佐藤小説の人物はややデフォルメが強いが、ソシエが事あるごとにギャバンの名前をいうのはアニメならドレスのことで一度区切りをつけた後の時間なので、何度もくどい印象がする。
佐藤版。最終巻に来てロラン行方不明でイングレッサのお家騒動や政略結婚などを始めるが、スピンオフ小説にしても『∀の癒し』など読んだあとに富野読者としては今更こんなところでこんな話、どうでもいい。
ガンダムの話でモビルスーツをさしおいてナノマシン・モンスターなども陳腐で、辟易する。『競漕海域』を読んだあとで著者のモチベーションはどこにあるのか分かるので、想像できなくはなかった。
佐藤版5巻読了。巻末解説に、このノベルのイラストは萩尾望都を要望したのは富野監督で、ダメモトで言ってみたらOKを貰ったので「こうなることならぼくが書きたいと思った」など書いてある。佐藤氏を蔑ろにする文意ではない。
でも富野監督が∀に「萩尾望都」とまず言ってみたという理由は、とてもよくわかる。当時、安田朗を擁していながら。結局そういう耽美的なものは佐藤版にも福井版の文章にもないので、今となっては「富野由悠季×萩尾望都」は一度読んでみたかったとは思う。
少年愛や同性愛を扱っても∀の耽美なところは、井荻麟の詞にも西城秀樹にも谷村新司にも濃厚なので、佐藤&福井両氏が全然それには近寄らないのは惜しいところ。作家の性質はあるんだろう。
わたしはちょうど今年あたり野阿梓を読んでいたりしたので、そこは物足りない。
あと、耽美とはべつに「戦場まんがシリーズ」のような雰囲気も足りないな。それらは作家の個性よりは世代か。
「ナノマシン・ハザードの怪物」のようなものなら、たとえばGレコのムタチオンなどはそれに近い表現されている。
福井版も読了。まあこちらは再読だし。『花咲爺』のフォークロアか、『始まりの樹』にしても神話的なアプローチがもっとあったかと思ったけど、なかった。
福井文は富野作品、それも小説作品中の表現について仄めかしている箇所が無数でいかにも「富野オタ」という気分が濃く、ガンダムオタクの気のない佐藤氏と対照的だが、福井氏が富野的なマインドかといえばどうか、という口は二十年くらい聞き飽きたことだろう。
ここの通読の経緯では、∀やUC当時の富野理解は『イデオン』重点というもので、『王の心』から∀に至る流れ、などは反映してない。90年代後半頃の時代一般的なものも思わせた。わたしは福井作品を今これ以上追う気はない。
ローラが男?と聞いて眉をひそめる史劇ファンのスペースノイドは少なからずいるにはちがいないが、稗史巷談のうち。『ローラはいなかった』というのはif。
佐藤茂『∀ガンダム Episodes』読了。
地球降下前のロラン達の訓練過程などは少し興味がある。
でもわたしはそもそも、「ガンダムの出てこないガンダムキャラクターのスピンオフノベル」なるものは一様に嫌っているのでそれ以外ではない。それはジークアクスなどでも、今後なんらかの新作でも同じ。
宇宙世紀にせよアナザーにせよ、ガンダムぬきでそのSF世界観が続くようなガンダム作品は、ない。それをしようとするとすでに陳腐になる。Gレコはそのうちに入らない。Gレコはガンダムの話ではないから。
『∀ガンダム』の作品からガンダムを省くのはあまりにナンセンスだろう。はっきり言ってわたしは、キエルとかグエンとかハリーとかはその後、どうなろうがどうだっていいよ。興味ない。
このあと、あきまん先生の『月の風』と、佐藤茂作品の『DEKU』を積んでる。
『ガンダムとはなにか、何故この作品がガンダムなのか』 これもうガンダムと違くない? と思っていたら、やはり最後にはガンダムだった、と頷かされるようなものがガンダム作品として面白いんだよ。それと、シンボリズム。
