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「日本に帰ってくると、手元の資金が底をついていました。アルバイト情報誌を見ると『即金日払い8000円』という文字が目に飛び込んできました。それが荷揚げの仕事でした」
前述の通り、荷揚げは大変な仕事だが、今村には耐える能力があった。スポーツインストラクターや某テーマパークでダンサーをしているという体力自慢がバイトに来てもすぐに逃げ出した。何人かのゲーマーが長く続くのは意外だった。
しかし、今村はこの時点で30歳。前職の経歴も転職市場で十分に通用する。日雇い仕事で食いつなぐには若すぎる。
「そう思います。1年ほど荷揚げの仕事をして、体がきついので、31歳のとき外資系のコンピューターメーカーに就職しました。今度は、法人にパソコンを売る営業でした。経験があったのでよく売れて、3カ月目の営業成績は社内で3番目でした。残業もなく定時で帰れる会社でした。ただ外資系の縦割り社会と息の詰まるような雰囲気は肌に合いませんでした。3カ月は試用期間で、4カ月目に入るとき『正社員になりますか?』と言われましたが、『私は会社を辞めます』と返事をして、それっきりです。2カ月後、その会社は日本撤退を決めたようでした」
会社員に戻れる力はあったが、組織に勤めることに今村は拒絶反応があった。一度、日雇いの暮らしを知ると、飼い慣らされた月給取りの生活には魅力を感じなかった。
今村に、荷揚げ屋で生き残れた理由を聞いてみた。
「ポリシーはなく、なんとなく流されて、です。これを辞めたらどうやって食ってこうという人生設計も考えていませんし、切迫感はありません。ダラダラ続けていたら30年以上経っていました」
2度目のサラリーマン生活を抜け出して以降は、主に荷揚げ屋で生活を成り立たせている。ビルやマンションなどの引き渡しは年度末である3月末が多い。それゆえ荷揚げの仕事は、4月、5月、6月は閑散期となる。その間、今村は、オフィスのイスや机を配送し、組み立てる派遣の仕事をしたり、貯金でしのいだりしている。
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■「会社を辞めます。世界一周に行きます」
入社して数年経つと、今村は部署のリーダークラスに出世をした。残業自体は変わらなかったが、バブルは弾け、会社が利益率に厳しくなってくると、定時でタイムカードを切らされた。残業代はつかないが仕事はしている。いわゆるサービス残業だ。
ある日曜日、今村は翌日提出の提案書を作るために出社した。会社の電源が落とされていたため、近くの公園で同僚たちと打ち合わせをして、徹夜のまま月曜日も営業に行った。
「そろそろ潮時かな」
今村はふと、そう思った。仕事への情熱が冷め、折悪しく小さな支店に転勤にもなった。支店では、本社とは情報の質と量が圧倒的に違った。別業種の子会社に行く道もあったがコンピューター以外に興味が持てなかった。
上司たちを見て思った。課長クラスになれば、だいたい子会社へ出向する。部長からその先へとピラミッドの頂点に残れるのは同期入社の中でもほんの一部だ。10人が5人、そして3人。自分は残れるのだろうか。
少しは転職活動もしてみたがもうすぐ30歳。面接では「どんな仕事で利益を作れるのか」ばかりを求められ、嫌になった。ある日、心を決め上司に言った。
「会社を辞めます。世界一周に行きます」
それまでもゴールデンウィークや年末年始に、短い休暇を使いアメリカや中国などを訪れていた。
「同僚にも海外旅行に行く人は多かったです。理由は上司や客先からの問い合わせの電話に追いかけられないからです。今なら考えられませんが、休暇中に実家へ電話がかかってくるのは当たり前で、新婚旅行先のホテルに電話がかかってくることもあったみたいです。だから面倒な客先の夏休みと期間をずらして海外旅行を入れている人は多かったですね」
今村はこのとき20代だったが、残業代がもらえていたときの年収は500万円を超えていて、資金には余裕があった。
■手元の金は尽き、たどり着いた即金日払い
世界一周はまずニューヨークからだった。そこからロンドンに飛び、ギリシャ、トルコを回った。学生時代、ESS部だったので英語にはそれほど苦労しなかった。バルセロナの空港では、荷物の盗難に遭った。盗難証明のため警察に行くと、その日だけで100人目の被害者だった。再度、ワシントンDC、ロサンゼルスと回り、日本へ帰国。約90日間、費用は60万円ほどの旅だった。
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キツい仕事だ。さすがの今村も50歳を過ぎてからは、重量物ではなくアルミサッシなどの軽めの荷揚げ現場に行くことが増えている。時には荷揚げだけでなく、アンカーを打ったり、玄関の鍵を付けたりと職人のような仕事もしている。
■「君、終電は何時だ?」人気企業の実態は残業130時間
今村は最初から日雇いをしていたわけではない。
両親が教師という厳格な家庭に育ち、関西の私大で大学生活を送った。卒業後、就職した企業は日本を代表する電機・コンピューターのメーカーだった。グループ全体の従業員数は10万人を超え、就職ランキングでもトップ10に入ることが多い人気企業である。
