参考
天台座主・曼数珠院門跡覚恕
🧎♂️ 覚恕法親王とは
「天台座主・曼殊院門跡・覚恕」は、戦国時代の天台宗の高僧である 覚恕法親王(かくじょ ほっしんのう)を指す語の組み合わせです。
後奈良天皇の皇子として生まれた皇族出身の僧侶 京都・比叡山延暦寺の最高位「天台座主」を務めた人物
天台宗の門跡寺院である「曼殊院(まんしゅいん)門跡」の住持でもあった
正親町天皇の異母弟で、織田信長による「比叡山焼き討ち」のころの天台座主として知られる
何故? 織田信長が「比叡山焼き討ち令」を出したのか?
1)なぜ❓織田信長は「比叡山を焼き討ち」したのか?
比叡は「最澄」が比叡山の延暦寺で「天台宗」を開く
そして室町幕府の「上様である足利征夷大将軍」が「比叡山に天台宗」を「擁護」していた
そのため 比叡山の「僧侶」たちは 上様の足利征夷大将軍から「擁護」されていたので「権力を振い傲慢」になり 僧侶の癖に「槍を持ち戦闘軍団化」してしまう
色街に繰り出し 酒を般若湯と呼び 飲酒を正当化
遊女を「蓮の花」と呼び正当化 酒を飲み遊女と交わり、傲慢で代金を踏み倒していて 庶民を苦しめていた まさに「破戒僧」
他方 室町幕府は 13代征夷大将軍・足利義輝の頃から「衰退」に向かう
その為「天下人を狙う織田信長」は 室町幕府を「支配」するため「足利義昭」を征夷大将軍に「擁立」すれば 室町幕府は「手玉に取れる」為 足利義昭を15代征夷大将軍に「擁立」する
こうして「足利義昭」は「織田信長」から15代征夷大将軍に「擁立してもらう」
ところが、上様である足利義昭・征夷大将軍は、子供でも分かる 家臣である「織田信長」から手玉に取られ「利用」されているのは 馬鹿でも分かる
其の為足利義昭は、織田信長を「不届きな不忠義者」として成敗するよう家臣に命じる
そのため 織田信長と足利義昭は「敵対関係」になる
これは中国の「趙高」と「皇帝・胡亥」も 同じ
趙高が「秦王朝を支配する」ため 胡亥を2代目の皇帝に「擁立」する、その為 皇帝・胡亥は趙高から手玉に取られ「利用」されていたので 胡亥は「皇帝」として振る舞うため趙高を亡き者にしようとする
つまり胡亥と趙高は「敵対関係」になる
その為「趙高」が「秦王朝を支配する為」2代目皇帝・胡亥を「暗殺」し 秦王朝の最高指導者になったのと同じ
比叡山・天台宗は 室町幕府が「擁護」していたので「敵の足利義昭に味方」する 比叡山を滅ぼすよう「比叡山焼き討ち」を家臣に命じる
その為「織田信長の軍勢が」比叡山の仏閣を 悉く焼き討ち 僧侶,約3000人余り 惨殺
この比叡山の僧侶は槍を持つ「戦闘軍団」で 僧侶を惨殺したのではなく 敵のあそかが義昭宇に味方する「戦闘軍団」の僧侶たちを殺害
ところが「織田信長」と「甲斐の武田信玄」は 共に天下人を狙う「敵対関係」で 武田信玄は 家臣の「真田昌幸(さなだまさゆき)」に
織田信長の「比叡山焼き討ち」で 最高権威だった「天台座主・曼数珠院門跡覚恕(てんだいざす・まんじゅいんもんせきかくじょ)を犠牲にせず、救出するよう命じる
真田昌幸」とは元々。地方の無力だった「真田家」の子孫で 無力な「真田家」が 立身出世を目指し
有力な大名に出世するため 武田信玄の「家臣」になる この真田家の子孫が「真田昌幸」で
この真田昌幸の「息子」が 有名な「真田幸村」
真田昌幸は 主君・武田信玄から命じられ「天台座主・曼数珠院門跡覚恕」を比叡山焼き討ち っから救出する
こうして天台宗は滅びず。生き残る
ところが 歴史は そう単純には行かない
この比叡山の麓には、織田信長とは「敵対」する「一向宗の顕如」がいて 一向宗の顕如は、次は織田信長が 自分たち「一向宗」を滅ぼすと考え 織田信長に「対抗」するため
室町幕府の 足利義昭と織田信長は」敵対関係だったので 織田信長の敵である足利義昭:征夷大将軍を味方』に付け
織田信長と顕如の一向宗が「天下分け目」の決戦
織田信長・勝利 こうして織田信長は「一向宗」と「室町幕府」を滅ぼし、天下人に成り「安土桃山時代」を築く
・・・次は。なぜ「本能寺の変」なのか
なぜ???の核心がない識者の解説
核心である なぜ? がなく 枝葉末節の経過ばかり4ページに渡り解説
見出し・・4ページの1ページ目・・豊臣秀吉でも、秀長でもない…比叡山を焼き払い、織田家の出世頭になった"中途採用のよそ者武将"の名前
NHK大河「豊臣兄弟!」では、豊臣秀吉・秀長兄弟の活躍が描かれている。だが織田家中には兄弟と出世争いを演じ、歴史の表舞台に現れてからわずか10年で34万石の大大名に上り詰めた武将がいた。比叡山焼き討ちで活躍したとされる「よそ者武将」の実像を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■比叡山焼き討ちの“真の中心人物”
織田信長の配下にあった有力武将が、元亀2年(1571)9月2日付で出した書状が残っている。宛先は近江(滋賀県)雄琴の土豪・和田秀純(わだひでずみ)。
和田は前年まで浅井長政に従い、信長と対立していた。しかし元亀2年に入ると浅井から離脱し、織田方につくことを決意する。書状の最初のほうは、そのことに対し感謝の意を述べる内容だった。
ところが後半になると、物騒な文言が並び始める。
「仰木のことはぜひともなでぎり(なで斬り)につかまつる」 「(信長は)志村城をひしころし(干し殺し)にした」
書状の差し出し人は、明智光秀である。彼は「仰木」(仰木は比叡山三塔の一つである横川中堂の麓の場所)の人々を、「なで斬りにする(殲滅する)」と書いている。
また「志村城」(滋賀県東近江市)は、信長に敵対していた本願寺一向宗が籠もっていた城で、直前に織田軍が兵糧攻めで落とし、数百に及ぶ首級をあげていた。書状は信長に従わない「仰木」も、「志村城」と同じ運命をたどるだろうと、示唆している。
光秀がこの書状を書いた10日後の9月12日、世に名高い「比叡山焼き討ち」が断行された。書状との関連から、焼き討ちの中心にいたのは光秀その人ではなかったかと、有力視されるようになった。
さらにその功績によって、光秀は織田譜代家臣ではない“よそ者”であるにもかかわらず、異例の出世を遂げたと考えられる。
明智光秀にとって、比叡山焼き討ちは大きな転機だった。
■山が燃え、3000〜4000人が斬られた地獄の1日
比叡山焼き討ちについて、『信長公記』はこう書き残している。
「諸隊の兵は、四方から鬨(とき)の声をあげて攻め上った。僧・俗・児童・学僧・上人すべての首を切り、信長の検分に供した。一人残らず首を打ち落とし、哀れにも数千の死体が転がり、目も当てられぬ有様だった」(『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)より抜粋)
この言葉通りなら、まさに地獄絵図だった。京の公卿・山科言継(やましなときつぐ)も、日記『言継卿記』九月十二日条に記す。
「織田弾正忠(信長)、夜明け前より放火、次に日吉社(比叡山の麓にある日吉大社)、山上東塔、西塔、無動寺残らず放火、山衆ことごとく討ち死に。僧俗男女三四千人切り捨て仏法破滅、王法いかにあるべきや」
言継は3000〜4000という数をあげているが、実際には不明で、後世伝わるような広い範囲での焼き討ちや大量殺戮は、誇張が過ぎるのではないかとの見方もある。しかし「王法いかにあるべきや」とは、仏法を守護し国を統治するあり方が失われてしまったということを指しており、信長=仏への反逆者と見られていたのは確かなようだ。
エホバの証人が 妄想万ずり
見出し。・・「エホバの証人」信者女性 白内障手術断られ、滋賀医大を損賠提訴
滋賀県の女性が宗教団体「エホバの証人」の信者であることを理由に白内障の手術を断られ、精神的苦痛を受けたとして、滋賀医科大付属病院(大津市)を運営する滋賀医大に330万円の損害賠償を求め、大津地裁に提訴したことが23日、分かった。提訴は1月23日付。
訴状などによると、女性は同市内の眼科で白内障の手術が必要との診断を受け、2024年1月、紹介先の滋賀医大付属病院を受診した。宗教上の理由から輸血を受け入れないことを文書で示したところ、医師から「エホバの証人(の患者)は受け入れられない」として診療を断られ、別の病院を探さざるを得なかったとしている。後日、別の医院で両目の手術を受けたが、輸血の必要はなかったという。
原告側は、患者の自己決定権を尊重して適切に治療する義務を負う病院が、正当な理由なく治療を拒否したことは「公立病院の義務に違反する」と指摘。女性の代理人弁護士は「医学的な観点から宗教上の信念に沿った治療はできたはず。診療拒否は差別行為で、憲法上の基本的人権の侵害だ」としている。
滋賀医大付属病院はホームページ上で、宗教上の理由で輸血を拒否する患者について「生命維持のために必要があると医師が判断した場合には行う」との方針を示している。滋賀医大は「係争中のため、回答は控える」としている。
・・・エホバの証人とは ユダヤ教・キリスト教の神をエホバといい エホバ神の証人を自称する妄想狂
ユダヤ教の旧約聖書、キリスト教の新約聖書の時代 輸血など無い時代
ただ聖書では 人間は、エホバの神の「申し子」で、その見本が 人々を救済したイエス・キリストでイエス・キリストはエホバ神の子になっている
だかラキリスト教の司祭は・・「神と子と聖霊の御名において」「三位一体」を言っている
だから エホバ神の申し子である人間は エホバ神が授けた純血を守るとも解釈できる
つまり血は エホバの神から申し子として引き継いだ血とも解釈できる つまり「血はエホバ神が人間に授けた「命」とも解釈できる
だから他者の血(命)を受け入れるとは 他者の命を奪う意味にもなる
以上は猫の妄想で だからエホバの証人は他者の血を受け入れない輸血拒否・・純血を守る
エホバの証人は なぜ輸血拒否するのか説明しろ!
輸血は 患者の命を救うオペレーション しかし輸血した人には、性格が変わる人がいる
そうなれば 自分が自分でなくなってしまう
反キリスト教徒が 人類の脅威
見出し・・「北朝鮮よりも恐ろしい世界かもしれません」“影の米大統領”ピーター・ティールが危惧する「反キリスト」が跋扈する社会像
ソ連崩壊、リーマンショック、トランプ大統領誕生などを次々に予言し、“現代最高の知識人”と称されるフランスの歴史人口学者・家族人類学者のエマニュエル・トッド氏(74)。一方、PayPalやPalantirの共同創業者にして“シリコンバレーのドン”の異名をもち、いち早くトランプ支持を表明してJ・D・ヴァンス副大統領就任にも深く関与し、“影の米大統領”とも評されるピーター・ティール氏(58)。
世界が注目する2人の“世紀の対談”が文藝春秋本社で実現した(司会は会田弘継氏)。本稿ではティール氏が、キリスト教を軸に世界を考察した部分を紹介する。(通訳・近藤奈香)
◆◆◆
人類滅亡の危機を煽って権力を握る反キリスト
会田 ティールさんが「世界の終わりへの航海」を書かれたのはどんな経緯からですか。
ティール 私がこのエッセイで、いくつかの文学作品を通じて捉えようとしたのは、「後期近代」が直面する奇妙な状況についてです。
こうした「人類滅亡のリスク」について話をする時、私は科学がはらむ危険性や環境問題といったリスクを過小評価しているわけではありません。「これは嘘だ」とか「作り話だ」と言っているわけではないのです。
例えば、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリに対して私は批判することも多いのですが、ある意味で彼女は正しい。私たちにはこの地球しかなく、別の惑星を簡単に手に入れられるわけではないからです。
しかし、私が強調したいのは、こうしたリスクを考えるなら、もう一つの非常に危険で深刻なリスクも考えるべきだということです。それは私が「全地球的な全体主義国家のリスク」と呼ぶものです。つまり、全世界を支配する独裁的な政府が生まれ、地球全体を「逃げられない監獄」に変えてしまうリスクです。
これは北朝鮮よりも恐ろしい世界かもしれません。北朝鮮なら逃げられますが、地球全体がそうなれば脱出不可能です。私はこれを「政治的な存亡のリスク」、あるいは「黙示録的な政治リスク」だと考えています。
聖書の言葉で言えば、「反キリスト」です。反キリストは、聖書では、「歴史の最後に現れ、全世界を支配する独裁者」として描かれます。
ここで重要な問いは、「反キリストはいかに権力を握るのか」です。私の考えでは、「後期近代」において反キリストは、人々に絶えず破滅や滅亡のリスクを語り続けることで権力を握ります。
「初期近代」のフランシス・ベーコンの時代や17〜18世紀なら、科学技術によって世界を支配できたかもしれません。しかし現代では、人々は科学技術を恐れている。だから「反キリスト」や「世界統一国家」は、「科学技術の統制」を約束することで権力を握る。科学技術を阻止し、制御するには、世界が一つになる必要がある、と訴えるわけです
・・・「反キリスト教」とは 前の投稿で述べた様に「キリスト教」を「歪曲」して 神が創造した人間とは白人であり有色人は人間ではない」と決めつけた 白人キリスト教徒が
白人至上主義でキリスト教を「歪曲」した「反キリスト教」・・アンチ・クライスト
米トラは 白人至上主義で「歪曲されたキリスト教徒」で「反キリスト教」
本来のキリスト教は 神の愛 人類の救済 社会的弱者を救済
だから 白人 黒人 黄色人の人種に関係なく信仰
なぜ白人が有色人を人種差別するのか、歴史を見れば理由が分かる
最大の罪は「創造主」が人間に「美意識」を授けた為、人間は美しいものは憧れ。汚いものは嫌う美醜意識を授けたのが「最大の罪作り」
男は美人に憧れ、女も美男に憧れる このように人間は「美醜意識」を持つ動物
イエス・キリストは紀元0年の頃。パレスチナのベツレヘムで誕生した「ユダヤ人」で西ローマ帝国のピラト提督から 磔刑に処せられ イエスの信奉者が キリスト教を開く
そして15世紀の頃 西洋白人国の「スペイン」のボルジア家の枢機卿ロドリゴが「悪徳の限りウィ尽くし「ローマ教皇アレキサンドル6世」になり 世界をキリスト教で「席巻」する
その為 白人の西洋諸国はキリスト教国になり 白人の西洋諸国の「キリスト教徒」たちが
「神が創造した人間とは「白人」であり 有色人は人間ではない」と決めつける
これが 白人至上主義(人種差別主義)の「元祖」
つまりはキリスト教は 人種差別(白人至上主義)に「お墨付き」を与えたのである
この白人至上主義の「白人キリスト教徒の英国人」が 北米大陸にアメリカ合衆国を建国
当然 米国は 白人至上主義の人種差別
米トラは キリスト教徒で 当然 白人キリスト教徒で 白人至上主義(人種差別)
だから 有色人(ブラックマン)を 白人至上主義(人種差別主義)で IQが足りない発言 この米トラは キリスト教徒で 米国のキリスト教「福音派が支持」
トランプによる有色人差別
これは「白人キリスト教」に「原因がある」 次に説明
日本人はIQが高くとも EQが低い民族
見出し・トランプ氏、黒人を「低IQ」と侮辱 人種差別まがいの陰湿な当てこすり
ドナルド・トランプ米大統領は今週、米国で最も著名な黒人であるケタンジ・ブラウン・ジャクソン最高裁判事と下院民主党トップ、ハキーム・ジェフリーズ院内総務を攻撃した際、特に侮辱的な表現「低IQ(知能指数)の人(low IQ person)」を使った。
トランプ氏はいつも人を侮辱してばかりいるが、米国では明確な人種差別的なニュアンスを含む「低IQ」という表現は、特に不快感を与えるものだ。
トランプ氏は22日、名門ハーバード大学出身で、黒人女性として初めて最高裁判事に就任したジャクソン氏を「どういうわけか判事の座に就いた、あの新しい低IQの人」と攻撃した。
トランプ氏は、ジャスミン・クロケット下院議員、アレクサンドリア・オカシオコルテス下院議員、アル・グリーン下院議員、ラシダ・タリーブ下院議員、マキシン・ウォーターズ下院議員といった有色人種の民主党議員に対しても同様の攻撃を繰り返している。
ソマリア出身のイルハン・オマル下院議員(ミネソタ州選出)を個人攻撃する一方で、アフリカ東部「アフリカの角」4か国(ソマリア、ケニア、エチオピア、ジブチ)出身の移民(外国人)を「低IQの人々」とレッテルを貼ってきた。
「低IQ」という侮辱表現は、かつての盟友マージョリー・テイラー・グリーン元下院議員や、対イラン軍事作戦を批判したコメンテーターのタッカー・カールソン氏やメーガン・ケリー氏ら、トランプ氏が「敵」とみなした白人に対しても使っている。
だが、より頻繁にこの表現を使っているのは、有色人種、特に黒人女性に対してで、2024年大統領選で対立候補だったカマラ・ハリス前副大統領を「ばか」「まぬけ」「超低IQの人」と呼んだ。
専門家によると、「低IQ」という侮辱表現は、白人至上主義者が黒人の知能は低く肉体労働に適していると主張してきた歴史を踏まえると、特に黒人コミュニティーに不快感を与えるものだという。・
「英国戦艦ユリアラス号」と「通訳のアーネスト・サトウ」と「長州藩の高杉晋作」
高杉晋作 二十六歳
敗軍の将、堂々と。イギリスとの講和談判。
文久三年(1863年)、長州は無謀にも欧米列強を相手に戦をしかけた。
「」馬関海峡の攘夷戦である。結果は長州の惨憺たる敗北であった。
その講和談判に長州代表として臨んだのが、二十六歳の「高杉晋作」である。
高杉は、通訳の伊藤博文を従え、英軍の旗艦「ユーリアラス号」に堂々と乗り込んできた。
イギリス側の「通訳アーネスト・サトウ」は、その時の高杉の様子を「魔王のように傲然と構えていた」と述べている。
さて、講和談判がはじまると、イギリス側は、彦島の租借の問題を持ち出した。
高杉には、租借の意味がよく判らなかったが、どうも領土のことらしいと感じた。すると高杉は、突然
「天地初めてひらけし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に・・・」 と古事記の国生みからはじめて日本の歴史を説きはじめた。
領土の問題なら、わが国土の始めから話そう、と考えたのである。そして、この怪弁で租借の件をうやむやにしてしまった。
列強の居並ぶ中での高杉のこの度胸と機転は、まさに脱帽と言うしかない。
・・・こうして「通訳のアーネスト・サトウ」が ヴィクトリア女王に「日本の植民地化は困難」だと報告
其の為 英国は「日本の植民地化」を「断念」する
英国による「日本の植民地化」を「防いだ」のが、長州藩士の「高杉晋作」
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投稿844は 誤字が目立ち 意味不明になっているので 誤字訂正
( )が 誤字、訂正
>英国戦艦ユリアラス号は 日本の「長州藩(山口県)」の海岸に漂着
ところが、長州藩は 馬関海峡(下関海峡)を「封鎖していった(封鎖していた)」ので「英国戦艦ユリアっラスは 下関っ海峡っが(下関海峡)が「通過できず」
江戸の徳川幕府間で(徳川幕府まで)行けなので
ユリアラス号の「艦長」が 長州藩に「損害賠償」を請求
・・・以上、誤字、訂正
・・歴史は続く
・・井伊直弼が「安政の大獄」で 吉田松陰を「処刑」する
この吉田松陰の松下村塾で、学んでいたのが「長州藩士」の「伊藤博文」
井伊直弼が 不平等な「日米修好通商条約」を、朝廷の「孝明天皇」の「意向に反し」締結したので尊王攘夷の「水戸藩士」たちが
井伊直弼が、江戸城の「桜田門」から 籠に乗り 門外に出た時を見計らい「暗殺」する
これが「桜田門外の変」
こうして「こんな徳川幕府の世より、天皇の世がマシだ」とする「尊王攘夷論」で「倒幕派」が
徳川幕府を倒し「明治天皇の世」である「明治政府」を築く
この明治政府の「初代・総理大臣」になったのが 吉田松陰の弟子だった「伊藤博文」で
伊藤博文が 日本で「最初の総理大臣」
現在の高市総理大臣は 105代目の総理大臣
徳川幕府を「倒幕」
この経緯も「複雑」で難しい
「関ケ原の戦い」で 豊臣家を滅ぼしった「徳川家康」が「天下人」になり「江戸」「に「徳川幕府」を築き、徳川幕府の「初代・征夷大将軍」となる
こうして「征夷大将軍の徳川家康」は「関ケ原の戦い」の「以前」から徳川家に「忠誠を誓っていた武将」を「譜代大名(ふだいだいみょう)として「優遇」する
しかし「関ケ原の戦い」から「徳川家に忠誠を誓った武将」は「外様大名(とざまだいみょう)」として「冷遇」する
つまり 同じ大名でも、譜代大名は「厚遇」 対する「外様大名」は「冷遇」
この冷遇されていた外様大名の見本が「薩摩藩の大名」や「長州藩の大名」
・・複雑すぎて「説明も難しい」
ところが 11代・征夷大将軍・徳川家斉の頃。徳川幕府の「財政が逼迫」
そのため「幕閣で老中」だった「松平定信」が 諸藩の大名が 贅沢しないよう「質素倹約令」を 発令
その為 幕府から「冷遇」されていた外様大名の「薩摩藩の大名」や「長州藩の大名」は 俸禄を削減されてしまう
そのため外様大名に仕えていた藩士(下級武士)たちは 俸禄が「年間30表」の「夫婦」しか生活できない「2人扶持」や「夫婦と子供」までしか生活できない「3人扶持」まで俸禄を「削減」され生活難に陥り
「食い詰め浪人」や「無宿者」に「落ちぶれてしまう」
其の為」これらの元藩士たちが「こんな徳川幕府の世より、天皇の世がマシだ」とする「尊王攘夷論」が台頭するようになる
この時代 孝明天皇の朝廷葉「京都」に置かれていて・・「天皇の世がマシだ」とする 元藩士の下級武士たちが「尊王攘夷論」で 孝明天皇の京都に「集結」
