とするようになる。労動党副党首として、彼は台湾の人々とともに行進し、カーチス・キシと食事をし、自国の解放のためだけでなく、世界の自由のためにも絶えず戦ってきた。そして今、チャリントンはついに故郷に戻った。新しいエルサレムに立つチャリントンには、前途多難な任務が待ち受けている。 何千人もの人々が飢えに苦しみ、 何万人もの人々が貧困にあえぎ、何十万人にもわたるアジア人は自身の権利を求め活動を続けている。この仕事は困難を極めるだろうが、もしチャリントンが成功すれば、連合王国には永遠に赤旗が旗めくことになる。
性別:女性
年齢:47歳
誕生日:1月6日
職業:国民党保守派議員
思想:新保守主義
呼び名:特に無し
出身地:オックスフォード
宗教:プロテスタント
使用言語:英語
趣味:執筆
色々:ラーリーン・ドブソンは、支持者の歓喜と敵対者の恐怖 の中で不可能を可能にした。この過激な保守派は実力者たちを打ち負かして連合王国首相となったのだ。数年前までこんなことが起こるなど夢にも思われていなかった。2000年代、ドブソンは中西部の右翼たち以外では ほとんど知られていない人物であった。彼女は、保守派の研究者、活動家として活動しており、夫と共に、共産主義者とファシストの浸透に関する弁護士協会の報告書を執筆した。彼女はサウス・ウェスト・ノーフォーク選挙区からの下院議会選挙に出馬したが、いずれも落選した。国防に関する彼女の著書は少しの関心を集めた。
2010年代の混乱がすべてを変えた。ドブソンは2018年、新公民権に関する行動を要求するという綱領を追加するという保守党の決定に反対する抗議活動を主導し、支持を集めた。リベラル派の腐敗といわゆる「ロンドンの貴族達」 を糾弾した彼女の著書『伝統を保護せよ』は、ジョージ・ウォリックを国民党の候補者に選出する決定に影響を与えた。冷戦に伴う世界的な混乱によって、統治者たちの「国防政策」を非難する彼女の著書は新たに注目を浴びることになった。ドブソンが「無益な国際主義」と「キリスト教的家族観への攻撃」を批判して国民党に入党する頃には、彼女は自分たちを置き去りにするような国に激怒する何百万人もの不満を抱いた白人の象徴となっていた。
彼女はその深い不満を利用して、国民党の保護者、アングロ・サクソンからの支持、そして連合王国首相の座をつかんだ。今、これまで選挙で選ばれた経験の無い強硬な反動主義者が、国家で最も強力な役職に就いている。彼女の登場によって連合王国は新しいタイプの闘争、すなわち文化戦争への突入が約束された。
注意:首相就任後の説明です。
企業関連設定
コンテンツ
種類:株式会社
業種:電気機器
設立年:1996年
創設者:翁敬黎・榊貞一
代表者:榊貞一
従業員数:約57000人
本部所在地:広州
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2006年に設立されたルコラ・エレクトロニクス株式会社は、2012年に買収を経験し、一時は消滅の危機に瀕したものの、2017年に再び独立。独立以降、ルコラは広東への積極的な進出を行うようになり、欧人技術者を中心とした最先端の電子計算技術の商品化に専念してきた。
しかし榊にとって、機械はあくまでも手段であり、その目的は人間の知的能力を全面的に高めることにある。食らいついていくのに十分な知性を持つ者たちのための、非常に野心的な実力主義の未来だ。榊の世界には、向上だけが唯一の道である。
・翁敬黎(中)&榊貞一(日)
(2006~2012)
・大野瑛二(日)
(2012~2017)
・榊貞一(日)
(2017~)
種類:株式会社
業種:電気機器、金融業、軍需産業、情報サービス業、不動産業、インフラ
設立年:2002年
創設者:トーマス・バラカ・フェリックス
代表者:トーマス・バラカ・フェリックス
従業員数:約193000人
本部所在地:ロンドン
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第二次アイルランド独立戦争により疲弊した連合王国にて台頭したフェリックス・インターナショナルはスマートフォンやタブレットなどの開発を盛んに行い事業を拡大。広東国への進出や軍需産業との結びつきなどを進め、今や連合王国を代表する企業の一つとなった。
