日本人 一億総白・痴化を 予言した「大宅壮一」
大宅壮一が予言した通リ 日本人は「バカ化」している
参考
一億総白・痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。ただし、「総」を付け加えたのは、小説家の松本清張である。
原典 もともとは『週刊東京[注釈 1]』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。
テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白・痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白・痴化運動』が展開されていると言って好い。 — 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」より[注釈 2] この『一億白・痴化』の中程に「総」がつけられて広まり流行語となったのが『一億総白・痴化』である。
『東京新聞』夕刊1957年1月27日のコラム「放射線」欄で、テレビの卑俗さについて「ある人はこれを国民白・痴化運動」と言ったとする記事が出た。記事は「閑息亭」のペンネームで投稿されたが、筆致が大宅と似ていて、この記事が原典だと言われている[1]。
朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。このなかで松本清張が「かくて将来、日本人一億が総白/痴となりかねない」という表現で「総」をつけた点が重要視されている[2]。
中沢啓治の「はだしのゲン」
『はだしのゲン』は、中沢啓治による日本の漫画、およびそれを原作とした実写映画、アニメ映画、テレビドラマ。中沢自身の原爆による被爆体験を基にした自伝的な内容である。
戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜こうとする主人公・中岡ゲンの姿が描かれている。
当初は『週刊少年ジャンプ』(集英社)において約1半年連載された[1]。その後は1975年から連載再開した。連載先が変わっていき、革新市民団体雑誌の「市民」(1975 - 76年)、日本共産党中央委員会の「文化評論」(1977 - 80年)を経て、1982年から1987年まで日教組の機関誌「教育評論[2]」において連載された[1][3][4]。
概要
自伝的な作品で、作中のエピソードの多くも中沢が実際に体験したことである[注釈 1]。作者は当作を反戦漫画として描きたかったのではなく、それ以上に「踏まれても踏まれても逞しい芽を出す麦になれ」という「生きること」への肯定の意味を込めて「人間愛」を最大のテーマとして描いていた[5]。
母親を火葬した際に骨が残らなかった、という作中にもあるエピソードが、中沢に広島原爆の被爆を題材とした漫画を描かせるきっかけとなった。
発表分の末期は終戦から何年も過ぎた戦後の内容となっており、昭和天皇に対する批判やアメリカ軍およびアメリカ合衆国に対する批判、警察予備隊(後の陸上自衛隊)発足に対する批判する内容も含んでいる。ただし、その時期の話にも原爆の傷痕は根強く描かれている。
時代考証の間違いや左派的な主張をはじめ、作品の内容、表現などについて様々な意見があるが、作者の中沢の実体験に基づく原爆の惨禍や当時の時代背景・世相風俗を表現していながら、エンターテインメントとしても読ませる作品として国内外での評価は高く、映画・ドラマ・アニメ・ミュージカル・絵本・講談化もされている。2010年6月調査のgooランキング「読んでおきたい日本史モノマンガランキング」の第1位に選ばれた[6]。
2007年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布することになった。外務省が英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させる予定と報じられた[7]。
2018年9月時点で累計発行部数は1000万部を突破している[8]
はだしにゲン
これは漫画家・中沢啓治が 戦時中の日本の「実態」を如実に描いた漫画で、戦時中の日本人は「世界一単純なバカ民族」だった
何故 バカ民族になったのか 以前の投稿で その「理由」を説明した
江戸時代 剣豪たちが 大名に仕官していた「武士」で この武士が 大名が戦争する際 鎧兜を着け 敵兵をコロす役目
この敵兵をコロすのが「本業の武士たち」が 尊王攘夷で 徳川幕府を 倒幕
明治政府を築く 当然「明治政府の要人」は 敵をコロすのが本業なので
当然 明治政府は「好戦的な軍国主義」の政府になる
こうして明治時代 日清戦争 日露戦争に「勝利」
こうして日本は「戦争拡大の軍国主義」に邁進する そのため欧米白人国が「日本を軍事的脅威」とする「黄禍論」が台頭
この黄禍論に反応したのが 米国26代大統領セオドア・ルーズベルトで
日本を「攻撃目標」としてオレンジ色に塗り「オレンジ計画」
そして 米国32代大統領フランクリン・ルーズトが「軍事力で日本をはたき潰す」ため昭和時代 日本を「戦争に誘い込む」
日本政府・軍部は 単純バカ要人どもで米国ルーズベルトが 軍事力で日本を叩き潰す為に「仕掛けた戦争の罠」とは分からず
1941年12月8日 日本軍が 米国ハワイ州の米軍基地「真珠湾」を「奇襲攻撃」・・日米開戦(太平洋戦争)に突入
日本軍は 単純バカで・・トラトラトラ(我れ、奇襲攻撃に成功り)・・日本軍勝利を祝福
しかし 米国が日本を軍事力で 叩き潰すために「仕掛けた戦争の罠」なので翌年1942年 日本が世界に誇る「日本連合艦隊」が 太平洋のミッドウエー海戦で 米軍の「太平洋艦隊」から「叩き潰されてしまう
この1942年のミッドウエー海戦の「大敗」から 日本軍は「敗退の一途」を辿り、米軍から「追い詰められてしまう」
そのため 日本政府・軍部は、日本の「国難を乗り越える」ため 翌年1943年 大日本国憲法の「国家総動員令」に基づき 日本人男女を「徴用」する
しかし日本人の中には「戦争反対・平和主義」を唱える日本人は「非国民」として警察や憲兵が逮捕
戦争反対主義の日本人を「非国民」として虐待 拷問する
この平和主義(戦争反対)の日本人を 警察や憲兵が「非国民」として 虐待・拷問する
これを描いているのが 中沢啓治の漫画「はだしのゲン」:
何故 戦時中の日本は こんな現実だったのか 理由は上述している
日本は 明治時代から 好戦的な軍国主義だった為 そして昭和時代 太平洋戦争で1945年、日本「敗戦」
こうして 戦後 日本国憲法・第9条で 恒久的に戦争放棄・「平和主義の日本」になる
軍国主義の日本から 平和主義の日本にしたのは「米国軍人マッカサー」
日本政府要人が 如何に「頭が弱い日本人」か その証明
だから中国政府が 台湾有事で集団的自衛権を主張する高市総理を「軍国主義」として非難した「理由」
日本人民どもは 世界一単純バカ族で 何も分かってない
中沢啓治の「はだしのゲン」を見れば、日本がいかにバカ民族か バカでも分かる
脳がボケた識者
太平記について解説しているが。何を言いたいのか趣意が不明
見出し・・・後醍醐天皇による「公家一統の政」が始まる しかし『太平記』に記される新たな波乱の予兆とは?
軍記物語『太平記』には元弘3年(1333)、「四海九州の朝敵」(日本全土の朝敵)は残らず滅びたと記されています。鎌倉幕府が滅び、都に還幸された後醍醐天皇は「正慶」の年号は「廃帝」(鎌倉幕府に擁立されていた光厳天皇)による改元ということで、もとの「元弘」に戻されました。賞罰・法令は悉く「公家一統の政(まつりごと)」、つまり朝廷の統一された政治体制から出されたことにより、諸国の民は朝廷の徳風(仁徳の感化の及ぶ様)に従ったともあります。
しかし同書には早くも新たな波乱の予兆が記されています。同年6月3日、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が信貴(奈良県生駒郡の信貴山)の毘沙門堂にお出になるとの風聞があったので、畿内・近国の軍勢は言うまでもなく、京中や遠国の者までもが馳せ集まってきたとのこと。それは「天下の大半」の軍勢かと思われるほど夥しいものだったようです。護良親王は同月13日に入洛する予定でしたが、延引となりました。護良親王が諸国の兵を招集され、楯を作らせ鏃を砥いで「合戦の御用意あり」との聞こえがあったので、京中の武士の胸中は穏やかならぬものがあったと言います。
この不穏な有様をご覧になって、行動を起こしたのが後醍醐天皇でした。天皇は側近の坊門清忠を勅使として派遣。護良親王に「天下は既に鎮まったというのに、なお武器を取り、士卒を集めているのは何の必要があってのことぞ。世の中が静謐となったからには、急ぎ剃髪して、座主を相続されよ」と出家することを勧めるのです。護良親王は倒幕闘争に参与するまでは天台座主(比叡山延暦寺の住職)でした。後醍醐天皇は我が子に再び天台座主となるように促したのです。
・・・太平記とは「鎌倉時代」 朝廷は「後醍醐天皇」で、足利高氏(あしかがたかうじ)は 後醍醐天皇から 足利尊氏(足利尊氏)の名前を授けられる
他方 新田義貞と 足利尊氏は、ともに「八幡太郎義家(源義家)」の子孫で「足利家と新田家」が「権力闘争」
この「八幡太郎義家(源義家)」の子孫が 鎌倉時代を築いた有名な「源頼朝」足利家も新田義貞も 源頼朝と同じように 源義家(八万太郎義家)の子孫
そのため足利尊氏と新田義貞は どっちが「優位な地位」か 政権闘争
これが鎌倉時代に描かれた軍記物の「太平記」
ところがこの鎌倉時代の「前」は「平安時代」で 朝廷は「宇多天皇「でこの宇多天皇の息子(皇太子)が さらに「醍醐天皇」になり 菅原道真を大宰府に左遷
そして次は「鎌倉時代」になり 朝廷は「後醍醐天皇」で 足利尊氏は 自分の世を築くため「光明天皇」を祭り上げ 後醍醐天皇を京都の平安京から追放
追放された後醍醐天皇は 奈良の吉野に逃れ「南の朝廷(南朝)」を築き
足利尊氏が祭り上げた光明天皇は 京都の平安京の朝廷「北朝」となり「南北朝」時代になり南朝の後醍醐天皇に忠誠を誓う新田義貞・楠木正成 と北朝の足利尊氏が権力闘争
しかし足利尊氏が、北朝の光明天皇から「征夷大将軍」の地位を授けられ新田義貞 楠木正成を滅ぼし 次の室町幕府を築く
以上が 太平記
この足利尊氏が築いた室町時代から 朝廷の天皇は 北朝になり 江戸時代 倒幕派が 幕府を倒し、明治政府を築き
長州藩の伊藤博文が 江戸時代 朝廷の天皇・孝明天皇は「北朝」で正統な天皇の系統ではないとして 後醍醐天皇の子孫こそが 正統な天皇と主張
長州藩の後醍醐天皇の子孫である「大室寅之佑」を明治天皇にした説がある
日本は「太陽の国」
だから ロシアの映画監督アレキサンドル・ソクーロフが「昭和天皇」裕仁をテーマに映画「太陽」を制作
米国の映画監督スチーブン・スチルバーグ監督が 日本を「太陽の帝国」として映画化している
日本は、太陽の国・・だから日本の国旗は、太陽で「日の丸」
だから飛鳥時代・「日いずる処の天子 日没する処の天子に致す 恙なきや」
薩摩藩が建造した「昇平丸」が 日本で最初に「日に丸」を掲げた
参考・・薩摩藩の大名 島津斉彬(しまづなりあきら)
国道220号線が南下して桜島にぶつかる数km手前に“道の駅たるみず”がある。この敷地内の桜島寄り西端に「近代造船発祥の地・国旗日の丸のふるさと」と刻まれた石碑を台座にして、上部に3本マストの帆船の模型が載ったモニュメントが設置されている。
この帆船は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦“昇平丸”の1/6サイズのモデルで、全長5.17m(実物は31m)。
台座の中央には碑文の書かれたパネルが配置され、右側には島津斉彬公の肖像画、左側に瀬戸海峡の絵が添えられている。
現在大隅半島と桜島はつながっているが、かつて桜島は文字通り独立した島で、大正3年(1914) の大噴火によって大隅半島と陸続きとなった。つまり大隅半島と桜島の間には400mほどの海峡で仕切られていた。
薩摩藩の島津斉彬は、幕末に西欧列強が武力で圧力をかけてきた際に海防の重要性を認識し、桜島と大隅半島の3ヶ所に造船所を設け、大型船の建造を始めた。安政元年(1854) に昇平丸、次いで鳳瑞丸・万年丸・大元丸・承天丸の合計5隻の帆船が完成した。それ以前は幕府の方針で、大型船の建造が禁止されていたため、これが近代的な大型船の造船の発祥となった。
一方、日本でも洋式帆船が建造されるようになったため、日本の船を識別する目印が必要となり、島津斉彬が提案したのが“白地に赤い丸”の日の丸だった。
これが幕府に受け入れられ、日本の船を示す旗“総船印”として“大隅半島と桜島の間の海峡”で造られた昇平丸に掲げられた。後に「日の丸は国旗〛として認められた。
しかし「日の丸」は、斉彬が創作したものではなく「飛鳥時代末」期から“日ノ本”を象徴するマークとしてこのデザインが使われていたようで、斉彬はこれを正式に日本の旗とするように提案したものである。
・・日本で最初に 日の丸を掲げた所は 薩摩藩(鹿児島県)である
日本ちんなら それくらい知ってろ!
なぜ日本の国旗は 日の丸なのか
「日」とは太陽の「陽」の事で「丸」とは 〇(円)
つまり「日の丸」とは「太陽」の事
飛鳥時代 女帝の推古天皇で 聖徳太子が摂政の頃 大和朝廷が 小野妹子を遣隋使として 書簡を持たせ 隋の皇帝(煬帝)に書簡を送る
「日いずる処の天子 日没する処の天子に致す 恙なきや」
意味は、太陽が昇る東の国(日本)の天子(推古天皇)が 太陽が沈む西の国(隋)の煬帝に書簡を送る 問題(不満)はないか?
・・という意味 ここから 日本は 太陽が昇る「太陽の国」になる
そして時代は 江戸時代になりオランダと英国が 日本と交易する為 長崎の平戸に オランダ商館 英国商館を設立
しかし英国商館は オランダ商館に競争で「敗れ」英国商館は 長崎平戸から「撤退」してしまう
しかし 英国商館が撤退しても 英国人たちが 日本に「残留」していて江戸時代 薩摩藩の大名・島津の「大名行列」が 横浜の「生麦」という所を通り掛かると
大名行列を知らない」英国人数名が大名行列を「乱してしまう」
その為、薩摩藩士が 大名行列を乱した英国人を・・無礼者として日本刀を「抜刀」英国人数名を「殺傷」してしまう・・これが1862年の「生麦事件」
そのため 英国政府が薩摩藩に「損害賠償」を請求
それに対し 薩摩藩は大名行列を乱した英国人に問題があるとして 損害賠償を拒否する
そのため 江戸幕府が、薩摩藩に代わり 英国に損害賠償する
しかし英国政府は、薩摩藩からは 損害賠償して貰ってないので 海軍立国の英国政府が、薩摩藩に 海軍を派兵
当然 薩摩藩が 海軍立国の英国に「勝てるはずもなく」英国の軍門に下る・・これが1863年の「薩英戦争」
薩摩藩は 海軍立国の英国で 戦艦製造技術を学ばせるため 薩摩藩士っを英国に「留学」させる
そして英国で 船舶建造技術を学んだ薩摩藩士が、薩摩藩に帰国 薩摩藩が 独自に戦艦「昇平丸」を建造し
薩摩藩の代わりに英国政府に損害賠償してくれた江戸幕府に「昇平丸」を献上する
この江戸時代、昇平丸が日本で 最初に「日の丸」を掲げた こうして日の丸が 日本の国旗になる
日の丸の「国旗損壊罪」を制定
見出し・・日本人にとって「日の丸」とは。 国を応援するシンボルであり軍国主義の象徴となった過去も... 「国旗損壊罪」法案を前に「日の丸」の歴史を紐解く
「日本の国旗を傷つけてもお咎めなしというのはおかしい」と訴える高市総理のもと、国旗損壊罪を定めようという議論が進んでいます。その目的はどこにあるのか。そして、そもそも「日の丸」とは日本の歴史の中でどのような役割を担ってきたのでしょうか。
【写真を見る】日本人にとって「日の丸」とは。 国を応援するシンボルであり軍国主義の象徴となった過去も... 「国旗損壊罪」法案を前に「日の丸」の歴史を紐解く【サンデーモーニング】
■「日の丸」戦後日本の平和と繁栄の象徴に
戦後復興まもない1964年に開かれた「平和の祭典」東京オリンピック。「日の丸」のもとで戦う選手たちに、日本中が熱い声援を送りました。
その後、テレビ放送されたドキュメンタリー番組では... (「現代の主役 日の丸」1967年2月放送)
ーー「日の丸」といったら、まず何を思い浮かべますか?
「旗ですよ、日本の旗。国旗。オリンピック。祭日」 「あれほど綺麗な旗はないでしょ」
「日の丸」について、街行く人々に問いかけます。
ーー「日の丸」はどこに掲げれば美しいと思いますか? 「玄関の壁。日の丸は日本の象徴」
ーー「日の丸」が日本の国旗であることに誇りを持てますか?
「はい、持てます。どこの家族もみんな掲げたいと思います」
ーーこれから「日の丸」を振ることがあるとすれば、いつ何のため?
「日本がおめでたいことがある時に振るのでは」
当時、「日の丸」の旗がある家庭は約8割にも達し、祝日にはほとんどの家が軒先に掲げるなど、「日の丸」は戦後日本の平和と繁栄の象徴ともなりました。
■「平和の祭典」から60年余り... 「国旗損壊罪」法案の提出へ
それから60年余り、今、国会に提出されようとしているのが...
高市総理(東京・秋葉原駅 2026年1月) 「日本国旗を損壊しても全くお沙汰なし。変じゃないですか。それはやっぱりおかしい」
「日の丸」を傷つける行為を処罰するという「国旗損壊罪」法案の自民党骨子案。
人に著しく不快感を抱かせる方法で国旗を傷つけることなどを処罰の対象にするとしています。
これに対し、野党からは...
国民民主党 玉木雄一郎 代表(26日) 「もう少し優先順位の高い、急いでやるものを早くやった方がいいのではないか」
米国の上空で隕石が爆発
隕石とは「流れ星」のことで 地球の重力に引かれ 大気圏に突入すれば流れ星が大気との摩擦熱で 燃え上がり 流れ星になって目撃される
この流れ星が地上に落下したのが「隕石」
世界一 古い隕石は 直方の須賀神社に落下した隕石
夜空を見ていると毎晩 3個くらい流れ星を目撃できる
見出し・・米国上空で隕石が爆発、TNT火薬300トン相当の威力
米マサチューセッツ州北東部とニューハンプシャー州南東部の上空で大気圏に突入する隕石(いんせき)の爆発を示す衛星画像。米コロラド州立大学と米海洋大気庁が共同設立した、
地球に向かって落下していた隕石(いんせき)が米国北東部上空で30日に爆発したと、米航空宇宙局(NASA)が発表した。同地域ではTNT(トリニトロトルエン)火薬約300トン分に相当する衝撃とともに、ごう音が響き渡った。
NASAの副報道官ジェニファー・ドーレン氏は、AFPに向けた声明の中で、火球がマサチューセッツ州北東部とニューハンプシャー州南東部の上空で、30日午後2時6分(日本時間31日午前3時6分)ごろに分裂したと述べた。
ドーレン氏によると「火球は、現在活動中のどの流星群とも関連していない。宇宙ゴミや人工衛星の再突入ではなく、自然の天体だった」と述べた。
「空中分解時に放出されたエネルギーはTNT火薬約300トン分に相当すると推定されており、これが大きなごう音の原因だ」
この火球は時速7万5000マイル(時速12万キロ以上)で移動し、高度40マイル(約64キロ)の地点でバラバラに砕け散ったという。
地域住民は予期せぬ大きなごう音に驚き、SNSユーザーからは「衝撃が強すぎて家が揺れた」という報告が相次いだ。
2013年には、ロシア中部チェリャビンスク上空を火球が通過した。住宅ほどの大きさがあるこの隕石は地上14マイル(約22キロ)上空で爆発し、TNT火薬44万トン分に相当する爆風を放った。この爆発により約520平方キロ以上にわたって窓ガラスが割れ、その破片により1600人以上が負傷した。
カティンの森事件とは
1918年 ドイツは 第1次大戦で 戦勝国の英国陣営(英国+フランス+帝政ロシア)から敗戦 そのため 翌年1919年 パリ講和会議で膨大な「戦争賠償金」を課せられ ドイツ経済・財政 破綻
そのため ヒトラーがドイツ再建のためドイツ労働党(ナチス党)を結成
ドイツを破綻させた 英国陣営(英国+フランス+帝政ロシア)に「復讐」
しかし 帝政ロシアは第1次大戦中の 1917年 レーニンの「ロシア革命」で 共産主義の「ソ連」になっていた
ここで ドイツ軍(ナチス)が 英国*フランスに侵攻すれば、ソ連軍が 後方から追撃され、ドイツ軍は「挟み撃ち」されてしまうため
ヒトラーは ドイツとソ連で「ポーランドを分割統治」する条件で 1939年 ドイツとソ連は 互いに戦争しない「独ソ不可侵条約」を締結
こうして1939年、独ソ不可侵条約に基づき ドイツ軍が ポーランド侵攻を皮切りに「第2次大戦」に突入
ドイツ軍(ナチス)が ポーランド人を手当たり次第 虐殺 さらに100万人のポーランド人を「捕虜」にして 捕虜にしたポーランド人の一部をドイツ再建のためドイツに強制送還、重労働を課し
一部のポーランド人捕虜は ユダヤ人のアウシュビッツ収容所の建設に使う
そして、ドイツ軍に引き続き、ソ連軍がポーランド侵攻
ソ連軍は、ポーランド人将校 約2万人余りを捕虜にして 捕虜収容所にぶち込む
そしてソ連は 捕虜収容所のポーランド人将校たちに・・お前たちを「解放する」と嘘で騙し
ソ連のカティンの森で 虐殺する
このポーランド人将校の虐殺は「ドイツ軍の仕業」として ドイツに「濡れ衣」を着せる
しかし 戦後 ソ連のゴルバチョフ書記長が、ペレストロイカ(改革)と グラスノスチ(情報公開)で
カティンの森でポーランド人将校を 虐殺したのは「ソ連だと告白」する
以上が カティンの森事件
このカティンの森事件で ポーランド人の女性飛行士が 犠牲になったと言う
このカティンの森事件を映画化したのが ポーランド人映画監督アンジェ・ワイダで、血の匂いがする映画
カティンの森事件
ある識者が カティンの森事件で 一人のポーランド人女性飛行士が犠牲になった話を解説
しかし日本人識者は 何時も間抜けで 肝心の核心「カティンの森」事件とは何か 説明してない
見出し・・埋められた2万人の将校らの遺体、ただ一人の女性飛行士はなぜ空を目指し、虐殺されたのか ノンフィクション作家・小林文乃さんが迫る「カティンの森事件」の謎
ロシア・スモレンスク郊外のカティンの森にあるポーランド人捕虜集団墓地の入り口
第2次世界大戦中、旧ソ連がポーランドの将校ら2万数千人を虐殺し、現在のロシア西部の森に埋めた「カティンの森事件」。「独ソ戦最大の謎」ともいわれ、巨匠アンジェイ・ワイダ監督も映画「カティンの森」で題材としたが、日本人で知る人はそう多くないだろう。
ヤニナ・レヴァンドフスカ=1936年撮影(小林文乃さん提供)
ノンフィクション作家の小林文乃さん(45)は、この事件にこだわった。犠牲者の中におそらくたった一人、女性がいたこと、彼女が優秀な飛行士であったことを知って、衝撃を受けたからだ。
名前をヤニナ・レヴァンドフスカという。小林さんは彼女の足跡を追ってポーランドへ、そしてロシアを訪ねる。ヤニナはその姿をなかなか見せてくれなかった。苦労の末、書籍「カティンの森のヤニナ」を書き上げ、2023年に出版した。ヤニナはなぜ空を目指し、殺されたのか。小林さんに聞いた。(共同通信編集委員=田村文)
■ポーランドの悲劇を象徴する姉妹
―本書「カティンの森のヤニナ」によれば、ヤニナは1908年、現在のウクライナ東部・ハリキウ生まれ。活発な女性で、郵便局で働きながら飛行クラブに入り、ヨーロッパ人女性として初めて高度5千メートルからのパラシュート降下に成功したとも言われています。ポーランド空軍のパイロットとして1939年9月に出征。1940年に殺害され、1943年にカティンの森で遺体が発見されました。ヤニナがパイロットだったことは、小林さんにとって大きかったのですね。