「尊王攘夷」で、徳川幕府を「倒し」天皇の世を築くため「徳川幕府」の「打倒運動」
ところが歴史は そう単純ではない 当時、英国は ヴィクトリア女王で「日本の植民地化」を狙い、英国戦艦「ユリアラス号」を日本に派遣
ああ!説明が複雑すぎて「いやんなっちゃう!」
英国戦艦ユリアラス号は 日本の「長州藩(山口県)の海岸に漂着
ところが、長州藩は 馬韓海峡(下関海峡)を「封鎖していった」ので「英国戦艦ユリアっラス号」は 下関っ海峡っが「通過できず」 江戸の徳川幕府間で行けなので
ここで長州藩の藩士だった「高杉晋作」が日本刀を「抜刀」誌ユリアラス号の艦長を「恫喝」しる
これを見ていたのが通訳の「アーネスト・サトウ」で ヴィクトリア女王に「日本の植民地化は困難」と報告する
そのためビクトリア女王は、日本の植民地化を断念する
ところが歴史は、そう簡単ではない 今度は 米国の「東インド艦隊」を率いた「ぺリー提督」が 浦賀に入港
戦艦から、大砲を、ぶっぱなし軍事力で「砲艦外交」 そうして「日米和親条約」と「日米修好通商条約」を徳川幕府に「強要」する
これに対し、朝廷の「孝明天皇」は、日本と米国が仲良くする「日米和親条約」は「受け入れる」が 日本が不平等になる「日米修好通商条約」には「猛反対」
ところが 幕府の大老だった「井伊直弼」が、大砲をぶっ放す「砲艦外交』に「恐れをなし」孝明天皇の「意向を無視」
不平等条約の「日米修好通商条約」を締結する
しかし長州で」松下村塾の「吉田松陰」が 不平等条約の「日米修好通商条約」を締結した幕府の大老「井伊直弼」を猛非難
其の為 井伊直弼が「安政の大獄」で 吉田松陰を「処刑」する
「安政」とは 江戸時代の「年号」
・・長文になり 続く
何故「熊本の領民(藩士)」が熊本を「脱藩」したのか
識者は 何故? の理由がわかっていない
歴史は「複雑で錯綜」としているので、理解が難しく、ある識者は 何故? の疑問を解説しているだけ
この歴史は「関ケ原の戦い」から始まる
「関ケ原の戦い」とは 豊臣秀吉には「血を分けた後継ぎ」が「いなかった」ので「血の繋がりがない豊臣秀頼」を後継ぎにする
そのため「徳川家康」は 秀吉とは血の繋がりがない「豊臣秀頼」を「跡継ぎとは認めなかった」
しかし豊臣秀吉に「忠誠を誓っていた石田三成」は 秀吉の「遺言を守り」 後継ぎの「豊臣秀頼」に忠誠を誓いを「後継ぎとして認める」
豊臣秀頼に忠誠を誓っていた
そのため豊臣秀頼を「後継ぎに認めない徳川家康」と 後継ぎに認める「石田三成」が
「豊臣家を守る為」に、徳川家康と「関が原の戦い」
ここで「豊臣秀吉に忠誠を誓っていた」が「豊臣秀頼を後継ぎとは認めない」「加藤清正」や「黒田長政」は 徳川家康に「寝返り」
関が原の戦いで「徳川家康に味方」
つまり徳川家康に味方し 関ケ原の戦いを「勝利」に導き 豊臣家を「滅亡させた」のである
こうして「徳川家康が天下人』に成り、次の「徳川幕府(江戸時代)」を築く
そして「徳川家康・征夷大将軍」は「関ケ原の戦い」で「戦功」があった「加藤清正」を「肥後の国(現在の熊本県)の 「領主(藩主)」の「外様大名」として「召し抱える」
其の為、加藤清正は「熊本城」を築城・・ここが重要
黒田長政は 筑前の国(現在の福岡県)の「領主(藩主)」の「外様大名」として「召し抱える」
其の為、加藤清正は「福岡城」を築城する・・ここが重要
この「領主」の「外様大名」に仕えていたのが「領民(藩士)」
ここから「難しくなる」
熊本城や 福岡城の「近くに居住」していた領民(藩士)を「上士(じょうし)と言い
熊本城や 福岡城から「離れた所に居住する領民(藩士)」を「郷士(ごうし)と言い
身分は 同じ領民(藩士)でも「郷士」の方が「上士」より「低い身分」・・ここも重要
ところが、徳川幕府は「11代徳川家斉(いえなり)・征夷大将軍」の頃「幕府の財政」が「逼迫」
そのため「8代征夷大将軍・徳川吉宗」の「孫」であり「白河藩の大名」であり「幕府の幕閣」だった「老中の松平定信」が
諸藩の大名に「質素倹約令」を発令する
其の為 諸藩の大名は「俸禄を削減されてしまう」
当然 諸藩の大名は「財政難」その為 大名に仕えていた「領民(藩士)」も俸禄を「削減」されてしまう
こうして「大名の城」から「遠く離れて居住」していた領民(藩士)の身分が低い「郷士」の俸禄は 年間・米俵で「30表」に削減され「生活難に陥ってしまう」
その為「こんな徳川幕府の世」よりも「天皇の世の方がマシ」とする「尊王攘夷論」が台頭
「熊本藩の藩士たち」が熊本藩を「脱藩」し「天皇がいる京都に集まる」
以上を ある識者が解説
これから先は 以前の投稿で説明している つまり「徳川幕府」の「倒幕運動」
・・倒幕は 次の投稿
日本識者は世界一分かりにくい説明
肝心な「要点が理解されていない」 次の投稿で、分かりやすく説明
見出し・・幕末に熊本藩士に従い京都などで暮らしていた領民が多数失踪、理由は様々…力士となる者や新選組入隊も
領民が新選組に入隊したことが記されている口書
幕末、熊本藩士に従い京都など領外で暮らしていた同藩の領民が多数失踪していたことが、熊本大永青文庫研究センターの今村直樹准教授の研究で分かった。この時代、多くの武士が脱藩して志士として活躍したが、同藩の領民や下級武士も藩の支配を抜け出して新選組に入るなど、歴史の激動期に様々な人生を送ったことが史料で確認された。(中村由加里)
今村准教授は2023年度から、熊本藩で刑事法制を担当していた「刑法方」が作成した細川家文書「口書(くちがき)」を研究。藩領内外で起きた事件の容疑者の供述調書が収録され、記録が残りにくい庶民の動きが分かる貴重な史料とされる。現存する1712年(正徳2年)~1867年(慶応3年)の133冊のうち、幕末期にあたる63年(文久3年)~67年(慶応3年)の全10冊を分析した。
藩からの逃亡、失踪を理由に罰せられた事件は同期間で60件あり、このうち京都でのケースが10件と多かった。当時、熊本藩は朝廷から京都の護衛を命じられており、藩士の派遣に同行した奉公人らが逃げ出すことがあった。
泥酔して門限に間に合わなかったり、借金を重ね、家族への面目を失ったりと理由は様々で、恋仲となった京都の女性から引き留められて熊本へ戻らなかった者もいた。失踪後、力士となる者、脅して金銭を奪う「押借り」を行い、治安を悪化させるなどした者もいたという。
一方で、動乱の時代に志を抱き、翻弄(ほんろう)された者もいた。玉名郡の農民・権之助は、知人から水戸徳川家への仕官話を持ちかけられ、江戸に向かった。しかし、実際は強盗集団の仲間集めだった。
山鹿郡の郷士(下級武士)・保理井大助は、江戸で中津藩士の福沢諭吉が開いた塾(後の慶応義塾)で学び、現在の熊本県内からの入塾者第1号だった。しかし、遊郭でトラブルを起こし、国元へ移送される途中に仲間と逃亡。新選組に入隊したと記録されている。
熊本藩では、長州藩の志士・吉田松陰の盟友となった宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら多くの武士が脱藩して京都などで活動したことが知られているが、史料からは庶民も藩の枠を飛び出し、様々な人生を送った実態が浮かび上がる。
今村准教授は「新選組は武士的性格や政治集団としての側面に注目が集まっているが、非政治的な失踪者を多く抱え込んでいた可能性がある」と指摘。「国や政治が変わる中で、いや応なしに人々の生き方が左右された。幕末維新の変動に巻き込まれた人々の姿に思いをはせてほしい」と話した。今後、展覧会を開く予定
楚の猛将軍「項羽」
項羽は 叔父の「項梁」に育てられ、叔父の項梁を父親と思い大人になる
しかし父親親同然の項梁は 秦の猛将軍「章郭』に、コロされ 復讐を誓い 秦の猛将軍「章郭」をコロし復讐を遂げる そして叔父の将軍の地位を引き継ぎ 楚の将軍になる
項羽
項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末から楚漢戦争期にかけての西楚の君主(在位:紀元前206年 - 紀元前202年)。姓は姫[1]、氏は項、諱は籍、字が羽[注 1]である。以下、一般に知られている項羽の名で記す[注 2][注 3]。
楚の将軍・項燕の孫。項梁、項伯の甥。項荘の従兄。項它の又従兄弟。
秦の猛将軍「章郭」
章 邯(しょう かん、拼音: Zhāng Hán、紀元前205年)は、秦の将軍。雍王。三秦の一人。弟に章平[注釈 1] がいる。
楚の猛将軍「項梁」
項 梁(こう りょう、拼音:Xiàng Liáng、 紀元前208年)は、中国秦代末期の武将・反乱指導者。
陳勝・呉広の乱を引き継ぎ、秦に対する反乱を指揮したが「秦の章邯将軍」に敗死した。項羽の叔父、楚の大将軍項燕の末子、項伯の兄弟[1]。自ら武信君と称した。
項羽を養育したことでも知られる
歴史マニア識者が まだまだ続ける歴史者
この識者、脳髄まで、歴史漬者の・・たくあん になっている
またもや「姉川の戦い歴史物」で 2人の猛将が対決した歴史
「織田信長+徳川家康」軍の「猛将」 と「浅井+朝倉」軍の「猛将」が「姉川の戦い」で 一騎打ちで戦ったと言う
これは 中国も同じ 秦王朝の猛将軍の「章郭(しょうかく)」と 楚の猛将軍の項梁(こうりょう)が「戦場で一騎打ち」
「楚の猛将軍だった項梁」が敗れ戦死 そのため 甥の項羽が、大将軍になり、叔父の復讐を誓い 秦の猛将軍・章郭を滅ぼす
見出し・・・身長210cmの巨漢武将・真柄直隆が本多忠勝に挑んだ!姉川の戦い「伝説の一騎打ち」の真相とは?
戦国時代には数多くの猛将が登場するが、その中でもひときわ異彩を放つ存在がいる。身の丈2メートルを超える巨体を誇り、巨大な大太刀を振るったと伝わる武将――朝倉氏家臣・真柄直隆である。
さらに彼は、徳川家康家臣団最強の猛将として名高い本多忠勝と一騎打ちを行ったとも伝えられている。果たしてこの逸話はどこまで史実なのか。そして直隆は、どのような最期を遂げたのだろうか。姉川の戦いに残された記録を手がかりに、その実像に迫ってみたい。
新史料の発見で見えてきた真柄氏の実像 越前真柄(福井県丹生郡越前町)は真柄氏の出身地であり、現在も真柄直隆の碑が建立されている。近年になって、真柄氏に関する新史料「真柄氏家記覚書」(福井県立歴史博物館所蔵)が紹介された。同史料は、17世紀頃に成立したとされている。
天文5年(1536)、直隆は家正の子として誕生した。長らく父の名は不明とされてきたが、「真柄氏家記覚書」などによって家正の名が伝えられるようになった。弟が直澄である。
巨体と大太刀――「太郎太刀」「次郎太刀」の伝説 真柄直隆・直澄兄弟は朝倉氏の家臣として仕え、「太郎太刀」「次郎太刀」という巨大な大太刀を操った武将として知られている。直隆の身長は約210cmほどあったと伝えられており、当時としては規格外の大男であった。黒鹿毛の馬に乗り、武芸に優れていたという。
将軍・足利義昭が一乗谷(福井市)に滞在した際、直隆は2本の大太刀を十数回も頭上で振り回し、その武芸を披露したと伝えられている。義昭が大いに驚いたとされるのも、無理からぬことであろう。
現在、熱田神宮が所蔵する「太郎太刀」は、全長303cm、刃長7尺3寸(約221cm)という巨大なものである。重量は約4.5kgに及ぶ。熱田神宮には弟・直澄所用と伝わる「次郎太刀」も伝来しており、刃長は5尺5寸(約166cm)とやや短いが、それでも大太刀としては破格の大きさである。
姉川の戦い――本多忠勝との一騎打ちはあったのか 元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍は、姉川(滋賀県長浜市)で激突した。いわゆる姉川の戦いである。この戦いにおいて、直隆は弟・直澄、子の隆基とともに出陣した。
その際、直隆は「太郎太刀」を携えて徳川方の本多忠勝と一騎打ちに及んだとされている。忠勝は名槍「蜻蛉切」を振るう猛将として知られており、戦国最強クラスの武勇を誇った人物である。
しかし、戦いの途中で徳川方の攻撃が激しくなったため、直隆は忠勝との戦闘を中断して撤退したと伝えられており、両者の勝敗はつかなかったという。ただし、この一騎打ちの詳細については記述が乏しく、実際にどの程度の戦闘が行われたのかについては不明な点が多い。
向坂三兄弟との戦闘――壮絶な最期の真相 その直後、直隆は徳川方の向坂三兄弟に討たれたとされる。このとき直隆は、「我頸を御家の誉れにせよ」と言い残したという伝承が残されている。弟・直澄、子の隆基もこの戦いで命を落としたとされる。なお、直隆を討った刀は「真柄斬り」と称されたともいわれている。
しかし一方で、向坂三兄弟に討たれたのは父・家正であったとする説も存在する。このように、真柄氏に関する一次史料は多くなく、記録には少なからぬ混乱が見られるのが実情だ。
伝説と史実のはざまで――真柄直隆像をどう見るか 真柄直隆は、巨大な体躯と大太刀を操る豪勇の武将として広く知られている。しかし、その武勇譚の多くは軍記物や後世の伝承に依拠しており、史実として確認できる内容は決して多くない。本多忠勝との一騎打ちもまた、戦国ロマンを象徴する逸話の一つではあるが、詳細はなお謎に包まれている。
鎌倉幕府
この歴史は 鎌倉幕府の前の時代は「平安暗時代」で平安時代は、権力者の「平家(平氏)」の
平清盛が支配していた時代で 平氏の「平安時代」
平とは 人物名で「氏」とは、高い地位を表す称号・・つまり「平氏:の「平清盛」の事
ところが、この平安時代・源という高い地位を持つ「氏」が「源氏」の 源頼朝で 平家の平清盛と源氏の源頼朝が、政権闘争で「源平合戦」
源氏の源頼朝が、勝利。こうして平家の平安時代。崩壊
源氏の源頼朝が、征夷大将軍となる鎌倉に「鎌倉幕府」を築く
しかし敗れた平家の「落ち武者たち」は日本各地に「隠れ潜み」軍勢を立て直し 攻めて来るやもしれないので鎌倉幕府は家臣たちに 平家の「落ち武者」を討伐するよう命じる こうして討伐を命じられた一人に「那須の大八郎」がいて 宮崎椎葉村に隠れ潜む平家の落ち武者・討伐
ところが平家の落ち武者に中には美しい鶴富姫がいて 討伐隊に「那須の大八郎」は一目惚れしてしまう
これを歌っているのが宮崎の民謡「ひえつき節」
・・庭の~~山椒の樹~~! 鳴る鈴かけて~~!
鈴が鳴~~る時きゃ 何と言うて~~出ましょう~~!
駒(馬)に~~ 水やると言うて 出ましょう~~!
こうして椎葉村に隠れ潜む平家の落ち武者たちが出て来た その中には美しい鶴富姫がいて
討伐隊の那須の大八郎は 一目惚れしてしまう;しかし平家の落ち武者を成敗する那須の斎八郎 惚れ抜いた鶴富に涙を浮かべ、別れを告げる
これを歌ったのが「ひえつき節」このように鎌倉時代 世の中が戦乱で それを「鎮めるため」鎌倉幕府は執政官に「北条時頼」を任じていた
そのため執政官の北条時頼は 日本全国を視察
長崎を訪れた時 朝鮮半島の「高麗」は蒙古の「元王朝」から支配されていたので「北条時頼」は今度は。日本が蒙古族から侵略されるち推測する
他方 日蓮宗の「日蓮」も「立正安国綸」で「日本が侵略される」として鎌倉幕府を説得するが 幕府は無視
そして執政官の北条時頼。死去 息子の北条徳宗が「執政官」を引き継ぎ 蒙古族が日本。侵略の「蒙古襲来(元寇)」
この鎌倉時代 朝廷は「後醍醐天皇」で足利尊氏が 自分の世を築くため「光明天皇」を祭り上げ
後醍醐天皇を京都の朝廷から「追放」する 追放された後醍醐天皇は「奈良の吉野に逃げ」南の朝廷・南朝を築く
それに対し。足利尊氏が祭り上げた光明天皇が「北朝」こうして南朝と北朝が対立・・南北朝
そのため南朝の後醍醐天皇に忠誠を誓っていた「楠木正成」と「新田義貞」が 足利尊氏を不忠義者として「成敗」しようとするが。楠木正成も新田義貞も
足利尊氏から 帰り討ちされコロされてしまう
こうして足利尊氏が。征夷大将軍となり 鎌倉の「鎌倉幕府」から、江戸の室町に「室町幕府」を築く
この戦場に成ったところが「鎌倉」で 鎌倉市には 戦場になって残された広大な「雑木林」があり ここを都市化するため「伐採」
日本人は世界一の田舎っぺで、自然を伐採、都市化するセンスがダサい民族
日本チンは、世界一センスがない人種
鎌倉市では 大昔から残されれている自然を伐採
日本チンは、百姓でも木を伐採 自然の樹を伐採するのが「好きなノータリン」
日本人は 世界一自然を大事にしない民族で、都会に憧れる 世界一、ダサい田舎っぺ族
見出し・・【ナゼ】雑木林を伐採したら“大きな岩”が…古くから伝わる『たたり』の言い伝えも?鎌倉市の再開発で住民に広がる不安
変わり果てた雑木林
かつては目にもまぶしいほどの木々が生い茂っていた鎌倉の住宅地。しかし今、その雑木林はすべて伐採され、風景は一変しています。広大な敷地の中にぽつんと姿を現したのは、大きな岩のような存在。突然の変化に、住民からは驚きの声が上がるとともに、『たたり』を心配する声も聞かれました。いったい、この地で何が起きているのでしょうか。
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■雑木林を伐採も…住民から“不安の声
伐採された雑木林があるのは神奈川県鎌倉市。約800年前に源頼朝が鎌倉幕府を開いた場所です。しかし1333年、長年にわたり鎌倉幕府に不満を抱いていた武将・新田義貞が挙兵。わずか15日で鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。今回伐採された雑木林は、その古戦場跡にありました。
不安を語る住民
以前は木々がうっそうと生い茂っていましたが、2026年1~2月にかけて鎌倉市が約420本の木を伐採しました。その様子を撮影した住民は…。
(近隣住民) 「工事をしている人に伝えたんです。大きな木があったので、『たたりがないように気をつけて工事してくださいよ』って」
■市史にも記された『たたり』とは?
戦死者を弔う石塔『泣塔』
住民が特に気にかけているのは、雑木林の一角に立つ高さ2m3㎝の石の塔です。鎌倉幕府末期の激戦地となったこの地域の戦死者を弔うために1356年に建立されました。過去には、この周囲の土地を開発する際に、人の骨が出てくることもあったといいます。
そして、この石の塔には『泣塔(なきとう)』という呼び名があります。鎌倉市によると、かつて塔を近くの寺に移したところ、夜ごとにすすり泣く声が聞こえたため、元の場所に戻したといいます。それ以来、『泣塔』と呼ばれるようになったということです。
市史にも記された『泣塔』の『たたり』
また、戦前、旧海軍が『泣塔』の周辺を切り開き兵器工場を建設しようとした際、事故や異変が相次いだため『泣塔』周辺だけは残されることになったといいます。また、1959年発行の『鎌倉市史』にも次のように記されています。
“たたりありとされて、移動を禁ぜられている”
そんないわくつきの『泣塔』の周囲にあった雑木林が伐採されたことで、住民から不安の声が上がっているのです。
(住民) 「戦死者か、そのご家族の奥様たちが自害したんじゃないかって。『たたり』があるとか、工事関係者がケガするとか…そんなのあるんだったら、やたらいじれないですよ」・
昔は世界各地で「生贄」が行われていた
「遺伝子変異」の突然変異で、人類だけが「大脳新皮質」が発達してしまい、人間だけが大脳新皮質で「創造(クリエイト)」できる動物
その為、人間だけが頭の「創造力」で「神」を創造
だから人間は大脳新皮質で創造(妄想)する妄想ずりずり出来る「万ずり動物」
神は人間の大脳新皮質が「創造」した「創造の産物」なので神は人間の「脳の中」
ところが動き回る動物は「餌を探し回るため「空間認識」が必要で、自分の頭の中に創造した事象を「感覚の投影特性」で「前方」に意識してしまう
ライオンは、空間の前方に餌の鹿がいる、と言った具合で 前方の鹿を追いかけ捕獲、餌にしている
その為、人間は自分の頭の中に創造した「神」を「感覚の投影』で、前方の空間(天空)に「神がいる」と考えてしまう
現代人は、金は者に感謝する「物質世界」に生きるが 昔の人達は、神を信仰する「精神世界」に生きていた
そのため 南米のインディオは、神に感謝を捧げる「神殿」を造り 神が授けてくれた命を神に捧げる為
命がある生きた人間から命である心臓を切り取り、命(心臓)を高々と掲げ神に捧げていた
アフリカのエジプト・スーダンには100前後の神に捧げる「ピラミッドの神殿」を、歴代の王たちが神に捧げた「神殿」
エジプトで最大神殿(ピラミッド)は、クフ王 カフラー王:メンカウラ―王のピラミッド(神殿)
これは、太陽の神への信仰心が強かった証拠・・精神世界
このように、昔は信仰心が強い精神世界に生きていたため、不運・災難は神の「怒り」と考え 神が授けた不運・災難を鎮めるため
神から授けられた命を神に捧げると、神の怒りが鎮まると考え 神に生贄を捧げていた
この映画が 中米を侵略したスペイン人が映画化した「神の怒りアギーレ」
江戸時代、橋が洪水で破壊されると神の怒りと考え神に命を捧げると神の怒りが鎮まると思い命を捧げたのが人柱(生贄)
また人々が水を飲むとコロコロ死んでいたので水神の怒りと考え 水神を祭っていた
当地にも「水神の祠」が残されてる
しかし大名が居城を築城する際 人柱(生贄)を行っていたのか歴史資料がない
織田信長の先祖は。越前の「織田神社(剣神社)」で信仰心が篤い大名
武田信玄の祖先は。近江の「諏訪神社」なので信仰心が篤い大名 築城する際 人柱を行ったのか?