海外進出は連合王国の息のかかった領域のみにとどめ、発展していく植民地と自治領にて事業を展開している。一方で近年海外進出も視野に入れつつあり、科学技術の発展を彼らは望んでいる。
・トーマス・バラカ・フェリックス(英)
(2002~)
種類:株式会社
業種:石油、石油化学、ガス、再生可能エネルギー
設立年:1909年
創設者:アレキサンダー・ローゼンベルク
代表者:オースティン・デイヴィッド・ローズ
従業員数:約132000人
本部所在地:ポーツマス
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
大英帝国が中東へその版図を拡大したとき、ドイツ系移民であるアレクサンダー・ローゼンベルクは石油という無限大の可能性を秘めた資源に目をつけた。イランを始めとした石油産出国、近代化に伴い発生した石油需要を自国内で解決するため、ローゼンベルク石油株式会社は事業を広げ、二度の大戦によりその地位を完全に確立した。
戦後クウェートやUAEなどで石油が発見され、彼らは地主や首長と結びつくことでその利益を確保。現在では多数企業との提携や広東国への進出などにより順調に事業を拡大しており、多角化を進めている。
アレキサンダー・ローゼンベルク(英)
(1909~1921)
・オースティン・デイヴィッド・ローズ(英)
(2023~)
軍事関連設定
コンテンツ
カート・コバーン級ミサイルフリゲート









計16隻
デヴィッド・ボウイ級ミサイルフリゲート
計24隻
ナッシュ級フリゲート
計12隻
ハリー・スタイルズⅡ級フリゲート
計24隻
キャボット級フリゲート
計18隻
トール級コルベット
計18隻
エルマ級コルベット
計16隻
ホンコン級ミサイルコルベット
計18隻
アイディン級哨戒艇
計16隻
ルイス級哨戒艇









計12隻
フィリップス級ミサイル艇
計8隻
ポセイドン級可潜航空巡洋艦
計2隻
シナトラ級原子力潜水艦
計12隻
マーセルス・ウォレス級原子力潜水艦
計24隻
アッツ・ブロックII級原子力潜水艦
計24隻
アクセル・ローズ級原子力潜水艦
計18隻
ソリッド級原子力潜水艦
計3隻
モヴェーレ・クルース級戦略原子力潜水艦
計9隻
トマス・アーン級補給艦(帝国製)

計12隻
大型艦:80隻
小型、中型艦:380隻
潜水艦:92隻
補助艦艇:12隻
合計艦艇数:564隻
チャレンジャーⅢ 主力戦車







エレファント 歩兵戦車
ケントゥリオ ATCV-L
クロムウェル 装甲兵員輸送車
エイジャックス 歩兵戦闘車
ウォーリアー 歩兵戦闘車
モントゴメリー 歩兵戦闘車
GPWV:ホース 汎用四輪駆動車


GPTS 八輪軍用輸送車
スピッドファイア 多用途戦闘機








F-19C:クックロビン 多用途戦闘機
F-17C:リープ 多用途戦闘機
A-4D:サーペント 攻撃機
B-4B:ブラックバード 戦略爆撃機
B-18G:ジャスティス 戦略爆撃機
E-4A:ヴァルチャー 早期警戒機
KC-121:エイフェツト 空中給油機
C-19J:スーパーケルピー 戦術輸送機








AC-19J:フォートレス ガンシップ
AR-26:ペンブローグ COIN機
MQ-10:スパーク 無人戦闘機
MQ-7:ヒュドラ 無人攻撃機
RQ-8:チャイニーズ・ドラゴン 無人偵察機
MR-10:アームストロング 高高度偵察機
MR-12:シューティング・スター 戦略偵察機
ケルト 攻撃ヘリコプター




グリフォン 攻撃ヘリコプター
ハル 汎用ヘリコプター
ストーク 輸送ヘリコプター
シーファイア 艦上戦闘機









F-23E:ソロモン・グラビティ 艦上戦闘機
F-14B:ヘルキャット 艦上戦闘機
E-3C:ビーグル 艦上早期警戒機
S-6C:カナロア 艦上哨戒機
MQ-11:チャコール 無人戦闘攻撃機
ケルト 攻撃ヘリコプター
シーガル 汎用ヘリコプター
シーライオン 輸送ヘリコプター