「1浪していて、1988年に大学を卒業しました。日本では重工業、化学工業、自動車産業の順に発展してきました。当時はバイオ関連とも悩みましたが、ちょうどコンピューターが上向きになってきたころで就職先として選びました」
会社が用意した寮に入り、3カ月の新人研修を受けた後、コンピューターの法人営業の部署に配属された。
「企業向けのコンピューターを営業します。多いのは4年リースで、数億円の契約になります。ライバルと競合して負けると、次は4年後に向けて、御用聞きをしながら顔をつないでおきます。ノルマは結構厳しくて、期末、年度末などには別の部署と売り上げを交換する伝票操作もありましたね」
今村は直接恩恵を受けたわけではないが、時代はバブル末期である。右肩上がりの経済を背景に「24時間働けますか」というフレーズのCMが流れ、長時間労働が美徳とされていた。
「研修後、営業部の上司と最初に話したことは『君、終電は何時だ?』でした。月に130時間以上の残業、週に1回は徹夜。ホワイトボードに外回りの行き先を書いて、朝4時に会社に戻ることもありました。客先で21時まで打ち合わせをして、会社に戻り、事務作業をしてから翌日のための提案書を徹夜で作っていました。僕の部署では年間何十人も辞めて、3人ほど自殺した人もいました」
ある男性の生き様、4ページ全文
人生は どう転ぶか 分からない 糖尿病で週に3回、4時間の人工透析せねばならない男性の生き様
これに付いてはアインシュタインは、こう主張
「神はサイコロを振らない」・・神はサイコロを振っていい加減なことはしない
これに対し量子論のボーアは反論「なぜあんたにそれが分かるのか」
こうして アインシュタインとボーアが世紀の対決「ソルべェ会議」
前半戦はアインシュタインの勝利 後半戦はボーアの勝利
こうして現代は「実態が曖昧で揺らぐ量子論」が主流となりテレビ コンピュータ 携帯は量子論で機能
神は 常にサイコロを振り いい加減な仕打ち
運 不運の運命は天命 運だけは、いかに努力しても、どうにもならない
株で勝つか負けるか天命 ・・博打的
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年収500万円を捨て、透析を受けて…一流電機メーカーを辞めた64歳が現金日払いの「荷揚げ屋」を30年以上続ける切実な理由
荷揚げ屋として働く今村康二さん(仮名・64歳)
新連載『“現金とっぱらい”の現場で』では、現代の日本で「即金日払い」という生き方を選んだ人々の人生を追う。彼らはなぜ、その働き方を選んだのか。そうせざるを得ない理由があるのか。 第1回は、かつて日本を代表する大手電機メーカーで、数億円規模の商談を動かしていた元営業マンの男性だ。退職後に彼が選んだのは“荷揚げ屋”という仕事だった。それから30年以上、なぜ彼は大企業の組織に戻ることなく、日払いの労働を続けたのか。その理由を聞いた。
日当は1万円を切ることも…元営業マン・今村さん(仮名・64歳)の一見過酷で気楽な日常とはーー
■ひとつの現場で2.8トンを運ぶ、過酷な労働「荷揚げ屋」
初対面の男の腕には、痛々しい針の跡が目立っていた。糖尿病が原因で腎臓を悪くして、3年前から人工透析を受けているからだ。今村康二(仮名・64歳)は、月曜、水曜、金曜の夕方から夜にかけての4時間を病院のベッドの上で過ごす。
「今は週に3、4日仕事に出ますが、生活はギリギリですね。透析がある日は15時には現場を上がります。翌日が仕事のこともあります」
荷揚げ屋という仕事を知っているだろうか。建設現場で壁材や石膏ボード、金属や木の柱などを運ぶプロだが、その仕事は苛烈さを極める。荷揚げ屋の仕事の一例を示すと、ビルや住宅などの壁に使われる1枚約14キロの石膏ボードを100枚から200枚、現場の所定の位置に人力で配置する。リフトがない現場では、ボード2枚か4枚を背中に担ぎ、何回も階段を上がる。仮に200枚ならひとりで2.8トンもの荷物を動かすことになる。建設現場の中でも、かなり体力を使う仕事であることは想像できるだろう。そんな仕事を30年以上続けているのが今村だ。
「荷揚げの仕事は10人中9人が1週間で辞めます。短い人なら初日の10時の休憩で消えます。1週間は『新人』と呼ばれ、それ以上現場に来ることができると、やっと名前を覚えてもらえます。私も初日は、お昼ご飯を食べようとしたら手が震えて、箸が持てないので、おかずを箸で刺して食べました。
始めた1990年代は日当8000円。今は1万円から1万1000円ぐらいですかね。荷揚げではなく、手元という雑用に回されることもあって、こちらは体が楽ですが、日当は6000円のときもあります」
火縄銃の「火薬」
ある識者の以下の解説は「事実」
>信長は若い頃から橋本一巴(いっぱ)に鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石(しょうせき)を確保するため奔走したことも事実である
・・・当時、火縄銃の火薬は「黒色火薬」で、黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)と硫黄と木炭を混ぜると黒色火薬になり 火縄銃の火薬に使われていた
黒色火薬の原料だった「硝石」とは どうやって作っていたのか?