歴史の資料には、信憑性が高い第1資料~第3資料があり 第4~第5資料は、信憑性がない 噂 伝聞 風評 作り話
築城で人柱を行った信憑性ある第1~第3資料がない
生贄(人柱)は「事実」
見出し・・「城の下に埋められた人々」人柱伝説はどこまで本当なのか
城の礎に埋められたのは、いつも名前のない人間だった。public domain
画像:丸岡城内に残るお静の慰霊碑。人柱となった女性の名が、今もこの場所に刻まれている。public domain 福井県の丸岡城に、お静という女性の伝説が残っている。
天正四年(1576年)、柴田勝家の養子、柴田勝豊が城を築こうとしたが、石垣を何度積み直しても崩れたため、人柱(ひとばしら)を立てるほかないという話になった。
人柱とは生きた人間を土の中に埋め、神に捧げることで工事の成功を祈る風習だ。 そこで名乗り出たのが、城下に暮らす貧しい片目の女、お静だった。
お静が出した条件は1つだけだった。「自分を埋めるかわりに息子を武士に取り立ててほしい」というのである。
話はまとまり、お静は石垣の下に埋められ、城はようやく完成した。
ところが勝豊はまもなく他の領地へ転封となり、息子を武士にするという約束は果たされなかった。 以来、お静の怨霊は毎年春の堀の水を溢れさせ、城下に雨を降らせたという。
「お静の涙雨」という伝説である。
人柱に選ばれたのは、弱い人間だった 人柱伝説は全国にある。城や橋、堤防などの大きな建造物では、工事が難航すると「人を埋めれば治まる」という話が語られてきた。
興味深いのは人柱の選び方だ。
画像 : 水野勝成 public domain 元和5年(1619年)、水野勝成が備後国福山(現在の広島県福山市)に福山城を築いていた頃の伝承では、「明朝、最初に城の前を通った者」を人柱にすると決めたという。
翌朝、最初に通りかかったのは、魚売りの久松という男だった。 久松は承知して埋められ、残された妻子には城主から手当が出たと伝えられる。
福山城は1622年ごろに完成し、正式には久松城と呼ばれた。
江戸時代の伝承では、米子城下を流れる加茂川の堤防が何度も決壊したため、翌朝最初に通りかかった者を人柱にすることになった。 翌朝、最初に現れたのは猿回しの男で、男は連れていた猿とともに土手に埋められ、その場所は「猿土手」と呼ばれるようになったと伝えられている。
「最初に通りかかった者」というルールは、一見すると無作為に見える。
だが実際に伝説の中で選ばれるのは、行商人や使い走り、旅芸人など、共同体の周縁にいる者たちであることが多い。お静もまた、貧しく、しかも片目の女として語られている。
志願したにせよ偶然にせよ、人柱として埋められるのは、いつも社会的に弱い側だった。
江戸城から骨が出た日
画像:皇居西の丸の伏見櫓。この櫓の修復工事中に十六体の人骨が出土し、『人柱か』と騒がれた。public domain ここまで見てきたのは各地に残る伝説である。では人柱は実際にあったのだろうか。
大正12年(1923年)の関東大震災は、江戸城にも被害を与えた。 その翌々年、二重櫓の修復工事が始まると、地中から16体の人骨と古銭が発見され、新聞は「人柱発見か」と書きたてた。
民俗学者の南方熊楠は、世界各地の人身御供の例を引きながら、こうしたことがあっても不思議ではないと述べた。さらに歴史学者の喜田貞吉も、1925年の論考『人身御供と人柱』で、伏見櫓の下から出た人骨を人柱として論じている。
だが、この発見をそのまま人柱とみることはできない。伏見櫓の下には、築城以前に寺院の墓地があったとする見方があり、出土した人骨もその埋葬者だった可能性が高いからである。
人柱伝説は全国に残るが、発掘によってそれを裏づける物証が出る例はきわめて少ない。 考古学的に「これは人柱だ」と確定できる事例は、国内ではほとんど確認されていないのが実情である。
なぜ伝説だけが残ったのか
画像:城の礎に埋められたのは、いつも名前のない人間だった。public domain 証拠がないのに伝説は全国にある。この食い違いをどう考えるべきなのか。
ひとつ言えるのは、巨大な建造物にはそれにふさわしい物語が必要だったということだ。
城や橋、堤防の建設現場では、事故や疫病、過酷な労働によって命を落とした者が実際にいた。そうした無名の死者の記憶が、「人柱」という物語のかたちで土地に残された可能性はあるだろう。
そして、その物語を語り継いできた人々がいたことだけは確かである。
アメリカ民族は軽薄でが脳天気 日本民族は頭が悪くセンスがない
見出し・・「本当に正当な選挙で選ばれたリーダーなのか」報ステ・大越健介キャスターが名指しで痛烈批判した“相手”
大越健介氏(64)が同番組の公式ブログを更新。《丹念な生活》と題した投稿の中で、京都府南丹市で11歳の男児の遺体が発見され、義父が死体遺棄の疑いで逮捕された事件をはじめ、《あまりにもやるせないニュースが続いた》と語っている。 「本当に正当な選挙で選ばれたリーダーなのか」大越キャスターが名指しで痛烈批判した“相手”
京都で起こった悲痛な事件を前に《その夜はなかなか眠れなかった》と胸中を明かした大越氏。できることは《丹念にニュースを伝えること》と考え、《毎日を丹念に生きよう》と決意を新たにしていた。
その理由として、大越氏はアメリカとイスラエルによるイラン攻撃にも言及。今もなお攻撃が続き、犠牲者が増え続けている現状を憂慮したうえで、《トランプ大統領から民間の犠牲者への哀悼や遺憾の言葉が述べられた記憶はあまりない。》《「イランを石器時代に戻す」などと脅しの言葉には事欠かない。》とアメリカのトランプ大統領(79)を痛烈に批判。
《この人の言葉を聞くたびにめまいがする。》《本当にアメリカという民主主義国家において、正当な選挙で選ばれたリーダーなのか。》とも糾弾した大越氏は、そんなトランプ大統領を前にしてもなお平常心でニュースを伝えるためにも、自身が丹念な生活を送る必要があると語っていた。
大越氏がトランプ大統領を非難したのは、今回が初めてではない。
「3月9日に更新した《強者とは?弱者とは?》と題したブログの記事の中でも、《身勝手な振る舞いを繰り返す》《明らかに国際法違反》といった言葉で批判していた大越氏。中立の立場での発信が求められる『報道ステーション』でのキャスターとは違い、ブログでは踏み込んだ発言が見られており、テレビの画面越しでは伝えられない、複雑な胸中が滲み出ているといえるでしょう」(スポーツ紙記者)
ブログでは元NHKの政治記者というジャーナリズム観を覗かせていた大越氏だが、『報道ステーション』では、今日も“丹念に”ニュースを伝えていくのだろうか
なぜ織田信長は、京都に逃げたのか
この室町時代 朝廷は「京都」に置かれ 朝廷の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」は 日本を平定する為
「戦乱の世を鎮め、世の中を平和に治めるため、京都を平定していた」
だから京都は「平安の都」だった
平安の都を、ヘブライ語で、エル・シャロームと言い「エルサレム(平安の都)」
だから織田信長は「平安で安全な京都」に逃れ 盟友の徳川家康と連合 軍勢を立て直し
浅井+朝倉を攻める
ここで織田信長は、自分を「裏切り敵」になった、近江の「浅井長政」を「攻める」
そのため越前の朝倉義景が 浅井長政を支援・・これが近江の姉川で「戦われた姉川の戦い」
しかし この姉川の戦いで織田信長が 浅井・朝倉を「滅ぼす」
この滅ぼした「浅井・朝倉」は、室町幕府「足利義昭の家臣で大名」
自分を「コロそうとした室町幕府の足利義昭・征夷大将軍」
こうして織田信長は 室町幕府を滅ぼし天下人になり「安土桃山時代」を築く
しかし織田信長は「征夷大将軍にはならなかった」
理由は、自分が擁立した「足利義昭」征夷大将軍を「織田信長が滅ぼした為」
だから「安土桃山時代」と言い 「安土桃山幕府」になっていない
・・・続き
ある識者の疑問
>信長の朝倉攻め敗退>2つのナゾ。本当に這々の体で京都へ逃げ帰ったのか?3万の軍勢はどこに行った?
歴史は複雑なので よく理解せねば、頓珍漢になる
越前の大名「朝倉義景」は、上様の「足利義昭」征夷大将軍の「忠臣」で不忠義な織田信長の成敗を目指す
つまり織田信長にとって 越前(福井県)の朝倉義景は「敵」
その為、織田信長は 忠臣の「羽柴秀吉と明智光秀」の3万の軍勢を率い、朝倉義景を攻める
ところが 近江の大名「浅井長政」は 上様の足利義輝・征夷大将軍に忠誠を誓い 織田信長との姻戚関係を破棄
不忠義者の織田信長を成敗する為 朝倉義景を攻めている織田信長の後方から、浅井長政が、攻め朝倉と浅井から
織田信長の3万の軍勢が「挟み撃ち」されてしまう
この当時の「戦い」は 敵の大将の「首を討ち取る」と「勝利していた時代」
「浅井と朝倉」の軍勢が、織田信長の3万の軍勢を「挟み撃ち」にしてしまい
「朝倉と浅井の兵士たち」が、敵の大将・織田信長の「首を取る」ため 織田信長に迫る
そのため織田信長は「窮地に陥る」
だから「織田信長の兵士」は、自分たちの「大将である織田信長」の首を取られれると 戦いに「敗北」するため、織田信長の兵士たちは「蜘蛛の子を散らす」よう逃げてしまう
しかし ある識者は、当時の戦いを「知らない」ので こんな疑問
>信長の朝倉攻め敗退、2つのナゾ。本当に這々の体で京都へ逃げ帰ったのか? 3万の軍勢はどこに行った?
・・織田信長が「京都」に逃げた理由は 次に投稿
兄の 織田信長は 妹・お市の方の魅力に敗れ 肉体関係になっていたと歴史には記述されている
つまり どんな男が見ても 魅力的な女
織田信長の父親は「織田秀信」と言い三河の大名(殿様)で殿様は「正室と側室」を抱えていで
織田信秀と正室の間にできた息子が「織田信長」で 織田信秀と側室の間にできた娘が「お市」で
織田信長 と お市は父親が同じでも、母親が違う「異母の兄と妹」で、妹のお市は、魅惑的な女で江戸時代の資料には、信長と、お市は深い関係だったとも記録されている
つまりお市は 男を幻惑させるような女
その為 信長は 近江の浅井長政を「味方」に付けるため 妹のお市を 浅井長政に嫁がせれば 浅井長政はお市に惚れ込んでしまい 信長と浅井は 姻戚関係になる
浅井長政は、お市に惚れ溺愛 3人の娘を設ける
ところが上様の足利義昭・征夷大将軍が「織田信長」を「不届きな不忠義者」として家臣の大名に「成敗」するよう命じる
近江の大名「浅井長政」は、足利征夷大将軍の家臣である大名で 足利義昭・大将軍に「忠誠を尽くす立場」
その為,織田信長との 姻戚関係を破棄 女房のお市に離婚を切り出す
またも歴史物
なぜ歴史物が連続するのか NHKの 大河ドラマで放映されている為
テレビは見れないので見たことない
見出し・・・<信長の朝倉攻め敗退>2つのナゾ。本当に這々の体で京都へ逃げ帰ったのか?3万の軍勢はどこに行った?本郷和人が『豊臣兄弟!』を解説
<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「信長の撤退」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!
<この大河の最重要場面>平伏する大名を前に微塵の笑みもない秀吉・秀長…『豊臣兄弟!』不穏すぎる冒頭シーンがコチラ
◆「逃げ戻ってきた説」への違和感
越前の朝倉義景攻めに失敗した織田信長は、京都へ戻った——。
一般にはそのように説明されます。
しかも多くの場合、「ようやく京都に帰り着いた」「這々の体で帰ってきた」、もっと極端に言うと、「ほんのわずかな馬廻りのみを連れて、逃げ戻ってきた」というニュアンスが付随して語られがちです。
実際に、第十四回「絶体絶命!」では、敵の目を欺くために馬を捨て、険しい山道を越えて京へ向かい、傷だらけの姿で義昭のもとへたどり着く信長の様子が描かれました。
しかし、この理解には違和感があります。
第一に、この時点の京都は、例えば岐阜や清洲のような、信長の「ホッと一息つける拠点」ではありません。
将軍足利義昭を擁してはいるものの、京都は依然として流動的な政治空間であり、言ってみればニュートラルな都市です。
治安維持を司る機能が喪失したとき、罰せられることを恐れない庶民ほど怖い者はない。
それは、徳川家康が本能寺の変の後に命からがら三河へと逃げ帰った「神君伊賀越え」の危険性を想起すれば明らかです。
本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)
◆京都は「守り」に適していない場所
しかも京都は、防御という点では極めて脆弱な場所です。
周囲を山に囲まれているとはいえ、平野部が広く開け、守りにくい。
歴史的にも京都攻防戦は、攻める側に利があります。
そんなところに「逃げ込めば安全」という発想は生まれません。
この点は後世の動きも裏づけています。
豊臣秀吉は京都に恒常的な防御拠点を築くことを断念し、京都にほど近い伏見に城を置きました。
また江戸時代においても、江戸幕府が京都で用いた二条城は、いわゆる籠城戦を前提とした「城」というより、政治的・軍事的な屋敷に近い性格のものです。
京都という都市そのものが、防御に適した構造ではないことを示しています。
。。。続く
織田信長は天下取りを目指す
しかし 天下人になるには 室町幕府の 足利征夷大将軍(上様)がいる限り 家臣の大名・織田信長は 天下人になれない
そのため 足利征夷大将軍を「無力化」せねばならないので 単純な」足利義昭」を 15代・征夷大将軍に「擁立」する
つまり 15代征夷大将軍・足利義昭は「織田信長」から 征夷大将軍に「して貰った」のである
そのため 足利義昭は 自分を征夷大将軍にした 織田信長の「言いなり」になっていた
しかし 足利義昭は それほど馬鹿ではなく織田信長から 手玉に取られ利用されていたので 征夷大将軍(上様)を 手玉に取り利用していた 織田信長を「不届きなる不忠義者」として 家臣(大名)に 織田信長を討伐するよう命じる
ここで 越前の大名「朝倉義景」は 足利征夷大将軍に「忠誠」を誓っていたので 織田信長を 不忠義者と して討伐に向かう
つまり 織田信長にとって越前の「朝倉義景」は敵になり 織田信長は」 敵の 朝倉義景を 討伐するため
近江の大名「浅井長政」を 味方に付けるため
織田信長の妹 お市の方を 浅井長政に「嫁がせれば」姻戚関係に成り浅井長政は 味方になる
ここで 通常 そう簡単に行くか? 思うのが通常
ところが お市の方は 豊臣秀吉が 若い頃 一目ぼれするほど「魅力的な女」で 歴史では
兄の 織田信長は 妹・お市の方に魅力に敗れ 肉体関係になっていたと歴史には記述されている
・・そろそろ 掲示板が 中断するので 後で 続き
・・・この鎌倉幕府の家臣だった「足利尊氏」は「自分の世」を築くため 最高権威の 後醍醐天皇に取り入る
これは足利尊氏が「自分の世」を築くっために「光明天皇」を祭り上げ 後醍醐天皇に取り入り
武力行使 後醍醐天皇を京都から追放する 追放された後醍醐天皇は奈良の吉野で 南の朝廷を築く・・これが南朝
これに対し光明天皇の朝廷が「北朝」 つまり
光明天皇の北朝は 足利尊氏
後醍醐天皇の南朝は 後醍醐天皇に「忠誠」を誓っていたのが「楠木正成」「新田義貞」
そのため 楠木正成と新田義貞は 後醍醐天皇を裏切り「不忠義」の足利尊氏を 討伐する
ここで 楠木正成が 足利尊氏を討伐する為、出陣 ところが 息子に楠木正行も 一緒に数ツ人すると言いだす しかし楠木正成は 息子 正行(まさゆき)に・・お前は故郷に帰り母嫌に面倒を見るよう言い残し 出陣 これを歌ったのが「桜井の別れ」
しかし 楠木正成も 新田義貞も 足利尊氏に返り討ちに合い コロされてしま
こうして 足利尊氏が築いた 光明天皇の北朝になろ 足利尊氏は 光明天皇に威光を背景に「征夷大将軍」なり
江戸の室町に「室町幕府」を築き 初代征夷大将軍になり 足利尊氏に 子孫が室町幕府 累代の
足利征夷大将軍のなり しかし13代征夷大将軍・足利義輝時代 室町幕府は 財政難で 衰退に向かう
しかし 歴史家 井上鋭夫の「上杉謙信」には」 越後の大名上杉謙信」は衰退する室町幕府に 足利義輝・征夷大将軍に 忠誠を誓い 支えていた と記述されている
つまり 衰退していた足利征夷大将軍は 諸藩の大名にとって「上様」で 足利征夷大将軍に「忠誠」を誓う大名もいれば「無視」する大名もいた
越前の大名・朝倉義景や 近江の大名・浅井場が柾は 足利征夷大将軍に「忠誠」を誓う大名
徳川幕府も同じ 11代 徳川家斉・征夷大将軍時代 徳川幕府は 財政難
そのため 8代将軍・徳川吉宗の孫で 白河藩の大名で 幕閣の老中だった 松平定信が 諸藩にの大名たちに「質素倹約令」を発令 俸禄削減
これが 原因で「倒幕運動」になり 徳川慶喜・征夷大将軍の時 遂に 徳川幕府 滅亡
余談になったが 室町幕府の財政逼迫 諸藩の大名は 俸禄 削減 そのため 諸藩の大名たちは 足利征夷大将軍を無視
諸藩の大名たちは 自分が天下人になろうとしていた この見本が 三河の大名・「織田信長」
・・続く
姉川の戦い
姉川の戦いとは「何か?」
その前に室町幕府とは何か?を理解しておく必要がある
その前の鎌倉時代 朝廷の天皇は「後醍醐天皇」が「日本の最高権威者」で この下に征夷大将軍の「幕府」
その前に 古事記 日本書記では 天孫降臨で「神が日本」を築いたと言われ日本は「神の国」で この神の子孫が「天」の「皇帝」で 天皇
天皇は 神の子孫で「日本の最高権威」で この天皇をサポートするのが「官僚」で 天皇と官僚が朝廷で つまり中央集権国家の「大和朝廷」
それに対し 権力者たちは武力で他の権力者を支配して 最高権力者が築いたのが「幕府
日本で 最初に誕生した幕府は 源頼朝が征夷大将軍になり 他の権力者を支配する「鎌倉幕府」 この鎌倉幕府の家臣だった「足利尊氏」は「自分の世」を築くため 最高権威の 後醍醐天皇に取り入る
・・誰もフォローしていないので 投稿に力が入らない 続く
姉川に戦いで「先制攻撃:したのは 朝倉+浅井
見出し。。。姉川の戦いは「信長への奇襲」だったのか?一次史料が示す衝撃の可能性
姉川の戦いといえば、織田・徳川連合軍が浅井・いる。しかし、その戦いがどのように始まったのかについては、意外にも見過ごされてきた点がある。
実は、姉川の戦いは織田・徳川連合軍の攻撃ではなく、浅井・朝倉連合軍による「奇襲攻撃」によって始まった可能性が指摘されている。もしこれが事実であれば、従来の姉川の戦い像は大きく見直されることになる。本稿では、合戦直後に記された一次史料をもとに、姉川の戦いの実像について改めて検討してみたい。
一次史料が伝える姉川の戦いの経過 姉川の戦いの経過を詳しく記す史料として知られているのが、元亀元年(1570)6月28日付の織田信長書状(細川藤孝宛:「津田文書」)と『信長公記』である。特に前者は、合戦直記録であり、当時の状況を知るうえで貴重な史料といえる。
それによると、元亀元年(1570)6月28日午前10時頃、浅井・朝倉連合軍は味方である横山城(滋賀県長浜市)を救援するため、野村まで進軍したという。浅井軍は5~6千、朝倉軍は約1万5千の軍勢だったとされる。その直後、信長軍は浅井・朝倉連合軍を攻撃し、最終的に勝利を収めた。
戦場周辺は死骸で埋め尽くされ、信長軍が討ち取った敵の首も無数に及んだという。仮に横山城の城兵が降参を申し出たとしても、信長はこれを決して許さないという強い決意を示していたことも記されている。
「先陣争い」は美談ではなかった可能性 淡海文化研究所所長の太田浩司氏は、信長書状の追而書(おってがき:追伸)に注目している。そこには、信長の馬廻衆と徳川家康が先陣争いを演じ、家康は池田恒興らに朝倉軍との戦いを命じ、信長の馬廻衆が浅井軍と戦ったと記されている。
この記述だけを見ると、勇ましい先陣争いの様子が思い浮かぶ。しかし、太田氏はこの点について異なる見方を提示している。太田氏によれば、横山城を攻囲していた織田軍には、姉川の南岸まで回り込む時間的余裕がなかったという。
そのため、信長と家康は自ら陣頭に立って戦わざるを得ない状況に置かれていたと指摘する。つまり、「先陣争い」という華々しい表現の背後には、実際には予期せぬ事態への緊急対応という現実があった可能性がある。