「そうです。もともと飛行機好きということもありますし、スベトラーナ・アレクシエービッチの作品『戦争は女の顔をしていない』の影響で、旧ソ連・赤軍の女性飛行士について調べていた時期もあります。日本では第2次大戦中に女性兵士はいなかったけれど、ヤニナはあの時代にパイロットになり、戦場に赴き、殺された。この希有な女性の存在を知り、頭から離れなくなりました。足跡をたどるうちに、飛行機の黎明期のありようや、ポーランドの航空史にも深入りしていきました」
「家族の運命も数奇なものでした。特に妹アグネシュカは、レジスタンス組織のメンバーとなり、ワルシャワ郊外の森でナチスに処刑されたことが分かり、驚きました。独ソに分割占領されたポーランドの悲劇を象徴するような姉妹でした」
■最期ぐらいは取り乱したのだと思いたい
―主人公に据えたヤニナの足跡や人物像というのは、なかなか明らかにならなかったようですね。本書はヤニナの評伝ではなく、帯では「歴史紀行ノンフィクション」と紹介されています。
鄧小平の「改革開放政策」で中国は飛躍的に発展
1939年 中華民国の国民党政権・蔣介石と、共産党の毛沢東の「政権闘争」で毛沢東、勝利
ここから中国は、毛沢東の共産主義国(共産主義政府)になる しかし 党員の鄧小平と毛沢東は 対立関係 毛沢東の「文化大革命」では中国経済は「疲弊」日本より貧しい国
毛沢東は独裁的で 対立していた鄧小平を迫害
排斥された鄧小平は、洞窟で生活 そして毛沢東、死亡
鄧小平が国家主席となり「改革開放政策」で資本主義に追い付け、追いこせで 毛沢東の共産主義に資本主義導入
中国は共産主義で 個人の財産所有は、原則認められず 全て「国有財産」
鄧小平はこの国有財産を 有能な党員に「分割供与」 こうして中国の大企業は 政府の息が掛かる半官半民の大企業が誕生
中国の世界的な大手通信技術のファーウエイの創始者も 共産党員の有能な通信技師が 創始者
ファーウエイは中国の半官半民の企業なので 外国ファンドから 株式買収により 乗っ取られないよう、株式を市場公開していない
こうして中国企業は 資本主義の米国・日本に 科学技術で 追い付き 追い抜こうとしている
改革開放政策
文化大革命の終了の中国で、鄧小平の主導のもと、1978年に始まった本格的な経済近代化政策。経済特区の設置、市場経済の導入などにより、2000年代初頭まで中国経済の急激な成長をもたらした。
中華人民共和国で文化大革命の末期の時期の1975年1月に周恩来は四つの現代化(近代化)を提唱したが、それは江青ら四人組の抵抗に遭い、激しい政争となって、実現できなかった。周恩来はすでに病身であったので、実際には鄧小平にその仕事は託されていたが、翌1976年に周恩来の死去を契機に天安門事件(第1次)が起きると、毛沢東は鄧小平に暴動の責任を取らせて解任した。
鄧小平政権の成立
1976年10月、さらに毛沢東が死去すると、四人組の権力独占に対する不満が表面化し、四人組は逮捕されて毛沢東の後継者となった華国鋒によって文化大革命の終了が宣言され、1977年に再び「四つの近代化(現代化)」が掲げられるとともに、三度復権して鄧小平政権が成立した。
中国共産党第11期三中全会 鄧小平の主導することとなった中国共産党は、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議で「近代化された社会主義」を目指す新憲法を採択した。ここで初めて、中国経済の全面的な発展を目指す改革開放路線が打ち出された。さらに、1978年12月18日、中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした鄧小平は「改革開放政策」を実行に移し、建国以来の毛沢東以降の方向を転換させることをはかった。これは、新たな鄧小平時代の始まりであり、現代中国の「歴史的な転換」となった。
経済特区の建設 1978年末に鄧小平政権によって打ち出された「改革開放政策」とは四つの現代化の基礎となる経済体制を、全面的に改めることであり、それは対外貿易拡大、外資利用、先進技術・管理経験の吸収、合弁などを推進し、その対外開放の戦略的な地域として経済特区を設置することを柱とした方針であった。その方針に基づき、1980年5月から、深圳(シンセン)・珠海・汕頭(スワトウ)・厦門(アモイ)の四つの地区が経済特区(特区)として整備され、内外の企業を誘致するためにインフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が進められた。それに応じて外国資本が積極的に算入し、経済特区は急速に発展した。 あわせて国内の資本主義的生産の導入が進められ、1980年には中国の社会主義経済の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。人民公社に代わって地方行政の単位となった郷・鎮では、1984年に、民間企業として郷鎮企業
一般的に改革開放は1978年の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で提起されたことによって始まった、とされている。中国共産党の「正史」もそう定めており、それが通説になっている。しかしそれは後から形成されたストーリーであり、事実とは異なるという。共産党の機関紙『人民日報』に「改革開放」ということばが初めて現れるのは1984年5月のことで、その年はわずか2回しか掲載されていない。『鄧小平文選』に登場するのは86年3月の談話でのことで、87年に人民日報での登場回数が一気に501回に跳ね上がる。また78年以前にも対外貿易やプラント導入は始まっている。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.3> つまり1978年に突然、改革開放に転換したのではなく、87年ごろに本格的になった、ということであろう。また同書は、改革開放は鄧小平の権威と権力を表す政治的なシンボルにほかならないとし、そこから1987年に始まったというストーリーが作られたのであり、そのような理念を表す歴史的名辞としては「改革開放」と表記し、実際の具体的な政策について述べるときは「改革・開放」(あるいは改革開放政策)とを分けて表記すべきと提唱している
蓮舫
蓮舫(れんほう、1967年〈昭和42年〉11月28日 - )は、日本の政治家、タレント、レポーター、報道キャスター。立憲民主党所属の参議院議員(5期)。本名は齊藤 蓮舫(さいとう れんほう)[7]。村田信之と婚姻中の本名は村田 蓮舫(むらた れんほう)
菅直人内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新、消費者及び食品安全)、内閣総理大臣補佐官を、野田内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画)、公務員制度改革担当大臣を務めたほか、民主党幹事長代行、参議院東日本大震災復興特別委員長、民主党代表代行、民進党代表代行、民進党代表(第2代)、立憲民主党代表代行、参議院国土交通委員長を歴任した。
来歴、生い立ち
日本と台湾の企業との間で台湾バナナ貿易業を営んでいた客家系台湾人の政商である父・謝哲信(陳杏村の次男)と[10]、「ミス・シセイドウ」であった日本人の母・齊藤桂子の長女として東京都目黒区で生まれた[2]。
出生時は中華民国籍となり、1984年の国籍法改正で父母両系血統主義になったのに伴い、1985年に17歳で中華民国籍を保持したまま日本国籍を取得したが、二重国籍批判が起きたことを機に申請した「国籍喪失許可証書」が、2016年9月13日付けで台湾側より発行され、2016年10月7日付けで日本国籍の選択を宣言した[11][注 3]が、これにより、後に二重国籍問題が浮上することになる(詳細は#二重国籍問題で後述)。青山学院幼稚園、青山学院初等部、青山学院中等部・高等部、青山学院大学法学部公法学科を卒業。
科学技術で 日本を凌駕した 中国
この見本が 熊本に進出した 台湾の半導体メーカー TSMC
台湾人とは「中国人の漢族」の事
中国が「漢族の明王朝」の時代、台湾を領土化する そのため 中国の漢族が 台湾に移住
だから台湾の「中華民国政府」は「中国人の漢族」が築いた政府で「台湾企業は中国の漢族」
熊本に進出した 台湾の半導体メーカー TSMc、は 中国人(漢族)
立憲民主党の蓮舫も 台湾の中国人の血筋を引いた政治家
なぜ 米国や中国が 日本のiPS細胞を 追い抜いたのか
理由は 太平洋戦争で1945年、日本は米国から敗戦
そのため戦勝国の米国が 敗戦国の日本を「統治支配」する
米国が日本を統治する為「日本をアメリカナイズ」するため 米国式の教育制度である 6.3,3,4年生の教育制度を日本に導入
「日本人の学生たち」を「アメリカナイズ」する
つまり 戦後から日本は 米国式の教育制度・・小学校6年 中学校3年 高等学校3年、大学4年制の教育制度になる
しかし 米国と日本は 同じ教育制度になるが「日本の教育方針は生徒たちに「暗記させる教育」つまり「暗記の詰め込み教育」
米国の教育方針は 生徒たち自身が「自分の頭で考え創造する教育」
同じ教育制度でも 日本は「暗記教育」 米国は「創造力開発教育」
だから 当然「iPS細胞研究の論文数」でも 米国が 世界一 最多
さらに中国は 鄧小平が、毛沢東の共産主義に「資本主義を導入」したので 資本主義の米国、日本に追いつけ 追い越せで「iPS細胞研究論文数」も 日本を追い抜いてしまった
いかに日本人が ふ~たんぬるい民族か分かる
こうして かって「科学技術立国」と言われた日本は 科学力でも 衰退に向かっている
iPS細胞で 米国と中国に 遅れを取った日本
見出し・・iPS論文の本数、日本は3位・米国や中国との差は拡大…読売新聞分析・「高い質」割合は15か国中最下位
様々な臓器や組織に変化できるiPS細胞に関する国別論文数は、2024年までの10年間で、日本が米国、中国に次ぐ第3位であることが、読売新聞が入手したデータでわかった。日本では今秋にもiPS細胞から作ったパーキンソン病治療用製品が初めて実用化する見通しで、世界の研究を先導してきたが、近年の論文数で見ると米中との差が広がり、日本の研究力が伸び悩んでいることが明らかになった。
特定分野で見た国別論文数は、各国の研究力を測る指標になる。読売新聞は、専門家による審査を経た1億本以上の論文データベースを運用する学術出版大手「エルゼビア」(本社・オランダ)から、論文数で上位15か国のデータの提供を受け、専門家への取材を踏まえて分析した。
iPS細胞の研究が世界で本格化した15年以降の10年間で見ると、世界の関連論文数は計3万2606本に上った。国別で最多は米国の1万2203本で、中国は5162本、日本は3876本だった。以下ドイツ、英国と続いた。
15年と24年に発表された論文数を比較すると、日本が15年の約1・5倍に増えた一方、米国は約2倍、中国は約3倍で、日本を上回るペースで研究力が向上したことが示唆された。24年1年間の論文数では日本はドイツに抜かれ、英国との差も縮まっている。
研究の質の高さで世界トップクラスと評価された論文の数で見ると、日本は56本だった。米国の8分の1、中国の半分以下で、英独に続く5位だ。日本の全論文の中でトップクラスの論文が占める割合は1・5%で、15か国中最下位だった。
iPS細胞は山中伸弥・京都大教授が06年にマウスの細胞から初めて作製に成功し、12年にノーベル生理学・医学賞を受賞。政府は、iPS細胞を使った再生医療の産業化を目指し、13年度から10年間で計約1100億円を投じて重点支援した。今年3月にはiPS細胞から作った二つの再生医療製品の製造販売が、世界で初めて条件・期限付きで承認された。
めちゃくちゃ面白い、羅貫中の「三国志演義」
日本の作家で これほど面白く興味深い 小説を描いた作家は 誰一人いない
羅貫中は、作家の天才
羅 貫中(らかんちゅう)
生誕 約1330年 または1280年頃?
東原(諸説あり) 死没 約1400年 または1360年頃? 職業 作家
羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、約1330年 - 1400年頃?または約1280年 - 1360年頃?[1])、諱は本[注釈 1]、号は湖海散人、中国の元末明初の作家[2]。
通俗白話小説の作家として知られており、中国四大奇書のうちの二作品『三国志演義』『水滸伝』の編作者とされる。
しかし事績はあまり明らかではなく、出身地や著作を巡って歴史学界で長年論争になっている。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。なお字は「貫中」であり、「漢中」は誤りである。
めちゃくちゃ面白い「三国志」
三国志とは 中国は 漢王朝が 西暦200年の頃 滅亡
次に 魏 呉 蜀の3国時代になり 魏の「曹操」と 呉の「孫権」と 蜀の「劉備」が「政権闘争」した 3国時代
しかし 魏の曹操 呉の孫権 蜀の劉備、は 誰も天下を取れず 晉が天下を取り
この晉の歴史家だった「陳寿」が 3国時代の政権闘争を 書き残した歴史書が「三国志」
また「魏志倭人伝」も 晉の「陳寿」が編纂
この陳寿の歴史書「三国志」を 明の時代「羅貫中」が、フイクションを交え、小説化したのが「三国志演義」
この三国志演義を 漫画で描いたのが横山光輝の「三国志」全21巻
めちゃくちゃ面白い三国志
ただこの三国志は 政権闘争の戦いで 女性向きではなく 男性向きの作品
面白いので 中国では 何度も ドラマ化されている
日本の性カルト教団の成り立ち
日本は、弥生時代の大昔から 子孫を作る女性が 大切にされ子孫を作り「一族郎党」を増やすため つまり その「一族を増やし」他の部族に対抗する為
子供を作る女性を大切に扱い 母屋に住まわせ 男どもは 女性が住む母屋を取り巻き居住していた
これが その「一族たちが集団」で住み着いた「村落」
そのため「他の村落の村民」は「一族郎党ではない」ので、無縁者として 迫害していた これが「村八分」
そのため 村では若い男ともが 女を求め 女の寝床に忍び寄る「夜這い」を行っていた
その為 女を夜這いで奪われた男は 女を奪った男と、コロし合いの喧嘩
そのため 村の長老(村長)が 女性の処女を奪い、若い男どもに 与えていた
こうして 村の長老が一族郎党の子孫を増やし 一族郎党の村を作っていたので 若い村民たちが 氏子となり 長老を「氏神」として祭っていた
今でも 氏神を祭る神社が残されている
そうして近代になり 若い男女は肉欲で、すぐ結びつくが「中年以降」の年代になると
若い頃とは違い「性欲の相手がいなく」なり 男女とも「性的要求不満」
そのため性的要求不満の男女たちが 性的要求を満たすため 性カルト教団が誕生
これが男女の「乱交パーテー」で 今でも秘密裏に乱交パーテーが行われている
人間は 口では上品な綺麗ごとを言うが 本質は、欲望にはエゲツない動物
米国の性カルト集団
これは男だけの問題ではなく「女性の性的要求不満」があり、性的に狂信的なカルト集団が出来上がった
日本でも 吾輩が生まれる前の昭和初期に 性カルト教団があった
見出し・・《女性を“体の関係”で支配》「股関節に焼印を入れた」元メンバーが明かした“性カルト”自己啓発セミナー「NXIVM(ネクセウム)」の実態…女優や政治関係者も参加
性的カルト集団「NXIVM」への参加を告発されている女優のアリソン・マック、カルト創設者の娘であるナンシー・サルツマ
1998年にアメリカで設立され、累計1万6000人の会員数を誇った大規模な自己啓発セミナー「NXIVM(ネクセウム)」。その"裏の顔"は、女性を"奴隷化"し、性行為の強要や人身売買を行う「セックスカルト」(NEW YORK POSTより)だった──。
【写真を見る】団体の中核メンバーだった女優・アリソン・マック(43)、団体創設者の娘、記者の質問に答えた団体創設者の元恋人
事件が報じられたのは2017年。その後の裁判で、悲惨な実態が次々明らかとなり、同団体の創設者キース・ラニエ受刑者(65)を含む複数の中核メンバーに有罪が言い渡されたが、今もなお被害女性らは深い心の傷を負っている。
今年4月12日(現地時間、以下同)、元「NXIVM」メンバーで告発者のサラ・エドモンドソン(48)とその夫、アンソニー・ニッピー・エイムズが、YouTube&ポッドキャスト番組「カルト・サバイバー」に出演。同団体の実態を明かし、自分たちの告発が次世代の人々を守ることに繋がると訴えた。
「『NXIVM』は、キース受刑者とナンシー・サルツマン(71)によって設立された自己啓発系の団体でした。『ESP』という有料セミナーで会員を集め、なかには芸能関係者や実業家、政治関係者らも参加していたということです。主に、女性の自己実現やエンパワーメントを掲げていたことから、多くの女性会員を抱えていました。
元メンバーや関係者の証言によると、キース受刑者にはカリスマ性があり、"ラポール(『相互信頼が成り立った状態』を指す心理学用語)"の構築に圧倒的なまでに長けていたようだ。キース受刑者と深い関係になりたいと願う崇拝者は多く、その心理を巧みに利用し、団体内に『DOS』という名称の"セックスカルト"を組織したそうです」(大手紙国際部記者)
中核メンバーにはDC女優も 「DOS」とは、ラテン語で「主人に従う女性たちの会」を意味する。メンバーはキース受刑者以外の全員が女性であり、選抜制で女性受講者を引き入れ、"性奴隷"ともいえる関係を結んでいた。「DOS」に所属していた女性の数は「100人前後」にのぼったという。
団体の中核メンバーには、DCコミック原作のドラマ『ヤング・スーパーマン』などで知られる女優アリソン・マック(43)や、共同創設者ナンシーの娘、ローレン・サルツマン(48)などが含まれていた。彼女らは「DOS」設立前の一時期、キース受刑者と肉体関係を結んでおり、「DOS」の運営にも深く関わっていたとされる。後にアリソンは懲役3年の有罪判決、ローレンは保護観察5年の処分を言い渡されている。
「告発者・サラの証言によると、『DOS』の目的はキース受刑者による女性たちの"支配"でした。参加者の女性たちには500キロカロリーの食事制限が課され、股関節付近には"儀式"と称して彼のイニシャルを表す焼印が押された。その上で性的暴行を行なっていたようだ」(同前)
米テレビ局「HBO」で放送されたドキュメンタリー番組『The VOW』では、その卑劣な手口が明らかになっている。
その後、『最初のミッションは私(キース)を誘惑すること』などと言い、裸の写真を送るよう指示。その際、自らの弱さに向き合うことが成功への道だ、などと言葉巧みに誘導していたようです。もし断ろうとした場合は『"担保"の手紙を両親に送る』との脅迫もあった。そして次なるミッションとして『対面』を持ちかけ、部屋に呼び出した女性に性的暴行を加えたということです」(同前)
同番組内において、共同創始者のナンシーは、「単なる性犯罪というより"権力による虐待"だった。彼の手法は、体の関係を用いて女性たちを支配することだった」と発言。また、裁判で被害女性らは「拒否できるような空気ではなかった」「キースとのセックスは"使命"だと感じていた」などと証言していた。
2020年、キース受刑者には、女性の性的人身売買や児童性的搾取などの罪で、懲役120年の判決が下された。「女性の自己実現」を掲げながら、その裏で女性たちの尊厳を踏みにじっていたキース受刑者は、獄中でいま何を思っているのか──。
お市の運命
織田信長のが父親は「織田信秀」といい 大名で 大名を殿様といい
殿様(大名)は、正室と無数の側室を抱えていた そのため 大名の織田信秀は 正室との間にできた息子が「織田信長」で
側室との間にできた娘が「市」
だから 織田信長と市は、父親(織田信秀)が「同じ」で 母親が違う「異母の兄と妹」
親が兄弟の「いとこ」ではなく 父親が同じで 母親が違う兄と妹
歴史家のくせに、それも分からんとは、な~~~さけねぇ!
大名とは殿様の事で 1人の正室(正妻)と 無数の側室(愛人)を抱えていた
正室は 普通 大名A と 大名B が 敵対関係にならず 味方同士になるため 現代風にいえば「不可侵条約」で 大名Aの息子 と 大名Bの娘を 結婚させると 大名Aと大名Bは「姻戚関係」になるので
いわば 大名Aは 大名Bの娘を「人質にしていて」 大名Bは 自分の娘を 大名Aから「人質に取られている」ので
大名B が 大名Aを「攻める」と 大名Aは 大名Bに・・お前の娘をコロすぞ!
逆に 大名A が 大名Bを「攻める」と 大名Bは 大名Aに・・お前の息子をコロすぞ!
こんな具合になるので 大名A と 大名Bは 互いに戦争できず不可侵条約で 仲間関係
つまり「政略結婚」
だから大名の「正室(正妻)」は「政略結婚」で 正室は だいたい「ブス」
しかし 側室は愛人なので 美人の側室 だから大名の織田信秀と側室の間にできた娘「市」は「美人」
市は大変な美人だったので 織田信長に仕えた まだ若き「木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は 市に 一目惚れしてしまう
しかし 市は 主君・織田信長の妹 自分は百姓の小倅 身分が「違い片思い」
ところが 室町幕府の 足利義昭・征夷大将軍(上様)は 三河の大名で家臣の織田信長から 操り人形にされていた為 織田信長を「不忠義な輩」として 諸藩の大名に
織田信長を「討ち取る」よう命じる
そのため 幕府の上様(足利義昭)征夷大将軍に「忠誠」を誓っていた越前の大名・朝倉義景が織田信長を 討ち取ろうとする
そのため織田信長は、近江の大名・浅井長政を「味方にする」ため、妹の「市」を浅井長政に嫁がせる
当然 織田信長と浅井長政は「姻戚関係」で仲間になる・・「政略結婚」
市は 別段「好きでもない男」と結婚させられたのである
しかし浅井長政は市が 美人なので溺愛 茶々 初 江 の3人の娘が誕生
しかし浅井長政は大名で 征夷大将軍・足利義昭の上様の家臣
この上様の足利義昭征夷大将軍が 織田信長を「不忠義者」として討ち取るよう命じているので 浅井長政は 上様に忠誠
織田信長を討ち取るため 織田信長との「姻戚関係」を「破棄」
浅井長政は、織田信長の妹「市」に離婚話を持ち掛け こうして市と浅井長政は「離婚」
織田信長は 浅井長政から 姻戚関係を破棄され 浅井長政が「敵」になったので織田信長は 裏切り者の浅井長政を殺害
そのため 市は 自分の兄から自分の亭主が コロされ「悲劇の主人公」になってしまう
その結果 お市は 浅井長政との間にできた 茶々 初 江の3人の娘を抱えた未亡人になる
そのため 織田信長の家臣だった「柴田勝家」が お市に同情
柴田勝家が 市と3人の娘を引き取り、柴田勝家と市は「夫婦」になる
そのため 市は 浅井長政との間にできた3人の娘まで 柴田勝家が「大事」にしたため 市は「柴田勝家に深い愛情」が芽生えてしまう
ところが 主君の織田信長は「本能寺の変」で死去
そのため柴田勝家と 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が「政権闘争」
そのため羽柴秀吉が柴田勝家の居城を「攻める」
そのため柴田勝家の居城が炎上 進退窮まった柴田勝家は 市と3人の娘は 犠牲にせず逃がす
しかし 市は 柴田勝家に深い愛情を抱いていたので 柴田勝家に・・あの世まで 添い遂げると告げ、柴田勝家と 市が 城を枕に「心中」してしまう
市は 柴田勝家と心中 生涯を終える
そして 市の3人の娘は 羽柴秀吉が 保護
そして羽柴秀吉が豊臣秀吉の天下人になり 保護していた 市の娘で 茶々を 自分の愛人(側室)にしたのが「淀君」
豊臣秀吉は 若い木下藤吉良の頃から 惚れ抜いた市は 浅井長政に嫁ぎ 柴田勝家と再婚し「自分の女にできなかった」ので
市の娘 茶々を愛人にしたのが 側室の淀君
だから 秀吉の性格は こう言われている
「鳴かなければ 鳴かせてみようホトトギス」
お市の方
見出し・・お市の方は「織田信長の実の妹」ではなかった?史料が示す意外な可能性とは?