こうやって硝石を作っていた
「小便」を壺の中に入れ「長い間保管」していると 壺の内側に 固い物質が こびり付く
これが 黒色火薬の原料となる「硝石」
つまり「硝石」を作るには、小便を壺に入れ「長い間保管」していなければ「硝石ができない」
そのため 火縄銃の黒色火薬を作るのは 長い時間が必要で 鉄砲軍団の織田信長は 黒色火薬を入手するため悩んでいた
この織田信長の鉄砲軍団を 今度は「豊臣秀吉」が引き継ぐが黒色火薬が必要だった
ところが 茶人の「千利休」が 弟子の「山上宗二」を 豊臣秀吉に「紹介」する
ところが山上宗二は、茶人でもあり「堺の商人」でもあったので豊臣秀吉は、堺の商人・山上宗二に「火薬を入手するよう命じる」
しかし、山上宗二は「北条家に忠誠」を誓っていたので 秀吉の要請を「拒否する」
そのため豊臣秀吉は、自分に忠誠を誓わない山上宗二を 家臣に命じ 鼻 耳を そぎ落とし 首まで斬り落としてしまう
この山上宗二が残した言葉が「一期一会」
このように 秀吉は、自分の「言いなりにならない者」は「制裁」を加えていて、自分の「跡継ぎ」にした「豊臣秀次」も言いなりにならなかったため「出家」を命じる
そのため豊臣秀次は「自決」してしまう さらに茶人の千利休も 言いなりに成らなかったので千利休も「切腹(自決)」する
此の後、秀吉は 中国は「明王朝を支配」するため 明王朝に服属していた 李氏朝鮮を支配するため「朝鮮出兵」
ここで「倭軍も朝鮮軍」も 火縄銃で黒色火薬を使っていた
火縄銃の黒色火薬の原料(硝石)は「小便」で作る そして火薬は「ニトログリセリン」になる このニトログリセリンは爆発しやすい危険な液体で
床に 1摘 落とすと爆発する 爆発しやすい危険な火薬
そのため「ノーベル」が 安定した火薬(ダイナマイト)を開発
このノーベルが開発した火薬(ダイナマイト)で 大儲け
そして現在 各ジャンルで功績があった学者が「ノーベル賞」
武田信玄の「騎馬軍団」と、織田信長の「鉄砲軍団」
歴史資料には「信憑性」がある歴史資料が 第1資料~第3資料で
信憑性がない「風説。伝聞 噂」などは 第4資料~第5資料として分類している
歴史では 武田信玄は「騎馬軍団」で兵士(武士)が 鎧・兜を身に着け馬に乗り、槍や刀で 敵兵を倒す兵隊が「騎馬軍団」
「鉄砲軍団」は、織田信長が 戦場で最初に鉄砲を用いたと言われ 当時の鉄砲は「火縄銃」で
銃口から 火薬と弾丸を入れ 火縄に火を点け 引き金を引くと 火縄の火が、火薬に点火 火薬が爆発 弾丸が発射されるのが火縄銃
つまり 連発銃ではなく「単発銃」
そのため 1発 弾丸を発射すると また銃口から火薬と弾丸を詰め込まねばならず これには「時間が掛かり」敵の矢でコロされてしまう
そのため織田信長は 単発銃(火縄銃)の兵士を「3列縦隊」に並ばせ
「1列目」の鉄砲隊が 弾丸を発射 すれば 次の火薬と弾丸を詰め込むため「時間がかる」ので
「2列目」の鉄砲隊が、すかさず発射 2列目の鉄砲隊が火薬と弾丸を詰め込むには「時間がかかる」ので 「3列目の鉄砲隊」が すかさず発砲
この間に「1列目」の鉄砲隊は 火薬と弾丸を詰め終わっているので すかさず発砲
織田信長は このように 単発銃を「連発銃」にして、敵と戦ったのが「鉄砲軍団」で 織田勢は「3000丁」の「鉄砲軍団」と言われている
こうして騎馬軍団を率いる「武田信玄」と 鉄砲軍団を率いる「織田信長の両者が「天下人」になるため武田信玄と織田信長の「天下分け目の戦い」
しかし 武田信玄は「天下分け目の戦い」の「最中」 持病の労咳(肺結核)が悪化 臨終の床に伏してしまう
武田信玄は、臨終の床で息子・武田勝頼に 以下のように「遺言」
これは武田家の日誌「甲陽軍鑑」に書き残されている
「向こう3年 動いてはならぬ 困った事あれば上杉謙信に頼れ」 「動いてはならぬ」という意味は 武田信玄は、織田信長と天下人を争うが、息子の武田勝頼は 織田信長とは「天下人を争うな」という意味で
父親の武田信玄は 息子の勝頼が 織田信長と戦っても「勝ち目がなかった」ため 向こう3年 動くなと遺言
これが「武田信玄の軍旗」になっている「風林火山」で‥「動かざること 山の如し」
不利になれば「上杉謙信」を頼るよう遺言
なぜ武田信玄は 息子の武田勝頼に「宿敵」だった上杉謙信を「頼るよう遺言」したのか
上杉謙信の研究家「井上鋭夫」は 次のように説明している
上杉謙信は、生涯 70戦するが 殆ど全ての戦いは 他の大名から「依頼」されて戦った「代理戦争」で 自分の戦いではなく 他の大名の為の戦い
さらに「武田信玄と上杉謙信」は「川中島の戦い」で 5回戦っていて 歴史家は、前半戦は「上杉謙信の勝利」 しかし 後半戦は「武田信玄の勝利」として「両者引き分け」にしている
こうして 信玄と謙信は「宿敵」となり お互いに「敵ながらあっぱれな武将」として認めあっていた
これは 中国も 米国も 日本も同じで、騎士道、武士道の理念により 立派な敵には「敬意を表していた」
だから 日米開戦でも 米軍ハワイのカネオエ基地に 自爆した飯野房太中尉を 米軍は「敵ながらあっぱれな日本軍人」と表し カネオエ基地に「飯田房太」の「顕彰の碑」を建てている
このように 武田信玄と上杉謙信は「宿敵」だったが 互いに「敵ながらあっぱれな武将」として称賛していた
だから 武田信玄は、息子の武田勝頼に「困った事態になれば上杉謙信」を頼るよう遺言
しかし 武田勝頼は 天下人を目指し 父親の「遺言」を無視 うごいたため「織田信長+徳川家康」の連合軍との「長篠の戦い」で 追い詰められ自害
こうして武田家は 滅亡してしまう もし勝頼が 父親の遺言を守っていれば 武田家は滅亡しなかったろう
長篠の戦い
ある識者が 長篠の戦いで 武田勢の「騎馬軍団」も織田信長の「鉄砲軍団」も創作だったと言う
報道・・武田勝頼の「騎馬軍団」も信長の「三段撃ち」も創作だった…最新の研究で分かった長篠の戦いの「本当の姿」