『信長公記』にも見える「奇襲」の気配 浅井・朝倉連合軍による奇襲を匂わせる記述は、『信長公記』にも確認することができる。同書は、浅井・朝倉連合軍の南下について、「退却するのではなく、戦いを挑んできた」と記している。この表現は一見すると単なる戦闘開始の描写のようにも見える。
しかし太田氏は、この記述が信長側の失態を目立たせないための表現、いわばカムフラージュの意味を持っていた可能性を指摘している。もし浅井・朝倉連合軍が主導的に攻勢をかけていたとすれば、信長側が不意を突かれた状況にあった可能性も考えられる。
勝利の裏にあった「危機的状況」 とはいえ、最終的に織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を撃退し、勝利を収めることに成功した。しかし、その勝利は決して一方的なものではなかった。浅井・朝倉連合軍は壊滅的打撃を受けたわけではなく、その後も抵抗を続け、滅亡までには3年もの歳月を要している。
この事実は、姉川の戦いが単なる圧勝ではなく、緊迫した状況の中で辛うじて得られた勝利だった可能性を示している。
姉川の戦い像は見直されるべきか 姉川の戦いは、織田・徳川連合軍の勝利として語られることが多い。しかし、その戦いの始まりに目を向けると、浅井・朝倉連合軍による奇襲の可能性が浮かび上がってくる。
もし信長側が不意を突かれていたのだとすれば、従来の「整然とした戦闘開始」というイメージは、大きく修正される必要があるだろう。
主要参考文献
太田浩司「文献から探る姉川合戦」(渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』吉川弘文館、2016年)など。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
日本で 最高に「立身出世」した男は「豊臣秀吉」
>朝廷の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」から「関白」の地位を授けられ「関白秀吉」になり
豊臣秀吉は、晴れて、正親町天皇に次ぐ 日本第2位の権力者となり「日本全土を平定」する
「関白」とは 朝廷の天皇をサポートする役職を関白と言い 豊臣秀吉は 正親町天皇から関白の地位を授けられ「関白秀吉」になり
正親町天皇を「サピート」し 日本全土を「平定」したのである 百姓の子供だった秀吉が
関白となり 日本全土を平定するまでに 立身出世
日本の歴史で 豊臣秀吉ほど 立身出世した男は 他にいない
「平定」とは 戦乱の世を鎮め 世の中を平和に治めることを 平定と言う
天下統一で 快進撃の豊臣秀吉
「複雑すぎて」吾輩は猫頭が「こんがらがり」頓珍漢になってしまうが できるだけ 分かりやすく説明
前の投稿で説明したが 主君・織田信長の次男「織田信雄」は 後継ぎの天下人を目指し 徳川家康が 織田信雄を支援
こうして 織田信雄を 後継ぎとは認めない「羽柴秀吉」とが「長久手の戦い」
しかし 羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって 織田信長の次男「織田信雄」は 主君・信長の子供で「コロす訳には行かない」ので
織田信雄を「人質」にして 豊臣秀吉が「懐柔・支配」する
その為 織田信雄を後継ぎにするために支援していた「徳川家康」は 豊臣秀吉と「戦う理由がなくなり」
豊臣秀吉 と 徳川家康は「友好関係」を結ぶ
こうして豊臣秀吉は「天下を平定する」ため・・ある識者の解説に登場する・・
当時「四国」の武将で 羽柴秀吉に「反発」していた「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」を討伐するため
豊臣秀吉は 忠臣で知略家の「小西行長(こにしぎょうちょう)」に「長曾我部元親」を討伐するよう命じる
しかし 四国の武将「長曾我部元親」は強固で なかなか豊臣秀吉の軍門に下らなかったが
遂に、天正13年 長曾我部元親を軍門に下し「四国平定」 さらに「九州平定」
そのため 日本全国を「平定」した豊臣秀吉は 朝廷の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」から「関白」の地位を授けられ「関白秀吉」になり
豊臣秀吉が 天下統一で 快進撃
ある識者の解説を 次の投稿で分かりやすく説明
とは 言っても戦国時代 無数の武将たちが「複雑に絡まり合い」説明も難しい
見出し・・【四国戦国史】巨大権力の介入を撥ね退けろ!長宗我部元親、執念の第二次十河城の戦い
中央からの刺客撃退と、苛烈な焦土作戦
第一次十河城の戦いでの泥沼の撤退から年が明けた1583年、ついに中央の覇者・羽柴秀吉が本格的な介入を開始します。
仙石秀久や小西行長といった有力な配下を讃岐へ派遣しましたが、長宗我部軍は水際で反撃し、これを幾度も撃退しました。
同時に、元親の本隊は阿波から讃岐へ侵攻し、十河存保が籠る虎丸城へ総攻撃を仕掛けます。
存保の激しい抵抗に遭うと、元親は再び周辺の農作物を刈り取る麦薙(むぎなぎ)による兵糧攻めを決行。
さらに、引田城に入った仙石秀久の軍を引田の戦いで見事に打ち破り、淡路国へと敗走させました。
劣勢を悟った存保は虎丸城を放棄し、かつて元親を苦しめたあの難攻不落の十河城へと再び籠城することになります。
巨大ネットワークのジレンマと足元の敵 この頃、中央では秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が激突する小牧・長久手の戦いが勃発していました。
家康は、巨大な反秀吉ネットワークの一員である元親に対し、「淡路国へ進軍して秀吉の背後を脅かしてほしい」と強い要請を送ります。
しかし、元親はこの魅力的な広域戦略に即座に乗ることができませんでした。
伊予国での毛利氏の脅威に加え、足元である讃岐に十河城という強力な敵対拠点が未だ健在だったからです。
目の前の十河氏を完全に排除しなければ、淡路への進出は自身の領土の崩壊を招く致命的なリスクを孕んでいました。
巧みな切り崩しと、執念の落城劇 四国の完全平定を急ぐ元親は、単純な力押しではなく調略いう外交カードを切ります。
十河軍の強力な傘下であった寒川氏や由佐氏を寝返らせることに成功し、雨滝城をはじめとする十河城の支城(防衛網)を次々と陥落させていきました。
そして1584年
孤立無援となった十河城は、ついに長宗我部軍の前に陥落し、第二次十河城の戦いは終結します。
しかし、総大将の存保とその重臣たちは落城前夜に密かに城を脱出しており、堺へと逃れて秀吉の配下に収まりました。
完全な討ち取りこそ逃したものの、この勝利に同盟相手である織田信雄は大いに歓喜し、元親の弟に祝着の書状を送っています。
中央の巨大権力による介入を跳ね除け、大局的な誘惑(家康からの出兵要請)に焦ることなく、着実に足元の敵を切り崩して讃岐平定という悲願を達成した元親。
その冷徹でブレない戦略眼が、長宗我部氏を四国最大の勢力へと押し上げたのです。
自衛隊 戦車爆発事故 関連
大分・日出生台演習場で自衛隊員4人死傷 陸自が亡くなった隊員の氏名公表 戦車の射撃訓練中に何らかの原因で砲弾破裂
大分県にある日出生台演習場で行われていた戦車の射撃訓練中の事故で、3人の隊員が死亡し1人が負傷した事故について、陸上自衛隊トップの荒井正芳陸上幕僚長は臨時の記者会見で「地元をはじめとする国民の皆様にご迷惑、ご心配をおかけして誠に申し訳ございません」と謝罪しました。
【画像を見る】戦車が暴発した現場、大分県・日出生台演習場
また、事故で亡くなった隊員の氏名について、西部方面戦車隊所属の、▼濱邊健太郎2等陸曹(45)、▼高山新吾3等陸曹(31)、▼金井効三3等陸曹(30)だと公表。
荒井陸幕長は「亡くなられた隊員のご冥福を心よりお祈り申し上げますと共に、ご家族のみなさまにお悔やみを申し上げます」とコメントしました。
3人は訓練中、負傷した1人の隊員とともに戦車に搭乗していたところ、何らかの原因で砲塔内で砲弾が破裂したということです
長久手の戦い
「長久手の戦い」 わかりやすく回答
久手の戦いは、1584年の小牧・長久手の戦いの一局面で、徳川家康・織田信雄の連合軍が、
豊臣秀吉方の池田恒興・森長可ら別働隊を長久手周辺で奇襲し大勝した戦いです。
家康は軍事的勝利を得ましたが、「最終的な政治的主導権は秀吉が握りました」
核心がない日本識者
「長久手の戦い」とは何か 全く説明してないので 頓珍漢で、チンころ漢
見出し・・・長久手に武将たちの面影 古戦場記念館、22日オープン・・・合戦の攻防、映像や屏風で
オープンする長久手古戦場記念館
愛知県長久手市に22日、「長久手古戦場記念館」がオープンする。戦国時代に徳川家康・織田信雄の連合軍と羽柴(豊臣)秀吉の軍勢が激突した小牧・長久手の戦いの主戦場跡地で、国指定史跡「長久手古戦場」に隣接して新設された。壮絶な攻防や武将たちの思いを語り継ぐ展示内容となっている。 シアタールームは、左右と正面の3面に迫力のある映像が映し出され、合戦の全容を知ることができる。臨場感あふれる一般向けと分かりやすい子供向けの2種類の映像を制作した。 徳川美術館が所蔵する長久手合戦図屏風(六曲一隻)の復元模写を常設展示し、地形模型に投影したプロジェクションマッピングで両軍の進行や攻防を知ることができる。 通常は入ることができない収蔵庫をガラス張りにして、具足や火縄銃などの収蔵品を間近で見えるようにした。体験コーナーでは、兜や陣羽織を着用して記念撮影ができ、ゲーム感覚で火縄銃の模擬射撃を楽しめる。 自由に利用できる無料エリアには、市内に点在する史跡の位置が一目で分かる床地図が描かれ、武将のグッズや雑貨などを買い求めることができる。
・・「長久手の戦い」とは 織田信長が 忠臣だった「明智光秀」から裏切られ「本能寺の変」で 攻められ「自害」してしまう
この時 信長の長男「織田信忠」も「自害」する
そのため 信長の忠臣だった「羽柴秀吉」と「柴田勝家」は 自分が「天下人」になるため
自分に「都合がいい信長の息子」を 後継ぎにする
本来なら 信長の長男「織田信忠」が 後継ぎになるが通常だが 本能寺の変で 自害したので 後継ぎにならない
そのため 誰を後継ぎにするか「清州会議」を催す この会議で
1)羽柴秀吉は 織田信長の長男(織田信忠)の息子「織田秀信」を後継ぎに 推挙
2)柴田勝家は 織田信長の次男「織田信雄」を 後継ぎに 推挙
ここで 織田信長の「正式な後継ぎ」は 長男の「織田信忠」だが 残念にも本能寺の変で 父親信長と自害したので 1)と2)のように 後継ぎが 分かれてしまう
しかし 長男の織田信忠は、自害して この世にいないので 次男の「織田信雄」が 後継ぎするのが 当然
そのため 次男の「織田信雄」は 自分が 後継ぎになり天下人になるため 父親・信長の盟友「徳川家康」に支援要請
・・歴史は「複雑」で 分かりにくい
徳川家康は 織田信雄の父親・信長とは「盟友関係」だったので 信長の次男「織田信雄」を支援するのが道理 その為
1)織田信雄を後継ぎにする「織田信雄 + 徳川家康」の連合軍
それに対し 羽柴秀吉は 主君・信長と共に本能寺の変で 自害した長男の「織田信忠」を立派な忠臣として称える「信長の家臣たち」が 織田信忠の息子「織田秀信」を 後継ぎとする「羽柴秀吉を味方」
2)織田秀信を後継ぎにする「羽柴秀吉 + 信長の家臣」が 連合
こうして 1)と2)が 三河で「長久手の戦い」
この戦いで 2)が 1)の「織田信雄を成敗」
こうして 2)の 羽柴秀吉が 長男「織田秀忠」の「息子・織田秀信」を 後継ぎにする
これは 羽柴秀吉 自身が天下人になる為の「策略」で 後継ぎになった「織田秀信」を手玉に取り
羽柴秀吉が「天下人の豊臣秀吉」となり 主君・織田信長が築いた「安土桃山時代」を「引き継ぐ」
実際に 織田信長を 引き継いだのは「織田信長の息子ではなく」 豊臣秀吉が「織田信長の天下人」を「引き継ぐ」
戦国時代は 自分が 天下人になるため いかなる手段でもい講じた「権謀術数」の時代
ある識者の願い
>今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
・・・我輩は 昔の歴史が好きなので 何時までも フォローしたいと思っている
こんな歴史識者が 歴史物を 投稿していると 心強い
これからも 頑張って投稿してくだしゃい!
。。。続き 織田信長が 何度もイ・ノ・チを狙われた理由
歴史は「複雑」なので よく「精読」せねば 意味が分からない
つまり 織田信長は 室町幕府の征夷大将軍の「不忠義者」になり 幕府の「足利征夷大将軍」に忠誠を誓っていた「越前の朝倉義景」が 不忠義者である「織田信長」の征伐を試みる
つまり 織田信長にとって「越前の大名・朝倉義景」は「敵」になり。織田信長は 敵の朝倉義景を「滅ぼす」ため
まず 三河と越前の中間に位置する「近江の大名・浅井長政」を「味方」にするため 信長は 自分の妹「お市の方」を浅井長政に 嫁がせると 当然「織田信長と浅井長政」は「姻戚関係」になり「浅井長政」は「織田信長を味方」する立場
こうして 浅井長政は 織田信長の妹「お市の方」との間に 3人の娘を設け 平和裏に暮らしていた
ところが 上様の足利義昭・征夷大将軍が 織田信長を不届きなる「不忠義者」として家臣に
織田信長の殺害を命じていた為
足利義昭・征夷大将軍に 忠誠を誓っていた「近江の大名・浅井長政」は 上様・足利義昭・征夷大将軍に 忠義を尽くすため
織田信長との「姻戚関係」を破棄
不忠義な 織田信長を「討つ」ため 朝倉義景を攻めていた織田信長を 後方から攻める
そのため 織田信長は 朝倉と浅井から「挟み撃ち」され「コロされるか否か」の「窮地」に陥る
これを例えたのが「小豆袋」
袋の中の小豆は 織田信長で 朝倉と浅井により「挟み撃ち」され 袋のネズミ
そのため 織田信長の 忠臣だった「羽柴秀吉」が 主君・織田信長の「身代わり」になり 主君・織田信長を「安全地帯」に逃す
つまり 羽柴秀吉が 織田信長の、死ぬか否かの「窮地を救う」
これは 李氏朝鮮も同じで 豊臣秀吉が朝鮮出兵 倭軍が李氏朝鮮を攻め 李氏朝鮮の国王・宣祖は 王位継承権がない「光海君」を「身代わりの国王」にして 安全地帯に逃げたのと同じ
こうして織田信長は 安全地帯に生き延びる
しかし大名・浅井長政は 不忠義者の織田信長を「成敗せねばならない立場」なので 浅井長政の「一人の家臣」が 主君・浅井長政に忠誠を誓い「織田信長」の イ・ノ・チ を狙う
しかし 織田信長には「戦術」に優れた家臣「竹中半兵衛」がいて 主君・信長が どうしても 陥落できなかった城を
竹中半兵衛は優れた戦術で 僅か数日で陥落させ 自分の居城にせず 主君の織田設永に献上した 忠臣
この竹中半兵衛の「弟」も 主君・織田信長の忠臣で 浅井長政の 一人の家臣が織田信長の
イ・ノ・チを狙っていた浅井長政の 家臣を 殺害する
こうして織田信長は 今度は 竹中半兵衛の「弟」から 命を救われ、織田信長は 何度もイ・ノ・チを 狙われるが 九死に一生を得て、生きながらえる
しかし 幸運は そう長続きしないもので 遂に「本能寺の変」で 裏切り者の明智光秀に攻められ 進退窮まった織田信長 自害 遂に命が尽きてしまう
・・ジ エンド
自衛隊の戦車が爆発
大分にある自衛隊基地で 軍事演習していた戦車が爆発
見出し・・「戦車が暴発した」と通報 3人が心肺停止 1人が重傷 大分・日出生台演習場
21日午前、大分県にある日出生台演習場で「戦車が暴発した」と消防に通報があり、男性3人が心肺停止、女性1人が重傷だということです。
「戦車が暴発した」と通報 3人が心肺停止 1人が重傷 大分・日出生台演習場
日田玖珠広域消防本部によりますと、大分県にある日出生台演習場で21日午前8時40分ごろ、「戦車が暴発してけが人が多数出ている」と通報がありました。
この事故で、男性3人が心肺停止。女性1人が重傷でドクターヘリで病院に運ばれ手当を受けています。
九州防衛局によりますと、当時、陸上自衛隊西部方面戦車隊が射撃訓練を行っていて、砲弾が砲内で暴発したということです。
自衛隊が情報収集するとともに詳しい状況について調べています。
・・・この事故は 戦車は敵の戦車を大砲で攻撃するため 無数の「砲弾」を「搭載」している
この砲弾を 戦車の搭乗員が「大砲に詰め込み」発射する仕組み
砲弾の仕組みは 金属(真鍮)で出来「円筒状の容器」の片方には「弾丸」が設置され 筒の中には、火薬が内臓され
筒の片方には 火薬を爆発させる「信管」があり この信管を 撃鉄で打つと 信管が発火
内臓された火薬に引火 爆発 弾丸が 発射される仕組み
ピストル ライフル銃 機関銃 大砲の「砲弾」は 全て「同じ仕組み」
具体的には ピストルのトリガー(引き金)を引く「撃針」が 砲弾の「信管」に当たり「発火」
砲弾の火薬に引火 爆発 弾丸を 発射させる
そのため 砲弾を 銃身の銃口に「詰め込まねばならない」
ここで ピストル ライフル銃 機関銃の砲弾は 大砲の砲弾より 小さく軽いので 砲弾を地面に 落としても 襲撃が小さいので 信管は 発火しない
しかし 大砲の砲弾は 大きく 重いので 地面に落とすと「衝撃が大きく」 信管が衝撃を受け発火 砲弾が 爆発
つまり 戦車の搭乗員が 砲弾を大砲の銃口に詰め込む際 砲弾を落としてしまい 信管が衝撃を受け 砲弾が戦車内で 爆発した可能性
そうなら 戦車内の搭乗員は 瞬時に 爆死
しかし 1発の砲弾が 戦車内で爆発した為 その衝撃で 戦車内に搭載していた砲弾が 爆発「大爆発」となり「戦車が破裂」してしまい 破裂した戦車の破片が 四方八方に飛び散り
周囲にいた自衛官を、負傷させたのかも知れない
織田信長が 何度もイ。ノ。チを狙われた理由
足利尊氏が 築いた室町幕府は 足利尊氏の血筋が 歴代の「足利征夷大将軍」の地位を引き継ぐ
ところが 11代・足利義輝・征夷大将軍の頃 室町幕府は「衰退に向かう」
これは徳川家康が築いた徳川幕府も同じで 11代・徳川家斉・征夷大将軍の頃 徳川幕府は 財政逼迫「衰退に向かい」 幕閣で老中の 松平定信が「質素倹約令」を施行
そのため 諸藩の大名たちは俸禄を削減され 当然 大名に仕える下級武士の俸禄も削減され
「こんな徳川幕府の世なら 天皇の世がマシ」とする尊王攘夷論で 遂に倒幕派により 徳川幕府 崩壊
このように 室町幕府は 11代 足利義輝・征夷大将軍の頃 衰退に向かい 諸藩の大名たちは 室町幕府を「軽視」するようになる
この「幕府の征夷大将軍」が 最高の権力者で「上様」と言い この上様(征夷大将軍)に仕える家臣を 大名と言い殿様
だから 大名(殿様)は 征夷大将軍(上様)に「忠誠を誓う家臣」こういう仕組みになっていた
諸藩の大名(殿様)は 幕府の夷大将軍(上様)に「忠誠を誓っていた」
この室町幕府の上様・足利征夷大将軍に「忠誠を誓っていた大名(殿様)」が「越前の大名「朝倉義景」や 近江の大名「浅井長政」
ところが 三河の大名「織田信長」は 自分が天下人になるため 室町幕府を「崩壊」させねば 天下人に成れないため 室町幕府を支配するため 15代征夷大将軍に「足利義昭」を「擁立」する
これは ウクライナも同じ 米国がウクライナを支配するため「反ロシア派のゼレンスキー」を 大統領に「擁立」したのと同じ
つまり 足利義昭は 織田信長から 15代征夷大将軍に「してもらった」のである
だから 足利義昭は 織田信長の「言いなりになっていて」 自分が 織田信長から 手玉に取られ 利用されていたので
征夷大将軍の足利義昭にとって織田信長は「不忠義なる大名」として 織田信長を殺害するよう家臣に命じる
つまり 織田信長は 室町幕府の征夷大将軍の「不忠義者」になり 幕府の足利征夷大将軍に 忠誠を誓っていた 越前の朝倉義景が 織田信長の征伐を試みる
・・続き
参考
天台座主・曼数珠院門跡覚恕
🧎♂️ 覚恕法親王とは
「天台座主・曼殊院門跡・覚恕」は、戦国時代の天台宗の高僧である
覚恕法親王(かくじょ ほっしんのう)を指す語の組み合わせです。
後奈良天皇の皇子として生まれた皇族出身の僧侶
京都・比叡山延暦寺の最高位「天台座主」を務めた人物
天台宗の門跡寺院である「曼殊院(まんしゅいん)門跡」の住持でもあった
正親町天皇の異母弟で、織田信長による「比叡山焼き討ち」のころの天台座主として知られる
何故? 織田信長が「比叡山焼き討ち令」を出したのか?