LA-18 自動小銃



M19A1 半自動式拳銃
パシフィック・リボルバー ダブルアクションアーミー
特殊部隊など
コンテンツ
創設:1944年8月28日
所属組織:王立陸軍
司令官:ヒューイ・アンダーソン少将
隊員数:約1000名
愛称:なし
標語:Loyal to orders.(命令に忠実で)
目的:特殊工作
その他:
リバティニア陸軍の特殊部隊。
創設:1951年1月1日
所属組織:リバティニア海軍
司令官:ドナルド・メンデンホール少将
隊員数:約2000名
愛称:なし
標語:With the sea(海と共に)
目的:特殊工作、上陸支援
その他:
利海軍の特殊部隊。隊員全員がフェイスベールを装備しているその独特な見た目から「妖怪」とも呼ばれている。
創設:1952年10月3日
所属組織:近衛局
司令官:エリザベス1世
ジョン・E・カニンガム
隊員数:約8000名
愛称:ロイヤルホームガード
標語: Her Majesty the Queen's Loyal Servant(女王陛下の忠実なる僕)
目的:衛兵任務
その他:王立陸軍近衛師団麾下の各部隊に所属する精鋭兵達からなる組織。君主の警護や衛兵任務だけでなく、一般部隊と同様に実戦部隊としての任務もこなしており、そのための訓練を受け、最新の装備も支給されている。また、正装である赤い上着に熊の毛皮の帽子という格好と、直立不動の姿勢で警衛する姿は観光資源としても、非常に有名であり連合王国を代表する部隊の一つである。
国内関連設定
コンテンツ
組織関連設定
設立年月日:1909年10月1日
種類:諜報・諜報活動
管轄:連合王国外務省
人員:7465名
本部所在地:ロンドン
監督大臣:マティアス・クリス・トレント(外務大臣)
現行政官:ジェームズ・ロー・ブランド
支局一覧:
太平洋支局
北米支局
中米支局
南米支局
欧州支局
極東支局
連合王国の対外情報機関、MI6と呼ばれる。主に人的情報(HUMINT)を利用して世界中から国家安全保障に関する情報を収集分析することを任務としている。
設立年月日:1909年10月7日
種類:保安活動、治安維持
管轄:連合王国内務省
人員:5863名
本部所在地:ロンドン
監督大臣:エドワード・メイ
現行政官:ミア・ゴウ
一般的な名称はMI5。主に国内における治安活動を中心に活動する連合王国の秘密警察。2020年のガラパゴス紛争後には同地域の反乱者を鎮圧しており、現在でも政府直属の組織として展開している。
軍事関連設定
・海峡艦隊
司令官:ヘンリー・ウィリアムズ少将
旗艦:空母ブレイズリープ
拠点:ポーツマス
・北海艦隊
司令官:エドワード・オリンズ中将
旗艦:空母ヴィンテージ
拠点:エディンバラ
・大西洋艦隊
司令官:アラン・M・ストリンガー大将
旗艦:空母オーゼン
拠点:ゴールウェイ
・太平洋艦隊
司令官:ウィリアム・D・ポーター大将
旗艦:空母ミッドウェイ
拠点:ホノルル
・地中海艦隊
司令官:ロバート・マディソン中将
旗艦:揚陸艦タランティーノ
拠点:リマソール
連合王国史
統べよブリタニア
イングランド及びウェールズ王国として長年ブリテン諸島に君臨してきたこの国の最も大きなの転換点は名誉革命の有無にこそあろう。イングランド国王及びスコットランド国王でありプロテスタント信仰に改宗したジェームス2世が議会とカンタベリー大司教を説得し、名誉革命を未然に防いで絶対君主制を存続させたのである。当然それでも国民からの支持はあまりなかったが、娘のメアリー2世と娘婿のウィリアム3世の力を借りクーデターが起きないよう自らの地盤を強化したジェームズ2世は1701年に崩御するまでグレートブリテン王国を建国するべく活動した。その後に登場したのはステュアート朝最後の君主であり、後にブランデー・アンと呼ばれるようになるアン女王である。1707年にイングランドとスコットランドの合同法を成立させた彼女は、両王国のそれまでの同君連合という関係からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化させるという偉業を成し遂げた。