1575年、武田勝頼は織田・徳川連合軍と長篠の戦いを行い、敗戦する。歴史学者の渡邊大門氏は「小説や映画で描かれるような戦いが行われたかは非常に疑わしい。そもそもこの戦いの実像を示す一次史料は極端に乏しい」という――。(第3回)
【画像をみる】武田勝頼(1546~1582)の肖像画(部分)
※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■「三段撃ち」も「騎馬軍団」もなかった
織田・徳川連合軍が向かった場所は、長篠城の手前にある設楽原(愛知県新城市)である。設楽原は平野ではなく、丘陵地が沢や小川に沿って南北に連なっている地形だった。武田方と織田・徳川連合軍は連吾(れんご)川を挟んで陣を置き、川を自然の堀として防御線を築いた。
織田・徳川連合軍は、丘陵地ゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、馬防柵(ばぼうさく)を築くなどして万全の体制を敷いた。なお、武田方の率いた軍勢の数よりも、織田・徳川軍のほうが圧倒的に多かったといわれている。
天正3年(1575)5月21日、長篠の戦いの前哨戦として、鳶ケ巣(とびがす)山砦(愛知県新城市)において攻防が繰り広げられた。鳶ケ巣山砦は、武田方が長篠城を攻略する際の付城として築かれたものである。
織田・徳川連合軍は奇襲戦で鳶ケ巣山砦を攻略すると、武田方の退路を断つことに成功した。これにより、織田・徳川連合軍が自軍の士気を大いに高め、当初から戦いを有利に進めたのである。
天正3年(1575)5月21日、両軍は長篠の戦いに突入したが、この戦いで避けて通れない問題は、織田・徳川連合軍の軍事革命といわれる戦法である。織田・徳川連合軍は、戦国最強とされた武田氏の騎馬軍団を3000丁もの鉄砲で撃破したと長く語られてきた。
■熟練した射手が3000人もいたのか
とりわけ鉄砲の「三段撃ち」は軍事革命と称されてきたが、近年はその評価の見直しが進んでいる。それは、武田の騎馬軍団も同じである。では、この通説はどこに問題があったのか考えてみたい。
鉄砲の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団の根拠史料となったのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『信長記』(織田信長の一代記)である。その後、参謀本部編『日本戦史 長篠役』(元真社、1903年)がこの説を採った。軍事の専門家である参謀本部の影響力は大きく、「鉄砲の三段撃ち」対「武田の騎馬軍団」という構図は長らく通説とされてきたのである。
しかし、甫庵の『信長記』の内容は、同じ二次史料の太田牛一の『信長公記』を参考とし、おもしろおかしく創作・脚色したものである。
牛一の『信長公記』は二次史料とはいえ、客観性に富んでいるが、甫庵の『信長記』は歴史小説にすぎず、歴史史料としては適さない。したがって、今となっては甫庵の『信長記』を根拠とした、「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」は否定されている。
以下、もう少し「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」について考えてみよう。まず、鉄砲隊が三列に並び、1000丁ずつ交代射撃を行うのは極めて困難だったことが指摘されている。熟練した射手を3000人揃えるのも難しかったに違いない。
■馬から降りて戦っていた
また、実際の戦いでは武田の騎馬軍団が突撃したのではなく、下馬して戦った可能性が高いといわれている。別の合戦の例になるが、戦闘の際には馬から降りて戦ったという記録がある。
その一方で、馬上で槍を振るって戦った事例も報告されているが、それは馬で突撃したわけではない。馬は高価で貴重だったので、失うことが懸念されたと考えられる。
その後の研究では反論も示されたが、なかなか決定打が出ていないのが現状である。このように、近年の研究は従来説を鵜呑みにせず、長篠の戦いの実像を丁寧に再検討している。以下、さらに具体的に確認していきたい。
まず、織田方が3000丁もの鉄砲を準備し、1000丁の鉄砲を代わる代わる撃つ「三段撃ち」を行ったのかという点を考えてみたい。
信長は若い頃から橋本一巴(いっぱ)に鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石(しょうせき)を確保するため奔走したことも事実である
黒く濁る村
これは韓国映画で ストーリーの展開が秀逸な作品で、この原作者は天才
それ以上に、素晴らしい傑作は、中沢啓治の漫画「はだしのゲン」で、人類至上最高傑作
先輩の娘に「はだしのゲン」を勧めたところ 小学生の頃 学校で習ったという
なるほど 小学校で小学生に教えるほど 価値ある漫画
「はだしのゲン」は、中沢啓治が 少年の頃、広島で原爆被爆者となり自分の原爆被災体験を 漫画「はだしのゲン」の主人公「中岡元」に 置き換え
少年の中岡元が、原爆で「両親と姉と弟」を亡くし 原爆で亡くした姉と そっくりな被爆者の女性と 運命の巡り会い 姉と弟の関係になり、互いに励まし合い さらに 被爆者の少年と運命の出会い 兄弟関係になり励まし合い、互いに放射能障害を抱え 逞しく、朗かに生き抜く姿を描いたのが漫画「はだしのゲン」
胸を 鷲掴みされるほど素晴らしい漫画
日本人なら死ぬまでに見ていた方がいい 物凄く為になる漫画
吾輩は この漫画を見て「生きる力」を教えられた 一生忘れられない漫画
今夜の歌・・テレビドラマ「藍より青く」のテーマ曲「耳をすましてごらん」
この歌詞と 中岡元の「生き様」は「全く同じ」
「耳をすましてごらん」
耳をすましてごらん~~ あれは遥かな~~海の轟き~~!