1)なぜ❓織田信長は「比叡山を焼き討ち」したのか?
比叡は「最澄」が比叡山の延暦寺で「天台宗」を開く
そして室町幕府の「上様である足利征夷大将軍」が「比叡山に天台宗」を「擁護」していた
そのため 比叡山の「僧侶」たちは 上様の足利征夷大将軍から「擁護」されていたので「権力を振い傲慢」になり 僧侶の癖に「槍を持ち戦闘軍団化」してしまう
色街に繰り出し 酒を般若湯と呼び 飲酒を正当化
遊女を「蓮の花」と呼び正当化 酒を飲み遊女と交わり、傲慢で代金を踏み倒していて 庶民を苦しめていた まさに「破戒僧」
他方 室町幕府は 13代征夷大将軍・足利義輝の頃から「衰退」に向かう
その為「天下人を狙う織田信長」は 室町幕府を「支配」するため「足利義昭」を征夷大将軍に「擁立」すれば 室町幕府は「手玉に取れる」為 足利義昭を15代征夷大将軍に「擁立」する
こうして「足利義昭」は「織田信長」から15代征夷大将軍に「擁立してもらう」
ところが、上様である足利義昭・征夷大将軍は、子供でも分かる 家臣である「織田信長」から手玉に取られ「利用」されているのは 馬鹿でも分かる
其の為足利義昭は、織田信長を「不届きな不忠義者」として成敗するよう家臣に命じる
そのため 織田信長と足利義昭は「敵対関係」になる
これは中国の「趙高」と「皇帝・胡亥」も 同じ
趙高が「秦王朝を支配する」ため 胡亥を2代目の皇帝に「擁立」する、その為 皇帝・胡亥は趙高から手玉に取られ「利用」されていたので 胡亥は「皇帝」として振る舞うため趙高を亡き者にしようとする
つまり胡亥と趙高は「敵対関係」になる
その為「趙高」が「秦王朝を支配する為」2代目皇帝・胡亥を「暗殺」し 秦王朝の最高指導者になったのと同じ
比叡山・天台宗は 室町幕府が「擁護」していたので「敵の足利義昭に味方」する 比叡山を滅ぼすよう「比叡山焼き討ち」を家臣に命じる
その為「織田信長の軍勢が」比叡山の仏閣を 悉く焼き討ち 僧侶,約3000人余り 惨殺
この比叡山の僧侶は槍を持つ「戦闘軍団」で 僧侶を惨殺したのではなく 敵のあそかが義昭宇に味方する「戦闘軍団」の僧侶たちを殺害
ところが「織田信長」と「甲斐の武田信玄」は 共に天下人を狙う「敵対関係」で 武田信玄は 家臣の「真田昌幸(さなだまさゆき)」に
織田信長の「比叡山焼き討ち」で 最高権威だった「天台座主・曼数珠院門跡覚恕(てんだいざす・まんじゅいんもんせきかくじょ)を犠牲にせず、救出するよう命じる
真田昌幸」とは元々。地方の無力だった「真田家」の子孫で 無力な「真田家」が 立身出世を目指し
有力な大名に出世するため 武田信玄の「家臣」になる この真田家の子孫が「真田昌幸」で
この真田昌幸の「息子」が 有名な「真田幸村」
真田昌幸は 主君・武田信玄から命じられ「天台座主・曼数珠院門跡覚恕」を比叡山焼き討ち っから救出する
こうして天台宗は滅びず。生き残る
ところが 歴史は そう単純には行かない
この比叡山の麓には、織田信長とは「敵対」する「一向宗の顕如」がいて 一向宗の顕如は、次は織田信長が 自分たち「一向宗」を滅ぼすと考え 織田信長に「対抗」するため
室町幕府の 足利義昭と織田信長は」敵対関係だったので 織田信長の敵である足利義昭:征夷大将軍を味方』に付け
織田信長と顕如の一向宗が「天下分け目」の決戦
織田信長・勝利 こうして織田信長は「一向宗」と「室町幕府」を滅ぼし、天下人に成り「安土桃山時代」を築く
・・・次は。なぜ「本能寺の変」なのか
なぜ???の核心がない識者の解説
核心である なぜ? がなく 枝葉末節の経過ばかり4ページに渡り解説
見出し・・4ページの1ページ目・・豊臣秀吉でも、秀長でもない…比叡山を焼き払い、織田家の出世頭になった"中途採用のよそ者武将"の名前
NHK大河「豊臣兄弟!」では、豊臣秀吉・秀長兄弟の活躍が描かれている。だが織田家中には兄弟と出世争いを演じ、歴史の表舞台に現れてからわずか10年で34万石の大大名に上り詰めた武将がいた。比叡山焼き討ちで活躍したとされる「よそ者武将」の実像を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■比叡山焼き討ちの“真の中心人物”
織田信長の配下にあった有力武将が、元亀2年(1571)9月2日付で出した書状が残っている。宛先は近江(滋賀県)雄琴の土豪・和田秀純(わだひでずみ)。
和田は前年まで浅井長政に従い、信長と対立していた。しかし元亀2年に入ると浅井から離脱し、織田方につくことを決意する。書状の最初のほうは、そのことに対し感謝の意を述べる内容だった。
ところが後半になると、物騒な文言が並び始める。
「仰木のことはぜひともなでぎり(なで斬り)につかまつる」
「(信長は)志村城をひしころし(干し殺し)にした」
書状の差し出し人は、明智光秀である。彼は「仰木」(仰木は比叡山三塔の一つである横川中堂の麓の場所)の人々を、「なで斬りにする(殲滅する)」と書いている。
また「志村城」(滋賀県東近江市)は、信長に敵対していた本願寺一向宗が籠もっていた城で、直前に織田軍が兵糧攻めで落とし、数百に及ぶ首級をあげていた。書状は信長に従わない「仰木」も、「志村城」と同じ運命をたどるだろうと、示唆している。
光秀がこの書状を書いた10日後の9月12日、世に名高い「比叡山焼き討ち」が断行された。書状との関連から、焼き討ちの中心にいたのは光秀その人ではなかったかと、有力視されるようになった。
さらにその功績によって、光秀は織田譜代家臣ではない“よそ者”であるにもかかわらず、異例の出世を遂げたと考えられる。
明智光秀にとって、比叡山焼き討ちは大きな転機だった。
■山が燃え、3000〜4000人が斬られた地獄の1日
比叡山焼き討ちについて、『信長公記』はこう書き残している。
「諸隊の兵は、四方から鬨(とき)の声をあげて攻め上った。僧・俗・児童・学僧・上人すべての首を切り、信長の検分に供した。一人残らず首を打ち落とし、哀れにも数千の死体が転がり、目も当てられぬ有様だった」(『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)より抜粋)
この言葉通りなら、まさに地獄絵図だった。京の公卿・山科言継(やましなときつぐ)も、日記『言継卿記』九月十二日条に記す。
「織田弾正忠(信長)、夜明け前より放火、次に日吉社(比叡山の麓にある日吉大社)、山上東塔、西塔、無動寺残らず放火、山衆ことごとく討ち死に。僧俗男女三四千人切り捨て仏法破滅、王法いかにあるべきや」
言継は3000〜4000という数をあげているが、実際には不明で、後世伝わるような広い範囲での焼き討ちや大量殺戮は、誇張が過ぎるのではないかとの見方もある。しかし「王法いかにあるべきや」とは、仏法を守護し国を統治するあり方が失われてしまったということを指しており、信長=仏への反逆者と見られていたのは確かなようだ。
エホバの証人が 妄想万ずり
見出し。・・「エホバの証人」信者女性 白内障手術断られ、滋賀医大を損賠提訴
滋賀県の女性が宗教団体「エホバの証人」の信者であることを理由に白内障の手術を断られ、精神的苦痛を受けたとして、滋賀医科大付属病院(大津市)を運営する滋賀医大に330万円の損害賠償を求め、大津地裁に提訴したことが23日、分かった。提訴は1月23日付。
訴状などによると、女性は同市内の眼科で白内障の手術が必要との診断を受け、2024年1月、紹介先の滋賀医大付属病院を受診した。宗教上の理由から輸血を受け入れないことを文書で示したところ、医師から「エホバの証人(の患者)は受け入れられない」として診療を断られ、別の病院を探さざるを得なかったとしている。後日、別の医院で両目の手術を受けたが、輸血の必要はなかったという。
原告側は、患者の自己決定権を尊重して適切に治療する義務を負う病院が、正当な理由なく治療を拒否したことは「公立病院の義務に違反する」と指摘。女性の代理人弁護士は「医学的な観点から宗教上の信念に沿った治療はできたはず。診療拒否は差別行為で、憲法上の基本的人権の侵害だ」としている。
滋賀医大付属病院はホームページ上で、宗教上の理由で輸血を拒否する患者について「生命維持のために必要があると医師が判断した場合には行う」との方針を示している。滋賀医大は「係争中のため、回答は控える」としている。
・・・エホバの証人とは ユダヤ教・キリスト教の神をエホバといい エホバ神の証人を自称する妄想狂
ユダヤ教の旧約聖書、キリスト教の新約聖書の時代 輸血など無い時代
ただ聖書では 人間は、エホバの神の「申し子」で、その見本が 人々を救済したイエス・キリストでイエス・キリストはエホバ神の子になっている
だかラキリスト教の司祭は・・「神と子と聖霊の御名において」「三位一体」を言っている
だから エホバ神の申し子である人間は エホバ神が授けた純血を守るとも解釈できる
つまり血は エホバの神から申し子として引き継いだ血とも解釈できる つまり「血はエホバ神が人間に授けた「命」とも解釈できる
だから他者の血(命)を受け入れるとは 他者の命を奪う意味にもなる
以上は猫の妄想で だからエホバの証人は他者の血を受け入れない輸血拒否・・純血を守る
エホバの証人は なぜ輸血拒否するのか説明しろ!
輸血は 患者の命を救うオペレーション しかし輸血した人には、性格が変わる人がいる
そうなれば 自分が自分でなくなってしまう
反キリスト教徒が 人類の脅威
見出し・・「北朝鮮よりも恐ろしい世界かもしれません」“影の米大統領”ピーター・ティールが危惧する「反キリスト」が跋扈する社会像
ソ連崩壊、リーマンショック、トランプ大統領誕生などを次々に予言し、“現代最高の知識人”と称されるフランスの歴史人口学者・家族人類学者のエマニュエル・トッド氏(74)。一方、PayPalやPalantirの共同創業者にして“シリコンバレーのドン”の異名をもち、いち早くトランプ支持を表明してJ・D・ヴァンス副大統領就任にも深く関与し、“影の米大統領”とも評されるピーター・ティール氏(58)。
世界が注目する2人の“世紀の対談”が文藝春秋本社で実現した(司会は会田弘継氏)。本稿ではティール氏が、キリスト教を軸に世界を考察した部分を紹介する。(通訳・近藤奈香)
◆◆◆
人類滅亡の危機を煽って権力を握る反キリスト
会田 ティールさんが「世界の終わりへの航海」を書かれたのはどんな経緯からですか。
ティール 私がこのエッセイで、いくつかの文学作品を通じて捉えようとしたのは、「後期近代」が直面する奇妙な状況についてです。
こうした「人類滅亡のリスク」について話をする時、私は科学がはらむ危険性や環境問題といったリスクを過小評価しているわけではありません。「これは嘘だ」とか「作り話だ」と言っているわけではないのです。
例えば、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリに対して私は批判することも多いのですが、ある意味で彼女は正しい。私たちにはこの地球しかなく、別の惑星を簡単に手に入れられるわけではないからです。
しかし、私が強調したいのは、こうしたリスクを考えるなら、もう一つの非常に危険で深刻なリスクも考えるべきだということです。それは私が「全地球的な全体主義国家のリスク」と呼ぶものです。つまり、全世界を支配する独裁的な政府が生まれ、地球全体を「逃げられない監獄」に変えてしまうリスクです。
これは北朝鮮よりも恐ろしい世界かもしれません。北朝鮮なら逃げられますが、地球全体がそうなれば脱出不可能です。私はこれを「政治的な存亡のリスク」、あるいは「黙示録的な政治リスク」だと考えています。
聖書の言葉で言えば、「反キリスト」です。反キリストは、聖書では、「歴史の最後に現れ、全世界を支配する独裁者」として描かれます。
ここで重要な問いは、「反キリストはいかに権力を握るのか」です。私の考えでは、「後期近代」において反キリストは、人々に絶えず破滅や滅亡のリスクを語り続けることで権力を握ります。
「初期近代」のフランシス・ベーコンの時代や17〜18世紀なら、科学技術によって世界を支配できたかもしれません。しかし現代では、人々は科学技術を恐れている。だから「反キリスト」や「世界統一国家」は、「科学技術の統制」を約束することで権力を握る。科学技術を阻止し、制御するには、世界が一つになる必要がある、と訴えるわけです
・・・「反キリスト教」とは 前の投稿で述べた様に「キリスト教」を「歪曲」して 神が創造した人間とは白人であり有色人は人間ではない」と決めつけた 白人キリスト教徒が
白人至上主義でキリスト教を「歪曲」した「反キリスト教」・・アンチ・クライスト
米トラは 白人至上主義で「歪曲されたキリスト教徒」で「反キリスト教」
本来のキリスト教は 神の愛 人類の救済 社会的弱者を救済
だから 白人 黒人 黄色人の人種に関係なく信仰
なぜ白人が有色人を人種差別するのか、歴史を見れば理由が分かる
最大の罪は「創造主」が人間に「美意識」を授けた為、人間は美しいものは憧れ。汚いものは嫌う美醜意識を授けたのが「最大の罪作り」
男は美人に憧れ、女も美男に憧れる このように人間は「美醜意識」を持つ動物
イエス・キリストは紀元0年の頃。パレスチナのベツレヘムで誕生した「ユダヤ人」で西ローマ帝国のピラト提督から 磔刑に処せられ イエスの信奉者が キリスト教を開く
そして15世紀の頃 西洋白人国の「スペイン」のボルジア家の枢機卿ロドリゴが「悪徳の限りウィ尽くし「ローマ教皇アレキサンドル6世」になり 世界をキリスト教で「席巻」する
その為 白人の西洋諸国はキリスト教国になり 白人の西洋諸国の「キリスト教徒」たちが
「神が創造した人間とは「白人」であり 有色人は人間ではない」と決めつける
これが 白人至上主義(人種差別主義)の「元祖」
つまりはキリスト教は 人種差別(白人至上主義)に「お墨付き」を与えたのである
この白人至上主義の「白人キリスト教徒の英国人」が 北米大陸にアメリカ合衆国を建国
当然 米国は 白人至上主義の人種差別
米トラは キリスト教徒で 当然 白人キリスト教徒で 白人至上主義(人種差別)
だから 有色人(ブラックマン)を 白人至上主義(人種差別主義)で IQが足りない発言
この米トラは キリスト教徒で 米国のキリスト教「福音派が支持」
トランプによる有色人差別
これは「白人キリスト教」に「原因がある」 次に説明
日本人はIQが高くとも EQが低い民族
見出し・トランプ氏、黒人を「低IQ」と侮辱 人種差別まがいの陰湿な当てこすり
ドナルド・トランプ米大統領は今週、米国で最も著名な黒人であるケタンジ・ブラウン・ジャクソン最高裁判事と下院民主党トップ、ハキーム・ジェフリーズ院内総務を攻撃した際、特に侮辱的な表現「低IQ(知能指数)の人(low IQ person)」を使った。
トランプ氏はいつも人を侮辱してばかりいるが、米国では明確な人種差別的なニュアンスを含む「低IQ」という表現は、特に不快感を与えるものだ。
トランプ氏は22日、名門ハーバード大学出身で、黒人女性として初めて最高裁判事に就任したジャクソン氏を「どういうわけか判事の座に就いた、あの新しい低IQの人」と攻撃した。
トランプ氏は、ジャスミン・クロケット下院議員、アレクサンドリア・オカシオコルテス下院議員、アル・グリーン下院議員、ラシダ・タリーブ下院議員、マキシン・ウォーターズ下院議員といった有色人種の民主党議員に対しても同様の攻撃を繰り返している。
ソマリア出身のイルハン・オマル下院議員(ミネソタ州選出)を個人攻撃する一方で、アフリカ東部「アフリカの角」4か国(ソマリア、ケニア、エチオピア、ジブチ)出身の移民(外国人)を「低IQの人々」とレッテルを貼ってきた。
「低IQ」という侮辱表現は、かつての盟友マージョリー・テイラー・グリーン元下院議員や、対イラン軍事作戦を批判したコメンテーターのタッカー・カールソン氏やメーガン・ケリー氏ら、トランプ氏が「敵」とみなした白人に対しても使っている。
だが、より頻繁にこの表現を使っているのは、有色人種、特に黒人女性に対してで、2024年大統領選で対立候補だったカマラ・ハリス前副大統領を「ばか」「まぬけ」「超低IQの人」と呼んだ。
専門家によると、「低IQ」という侮辱表現は、白人至上主義者が黒人の知能は低く肉体労働に適していると主張してきた歴史を踏まえると、特に黒人コミュニティーに不快感を与えるものだという。・
「英国戦艦ユリアラス号」と「通訳のアーネスト・サトウ」と「長州藩の高杉晋作」
参考
高杉晋作 二十六歳
敗軍の将、堂々と。イギリスとの講和談判。
文久三年(1863年)、長州は無謀にも欧米列強を相手に戦をしかけた。
「」馬関海峡の攘夷戦である。結果は長州の惨憺たる敗北であった。
その講和談判に長州代表として臨んだのが、二十六歳の「高杉晋作」である。
高杉は、通訳の伊藤博文を従え、英軍の旗艦「ユーリアラス号」に堂々と乗り込んできた。
イギリス側の「通訳アーネスト・サトウ」は、その時の高杉の様子を「魔王のように傲然と構えていた」と述べている。
さて、講和談判がはじまると、イギリス側は、彦島の租借の問題を持ち出した。
高杉には、租借の意味がよく判らなかったが、どうも領土のことらしいと感じた。すると高杉は、突然
「天地初めてひらけし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に・・・」
と古事記の国生みからはじめて日本の歴史を説きはじめた。
領土の問題なら、わが国土の始めから話そう、と考えたのである。そして、この怪弁で租借の件をうやむやにしてしまった。
列強の居並ぶ中での高杉のこの度胸と機転は、まさに脱帽と言うしかない。
・・・こうして「通訳のアーネスト・サトウ」が ヴィクトリア女王に「日本の植民地化は困難」だと報告
其の為 英国は「日本の植民地化」を「断念」する
英国による「日本の植民地化」を「防いだ」のが、長州藩士の「高杉晋作」
誤字、訂正
投稿844は 誤字が目立ち 意味不明になっているので 誤字訂正
( )が 誤字、訂正
>英国戦艦ユリアラス号は 日本の「長州藩(山口県)」の海岸に漂着
ところが、長州藩は 馬関海峡(下関海峡)を「封鎖していった(封鎖していた)」ので「英国戦艦ユリアっラスは 下関っ海峡っが(下関海峡)が「通過できず」
江戸の徳川幕府間で(徳川幕府まで)行けなので
ユリアラス号の「艦長」が 長州藩に「損害賠償」を請求
・・・以上、誤字、訂正
・・歴史は続く
・・井伊直弼が「安政の大獄」で 吉田松陰を「処刑」する
この吉田松陰の松下村塾で、学んでいたのが「長州藩士」の「伊藤博文」
井伊直弼が 不平等な「日米修好通商条約」を、朝廷の「孝明天皇」の「意向に反し」締結したので尊王攘夷の「水戸藩士」たちが
井伊直弼が、江戸城の「桜田門」から 籠に乗り 門外に出た時を見計らい「暗殺」する
これが「桜田門外の変」
こうして「こんな徳川幕府の世より、天皇の世がマシだ」とする「尊王攘夷論」で「倒幕派」が
徳川幕府を倒し「明治天皇の世」である「明治政府」を築く
この明治政府の「初代・総理大臣」になったのが 吉田松陰の弟子だった「伊藤博文」で
伊藤博文が 日本で「最初の総理大臣」
現在の高市総理大臣は 105代目の総理大臣
徳川幕府を「倒幕」
この経緯も「複雑」で難しい
「関ケ原の戦い」で 豊臣家を滅ぼしった「徳川家康」が「天下人」になり「江戸」「に「徳川幕府」を築き、徳川幕府の「初代・征夷大将軍」となる
こうして「征夷大将軍の徳川家康」は「関ケ原の戦い」の「以前」から徳川家に「忠誠を誓っていた武将」を「譜代大名(ふだいだいみょう)として「優遇」する
しかし「関ケ原の戦い」から「徳川家に忠誠を誓った武将」は「外様大名(とざまだいみょう)」として「冷遇」する
つまり 同じ大名でも、譜代大名は「厚遇」 対する「外様大名」は「冷遇」
この冷遇されていた外様大名の見本が「薩摩藩の大名」や「長州藩の大名」
・・複雑すぎて「説明も難しい」
ところが 11代・征夷大将軍・徳川家斉の頃。徳川幕府の「財政が逼迫」
そのため「幕閣で老中」だった「松平定信」が 諸藩の大名が 贅沢しないよう「質素倹約令」を
発令
その為 幕府から「冷遇」されていた外様大名の「薩摩藩の大名」や「長州藩の大名」は 俸禄を削減されてしまう
そのため外様大名に仕えていた藩士(下級武士)たちは 俸禄が「年間30表」の「夫婦」しか生活できない「2人扶持」や「夫婦と子供」までしか生活できない「3人扶持」まで俸禄を「削減」され生活難に陥り
「食い詰め浪人」や「無宿者」に「落ちぶれてしまう」
其の為」これらの元藩士たちが「こんな徳川幕府の世より、天皇の世がマシだ」とする「尊王攘夷論」が台頭するようになる
この時代 孝明天皇の朝廷葉「京都」に置かれていて・・「天皇の世がマシだ」とする 元藩士の下級武士たちが「尊王攘夷論」で 孝明天皇の京都に「集結」
「尊王攘夷」で、徳川幕府を「倒し」天皇の世を築くため「徳川幕府」の「打倒運動」
ところが歴史は そう単純ではない 当時、英国は ヴィクトリア女王で「日本の植民地化」を狙い、英国戦艦「ユリアラス号」を日本に派遣
ああ!説明が複雑すぎて「いやんなっちゃう!」