戦国時代屈指の美女として知られるお市の方。織田信長の実の妹として、浅井長政や柴田勝家の妻となり、悲劇的な最期を遂げた女性として広く知られている。
しかし近年、史料を読み解いていくと、意外な可能性が浮かび上がってくる。お市の方は、信長の実の妹ではなかったかもしれない――。この説は本当に成り立つのだろうか。お市の方の生涯と史料を手がかりに、その真相を探ってみたい。
信長より13歳年下の妹として生まれたお市の方 お市の方が織田信秀の娘として誕生したのは、天文16年(1547)のことである。母は土田御前といわれている。信長が誕生したのは天文3年(1534)なので、13歳年下の妹ということになろう。まずは、一般に知られているお市の方の経歴を整理しておきたい。
お市の方は、近江小谷城(滋賀県長浜市)主の浅井長政と結ばれた。これは政略結婚である。2人が結婚した時期については諸説ある。将来的に上洛を視野に入れていた信長にとって、浅井氏と同盟を結ぶことは大きなメリットがあった。しかし、のちに長政は越前の朝倉義景と結び、信長に反旗を翻すことになる。
天正元年(1573)8月、織田勢に攻められた小谷城は落城した。お市の方は3人の娘(茶々、江、初)とともに城を脱出する。その後、お市の方は柴田勝家と再婚したが、天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉に居城の北庄城(福井市)を攻撃され、夫とともに自害したのである。
系図に見える「女子」の記載――妹である証拠か お市の方を描いた肖像画は、高野山持明院に残っており、戦国屈指の美女として評価されてきた。しかも、その最期は夫と運命をともにしたことから、悲劇のヒロインとして語られることが多い。このように、お市の方は「信長の妹」という立場とともに、歴史の中で特別な存在として記憶されてきたのである。
ところが、ここに一つの異説が存在する。お市の方は、信長の実の妹ではなかったという説である。『寛政重修諸家譜』には、「女子」としか書かれていないが、長政、勝家の妻となったという注記がある。この記述が、お市の方を示していることは確実である。
また、ほかの織田氏の系図を見ても、同様の記述が確認できる。これらの史料は、お市の方が信長の妹であったことを示す有力な根拠と考えられてきた。
「実は従妹だった」?『以貴小伝』が示すもう一つの可能性 ところが、『以貴小伝』という史料には、注目すべき記述が見られる。そこでは、お市の方が信長の従妹であり、信秀の養女(信長の養妹)として長政のもとに嫁いだと記されているのである。
もしこの記述が事実であるならば、お市の方は信長の実の妹ではなかったことになる。この説は、はたして事実として認めてよいのだろうか。『以貴小伝』は18世紀末から19世紀初頭にかけて成立したとされ、徳川家康から家治までの歴代将軍の生母や側室を記録した史料である。
史料としての質は良いとされるものの、時代が遡る場合には信憑性に疑問が残ることもある。そのため、お市の方が信長の実の妹ではなかったという説については、現段階では慎重な検討が必要といえるだろう。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
芥川賞作家が日本人の頭の悪さを指摘している
日本族は 世界一のボンクラ民族 センスの低さも世界一 日本映画は世界一 ダサい映画ばかりで ただでもいらん
高市は どこにでもいるただの女で、ただより安いものはなく ただ女を大儲けしたように祭り上げる子供国家、こんな幼稚園大国めったにない 日本人は幼稚で 子供は子供が友達
見出し・・《高市首相を「嘘の経歴でテレビにまで出れる人」と批判》芥川賞作家「所詮は絵空事」世間の総理大臣への期待に“冷や水”投稿
《社会の停滞感の裏返しであり、カタルシスがあるのだろうが、所詮は絵空事である》
5月29日に、芥川賞受賞作家の平野啓一郎氏(50)がXを更新。世間が持つ“総理大臣への期待”に対して一石を投じた投稿が物議を醸している。投稿の全文は以下の通り。
「詐欺師が総理になっている。」高市首相を痛烈批判した芥川賞作家
《具体名は挙げないが、日本のドラマでは、主人公が型破りで、既存の常識やルールは全部ぶち壊して、しかし、実行力があり、結果、問題がすべて解決する、という類いのストーリーが繰り返し再生産されている。主人公が元ヤンとかで、今でも実力部隊の後ろ盾があったり。社会の停滞感の裏返しであり、カタルシスがあるのだろうが、所詮は絵空事である。残念ながら、そういう感覚で、総理大臣への期待を抱いている有権者が少なからずいる》
さらに平野氏は同日の別の投稿で、《何かやってくれそう、ではなく、具体的に政治家としてこういう実績があり、こういうヴィジョンがある、という理由で、総理大臣が選ばれる国にならないといけない》と持論を展開。
平野氏の主張に対して、Xでは
《何も考えられない頭の悪い人たちは『何かやってくれそう』程度の根拠でしか総理大臣を選べないんだよ》 《何かやってくれそうな人は結果ろくでもないことしかしない可能性が高い》
といった賛同の声が。一方で、
《実績とヴィジョン……これ言っちゃうと、自民党以外のどの党もどの政治家も否定されちゃうと思うんだけど》 《じゃあ誰を選べば良かったの?日本人のはずなのに日本を貶めようとする野党?》
などと否定的な声も多く寄せられた。
これまでも高市早苗首相(65)に批判的な見解を示してきた平野氏。5月11日には、とあるXユーザーの《政治家になる前から「元米連邦議会立法調査官」だなんて存在しない官職を名乗る人でしたしね》との投稿を引用し、《嘘の経歴で、しゃあしゃあとテレビにまで出れる人というのは、世間一般の人間とは全く異なる精神構造だと思う》と綴っている。
続けて《バレたらどうしようとか、良心の呵責とか、スゴイですねと感心されて恥ずかしいとか、そういうのが全部平気なのだから》と私見を述べ、《詐欺師が総理になっている》と痛烈に批判。引用された投稿には、高市氏が過去に「元米連邦立法調査官」との肩書でテレビ出演していた際の画像も添えられていた。
「平野氏の高市批判は徹底してブレません。1月21日には衆議院議員解散表明を受け、Xにて《有権者がこの『働かないで働かないで働かないで働かないで働きません』解散に対して、良識を示すべきだろう》と投稿。さらに《予算も通さず成果も上げていないのに、何を以って信任しろと言っているのか》と厳しく批判しました。平野氏の考えを支持する人が多い一方で、強い口調で展開される批判的な投稿に拒否感を示している人も少なくありません」(
糖尿病とは
糖尿病は「難病」で 現在の医療では「治療法が無い」
「悪化を防ぐ」のが「唯一の治療」
糖尿病が 悪化すると 目の網膜が「糖尿病性網膜症」になり「目が見えなくなったり」
足が壊疽を起こし「足を切断」したり 腎臓が機能しなくなり「人工透析」せねばならなくなる「難病」
まず「人体の仕組み」を説明
人間には「膵臓」という臓器があり この膵臓には「ランゲルハンス」という部位があり この膵臓のランゲルハンスから「インシュリン」というホルモンが分泌されている
このインシュリンは「人間が体を動かし」たり「脳が機能する為」には「エネルギー源」とする「糖分」が必要で
この「糖分」を「エネルギーに変換」するのが「インシュリン」
ところが不運にも 生まれながら 膵臓のランゲルハンスから「インシュリンが分泌されない人」が「1型糖尿病」と言われ
外部から注射器で「インシュリンを体内に注射」せねばならない糖尿病が「1型糖尿病」で
インシュリンを注射せねば 血液の糖分が増加してしまい 血糖値が上昇し 血液が糖分で ドロドロの粘液性の血液になる
脳や 腎臓には「毛細血管」が集中していて 毛細血管は、髪の毛よりも細く「赤血球が1列縦隊」でしか「通過できない細い血管」で
血液の糖分が増加(血糖値が上昇)すれば「糖分でドロドロした血液」は 毛細血管を「通過できなくなり」
「脳神経細胞」に 酸素 糖分を「供給できなくなる」ので 脳が「機能しなく」なり 「意識不明」に陥り「死亡してしまう」
生まれながらインシュリンが分泌されない「1型糖尿病」に対し、日頃「暴飲暴食」で 糖分を「過剰に摂取」していると インシュリンを分泌する「膵臓のランゲルハンス」が「疲弊」してしまい
過剰に摂取した糖分を、エネルギーに変換できず 血液に 過剰な糖分が混じり
血液がドロドロした粘液性の血液になり 上述したように 脳に酸素・糖分が「供給されなくなり」
そのため、脳が機能しなくなり 意識不明に陥り、死亡してしまう これが「2型糖尿病」
ここで 生まれながらの「1型糖尿病」は「外部から注射器でインシュリンを体内に注入する」が
「2型糖尿病」は「血糖降下剤」を服用する
この「2型糖尿病」の 血糖降下剤の 1種が「マンジャロ」で 空腹感を無くし
過剰に糖分を摂取しない薬剤
だから 「肥満体」の人が 過剰に暴飲暴食して「肥満体」にならないよう「ダイエット」として、マンジャロが使われているので 警告
注意・・「いかなる薬剤」にも「副作用」があるので 要注意
糖尿病の治療薬「マンジャロ」を、通信販売している業者
病院が「使用する薬剤」は 医師の「処方箋がない」と「患者に使えない」
医師でない者が「処方箋なしに使う」と「薬事法」違反になる
見出し・・「直ちに販売を中止して下さい」東京都庁薬務課、「マンジャロ」めぐりXで警告 歓迎の声相次ぐ
東京都庁が異例の取り組み
X上での医薬品の不正販売の監視を行っている公式Xアカウント「東京都庁薬務課」による2型糖尿病治療薬「マンジャロ」の無許可販売をめぐる注意喚起が、SNS上で注目を集めている。 マンジャロの違法販売を見逃さない都庁。リプをつけて警告だ
■2型糖尿病の治療薬「マンジャロ」めぐりダイエット目的での使用が横行
昨今、2型糖尿病の治療薬としてのみ承認されている薬「マンジャロ」を、ダイエットなどの美容目的で使用する行為が問題視されている。美容クリニックなどで販売されているものだが、SNS上では個人間取引も確認される。
医薬品は適切に使用した場合でも副作用が生じる可能性がある。特に、適応外使用による健康被害はすべてが自己責任となるため、安易な使用は思わぬトラブルにつながるリスクの高い行為だ。
また、個人が医薬品等を販売する行為は、法律に抵触する可能性がある。東京都保健医療局は「フリマ・オークションサイト(アプリ)で許可なく医薬品等を販売することはできません」と題したページで、注意喚起を行っている。
同局によると、「許可無く医薬品をフリマサイト等で販売すること」「許可や届出無く医療機器(一般医療機器除く)をフリマサイト等で販売すること」「国内で医薬品に指定されている成分を含む海外製のサプリメントを出品すること」などは、「たとえ1回のみの販売であっても医薬品医療機器等法に違反する恐れ」があるという。
「医者でなければ医薬品に関わってはいけないのですか?」 SNSでは、インフルエンサーとしても活動する人気キャバクラ嬢「ゆいぴす」さんの発言も波紋を広げていた。
以前からマンジャロを使用していることを公言しているゆいぴすさんは、実業家の溝口勇児さんが出資したマンジャロのオンライン処方サービス「diet beauty」のアンバサダーに就任し、発信活動を行っている。
2026年5月25日のX投稿では、自身への批判について「リスクは個人的に使ってるので分かりますし、経験してます。あとは、私はそもそも医者でもないですよ。医者でなければ医薬品に関わってはいけないのですか?」と反論。
「日本人ってなぜここまでマンジャロに批判的なのでしょう? 世界中での売り上げはご存じですか?」と主張していた。
マンジャロ売るユーザーに返信して警告 こうした中、薬務課はSNSでマンジャロを販売するXユーザーらに対し、「東京都保健医療局健康安全部薬務課です。医薬品であるマンジャロを許可等なく販売等することは医薬品医療機器等法に違反します。直ちに販売を中止して下さい」とのリプライを送っている。
一連の投稿はSNSで拡散され、「安心できる」と受け止める声が広がった。薬務課だけでなく、警察庁も対応に乗り出すべきだとする意見もある。
東京都議の青木英太氏も、「マンジャロの適正な販売について 東京都もこのようにいっています」と反応している。
遣隋使の小野妹子(おののいもこ)男性
中国は「隋王朝」の時代 皇帝は「煬帝」で 日本は「飛鳥時代」
この飛鳥時代 日本で最初の女天皇になった「推古天皇」に 20歳前後の厩戸皇子(うまやどのおうじ)が「摂政」となり「聖徳太子」になる
摂政(せっしょう)とは 天皇をサポートする役職で天皇に次ぐ地位
平安時代「摂政」が「関白(かんぱく)に変更される
安土桃山時代 豊臣秀吉は 天皇をサポートする「関白(摂政)」の地位になり、天皇に次ぐ地位で 関白秀吉と呼ばれた
そして朝廷が遣隋使として小野妹子に 隋の皇帝(煬帝)に宛てた書簡を持たせる
この書簡には「陽いずる処の天子 陽ぼっする処の天子に致す、つつがなきや」
意味は・・太陽が昇る東の国(日本)の天子(推古天皇)が 太陽が沈む西の隋の天子(皇帝)に書簡を送る つつがなきや(問題ないか)・・という意味
これは日本の推古天皇が、隋の皇帝だった煬帝を「見下した書簡」
当然 隋の煬帝は「激高」
そのため激高した隋の煬帝は 小野妹子に 推古天皇を「罵倒する書簡」を持たせ 日本に帰国させる
しかし この煬帝の返書は 推古天皇を「罵倒する書簡」だった為 小野妹子はこの罵倒する返書を 推古天皇に献上すれば 推古天皇や摂政の聖徳太子から
「遣隋使の役目を果たしていない」として 推古天皇や聖徳太子から、またも罵倒されるため
小野妹子は、煬帝の返書を「握り潰し」 言い訳として朝鮮半島の百済人から返書を「奪われた」と言い訳する
小野妹子は、利口な男 推古天皇と聖徳太子は「他者の感情も分からないアホ」
このように日本の要人は「他者が気分を害する事」も分からないバカ
この他者の感情が分からず 中国政府を 激高させたのが高市総理
見出し・・小野妹子は国書を紛失、高向玄理は帰国できず...海を渡り中国に学んだ日本人
航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。
小野妹子――煬帝から文書を授かるも...
中国へ渡った古代の人物というと、小野妹子が、真っ先に脳裏に浮かぶのではないだろうか。
『日本書紀』には、推古天皇15年(607)、「大礼(だいらい)」小野臣妹子が大唐(隋)に遣わされたことが記されている。
「大礼」とは位階で、冠位十二階のなかの第五位にあたる。この時点で妹子の位階は、特別に高いわけではなかった。 妹子は有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」ではじまる国書を携えて、隋に渡った。
この国書を見た隋の第二代皇帝・煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と怒りをあらわにしたという(『隋書倭国伝』)。
翌推古16年(608)、妹子は隋からの返答使・裴世清(はいせいせい)を伴い、帰国した。 妹子は帰国にあたり、煬帝から文書を授かっていたが、百済国を通った際に、その文書を百済人に奪われてしまったため、届けることができないと奏上した。文書を紛失した妹子を群臣は、流刑に処すべきだとしたが、推古天皇は赦(ゆる)した。
この妹子の文書紛失に関しては諸説あるが、倭国に不都合な内容が記されていたため、妹子が握りつぶしたともいわれる。
同年9月、裴世清を送るため、妹子は再び、隋に派遣された。このとき、後述する南淵請安(みなぶちのしょうあん)、旻(みん)、高向玄理(たかむこのげんり)らも、随行している。彼らは、隋の滅亡と唐の興隆を目の当たりにしながら中国で学び続けることになる。一方の妹子は、翌推古17年(609)9月に帰国した。
帰国後の妹子に関しては、よくわかっていない。だが、大礼から、冠位十二階の最高位である「大徳(だいとく)」に昇進したようなので、しばらくは朝廷で任につき、高い評価を得ていたのではないだろうか。
妹子の没年は不明である。政界を引退してからは、故郷の近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)で過ごしたともいわれる。穏やかな晩年を送れたのだろうか
田中角栄は、他者を思う心があった
見出し・・なぜ田中角栄は「敵を作らない政治家」になれたのか?神楽坂の花街で磨いた“人たらしの極意”
田中角栄は、国会では雄弁な政治家として知られる一方、私生活では相手の話にじっくり耳を傾ける“聞き上手”だったという。その素顔を知るのが、花街・神楽坂で彼と交流した芸者たちだ。角栄の愛人の甥・山科薫と親交を持つ筆者が、その証言をもとに、相手を引き込む対人術の原点に迫る。
● 政界を夢見る若き田中角栄と 芸者・円弥が出会うまで
山科薫、本名山梨貢。1957年7月14日生まれ。俳優、声優、官能小説家といったさまざまな顔を持つ。
山科の父は都庁勤めの公務員で、和子という妹がいた。親が事業に失敗し、食うことさえままならなくなり、妹は面倒を見てくれる家を転々としてやっと辻家のやっかいになった。
辻家は神楽坂で芸者置屋、金満津を経営していた。本来なら、親が借金する際に子どもがそこで住み込みとして何年間か働く年季奉公というシステムがあるが、骨と皮ばかりの和子を見て哀れに思ったのか、辻家を仕切る辻むらという女将は和子を養女にした。
そのころ、神楽坂の隣、飯田橋の土建会社に若きころの田中角栄が入社した。政界進出を夢見る青年であり、天下国家を論じるのが好きな若者だった。
土建会社の社長には娘がいた。田中青年を気に入った社長は、病弱の娘と結婚することを熱望した。独立して田中土建を創業した田中青年は、社長の娘と結婚する。
土建業と政治は深い関係がある。政界に打って出てやると野心を抱きながら、田中角栄は仕事に励んだ。神楽坂にある料亭で芸者と交遊した。そのうちの1人に円弥という10代の半玉(編集部注/一人前の芸妓になるために修行中の15〜20歳前後の少女)がいた。山科の叔母、辻和子である。
円弥と田中角栄は互いに好意を寄せ合う。円弥――辻和子は田中青年がのちに内閣総理大臣になるなど夢にも思っていない。
● 田中角栄が羽を伸ばした 辻和子邸でのプライベート
山科薫は叔母、辻和子をとおして生身の田中角栄を知ることになり、田中角栄研究正史とは別にリアルな素顔の証言者となる。
「田中さんはね、記者会見や国会では立て板に水のようにしゃべるけど、プライベートではむしろ聞き役でしたよ」と山科が語る。
「朝から晩まで陳情が押しかける。すべてさばくにも短い時間で相手の話を聞かなければならないでしょ。だからなのか、聞き上手でした」
山科の父は都庁勤務だったこともあって、田中角栄は庶民の意見、反応を山科の父から得ていた。
目白の田中御殿とは別に、神楽坂の辻和子邸では角栄は田中派の重鎮とも距離を置き、プライベートな空間で羽を伸ばした。
のちに辻和子は女児と2人の男児を授かる。不幸にも女児は病死するが、2人の男児、京と祐は元気に育った。角栄は2人の男児に田中姓を名乗らせた。
長男・京は成長すると父親に似てきた。角栄も期することがあったのか、目白の本妻が産んだ眞紀子とは別に政界への道を想定していたふしがあった。
立候補して、選挙活動する際、新人なので選挙民に名前を覚えてもらう必要がある。そのために名前の入ったのぼりを何本も立てるのだが、“京”という名前は表からも裏からも同じ左右対称の一文字だから、覚えやすく、書きやすい。選挙対策をすでに頭の片隅に描いていたようだ。
・・・新米の新聞記者にも 椅子を勧めていた 人の感情を害する言動を行わなかった
極めつけは「日中国交正常化」
1950年の朝鮮戦争で 共産主義の「北朝鮮軍と中国軍」が 資本主義の米国が建国した「韓国」を共産主義化するため 一方的に侵略
他方、1945年 日本敗戦で 戦勝国の米国が 1945年から日本を支配していたため
米国は 共産主義勢力の「拡大を阻止」するため 日本列島に「米軍基地」を置くため
翌年1951年「サンフランシスコ講和条約」で 日米同盟 日米安全保障条約を締結、
この条約が翌年、1952年「実効」となり ここから日本は「資本主義の国家」になる・・それまでは 民主社会主義の日本だった
こうして日本は1952年から資本主義国となり共産主義の中国 北朝鮮 ソ連と敵対国となり「国交断絶」
つまり 日本と中国は「国交断絶」していた そのため田中総理は「日中国交正常化」するため訪中、中国の周恩来首相と会談 こうして日本と中国の国交は回復された
その後、田中総理は「ロッキード疑惑」で 日本人からパッシングされたが中国政府は 日中国交正常化した田中角栄が 死ぬまで「礼節を忘れなかった」:
中国は 日本との「友好を望んでいる」しかし日本は狭量が狭く、中国を嫌っている
中国は大陸人で 容量が大きい 日本は島国で、容量が小さい
立派な女性
見出し・・「鮮血でトイレが真っ赤に…」32歳女性を襲った大腸がんの恐怖 「ステージ4でも人生謳歌」闘病発信を続ける理由
「私のように、何も分からないうちにがんが進行してしまう人を減らすことができれば」
大腸がんと闘う寝り子さん。体調によってはラーメンセットを平らげる【写真:本人提供】
ラーメンは「白米のおかず」というぐらい、食べることが大好きな女性の人生が一変した。2025年5月、32歳で大腸がんステージ4の告知を受けた。「リンパ節と肺への転移が確認されました」。一時は絶望に打ちひしがれ、不眠にも陥った。がん告知から約1年がたった33歳の今、抗がん剤治療を続けながら、体調によってはラーメン・チャーハン・ギョーザのセットを食べられるぐらいまでになった。YouTubeを通して、闘病生活を発信し続けている。「ステージ4でもこうやって人生を謳歌(おうか)できることを伝えたいです」。確かな勇気を届けている。(取材・文=吉原知也)
女性は、寝り子(ねりこ)さん。経理事務で働くごくごく普通の生活で、ラーメンや激辛グルメ、焼き肉が大好物。お酒もたばこもやらない。大きな病気とは無縁だった。
20代の頃、一度病院で「痔」と診断されたことがあった。それからは時折トイレットペーパーに血がつくことがあった。自分で対処して市販薬で「しのいでいました」。痔の検査が恥ずかしかったという理由も大きかった。
明らかな体の異変が生じてきたのは、25年1月。便器が真っ赤に染まるほどの出血が出始めた。「鮮血でトイレの水が染まって。次第に、レバーのようなものと一緒に出るようになりました」。ただ、痛みに関しては「我慢できない痛みではなかった」という。痔の悪化だと思い込んでいた。本格的な受診は足が遠のいた。
一般的に、大腸がんと痔の出血は見分けが難しい面があると言われ、勘違いに注意することが呼びかけられている。
寝り子さんは、ある日突然に歩けないほどの体の痛みに襲われた。限界を感じ、4月下旬、町医者に駆け込んだ。医師が診察を進めると、空気が変わった。「できるだけ早く大きい病院に行ってほしい」。GW直前の時期だったが、がんの可能性を示され、「仕事を休んででも、すぐに検査を」と強く促された。その後の精密検査で判明したのが、大腸がんステージ4、肺とリンパ節への転移だった。
告知を受けた日は「俯瞰(ふかん)して見ているようでした」と表現する。現実感がなかった。でも頭の中には、「余命」という言葉が絶えず浮かんでいた。
3姉妹の5人家族。何よりつらかったのが、両親への報告だ。誰よりも家族思いの寝り子さんは「今もそう思って行動していますが、家族を悲しませたくないと心に決めています」。できる限り前向きな言葉を選んだ。「これから頑張っていくね」。母は「ドラマの世界だと思っていた」と絶句、家族みんなで泣いた。
治療を始める一方で、当初は夜が怖かった。「目を閉じて、開けたらもう私はいないんじゃないか」。それまで死について深く考えたことのなかった30代前半の人生が急変した。一時は眠れなくなり、精神科のサポートを受けた。
心が変わり始めたのは、ある思考の転換からだった。「死んだらどうなるんだろう」から「生きるためにどうするか」へ。夜もぐっすり眠れるようになった。昨年冬ごろには精神科の薬が必要なくなり、今は飲んでいない。「一皮むけた感じです」と笑みを見せる
頭の発達が、未熟な日本族
日本人は 世界一 頭が幼稚な民族で いい歳こいても、まだ子供レベル 先輩の娘も55歳になるが ま~~だ幼稚なゲームに熱中 シラけてしまう
75歳の女も いい歳こいて 言っていい事 悪い事すら分からないアンポンタン
高市もいい歳ぶちこいいて 言っていいこと悪い事すら理解できず かって罪もない中国を侵略 中国人を虐殺 婦女子を手当たり次第強・・姦しても 悪い事をした罪の意識もなく 中国に またもや戦争を売るような発言 中国政府を激高させている
それほど米国トランプの脱糞が大好きな証拠
中国政府は 明確に日本に対し 友好の握手を求めている
しかし「日本人は EQが世界一低い未熟児」で、それすら分からずNOタリン日本人どもが 中国を嫌っている
こういう日本人に限って臭い屁をこく 中国は 日本が弥生時代から 日本を 言語 文化で導いた恩師
日本人は 識者(学者・大学教授)でも 世界共通の常識が分からない子供民族
唯一 田中角栄だけは 中国と友好関係を築いた
見出し・・・日中関係悪化「根源直視を」 閣僚会談見送りで中国共同通信
中国商務省の何亜東報道官は28日の記者会見で、日本が日中関係悪化の「根源を直視し、正常な交流の条件を整えるよう求める」と述べた。
日本は22、23日に江蘇省で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)貿易相会合に合わせ、赤沢亮正経済産業相と王文濤商務相の正式な会談を求めたが、中国側が応じなかった。
織田信長が 浅井長政と朝倉義景を 滅ぼすことができた理由
室町幕府は「足利尊氏」が「自分の天下を築く」ため 後醍醐天皇を「裏切り」 代わりに「光明天皇を擁立」し
光明天皇の「威光を利用」し 征夷大将軍となり 足利尊氏が 室町幕府を築く そのため 足利尊氏が築いた室町幕府は「実力がない軟弱な幕府」
そのため 室町幕府は「衰退に向かう」
こうして室町幕府が 12代征夷大将軍だった「足利義信」の時代 12代征夷大将軍の足利義信には 長男の「足利義輝」と 次男の「足利義昭」がいて
長男の「足利義輝」を室町幕府の「13代目の征夷大将軍」にする
次男の足利義昭には 征夷大将軍の地位を継承する資格がないので 次男の「足利義昭」は出家 僧侶になる
つまり 室町幕府は「衰退」に向かっていた為「諸藩の大名たち」は 衰退している室町幕府の征夷大将軍に「従わなかった」
しかし 近江の大名だった「浅井長政」と 越前の大名だった「朝倉義景」は 衰退していた室町幕府に「忠誠を誓っていた」
しかし三河の大名だった「織田信長」は 自分が「天下人」になるために「室町幕府」の 征夷大将軍を「支配させねば天下人になれない」ので
織田信長は前述したように「出家して僧侶になっていた足利義昭」を 15代の征夷大将軍に祭り上げれば 室町幕府の征夷大将軍・足利義昭を「操り人形」にして
織田信長は 室町幕府を支配し 天下人になれるため 僧侶になっていて征夷大将軍の「資格がない足利義昭」を 室町幕府の15代征夷大将軍に「祭り上げる」
こうして15代征夷大将軍になった足利義昭は 織田信長の「操り人形」になってしまう
そのため 15代征夷大将軍になった足利義昭は 家臣である三河の大名「織田信長」の「操り人形にされていた為」
「足利義昭征・夷大将軍」は、織田信長を「不忠義な裏切り者」として 諸藩の大名たちに織田信長を「討ち取る」よう命じる
そのため室町幕府に「忠誠を誓っていた浅井長政と朝倉義景」が 不忠義者の「織田信長」を成敗しようとする
つまり 織田信長と 浅井・朝倉は「敵対関係」になる
しかし織田信長が 室町幕府を「実質的に支配」していたので 諸藩の大名たちは 織田信長に追従
こうして 駿河の大名だった徳川家康が 織田信長と 連合を組み
浅井長政と朝倉義景を「滅ぼし」 織田信長が、天下人に向かい 遂に室町幕府を滅ぼし「安土桃山時代」を築く
なぜ織田信長が 浅井長政と朝倉義景を 滅ぼすことができたのか
ある識者が 延々と理由を解説しているが 次の投稿で 理由を簡単に説明
見出し・・信長は、なぜ浅井・朝倉を滅ぼせたのか?裏切りと悲劇が招いた「二大勢力」の最期とは?