巡り会い~~見つめ遭い~~出会ったその日から~~生きるの強く あの海があるから~~!
旅を続けて遥か~~、ひとり振り向く~~遠いふるさと~~!
思い出に~~幸せに~~寂しくないよと~ほほ笑えんで~~生きるの強くあの空があるから~~!
時は過ぎ~~人は去り~~冬の世界を歩むとも~~生きるの強く あの愛があるから~~!
「織田信長」は「癇癪もち」の精神疾患者だった
常軌を逸した行動が多い 報道では織田信長が、討ち取った 武田勝頼の首を愚弄したと説明されているが、これは事実だろう
これ以外にも、織田信長は、討ち取った朝倉義景と浅井長政の 生首から頭蓋骨を造り 金粉を塗り 朝倉・浅井の頭蓋骨を「肴」にして酒を飲んだという 普通の精神ではなかった
室町時代 天下取りで 武田信玄と 織田信長が「天下分け目の戦い」
この最中 武田信玄は持病の「労咳(肺結核)」が重症化 大量の喀血
臨終の床に伏し 息子の「武田勝頼」に 以下のように「遺言」
「向こう3年、動いてはならぬ、困った事あれば上杉謙信を頼れ」
・・意味は「父親の武田信玄」と「織田信長」は「天下分け目の戦い」
父親の信玄が死去すれば、息子の武田勝頼は「織田信長+徳川家康」に攻められ「武田家が滅亡」してしまう もし窮地に陥れば 越後の上杉謙信を頼るよう遺言
上杉謙信と武田信玄は「互いに宿敵」だったが上杉謙信は本来「僧侶」で慈悲深い大名で「敵にも塩を送った」と言う程の慈悲深い大名
そのため武田信玄は、息子の武田勝頼に 上杉謙信を「頼るよう遺言」する
そして死去 この信玄の訃報を聞いた上杉謙信は、落涙したと上杉年譜に書き残されている
信玄と 謙信は「互いに宿敵」だったが、互いに相手を「敵ながらあっぱれな武将」として認めていた
しかし息子の武田勝頼は、父親の遺言を無視 動いてしまい 織田信長+徳川家康の連合軍に攻められ自害してしまう
こうして武田家は滅亡してしまう そして勝利した織田信長は 討ち取った武田勝頼の首を愚弄したと言う
この織田信長の「癇癪もち」の精神疾患が原因で 愚弄された家臣の明智光秀から攻められ本能寺の変で 自害してしまう
自分の癇癪持ちが 命取りになった織田信長
見出し・・敵将・武田勝頼の首を前にした織田信長の苛烈な態度とは?
武田信玄の後継者となったのはその子・武田勝頼ですが、勝頼は天正10年(1582)2月、織田信長・徳川家康により攻められて、その翌月に滅亡してしまいます。信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記『信長公記』には、武田家滅亡の様が詳細に描かれています。勝頼はその嫡男・信勝らと共に「討死」して果てるのですが『信長公記』は武田家3代(信虎・信玄・勝頼)がこれまで多くの人々(数千人)を殺してきたと書いています。「国主」(大名)に生まれた人は他国を奪い取ろうとして人を殺すことは「常の習」。そしてそれは武田家も例外ではなかった。その「因果」が巡ってきたと言うのです。同書は「哀れなる勝頼哉」と記しますが、人を多く殺してきたということでは信長も同じです。武田家滅亡と同じ年に信長もまた京都の本能寺で果てますが『信長公記』の筆法をもってするならばそれもまた「因果」なのかもしれません。
『信長公記』によると、勝頼の首は織田の将・滝川一益より、織田信忠(信長の嫡男・後継者)に進上されます。その後に信長に「御進上」とあります。勝頼の首にまつわる逸話が『常山紀談』(江戸時代中期に成立した逸話集。著者は儒学者の湯浅常山)に掲載されています。
それによると、信長は勝頼の首を見た時、次のように語ったとのこと。「汝の父(信玄)、非義道なりし故に、天の責めを逃れ難く、今、このようになった。信玄は1度、都に赴こうと志したと聞く。汝が首を都に送り、女童に見せよう」と。つまり、勝頼の父・信玄が非義(道理に外れたこと)であったので、天誅が下って、勝頼は滅亡したというのです。ちなみに同書はこの信長の言行を「罵り」とありますので、信長の口調は勝頼を軽侮するものだったのでしょう。
同書には「一説」として、勝頼の首を前にした信長の苛烈な態度も記述しています。それによると、信長は勝頼の首を前に様々な罵りの言葉を吐いたのみならず、杖で二回も勝頼の首を突いて、足蹴にしたというのです。それを見ていたのは、勝頼の首を持参した滝川荘左衛門。荘左衛門は「織田家の運命は尽き果てた」と呟いたとのこと。敵将の首に悪罵を投げ付け、足蹴にする信長に未来はないことを荘左衛門は見抜いたのです
前方後円墳
この形状は長年の謎だったが。答えは簡単、偉大な人間を形にしたした墓
弥生時代から古墳時代「貫頭衣」を着ていた これは大きな布の中央に 頭が入る程の穴を開け 穴に頭を通し 布を前後に垂らした衣服が 文字遂り「貫頭衣」
この形が 頭を丸出し。首から下は ワンピースのような形になるので これが 前方後円墳の形状
正しくは「前円後方墳」歴史家どもは 逆に見ているので 長年の謎
土偶にも ワンピースを着ているのような形をした土偶がある
見出し・・日本人にはお馴染みの《前方後円墳》はなぜあの形なのか? 最新研究でわかってきた“意外と合理的”な2つの理由