さらに国力をつけた王国はスペイン継承戦争に呼応しアン女王戦争を開始、これでもまた勝利を収め、先代と異なり大衆の支持を獲得したアン女王であったが唯一の欠点として17回も子を授かったにも関わらず20歳まで生きた子供が1人もなく後継が誰もいなかったことが挙げられる。結局状況が改善されることはなくアン女王は1714年に49歳の若さ崩御し、王国は議会による審議の下ステュアート朝と血の繋がりがあるドイツのハノーヴァー朝を向かい入れた。連合王国は議会による審議の末王位継承権を制定し同家のゲオルク・ルートヴィヒをジョージ1世として向かい入れた。しかしジョージ1世はすでに50歳を過ぎていた上、当時の国際語はフランス語であることから英語の理解に限界があると判断され、その後プリンス・オブ・ウェールズに即位した次代のジョージ2世も既に30歳をすぎていたことにより、連合王国の政治参加にあまり興味がなく既にハノーファーの軍事や政務を担っていたので徐々に国王の権限は弱まっていった。それに加えて彼らは即位後もしばしばドイツに滞在し、連合王国を留守にすることが多く、これを見た連合王国議会はホイッグ党リーダー、後の連合王国初代首相となるロバート・ウォルポールを中心に無血クーデター(自由革命)を決行。これは成功しジョージ2世を廃位に追い込んだ。その後1738年にジョージ2世の孫でありハノーファー朝で最初の連合王国出身の国王であるジョージ3世が即位するまでの間ウォルポール首相と後に2代目首相となるスペンサー・コンプトンは臨時的に議会による共和政を行い、議院内閣制民主主義の基礎を完成させ、現在の連合王国の基礎を築いた。またリバティニアという国号は改革に対する演説の際にコンプトンが発言した「自由の民の王国」という言葉に由来している。
パクス・ブリタニカと独立戦争
連合王国は権利の章典を発布後すぐ、ポルトガル、スペインに遅れること1世紀、17世紀初頭にオランダ共和国とともに大航海時代に乗り出した。東インド会社はインドを中心とするアジアに進出し、約1世後の1858年には英領インド帝国を設置。また北米大陸にも13植民地を設置しフレンチ・インディアン戦争の勝利により広大なルイジアナ地域を獲得するなど領土拡大を推し進め、多数の植民者を送り出していった。しかしこの戦争の影響は経済にも及び、議会は戦費によって膨らんだ国家債務の償還および植民地維持のために送られた軍隊の費用を13植民地への増税で賄う方針を採択。だがこれは植民地からの反感を買い、間もなくこの2つの税法は廃止に追い込まれることとなる。連合王国はなおも植民地に対しての課税を諦めず、1773年には茶法を制定し、植民地での東インド会社による茶の独占と課税を実施。案の定上手くは行かず、これに対し更なる不満を持った植民地人は同年にボストン茶会事件を起こし2年後の1775年にはレキシントンにて王立軍と植民地軍との間の武力衝突が起こった。ジョージ・ワシントンを指揮官とする植民地軍は植民地全域にまで蜂起を拡大し翌年に独立宣言を発表(アメリカ独立戦争)。さらにベンジャミン・フランクリンが妨害工作の実施を諸列挙に呼びかけたことにより連合王国は欧州にて孤立し厳しい戦いを迫られ1783年、パリ条約により独立戦争は13植民地の勝利で幕を閉じた。また、これを機に勃発したフランス革命は、連合王国史史においても次のエポックを作り出すことになる。ウォルポール以来のホイッグ党の優位がアメリカ独立運動の対応に躓いたことによって縮小し、代わりに一連の対応で国民の支持を得たトーリー党が徐々に力を伸ばす結果となった。
ユニオンジャックとナポレオンの台頭