天正元年(1573)8月から9月にかけて、織田信長は長年にわたり対峙してきた浅井氏・朝倉氏という二大勢力を相次いで滅ぼした。両氏は信長包囲網の中核を担った存在であり、その滅亡は戦国の勢力図を大きく塗り替える転機となった。
では、なぜ浅井氏と朝倉氏は、短期間のうちに相次いで崩壊することになったのか。その背景には、信長の迅速な軍事行動だけでなく、重臣や一族の裏切りが大きく影響していた。本稿では、浅井・朝倉滅亡に至る一連の戦いの経緯を追っていきたい。
湖西から攻勢開始――木戸・田中両城を攻略 天正元年(1573)7月26日、京都を発った信長は、巨大船に乗って近江高島郡へ出陣した。近江高島郡は、江北の浅井氏と越前から南下する朝倉氏の合流地点にあたる重要な地域だった。
信長は陸路からも軍勢を差し向け、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を次々と落とした。木戸・田中の両城は、明智光秀に与えられた。この勝利により、湖西方面において織田方は優位な立場を確立したのである。
相次ぐ寝返り――浅井方内部の動揺 同年8月になると、浅井氏の配下にあった阿閉氏、浅見氏が相次いで信長方へ寝返ったので、朝倉・浅井連合軍は不利な状況に傾いた。同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長軍と交戦したが、信長は自ら出陣して朝倉軍を蹴散らすと、そのまま逃げる敵を追撃した。
織田軍は越前へ退却する朝倉軍を追い続け、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで戦闘を繰り広げた。この戦いで朝倉軍は約3000の兵を失い、一族や重臣にも多くの死者が出たと伝えられている。朝倉氏にとって、極めて大きな打撃となったのである。
一乗谷放棄――名門朝倉氏の崩壊 同年8月、織田軍が敦賀から越前国内へと攻め込むと、義景は本拠である一乗谷(福井市)を捨て、賢松寺(福井県大野市)へ逃亡した。一乗谷に住んでいた武士や町人たちも織田軍を恐れ、散り散りになって逃げ出した。
8月20日には、朝倉景鏡(義景の従弟)が織田方へ寝返るという決定的な出来事が起こる。これにより義景は完全に孤立し、最終的に自害して果てた。こうして、越前の名門・朝倉氏はここに滅亡したのである。
次なる標的は浅井氏――小谷城への総攻撃 朝倉氏を討った信長が次に矛先を向けたのは、かつて同盟関係にあった浅井氏である。8月26日、越前を発した信長は、浅井氏の居城・小谷城に近い虎御前山(以上、滋賀県長浜市)に陣を敷き、総攻撃の準備を整えた。
翌8月27日、羽柴(豊臣)秀吉が小谷城の京極丸に攻め込むと、戦況は一気に動いた。その翌日には、長政の父・久政が自害に追い込まれたのである。この時点で、浅井氏の命運はすでに尽きかけていた。そして9月1日、小谷城はついに落城し、当主・長政も自害して果てた。
長政の妻であるお市(信長の妹)と娘3人(茶々、初、江)は辛うじて城を脱出することに成功した。しかし、嫡男でわずか10歳の万福丸は織田軍に捕らえられ、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)において磔刑に処せられたという。3人の娘はその後、信長のもとに引き取られたが、これにより浅井氏は完全に滅亡したのである。
二大名門の滅亡がもたらした歴史の転換点 こうして天正元年(1573)、越前の朝倉氏と江北の浅井氏という二大勢力は、わずか1か月余りの間に相次いで滅亡した。この戦いで大きな軍功を挙げた羽柴秀吉には、浅井氏の旧領が与えられた。
のちに天下人へと成長していく秀吉にとって、この時の活躍は重要な転機となったといえるだろう。そして、浅井・朝倉という信長包囲網の中核勢力を失ったことで、信長の天下統一への道は大きく開かれていくことになったのである。
ウクライナ戦争は「東西冷戦の延長戦」
この歴史的な詳細は、既に何度も投稿した
大昔 1200年代以前から ウクライナ ベラルーシ ロシアの3国は 同じ「スラブ人」だったので ウクライナの「キエフを首都」として3国統一
「キエフルーシ公国」を築いていた
ところが1200年代に入り ユーラシア大陸の東北部モンゴルのチンギス・ハンが ユーラシア大陸に「モンゴル帝国」を築く野望に燃える
そのためモンゴルの南部に位置する中国を侵略するがチンギス・ハンは 中国の「六盤山」で死去
そのため4代目の」モンケ・ハン」が チンギス・ハンの野望を引き継ぎ 弟のフビライにユーラシア大陸の東部一帯を 征服するよう命じ
もう1人の弟「フラグ」には ユーラシア大陸の西部一帯を征服するよう命じる
こうして モンゴル族フラグにより キエフルーシ公国は滅ぼされウクライナウクライナ ベラルーシ ロシアの「3国に分離」してしまう
ところが1600年代 ロシア人が「ロマノフ王朝」を築き「帝政ロシア」を築く
この帝政ロシア時代 外交手腕に優れたエカテリーナ2世が かってウクライナ ベラルーシ、ロシアは 3国一体化したキエフルーシ公国を築いていたので
エカテリーナ2世は 帝政ロシアに ウクライナ ベラルーシを「併合」する
この併合で ウクライナのウクライナ人には 帝政ロシアからの「独立を目指す反ロシア派のウクライナ人」と ロシアに寄り添う「親ロシア派のウクライナ人」に「分裂」してしまう
これは 明治時代の「日韓併合」も同じで 朝鮮人には 日本からの「独立を目指す反日派の朝鮮人」 と 日本に寄り添う「親日派の朝鮮人」に分裂したのと同じ
ところが 第1次世界大戦の最中1917年、レーニンの「ロシア革命」で 帝政ロシアが 共産主義の「ソ連」になる
共産主義のソ連になっても ウクライナとベラルーシは「ソ連に併合された儘」
そして次は1939年 ドイツヒトラーとソ連スターリンが 互いに戦争しない「独ソ不可侵条約」を締結、同年1939年から 第2次世界大戦に突入
ところが 2年後の1941年 ドイツヒトラーは ソ連の領土が必要になり 独ソ不可侵条約を「一方的に破棄」
ドイツ軍(ナチス)が ソ連のレニングラート スターリングラード侵略
ここで ソ連に併合されていた「ウクライナの反ロシア派」が「ナチスに加担」ソ連に銃口を向ける
だから「ロシアのプーチン」が テレビで・・「ウクライナの反ロシア派はナチスだ」と発言していた理由
そして今度は1950年 朝鮮戦争で 資本主義と共産主義が「軍事的に敵対」する「東西冷戦」時代に突入
そのため資本主義の米国は 共産主義に「対抗」するため 資本主義の諸国を結束させた「北大西洋条約機構(NATO)」を結成
対する共産主義のソ連も 資本主義に「対抗」するため 共産主義の諸国を結束させた「ワルシャワ条約機構(WTO)」結成
ここで ソ連に併合されていた「ウクライナ ベラルーシ」も 共産主義の「ワルシャワ条約機構(WTO)」に「加盟していた」
しかし「東西冷戦」では 共産主義諸国が加盟する「ワルシャワ条約機構」が 資本主義諸国が加盟する「北大西洋条約機構」より「軍事的に劣勢」で
1991年 ソ連ゴルバチョフ書記長が 東西冷戦の「原因」になっていた ソ連共産主義を「解体」する、そのため 1991年、共産主義の諸国が 加盟していた「ワルシャワ条約機構(WTO)」も「解体」する
そのため共産主義の「ワルシャワ条約機構に加盟」していた「ウクライナ・ベラルーシ」は「ソ連から独立」する、そして国号が ソ連から「ロシア連邦」に国号が 変更
ロシア連邦から 独立した「ウクライナ」には 前述したように、帝政ロシア時代から 「ロシアからの独立を目指す反ロシア派」と ロシアに寄り添う「親ロシア派のウクライナ人」に分裂していて
ロシアから「独立」すれば、当然の成り行きで「独立派で反ロシア派のウクライナ人」が ウクライナに「反ロシア派の政権」を樹立する
しかしウクライナにはロシアに寄り添う「親ロシア派のウクライナ人」もいるので
反ロシア派の政権を「糾弾」今度は ウクライナに「親ロシア派のヤヌコビッチ政権」が 樹立される
しかしウクライナには「反ロシア派」もいるので 親ロシア派のヤヌコビッチ政権を「糾弾」
この当時 米国は、オバマ大統領で 副大統領は「バイデン」
バイデンが ウクライナの「反ロシア派」を「支援」
そのためウクライナの「親ロシア派のヤヌコビッチ政権」は追放され ロシアに亡命、こうしてウクライナには「反ロシア派の政権」が樹立された
この「反ロシア派の政権」が 現在の「反ロシア派のゼレンスキー政権」
ウクライナのゼレンスキー政権は「反ロシア派」なので 米国主導の北大西洋条約機構(NATO)加盟を希望、
ここで もし ウクライナの「反ロシア派のゼレンスキー政権」が NATOに「加盟」すれば
ロシアにとって ウクライナは「敵国」になり ロシアは「ウクライナから攻撃されてしまう」
かっては ロシアの一部だった「ウクライナが敵国」になってしまう・・昨日の友は 今日の敵になってしまう・・子供でも分かる理屈
だからロシアのプーチンは ウクライナの「反ロシア派のゼレンスキー政権」を「打倒」し ウクライナに「親ロシア派」の政権を 樹立するため
ロシア軍が「ウクライナ侵攻」した理由
だからプーチンはテレビで「これは戦争ではない」と言っていた理由
反ロシア派の政権を打倒し 親ロシア派の政権を樹立するために「ウクライナ侵攻」
プーチンは デタラメを言っていない デタラメは 米国バイデン
ところが ウクライナのゼレンスキー政権は「反ロシア派」なので ロシア軍に「銃口を向けてしまい」 ロシアプーチンと ゼレンスキーが ウクライナを巡り「ウクライナ戦争」に発展
ウクライナ戦争は 東西冷戦の「延長」
ウクライナは「何処の国が支配すべきか」の領土問題
これが ロシアと ウクライナのゼレンスキー政権とが ウクライナ㋾巡り「ウクライナ戦争」している「核心」
このウクライナ戦争は 1950年 朝鮮戦争から始まった 資本主義と 共産主義が軍事的に敵対する「東西冷戦」の「延長戦」がウクライナ戦争
そのため資本主義国と共産主義国の「教科書の説明」が「違っていて当然」
日本人識者どもは何時も頭がボケているので 肝心な核心チン玉が分からず4ページのグダ解説
見出し・・ロシアの教科書「ウクライナ侵略は人類の文明を救う行為」世界の歴史教科書を比較してわかった“国の価値観と政治的意図”
他国の教科書を覗き見ることで、自国の歴史教育のあり方が見えてくる
各国の歴史の教科書を読み比べると、その記述の仕方や学び方にはかなり差があることがわかります。本記事では、『世界の歴史教科書を読み比べてみた』の制作に携わった西岡壱誠氏が、ロシアの教科書の記述から見る歴史教育について考察します。
■「特別軍事作戦」を子どもにこう教える
歴史の教科書、と聞いて、多くの日本人が思い浮かべるのは「クロマニョン人」「四大文明」「メソポタミア」といった、人類の起源から積み上げられた淡々とした記述ではないでしょうか。年号を覚え、テストに備える。そんな“無色透明”なイメージかもしれません。
しかし、世界を見渡すと、教科書の姿は驚くほどバラバラです。何より興味深いのは、そこに国家の意思や政治性が、最初の一行から色濃く滲んでいるということです。
例えば、ロシアの教科書を例に挙げましょう。2023年8月、ロシアで初めての国定歴史教科書が発表されました。『ロシアの歴史 1914-1945年』『ロシア史:1945-21世紀初頭』の2冊です。
編纂を主導したのは、元文化相で現大統領補佐官のウラジーミル・メディンスキー氏と、外交官・諜報員養成機関として知られるモスクワ国際関係大学学長のアナトリー・トルクノフ氏です。
衝撃的なのは、教科書のなかにこんな一文が現れることです。
「ウラジーミル・プーチン大統領がウクライナに対する『特別軍事作戦』を開始していなければ、人類の文明はおしまいだったかもしれない」
(注:本記事ではこのように教科書の翻訳を掲載していますが、いずれも原語からの翻訳を経たものです。翻訳の都合上、語感や細かなニュアンスについては原文と完全に一致しない箇所がある可能性がありますが、各記述の大意や論旨に違いはないものとお読みください)
つまり、主権国家への侵略戦争が、「人類の文明を救う行為」として描かれているのです。
教科書はさらに踏み込み、もしウクライナがNATOに加盟したのちに「クリミアかドンバスで挑発行動を起こし紛争を仕掛けていたら」、ロシアはNATO全加盟国と戦争になり、「そのようなことになれば、文明の終わりだったかもしれない」と主張しています。先制攻撃こそが世界を救った、という論理です。
西側諸国の描かれ方も鮮烈です。
欧米も日本も かっては帝政ロシアの農奴制と変わりがない
15世紀の頃 西洋白人キリスト教徒たちは「白人こそが創造主が作った人間であり 有色人は人間ではない」と決めつける
これが「白人至上主義(人種差別)に「キリスト教がお墨付き」を与えた「人種差別の元祖」
そのため17世紀頃 白人でキリスト教諸国の欧州各国は 有色人の「アフリカ」を 羊の毛を刈るが如く侵略。植民地化した
西洋の小国ベルギーのレオポルト2世は、アフリカのコンゴを植民地化(ベルギー領コンゴ)とし コンゴ人に「重税」を課し 払わないコンゴ人の 両腕 両足を切断
コンゴ人から 重税を搾取 世界一の「大富豪」になっていた
英国も アフリカの巨大な湖を ヴィクトリア女王に因み「ビクトリア湖」と名付けアフリカのナイル川に生息する巨大魚ナイルパーチを ヴィクトリア湖でアフリカ人に養殖させ
英国人はナイルパーチの肉だけを 削ぎ落し食肉とし 西洋や 日本にナイルパーチの肉を輸出していて 日本では学校給食にナイルパーチの肉を使っていた
こうして西洋白人キリスト強国の西洋諸国は 有色人のアフリカ人を 虐待、奴隷化 が それでも飽き足らず アフリカ人を「商品」として扱い 奴隷貿易
アフリカで 奴隷船の船底に アフリカ人を すし詰めのように 詰めこみ 西洋に運搬
しかし 船底に詰め込まれたアフリカ人たちに 疫病蔓延 死亡すれば 海に放棄していた船主は アフリカ人に保険を掛けていたので アフリカ人が疫病で死亡しても「保険金が入る」
生き残ったアフリカ人は「西洋に陸揚げ」され「奴隷商人」や「貴族」が「セリ」でアフリカ人を競り落とす 生殖器がデカいアフリカ人男性は西洋の貴婦人たちが 性の慰め者に擦るためセリ落とし
肉体労働に耐えるアフリカ人の男女は、奴隷商人がセリ落とし 再度 奴隷船に詰め込み
当時、北米大陸ではアメリカ人が「西部開拓」時代で 北米大陸の南部が 農園地帯で 農園で アフリカ人を強制労働させた これがアメリカ人がおこなった有色人のアフリカ人に対する「人種差別」の「虐待の奴隷」
オバマ大統領の祖父も、アフリカ人で 同じ境遇を受けた一人
日本も同じで 平安時代 宇多天皇は 菅原道真の才能を見抜き 右大臣に抜擢する
しかし宇多天皇は 自分の息子の「敦仁(あつひと)皇太子」に天皇の座を譲位する
こうして 宇多天皇の敦仁皇太子は 17歳で「醍醐天皇」に即位する
ところが後醍醐天皇の弟・・つまり宇多天皇の次男で 斎世(ときよ)親王と菅原道真の娘が「結婚」
そのため菅原道真は 皇室の姻戚関係となり 左大臣の藤原時平が菅原道真を「蹴落とす」ため まだ未熟で17歳の醍醐天皇に入れ知恵
そのため醍醐天皇が 道真の右大臣の地位を剥奪、平安京から 道真を大宰府に追放
こうして朝廷は 未熟な醍醐天皇と左大臣の藤原時平が 朝廷を 我が物顔で支配
そのため 各地の豪族たちが山野を開拓 農地を拡大する為、農民や非人を奴隷として酷使
豪族たちは「広大な農地」を所有 領主(大地主)になる これが昭和時代まで続き 大地主は 小作人たちに 自分の農地を貸与 小作料を取り 農作物を栽培させていた
しかし 戦後 米国GHQの「マッカサー」は「農業改革」で 大地主が保有する広大な農地を 分割させ 小作人たちに 分け与えた
だから現代 農家は自分が所有する農地で 農作物を作れるようになっている
帝政ロシアだけが農奴で 残忍だった訳でなく 米国も日本も 弱者は 奴隷(奴婢)同然に扱われていた
奴隷(奴婢)以下で、人間として 扱われなかった人達が「非人」
アメリカ人
帝政ロシア時代の残忍な「農奴制」
これは 米国も日本も変わりない
見出し・・ロシア史上最悪級の「悪女」100人以上の農奴を拷問した伯爵夫人ダリヤの末路
今から250年ほど前、18世紀のロシア帝国を治めていたのは、後に大帝と称えられる女帝エカチェリーナ2世でした。
彼女はヨーロッパの進んだ考え方を取り入れ、国を近代化しようと志した知的な指導者です。
しかしその足元では、領主が自分の土地で働く農奴を私物化し、絶対的な権力で支配する歪んだ仕組みが根深く残っていました。
そんな時代に、貴族社会を震え上がらせる凄惨な事件が発覚します。
領主であるダリヤ・ニコライェヴナ・サルトゥイコヴァという女性が、支配下にある100人以上の農奴に対し、長期にわたって執拗な拷問と殺害を繰り返していたのです。
そのあまりの残虐さから、彼女は後世「鬼女、血塗られた女領主」などと呼ばれることになります。
ダリヤの罪が異常だったのは犠牲者の数だけではなく、訴えが何度も握りつぶされ、被害者が主人のもとへ送り返され、虐待が長年にわたって続いていたことにありました。
今回は、ロシア史に残る「悪女」ダリヤ・サルトゥイコヴァについて解説します。
恐怖の邸宅 ダリヤ・サルトゥイコヴァは1730年、名門貴族の家に生まれ、近衛軍の将校グレブ・サルトゥイコフと結婚しました。
その残虐性が顕著に表れるようになったのは、1755年に夫が亡くなり、広大な領地と多くの農奴を相続してからです。 彼女はモスクワの邸宅や、モスクワ近郊のトロイツコエ村を中心に、農奴たちを日常的に虐待したのです。
被害者の多くは10代後半から20代の若い女性や、まだ幼い少女たちでした。 後の裁判では138件の不審死が調査対象となり、そのうち38件についてダリヤの直接的な暴行による死亡責任が認定されました。
彼女の暴力には共通した傾向がありました。 それは些細な理由で、例えば洗濯物のすすぎ方が不十分であるとか、床の掃除が隅々まで行き届いていない、などといった理由で激昂したのです。
自ら丸太や熱湯を用いて農奴を打ち据え、髪の毛を素手でむしり取る、厳冬期に裸で屋外へ放置する、懐妊中の女性に容赦のない打撃を加えて流産に至らせるなど、その行為は常軌を逸していました。
沈黙を破った告発者たち しかし農奴たちは、ダリヤの暴虐に対して無抵抗だったわけではありません。
記録によれば、何度も地方の役所やモスクワの当局に対して訴えを届け出ています。
しかしダリヤは有力な貴族家系との繋がりを持ち、役人たちに多額の賄賂を贈ることで、これらの告発を組織的に握りつぶしていました。 逆に訴え出た農奴たちが「主人に対する不敬」として処罰され、鞭打ちの刑に処された上で、再び彼女のもとへ送り返されるという事態が繰り返されていたのです
2人の農奴、サヴェーリーとエルモライが、決死の覚悟で当時のロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへと逃亡し、即位したばかりのエカチェリーナ2世に直接訴状を届けることに成功したのです。
特にエルモライの訴えは悲痛なもので、彼はダリヤによって3人の妻を次々と殺害されており、その怒りと悲しみが女帝を動かしました。
新女帝エカチェリーナ2世は、自らを啓蒙主義的な理性に基づく統治者として位置づけており、法による秩序の確立を急いでいました。 彼女はこの訴えを重く受け止め、法務院に対して徹底的な調査を命じます。
これは、ロシア史上類を見ない貴族に対する大規模な司法介入の始まりとなりました。
法務院から派遣された捜査官ステパン・ヴォルコフらは、1762年から1768年までの6年をかけて、ダリヤの罪を裏づける証拠を集めていきました。
捜査官たちはダリヤの領地に入り、多くの証言を集める一方で、邸宅の会計帳簿や農奴の記録も徹底的に調べあげます。 ですが彼女は一貫して罪を認めず、捜査は証言や帳簿の記録を積み上げる形で進められました
法務院は最終的に、138件の不審死のうち38件について、ダリヤの直接的な暴行による死亡責任を認めました。 判決文は、その行為が懲戒の名目をはるかに逸脱した執拗な虐待であると断じています。
こ
女帝の裁きと永劫の沈黙 1768年10月、エカチェリーナ2世はダリヤに対して最終的な判決を下します。
その内容は、当時の貴族社会において極めて異例なものでした。 ダリヤは貴族の身分を奪われ、名を名乗ることも禁じられ、判決文では「怪物」と呼ばれるほど厳しく断罪されたのです。
まず、モスクワの赤の広場において、首に「この女は拷問者であり殺人者である」という銘板を下げられ、1時間にわたり晒し台に繋がれる辱刑に処されました。 ダリヤはモスクワのイワノフスキー女子修道院に送られ、当初は光の差し込まない狭い地下独房に閉じ込められました。 食事は小さな窓から差し入れられるだけで、外部との接触も厳しく制限されたのです。
その後、小窓のある房へ移されたとも伝えられますが、ダリヤは33年間を獄中で過ごし、1801年に71歳で没しました。 晩年には、窓の外を通る参拝客に罵声を浴びせたり、鉄格子を掴んで叫んだりすることもあったと伝えられています。
遺体はドンスコイ修道院の墓地に埋葬されました。
日銀が保有する「国債」が 45兆円の評価損
見出し・・日銀が国債で過去最大の評価損45兆円 金利上昇で前年の1.6倍に
日銀の国債保有残高と評価損益
日本銀行は27日、保有する国債を時価でみた評価損が、3月末時点で45兆4414億円だったと発表した。前年の約1.6倍に膨らみ、過去最大となった。日銀による大規模金融緩和策の転換に、中東情勢を受けた原油高、財政の悪化懸念などが重なって長期金利が上昇し、国債の市場価格が下落したことが響いた。日銀は「財務に問題はない」としている。
日銀が公表した2025年度決算によると、保有する国債残高は前年比7.8%減の530兆8695億円で、2年連続で減った。この額は簿価(取得時の価格)で、時価では485兆4280億円だった。簿価と時価を差し引きした評価損は、前年度の28兆6246億円から拡大した。
日銀は2024年3月に大規模な金融緩和策を転換し、同7月と昨年1月、同12月にも利上げに踏み切った。長期金利は上昇(債券価格は下落)し、大規模緩和時に大量に購入した国債の評価損が膨らんだ。
・・・この「報道の意味」は 安倍政権の時代 日本経済は「物価安」で「円の価値が高く」なる「デフレ経済」に陥った
この「物価安」で「円の価値が高く」なる「デフレ経済」では物価が安いので「消費者」にはプラス
しかし「物を作る生産者」にとっては「物価安」なので 穀物を作る「農家」や 物品を製造する「製造業者」は「破綻してしまう」
さらに「円の価値が高くなる」のでで「政府が抱える借金」の価値も高まり 借金が「増加」してしまうので
安倍総理は 逆に「物価高」で「円の価値が低く」なる 2%インフレ目標を掲げる
この政策は「日銀が行う金融政策」なので 日銀が「円の価値を低く」して「物価高」のインフレ経済にしたのが
日銀による「金融緩和」の政策
この日銀による「円の価値を低く」して「物価高のインフレ誘導」の為に 政府が「借金するために発行」していた国債を 日銀が「無制限に買い取る」・・「買取りオペレーション」を行う・・これが金融緩和・・アベノミクス
そのため「日銀」は 政府が借金する為に発行した「国債」を「多量に保有」していて
この「日銀が保有」する「多量の国債」の「価値が低く」なり 日銀は 保有する国債で「過去最大の評価損45兆円」もの 評価損になったという報道
簡単に言えば 政府の借金を日銀が「肩代わり」したのである その結果 日銀は45兆円もの評価損になった
こうして 現在 日本経済は「物価高の日本」になっている
「叩けよさらば与えられん」の意味は?