前方後円墳の独特な形に込められた2つの意味とは (写真:at/PIXTA)
私たち日本人が古墳と聞いてまずまっ先に思い浮かべるのは、あの鍵穴のような独特の形をした前方後円墳ではないでしょうか。ですが、誰にとってもお馴染みでありながら、なぜあの形をしているのかは、意外と考えたことがないかもしれません。 そこで本稿では、駒澤大学名誉教授・瀧音能之氏の著書『最新考古学が解き明かす 空白の4世紀』から一部を抜粋・編集する形で、最新研究の結果からわかってきた、あの形に込められた合理的な意図について紹介します。
■所属グループを明確化する合理的な形状
前方後円墳は英語では「Keyhole Shaped Tombs(鍵穴式古墳)」と呼ばれるが、鍵穴の形状は上空からしかわからない。この特殊な前方後円墳の形状についてはさまざまな説があり、解決を見ていない。
それまでにあった陸橋付き円形周溝墓から「ハシ」の重要性が高まり、前方部が発展した可能性を示したが、単なる祭祀施設の役割のみならば、よりシンプルな形状でもいいことになり、この説のみでは説明がつかない。
前方後円形は中国王朝には見られず、朝鮮半島でも5世紀以降に日本から移住した倭人が多く住んだ南西部にしか見られない。前方後円形が日本独自の形状であることは間違いない。
これまで、特殊な形状について、中国の思想に基づいた天円地方(天は円形、大地は方形という宇宙観)を模したとするものがある。しかし、前方後円墳は天と地が並べられており、天円地方を明確に表しているとはいい難い。
また前方部が台形状であることから円と鋭角の三角形が重ねられたものとして、円を女性器、三角を男性器として男女の統合を意味するという説もある。これは『日本書紀』でオオモノヌシと神婚したモモソヒメの伝承に通じるが推測の域を出ていない。
多くの人員と長い年月を要する巨大古墳の築造に、わざわざ方形と円形を組み合わせた複雑な構造を用いたことは、この形状に必然性があったことを物語っている。
そのヒントとなるのが、箸墓古墳の直前に築造されたホケノ山古墳である。ホケノ山古墳はそれ以前の4基の纒向型前方後円墳にはなかった葺石(ふきいし)が施され、初めて段築(2段)が設けられた。この2つの特徴は箸墓古墳に継承された。
大阪公立大学教授の岸本直文氏は、古墳の形状などから主系統と副系統があることを示したが、その中で大きな違いの1つが段築の違いである。
続く
このパレスチナ解放機構を結成したのはユダヤ人のイスラエルから追放された」難民たちで 前述したように 追放されたパレスチナ人難民は紀元前500年の頃 パレスチナのユダヤ人のイスラエル王国が「滅亡」したので隣国のエジプト ヨルダン レバノンのアラブ人たちが パレスチナ人となり 紀元前500年から 1948年まで2400年間もの長年パレスチナに居住していたので パレスチナ難民の「パレスチナ解放機構」にとってパレスチナは「祖国」
だから パレスチナ難民は祖国のパレスチナを ユダヤ人のイスラエルから「取り戻す」に パレスチナ解放機構PLO結成
このパレスチナ解放機構のパレスチナ人とは 前述したように エジプト ヨルダン レバノンにアラブ人
そのためエジプト ヨルダンが、パレスチナ解放機構に「味方」
A)パレスチナ解放機構 + エジプト + ヨルダンの連合軍
これに対しユダヤ資本を受けていた米国が ユダヤ人のイスラエルを「味方」
B)イスラエル + 米国の連合軍
こうして A)と B)が1948年からパレスチナを巡り 第1次中東戦争 第2次中東戦争 第3次中東戦争 第4次中東戦争に突入
この第3次中東戦争(1967年)で 米国が支援するイスラエルは・国連が承認した48%の領土から 80%に「領土拡大」
こうしてパレスチナのパレスチナ人(アラブ人)は本来の祖国である エジプトに隣接する「ガザ地区」に追い詰められ
本来の祖国である ヨルダンのヨルダン川の「西岸地区」に追い詰められてしまい居住地を失う
そのためエジプトに隣接する「ガザ地区」のパレスチナ人たちが インテファーダ(大衆蜂起) イスラエルから奪われた居住地㋾奪い返すため 抵抗組織「ハマス」を結成
ハマスが居住地をイスラエルから 奪還する為 イスラエル攻撃 そのためイスラエルのネタニヤフ首相がガザ地区のパレスチナ人を「無差別に大量殺戮」のジェノサイド
これは 明確な「国際法違反」 その為 国際刑事裁判所がネタニヤフに「逮捕状」を発行
このパレスチナ人はイスラム教なので イスラム教「イランがハマス」を「軍事支援」
そのため「イスラエル+米国」と イランが「敵対関係」になり 米国トランプがイラン攻撃 イスラエルのネタニヤフがイラン攻撃 しかし トランプはイランとの停戦合意
ところが イスラエルのネタニヤフは 停戦合意を無視 レバノンの「ヒズボラ」を攻撃 このヒズボラはイスラム教シーア派で シーア派の「イランが ヒズボラを軍事支援
このレバノンの「ヒズボラ」とは「レバノン政府」の「政党」なので イスラエルのネタニヤフは、レバノン政府を攻撃