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佐藤小説の人物はややデフォルメが強いが、ソシエが事あるごとにギャバンの名前をいうのはアニメならドレスのことで一度区切りをつけた後の時間なので、何度もくどい印象がする。
佐藤版。最終巻に来てロラン行方不明でイングレッサのお家騒動や政略結婚などを始めるが、スピンオフ小説にしても『∀の癒し』など読んだあとに富野読者としては今更こんなところでこんな話、どうでもいい。
ガンダムの話でモビルスーツをさしおいてナノマシン・モンスターなども陳腐で、辟易する。『競漕海域』を読んだあとで著者のモチベーションはどこにあるのか分かるので、想像できなくはなかった。
佐藤版5巻読了。巻末解説に、このノベルのイラストは萩尾望都を要望したのは富野監督で、ダメモトで言ってみたらOKを貰ったので「こうなることならぼくが書きたいと思った」など書いてある。佐藤氏を蔑ろにする文意ではない。
でも富野監督が∀に「萩尾望都」とまず言ってみたという理由は、とてもよくわかる。当時、安田朗を擁していながら。結局そういう耽美的なものは佐藤版にも福井版の文章にもないので、今となっては「富野由悠季×萩尾望都」は一度読んでみたかったとは思う。
少年愛や同性愛を扱っても∀の耽美なところは、井荻麟の詞にも西城秀樹にも谷村新司にも濃厚なので、佐藤&福井両氏が全然それには近寄らないのは惜しいところ。作家の性質はあるんだろう。
わたしはちょうど今年あたり野阿梓を読んでいたりしたので、そこは物足りない。
あと、耽美とはべつに「戦場まんがシリーズ」のような雰囲気も足りないな。それらは作家の個性よりは世代か。
「ナノマシン・ハザードの怪物」のようなものなら、たとえばGレコのムタチオンなどはそれに近い表現されている。
福井版も読了。まあこちらは再読だし。『花咲爺』のフォークロアか、『始まりの樹』にしても神話的なアプローチがもっとあったかと思ったけど、なかった。
福井文は富野作品、それも小説作品中の表現について仄めかしている箇所が無数でいかにも「富野オタ」という気分が濃く、ガンダムオタクの気のない佐藤氏と対照的だが、福井氏が富野的なマインドかといえばどうか、という口は二十年くらい聞き飽きたことだろう。
ここの通読の経緯では、∀やUC当時の富野理解は『イデオン』重点というもので、『王の心』から∀に至る流れ、などは反映してない。90年代後半頃の時代一般的なものも思わせた。わたしは福井作品を今これ以上追う気はない。
わたしの感想では、これらの∀ガンダム創作群は、『ローラ・ローラは男だった』という未来の一説から分かれて派生しているジャンルらしい。
ローラが男?と聞いて眉をひそめる史劇ファンのスペースノイドは少なからずいるにはちがいないが、稗史巷談のうち。『ローラはいなかった』というのはif。
佐藤茂『∀ガンダム Episodes』読了。
地球降下前のロラン達の訓練過程などは少し興味がある。
でもわたしはそもそも、「ガンダムの出てこないガンダムキャラクターのスピンオフノベル」なるものは一様に嫌っているのでそれ以外ではない。それはジークアクスなどでも、今後なんらかの新作でも同じ。
宇宙世紀にせよアナザーにせよ、ガンダムぬきでそのSF世界観が続くようなガンダム作品は、ない。それをしようとするとすでに陳腐になる。Gレコはそのうちに入らない。Gレコはガンダムの話ではないから。
『∀ガンダム』の作品からガンダムを省くのはあまりにナンセンスだろう。はっきり言ってわたしは、キエルとかグエンとかハリーとかはその後、どうなろうがどうだっていいよ。興味ない。
このあと、あきまん先生の『月の風』と、佐藤茂作品の『DEKU』を積んでる。
『ガンダムとはなにか、何故この作品がガンダムなのか』
これもうガンダムと違くない? と思っていたら、やはり最後にはガンダムだった、と頷かされるようなものがガンダム作品として面白いんだよ。それと、シンボリズム。