“求めよ、さらば与えられん”――これは、キリスト教のことをよくご存じでない方でも、どこかでお聞きになったことがある、キリストの有名な言葉です。
熱心に求めていけば、必ず与えられるという意味の、励まされる言葉です。
旧約聖書 と 新約聖書
旧約聖書は、ユダヤ教の聖典 新約聖書は、キリスト教の聖典
イエス・キリストは 悟り深い男性で 人民に こう諭している
「叩けよ さらば開かれん」
さらに、こうも 諭している
「神の物は神に返せ カエサルのものはカエサルに返せ」
このイエス・キリストの言葉が 悟りある「目から鱗が落ちる」言葉の由来
ところが ユダヤ教のイスラエルは、パレスチナ人から 居住地を「奪い」イスラエルの領土を拡大している
そのため 居住地を奪われたパレスチナ人たちが パレスチナ解放機構【PLO】を設立 ユダヤ教のイスラエルが奪った居住地を 返還するよう 現在の「パレスチナ戦争」
このパレスチナ戦争で ユダヤ教のイスラエルがパレスチナ人を 無差別に大量殺戮している
そのため 国際刑事裁判所が イスラエルのネタニヤフ首相を 犯罪人として「逮捕状」を発行している
ユダヤ教は キリスト教。イスラム教と「違い」 邪悪で強欲な宗教
「目から鱗が落ちる」・・由来
これはイエス・キリストの言葉・・「叩けよ、さらば開かれん」に由来
見出し・・「目から鱗が落ちる」って仏教の言葉じゃないの?出典をたどると新約聖書に行き着いた
「目から鱗が落ちる」って仏教の言葉じゃないの?出典をたどると新約聖書に行き着いた 「目から鱗が落ちる」って仏教の言葉じゃないの?出典をたどると新約聖書に行き着いた
「目から鱗」、出典は意外にも新約聖書だった
「目から鱗が落ちる」と聞くと、何かが急にすとんと理解できたとき、つい口にしてしまう言い回しです。なんとなく仏教や中国の故事に由来する言葉だと思っている人もいるかもしれません。
実は私も、ずっと仏教由来の言葉だと思っていました。ところが出典をたどってみると、行き着くのは仏教ではなく、新約聖書でした。
出典は新約聖書『使徒行伝』
国立国会図書館の解説によると、「目から鱗が落ちる」の出典は新約聖書『使徒行伝』第9章です。現在の訳では『使徒言行録』とも呼ばれます。そこには、目から「うろこのようなもの」が落ち、再び見えるようになった場面が記されています。ギリシア語で書かれた原文にも、「うろこのようなもの」にあたる表現があるとされています。
およそ2000年前に記された新約聖書の一節が、いまの日本語の慣用句として残っているのです。
畳は「イグサ」という草で「畳の表」が作られている
「イグサ」は、昔 何処の湿地帯にも 自生していた自然界の草で、この「イグサ」で 「畳の表」を作っていた
そのため「新品の畳」には「イグサの匂い」がしていて、心地よい生活を送っていた
特に「備後(びんご)のイグサ」で作った「畳表」は、高級品だった
備後とは「現在の広島県の東部(福山)」の昔の地名
この「備後のイグサで作った畳表」を、室町時代、天下人になった「織田信長」が
安土桃山城を築城する際、備後のイグサで作った畳を用いている
見出し・・信長の安土城天守や宮中でも重用 最高級畳表「備後表」の歴史たどる 広島県立歴史博物館で企画展
福山市など広島県東部の伝統産品「備後表」にスポットを当てた企画展が、広島県立歴史博物館(同市西町)で開かれている。
資料約50点を集め、織田信長が安土城天守に用い、宮中や江戸幕府の指定銘柄として重用された最高級畳表の歴史をたどっている。
室町時代の文献には「備後筵(むしろ)」の表記が登場。寺の祭事用に購入された記録があり、格式高い場で使われていたことがうかがえる。
江戸時代には福山藩が特産品として備後表を奨励。材料のイグサは現在の福山市沼隈町産とし、藩の役人による品質検査を経るなど厳格なルールが確認できる資料もある。イグサ栽培から製品の出荷までの流れを一覧できる絵巻は、幕府御用達の畳師が現地視察して描いた。
ほかにも、備後発祥の製法で美しい艶を特長とする「手織中継(なかつぎ)表」の見本や織機を展示。文化庁の選定保存技術「手織中継表」保持者の来山淳平さん=同市=やイグサ農家を紹介するコーナーもある。
時代とともに備後表の需要は減り、イグサ生産も激減している。尾崎光伸学芸員は「全国に名をはせた伝統産業をどう受け継いでいくか。関心を持つきっかけになってほしい」と話している。
日本人 一億総白・痴化を 予言した「大宅壮一」
大宅壮一が予言した通リ 日本人は「バカ化」している
参考
一億総白・痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。ただし、「総」を付け加えたのは、小説家の松本清張である。
原典
もともとは『週刊東京[注釈 1]』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。
テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白・痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白・痴化運動』が展開されていると言って好い。
— 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」より[注釈 2]
この『一億白・痴化』の中程に「総」がつけられて広まり流行語となったのが『一億総白・痴化』である。
『東京新聞』夕刊1957年1月27日のコラム「放射線」欄で、テレビの卑俗さについて「ある人はこれを国民白・痴化運動」と言ったとする記事が出た。記事は「閑息亭」のペンネームで投稿されたが、筆致が大宅と似ていて、この記事が原典だと言われている[1]。
朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。このなかで松本清張が「かくて将来、日本人一億が総白/痴となりかねない」という表現で「総」をつけた点が重要視されている[2]。
中沢啓治の「はだしのゲン」
参考
『はだしのゲン』は、中沢啓治による日本の漫画、およびそれを原作とした実写映画、アニメ映画、テレビドラマ。中沢自身の原爆による被爆体験を基にした自伝的な内容である。
戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜こうとする主人公・中岡ゲンの姿が描かれている。
当初は『週刊少年ジャンプ』(集英社)において約1半年連載された[1]。その後は1975年から連載再開した。連載先が変わっていき、革新市民団体雑誌の「市民」(1975 - 76年)、日本共産党中央委員会の「文化評論」(1977 - 80年)を経て、1982年から1987年まで日教組の機関誌「教育評論[2]」において連載された[1][3][4]。
概要
自伝的な作品で、作中のエピソードの多くも中沢が実際に体験したことである[注釈 1]。作者は当作を反戦漫画として描きたかったのではなく、それ以上に「踏まれても踏まれても逞しい芽を出す麦になれ」という「生きること」への肯定の意味を込めて「人間愛」を最大のテーマとして描いていた[5]。
母親を火葬した際に骨が残らなかった、という作中にもあるエピソードが、中沢に広島原爆の被爆を題材とした漫画を描かせるきっかけとなった。
発表分の末期は終戦から何年も過ぎた戦後の内容となっており、昭和天皇に対する批判やアメリカ軍およびアメリカ合衆国に対する批判、警察予備隊(後の陸上自衛隊)発足に対する批判する内容も含んでいる。ただし、その時期の話にも原爆の傷痕は根強く描かれている。
時代考証の間違いや左派的な主張をはじめ、作品の内容、表現などについて様々な意見があるが、作者の中沢の実体験に基づく原爆の惨禍や当時の時代背景・世相風俗を表現していながら、エンターテインメントとしても読ませる作品として国内外での評価は高く、映画・ドラマ・アニメ・ミュージカル・絵本・講談化もされている。2010年6月調査のgooランキング「読んでおきたい日本史モノマンガランキング」の第1位に選ばれた[6]。
2007年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布することになった。外務省が英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させる予定と報じられた[7]。
2018年9月時点で累計発行部数は1000万部を突破している[8]
はだしにゲン
これは漫画家・中沢啓治が 戦時中の日本の「実態」を如実に描いた漫画で、戦時中の日本人は「世界一単純なバカ民族」だった
何故 バカ民族になったのか 以前の投稿で その「理由」を説明した
江戸時代 剣豪たちが 大名に仕官していた「武士」で この武士が 大名が戦争する際 鎧兜を着け 敵兵をコロす役目
この敵兵をコロすのが「本業の武士たち」が 尊王攘夷で 徳川幕府を 倒幕
明治政府を築く 当然「明治政府の要人」は 敵をコロすのが本業なので
当然 明治政府は「好戦的な軍国主義」の政府になる
こうして明治時代 日清戦争 日露戦争に「勝利」
こうして日本は「戦争拡大の軍国主義」に邁進する そのため欧米白人国が「日本を軍事的脅威」とする「黄禍論」が台頭
この黄禍論に反応したのが 米国26代大統領セオドア・ルーズベルトで
日本を「攻撃目標」としてオレンジ色に塗り「オレンジ計画」
そして 米国32代大統領フランクリン・ルーズトが「軍事力で日本をはたき潰す」ため昭和時代 日本を「戦争に誘い込む」
日本政府・軍部は 単純バカ要人どもで米国ルーズベルトが 軍事力で日本を叩き潰す為に「仕掛けた戦争の罠」とは分からず
1941年12月8日 日本軍が 米国ハワイ州の米軍基地「真珠湾」を「奇襲攻撃」・・日米開戦(太平洋戦争)に突入
日本軍は 単純バカで・・トラトラトラ(我れ、奇襲攻撃に成功り)・・日本軍勝利を祝福
しかし 米国が日本を軍事力で 叩き潰すために「仕掛けた戦争の罠」なので翌年1942年 日本が世界に誇る「日本連合艦隊」が 太平洋のミッドウエー海戦で 米軍の「太平洋艦隊」から「叩き潰されてしまう
この1942年のミッドウエー海戦の「大敗」から 日本軍は「敗退の一途」を辿り、米軍から「追い詰められてしまう」
そのため 日本政府・軍部は、日本の「国難を乗り越える」ため 翌年1943年 大日本国憲法の「国家総動員令」に基づき 日本人男女を「徴用」する
しかし日本人の中には「戦争反対・平和主義」を唱える日本人は「非国民」として警察や憲兵が逮捕
戦争反対主義の日本人を「非国民」として虐待 拷問する
この平和主義(戦争反対)の日本人を 警察や憲兵が「非国民」として 虐待・拷問する
これを描いているのが 中沢啓治の漫画「はだしのゲン」:
何故 戦時中の日本は こんな現実だったのか 理由は上述している
日本は 明治時代から 好戦的な軍国主義だった為 そして昭和時代 太平洋戦争で1945年、日本「敗戦」
こうして 戦後 日本国憲法・第9条で 恒久的に戦争放棄・「平和主義の日本」になる
軍国主義の日本から 平和主義の日本にしたのは「米国軍人マッカサー」
日本政府要人が 如何に「頭が弱い日本人」か その証明
だから中国政府が 台湾有事で集団的自衛権を主張する高市総理を「軍国主義」として非難した「理由」
日本人民どもは 世界一単純バカ族で 何も分かってない
中沢啓治の「はだしのゲン」を見れば、日本がいかにバカ民族か バカでも分かる
脳がボケた識者
太平記について解説しているが。何を言いたいのか趣意が不明
見出し・・・後醍醐天皇による「公家一統の政」が始まる しかし『太平記』に記される新たな波乱の予兆とは?
軍記物語『太平記』には元弘3年(1333)、「四海九州の朝敵」(日本全土の朝敵)は残らず滅びたと記されています。鎌倉幕府が滅び、都に還幸された後醍醐天皇は「正慶」の年号は「廃帝」(鎌倉幕府に擁立されていた光厳天皇)による改元ということで、もとの「元弘」に戻されました。賞罰・法令は悉く「公家一統の政(まつりごと)」、つまり朝廷の統一された政治体制から出されたことにより、諸国の民は朝廷の徳風(仁徳の感化の及ぶ様)に従ったともあります。
しかし同書には早くも新たな波乱の予兆が記されています。同年6月3日、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が信貴(奈良県生駒郡の信貴山)の毘沙門堂にお出になるとの風聞があったので、畿内・近国の軍勢は言うまでもなく、京中や遠国の者までもが馳せ集まってきたとのこと。それは「天下の大半」の軍勢かと思われるほど夥しいものだったようです。護良親王は同月13日に入洛する予定でしたが、延引となりました。護良親王が諸国の兵を招集され、楯を作らせ鏃を砥いで「合戦の御用意あり」との聞こえがあったので、京中の武士の胸中は穏やかならぬものがあったと言います。
この不穏な有様をご覧になって、行動を起こしたのが後醍醐天皇でした。天皇は側近の坊門清忠を勅使として派遣。護良親王に「天下は既に鎮まったというのに、なお武器を取り、士卒を集めているのは何の必要があってのことぞ。世の中が静謐となったからには、急ぎ剃髪して、座主を相続されよ」と出家することを勧めるのです。護良親王は倒幕闘争に参与するまでは天台座主(比叡山延暦寺の住職)でした。後醍醐天皇は我が子に再び天台座主となるように促したのです。
・・・太平記とは「鎌倉時代」 朝廷は「後醍醐天皇」で、足利高氏(あしかがたかうじ)は 後醍醐天皇から 足利尊氏(足利尊氏)の名前を授けられる
他方 新田義貞と 足利尊氏は、ともに「八幡太郎義家(源義家)」の子孫で「足利家と新田家」が「権力闘争」
この「八幡太郎義家(源義家)」の子孫が 鎌倉時代を築いた有名な「源頼朝」足利家も新田義貞も 源頼朝と同じように 源義家(八万太郎義家)の子孫
そのため足利尊氏と新田義貞は どっちが「優位な地位」か 政権闘争
これが鎌倉時代に描かれた軍記物の「太平記」
ところがこの鎌倉時代の「前」は「平安時代」で 朝廷は「宇多天皇「でこの宇多天皇の息子(皇太子)が さらに「醍醐天皇」になり 菅原道真を大宰府に左遷
そして次は「鎌倉時代」になり 朝廷は「後醍醐天皇」で 足利尊氏は 自分の世を築くため「光明天皇」を祭り上げ 後醍醐天皇を京都の平安京から追放
追放された後醍醐天皇は 奈良の吉野に逃れ「南の朝廷(南朝)」を築き
足利尊氏が祭り上げた光明天皇は 京都の平安京の朝廷「北朝」となり「南北朝」時代になり南朝の後醍醐天皇に忠誠を誓う新田義貞・楠木正成 と北朝の足利尊氏が権力闘争
しかし足利尊氏が、北朝の光明天皇から「征夷大将軍」の地位を授けられ新田義貞 楠木正成を滅ぼし 次の室町幕府を築く
以上が 太平記
この足利尊氏が築いた室町時代から 朝廷の天皇は 北朝になり 江戸時代 倒幕派が 幕府を倒し、明治政府を築き
長州藩の伊藤博文が 江戸時代 朝廷の天皇・孝明天皇は「北朝」で正統な天皇の系統ではないとして 後醍醐天皇の子孫こそが 正統な天皇と主張
長州藩の後醍醐天皇の子孫である「大室寅之佑」を明治天皇にした説がある
日本は「太陽の国」
だから ロシアの映画監督アレキサンドル・ソクーロフが「昭和天皇」裕仁をテーマに映画「太陽」を制作
米国の映画監督スチーブン・スチルバーグ監督が 日本を「太陽の帝国」として映画化している
日本は、太陽の国・・だから日本の国旗は、太陽で「日の丸」
だから飛鳥時代・「日いずる処の天子 日没する処の天子に致す 恙なきや」
薩摩藩が建造した「昇平丸」が 日本で最初に「日に丸」を掲げた
参考・・薩摩藩の大名 島津斉彬(しまづなりあきら)
国道220号線が南下して桜島にぶつかる数km手前に“道の駅たるみず”がある。この敷地内の桜島寄り西端に「近代造船発祥の地・国旗日の丸のふるさと」と刻まれた石碑を台座にして、上部に3本マストの帆船の模型が載ったモニュメントが設置されている。
この帆船は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦“昇平丸”の1/6サイズのモデルで、全長5.17m(実物は31m)。
台座の中央には碑文の書かれたパネルが配置され、右側には島津斉彬公の肖像画、左側に瀬戸海峡の絵が添えられている。
現在大隅半島と桜島はつながっているが、かつて桜島は文字通り独立した島で、大正3年(1914) の大噴火によって大隅半島と陸続きとなった。つまり大隅半島と桜島の間には400mほどの海峡で仕切られていた。
薩摩藩の島津斉彬は、幕末に西欧列強が武力で圧力をかけてきた際に海防の重要性を認識し、桜島と大隅半島の3ヶ所に造船所を設け、大型船の建造を始めた。安政元年(1854) に昇平丸、次いで鳳瑞丸・万年丸・大元丸・承天丸の合計5隻の帆船が完成した。それ以前は幕府の方針で、大型船の建造が禁止されていたため、これが近代的な大型船の造船の発祥となった。
一方、日本でも洋式帆船が建造されるようになったため、日本の船を識別する目印が必要となり、島津斉彬が提案したのが“白地に赤い丸”の日の丸だった。
これが幕府に受け入れられ、日本の船を示す旗“総船印”として“大隅半島と桜島の間の海峡”で造られた昇平丸に掲げられた。後に「日の丸は国旗〛として認められた。
しかし「日の丸」は、斉彬が創作したものではなく「飛鳥時代末」期から“日ノ本”を象徴するマークとしてこのデザインが使われていたようで、斉彬はこれを正式に日本の旗とするように提案したものである。
・・日本で最初に 日の丸を掲げた所は 薩摩藩(鹿児島県)である
日本ちんなら それくらい知ってろ!
なぜ日本の国旗は 日の丸なのか
「日」とは太陽の「陽」の事で「丸」とは 〇(円)
つまり「日の丸」とは「太陽」の事
飛鳥時代 女帝の推古天皇で 聖徳太子が摂政の頃 大和朝廷が 小野妹子を遣隋使として 書簡を持たせ 隋の皇帝(煬帝)に書簡を送る
「日いずる処の天子 日没する処の天子に致す 恙なきや」
意味は、太陽が昇る東の国(日本)の天子(推古天皇)が 太陽が沈む西の国(隋)の煬帝に書簡を送る 問題(不満)はないか?
・・という意味 ここから 日本は 太陽が昇る「太陽の国」になる
そして時代は 江戸時代になりオランダと英国が 日本と交易する為 長崎の平戸に オランダ商館 英国商館を設立
しかし英国商館は オランダ商館に競争で「敗れ」英国商館は 長崎平戸から「撤退」してしまう
しかし 英国商館が撤退しても 英国人たちが 日本に「残留」していて江戸時代 薩摩藩の大名・島津の「大名行列」が 横浜の「生麦」という所を通り掛かると
大名行列を知らない」英国人数名が大名行列を「乱してしまう」
その為、薩摩藩士が 大名行列を乱した英国人を・・無礼者として日本刀を「抜刀」英国人数名を「殺傷」してしまう・・これが1862年の「生麦事件」
そのため 英国政府が薩摩藩に「損害賠償」を請求
それに対し 薩摩藩は大名行列を乱した英国人に問題があるとして 損害賠償を拒否する
そのため 江戸幕府が、薩摩藩に代わり 英国に損害賠償する
しかし英国政府は、薩摩藩からは 損害賠償して貰ってないので 海軍立国の英国政府が、薩摩藩に 海軍を派兵
当然 薩摩藩が 海軍立国の英国に「勝てるはずもなく」英国の軍門に下る・・これが1863年の「薩英戦争」
薩摩藩は 海軍立国の英国で 戦艦製造技術を学ばせるため 薩摩藩士っを英国に「留学」させる
そして英国で 船舶建造技術を学んだ薩摩藩士が、薩摩藩に帰国 薩摩藩が 独自に戦艦「昇平丸」を建造し
薩摩藩の代わりに英国政府に損害賠償してくれた江戸幕府に「昇平丸」を献上する
この江戸時代、昇平丸が日本で 最初に「日の丸」を掲げた こうして日の丸が 日本の国旗になる
日の丸の「国旗損壊罪」を制定
見出し・・日本人にとって「日の丸」とは。 国を応援するシンボルであり軍国主義の象徴となった過去も... 「国旗損壊罪」法案を前に「日の丸」の歴史を紐解く
「日本の国旗を傷つけてもお咎めなしというのはおかしい」と訴える高市総理のもと、国旗損壊罪を定めようという議論が進んでいます。その目的はどこにあるのか。そして、そもそも「日の丸」とは日本の歴史の中でどのような役割を担ってきたのでしょうか。
【写真を見る】日本人にとって「日の丸」とは。 国を応援するシンボルであり軍国主義の象徴となった過去も... 「国旗損壊罪」法案を前に「日の丸」の歴史を紐解く【サンデーモーニング】
■「日の丸」戦後日本の平和と繁栄の象徴に
戦後復興まもない1964年に開かれた「平和の祭典」東京オリンピック。「日の丸」のもとで戦う選手たちに、日本中が熱い声援を送りました。
その後、テレビ放送されたドキュメンタリー番組では...
(「現代の主役 日の丸」1967年2月放送)
ーー「日の丸」といったら、まず何を思い浮かべますか?
「旗ですよ、日本の旗。国旗。オリンピック。祭日」
「あれほど綺麗な旗はないでしょ」
「日の丸」について、街行く人々に問いかけます。
ーー「日の丸」はどこに掲げれば美しいと思いますか?
「玄関の壁。日の丸は日本の象徴」
ーー「日の丸」が日本の国旗であることに誇りを持てますか?
「はい、持てます。どこの家族もみんな掲げたいと思います」
ーーこれから「日の丸」を振ることがあるとすれば、いつ何のため?
「日本がおめでたいことがある時に振るのでは」
当時、「日の丸」の旗がある家庭は約8割にも達し、祝日にはほとんどの家が軒先に掲げるなど、「日の丸」は戦後日本の平和と繁栄の象徴ともなりました。
■「平和の祭典」から60年余り... 「国旗損壊罪」法案の提出へ
それから60年余り、今、国会に提出されようとしているのが...
高市総理(東京・秋葉原駅 2026年1月)
「日本国旗を損壊しても全くお沙汰なし。変じゃないですか。それはやっぱりおかしい」
「日の丸」を傷つける行為を処罰するという「国旗損壊罪」法案の自民党骨子案。
人に著しく不快感を抱かせる方法で国旗を傷つけることなどを処罰の対象にするとしています。
これに対し、野党からは...
国民民主党 玉木雄一郎 代表(26日)
「もう少し優先順位の高い、急いでやるものを早くやった方がいいのではないか」
米国の上空で隕石が爆発
隕石とは「流れ星」のことで 地球の重力に引かれ 大気圏に突入すれば流れ星が大気との摩擦熱で 燃え上がり 流れ星になって目撃される
この流れ星が地上に落下したのが「隕石」
世界一 古い隕石は 直方の須賀神社に落下した隕石
夜空を見ていると毎晩 3個くらい流れ星を目撃できる
見出し・・米国上空で隕石が爆発、TNT火薬300トン相当の威力
米マサチューセッツ州北東部とニューハンプシャー州南東部の上空で大気圏に突入する隕石(いんせき)の爆発を示す衛星画像。米コロラド州立大学と米海洋大気庁が共同設立した、
地球に向かって落下していた隕石(いんせき)が米国北東部上空で30日に爆発したと、米航空宇宙局(NASA)が発表した。同地域ではTNT(トリニトロトルエン)火薬約300トン分に相当する衝撃とともに、ごう音が響き渡った。
NASAの副報道官ジェニファー・ドーレン氏は、AFPに向けた声明の中で、火球がマサチューセッツ州北東部とニューハンプシャー州南東部の上空で、30日午後2時6分(日本時間31日午前3時6分)ごろに分裂したと述べた。
ドーレン氏によると「火球は、現在活動中のどの流星群とも関連していない。宇宙ゴミや人工衛星の再突入ではなく、自然の天体だった」と述べた。
「空中分解時に放出されたエネルギーはTNT火薬約300トン分に相当すると推定されており、これが大きなごう音の原因だ」
この火球は時速7万5000マイル(時速12万キロ以上)で移動し、高度40マイル(約64キロ)の地点でバラバラに砕け散ったという。
地域住民は予期せぬ大きなごう音に驚き、SNSユーザーからは「衝撃が強すぎて家が揺れた」という報告が相次いだ。
2013年には、ロシア中部チェリャビンスク上空を火球が通過した。住宅ほどの大きさがあるこの隕石は地上14マイル(約22キロ)上空で爆発し、TNT火薬44万トン分に相当する爆風を放った。この爆発により約520平方キロ以上にわたって窓ガラスが割れ、その破片により1600人以上が負傷した。
カティンの森事件とは
1918年 ドイツは 第1次大戦で 戦勝国の英国陣営(英国+フランス+帝政ロシア)から敗戦 そのため 翌年1919年 パリ講和会議で膨大な「戦争賠償金」を課せられ ドイツ経済・財政 破綻
そのため ヒトラーがドイツ再建のためドイツ労働党(ナチス党)を結成
ドイツを破綻させた 英国陣営(英国+フランス+帝政ロシア)に「復讐」
しかし 帝政ロシアは第1次大戦中の 1917年 レーニンの「ロシア革命」で 共産主義の「ソ連」になっていた
ここで ドイツ軍(ナチス)が 英国*フランスに侵攻すれば、ソ連軍が 後方から追撃され、ドイツ軍は「挟み撃ち」されてしまうため
ヒトラーは ドイツとソ連で「ポーランドを分割統治」する条件で 1939年 ドイツとソ連は 互いに戦争しない「独ソ不可侵条約」を締結
こうして1939年、独ソ不可侵条約に基づき ドイツ軍が ポーランド侵攻を皮切りに「第2次大戦」に突入
ドイツ軍(ナチス)が ポーランド人を手当たり次第 虐殺 さらに100万人のポーランド人を「捕虜」にして 捕虜にしたポーランド人の一部をドイツ再建のためドイツに強制送還、重労働を課し
一部のポーランド人捕虜は ユダヤ人のアウシュビッツ収容所の建設に使う
そして、ドイツ軍に引き続き、ソ連軍がポーランド侵攻
ソ連軍は、ポーランド人将校 約2万人余りを捕虜にして 捕虜収容所にぶち込む
そしてソ連は 捕虜収容所のポーランド人将校たちに・・お前たちを「解放する」と嘘で騙し
ソ連のカティンの森で 虐殺する
このポーランド人将校の虐殺は「ドイツ軍の仕業」として ドイツに「濡れ衣」を着せる
しかし 戦後 ソ連のゴルバチョフ書記長が、ペレストロイカ(改革)と グラスノスチ(情報公開)で
カティンの森でポーランド人将校を 虐殺したのは「ソ連だと告白」する
以上が カティンの森事件
このカティンの森事件で ポーランド人の女性飛行士が 犠牲になったと言う
このカティンの森事件を映画化したのが ポーランド人映画監督アンジェ・ワイダで、血の匂いがする映画