アメリカ独立戦争の影響は連合王国の従属国であったアイルランドにも波及し、アイルランドにおける連合王国の影響力が弱体化。アイルランド議会が徐々に力を伸ばし、続くフランス革命では、これに呼応することによってアイルランドの地位を向上させようとする政治運動が活発になった。これに危機感を覚えた連合王国議会はカトリック解放とバーターで1800年に合同法を成立させ、アイルランド議会をウェストミンスター議会に統合しアイルランド王国を併合した。これによりブリテン諸島は連合王国により統一されグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立する。そんな中、ドーバー海峡の向こう側に位置するフランスは転換点を迎えることとなる、フランス革命とナポレオン・ボナパルトの登場である。後に欧州におけるフランスの時代を築く立役者となるナポレオンはイタリアやオーストリアなどの近隣諸国を瞬く間に蹂躙、さらに連合王国と植民地インドとの連絡を断つ為エジプト遠征を行った。しかしフランスの目論み通りにはいかずアッカの戦いで連合王国とオスマン帝国の連合軍に敗北、さらにナイルの海戦でフランス艦隊がホレーショ・ネルソン提督率いる艦隊に大敗し、さらに欧州における劣勢に立たされたフランスはエジプト遠征を中止した。これを機に連合王国とフランス間で講和が進みアミアンの和約が締結されたが、双方の対立が理由ですぐさま破棄され、さらに翌1804年にナポレオンが皇帝宣言したことにより連合王国は欧州諸国と対仏大同盟を結成した。その後再びオーストリアとロシアに侵略を開始したナポレオンは次に連合王国を下す為海軍を出したがネルソン提督率いる艦隊に再度敗北。本土への攻撃は不可能と判断し大陸封鎖令を出して連合王国を経済的に攻撃しようとした。しかし、これは全くの逆効果で、かえって連合王国との経済交流の場を喪失した大陸諸国の方が疲弊する結果となった。一方連合王国は反ナポレオン闘争に積極的に加担するようになり、ポルトガルとスペインの対仏ゲリラを支援する結果となった。こうした中で1812年にロシア遠征が失敗に終わると欧州諸国はフランスに対する反抗作戦を実施しイベリア半島戦争においても王立陸軍がヴィットーリアの戦いにて勝利を収め、1814年、連合軍はパリに入城した。
産業革命と連合王国の近代化
ナポレオン戦争後、今後の欧州秩序について話し合うべくウィーン会議が開催されたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず。」と言われる状況であり、各国の利害が対立して会談が終結する見通しすら立たなかった。こうしたヨーロッパ各国の対立の空白を狙って、ナポレオンがエルバ島から脱出。瞬く間にパリに駆け上がり、帝位に返り咲いた。これを受け欧州諸国は一旦対立の矛先を収め、ナポレオンを再びヨーロッパから追放することで結束し、各国はフランスを包囲するように軍を展開。ワーテルローの戦いにてウェリントン公爵が勝利を収め、再び進撃を開始し、再びナポレオンは退位させられセントヘレナ島へ幽閉された。一方このような欧州の混乱を好機と見た国家もある。それは独立からまもなく大国へと成長を遂げた新大陸の王者、アメリカだ。アメリカはナポレオン戦争中、英領カナダに宣戦布告し米英戦争を開始、これを受け連合王国軍、カナダ軍、インディアン部族が連合して戦いを実施した。しかし欧州における戦いが進行中であったこともありアッパーカナダでのジョージ砦の戦いにて連合軍は敗退、ガン条約によって講和することとなる。旧大陸における勝利と新大陸における敗北をきした連合王国は、欧州における旧秩序の維持を目的としたウィーン体制のもと外交政策を進め、セイロン島やケープ植民地のほかマルタ島の支配も開始した。しかし一方で欧州での影響力維持のため外相ジョージ・カニングのもとも自由主義的、民族主義的運動を支持し、ウィーン体制とは一線を画そうとした動きも見られた。その中でも有名なものがギリシャ独立の支持である。連合王国は外交的な自由主義政策ばかりではなく、内政でも穀物法の緩和やカトリック解放令、奴隷制度廃止運動にともなう奴隷貿易法の制定など自由主義的な政策を実施した。さらに連合王国は世界に先駆けて18世紀ごろより蒸気機関の開発、改良を進め、工場制機械工業が発達し民族資本による産業革命が発生した。軽工業や綿織物の分野における工業化が進み工場での大量生産が可能となった。またこれにより石炭の需要が高まり構成国の一つであるウェールズの経済成長が発生、各国からの石炭輸入を行う積出港、綿布の原料となる綿花を引き受ける貿易港でも、労働力を集中させるだけの需要が生まれた。一方でこのような社会的変動は同時に社会制度にも変化の嵐を呼び都市部で新たに労働者や資本家が誕生、資本主義と呼ばれる新時代の経済体制が確立され、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスなどの思想家が1848年にロンドンで生産手段の国有化を謳う共産党宣言を行うなど共産主義の台頭も目立つようになった。