英国戦艦ユリアラス号は 日本の「長州藩(山口県)の海岸に漂着
ところが、長州藩は 馬韓海峡(下関海峡)を「封鎖していった」ので「英国戦艦ユリアっラス号」は 下関っ海峡っが「通過できず」 江戸の徳川幕府間で行けなので
ユリアラス号の「艦長」が 長州藩に「損害賠償」を請求
ここで長州藩の藩士だった「高杉晋作」が日本刀を「抜刀」誌ユリアラス号の艦長を「恫喝」しる
これを見ていたのが通訳の「アーネスト・サトウ」で ヴィクトリア女王に「日本の植民地化は困難」と報告する
そのためビクトリア女王は、日本の植民地化を断念する
ところが歴史は、そう簡単ではない 今度は 米国の「東インド艦隊」を率いた「ぺリー提督」が
浦賀に入港
戦艦から、大砲を、ぶっぱなし軍事力で「砲艦外交」 そうして「日米和親条約」と「日米修好通商条約」を徳川幕府に「強要」する
これに対し、朝廷の「孝明天皇」は、日本と米国が仲良くする「日米和親条約」は「受け入れる」が 日本が不平等になる「日米修好通商条約」には「猛反対」
ところが 幕府の大老だった「井伊直弼」が、大砲をぶっ放す「砲艦外交』に「恐れをなし」孝明天皇の「意向を無視」
不平等条約の「日米修好通商条約」を締結する
しかし長州で」松下村塾の「吉田松陰」が 不平等条約の「日米修好通商条約」を締結した幕府の大老「井伊直弼」を猛非難
其の為 井伊直弼が「安政の大獄」で 吉田松陰を「処刑」する
「安政」とは 江戸時代の「年号」
・・長文になり 続く
何故「熊本の領民(藩士)」が熊本を「脱藩」したのか
識者は 何故? の理由がわかっていない
歴史は「複雑で錯綜」としているので、理解が難しく、ある識者は 何故? の疑問を解説しているだけ
この歴史は「関ケ原の戦い」から始まる
「関ケ原の戦い」とは 豊臣秀吉には「血を分けた後継ぎ」が「いなかった」ので「血の繋がりがない豊臣秀頼」を後継ぎにする
そのため「徳川家康」は 秀吉とは血の繋がりがない「豊臣秀頼」を「跡継ぎとは認めなかった」
しかし豊臣秀吉に「忠誠を誓っていた石田三成」は 秀吉の「遺言を守り」 後継ぎの「豊臣秀頼」に忠誠を誓いを「後継ぎとして認める」
豊臣秀頼に忠誠を誓っていた
そのため豊臣秀頼を「後継ぎに認めない徳川家康」と 後継ぎに認める「石田三成」が
「豊臣家を守る為」に、徳川家康と「関が原の戦い」
ここで「豊臣秀吉に忠誠を誓っていた」が「豊臣秀頼を後継ぎとは認めない」「加藤清正」や「黒田長政」は 徳川家康に「寝返り」
関が原の戦いで「徳川家康に味方」
つまり徳川家康に味方し 関ケ原の戦いを「勝利」に導き 豊臣家を「滅亡させた」のである
こうして「徳川家康が天下人』に成り、次の「徳川幕府(江戸時代)」を築く
そして「徳川家康・征夷大将軍」は「関ケ原の戦い」で「戦功」があった「加藤清正」を「肥後の国(現在の熊本県)の 「領主(藩主)」の「外様大名」として「召し抱える」
其の為、加藤清正は「熊本城」を築城・・ここが重要
黒田長政は 筑前の国(現在の福岡県)の「領主(藩主)」の「外様大名」として「召し抱える」
其の為、加藤清正は「福岡城」を築城する・・ここが重要
この「領主」の「外様大名」に仕えていたのが「領民(藩士)」
ここから「難しくなる」
熊本城や 福岡城の「近くに居住」していた領民(藩士)を「上士(じょうし)と言い
熊本城や 福岡城から「離れた所に居住する領民(藩士)」を「郷士(ごうし)と言い
身分は 同じ領民(藩士)でも「郷士」の方が「上士」より「低い身分」・・ここも重要
ところが、徳川幕府は「11代徳川家斉(いえなり)・征夷大将軍」の頃「幕府の財政」が「逼迫」
そのため「8代征夷大将軍・徳川吉宗」の「孫」であり「白河藩の大名」であり「幕府の幕閣」だった「老中の松平定信」が
諸藩の大名に「質素倹約令」を発令する
其の為 諸藩の大名は「俸禄を削減されてしまう」
当然 諸藩の大名は「財政難」その為 大名に仕えていた「領民(藩士)」も俸禄を「削減」されてしまう
こうして「大名の城」から「遠く離れて居住」していた領民(藩士)の身分が低い「郷士」の俸禄は 年間・米俵で「30表」に削減され「生活難に陥ってしまう」
その為「こんな徳川幕府の世」よりも「天皇の世の方がマシ」とする「尊王攘夷論」が台頭
「熊本藩の藩士たち」が熊本藩を「脱藩」し「天皇がいる京都に集まる」
以上を ある識者が解説
これから先は 以前の投稿で説明している つまり「徳川幕府」の「倒幕運動」
・・倒幕は 次の投稿
日本識者は世界一分かりにくい説明
肝心な「要点が理解されていない」 次の投稿で、分かりやすく説明
見出し・・幕末に熊本藩士に従い京都などで暮らしていた領民が多数失踪、理由は様々…力士となる者や新選組入隊も
領民が新選組に入隊したことが記されている口書
幕末、熊本藩士に従い京都など領外で暮らしていた同藩の領民が多数失踪していたことが、熊本大永青文庫研究センターの今村直樹准教授の研究で分かった。この時代、多くの武士が脱藩して志士として活躍したが、同藩の領民や下級武士も藩の支配を抜け出して新選組に入るなど、歴史の激動期に様々な人生を送ったことが史料で確認された。(中村由加里)
今村准教授は2023年度から、熊本藩で刑事法制を担当していた「刑法方」が作成した細川家文書「口書(くちがき)」を研究。藩領内外で起きた事件の容疑者の供述調書が収録され、記録が残りにくい庶民の動きが分かる貴重な史料とされる。現存する1712年(正徳2年)~1867年(慶応3年)の133冊のうち、幕末期にあたる63年(文久3年)~67年(慶応3年)の全10冊を分析した。
藩からの逃亡、失踪を理由に罰せられた事件は同期間で60件あり、このうち京都でのケースが10件と多かった。当時、熊本藩は朝廷から京都の護衛を命じられており、藩士の派遣に同行した奉公人らが逃げ出すことがあった。
泥酔して門限に間に合わなかったり、借金を重ね、家族への面目を失ったりと理由は様々で、恋仲となった京都の女性から引き留められて熊本へ戻らなかった者もいた。失踪後、力士となる者、脅して金銭を奪う「押借り」を行い、治安を悪化させるなどした者もいたという。
一方で、動乱の時代に志を抱き、翻弄(ほんろう)された者もいた。玉名郡の農民・権之助は、知人から水戸徳川家への仕官話を持ちかけられ、江戸に向かった。しかし、実際は強盗集団の仲間集めだった。
山鹿郡の郷士(下級武士)・保理井大助は、江戸で中津藩士の福沢諭吉が開いた塾(後の慶応義塾)で学び、現在の熊本県内からの入塾者第1号だった。しかし、遊郭でトラブルを起こし、国元へ移送される途中に仲間と逃亡。新選組に入隊したと記録されている。
熊本藩では、長州藩の志士・吉田松陰の盟友となった宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら多くの武士が脱藩して京都などで活動したことが知られているが、史料からは庶民も藩の枠を飛び出し、様々な人生を送った実態が浮かび上がる。
今村准教授は「新選組は武士的性格や政治集団としての側面に注目が集まっているが、非政治的な失踪者を多く抱え込んでいた可能性がある」と指摘。「国や政治が変わる中で、いや応なしに人々の生き方が左右された。幕末維新の変動に巻き込まれた人々の姿に思いをはせてほしい」と話した。今後、展覧会を開く予定
楚の猛将軍「項羽」
項羽は 叔父の「項梁」に育てられ、叔父の項梁を父親と思い大人になる
しかし父親親同然の項梁は 秦の猛将軍「章郭』に、コロされ 復讐を誓い 秦の猛将軍「章郭」をコロし復讐を遂げる そして叔父の将軍の地位を引き継ぎ 楚の将軍になる
項羽
項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末から楚漢戦争期にかけての西楚の君主(在位:紀元前206年 - 紀元前202年)。姓は姫[1]、氏は項、諱は籍、字が羽[注 1]である。以下、一般に知られている項羽の名で記す[注 2][注 3]。
楚の将軍・項燕の孫。項梁、項伯の甥。項荘の従兄。項它の又従兄弟。
秦の猛将軍「章郭」
章 邯(しょう かん、拼音: Zhāng Hán、紀元前205年)は、秦の将軍。雍王。三秦の一人。弟に章平[注釈 1] がいる。
楚の猛将軍「項梁」
項 梁(こう りょう、拼音:Xiàng Liáng、 紀元前208年)は、中国秦代末期の武将・反乱指導者。
陳勝・呉広の乱を引き継ぎ、秦に対する反乱を指揮したが「秦の章邯将軍」に敗死した。項羽の叔父、楚の大将軍項燕の末子、項伯の兄弟[1]。自ら武信君と称した。
項羽を養育したことでも知られる
歴史マニア識者が まだまだ続ける歴史者
この識者、脳髄まで、歴史漬者の・・たくあん になっている
またもや「姉川の戦い歴史物」で 2人の猛将が対決した歴史
「織田信長+徳川家康」軍の「猛将」 と「浅井+朝倉」軍の「猛将」が「姉川の戦い」で 一騎打ちで戦ったと言う
これは 中国も同じ 秦王朝の猛将軍の「章郭(しょうかく)」と 楚の猛将軍の項梁(こうりょう)が「戦場で一騎打ち」
「楚の猛将軍だった項梁」が敗れ戦死 そのため 甥の項羽が、大将軍になり、叔父の復讐を誓い 秦の猛将軍・章郭を滅ぼす
見出し・・・身長210cmの巨漢武将・真柄直隆が本多忠勝に挑んだ!姉川の戦い「伝説の一騎打ち」の真相とは?
戦国時代には数多くの猛将が登場するが、その中でもひときわ異彩を放つ存在がいる。身の丈2メートルを超える巨体を誇り、巨大な大太刀を振るったと伝わる武将――朝倉氏家臣・真柄直隆である。
さらに彼は、徳川家康家臣団最強の猛将として名高い本多忠勝と一騎打ちを行ったとも伝えられている。果たしてこの逸話はどこまで史実なのか。そして直隆は、どのような最期を遂げたのだろうか。姉川の戦いに残された記録を手がかりに、その実像に迫ってみたい。
新史料の発見で見えてきた真柄氏の実像
越前真柄(福井県丹生郡越前町)は真柄氏の出身地であり、現在も真柄直隆の碑が建立されている。近年になって、真柄氏に関する新史料「真柄氏家記覚書」(福井県立歴史博物館所蔵)が紹介された。同史料は、17世紀頃に成立したとされている。
天文5年(1536)、直隆は家正の子として誕生した。長らく父の名は不明とされてきたが、「真柄氏家記覚書」などによって家正の名が伝えられるようになった。弟が直澄である。
巨体と大太刀――「太郎太刀」「次郎太刀」の伝説
真柄直隆・直澄兄弟は朝倉氏の家臣として仕え、「太郎太刀」「次郎太刀」という巨大な大太刀を操った武将として知られている。直隆の身長は約210cmほどあったと伝えられており、当時としては規格外の大男であった。黒鹿毛の馬に乗り、武芸に優れていたという。
将軍・足利義昭が一乗谷(福井市)に滞在した際、直隆は2本の大太刀を十数回も頭上で振り回し、その武芸を披露したと伝えられている。義昭が大いに驚いたとされるのも、無理からぬことであろう。
現在、熱田神宮が所蔵する「太郎太刀」は、全長303cm、刃長7尺3寸(約221cm)という巨大なものである。重量は約4.5kgに及ぶ。熱田神宮には弟・直澄所用と伝わる「次郎太刀」も伝来しており、刃長は5尺5寸(約166cm)とやや短いが、それでも大太刀としては破格の大きさである。
姉川の戦い――本多忠勝との一騎打ちはあったのか
元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍は、姉川(滋賀県長浜市)で激突した。いわゆる姉川の戦いである。この戦いにおいて、直隆は弟・直澄、子の隆基とともに出陣した。
その際、直隆は「太郎太刀」を携えて徳川方の本多忠勝と一騎打ちに及んだとされている。忠勝は名槍「蜻蛉切」を振るう猛将として知られており、戦国最強クラスの武勇を誇った人物である。
しかし、戦いの途中で徳川方の攻撃が激しくなったため、直隆は忠勝との戦闘を中断して撤退したと伝えられており、両者の勝敗はつかなかったという。ただし、この一騎打ちの詳細については記述が乏しく、実際にどの程度の戦闘が行われたのかについては不明な点が多い。
向坂三兄弟との戦闘――壮絶な最期の真相
その直後、直隆は徳川方の向坂三兄弟に討たれたとされる。このとき直隆は、「我頸を御家の誉れにせよ」と言い残したという伝承が残されている。弟・直澄、子の隆基もこの戦いで命を落としたとされる。なお、直隆を討った刀は「真柄斬り」と称されたともいわれている。
しかし一方で、向坂三兄弟に討たれたのは父・家正であったとする説も存在する。このように、真柄氏に関する一次史料は多くなく、記録には少なからぬ混乱が見られるのが実情だ。
伝説と史実のはざまで――真柄直隆像をどう見るか
真柄直隆は、巨大な体躯と大太刀を操る豪勇の武将として広く知られている。しかし、その武勇譚の多くは軍記物や後世の伝承に依拠しており、史実として確認できる内容は決して多くない。本多忠勝との一騎打ちもまた、戦国ロマンを象徴する逸話の一つではあるが、詳細はなお謎に包まれている。
鎌倉幕府
この歴史は 鎌倉幕府の前の時代は「平安暗時代」で平安時代は、権力者の「平家(平氏)」の
平清盛が支配していた時代で 平氏の「平安時代」
平とは 人物名で「氏」とは、高い地位を表す称号・・つまり「平氏:の「平清盛」の事
ところが、この平安時代・源という高い地位を持つ「氏」が「源氏」の 源頼朝で 平家の平清盛と源氏の源頼朝が、政権闘争で「源平合戦」
源氏の源頼朝が、勝利。こうして平家の平安時代。崩壊
源氏の源頼朝が、征夷大将軍となる鎌倉に「鎌倉幕府」を築く
しかし敗れた平家の「落ち武者たち」は日本各地に「隠れ潜み」軍勢を立て直し 攻めて来るやもしれないので鎌倉幕府は家臣たちに
平家の「落ち武者」を討伐するよう命じる こうして討伐を命じられた一人に「那須の大八郎」がいて 宮崎椎葉村に隠れ潜む平家の落ち武者・討伐
ところが平家の落ち武者に中には美しい鶴富姫がいて 討伐隊に「那須の大八郎」は一目惚れしてしまう
これを歌っているのが宮崎の民謡「ひえつき節」
・・庭の~~山椒の樹~~! 鳴る鈴かけて~~!
鈴が鳴~~る時きゃ 何と言うて~~出ましょう~~!
駒(馬)に~~ 水やると言うて 出ましょう~~!
こうして椎葉村に隠れ潜む平家の落ち武者たちが出て来た その中には美しい鶴富姫がいて
討伐隊の那須の大八郎は 一目惚れしてしまう;しかし平家の落ち武者を成敗する那須の斎八郎 惚れ抜いた鶴富に涙を浮かべ、別れを告げる
これを歌ったのが「ひえつき節」このように鎌倉時代 世の中が戦乱で それを「鎮めるため」鎌倉幕府は執政官に「北条時頼」を任じていた
そのため執政官の北条時頼は 日本全国を視察
長崎を訪れた時 朝鮮半島の「高麗」は蒙古の「元王朝」から支配されていたので「北条時頼」は今度は。日本が蒙古族から侵略されるち推測する
他方 日蓮宗の「日蓮」も「立正安国綸」で「日本が侵略される」として鎌倉幕府を説得するが 幕府は無視
そして執政官の北条時頼。死去 息子の北条徳宗が「執政官」を引き継ぎ 蒙古族が日本。侵略の「蒙古襲来(元寇)」
この鎌倉時代 朝廷は「後醍醐天皇」で足利尊氏が 自分の世を築くため「光明天皇」を祭り上げ
後醍醐天皇を京都の朝廷から「追放」する 追放された後醍醐天皇は「奈良の吉野に逃げ」南の朝廷・南朝を築く
それに対し。足利尊氏が祭り上げた光明天皇が「北朝」こうして南朝と北朝が対立・・南北朝
そのため南朝の後醍醐天皇に忠誠を誓っていた「楠木正成」と「新田義貞」が 足利尊氏を不忠義者として「成敗」しようとするが。楠木正成も新田義貞も
足利尊氏から 帰り討ちされコロされてしまう
こうして足利尊氏が。征夷大将軍となり 鎌倉の「鎌倉幕府」から、江戸の室町に「室町幕府」を築く
この戦場に成ったところが「鎌倉」で 鎌倉市には 戦場になって残された広大な「雑木林」があり ここを都市化するため「伐採」
日本人は世界一の田舎っぺで、自然を伐採、都市化するセンスがダサい民族
日本チンは、世界一センスがない人種
鎌倉市では 大昔から残されれている自然を伐採
日本チンは、百姓でも木を伐採 自然の樹を伐採するのが「好きなノータリン」
日本人は 世界一自然を大事にしない民族で、都会に憧れる 世界一、ダサい田舎っぺ族
見出し・・【ナゼ】雑木林を伐採したら“大きな岩”が…古くから伝わる『たたり』の言い伝えも?鎌倉市の再開発で住民に広がる不安
変わり果てた雑木林
かつては目にもまぶしいほどの木々が生い茂っていた鎌倉の住宅地。しかし今、その雑木林はすべて伐採され、風景は一変しています。広大な敷地の中にぽつんと姿を現したのは、大きな岩のような存在。突然の変化に、住民からは驚きの声が上がるとともに、『たたり』を心配する声も聞かれました。いったい、この地で何が起きているのでしょうか。
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■雑木林を伐採も…住民から“不安の声
伐採された雑木林があるのは神奈川県鎌倉市。約800年前に源頼朝が鎌倉幕府を開いた場所です。しかし1333年、長年にわたり鎌倉幕府に不満を抱いていた武将・新田義貞が挙兵。わずか15日で鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。今回伐採された雑木林は、その古戦場跡にありました。
不安を語る住民
以前は木々がうっそうと生い茂っていましたが、2026年1~2月にかけて鎌倉市が約420本の木を伐採しました。その様子を撮影した住民は…。
(近隣住民)
「工事をしている人に伝えたんです。大きな木があったので、『たたりがないように気をつけて工事してくださいよ』って」
■市史にも記された『たたり』とは?
戦死者を弔う石塔『泣塔』
住民が特に気にかけているのは、雑木林の一角に立つ高さ2m3㎝の石の塔です。鎌倉幕府末期の激戦地となったこの地域の戦死者を弔うために1356年に建立されました。過去には、この周囲の土地を開発する際に、人の骨が出てくることもあったといいます。
そして、この石の塔には『泣塔(なきとう)』という呼び名があります。鎌倉市によると、かつて塔を近くの寺に移したところ、夜ごとにすすり泣く声が聞こえたため、元の場所に戻したといいます。それ以来、『泣塔』と呼ばれるようになったということです。
市史にも記された『泣塔』の『たたり』
また、戦前、旧海軍が『泣塔』の周辺を切り開き兵器工場を建設しようとした際、事故や異変が相次いだため『泣塔』周辺だけは残されることになったといいます。また、1959年発行の『鎌倉市史』にも次のように記されています。
“たたりありとされて、移動を禁ぜられている”
そんないわくつきの『泣塔』の周囲にあった雑木林が伐採されたことで、住民から不安の声が上がっているのです。
(住民)
「戦死者か、そのご家族の奥様たちが自害したんじゃないかって。『たたり』があるとか、工事関係者がケガするとか…そんなのあるんだったら、やたらいじれないですよ」・
昔は世界各地で「生贄」が行われていた
「遺伝子変異」の突然変異で、人類だけが「大脳新皮質」が発達してしまい、人間だけが大脳新皮質で「創造(クリエイト)」できる動物
その為、人間だけが頭の「創造力」で「神」を創造
だから人間は大脳新皮質で創造(妄想)する妄想ずりずり出来る「万ずり動物」
神は人間の大脳新皮質が「創造」した「創造の産物」なので神は人間の「脳の中」
ところが動き回る動物は「餌を探し回るため「空間認識」が必要で、自分の頭の中に創造した事象を「感覚の投影特性」で「前方」に意識してしまう
ライオンは、空間の前方に餌の鹿がいる、と言った具合で 前方の鹿を追いかけ捕獲、餌にしている
その為、人間は自分の頭の中に創造した「神」を「感覚の投影』で、前方の空間(天空)に「神がいる」と考えてしまう
現代人は、金は者に感謝する「物質世界」に生きるが 昔の人達は、神を信仰する「精神世界」に生きていた
そのため 南米のインディオは、神に感謝を捧げる「神殿」を造り 神が授けてくれた命を神に捧げる為
命がある生きた人間から命である心臓を切り取り、命(心臓)を高々と掲げ神に捧げていた
アフリカのエジプト・スーダンには100前後の神に捧げる「ピラミッドの神殿」を、歴代の王たちが神に捧げた「神殿」
エジプトで最大神殿(ピラミッド)は、クフ王 カフラー王:メンカウラ―王のピラミッド(神殿)
これは、太陽の神への信仰心が強かった証拠・・精神世界
このように、昔は信仰心が強い精神世界に生きていたため、不運・災難は神の「怒り」と考え 神が授けた不運・災難を鎮めるため
神から授けられた命を神に捧げると、神の怒りが鎮まると考え 神に生贄を捧げていた
この映画が 中米を侵略したスペイン人が映画化した「神の怒りアギーレ」
江戸時代、橋が洪水で破壊されると神の怒りと考え神に命を捧げると神の怒りが鎮まると思い命を捧げたのが人柱(生贄)
また人々が水を飲むとコロコロ死んでいたので水神の怒りと考え 水神を祭っていた
当地にも「水神の祠」が残されてる
しかし大名が居城を築城する際 人柱(生贄)を行っていたのか歴史資料がない
織田信長の先祖は。越前の「織田神社(剣神社)」で信仰心が篤い大名
武田信玄の祖先は。近江の「諏訪神社」なので信仰心が篤い大名
築城する際 人柱を行ったのか?