カティンの森事件
ある識者が カティンの森事件で 一人のポーランド人女性飛行士が犠牲になった話を解説
しかし日本人識者は 何時も間抜けで 肝心の核心「カティンの森」事件とは何か 説明してない
見出し・・埋められた2万人の将校らの遺体、ただ一人の女性飛行士はなぜ空を目指し、虐殺されたのか ノンフィクション作家・小林文乃さんが迫る「カティンの森事件」の謎
ロシア・スモレンスク郊外のカティンの森にあるポーランド人捕虜集団墓地の入り口
第2次世界大戦中、旧ソ連がポーランドの将校ら2万数千人を虐殺し、現在のロシア西部の森に埋めた「カティンの森事件」。「独ソ戦最大の謎」ともいわれ、巨匠アンジェイ・ワイダ監督も映画「カティンの森」で題材としたが、日本人で知る人はそう多くないだろう。
ヤニナ・レヴァンドフスカ=1936年撮影(小林文乃さん提供)
ノンフィクション作家の小林文乃さん(45)は、この事件にこだわった。犠牲者の中におそらくたった一人、女性がいたこと、彼女が優秀な飛行士であったことを知って、衝撃を受けたからだ。
名前をヤニナ・レヴァンドフスカという。小林さんは彼女の足跡を追ってポーランドへ、そしてロシアを訪ねる。ヤニナはその姿をなかなか見せてくれなかった。苦労の末、書籍「カティンの森のヤニナ」を書き上げ、2023年に出版した。ヤニナはなぜ空を目指し、殺されたのか。小林さんに聞いた。(共同通信編集委員=田村文)
■ポーランドの悲劇を象徴する姉妹
―本書「カティンの森のヤニナ」によれば、ヤニナは1908年、現在のウクライナ東部・ハリキウ生まれ。活発な女性で、郵便局で働きながら飛行クラブに入り、ヨーロッパ人女性として初めて高度5千メートルからのパラシュート降下に成功したとも言われています。ポーランド空軍のパイロットとして1939年9月に出征。1940年に殺害され、1943年にカティンの森で遺体が発見されました。ヤニナがパイロットだったことは、小林さんにとって大きかったのですね。
「そうです。もともと飛行機好きということもありますし、スベトラーナ・アレクシエービッチの作品『戦争は女の顔をしていない』の影響で、旧ソ連・赤軍の女性飛行士について調べていた時期もあります。日本では第2次大戦中に女性兵士はいなかったけれど、ヤニナはあの時代にパイロットになり、戦場に赴き、殺された。この希有な女性の存在を知り、頭から離れなくなりました。足跡をたどるうちに、飛行機の黎明期のありようや、ポーランドの航空史にも深入りしていきました」
「家族の運命も数奇なものでした。特に妹アグネシュカは、レジスタンス組織のメンバーとなり、ワルシャワ郊外の森でナチスに処刑されたことが分かり、驚きました。独ソに分割占領されたポーランドの悲劇を象徴するような姉妹でした」
■最期ぐらいは取り乱したのだと思いたい
―主人公に据えたヤニナの足跡や人物像というのは、なかなか明らかにならなかったようですね。本書はヤニナの評伝ではなく、帯では「歴史紀行ノンフィクション」と紹介されています。
鄧小平の「改革開放政策」で中国は飛躍的に発展
1939年 中華民国の国民党政権・蔣介石と、共産党の毛沢東の「政権闘争」で毛沢東、勝利
ここから中国は、毛沢東の共産主義国(共産主義政府)になる
しかし 党員の鄧小平と毛沢東は 対立関係 毛沢東の「文化大革命」では中国経済は「疲弊」日本より貧しい国
毛沢東は独裁的で 対立していた鄧小平を迫害
排斥された鄧小平は、洞窟で生活 そして毛沢東、死亡
鄧小平が国家主席となり「改革開放政策」で資本主義に追い付け、追いこせで 毛沢東の共産主義に資本主義導入
中国は共産主義で 個人の財産所有は、原則認められず 全て「国有財産」
鄧小平はこの国有財産を 有能な党員に「分割供与」 こうして中国の大企業は 政府の息が掛かる半官半民の大企業が誕生
中国の世界的な大手通信技術のファーウエイの創始者も 共産党員の有能な通信技師が 創始者
ファーウエイは中国の半官半民の企業なので 外国ファンドから 株式買収により 乗っ取られないよう、株式を市場公開していない
こうして中国企業は 資本主義の米国・日本に 科学技術で 追い付き 追い抜こうとしている
改革開放政策
文化大革命の終了の中国で、鄧小平の主導のもと、1978年に始まった本格的な経済近代化政策。経済特区の設置、市場経済の導入などにより、2000年代初頭まで中国経済の急激な成長をもたらした。
中華人民共和国で文化大革命の末期の時期の1975年1月に周恩来は四つの現代化(近代化)を提唱したが、それは江青ら四人組の抵抗に遭い、激しい政争となって、実現できなかった。周恩来はすでに病身であったので、実際には鄧小平にその仕事は託されていたが、翌1976年に周恩来の死去を契機に天安門事件(第1次)が起きると、毛沢東は鄧小平に暴動の責任を取らせて解任した。
鄧小平政権の成立
1976年10月、さらに毛沢東が死去すると、四人組の権力独占に対する不満が表面化し、四人組は逮捕されて毛沢東の後継者となった華国鋒によって文化大革命の終了が宣言され、1977年に再び「四つの近代化(現代化)」が掲げられるとともに、三度復権して鄧小平政権が成立した。
中国共産党第11期三中全会 鄧小平の主導することとなった中国共産党は、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議で「近代化された社会主義」を目指す新憲法を採択した。ここで初めて、中国経済の全面的な発展を目指す改革開放路線が打ち出された。さらに、1978年12月18日、中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした鄧小平は「改革開放政策」を実行に移し、建国以来の毛沢東以降の方向を転換させることをはかった。これは、新たな鄧小平時代の始まりであり、現代中国の「歴史的な転換」となった。
経済特区の建設 1978年末に鄧小平政権によって打ち出された「改革開放政策」とは四つの現代化の基礎となる経済体制を、全面的に改めることであり、それは対外貿易拡大、外資利用、先進技術・管理経験の吸収、合弁などを推進し、その対外開放の戦略的な地域として経済特区を設置することを柱とした方針であった。その方針に基づき、1980年5月から、深圳(シンセン)・珠海・汕頭(スワトウ)・厦門(アモイ)の四つの地区が経済特区(特区)として整備され、内外の企業を誘致するためにインフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が進められた。それに応じて外国資本が積極的に算入し、経済特区は急速に発展した。
あわせて国内の資本主義的生産の導入が進められ、1980年には中国の社会主義経済の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。人民公社に代わって地方行政の単位となった郷・鎮では、1984年に、民間企業として郷鎮企業
一般的に改革開放は1978年の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で提起されたことによって始まった、とされている。中国共産党の「正史」もそう定めており、それが通説になっている。しかしそれは後から形成されたストーリーであり、事実とは異なるという。共産党の機関紙『人民日報』に「改革開放」ということばが初めて現れるのは1984年5月のことで、その年はわずか2回しか掲載されていない。『鄧小平文選』に登場するのは86年3月の談話でのことで、87年に人民日報での登場回数が一気に501回に跳ね上がる。また78年以前にも対外貿易やプラント導入は始まっている。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.3>
つまり1978年に突然、改革開放に転換したのではなく、87年ごろに本格的になった、ということであろう。また同書は、改革開放は鄧小平の権威と権力を表す政治的なシンボルにほかならないとし、そこから1987年に始まったというストーリーが作られたのであり、そのような理念を表す歴史的名辞としては「改革開放」と表記し、実際の具体的な政策について述べるときは「改革・開放」(あるいは改革開放政策)とを分けて表記すべきと提唱している
蓮舫
蓮舫(れんほう、1967年〈昭和42年〉11月28日 - )は、日本の政治家、タレント、レポーター、報道キャスター。立憲民主党所属の参議院議員(5期)。本名は齊藤 蓮舫(さいとう れんほう)[7]。村田信之と婚姻中の本名は村田 蓮舫(むらた れんほう)
菅直人内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新、消費者及び食品安全)、内閣総理大臣補佐官を、野田内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画)、公務員制度改革担当大臣を務めたほか、民主党幹事長代行、参議院東日本大震災復興特別委員長、民主党代表代行、民進党代表代行、民進党代表(第2代)、立憲民主党代表代行、参議院国土交通委員長を歴任した。
来歴、生い立ち
日本と台湾の企業との間で台湾バナナ貿易業を営んでいた客家系台湾人の政商である父・謝哲信(陳杏村の次男)と[10]、「ミス・シセイドウ」であった日本人の母・齊藤桂子の長女として東京都目黒区で生まれた[2]。
出生時は中華民国籍となり、1984年の国籍法改正で父母両系血統主義になったのに伴い、1985年に17歳で中華民国籍を保持したまま日本国籍を取得したが、二重国籍批判が起きたことを機に申請した「国籍喪失許可証書」が、2016年9月13日付けで台湾側より発行され、2016年10月7日付けで日本国籍の選択を宣言した[11][注 3]が、これにより、後に二重国籍問題が浮上することになる(詳細は#二重国籍問題で後述)。青山学院幼稚園、青山学院初等部、青山学院中等部・高等部、青山学院大学法学部公法学科を卒業。
科学技術で 日本を凌駕した 中国
この見本が 熊本に進出した 台湾の半導体メーカー TSMC
台湾人とは「中国人の漢族」の事
中国が「漢族の明王朝」の時代、台湾を領土化する そのため 中国の漢族が 台湾に移住
だから台湾の「中華民国政府」は「中国人の漢族」が築いた政府で「台湾企業は中国の漢族」
熊本に進出した 台湾の半導体メーカー TSMc、は 中国人(漢族)
立憲民主党の蓮舫も 台湾の中国人の血筋を引いた政治家
なぜ 米国や中国が 日本のiPS細胞を 追い抜いたのか
理由は 太平洋戦争で1945年、日本は米国から敗戦
そのため戦勝国の米国が 敗戦国の日本を「統治支配」する
米国が日本を統治する為「日本をアメリカナイズ」するため 米国式の教育制度である
6.3,3,4年生の教育制度を日本に導入
「日本人の学生たち」を「アメリカナイズ」する
つまり 戦後から日本は 米国式の教育制度・・小学校6年 中学校3年 高等学校3年、大学4年制の教育制度になる
しかし 米国と日本は 同じ教育制度になるが「日本の教育方針は生徒たちに「暗記させる教育」つまり「暗記の詰め込み教育」
米国の教育方針は 生徒たち自身が「自分の頭で考え創造する教育」
同じ教育制度でも 日本は「暗記教育」 米国は「創造力開発教育」
だから 当然「iPS細胞研究の論文数」でも 米国が 世界一 最多
さらに中国は 鄧小平が、毛沢東の共産主義に「資本主義を導入」したので 資本主義の米国、日本に追いつけ 追い越せで「iPS細胞研究論文数」も 日本を追い抜いてしまった
いかに日本人が ふ~たんぬるい民族か分かる
こうして かって「科学技術立国」と言われた日本は 科学力でも 衰退に向かっている
iPS細胞で 米国と中国に 遅れを取った日本
見出し・・iPS論文の本数、日本は3位・米国や中国との差は拡大…読売新聞分析・「高い質」割合は15か国中最下位
様々な臓器や組織に変化できるiPS細胞に関する国別論文数は、2024年までの10年間で、日本が米国、中国に次ぐ第3位であることが、読売新聞が入手したデータでわかった。日本では今秋にもiPS細胞から作ったパーキンソン病治療用製品が初めて実用化する見通しで、世界の研究を先導してきたが、近年の論文数で見ると米中との差が広がり、日本の研究力が伸び悩んでいることが明らかになった。
特定分野で見た国別論文数は、各国の研究力を測る指標になる。読売新聞は、専門家による審査を経た1億本以上の論文データベースを運用する学術出版大手「エルゼビア」(本社・オランダ)から、論文数で上位15か国のデータの提供を受け、専門家への取材を踏まえて分析した。
iPS細胞の研究が世界で本格化した15年以降の10年間で見ると、世界の関連論文数は計3万2606本に上った。国別で最多は米国の1万2203本で、中国は5162本、日本は3876本だった。以下ドイツ、英国と続いた。
15年と24年に発表された論文数を比較すると、日本が15年の約1・5倍に増えた一方、米国は約2倍、中国は約3倍で、日本を上回るペースで研究力が向上したことが示唆された。24年1年間の論文数では日本はドイツに抜かれ、英国との差も縮まっている。
研究の質の高さで世界トップクラスと評価された論文の数で見ると、日本は56本だった。米国の8分の1、中国の半分以下で、英独に続く5位だ。日本の全論文の中でトップクラスの論文が占める割合は1・5%で、15か国中最下位だった。
iPS細胞は山中伸弥・京都大教授が06年にマウスの細胞から初めて作製に成功し、12年にノーベル生理学・医学賞を受賞。政府は、iPS細胞を使った再生医療の産業化を目指し、13年度から10年間で計約1100億円を投じて重点支援した。今年3月にはiPS細胞から作った二つの再生医療製品の製造販売が、世界で初めて条件・期限付きで承認された。
めちゃくちゃ面白い、羅貫中の「三国志演義」
日本の作家で これほど面白く興味深い 小説を描いた作家は 誰一人いない
羅貫中は、作家の天才
羅 貫中(らかんちゅう)
生誕 約1330年
または1280年頃?
東原(諸説あり)
死没 約1400年
または1360年頃?
職業 作家
羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、約1330年 - 1400年頃?または約1280年 - 1360年頃?[1])、諱は本[注釈 1]、号は湖海散人、中国の元末明初の作家[2]。
通俗白話小説の作家として知られており、中国四大奇書のうちの二作品『三国志演義』『水滸伝』の編作者とされる。
しかし事績はあまり明らかではなく、出身地や著作を巡って歴史学界で長年論争になっている。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。なお字は「貫中」であり、「漢中」は誤りである。
めちゃくちゃ面白い「三国志」
三国志とは 中国は 漢王朝が 西暦200年の頃 滅亡
次に 魏 呉 蜀の3国時代になり 魏の「曹操」と 呉の「孫権」と 蜀の「劉備」が「政権闘争」した 3国時代
しかし 魏の曹操 呉の孫権 蜀の劉備、は 誰も天下を取れず 晉が天下を取り
この晉の歴史家だった「陳寿」が 3国時代の政権闘争を 書き残した歴史書が「三国志」
また「魏志倭人伝」も 晉の「陳寿」が編纂
この陳寿の歴史書「三国志」を 明の時代「羅貫中」が、フイクションを交え、小説化したのが「三国志演義」
この三国志演義を 漫画で描いたのが横山光輝の「三国志」全21巻
めちゃくちゃ面白い三国志
ただこの三国志は 政権闘争の戦いで 女性向きではなく 男性向きの作品
面白いので 中国では 何度も ドラマ化されている
日本の性カルト教団の成り立ち
日本は、弥生時代の大昔から 子孫を作る女性が 大切にされ子孫を作り「一族郎党」を増やすため つまり その「一族を増やし」他の部族に対抗する為
子供を作る女性を大切に扱い 母屋に住まわせ 男どもは 女性が住む母屋を取り巻き居住していた
これが その「一族たちが集団」で住み着いた「村落」
そのため「他の村落の村民」は「一族郎党ではない」ので、無縁者として 迫害していた これが「村八分」
そのため 村では若い男ともが 女を求め 女の寝床に忍び寄る「夜這い」を行っていた
その為 女を夜這いで奪われた男は 女を奪った男と、コロし合いの喧嘩
そのため 村の長老(村長)が 女性の処女を奪い、若い男どもに 与えていた
こうして 村の長老が一族郎党の子孫を増やし 一族郎党の村を作っていたので 若い村民たちが 氏子となり 長老を「氏神」として祭っていた
今でも 氏神を祭る神社が残されている
そうして近代になり 若い男女は肉欲で、すぐ結びつくが「中年以降」の年代になると
若い頃とは違い「性欲の相手がいなく」なり 男女とも「性的要求不満」
そのため性的要求不満の男女たちが 性的要求を満たすため 性カルト教団が誕生
これが男女の「乱交パーテー」で 今でも秘密裏に乱交パーテーが行われている
人間は 口では上品な綺麗ごとを言うが 本質は、欲望にはエゲツない動物
米国の性カルト集団
これは男だけの問題ではなく「女性の性的要求不満」があり、性的に狂信的なカルト集団が出来上がった
日本でも 吾輩が生まれる前の昭和初期に 性カルト教団があった
見出し・・《女性を“体の関係”で支配》「股関節に焼印を入れた」元メンバーが明かした“性カルト”自己啓発セミナー「NXIVM(ネクセウム)」の実態…女優や政治関係者も参加
性的カルト集団「NXIVM」への参加を告発されている女優のアリソン・マック、カルト創設者の娘であるナンシー・サルツマ
1998年にアメリカで設立され、累計1万6000人の会員数を誇った大規模な自己啓発セミナー「NXIVM(ネクセウム)」。その"裏の顔"は、女性を"奴隷化"し、性行為の強要や人身売買を行う「セックスカルト」(NEW YORK POSTより)だった──。
【写真を見る】団体の中核メンバーだった女優・アリソン・マック(43)、団体創設者の娘、記者の質問に答えた団体創設者の元恋人
事件が報じられたのは2017年。その後の裁判で、悲惨な実態が次々明らかとなり、同団体の創設者キース・ラニエ受刑者(65)を含む複数の中核メンバーに有罪が言い渡されたが、今もなお被害女性らは深い心の傷を負っている。
今年4月12日(現地時間、以下同)、元「NXIVM」メンバーで告発者のサラ・エドモンドソン(48)とその夫、アンソニー・ニッピー・エイムズが、YouTube&ポッドキャスト番組「カルト・サバイバー」に出演。同団体の実態を明かし、自分たちの告発が次世代の人々を守ることに繋がると訴えた。
「『NXIVM』は、キース受刑者とナンシー・サルツマン(71)によって設立された自己啓発系の団体でした。『ESP』という有料セミナーで会員を集め、なかには芸能関係者や実業家、政治関係者らも参加していたということです。主に、女性の自己実現やエンパワーメントを掲げていたことから、多くの女性会員を抱えていました。
元メンバーや関係者の証言によると、キース受刑者にはカリスマ性があり、"ラポール(『相互信頼が成り立った状態』を指す心理学用語)"の構築に圧倒的なまでに長けていたようだ。キース受刑者と深い関係になりたいと願う崇拝者は多く、その心理を巧みに利用し、団体内に『DOS』という名称の"セックスカルト"を組織したそうです」(大手紙国際部記者)
中核メンバーにはDC女優も
「DOS」とは、ラテン語で「主人に従う女性たちの会」を意味する。メンバーはキース受刑者以外の全員が女性であり、選抜制で女性受講者を引き入れ、"性奴隷"ともいえる関係を結んでいた。「DOS」に所属していた女性の数は「100人前後」にのぼったという。
団体の中核メンバーには、DCコミック原作のドラマ『ヤング・スーパーマン』などで知られる女優アリソン・マック(43)や、共同創設者ナンシーの娘、ローレン・サルツマン(48)などが含まれていた。彼女らは「DOS」設立前の一時期、キース受刑者と肉体関係を結んでおり、「DOS」の運営にも深く関わっていたとされる。後にアリソンは懲役3年の有罪判決、ローレンは保護観察5年の処分を言い渡されている。
「告発者・サラの証言によると、『DOS』の目的はキース受刑者による女性たちの"支配"でした。参加者の女性たちには500キロカロリーの食事制限が課され、股関節付近には"儀式"と称して彼のイニシャルを表す焼印が押された。その上で性的暴行を行なっていたようだ」(同前)
米テレビ局「HBO」で放送されたドキュメンタリー番組『The VOW』では、その卑劣な手口が明らかになっている。
その後、『最初のミッションは私(キース)を誘惑すること』などと言い、裸の写真を送るよう指示。その際、自らの弱さに向き合うことが成功への道だ、などと言葉巧みに誘導していたようです。もし断ろうとした場合は『"担保"の手紙を両親に送る』との脅迫もあった。そして次なるミッションとして『対面』を持ちかけ、部屋に呼び出した女性に性的暴行を加えたということです」(同前)
同番組内において、共同創始者のナンシーは、「単なる性犯罪というより"権力による虐待"だった。彼の手法は、体の関係を用いて女性たちを支配することだった」と発言。また、裁判で被害女性らは「拒否できるような空気ではなかった」「キースとのセックスは"使命"だと感じていた」などと証言していた。
2020年、キース受刑者には、女性の性的人身売買や児童性的搾取などの罪で、懲役120年の判決が下された。「女性の自己実現」を掲げながら、その裏で女性たちの尊厳を踏みにじっていたキース受刑者は、獄中でいま何を思っているのか──。
お市の運命
織田信長のが父親は「織田信秀」といい 大名で 大名を殿様といい
殿様(大名)は、正室と無数の側室を抱えていた そのため 大名の織田信秀は 正室との間にできた息子が「織田信長」で
側室との間にできた娘が「市」
だから 織田信長と市は、父親(織田信秀)が「同じ」で 母親が違う「異母の兄と妹」
親が兄弟の「いとこ」ではなく 父親が同じで 母親が違う兄と妹
歴史家のくせに、それも分からんとは、な~~~さけねぇ!
大名とは殿様の事で 1人の正室(正妻)と 無数の側室(愛人)を抱えていた
正室は 普通 大名A と 大名B が 敵対関係にならず 味方同士になるため
現代風にいえば「不可侵条約」で 大名Aの息子 と 大名Bの娘を 結婚させると
大名Aと大名Bは「姻戚関係」になるので
いわば 大名Aは 大名Bの娘を「人質にしていて」 大名Bは 自分の娘を 大名Aから「人質に取られている」ので
大名B が 大名Aを「攻める」と 大名Aは 大名Bに・・お前の娘をコロすぞ!
逆に 大名A が 大名Bを「攻める」と 大名Bは 大名Aに・・お前の息子をコロすぞ!
こんな具合になるので 大名A と 大名Bは 互いに戦争できず不可侵条約で 仲間関係
つまり「政略結婚」
だから大名の「正室(正妻)」は「政略結婚」で 正室は だいたい「ブス」
しかし 側室は愛人なので 美人の側室 だから大名の織田信秀と側室の間にできた娘「市」は「美人」
市は大変な美人だったので 織田信長に仕えた まだ若き「木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は 市に 一目惚れしてしまう
しかし 市は 主君・織田信長の妹 自分は百姓の小倅 身分が「違い片思い」
ところが 室町幕府の 足利義昭・征夷大将軍(上様)は 三河の大名で家臣の織田信長から 操り人形にされていた為 織田信長を「不忠義な輩」として 諸藩の大名に
織田信長を「討ち取る」よう命じる
そのため 幕府の上様(足利義昭)征夷大将軍に「忠誠」を誓っていた越前の大名・朝倉義景が織田信長を 討ち取ろうとする
そのため織田信長は、近江の大名・浅井長政を「味方にする」ため、妹の「市」を浅井長政に嫁がせる
当然 織田信長と浅井長政は「姻戚関係」で仲間になる・・「政略結婚」
市は 別段「好きでもない男」と結婚させられたのである
しかし浅井長政は市が 美人なので溺愛 茶々 初 江 の3人の娘が誕生
しかし浅井長政は大名で 征夷大将軍・足利義昭の上様の家臣
この上様の足利義昭征夷大将軍が 織田信長を「不忠義者」として討ち取るよう命じているので 浅井長政は 上様に忠誠
織田信長を討ち取るため 織田信長との「姻戚関係」を「破棄」
浅井長政は、織田信長の妹「市」に離婚話を持ち掛け こうして市と浅井長政は「離婚」
織田信長は 浅井長政から 姻戚関係を破棄され 浅井長政が「敵」になったので織田信長は 裏切り者の浅井長政を殺害
そのため 市は 自分の兄から自分の亭主が コロされ「悲劇の主人公」になってしまう
その結果 お市は 浅井長政との間にできた 茶々 初 江の3人の娘を抱えた未亡人になる
そのため 織田信長の家臣だった「柴田勝家」が お市に同情
柴田勝家が 市と3人の娘を引き取り、柴田勝家と市は「夫婦」になる
そのため 市は 浅井長政との間にできた3人の娘まで 柴田勝家が「大事」にしたため 市は「柴田勝家に深い愛情」が芽生えてしまう
ところが 主君の織田信長は「本能寺の変」で死去
そのため柴田勝家と 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が「政権闘争」
そのため羽柴秀吉が柴田勝家の居城を「攻める」
そのため柴田勝家の居城が炎上 進退窮まった柴田勝家は 市と3人の娘は 犠牲にせず逃がす
しかし 市は 柴田勝家に深い愛情を抱いていたので 柴田勝家に・・あの世まで 添い遂げると告げ、柴田勝家と 市が 城を枕に「心中」してしまう
市は 柴田勝家と心中 生涯を終える
そして 市の3人の娘は 羽柴秀吉が 保護
そして羽柴秀吉が豊臣秀吉の天下人になり 保護していた 市の娘で 茶々を 自分の愛人(側室)にしたのが「淀君」
豊臣秀吉は 若い木下藤吉良の頃から 惚れ抜いた市は 浅井長政に嫁ぎ 柴田勝家と再婚し「自分の女にできなかった」ので
市の娘 茶々を愛人にしたのが 側室の淀君
だから 秀吉の性格は こう言われている
「鳴かなければ 鳴かせてみようホトトギス」
お市の方
見出し・・お市の方は「織田信長の実の妹」ではなかった?史料が示す意外な可能性とは?