帝国主義と民主主義の近代化
産業革命の到来は政界にも影響を及ぼした。その中でもチャーティズム運動と保守党、自由党や労働党などの近代的な政党の誕生は代表格と言えるだろう。ナポレオン戦争での勝利は、国内のフランス革命に共感していた知識人と産業革命で勃興しつつあった資本家と労働者たちへの反動政権の勝利でもあった。それにより腐敗選挙区などの前近代的な制度が存続し続け、これに対し労働者らが立ち上がったことにより始まったのがチャーティズム運動だ。彼等の運動は男子普選や腐敗選挙区の解消などを目的にはじまり、近代的な民主化運動の一つであったが、トーリー党とホイッグ党は1832年の改正でほぼ満足した資産家、中産階級を味方にしてチャーティズムを押さえようと試み、遂に1848年革命に呼応した最後の大規模なデモンストレーションの後に沈静化した。この騒動の後トーリーの有力議員であったロバート・ピールは自身の選挙区の有権者に対して最初の政権公約であるタムワース・マニフェストを示した。これは同年にトーリーの綱領として採択され、トーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である保守党へ進化した。ピールはその後首相に就任し、穀物法を廃止。その後就いたジョン・ラッセルのもとで航海法もが廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として自由党が発足した。この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にして連合王国議会政治が発展した。有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念と男子普選を充実させた。しかしこの陰で自由党や保守党以外でこれら労働者の支持の受け皿として労働者政党を結成しようとする運動が19世紀末に起こった。これにより1884年に誕生したフェビアン協会から発足する形で1906年に労働党が誕生。彼らは同年緒総選挙で26議席を獲得し議会勢力に足場を築いた。続く1910年の総選挙では自由党と連立し政権入りを果たすこととなる。
ヴィクトリア帝国
19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパは連合王国のヘゲモニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、古代のパクス・ロマーナに習い、この時期を称してパクス・ブリタニカ(Pax Britanica)と呼ぶ事がある。五賢帝時代のように、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、シティには世界中から資本が集まり平和裏に各国に影響力を行使することができた。これにより連合王国はヴィクトリア女王の名から、ヴィクトリア帝国と呼ばれるようになる。しかし、フランスやスペインとのアフリカに場所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代である。1901年1月22日のヴィクトリア女王死去後、ハノーヴァー朝からサクス=コバーグ=ゴータ朝となり、エドワード7世国王が即位した。この後、外交面では1902年1月30日に、ロシアの南下政策に対抗するため利害関係の一致による目的により日本と日英同盟を締結した。この後、日本はロシアとの日露戦争において講和成立により勝利を果たした。その後、日本との軍事同盟は第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新された。1910年5月6日にエドワード7世が死去し、ジョージ5世国王が即位した。