歴史の資料には、信憑性が高い第1資料~第3資料があり 第4~第5資料は、信憑性がない 噂 伝聞 風評 作り話
築城で人柱を行った信憑性ある第1~第3資料がない
生贄(人柱)は「事実」
見出し・・「城の下に埋められた人々」人柱伝説はどこまで本当なのか
城の礎に埋められたのは、いつも名前のない人間だった。public domain
画像:丸岡城内に残るお静の慰霊碑。人柱となった女性の名が、今もこの場所に刻まれている。public domain
福井県の丸岡城に、お静という女性の伝説が残っている。
天正四年(1576年)、柴田勝家の養子、柴田勝豊が城を築こうとしたが、石垣を何度積み直しても崩れたため、人柱(ひとばしら)を立てるほかないという話になった。
人柱とは生きた人間を土の中に埋め、神に捧げることで工事の成功を祈る風習だ。
そこで名乗り出たのが、城下に暮らす貧しい片目の女、お静だった。
お静が出した条件は1つだけだった。「自分を埋めるかわりに息子を武士に取り立ててほしい」というのである。
話はまとまり、お静は石垣の下に埋められ、城はようやく完成した。
ところが勝豊はまもなく他の領地へ転封となり、息子を武士にするという約束は果たされなかった。
以来、お静の怨霊は毎年春の堀の水を溢れさせ、城下に雨を降らせたという。
「お静の涙雨」という伝説である。
人柱に選ばれたのは、弱い人間だった
人柱伝説は全国にある。城や橋、堤防などの大きな建造物では、工事が難航すると「人を埋めれば治まる」という話が語られてきた。
興味深いのは人柱の選び方だ。
画像 : 水野勝成 public domain
元和5年(1619年)、水野勝成が備後国福山(現在の広島県福山市)に福山城を築いていた頃の伝承では、「明朝、最初に城の前を通った者」を人柱にすると決めたという。
翌朝、最初に通りかかったのは、魚売りの久松という男だった。
久松は承知して埋められ、残された妻子には城主から手当が出たと伝えられる。
福山城は1622年ごろに完成し、正式には久松城と呼ばれた。
江戸時代の伝承では、米子城下を流れる加茂川の堤防が何度も決壊したため、翌朝最初に通りかかった者を人柱にすることになった。
翌朝、最初に現れたのは猿回しの男で、男は連れていた猿とともに土手に埋められ、その場所は「猿土手」と呼ばれるようになったと伝えられている。
「最初に通りかかった者」というルールは、一見すると無作為に見える。
だが実際に伝説の中で選ばれるのは、行商人や使い走り、旅芸人など、共同体の周縁にいる者たちであることが多い。お静もまた、貧しく、しかも片目の女として語られている。
志願したにせよ偶然にせよ、人柱として埋められるのは、いつも社会的に弱い側だった。
江戸城から骨が出た日
画像:皇居西の丸の伏見櫓。この櫓の修復工事中に十六体の人骨が出土し、『人柱か』と騒がれた。public domain
ここまで見てきたのは各地に残る伝説である。では人柱は実際にあったのだろうか。
大正12年(1923年)の関東大震災は、江戸城にも被害を与えた。
その翌々年、二重櫓の修復工事が始まると、地中から16体の人骨と古銭が発見され、新聞は「人柱発見か」と書きたてた。
民俗学者の南方熊楠は、世界各地の人身御供の例を引きながら、こうしたことがあっても不思議ではないと述べた。さらに歴史学者の喜田貞吉も、1925年の論考『人身御供と人柱』で、伏見櫓の下から出た人骨を人柱として論じている。
だが、この発見をそのまま人柱とみることはできない。伏見櫓の下には、築城以前に寺院の墓地があったとする見方があり、出土した人骨もその埋葬者だった可能性が高いからである。
人柱伝説は全国に残るが、発掘によってそれを裏づける物証が出る例はきわめて少ない。
考古学的に「これは人柱だ」と確定できる事例は、国内ではほとんど確認されていないのが実情である。
なぜ伝説だけが残ったのか
画像:城の礎に埋められたのは、いつも名前のない人間だった。public domain
証拠がないのに伝説は全国にある。この食い違いをどう考えるべきなのか。
ひとつ言えるのは、巨大な建造物にはそれにふさわしい物語が必要だったということだ。
城や橋、堤防の建設現場では、事故や疫病、過酷な労働によって命を落とした者が実際にいた。そうした無名の死者の記憶が、「人柱」という物語のかたちで土地に残された可能性はあるだろう。
そして、その物語を語り継いできた人々がいたことだけは確かである。
アメリカ民族は軽薄でが脳天気 日本民族は頭が悪くセンスがない
見出し・・「本当に正当な選挙で選ばれたリーダーなのか」報ステ・大越健介キャスターが名指しで痛烈批判した“相手”
大越健介氏(64)が同番組の公式ブログを更新。《丹念な生活》と題した投稿の中で、京都府南丹市で11歳の男児の遺体が発見され、義父が死体遺棄の疑いで逮捕された事件をはじめ、《あまりにもやるせないニュースが続いた》と語っている。
「本当に正当な選挙で選ばれたリーダーなのか」大越キャスターが名指しで痛烈批判した“相手”
京都で起こった悲痛な事件を前に《その夜はなかなか眠れなかった》と胸中を明かした大越氏。できることは《丹念にニュースを伝えること》と考え、《毎日を丹念に生きよう》と決意を新たにしていた。
その理由として、大越氏はアメリカとイスラエルによるイラン攻撃にも言及。今もなお攻撃が続き、犠牲者が増え続けている現状を憂慮したうえで、《トランプ大統領から民間の犠牲者への哀悼や遺憾の言葉が述べられた記憶はあまりない。》《「イランを石器時代に戻す」などと脅しの言葉には事欠かない。》とアメリカのトランプ大統領(79)を痛烈に批判。
《この人の言葉を聞くたびにめまいがする。》《本当にアメリカという民主主義国家において、正当な選挙で選ばれたリーダーなのか。》とも糾弾した大越氏は、そんなトランプ大統領を前にしてもなお平常心でニュースを伝えるためにも、自身が丹念な生活を送る必要があると語っていた。
大越氏がトランプ大統領を非難したのは、今回が初めてではない。
「3月9日に更新した《強者とは?弱者とは?》と題したブログの記事の中でも、《身勝手な振る舞いを繰り返す》《明らかに国際法違反》といった言葉で批判していた大越氏。中立の立場での発信が求められる『報道ステーション』でのキャスターとは違い、ブログでは踏み込んだ発言が見られており、テレビの画面越しでは伝えられない、複雑な胸中が滲み出ているといえるでしょう」(スポーツ紙記者)
ブログでは元NHKの政治記者というジャーナリズム観を覗かせていた大越氏だが、『報道ステーション』では、今日も“丹念に”ニュースを伝えていくのだろうか
なぜ織田信長は、京都に逃げたのか
この室町時代 朝廷は「京都」に置かれ 朝廷の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」は 日本を平定する為
「戦乱の世を鎮め、世の中を平和に治めるため、京都を平定していた」
だから京都は「平安の都」だった
平安の都を、ヘブライ語で、エル・シャロームと言い「エルサレム(平安の都)」
だから織田信長は「平安で安全な京都」に逃れ 盟友の徳川家康と連合 軍勢を立て直し
浅井+朝倉を攻める
ここで織田信長は、自分を「裏切り敵」になった、近江の「浅井長政」を「攻める」
そのため越前の朝倉義景が 浅井長政を支援・・これが近江の姉川で「戦われた姉川の戦い」
しかし この姉川の戦いで織田信長が 浅井・朝倉を「滅ぼす」
この滅ぼした「浅井・朝倉」は、室町幕府「足利義昭の家臣で大名」
自分を「コロそうとした室町幕府の足利義昭・征夷大将軍」
こうして織田信長は 室町幕府を滅ぼし天下人になり「安土桃山時代」を築く
しかし織田信長は「征夷大将軍にはならなかった」
理由は、自分が擁立した「足利義昭」征夷大将軍を「織田信長が滅ぼした為」
だから「安土桃山時代」と言い 「安土桃山幕府」になっていない
・・・続き
ある識者の疑問
>信長の朝倉攻め敗退>2つのナゾ。本当に這々の体で京都へ逃げ帰ったのか?3万の軍勢はどこに行った?
歴史は複雑なので よく理解せねば、頓珍漢になる
越前の大名「朝倉義景」は、上様の「足利義昭」征夷大将軍の「忠臣」で不忠義な織田信長の成敗を目指す
つまり織田信長にとって 越前(福井県)の朝倉義景は「敵」
その為、織田信長は 忠臣の「羽柴秀吉と明智光秀」の3万の軍勢を率い、朝倉義景を攻める
ところが 近江の大名「浅井長政」は 上様の足利義輝・征夷大将軍に忠誠を誓い 織田信長との姻戚関係を破棄
不忠義者の織田信長を成敗する為 朝倉義景を攻めている織田信長の後方から、浅井長政が、攻め朝倉と浅井から
織田信長の3万の軍勢が「挟み撃ち」されてしまう
この当時の「戦い」は 敵の大将の「首を討ち取る」と「勝利していた時代」
「浅井と朝倉」の軍勢が、織田信長の3万の軍勢を「挟み撃ち」にしてしまい
「朝倉と浅井の兵士たち」が、敵の大将・織田信長の「首を取る」ため 織田信長に迫る
そのため織田信長は「窮地に陥る」
だから「織田信長の兵士」は、自分たちの「大将である織田信長」の首を取られれると 戦いに「敗北」するため、織田信長の兵士たちは「蜘蛛の子を散らす」よう逃げてしまう
しかし ある識者は、当時の戦いを「知らない」ので こんな疑問
>信長の朝倉攻め敗退、2つのナゾ。本当に這々の体で京都へ逃げ帰ったのか? 3万の軍勢はどこに行った?
・・織田信長が「京都」に逃げた理由は 次に投稿
・・・続き
兄の 織田信長は 妹・お市の方の魅力に敗れ 肉体関係になっていたと歴史には記述されている
つまり どんな男が見ても 魅力的な女
織田信長の父親は「織田秀信」と言い三河の大名(殿様)で殿様は「正室と側室」を抱えていで
織田信秀と正室の間にできた息子が「織田信長」で 織田信秀と側室の間にできた娘が「お市」で
織田信長 と お市は父親が同じでも、母親が違う「異母の兄と妹」で、妹のお市は、魅惑的な女で江戸時代の資料には、信長と、お市は深い関係だったとも記録されている
つまりお市は 男を幻惑させるような女
その為 信長は 近江の浅井長政を「味方」に付けるため 妹のお市を 浅井長政に嫁がせれば 浅井長政はお市に惚れ込んでしまい 信長と浅井は 姻戚関係になる
浅井長政は、お市に惚れ溺愛 3人の娘を設ける
ところが上様の足利義昭・征夷大将軍が「織田信長」を「不届きな不忠義者」として家臣の大名に「成敗」するよう命じる
近江の大名「浅井長政」は、足利征夷大将軍の家臣である大名で 足利義昭・大将軍に「忠誠を尽くす立場」
その為,織田信長との 姻戚関係を破棄 女房のお市に離婚を切り出す
・・・続き
またも歴史物
なぜ歴史物が連続するのか NHKの 大河ドラマで放映されている為
テレビは見れないので見たことない
見出し・・・<信長の朝倉攻め敗退>2つのナゾ。本当に這々の体で京都へ逃げ帰ったのか?3万の軍勢はどこに行った?本郷和人が『豊臣兄弟!』を解説
<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「信長の撤退」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!
<この大河の最重要場面>平伏する大名を前に微塵の笑みもない秀吉・秀長…『豊臣兄弟!』不穏すぎる冒頭シーンがコチラ
◆「逃げ戻ってきた説」への違和感
越前の朝倉義景攻めに失敗した織田信長は、京都へ戻った——。
一般にはそのように説明されます。
しかも多くの場合、「ようやく京都に帰り着いた」「這々の体で帰ってきた」、もっと極端に言うと、「ほんのわずかな馬廻りのみを連れて、逃げ戻ってきた」というニュアンスが付随して語られがちです。
実際に、第十四回「絶体絶命!」では、敵の目を欺くために馬を捨て、険しい山道を越えて京へ向かい、傷だらけの姿で義昭のもとへたどり着く信長の様子が描かれました。
しかし、この理解には違和感があります。
第一に、この時点の京都は、例えば岐阜や清洲のような、信長の「ホッと一息つける拠点」ではありません。
将軍足利義昭を擁してはいるものの、京都は依然として流動的な政治空間であり、言ってみればニュートラルな都市です。
治安維持を司る機能が喪失したとき、罰せられることを恐れない庶民ほど怖い者はない。
それは、徳川家康が本能寺の変の後に命からがら三河へと逃げ帰った「神君伊賀越え」の危険性を想起すれば明らかです。
本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)
◆京都は「守り」に適していない場所
しかも京都は、防御という点では極めて脆弱な場所です。
周囲を山に囲まれているとはいえ、平野部が広く開け、守りにくい。
歴史的にも京都攻防戦は、攻める側に利があります。
そんなところに「逃げ込めば安全」という発想は生まれません。
この点は後世の動きも裏づけています。
豊臣秀吉は京都に恒常的な防御拠点を築くことを断念し、京都にほど近い伏見に城を置きました。
また江戸時代においても、江戸幕府が京都で用いた二条城は、いわゆる籠城戦を前提とした「城」というより、政治的・軍事的な屋敷に近い性格のものです。
京都という都市そのものが、防御に適した構造ではないことを示しています。
。。。続く
織田信長は天下取りを目指す
しかし 天下人になるには 室町幕府の 足利征夷大将軍(上様)がいる限り 家臣の大名・織田信長は 天下人になれない
そのため 足利征夷大将軍を「無力化」せねばならないので 単純な」足利義昭」を 15代・征夷大将軍に「擁立」する
つまり 15代征夷大将軍・足利義昭は「織田信長」から 征夷大将軍に「して貰った」のである
そのため 足利義昭は 自分を征夷大将軍にした 織田信長の「言いなり」になっていた
しかし 足利義昭は それほど馬鹿ではなく織田信長から 手玉に取られ利用されていたので 征夷大将軍(上様)を 手玉に取り利用していた 織田信長を「不届きなる不忠義者」として 家臣(大名)に 織田信長を討伐するよう命じる
ここで 越前の大名「朝倉義景」は 足利征夷大将軍に「忠誠」を誓っていたので 織田信長を 不忠義者と して討伐に向かう
つまり 織田信長にとって越前の「朝倉義景」は敵になり 織田信長は」 敵の 朝倉義景を 討伐するため
近江の大名「浅井長政」を 味方に付けるため
織田信長の妹 お市の方を 浅井長政に「嫁がせれば」姻戚関係に成り浅井長政は 味方になる
ここで 通常 そう簡単に行くか? 思うのが通常
ところが お市の方は 豊臣秀吉が 若い頃 一目ぼれするほど「魅力的な女」で 歴史では
兄の 織田信長は 妹・お市の方に魅力に敗れ 肉体関係になっていたと歴史には記述されている
つまり どんな男が見ても 魅力的な女
・・そろそろ 掲示板が 中断するので 後で 続き
・・・この鎌倉幕府の家臣だった「足利尊氏」は「自分の世」を築くため 最高権威の 後醍醐天皇に取り入る
これは足利尊氏が「自分の世」を築くっために「光明天皇」を祭り上げ 後醍醐天皇に取り入り
武力行使 後醍醐天皇を京都から追放する 追放された後醍醐天皇は奈良の吉野で 南の朝廷を築く・・これが南朝
これに対し光明天皇の朝廷が「北朝」 つまり
光明天皇の北朝は 足利尊氏
後醍醐天皇の南朝は 後醍醐天皇に「忠誠」を誓っていたのが「楠木正成」「新田義貞」
そのため 楠木正成と新田義貞は 後醍醐天皇を裏切り「不忠義」の足利尊氏を 討伐する
ここで 楠木正成が 足利尊氏を討伐する為、出陣 ところが 息子に楠木正行も 一緒に数ツ人すると言いだす しかし楠木正成は 息子 正行(まさゆき)に・・お前は故郷に帰り母嫌に面倒を見るよう言い残し 出陣 これを歌ったのが「桜井の別れ」
しかし 楠木正成も 新田義貞も 足利尊氏に返り討ちに合い コロされてしま
こうして 足利尊氏が築いた 光明天皇の北朝になろ 足利尊氏は 光明天皇に威光を背景に「征夷大将軍」なり
江戸の室町に「室町幕府」を築き 初代征夷大将軍になり 足利尊氏に 子孫が室町幕府 累代の
足利征夷大将軍のなり しかし13代征夷大将軍・足利義輝時代 室町幕府は 財政難で 衰退に向かう
しかし 歴史家 井上鋭夫の「上杉謙信」には」 越後の大名上杉謙信」は衰退する室町幕府に 足利義輝・征夷大将軍に 忠誠を誓い 支えていた と記述されている
つまり 衰退していた足利征夷大将軍は 諸藩の大名にとって「上様」で 足利征夷大将軍に「忠誠」を誓う大名もいれば「無視」する大名もいた
越前の大名・朝倉義景や 近江の大名・浅井場が柾は 足利征夷大将軍に「忠誠」を誓う大名
徳川幕府も同じ 11代 徳川家斉・征夷大将軍時代 徳川幕府は 財政難
そのため 8代将軍・徳川吉宗の孫で 白河藩の大名で 幕閣の老中だった 松平定信が 諸藩にの大名たちに「質素倹約令」を発令 俸禄削減
これが 原因で「倒幕運動」になり 徳川慶喜・征夷大将軍の時 遂に 徳川幕府 滅亡
余談になったが 室町幕府の財政逼迫 諸藩の大名は 俸禄 削減 そのため 諸藩の大名たちは 足利征夷大将軍を無視
諸藩の大名たちは 自分が天下人になろうとしていた この見本が 三河の大名・「織田信長」
・・続く
姉川の戦い
姉川の戦いとは「何か?」
その前に室町幕府とは何か?を理解しておく必要がある
その前の鎌倉時代 朝廷の天皇は「後醍醐天皇」が「日本の最高権威者」で この下に征夷大将軍の「幕府」
その前に 古事記 日本書記では 天孫降臨で「神が日本」を築いたと言われ日本は「神の国」で この神の子孫が「天」の「皇帝」で 天皇
天皇は 神の子孫で「日本の最高権威」で この天皇をサポートするのが「官僚」で 天皇と官僚が朝廷で つまり中央集権国家の「大和朝廷」
それに対し 権力者たちは武力で他の権力者を支配して 最高権力者が築いたのが「幕府
日本で 最初に誕生した幕府は 源頼朝が征夷大将軍になり 他の権力者を支配する「鎌倉幕府」
この鎌倉幕府の家臣だった「足利尊氏」は「自分の世」を築くため 最高権威の 後醍醐天皇に取り入る
・・誰もフォローしていないので 投稿に力が入らない 続く
姉川に戦いで「先制攻撃:したのは 朝倉+浅井
見出し。。。姉川の戦いは「信長への奇襲」だったのか?一次史料が示す衝撃の可能性
姉川の戦いといえば、織田・徳川連合軍が浅井・いる。しかし、その戦いがどのように始まったのかについては、意外にも見過ごされてきた点がある。
実は、姉川の戦いは織田・徳川連合軍の攻撃ではなく、浅井・朝倉連合軍による「奇襲攻撃」によって始まった可能性が指摘されている。もしこれが事実であれば、従来の姉川の戦い像は大きく見直されることになる。本稿では、合戦直後に記された一次史料をもとに、姉川の戦いの実像について改めて検討してみたい。
一次史料が伝える姉川の戦いの経過
姉川の戦いの経過を詳しく記す史料として知られているのが、元亀元年(1570)6月28日付の織田信長書状(細川藤孝宛:「津田文書」)と『信長公記』である。特に前者は、合戦直記録であり、当時の状況を知るうえで貴重な史料といえる。
それによると、元亀元年(1570)6月28日午前10時頃、浅井・朝倉連合軍は味方である横山城(滋賀県長浜市)を救援するため、野村まで進軍したという。浅井軍は5~6千、朝倉軍は約1万5千の軍勢だったとされる。その直後、信長軍は浅井・朝倉連合軍を攻撃し、最終的に勝利を収めた。
戦場周辺は死骸で埋め尽くされ、信長軍が討ち取った敵の首も無数に及んだという。仮に横山城の城兵が降参を申し出たとしても、信長はこれを決して許さないという強い決意を示していたことも記されている。
「先陣争い」は美談ではなかった可能性
淡海文化研究所所長の太田浩司氏は、信長書状の追而書(おってがき:追伸)に注目している。そこには、信長の馬廻衆と徳川家康が先陣争いを演じ、家康は池田恒興らに朝倉軍との戦いを命じ、信長の馬廻衆が浅井軍と戦ったと記されている。
この記述だけを見ると、勇ましい先陣争いの様子が思い浮かぶ。しかし、太田氏はこの点について異なる見方を提示している。太田氏によれば、横山城を攻囲していた織田軍には、姉川の南岸まで回り込む時間的余裕がなかったという。