戦国時代屈指の美女として知られるお市の方。織田信長の実の妹として、浅井長政や柴田勝家の妻となり、悲劇的な最期を遂げた女性として広く知られている。
しかし近年、史料を読み解いていくと、意外な可能性が浮かび上がってくる。お市の方は、信長の実の妹ではなかったかもしれない――。この説は本当に成り立つのだろうか。お市の方の生涯と史料を手がかりに、その真相を探ってみたい。
信長より13歳年下の妹として生まれたお市の方
お市の方が織田信秀の娘として誕生したのは、天文16年(1547)のことである。母は土田御前といわれている。信長が誕生したのは天文3年(1534)なので、13歳年下の妹ということになろう。まずは、一般に知られているお市の方の経歴を整理しておきたい。
お市の方は、近江小谷城(滋賀県長浜市)主の浅井長政と結ばれた。これは政略結婚である。2人が結婚した時期については諸説ある。将来的に上洛を視野に入れていた信長にとって、浅井氏と同盟を結ぶことは大きなメリットがあった。しかし、のちに長政は越前の朝倉義景と結び、信長に反旗を翻すことになる。
天正元年(1573)8月、織田勢に攻められた小谷城は落城した。お市の方は3人の娘(茶々、江、初)とともに城を脱出する。その後、お市の方は柴田勝家と再婚したが、天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉に居城の北庄城(福井市)を攻撃され、夫とともに自害したのである。
系図に見える「女子」の記載――妹である証拠か
お市の方を描いた肖像画は、高野山持明院に残っており、戦国屈指の美女として評価されてきた。しかも、その最期は夫と運命をともにしたことから、悲劇のヒロインとして語られることが多い。このように、お市の方は「信長の妹」という立場とともに、歴史の中で特別な存在として記憶されてきたのである。
ところが、ここに一つの異説が存在する。お市の方は、信長の実の妹ではなかったという説である。『寛政重修諸家譜』には、「女子」としか書かれていないが、長政、勝家の妻となったという注記がある。この記述が、お市の方を示していることは確実である。
また、ほかの織田氏の系図を見ても、同様の記述が確認できる。これらの史料は、お市の方が信長の妹であったことを示す有力な根拠と考えられてきた。
「実は従妹だった」?『以貴小伝』が示すもう一つの可能性
ところが、『以貴小伝』という史料には、注目すべき記述が見られる。そこでは、お市の方が信長の従妹であり、信秀の養女(信長の養妹)として長政のもとに嫁いだと記されているのである。
もしこの記述が事実であるならば、お市の方は信長の実の妹ではなかったことになる。この説は、はたして事実として認めてよいのだろうか。『以貴小伝』は18世紀末から19世紀初頭にかけて成立したとされ、徳川家康から家治までの歴代将軍の生母や側室を記録した史料である。
史料としての質は良いとされるものの、時代が遡る場合には信憑性に疑問が残ることもある。そのため、お市の方が信長の実の妹ではなかったという説については、現段階では慎重な検討が必要といえるだろう。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
芥川賞作家が日本人の頭の悪さを指摘している
日本族は 世界一のボンクラ民族 センスの低さも世界一 日本映画は世界一 ダサい映画ばかりで ただでもいらん
高市は どこにでもいるただの女で、ただより安いものはなく ただ女を大儲けしたように祭り上げる子供国家、こんな幼稚園大国めったにない 日本人は幼稚で 子供は子供が友達
見出し・・《高市首相を「嘘の経歴でテレビにまで出れる人」と批判》芥川賞作家「所詮は絵空事」世間の総理大臣への期待に“冷や水”投稿
《社会の停滞感の裏返しであり、カタルシスがあるのだろうが、所詮は絵空事である》
5月29日に、芥川賞受賞作家の平野啓一郎氏(50)がXを更新。世間が持つ“総理大臣への期待”に対して一石を投じた投稿が物議を醸している。投稿の全文は以下の通り。
「詐欺師が総理になっている。」高市首相を痛烈批判した芥川賞作家
《具体名は挙げないが、日本のドラマでは、主人公が型破りで、既存の常識やルールは全部ぶち壊して、しかし、実行力があり、結果、問題がすべて解決する、という類いのストーリーが繰り返し再生産されている。主人公が元ヤンとかで、今でも実力部隊の後ろ盾があったり。社会の停滞感の裏返しであり、カタルシスがあるのだろうが、所詮は絵空事である。残念ながら、そういう感覚で、総理大臣への期待を抱いている有権者が少なからずいる》
さらに平野氏は同日の別の投稿で、《何かやってくれそう、ではなく、具体的に政治家としてこういう実績があり、こういうヴィジョンがある、という理由で、総理大臣が選ばれる国にならないといけない》と持論を展開。
平野氏の主張に対して、Xでは
《何も考えられない頭の悪い人たちは『何かやってくれそう』程度の根拠でしか総理大臣を選べないんだよ》
《何かやってくれそうな人は結果ろくでもないことしかしない可能性が高い》
といった賛同の声が。一方で、
《実績とヴィジョン……これ言っちゃうと、自民党以外のどの党もどの政治家も否定されちゃうと思うんだけど》
《じゃあ誰を選べば良かったの?日本人のはずなのに日本を貶めようとする野党?》
などと否定的な声も多く寄せられた。
これまでも高市早苗首相(65)に批判的な見解を示してきた平野氏。5月11日には、とあるXユーザーの《政治家になる前から「元米連邦議会立法調査官」だなんて存在しない官職を名乗る人でしたしね》との投稿を引用し、《嘘の経歴で、しゃあしゃあとテレビにまで出れる人というのは、世間一般の人間とは全く異なる精神構造だと思う》と綴っている。
続けて《バレたらどうしようとか、良心の呵責とか、スゴイですねと感心されて恥ずかしいとか、そういうのが全部平気なのだから》と私見を述べ、《詐欺師が総理になっている》と痛烈に批判。引用された投稿には、高市氏が過去に「元米連邦立法調査官」との肩書でテレビ出演していた際の画像も添えられていた。
「平野氏の高市批判は徹底してブレません。1月21日には衆議院議員解散表明を受け、Xにて《有権者がこの『働かないで働かないで働かないで働かないで働きません』解散に対して、良識を示すべきだろう》と投稿。さらに《予算も通さず成果も上げていないのに、何を以って信任しろと言っているのか》と厳しく批判しました。平野氏の考えを支持する人が多い一方で、強い口調で展開される批判的な投稿に拒否感を示している人も少なくありません」(
糖尿病とは
糖尿病は「難病」で 現在の医療では「治療法が無い」
「悪化を防ぐ」のが「唯一の治療」
糖尿病が 悪化すると 目の網膜が「糖尿病性網膜症」になり「目が見えなくなったり」
足が壊疽を起こし「足を切断」したり 腎臓が機能しなくなり「人工透析」せねばならなくなる「難病」
まず「人体の仕組み」を説明
人間には「膵臓」という臓器があり この膵臓には「ランゲルハンス」という部位があり この膵臓のランゲルハンスから「インシュリン」というホルモンが分泌されている
このインシュリンは「人間が体を動かし」たり「脳が機能する為」には「エネルギー源」とする「糖分」が必要で
この「糖分」を「エネルギーに変換」するのが「インシュリン」
ところが不運にも 生まれながら 膵臓のランゲルハンスから「インシュリンが分泌されない人」が「1型糖尿病」と言われ
外部から注射器で「インシュリンを体内に注射」せねばならない糖尿病が「1型糖尿病」で
インシュリンを注射せねば 血液の糖分が増加してしまい 血糖値が上昇し 血液が糖分で ドロドロの粘液性の血液になる
脳や 腎臓には「毛細血管」が集中していて 毛細血管は、髪の毛よりも細く「赤血球が1列縦隊」でしか「通過できない細い血管」で
血液の糖分が増加(血糖値が上昇)すれば「糖分でドロドロした血液」は 毛細血管を「通過できなくなり」
「脳神経細胞」に 酸素 糖分を「供給できなくなる」ので 脳が「機能しなく」なり
「意識不明」に陥り「死亡してしまう」
生まれながらインシュリンが分泌されない「1型糖尿病」に対し、日頃「暴飲暴食」で 糖分を「過剰に摂取」していると インシュリンを分泌する「膵臓のランゲルハンス」が「疲弊」してしまい
過剰に摂取した糖分を、エネルギーに変換できず 血液に 過剰な糖分が混じり
血液がドロドロした粘液性の血液になり 上述したように 脳に酸素・糖分が「供給されなくなり」
そのため、脳が機能しなくなり 意識不明に陥り、死亡してしまう これが「2型糖尿病」
ここで 生まれながらの「1型糖尿病」は「外部から注射器でインシュリンを体内に注入する」が
「2型糖尿病」は「血糖降下剤」を服用する
この「2型糖尿病」の 血糖降下剤の 1種が「マンジャロ」で 空腹感を無くし
過剰に糖分を摂取しない薬剤
だから 「肥満体」の人が 過剰に暴飲暴食して「肥満体」にならないよう「ダイエット」として、マンジャロが使われているので 警告
注意・・「いかなる薬剤」にも「副作用」があるので 要注意
糖尿病の治療薬「マンジャロ」を、通信販売している業者
病院が「使用する薬剤」は 医師の「処方箋がない」と「患者に使えない」
医師でない者が「処方箋なしに使う」と「薬事法」違反になる
見出し・・「直ちに販売を中止して下さい」東京都庁薬務課、「マンジャロ」めぐりXで警告 歓迎の声相次ぐ
東京都庁が異例の取り組み
X上での医薬品の不正販売の監視を行っている公式Xアカウント「東京都庁薬務課」による2型糖尿病治療薬「マンジャロ」の無許可販売をめぐる注意喚起が、SNS上で注目を集めている。
マンジャロの違法販売を見逃さない都庁。リプをつけて警告だ
■2型糖尿病の治療薬「マンジャロ」めぐりダイエット目的での使用が横行
昨今、2型糖尿病の治療薬としてのみ承認されている薬「マンジャロ」を、ダイエットなどの美容目的で使用する行為が問題視されている。美容クリニックなどで販売されているものだが、SNS上では個人間取引も確認される。
医薬品は適切に使用した場合でも副作用が生じる可能性がある。特に、適応外使用による健康被害はすべてが自己責任となるため、安易な使用は思わぬトラブルにつながるリスクの高い行為だ。
また、個人が医薬品等を販売する行為は、法律に抵触する可能性がある。東京都保健医療局は「フリマ・オークションサイト(アプリ)で許可なく医薬品等を販売することはできません」と題したページで、注意喚起を行っている。
同局によると、「許可無く医薬品をフリマサイト等で販売すること」「許可や届出無く医療機器(一般医療機器除く)をフリマサイト等で販売すること」「国内で医薬品に指定されている成分を含む海外製のサプリメントを出品すること」などは、「たとえ1回のみの販売であっても医薬品医療機器等法に違反する恐れ」があるという。
「医者でなければ医薬品に関わってはいけないのですか?」
SNSでは、インフルエンサーとしても活動する人気キャバクラ嬢「ゆいぴす」さんの発言も波紋を広げていた。
以前からマンジャロを使用していることを公言しているゆいぴすさんは、実業家の溝口勇児さんが出資したマンジャロのオンライン処方サービス「diet beauty」のアンバサダーに就任し、発信活動を行っている。
2026年5月25日のX投稿では、自身への批判について「リスクは個人的に使ってるので分かりますし、経験してます。あとは、私はそもそも医者でもないですよ。医者でなければ医薬品に関わってはいけないのですか?」と反論。
「日本人ってなぜここまでマンジャロに批判的なのでしょう? 世界中での売り上げはご存じですか?」と主張していた。
マンジャロ売るユーザーに返信して警告
こうした中、薬務課はSNSでマンジャロを販売するXユーザーらに対し、「東京都保健医療局健康安全部薬務課です。医薬品であるマンジャロを許可等なく販売等することは医薬品医療機器等法に違反します。直ちに販売を中止して下さい」とのリプライを送っている。
一連の投稿はSNSで拡散され、「安心できる」と受け止める声が広がった。薬務課だけでなく、警察庁も対応に乗り出すべきだとする意見もある。
東京都議の青木英太氏も、「マンジャロの適正な販売について 東京都もこのようにいっています」と反応している。
遣隋使の小野妹子(おののいもこ)男性
中国は「隋王朝」の時代 皇帝は「煬帝」で 日本は「飛鳥時代」
この飛鳥時代 日本で最初の女天皇になった「推古天皇」に 20歳前後の厩戸皇子(うまやどのおうじ)が「摂政」となり「聖徳太子」になる
摂政(せっしょう)とは 天皇をサポートする役職で天皇に次ぐ地位
平安時代「摂政」が「関白(かんぱく)に変更される
安土桃山時代 豊臣秀吉は 天皇をサポートする「関白(摂政)」の地位になり、天皇に次ぐ地位で 関白秀吉と呼ばれた
そして朝廷が遣隋使として小野妹子に 隋の皇帝(煬帝)に宛てた書簡を持たせる
この書簡には「陽いずる処の天子 陽ぼっする処の天子に致す、つつがなきや」
意味は・・太陽が昇る東の国(日本)の天子(推古天皇)が 太陽が沈む西の隋の天子(皇帝)に書簡を送る つつがなきや(問題ないか)・・という意味
これは日本の推古天皇が、隋の皇帝だった煬帝を「見下した書簡」
当然 隋の煬帝は「激高」
そのため激高した隋の煬帝は 小野妹子に 推古天皇を「罵倒する書簡」を持たせ 日本に帰国させる
しかし この煬帝の返書は 推古天皇を「罵倒する書簡」だった為 小野妹子はこの罵倒する返書を 推古天皇に献上すれば 推古天皇や摂政の聖徳太子から
「遣隋使の役目を果たしていない」として 推古天皇や聖徳太子から、またも罵倒されるため
小野妹子は、煬帝の返書を「握り潰し」 言い訳として朝鮮半島の百済人から返書を「奪われた」と言い訳する
小野妹子は、利口な男 推古天皇と聖徳太子は「他者の感情も分からないアホ」
このように日本の要人は「他者が気分を害する事」も分からないバカ
この他者の感情が分からず 中国政府を 激高させたのが高市総理
見出し・・小野妹子は国書を紛失、高向玄理は帰国できず...海を渡り中国に学んだ日本人
航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。
小野妹子――煬帝から文書を授かるも...
中国へ渡った古代の人物というと、小野妹子が、真っ先に脳裏に浮かぶのではないだろうか。
『日本書紀』には、推古天皇15年(607)、「大礼(だいらい)」小野臣妹子が大唐(隋)に遣わされたことが記されている。
「大礼」とは位階で、冠位十二階のなかの第五位にあたる。この時点で妹子の位階は、特別に高いわけではなかった。 妹子は有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」ではじまる国書を携えて、隋に渡った。
この国書を見た隋の第二代皇帝・煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と怒りをあらわにしたという(『隋書倭国伝』)。
翌推古16年(608)、妹子は隋からの返答使・裴世清(はいせいせい)を伴い、帰国した。 妹子は帰国にあたり、煬帝から文書を授かっていたが、百済国を通った際に、その文書を百済人に奪われてしまったため、届けることができないと奏上した。文書を紛失した妹子を群臣は、流刑に処すべきだとしたが、推古天皇は赦(ゆる)した。
この妹子の文書紛失に関しては諸説あるが、倭国に不都合な内容が記されていたため、妹子が握りつぶしたともいわれる。
同年9月、裴世清を送るため、妹子は再び、隋に派遣された。このとき、後述する南淵請安(みなぶちのしょうあん)、旻(みん)、高向玄理(たかむこのげんり)らも、随行している。彼らは、隋の滅亡と唐の興隆を目の当たりにしながら中国で学び続けることになる。一方の妹子は、翌推古17年(609)9月に帰国した。
帰国後の妹子に関しては、よくわかっていない。だが、大礼から、冠位十二階の最高位である「大徳(だいとく)」に昇進したようなので、しばらくは朝廷で任につき、高い評価を得ていたのではないだろうか。
妹子の没年は不明である。政界を引退してからは、故郷の近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)で過ごしたともいわれる。穏やかな晩年を送れたのだろうか
田中角栄は、他者を思う心があった
見出し・・なぜ田中角栄は「敵を作らない政治家」になれたのか?神楽坂の花街で磨いた“人たらしの極意”
田中角栄は、国会では雄弁な政治家として知られる一方、私生活では相手の話にじっくり耳を傾ける“聞き上手”だったという。その素顔を知るのが、花街・神楽坂で彼と交流した芸者たちだ。角栄の愛人の甥・山科薫と親交を持つ筆者が、その証言をもとに、相手を引き込む対人術の原点に迫る。
● 政界を夢見る若き田中角栄と 芸者・円弥が出会うまで
山科薫、本名山梨貢。1957年7月14日生まれ。俳優、声優、官能小説家といったさまざまな顔を持つ。
山科の父は都庁勤めの公務員で、和子という妹がいた。親が事業に失敗し、食うことさえままならなくなり、妹は面倒を見てくれる家を転々としてやっと辻家のやっかいになった。
辻家は神楽坂で芸者置屋、金満津を経営していた。本来なら、親が借金する際に子どもがそこで住み込みとして何年間か働く年季奉公というシステムがあるが、骨と皮ばかりの和子を見て哀れに思ったのか、辻家を仕切る辻むらという女将は和子を養女にした。
そのころ、神楽坂の隣、飯田橋の土建会社に若きころの田中角栄が入社した。政界進出を夢見る青年であり、天下国家を論じるのが好きな若者だった。
土建会社の社長には娘がいた。田中青年を気に入った社長は、病弱の娘と結婚することを熱望した。独立して田中土建を創業した田中青年は、社長の娘と結婚する。
土建業と政治は深い関係がある。政界に打って出てやると野心を抱きながら、田中角栄は仕事に励んだ。神楽坂にある料亭で芸者と交遊した。そのうちの1人に円弥という10代の半玉(編集部注/一人前の芸妓になるために修行中の15〜20歳前後の少女)がいた。山科の叔母、辻和子である。
円弥と田中角栄は互いに好意を寄せ合う。円弥――辻和子は田中青年がのちに内閣総理大臣になるなど夢にも思っていない。
● 田中角栄が羽を伸ばした 辻和子邸でのプライベート
山科薫は叔母、辻和子をとおして生身の田中角栄を知ることになり、田中角栄研究正史とは別にリアルな素顔の証言者となる。
「田中さんはね、記者会見や国会では立て板に水のようにしゃべるけど、プライベートではむしろ聞き役でしたよ」と山科が語る。
「朝から晩まで陳情が押しかける。すべてさばくにも短い時間で相手の話を聞かなければならないでしょ。だからなのか、聞き上手でした」
山科の父は都庁勤務だったこともあって、田中角栄は庶民の意見、反応を山科の父から得ていた。
目白の田中御殿とは別に、神楽坂の辻和子邸では角栄は田中派の重鎮とも距離を置き、プライベートな空間で羽を伸ばした。
のちに辻和子は女児と2人の男児を授かる。不幸にも女児は病死するが、2人の男児、京と祐は元気に育った。角栄は2人の男児に田中姓を名乗らせた。
長男・京は成長すると父親に似てきた。角栄も期することがあったのか、目白の本妻が産んだ眞紀子とは別に政界への道を想定していたふしがあった。
立候補して、選挙活動する際、新人なので選挙民に名前を覚えてもらう必要がある。そのために名前の入ったのぼりを何本も立てるのだが、“京”という名前は表からも裏からも同じ左右対称の一文字だから、覚えやすく、書きやすい。選挙対策をすでに頭の片隅に描いていたようだ。
・・・新米の新聞記者にも 椅子を勧めていた 人の感情を害する言動を行わなかった
極めつけは「日中国交正常化」
1950年の朝鮮戦争で 共産主義の「北朝鮮軍と中国軍」が 資本主義の米国が建国した「韓国」を共産主義化するため 一方的に侵略
他方、1945年 日本敗戦で 戦勝国の米国が 1945年から日本を支配していたため
米国は 共産主義勢力の「拡大を阻止」するため 日本列島に「米軍基地」を置くため
翌年1951年「サンフランシスコ講和条約」で 日米同盟 日米安全保障条約を締結、
この条約が翌年、1952年「実効」となり ここから日本は「資本主義の国家」になる・・それまでは 民主社会主義の日本だった
こうして日本は1952年から資本主義国となり共産主義の中国 北朝鮮 ソ連と敵対国となり「国交断絶」
つまり 日本と中国は「国交断絶」していた そのため田中総理は「日中国交正常化」するため訪中、中国の周恩来首相と会談 こうして日本と中国の国交は回復された
その後、田中総理は「ロッキード疑惑」で 日本人からパッシングされたが中国政府は 日中国交正常化した田中角栄が 死ぬまで「礼節を忘れなかった」:
中国は 日本との「友好を望んでいる」しかし日本は狭量が狭く、中国を嫌っている
中国は大陸人で 容量が大きい 日本は島国で、容量が小さい
立派な女性
見出し・・「鮮血でトイレが真っ赤に…」32歳女性を襲った大腸がんの恐怖 「ステージ4でも人生謳歌」闘病発信を続ける理由
「私のように、何も分からないうちにがんが進行してしまう人を減らすことができれば」
大腸がんと闘う寝り子さん。体調によってはラーメンセットを平らげる【写真:本人提供】
ラーメンは「白米のおかず」というぐらい、食べることが大好きな女性の人生が一変した。2025年5月、32歳で大腸がんステージ4の告知を受けた。「リンパ節と肺への転移が確認されました」。一時は絶望に打ちひしがれ、不眠にも陥った。がん告知から約1年がたった33歳の今、抗がん剤治療を続けながら、体調によってはラーメン・チャーハン・ギョーザのセットを食べられるぐらいまでになった。YouTubeを通して、闘病生活を発信し続けている。「ステージ4でもこうやって人生を謳歌(おうか)できることを伝えたいです」。確かな勇気を届けている。(取材・文=吉原知也)
女性は、寝り子(ねりこ)さん。経理事務で働くごくごく普通の生活で、ラーメンや激辛グルメ、焼き肉が大好物。お酒もたばこもやらない。大きな病気とは無縁だった。
20代の頃、一度病院で「痔」と診断されたことがあった。それからは時折トイレットペーパーに血がつくことがあった。自分で対処して市販薬で「しのいでいました」。痔の検査が恥ずかしかったという理由も大きかった。
明らかな体の異変が生じてきたのは、25年1月。便器が真っ赤に染まるほどの出血が出始めた。「鮮血でトイレの水が染まって。次第に、レバーのようなものと一緒に出るようになりました」。ただ、痛みに関しては「我慢できない痛みではなかった」という。痔の悪化だと思い込んでいた。本格的な受診は足が遠のいた。
一般的に、大腸がんと痔の出血は見分けが難しい面があると言われ、勘違いに注意することが呼びかけられている。
寝り子さんは、ある日突然に歩けないほどの体の痛みに襲われた。限界を感じ、4月下旬、町医者に駆け込んだ。医師が診察を進めると、空気が変わった。「できるだけ早く大きい病院に行ってほしい」。GW直前の時期だったが、がんの可能性を示され、「仕事を休んででも、すぐに検査を」と強く促された。その後の精密検査で判明したのが、大腸がんステージ4、肺とリンパ節への転移だった。
告知を受けた日は「俯瞰(ふかん)して見ているようでした」と表現する。現実感がなかった。でも頭の中には、「余命」という言葉が絶えず浮かんでいた。
3姉妹の5人家族。何よりつらかったのが、両親への報告だ。誰よりも家族思いの寝り子さんは「今もそう思って行動していますが、家族を悲しませたくないと心に決めています」。できる限り前向きな言葉を選んだ。「これから頑張っていくね」。母は「ドラマの世界だと思っていた」と絶句、家族みんなで泣いた。
治療を始める一方で、当初は夜が怖かった。「目を閉じて、開けたらもう私はいないんじゃないか」。それまで死について深く考えたことのなかった30代前半の人生が急変した。一時は眠れなくなり、精神科のサポートを受けた。
心が変わり始めたのは、ある思考の転換からだった。「死んだらどうなるんだろう」から「生きるためにどうするか」へ。夜もぐっすり眠れるようになった。昨年冬ごろには精神科の薬が必要なくなり、今は飲んでいない。「一皮むけた感じです」と笑みを見せる
頭の発達が、未熟な日本族
日本人は 世界一 頭が幼稚な民族で いい歳こいても、まだ子供レベル
先輩の娘も55歳になるが ま~~だ幼稚なゲームに熱中 シラけてしまう
75歳の女も いい歳こいて 言っていい事 悪い事すら分からないアンポンタン
高市もいい歳ぶちこいいて 言っていいこと悪い事すら理解できず かって罪もない中国を侵略 中国人を虐殺 婦女子を手当たり次第強・・姦しても 悪い事をした罪の意識もなく 中国に またもや戦争を売るような発言 中国政府を激高させている
それほど米国トランプの脱糞が大好きな証拠
中国政府は 明確に日本に対し 友好の握手を求めている
しかし「日本人は EQが世界一低い未熟児」で、それすら分からずNOタリン日本人どもが 中国を嫌っている
こういう日本人に限って臭い屁をこく 中国は 日本が弥生時代から 日本を 言語 文化で導いた恩師
日本人は 識者(学者・大学教授)でも 世界共通の常識が分からない子供民族
唯一 田中角栄だけは 中国と友好関係を築いた
見出し・・・日中関係悪化「根源直視を」 閣僚会談見送りで中国共同通信
中国商務省の何亜東報道官は28日の記者会見で、日本が日中関係悪化の「根源を直視し、正常な交流の条件を整えるよう求める」と述べた。
日本は22、23日に江蘇省で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)貿易相会合に合わせ、赤沢亮正経済産業相と王文濤商務相の正式な会談を求めたが、中国側が応じなかった。
織田信長が 浅井長政と朝倉義景を 滅ぼすことができた理由
室町幕府は「足利尊氏」が「自分の天下を築く」ため 後醍醐天皇を「裏切り」 代わりに「光明天皇を擁立」し
光明天皇の「威光を利用」し 征夷大将軍となり 足利尊氏が 室町幕府を築く
そのため 足利尊氏が築いた室町幕府は「実力がない軟弱な幕府」
そのため 室町幕府は「衰退に向かう」
こうして室町幕府が 12代征夷大将軍だった「足利義信」の時代 12代征夷大将軍の足利義信には 長男の「足利義輝」と 次男の「足利義昭」がいて
長男の「足利義輝」を室町幕府の「13代目の征夷大将軍」にする
次男の足利義昭には 征夷大将軍の地位を継承する資格がないので 次男の「足利義昭」は出家 僧侶になる
つまり 室町幕府は「衰退」に向かっていた為「諸藩の大名たち」は 衰退している室町幕府の征夷大将軍に「従わなかった」
しかし 近江の大名だった「浅井長政」と 越前の大名だった「朝倉義景」は 衰退していた室町幕府に「忠誠を誓っていた」
しかし三河の大名だった「織田信長」は 自分が「天下人」になるために「室町幕府」の 征夷大将軍を「支配させねば天下人になれない」ので
織田信長は前述したように「出家して僧侶になっていた足利義昭」を 15代の征夷大将軍に祭り上げれば 室町幕府の征夷大将軍・足利義昭を「操り人形」にして
織田信長は 室町幕府を支配し 天下人になれるため 僧侶になっていて征夷大将軍の「資格がない足利義昭」を 室町幕府の15代征夷大将軍に「祭り上げる」
こうして15代征夷大将軍になった足利義昭は 織田信長の「操り人形」になってしまう
そのため 15代征夷大将軍になった足利義昭は 家臣である三河の大名「織田信長」の「操り人形にされていた為」
「足利義昭征・夷大将軍」は、織田信長を「不忠義な裏切り者」として 諸藩の大名たちに織田信長を「討ち取る」よう命じる
そのため室町幕府に「忠誠を誓っていた浅井長政と朝倉義景」が 不忠義者の「織田信長」を成敗しようとする
つまり 織田信長と 浅井・朝倉は「敵対関係」になる
しかし織田信長が 室町幕府を「実質的に支配」していたので 諸藩の大名たちは 織田信長に追従
こうして 駿河の大名だった徳川家康が 織田信長と 連合を組み
浅井長政と朝倉義景を「滅ぼし」 織田信長が、天下人に向かい 遂に室町幕府を滅ぼし「安土桃山時代」を築く
なぜ織田信長が 浅井長政と朝倉義景を 滅ぼすことができたのか
ある識者が 延々と理由を解説しているが 次の投稿で 理由を簡単に説明
見出し・・信長は、なぜ浅井・朝倉を滅ぼせたのか?裏切りと悲劇が招いた「二大勢力」の最期とは?