これは トランプが せっかくのイランとの停戦合意に 水を差す行為で 多分 トランプは、自分の名誉を傷つけられ ネタニヤフを大馬鹿者として激高しているだろう
以上が 今日の報道
‥続く
こうして パレスチナの「ユダヤ人のイスラエル王国」は 紀元前500年の頃「滅亡」する
そのためパレスチナに隣接するエジプト ヨルダン レバノンのアラブ人たちが パレスチナに「移り住む」 これが「パレスチナ人」
つまり 紀元前500年の頃 パレスチナのユダヤ人のイスラエル王国が滅亡 南ユダ王国のユダヤ人2支族は パレスチナに「居残る」
エジプト ヨルダン レバノンのアラブ人(パレスチナ人)と「南ユダ王国のユダヤ人」は、紀元前500年の頃からパレススチナに「共存」していた
ところが今度は 西ローマ帝国が パレスチナを支配 しかしパレスチナには「ユダヤ教の南ユダ王国」が居残っていたので 西ローマ帝国が ユダヤ教の「南ユダ王国を支配」する
ところが 紀元0年の頃 パレスチナのベツレヘムで イエス・キリスト誕生
そしてユダヤ教の洗礼者ヨハネから、パレスチナとヨルダンの国境を流れる「ヨルダン川」で 洗礼を受け キリストは「ユダヤ教徒」になる
しかし パレスチナのユダヤ教は 西ローマ帝国が支配していたため キリストは ユダヤ教から「離れ」 人々にエホバの神の愛を説く
そのため 人々はキリストに「追従」
そのためユダヤ教徒が 西ローマ帝国のピラト提督に告げ口
「人民たちは西ローマ帝国のティべリウス皇帝でなく キリストに追従しております」
そのためキリストは、西ローマ帝国の「邪魔者」になり ピラト提督は邪魔者は消せ・・で 人民に「見せしめ」にするため「ゴルゴタの丘で磔刑」で処刑
こうして信者たちが「キリスト教」を作る この聖典が「新約聖書」
歴史は「複雑」で 分かりにくい
そして近代になり 第1次世界大戦で 英国陣営の英国、フランス 帝政ロシアは イスラム教オスマン帝国の領土だった「産油国の中東」を この3国で「分割統治」するため「サイクス・ピコ協定」を密約
そして 戦後「サイクス・ピコ協定」に基づき イスラム教オスマン帝国の中東を 英国 フランス 帝政ロシアの3国で 分割統治する
英国は 中東の「パレスチナ」を統治支配する ところが パレスチナに居残っていた「南ユダ王国のユダヤ人」が パレスチナは ユダヤ人の国として、英国をパレスチナ支配から「排斥」するためテロで英国をテロ攻撃
これがパレスチナに居残っていたユダヤ人の子孫でテロリストになり 英国をテロ攻撃していた「メナへム・ぺギン」で テロリストで 後の「イスラエルの首相」になる
そして西洋に離散していたユダヤ人が 旧約聖書では紀元前 パレスチナには ユダヤ人12支族が イスラエル王国を築いていたので 再度 パレスチナにユダヤ人の王国の再建を目指す「シオニズム」が台頭
そのため 西洋に離散していたユダヤ人には 金貸し業で世界的な金融財閥になっていた「ロスチャイルド」が、パレスチナにユダヤ人の王国を再建するシオニズムを目指し
パレスチナを支配していた英国政府に「ユダヤ資本」を提供
そのため英国政府要人「バルフォア」が パレスチナにユダヤ人の国家を「承認」する「バルフォア宣言」
ところがこれが国際的な大問題になる 理由は英国は それ以前に アアラブが英国の味方をすれば パレスチナにアラブ人の国家を「承認」する 「フサイン・マクマホン協定」を一方的に「破棄」した為
このパレスチナにアラブ人の国家建設するため 英国政府がアラブに派遣した英国人将校が T・E・ロレンスで、一般的に「アラビアのロレンス」として 映画化されている 主演 ピーター・オトゥ―ル この映画を観た人もいるだろう
ロレンスの活躍により アラブの太守フサインと 英国代表マクマホンがパレスチナにアラブ人国家建設」を約束した「フサイン・マクマホン協定」
この協定を 英国は一方的に破棄 パレスチナにユダヤ人国家を承認する「バルフォア宣言」
そのため 国際社会が 英国を 三枚舌のデタラメな外交政府として非難したため パレスチナにユダヤ人の国家は、実現できなかった
そして第2次大戦で 世界覇権は英国から 米国に移り 米国が世界覇権国となり 米国主導で 米国ニューヨークに「国際連盟」設立
そのため ユダヤ資本が 世界覇権国となった 米国政府に提供され
米国主導の国際連合は 1947年 パレスチナの48%をユダヤ人の国家として「承認」
そして翌年1948年 ユダヤ人が パレスチナにユダヤ人のい国家イスラエルを再建
ところがパレスチナには 紀元前500年から 1948年まで2400年間も パレスチナ人が住んでいて ユダヤ人のイスラエルは パレスチナのパレスチナ人を 邪魔者として 迫害:追放してしまう
これが 歴史に残る「ナクバの追放」
結果70万人のパレスチナ人たちが パレスチナから追放され「パレスチナ難民」となり パレスチナ難民たちが 奪われた居住地を奪い返すため「パレスチナ解放機構(PLO)」結成
このリーダーが アラファト議長
・・・長文は投稿できないので 次に続
イスラエルのネタニヤフは最大の「悪の枢軸」