そのため、信長と家康は自ら陣頭に立って戦わざるを得ない状況に置かれていたと指摘する。つまり、「先陣争い」という華々しい表現の背後には、実際には予期せぬ事態への緊急対応という現実があった可能性がある。
『信長公記』にも見える「奇襲」の気配
浅井・朝倉連合軍による奇襲を匂わせる記述は、『信長公記』にも確認することができる。同書は、浅井・朝倉連合軍の南下について、「退却するのではなく、戦いを挑んできた」と記している。この表現は一見すると単なる戦闘開始の描写のようにも見える。
しかし太田氏は、この記述が信長側の失態を目立たせないための表現、いわばカムフラージュの意味を持っていた可能性を指摘している。もし浅井・朝倉連合軍が主導的に攻勢をかけていたとすれば、信長側が不意を突かれた状況にあった可能性も考えられる。
勝利の裏にあった「危機的状況」
とはいえ、最終的に織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を撃退し、勝利を収めることに成功した。しかし、その勝利は決して一方的なものではなかった。浅井・朝倉連合軍は壊滅的打撃を受けたわけではなく、その後も抵抗を続け、滅亡までには3年もの歳月を要している。
この事実は、姉川の戦いが単なる圧勝ではなく、緊迫した状況の中で辛うじて得られた勝利だった可能性を示している。
姉川の戦い像は見直されるべきか
姉川の戦いは、織田・徳川連合軍の勝利として語られることが多い。しかし、その戦いの始まりに目を向けると、浅井・朝倉連合軍による奇襲の可能性が浮かび上がってくる。
もし信長側が不意を突かれていたのだとすれば、従来の「整然とした戦闘開始」というイメージは、大きく修正される必要があるだろう。
主要参考文献
太田浩司「文献から探る姉川合戦」(渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』吉川弘文館、2016年)など。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
日本で 最高に「立身出世」した男は「豊臣秀吉」
>朝廷の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」から「関白」の地位を授けられ「関白秀吉」になり
豊臣秀吉は、晴れて、正親町天皇に次ぐ 日本第2位の権力者となり「日本全土を平定」する
「関白」とは 朝廷の天皇をサポートする役職を関白と言い 豊臣秀吉は 正親町天皇から関白の地位を授けられ「関白秀吉」になり
正親町天皇を「サピート」し 日本全土を「平定」したのである 百姓の子供だった秀吉が
関白となり 日本全土を平定するまでに 立身出世
日本の歴史で 豊臣秀吉ほど 立身出世した男は 他にいない
「平定」とは 戦乱の世を鎮め 世の中を平和に治めることを 平定と言う
天下統一で 快進撃の豊臣秀吉
「複雑すぎて」吾輩は猫頭が「こんがらがり」頓珍漢になってしまうが できるだけ 分かりやすく説明
前の投稿で説明したが 主君・織田信長の次男「織田信雄」は 後継ぎの天下人を目指し 徳川家康が 織田信雄を支援
こうして 織田信雄を 後継ぎとは認めない「羽柴秀吉」とが「長久手の戦い」
しかし 羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって 織田信長の次男「織田信雄」は 主君・信長の子供で「コロす訳には行かない」ので
織田信雄を「人質」にして 豊臣秀吉が「懐柔・支配」する
その為 織田信雄を後継ぎにするために支援していた「徳川家康」は 豊臣秀吉と「戦う理由がなくなり」
豊臣秀吉 と 徳川家康は「友好関係」を結ぶ
こうして豊臣秀吉は「天下を平定する」ため・・ある識者の解説に登場する・・
当時「四国」の武将で 羽柴秀吉に「反発」していた「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」を討伐するため
豊臣秀吉は 忠臣で知略家の「小西行長(こにしぎょうちょう)」に「長曾我部元親」を討伐するよう命じる
しかし 四国の武将「長曾我部元親」は強固で なかなか豊臣秀吉の軍門に下らなかったが
遂に、天正13年 長曾我部元親を軍門に下し「四国平定」 さらに「九州平定」
そのため 日本全国を「平定」した豊臣秀吉は 朝廷の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」から「関白」の地位を授けられ「関白秀吉」になり
豊臣秀吉は、晴れて、正親町天皇に次ぐ 日本第2位の権力者となり「日本全土を平定」する
豊臣秀吉が 天下統一で 快進撃
ある識者の解説を 次の投稿で分かりやすく説明
とは 言っても戦国時代 無数の武将たちが「複雑に絡まり合い」説明も難しい
見出し・・【四国戦国史】巨大権力の介入を撥ね退けろ!長宗我部元親、執念の第二次十河城の戦い
中央からの刺客撃退と、苛烈な焦土作戦
第一次十河城の戦いでの泥沼の撤退から年が明けた1583年、ついに中央の覇者・羽柴秀吉が本格的な介入を開始します。
仙石秀久や小西行長といった有力な配下を讃岐へ派遣しましたが、長宗我部軍は水際で反撃し、これを幾度も撃退しました。
同時に、元親の本隊は阿波から讃岐へ侵攻し、十河存保が籠る虎丸城へ総攻撃を仕掛けます。
存保の激しい抵抗に遭うと、元親は再び周辺の農作物を刈り取る麦薙(むぎなぎ)による兵糧攻めを決行。
さらに、引田城に入った仙石秀久の軍を引田の戦いで見事に打ち破り、淡路国へと敗走させました。
劣勢を悟った存保は虎丸城を放棄し、かつて元親を苦しめたあの難攻不落の十河城へと再び籠城することになります。
巨大ネットワークのジレンマと足元の敵
この頃、中央では秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が激突する小牧・長久手の戦いが勃発していました。
家康は、巨大な反秀吉ネットワークの一員である元親に対し、「淡路国へ進軍して秀吉の背後を脅かしてほしい」と強い要請を送ります。
しかし、元親はこの魅力的な広域戦略に即座に乗ることができませんでした。
伊予国での毛利氏の脅威に加え、足元である讃岐に十河城という強力な敵対拠点が未だ健在だったからです。
目の前の十河氏を完全に排除しなければ、淡路への進出は自身の領土の崩壊を招く致命的なリスクを孕んでいました。
巧みな切り崩しと、執念の落城劇
四国の完全平定を急ぐ元親は、単純な力押しではなく調略いう外交カードを切ります。
十河軍の強力な傘下であった寒川氏や由佐氏を寝返らせることに成功し、雨滝城をはじめとする十河城の支城(防衛網)を次々と陥落させていきました。
そして1584年
孤立無援となった十河城は、ついに長宗我部軍の前に陥落し、第二次十河城の戦いは終結します。
しかし、総大将の存保とその重臣たちは落城前夜に密かに城を脱出しており、堺へと逃れて秀吉の配下に収まりました。
完全な討ち取りこそ逃したものの、この勝利に同盟相手である織田信雄は大いに歓喜し、元親の弟に祝着の書状を送っています。
中央の巨大権力による介入を跳ね除け、大局的な誘惑(家康からの出兵要請)に焦ることなく、着実に足元の敵を切り崩して讃岐平定という悲願を達成した元親。
その冷徹でブレない戦略眼が、長宗我部氏を四国最大の勢力へと押し上げたのです。
自衛隊 戦車爆発事故 関連
大分・日出生台演習場で自衛隊員4人死傷 陸自が亡くなった隊員の氏名公表 戦車の射撃訓練中に何らかの原因で砲弾破裂
大分県にある日出生台演習場で行われていた戦車の射撃訓練中の事故で、3人の隊員が死亡し1人が負傷した事故について、陸上自衛隊トップの荒井正芳陸上幕僚長は臨時の記者会見で「地元をはじめとする国民の皆様にご迷惑、ご心配をおかけして誠に申し訳ございません」と謝罪しました。
【画像を見る】戦車が暴発した現場、大分県・日出生台演習場
また、事故で亡くなった隊員の氏名について、西部方面戦車隊所属の、▼濱邊健太郎2等陸曹(45)、▼高山新吾3等陸曹(31)、▼金井効三3等陸曹(30)だと公表。
荒井陸幕長は「亡くなられた隊員のご冥福を心よりお祈り申し上げますと共に、ご家族のみなさまにお悔やみを申し上げます」とコメントしました。
3人は訓練中、負傷した1人の隊員とともに戦車に搭乗していたところ、何らかの原因で砲塔内で砲弾が破裂したということです
長久手の戦い
「長久手の戦い」 わかりやすく回答
久手の戦いは、1584年の小牧・長久手の戦いの一局面で、徳川家康・織田信雄の連合軍が、
豊臣秀吉方の池田恒興・森長可ら別働隊を長久手周辺で奇襲し大勝した戦いです。
家康は軍事的勝利を得ましたが、「最終的な政治的主導権は秀吉が握りました」
核心がない日本識者
「長久手の戦い」とは何か 全く説明してないので 頓珍漢で、チンころ漢
見出し・・・長久手に武将たちの面影 古戦場記念館、22日オープン・・・合戦の攻防、映像や屏風で
オープンする長久手古戦場記念館
愛知県長久手市に22日、「長久手古戦場記念館」がオープンする。戦国時代に徳川家康・織田信雄の連合軍と羽柴(豊臣)秀吉の軍勢が激突した小牧・長久手の戦いの主戦場跡地で、国指定史跡「長久手古戦場」に隣接して新設された。壮絶な攻防や武将たちの思いを語り継ぐ展示内容となっている。
シアタールームは、左右と正面の3面に迫力のある映像が映し出され、合戦の全容を知ることができる。臨場感あふれる一般向けと分かりやすい子供向けの2種類の映像を制作した。
徳川美術館が所蔵する長久手合戦図屏風(六曲一隻)の復元模写を常設展示し、地形模型に投影したプロジェクションマッピングで両軍の進行や攻防を知ることができる。
通常は入ることができない収蔵庫をガラス張りにして、具足や火縄銃などの収蔵品を間近で見えるようにした。体験コーナーでは、兜や陣羽織を着用して記念撮影ができ、ゲーム感覚で火縄銃の模擬射撃を楽しめる。
自由に利用できる無料エリアには、市内に点在する史跡の位置が一目で分かる床地図が描かれ、武将のグッズや雑貨などを買い求めることができる。
・・「長久手の戦い」とは 織田信長が 忠臣だった「明智光秀」から裏切られ「本能寺の変」で 攻められ「自害」してしまう
この時 信長の長男「織田信忠」も「自害」する
そのため 信長の忠臣だった「羽柴秀吉」と「柴田勝家」は 自分が「天下人」になるため
自分に「都合がいい信長の息子」を 後継ぎにする
本来なら 信長の長男「織田信忠」が 後継ぎになるが通常だが 本能寺の変で 自害したので 後継ぎにならない
そのため 誰を後継ぎにするか「清州会議」を催す この会議で
1)羽柴秀吉は 織田信長の長男(織田信忠)の息子「織田秀信」を後継ぎに 推挙
2)柴田勝家は 織田信長の次男「織田信雄」を 後継ぎに 推挙
ここで 織田信長の「正式な後継ぎ」は 長男の「織田信忠」だが 残念にも本能寺の変で 父親信長と自害したので 1)と2)のように 後継ぎが 分かれてしまう
しかし 長男の織田信忠は、自害して この世にいないので 次男の「織田信雄」が 後継ぎするのが 当然
そのため 次男の「織田信雄」は 自分が 後継ぎになり天下人になるため 父親・信長の盟友「徳川家康」に支援要請
・・歴史は「複雑」で 分かりにくい
徳川家康は 織田信雄の父親・信長とは「盟友関係」だったので 信長の次男「織田信雄」を支援するのが道理 その為
1)織田信雄を後継ぎにする「織田信雄 + 徳川家康」の連合軍
それに対し 羽柴秀吉は 主君・信長と共に本能寺の変で 自害した長男の「織田信忠」を立派な忠臣として称える「信長の家臣たち」が 織田信忠の息子「織田秀信」を 後継ぎとする「羽柴秀吉を味方」
2)織田秀信を後継ぎにする「羽柴秀吉 + 信長の家臣」が 連合
こうして 1)と2)が 三河で「長久手の戦い」
この戦いで 2)が 1)の「織田信雄を成敗」
こうして 2)の 羽柴秀吉が 長男「織田秀忠」の「息子・織田秀信」を 後継ぎにする
これは 羽柴秀吉 自身が天下人になる為の「策略」で 後継ぎになった「織田秀信」を手玉に取り
羽柴秀吉が「天下人の豊臣秀吉」となり 主君・織田信長が築いた「安土桃山時代」を「引き継ぐ」
実際に 織田信長を 引き継いだのは「織田信長の息子ではなく」 豊臣秀吉が「織田信長の天下人」を「引き継ぐ」
戦国時代は 自分が 天下人になるため いかなる手段でもい講じた「権謀術数」の時代
ある識者の願い
>今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
・・・我輩は 昔の歴史が好きなので 何時までも フォローしたいと思っている
こんな歴史識者が 歴史物を 投稿していると 心強い
これからも 頑張って投稿してくだしゃい!
。。。続き 織田信長が 何度もイ・ノ・チを狙われた理由
歴史は「複雑」なので よく「精読」せねば 意味が分からない
つまり 織田信長は 室町幕府の征夷大将軍の「不忠義者」になり 幕府の「足利征夷大将軍」に忠誠を誓っていた「越前の朝倉義景」が 不忠義者である「織田信長」の征伐を試みる
つまり 織田信長にとって「越前の大名・朝倉義景」は「敵」になり。織田信長は 敵の朝倉義景を「滅ぼす」ため
まず 三河と越前の中間に位置する「近江の大名・浅井長政」を「味方」にするため 信長は 自分の妹「お市の方」を浅井長政に 嫁がせると 当然「織田信長と浅井長政」は「姻戚関係」になり「浅井長政」は「織田信長を味方」する立場
こうして 浅井長政は 織田信長の妹「お市の方」との間に 3人の娘を設け 平和裏に暮らしていた
ところが 上様の足利義昭・征夷大将軍が 織田信長を不届きなる「不忠義者」として家臣に
織田信長の殺害を命じていた為
足利義昭・征夷大将軍に 忠誠を誓っていた「近江の大名・浅井長政」は 上様・足利義昭・征夷大将軍に 忠義を尽くすため
織田信長との「姻戚関係」を破棄
不忠義な 織田信長を「討つ」ため 朝倉義景を攻めていた織田信長を 後方から攻める
そのため 織田信長は 朝倉と浅井から「挟み撃ち」され「コロされるか否か」の「窮地」に陥る
これを例えたのが「小豆袋」
袋の中の小豆は 織田信長で 朝倉と浅井により「挟み撃ち」され 袋のネズミ
そのため 織田信長の 忠臣だった「羽柴秀吉」が 主君・織田信長の「身代わり」になり 主君・織田信長を「安全地帯」に逃す
つまり 羽柴秀吉が 織田信長の、死ぬか否かの「窮地を救う」
これは 李氏朝鮮も同じで 豊臣秀吉が朝鮮出兵 倭軍が李氏朝鮮を攻め 李氏朝鮮の国王・宣祖は 王位継承権がない「光海君」を「身代わりの国王」にして 安全地帯に逃げたのと同じ
こうして織田信長は 安全地帯に生き延びる
しかし大名・浅井長政は 不忠義者の織田信長を「成敗せねばならない立場」なので 浅井長政の「一人の家臣」が 主君・浅井長政に忠誠を誓い「織田信長」の イ・ノ・チ を狙う
しかし 織田信長には「戦術」に優れた家臣「竹中半兵衛」がいて 主君・信長が どうしても 陥落できなかった城を
竹中半兵衛は優れた戦術で 僅か数日で陥落させ 自分の居城にせず 主君の織田設永に献上した 忠臣
この竹中半兵衛の「弟」も 主君・織田信長の忠臣で 浅井長政の 一人の家臣が織田信長の
イ・ノ・チを狙っていた浅井長政の 家臣を 殺害する
こうして織田信長は 今度は 竹中半兵衛の「弟」から 命を救われ、織田信長は 何度もイ・ノ・チを 狙われるが 九死に一生を得て、生きながらえる
しかし 幸運は そう長続きしないもので 遂に「本能寺の変」で 裏切り者の明智光秀に攻められ 進退窮まった織田信長 自害 遂に命が尽きてしまう
・・ジ エンド
自衛隊の戦車が爆発
大分にある自衛隊基地で 軍事演習していた戦車が爆発
見出し・・「戦車が暴発した」と通報 3人が心肺停止 1人が重傷 大分・日出生台演習場
21日午前、大分県にある日出生台演習場で「戦車が暴発した」と消防に通報があり、男性3人が心肺停止、女性1人が重傷だということです。
「戦車が暴発した」と通報 3人が心肺停止 1人が重傷 大分・日出生台演習場
日田玖珠広域消防本部によりますと、大分県にある日出生台演習場で21日午前8時40分ごろ、「戦車が暴発してけが人が多数出ている」と通報がありました。
この事故で、男性3人が心肺停止。女性1人が重傷でドクターヘリで病院に運ばれ手当を受けています。
九州防衛局によりますと、当時、陸上自衛隊西部方面戦車隊が射撃訓練を行っていて、砲弾が砲内で暴発したということです。
自衛隊が情報収集するとともに詳しい状況について調べています。
・・・この事故は 戦車は敵の戦車を大砲で攻撃するため 無数の「砲弾」を「搭載」している
この砲弾を 戦車の搭乗員が「大砲に詰め込み」発射する仕組み
砲弾の仕組みは 金属(真鍮)で出来「円筒状の容器」の片方には「弾丸」が設置され 筒の中には、火薬が内臓され
筒の片方には 火薬を爆発させる「信管」があり この信管を 撃鉄で打つと 信管が発火
内臓された火薬に引火 爆発 弾丸が 発射される仕組み
ピストル ライフル銃 機関銃 大砲の「砲弾」は 全て「同じ仕組み」
具体的には ピストルのトリガー(引き金)を引く「撃針」が 砲弾の「信管」に当たり「発火」
砲弾の火薬に引火 爆発 弾丸を 発射させる
そのため 砲弾を 銃身の銃口に「詰め込まねばならない」
ここで ピストル ライフル銃 機関銃の砲弾は 大砲の砲弾より 小さく軽いので
砲弾を地面に 落としても 襲撃が小さいので 信管は 発火しない
しかし 大砲の砲弾は 大きく 重いので 地面に落とすと「衝撃が大きく」 信管が衝撃を受け発火 砲弾が 爆発
つまり 戦車の搭乗員が 砲弾を大砲の銃口に詰め込む際 砲弾を落としてしまい 信管が衝撃を受け 砲弾が戦車内で 爆発した可能性
そうなら 戦車内の搭乗員は 瞬時に 爆死
しかし 1発の砲弾が 戦車内で爆発した為 その衝撃で 戦車内に搭載していた砲弾が 爆発「大爆発」となり「戦車が破裂」してしまい 破裂した戦車の破片が 四方八方に飛び散り
周囲にいた自衛官を、負傷させたのかも知れない
織田信長が 何度もイ。ノ。チを狙われた理由
足利尊氏が 築いた室町幕府は 足利尊氏の血筋が 歴代の「足利征夷大将軍」の地位を引き継ぐ
ところが 11代・足利義輝・征夷大将軍の頃 室町幕府は「衰退に向かう」
これは徳川家康が築いた徳川幕府も同じで 11代・徳川家斉・征夷大将軍の頃 徳川幕府は 財政逼迫「衰退に向かい」 幕閣で老中の 松平定信が「質素倹約令」を施行
そのため 諸藩の大名たちは俸禄を削減され 当然 大名に仕える下級武士の俸禄も削減され
「こんな徳川幕府の世なら 天皇の世がマシ」とする尊王攘夷論で 遂に倒幕派により 徳川幕府 崩壊
このように 室町幕府は 11代 足利義輝・征夷大将軍の頃 衰退に向かい 諸藩の大名たちは 室町幕府を「軽視」するようになる
この「幕府の征夷大将軍」が 最高の権力者で「上様」と言い この上様(征夷大将軍)に仕える家臣を 大名と言い殿様
だから 大名(殿様)は 征夷大将軍(上様)に「忠誠を誓う家臣」こういう仕組みになっていた
諸藩の大名(殿様)は 幕府の夷大将軍(上様)に「忠誠を誓っていた」
この室町幕府の上様・足利征夷大将軍に「忠誠を誓っていた大名(殿様)」が「越前の大名「朝倉義景」や 近江の大名「浅井長政」
ところが 三河の大名「織田信長」は 自分が天下人になるため 室町幕府を「崩壊」させねば 天下人に成れないため 室町幕府を支配するため 15代征夷大将軍に「足利義昭」を「擁立」する
これは ウクライナも同じ 米国がウクライナを支配するため「反ロシア派のゼレンスキー」を 大統領に「擁立」したのと同じ
つまり 足利義昭は 織田信長から 15代征夷大将軍に「してもらった」のである
だから 足利義昭は 織田信長の「言いなりになっていて」 自分が 織田信長から 手玉に取られ 利用されていたので
征夷大将軍の足利義昭にとって織田信長は「不忠義なる大名」として 織田信長を殺害するよう家臣に命じる
つまり 織田信長は 室町幕府の征夷大将軍の「不忠義者」になり 幕府の足利征夷大将軍に 忠誠を誓っていた 越前の朝倉義景が 織田信長の征伐を試みる
・・続き