天正元年(1573)8月から9月にかけて、織田信長は長年にわたり対峙してきた浅井氏・朝倉氏という二大勢力を相次いで滅ぼした。両氏は信長包囲網の中核を担った存在であり、その滅亡は戦国の勢力図を大きく塗り替える転機となった。
では、なぜ浅井氏と朝倉氏は、短期間のうちに相次いで崩壊することになったのか。その背景には、信長の迅速な軍事行動だけでなく、重臣や一族の裏切りが大きく影響していた。本稿では、浅井・朝倉滅亡に至る一連の戦いの経緯を追っていきたい。
湖西から攻勢開始――木戸・田中両城を攻略
天正元年(1573)7月26日、京都を発った信長は、巨大船に乗って近江高島郡へ出陣した。近江高島郡は、江北の浅井氏と越前から南下する朝倉氏の合流地点にあたる重要な地域だった。
信長は陸路からも軍勢を差し向け、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を次々と落とした。木戸・田中の両城は、明智光秀に与えられた。この勝利により、湖西方面において織田方は優位な立場を確立したのである。
相次ぐ寝返り――浅井方内部の動揺
同年8月になると、浅井氏の配下にあった阿閉氏、浅見氏が相次いで信長方へ寝返ったので、朝倉・浅井連合軍は不利な状況に傾いた。同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長軍と交戦したが、信長は自ら出陣して朝倉軍を蹴散らすと、そのまま逃げる敵を追撃した。
織田軍は越前へ退却する朝倉軍を追い続け、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで戦闘を繰り広げた。この戦いで朝倉軍は約3000の兵を失い、一族や重臣にも多くの死者が出たと伝えられている。朝倉氏にとって、極めて大きな打撃となったのである。
一乗谷放棄――名門朝倉氏の崩壊
同年8月、織田軍が敦賀から越前国内へと攻め込むと、義景は本拠である一乗谷(福井市)を捨て、賢松寺(福井県大野市)へ逃亡した。一乗谷に住んでいた武士や町人たちも織田軍を恐れ、散り散りになって逃げ出した。
8月20日には、朝倉景鏡(義景の従弟)が織田方へ寝返るという決定的な出来事が起こる。これにより義景は完全に孤立し、最終的に自害して果てた。こうして、越前の名門・朝倉氏はここに滅亡したのである。
次なる標的は浅井氏――小谷城への総攻撃
朝倉氏を討った信長が次に矛先を向けたのは、かつて同盟関係にあった浅井氏である。8月26日、越前を発した信長は、浅井氏の居城・小谷城に近い虎御前山(以上、滋賀県長浜市)に陣を敷き、総攻撃の準備を整えた。
翌8月27日、羽柴(豊臣)秀吉が小谷城の京極丸に攻め込むと、戦況は一気に動いた。その翌日には、長政の父・久政が自害に追い込まれたのである。この時点で、浅井氏の命運はすでに尽きかけていた。そして9月1日、小谷城はついに落城し、当主・長政も自害して果てた。
長政の妻であるお市(信長の妹)と娘3人(茶々、初、江)は辛うじて城を脱出することに成功した。しかし、嫡男でわずか10歳の万福丸は織田軍に捕らえられ、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)において磔刑に処せられたという。3人の娘はその後、信長のもとに引き取られたが、これにより浅井氏は完全に滅亡したのである。
二大名門の滅亡がもたらした歴史の転換点
こうして天正元年(1573)、越前の朝倉氏と江北の浅井氏という二大勢力は、わずか1か月余りの間に相次いで滅亡した。この戦いで大きな軍功を挙げた羽柴秀吉には、浅井氏の旧領が与えられた。
のちに天下人へと成長していく秀吉にとって、この時の活躍は重要な転機となったといえるだろう。そして、浅井・朝倉という信長包囲網の中核勢力を失ったことで、信長の天下統一への道は大きく開かれていくことになったのである。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
ウクライナ戦争は「東西冷戦の延長戦」
この歴史的な詳細は、既に何度も投稿した
大昔 1200年代以前から ウクライナ ベラルーシ ロシアの3国は 同じ「スラブ人」だったので ウクライナの「キエフを首都」として3国統一
「キエフルーシ公国」を築いていた
ところが1200年代に入り ユーラシア大陸の東北部モンゴルのチンギス・ハンが ユーラシア大陸に「モンゴル帝国」を築く野望に燃える
そのためモンゴルの南部に位置する中国を侵略するがチンギス・ハンは 中国の「六盤山」で死去
そのため4代目の」モンケ・ハン」が チンギス・ハンの野望を引き継ぎ 弟のフビライにユーラシア大陸の東部一帯を 征服するよう命じ
もう1人の弟「フラグ」には ユーラシア大陸の西部一帯を征服するよう命じる
こうして モンゴル族フラグにより キエフルーシ公国は滅ぼされウクライナウクライナ ベラルーシ ロシアの「3国に分離」してしまう
ところが1600年代 ロシア人が「ロマノフ王朝」を築き「帝政ロシア」を築く
この帝政ロシア時代 外交手腕に優れたエカテリーナ2世が かってウクライナ ベラルーシ、ロシアは 3国一体化したキエフルーシ公国を築いていたので
エカテリーナ2世は 帝政ロシアに ウクライナ ベラルーシを「併合」する
この併合で ウクライナのウクライナ人には 帝政ロシアからの「独立を目指す反ロシア派のウクライナ人」と ロシアに寄り添う「親ロシア派のウクライナ人」に「分裂」してしまう
これは 明治時代の「日韓併合」も同じで 朝鮮人には 日本からの「独立を目指す反日派の朝鮮人」 と 日本に寄り添う「親日派の朝鮮人」に分裂したのと同じ
ところが 第1次世界大戦の最中1917年、レーニンの「ロシア革命」で 帝政ロシアが 共産主義の「ソ連」になる
共産主義のソ連になっても ウクライナとベラルーシは「ソ連に併合された儘」
そして次は1939年 ドイツヒトラーとソ連スターリンが 互いに戦争しない「独ソ不可侵条約」を締結、同年1939年から 第2次世界大戦に突入
ところが 2年後の1941年 ドイツヒトラーは ソ連の領土が必要になり 独ソ不可侵条約を「一方的に破棄」
ドイツ軍(ナチス)が ソ連のレニングラート スターリングラード侵略
ここで ソ連に併合されていた「ウクライナの反ロシア派」が「ナチスに加担」ソ連に銃口を向ける
だから「ロシアのプーチン」が テレビで・・「ウクライナの反ロシア派はナチスだ」と発言していた理由
そして今度は1950年 朝鮮戦争で 資本主義と共産主義が「軍事的に敵対」する「東西冷戦」時代に突入
そのため資本主義の米国は 共産主義に「対抗」するため 資本主義の諸国を結束させた「北大西洋条約機構(NATO)」を結成
対する共産主義のソ連も 資本主義に「対抗」するため 共産主義の諸国を結束させた「ワルシャワ条約機構(WTO)」結成
ここで ソ連に併合されていた「ウクライナ ベラルーシ」も 共産主義の「ワルシャワ条約機構(WTO)」に「加盟していた」
しかし「東西冷戦」では 共産主義諸国が加盟する「ワルシャワ条約機構」が 資本主義諸国が加盟する「北大西洋条約機構」より「軍事的に劣勢」で
1991年 ソ連ゴルバチョフ書記長が 東西冷戦の「原因」になっていた ソ連共産主義を「解体」する、そのため 1991年、共産主義の諸国が 加盟していた「ワルシャワ条約機構(WTO)」も「解体」する
そのため共産主義の「ワルシャワ条約機構に加盟」していた「ウクライナ・ベラルーシ」は「ソ連から独立」する、そして国号が ソ連から「ロシア連邦」に国号が 変更
ロシア連邦から 独立した「ウクライナ」には 前述したように、帝政ロシア時代から 「ロシアからの独立を目指す反ロシア派」と ロシアに寄り添う「親ロシア派のウクライナ人」に分裂していて
ロシアから「独立」すれば、当然の成り行きで「独立派で反ロシア派のウクライナ人」が ウクライナに「反ロシア派の政権」を樹立する
しかしウクライナにはロシアに寄り添う「親ロシア派のウクライナ人」もいるので
反ロシア派の政権を「糾弾」今度は ウクライナに「親ロシア派のヤヌコビッチ政権」が 樹立される
しかしウクライナには「反ロシア派」もいるので 親ロシア派のヤヌコビッチ政権を「糾弾」
この当時 米国は、オバマ大統領で 副大統領は「バイデン」
バイデンが ウクライナの「反ロシア派」を「支援」
そのためウクライナの「親ロシア派のヤヌコビッチ政権」は追放され ロシアに亡命、こうしてウクライナには「反ロシア派の政権」が樹立された
この「反ロシア派の政権」が 現在の「反ロシア派のゼレンスキー政権」
ウクライナのゼレンスキー政権は「反ロシア派」なので 米国主導の北大西洋条約機構(NATO)加盟を希望、
ここで もし ウクライナの「反ロシア派のゼレンスキー政権」が NATOに「加盟」すれば
ロシアにとって ウクライナは「敵国」になり ロシアは「ウクライナから攻撃されてしまう」
かっては ロシアの一部だった「ウクライナが敵国」になってしまう・・昨日の友は 今日の敵になってしまう・・子供でも分かる理屈
だからロシアのプーチンは ウクライナの「反ロシア派のゼレンスキー政権」を「打倒」し ウクライナに「親ロシア派」の政権を 樹立するため
ロシア軍が「ウクライナ侵攻」した理由
だからプーチンはテレビで「これは戦争ではない」と言っていた理由
反ロシア派の政権を打倒し 親ロシア派の政権を樹立するために「ウクライナ侵攻」
プーチンは デタラメを言っていない デタラメは 米国バイデン
ところが ウクライナのゼレンスキー政権は「反ロシア派」なので ロシア軍に「銃口を向けてしまい」 ロシアプーチンと ゼレンスキーが ウクライナを巡り「ウクライナ戦争」に発展
ウクライナ戦争は 東西冷戦の「延長」
ウクライナは「何処の国が支配すべきか」の領土問題
これが ロシアと ウクライナのゼレンスキー政権とが ウクライナ㋾巡り「ウクライナ戦争」している「核心」
このウクライナ戦争は 1950年 朝鮮戦争から始まった 資本主義と 共産主義が軍事的に敵対する「東西冷戦」の「延長戦」がウクライナ戦争
そのため資本主義国と共産主義国の「教科書の説明」が「違っていて当然」
日本人識者どもは何時も頭がボケているので 肝心な核心チン玉が分からず4ページのグダ解説
見出し・・ロシアの教科書「ウクライナ侵略は人類の文明を救う行為」世界の歴史教科書を比較してわかった“国の価値観と政治的意図”
他国の教科書を覗き見ることで、自国の歴史教育のあり方が見えてくる
各国の歴史の教科書を読み比べると、その記述の仕方や学び方にはかなり差があることがわかります。本記事では、『世界の歴史教科書を読み比べてみた』の制作に携わった西岡壱誠氏が、ロシアの教科書の記述から見る歴史教育について考察します。
■「特別軍事作戦」を子どもにこう教える
歴史の教科書、と聞いて、多くの日本人が思い浮かべるのは「クロマニョン人」「四大文明」「メソポタミア」といった、人類の起源から積み上げられた淡々とした記述ではないでしょうか。年号を覚え、テストに備える。そんな“無色透明”なイメージかもしれません。
しかし、世界を見渡すと、教科書の姿は驚くほどバラバラです。何より興味深いのは、そこに国家の意思や政治性が、最初の一行から色濃く滲んでいるということです。
例えば、ロシアの教科書を例に挙げましょう。2023年8月、ロシアで初めての国定歴史教科書が発表されました。『ロシアの歴史 1914-1945年』『ロシア史:1945-21世紀初頭』の2冊です。
編纂を主導したのは、元文化相で現大統領補佐官のウラジーミル・メディンスキー氏と、外交官・諜報員養成機関として知られるモスクワ国際関係大学学長のアナトリー・トルクノフ氏です。
衝撃的なのは、教科書のなかにこんな一文が現れることです。
「ウラジーミル・プーチン大統領がウクライナに対する『特別軍事作戦』を開始していなければ、人類の文明はおしまいだったかもしれない」
(注:本記事ではこのように教科書の翻訳を掲載していますが、いずれも原語からの翻訳を経たものです。翻訳の都合上、語感や細かなニュアンスについては原文と完全に一致しない箇所がある可能性がありますが、各記述の大意や論旨に違いはないものとお読みください)
つまり、主権国家への侵略戦争が、「人類の文明を救う行為」として描かれているのです。
教科書はさらに踏み込み、もしウクライナがNATOに加盟したのちに「クリミアかドンバスで挑発行動を起こし紛争を仕掛けていたら」、ロシアはNATO全加盟国と戦争になり、「そのようなことになれば、文明の終わりだったかもしれない」と主張しています。先制攻撃こそが世界を救った、という論理です。
西側諸国の描かれ方も鮮烈です。
欧米も日本も かっては帝政ロシアの農奴制と変わりがない
15世紀の頃 西洋白人キリスト教徒たちは「白人こそが創造主が作った人間であり 有色人は人間ではない」と決めつける
これが「白人至上主義(人種差別)に「キリスト教がお墨付き」を与えた「人種差別の元祖」
そのため17世紀頃 白人でキリスト教諸国の欧州各国は 有色人の「アフリカ」を 羊の毛を刈るが如く侵略。植民地化した
西洋の小国ベルギーのレオポルト2世は、アフリカのコンゴを植民地化(ベルギー領コンゴ)とし コンゴ人に「重税」を課し 払わないコンゴ人の 両腕 両足を切断
コンゴ人から 重税を搾取 世界一の「大富豪」になっていた
英国も アフリカの巨大な湖を ヴィクトリア女王に因み「ビクトリア湖」と名付けアフリカのナイル川に生息する巨大魚ナイルパーチを ヴィクトリア湖でアフリカ人に養殖させ
英国人はナイルパーチの肉だけを 削ぎ落し食肉とし 西洋や 日本にナイルパーチの肉を輸出していて 日本では学校給食にナイルパーチの肉を使っていた
こうして西洋白人キリスト強国の西洋諸国は 有色人のアフリカ人を 虐待、奴隷化
が
それでも飽き足らず アフリカ人を「商品」として扱い 奴隷貿易
アフリカで 奴隷船の船底に アフリカ人を すし詰めのように 詰めこみ 西洋に運搬
しかし 船底に詰め込まれたアフリカ人たちに 疫病蔓延 死亡すれば 海に放棄していた船主は アフリカ人に保険を掛けていたので アフリカ人が疫病で死亡しても「保険金が入る」
生き残ったアフリカ人は「西洋に陸揚げ」され「奴隷商人」や「貴族」が「セリ」でアフリカ人を競り落とす
生殖器がデカいアフリカ人男性は西洋の貴婦人たちが 性の慰め者に擦るためセリ落とし
肉体労働に耐えるアフリカ人の男女は、奴隷商人がセリ落とし 再度 奴隷船に詰め込み
当時、北米大陸ではアメリカ人が「西部開拓」時代で 北米大陸の南部が 農園地帯で 農園で アフリカ人を強制労働させた これがアメリカ人がおこなった有色人のアフリカ人に対する「人種差別」の「虐待の奴隷」
オバマ大統領の祖父も、アフリカ人で 同じ境遇を受けた一人
日本も同じで 平安時代 宇多天皇は 菅原道真の才能を見抜き 右大臣に抜擢する
しかし宇多天皇は 自分の息子の「敦仁(あつひと)皇太子」に天皇の座を譲位する
こうして 宇多天皇の敦仁皇太子は 17歳で「醍醐天皇」に即位する
ところが後醍醐天皇の弟・・つまり宇多天皇の次男で 斎世(ときよ)親王と菅原道真の娘が「結婚」
そのため菅原道真は 皇室の姻戚関係となり 左大臣の藤原時平が菅原道真を「蹴落とす」ため まだ未熟で17歳の醍醐天皇に入れ知恵
そのため醍醐天皇が 道真の右大臣の地位を剥奪、平安京から 道真を大宰府に追放
こうして朝廷は 未熟な醍醐天皇と左大臣の藤原時平が 朝廷を 我が物顔で支配
そのため 各地の豪族たちが山野を開拓 農地を拡大する為、農民や非人を奴隷として酷使
豪族たちは「広大な農地」を所有 領主(大地主)になる これが昭和時代まで続き
大地主は 小作人たちに 自分の農地を貸与 小作料を取り 農作物を栽培させていた
しかし 戦後 米国GHQの「マッカサー」は「農業改革」で 大地主が保有する広大な農地を 分割させ 小作人たちに 分け与えた
だから現代 農家は自分が所有する農地で 農作物を作れるようになっている
帝政ロシアだけが農奴で 残忍だった訳でなく 米国も日本も 弱者は 奴隷(奴婢)同然に扱われていた
奴隷(奴婢)以下で、人間として 扱われなかった人達が「非人」
アメリカ人
帝政ロシア時代の残忍な「農奴制」
これは 米国も日本も変わりない
見出し・・ロシア史上最悪級の「悪女」100人以上の農奴を拷問した伯爵夫人ダリヤの末路
今から250年ほど前、18世紀のロシア帝国を治めていたのは、後に大帝と称えられる女帝エカチェリーナ2世でした。
彼女はヨーロッパの進んだ考え方を取り入れ、国を近代化しようと志した知的な指導者です。
しかしその足元では、領主が自分の土地で働く農奴を私物化し、絶対的な権力で支配する歪んだ仕組みが根深く残っていました。
そんな時代に、貴族社会を震え上がらせる凄惨な事件が発覚します。
領主であるダリヤ・ニコライェヴナ・サルトゥイコヴァという女性が、支配下にある100人以上の農奴に対し、長期にわたって執拗な拷問と殺害を繰り返していたのです。
そのあまりの残虐さから、彼女は後世「鬼女、血塗られた女領主」などと呼ばれることになります。
ダリヤの罪が異常だったのは犠牲者の数だけではなく、訴えが何度も握りつぶされ、被害者が主人のもとへ送り返され、虐待が長年にわたって続いていたことにありました。
今回は、ロシア史に残る「悪女」ダリヤ・サルトゥイコヴァについて解説します。
恐怖の邸宅
ダリヤ・サルトゥイコヴァは1730年、名門貴族の家に生まれ、近衛軍の将校グレブ・サルトゥイコフと結婚しました。
その残虐性が顕著に表れるようになったのは、1755年に夫が亡くなり、広大な領地と多くの農奴を相続してからです。
彼女はモスクワの邸宅や、モスクワ近郊のトロイツコエ村を中心に、農奴たちを日常的に虐待したのです。
被害者の多くは10代後半から20代の若い女性や、まだ幼い少女たちでした。
後の裁判では138件の不審死が調査対象となり、そのうち38件についてダリヤの直接的な暴行による死亡責任が認定されました。
彼女の暴力には共通した傾向がありました。
それは些細な理由で、例えば洗濯物のすすぎ方が不十分であるとか、床の掃除が隅々まで行き届いていない、などといった理由で激昂したのです。
自ら丸太や熱湯を用いて農奴を打ち据え、髪の毛を素手でむしり取る、厳冬期に裸で屋外へ放置する、懐妊中の女性に容赦のない打撃を加えて流産に至らせるなど、その行為は常軌を逸していました。
沈黙を破った告発者たち
しかし農奴たちは、ダリヤの暴虐に対して無抵抗だったわけではありません。
記録によれば、何度も地方の役所やモスクワの当局に対して訴えを届け出ています。
しかしダリヤは有力な貴族家系との繋がりを持ち、役人たちに多額の賄賂を贈ることで、これらの告発を組織的に握りつぶしていました。
逆に訴え出た農奴たちが「主人に対する不敬」として処罰され、鞭打ちの刑に処された上で、再び彼女のもとへ送り返されるという事態が繰り返されていたのです
2人の農奴、サヴェーリーとエルモライが、決死の覚悟で当時のロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへと逃亡し、即位したばかりのエカチェリーナ2世に直接訴状を届けることに成功したのです。
特にエルモライの訴えは悲痛なもので、彼はダリヤによって3人の妻を次々と殺害されており、その怒りと悲しみが女帝を動かしました。
新女帝エカチェリーナ2世は、自らを啓蒙主義的な理性に基づく統治者として位置づけており、法による秩序の確立を急いでいました。
彼女はこの訴えを重く受け止め、法務院に対して徹底的な調査を命じます。
これは、ロシア史上類を見ない貴族に対する大規模な司法介入の始まりとなりました。
法務院から派遣された捜査官ステパン・ヴォルコフらは、1762年から1768年までの6年をかけて、ダリヤの罪を裏づける証拠を集めていきました。
捜査官たちはダリヤの領地に入り、多くの証言を集める一方で、邸宅の会計帳簿や農奴の記録も徹底的に調べあげます。
ですが彼女は一貫して罪を認めず、捜査は証言や帳簿の記録を積み上げる形で進められました
法務院は最終的に、138件の不審死のうち38件について、ダリヤの直接的な暴行による死亡責任を認めました。
判決文は、その行為が懲戒の名目をはるかに逸脱した執拗な虐待であると断じています。
こ
女帝の裁きと永劫の沈黙
1768年10月、エカチェリーナ2世はダリヤに対して最終的な判決を下します。
その内容は、当時の貴族社会において極めて異例なものでした。
ダリヤは貴族の身分を奪われ、名を名乗ることも禁じられ、判決文では「怪物」と呼ばれるほど厳しく断罪されたのです。
まず、モスクワの赤の広場において、首に「この女は拷問者であり殺人者である」という銘板を下げられ、1時間にわたり晒し台に繋がれる辱刑に処されました。
ダリヤはモスクワのイワノフスキー女子修道院に送られ、当初は光の差し込まない狭い地下独房に閉じ込められました。
食事は小さな窓から差し入れられるだけで、外部との接触も厳しく制限されたのです。
その後、小窓のある房へ移されたとも伝えられますが、ダリヤは33年間を獄中で過ごし、1801年に71歳で没しました。
晩年には、窓の外を通る参拝客に罵声を浴びせたり、鉄格子を掴んで叫んだりすることもあったと伝えられています。
遺体はドンスコイ修道院の墓地に埋葬されました。
日銀が保有する「国債」が 45兆円の評価損
見出し・・日銀が国債で過去最大の評価損45兆円 金利上昇で前年の1.6倍に
日銀の国債保有残高と評価損益
日本銀行は27日、保有する国債を時価でみた評価損が、3月末時点で45兆4414億円だったと発表した。前年の約1.6倍に膨らみ、過去最大となった。日銀による大規模金融緩和策の転換に、中東情勢を受けた原油高、財政の悪化懸念などが重なって長期金利が上昇し、国債の市場価格が下落したことが響いた。日銀は「財務に問題はない」としている。
日銀が公表した2025年度決算によると、保有する国債残高は前年比7.8%減の530兆8695億円で、2年連続で減った。この額は簿価(取得時の価格)で、時価では485兆4280億円だった。簿価と時価を差し引きした評価損は、前年度の28兆6246億円から拡大した。
日銀は2024年3月に大規模な金融緩和策を転換し、同7月と昨年1月、同12月にも利上げに踏み切った。長期金利は上昇(債券価格は下落)し、大規模緩和時に大量に購入した国債の評価損が膨らんだ。
・・・この「報道の意味」は 安倍政権の時代 日本経済は「物価安」で「円の価値が高く」なる「デフレ経済」に陥った
この「物価安」で「円の価値が高く」なる「デフレ経済」では物価が安いので「消費者」にはプラス
しかし「物を作る生産者」にとっては「物価安」なので 穀物を作る「農家」や 物品を製造する「製造業者」は「破綻してしまう」
さらに「円の価値が高くなる」のでで「政府が抱える借金」の価値も高まり 借金が「増加」してしまうので
安倍総理は 逆に「物価高」で「円の価値が低く」なる 2%インフレ目標を掲げる
この政策は「日銀が行う金融政策」なので 日銀が「円の価値を低く」して「物価高」のインフレ経済にしたのが
日銀による「金融緩和」の政策
この日銀による「円の価値を低く」して「物価高のインフレ誘導」の為に 政府が「借金するために発行」していた国債を 日銀が「無制限に買い取る」・・「買取りオペレーション」を行う・・これが金融緩和・・アベノミクス
そのため「日銀」は 政府が借金する為に発行した「国債」を「多量に保有」していて
この「日銀が保有」する「多量の国債」の「価値が低く」なり 日銀は 保有する国債で「過去最大の評価損45兆円」もの 評価損になったという報道
簡単に言えば 政府の借金を日銀が「肩代わり」したのである その結果 日銀は45兆円もの評価損になった
こうして 現在 日本経済は「物価高の日本」になっている
「叩けよさらば与えられん」の意味は?
“求めよ、さらば与えられん”――これは、キリスト教のことをよくご存じでない方でも、どこかでお聞きになったことがある、キリストの有名な言葉です。
熱心に求めていけば、必ず与えられるという意味の、励まされる言葉です。
旧約聖書 と 新約聖書
旧約聖書は、ユダヤ教の聖典 新約聖書は、キリスト教の聖典
イエス・キリストは 悟り深い男性で 人民に こう諭している
「叩けよ さらば開かれん」
さらに、こうも 諭している
「神の物は神に返せ カエサルのものはカエサルに返せ」
このイエス・キリストの言葉が 悟りある「目から鱗が落ちる」言葉の由来
ところが ユダヤ教のイスラエルは、パレスチナ人から 居住地を「奪い」イスラエルの領土を拡大している
そのため 居住地を奪われたパレスチナ人たちが パレスチナ解放機構【PLO】を設立 ユダヤ教のイスラエルが奪った居住地を 返還するよう 現在の「パレスチナ戦争」
このパレスチナ戦争で ユダヤ教のイスラエルがパレスチナ人を 無差別に大量殺戮している
そのため 国際刑事裁判所が イスラエルのネタニヤフ首相を 犯罪人として「逮捕状」を発行している
ユダヤ教は キリスト教。イスラム教と「違い」 邪悪で強欲な宗教
「目から鱗が落ちる」・・由来
これはイエス・キリストの言葉・・「叩けよ、さらば開かれん」に由来
見出し・・「目から鱗が落ちる」って仏教の言葉じゃないの?出典をたどると新約聖書に行き着いた
「目から鱗が落ちる」って仏教の言葉じゃないの?出典をたどると新約聖書に行き着いた
「目から鱗が落ちる」って仏教の言葉じゃないの?出典をたどると新約聖書に行き着いた
「目から鱗」、出典は意外にも新約聖書だった
「目から鱗が落ちる」と聞くと、何かが急にすとんと理解できたとき、つい口にしてしまう言い回しです。なんとなく仏教や中国の故事に由来する言葉だと思っている人もいるかもしれません。
実は私も、ずっと仏教由来の言葉だと思っていました。ところが出典をたどってみると、行き着くのは仏教ではなく、新約聖書でした。
出典は新約聖書『使徒行伝』
国立国会図書館の解説によると、「目から鱗が落ちる」の出典は新約聖書『使徒行伝』第9章です。現在の訳では『使徒言行録』とも呼ばれます。そこには、目から「うろこのようなもの」が落ち、再び見えるようになった場面が記されています。ギリシア語で書かれた原文にも、「うろこのようなもの」にあたる表現があるとされています。
およそ2000年前に記された新約聖書の一節が、いまの日本語の慣用句として残っているのです。
畳は「イグサ」という草で「畳の表」が作られている
「イグサ」は、昔 何処の湿地帯にも 自生していた自然界の草で、この「イグサ」で
「畳の表」を作っていた
そのため「新品の畳」には「イグサの匂い」がしていて、心地よい生活を送っていた
特に「備後(びんご)のイグサ」で作った「畳表」は、高級品だった
備後とは「現在の広島県の東部(福山)」の昔の地名
この「備後のイグサで作った畳表」を、室町時代、天下人になった「織田信長」が
安土桃山城を築城する際、備後のイグサで作った畳を用いている
見出し・・信長の安土城天守や宮中でも重用 最高級畳表「備後表」の歴史たどる 広島県立歴史博物館で企画展
福山市など広島県東部の伝統産品「備後表」にスポットを当てた企画展が、広島県立歴史博物館(同市西町)で開かれている。
資料約50点を集め、織田信長が安土城天守に用い、宮中や江戸幕府の指定銘柄として重用された最高級畳表の歴史をたどっている。
室町時代の文献には「備後筵(むしろ)」の表記が登場。寺の祭事用に購入された記録があり、格式高い場で使われていたことがうかがえる。
江戸時代には福山藩が特産品として備後表を奨励。材料のイグサは現在の福山市沼隈町産とし、藩の役人による品質検査を経るなど厳格なルールが確認できる資料もある。イグサ栽培から製品の出荷までの流れを一覧できる絵巻は、幕府御用達の畳師が現地視察して描いた。
ほかにも、備後発祥の製法で美しい艶を特長とする「手織中継(なかつぎ)表」の見本や織機を展示。文化庁の選定保存技術「手織中継表」保持者の来山淳平さん=同市=やイグサ農家を紹介するコーナーもある。
時代とともに備後表の需要は減り、イグサ生産も激減している。尾崎光伸学芸員は「全国に名をはせた伝統産業をどう受け継いでいくか。関心を持つきっかけになってほしい」と話している。