だいたい識者(学者・大学教授)が「中東の歴史経緯」を解説してないのでユダヤ人の「イスラエルの悪徳」が分かってない
報道・・・イラン「ホルムズ海峡を再封鎖」 レバノンでの停戦違反と非難
イラン革命防衛隊は20日の声明でホルムズ海峡が「全ての船舶に対して封鎖された。接近してはならない」と主張した。国営テレビが報じた。イラン軍事当局は、米国やイスラエルが戦闘終結に向けた覚書合意に違反しているとして非難した。レバノンでの停戦は米イランの交渉入りの条件だったが、イスラエルとレバノンの親イラン民兵組織ヒズボラの交戦が激化し死者が多数出ていた。米政府当局者によると、双方は19日に停戦で合意したが、停戦発効後も応酬が続いていた。
・・・この問題は 全「旧約聖書・出エジプト」から始まる
紀元前1000年の頃 エジプトには アラブ人と「ヘブライ人の12支族」が共存していて、エジプトの王は「ラムセス2世」でアラブ人
しかしエジプトのアラブ人の神は「太陽の神」ヘブライ人の神は「エホバの神」信仰が違う 慣習が違うのでラムセス2世は ヘブライ人12支族を「毛嫌い」していた
そのためヘブライ人の予言者「モーセ」が ラムセス2世に。。お前の息子は病死すると予言
モーセの予言通り ラムセス2世の息子は病死してしまいラムセス2世は ヘブライ人を「呪われた民」としてエジプトから「追放」する
そのためモーセがヘブライ人12支族を率い「エジプトを脱出」する
以上が、旧約聖書・出エジプト記
しかしモーセは 旅の途中、死亡 ヘブライ人12支族は エジプトの隣接する「パレスチナ」に辿り着き ここがエホバの神がヘブライ人に約束し「カナンの地」として紀元前1000年の頃 12支族のうち「ユダ族」の「ダビデ」が パレスチナに12支族の「ヘブライ王国」を築く
そしてエホバの神が ヘブライ人のヘブライ王国の「イスラエル」の称号を授け ヘブライ王国が「イスラエル王国」になる
そしてイスラエル王国が紀元前700年の頃 ユダ族の「ソロモン王」の時代 ソロモン王は ヘブライ人にパレスチナを授けたエホバの神に感謝 パレスチナに「神殿」を築く
そして神殿の周囲を エル・シャローム(ヘブライ語で平安の都)=エルサレムとし イスラエル王国の首都にする
この頃、数十人のヘブライ人たちが、エホバの神から啓示をうけ、数十人のヘブライ人たちが それぞれヘブライ語で 羊皮紙に エホバの神の啓示を書き残す
これを1冊の本に纏めたのが「旧約聖書」この旧約聖書を聖典として信仰する宗教が パレスチナにヘブライ人12支族のイスラエル王国を築いた「ユダ族のダビデ」に因み「ユダヤ教」
このユダヤ教を信仰するヘブライ人が「ユダヤ人」
ところが イスラエル王国が ユダ族の「レハプァム王」の時代 それまでずっとイスラエル王国の王は「ユダ族」ばかりだったので 12支族のうち「10支族」が 反乱
10支族が イスラエル王国の国号を引き継ぎ「北イスラエル王国」を築き
12支族のうち ユダ族とベニヤミンの2支族は イスラエル王国を築いたユダ族に因み「南ユダ王国」を築きイスラエル王国は「南北分断」しる
そのため メソポタミアの勢力「アッシリア」が 北イスラエル王国を滅ぼし 北イスラエル王国のユダヤ人10支族を捕虜にする
ところが 同じメソポタミアの勢力「新バビロニア」が アッシリアを滅ぼしアッシリアが捕虜にしていた北イスラエル王国のユダヤ人10支族を「解放」する
ところが 今度は 新バビロニアが 南ユダ王国を滅ぼし 南ユダ王国のユダヤ人2支族を捕虜にする
ところが今度は「ペルシャ(現在のイラン)」が新バビロニアを滅ぼし 新バビロニアが捕虜にしていた南ユダ王国のユダヤ人2支族を「解放」するこうしてペルシャが中東の最大勢力になり ペルシャ大王が ペルシャ(イラン)とアラビア半島に挟まれる湾も ペルシャ湾として支配
だから 現在もペルシャ(イラン)がペルシャ湾を支配
各国は 産油国から このペルシャ湾で 原油をタンカーの満載 輸入していてイラン戦争で イランが ペルシャ湾の出入り口」のホルムズ海峡を封鎖
そのため各国は 中東産油国から 原油が輸入できなくなり 日本では原油から作る「ナフサ不足」で騒がれている
話は前に戻り・・そのため 後から解放された南ユダ王国のユダヤ人がパレスチナに帰省すると 先に解放された北イスラエル王国の10支族が「いなくなっていた」
これが歴史に残る「消えた10支族」
パレスチナは、エホバの神がヘブライ人に約束した「カナンの地」だったがアッシリア 新バビロニアに滅ぼされたため パレスチナはエホバの神が ユダヤ人(ヘブライ人)に約束したカナンの地ではないとして10支族は パレスチナを捨て 西洋 ウクライナに離散する
しかし 後から解放された ユダ族とべ二アミン族の南ユダ王国は パレスチナに「居残る」
‥・長文になると 投稿できないので ここらで中断‥続く
韓国でも残忍な事件を映画化
韓国で起きた残忍な事件を、映画化したのが「カエル少年失踪事件」
1991年 5人の子供が カエルを取りに出かけるが そのまま失踪してしまう
そのため警察が捜査するが、原因が不明のまま「迷宮入り」となった事件を映画化したのが「カエル少年失踪事件」
映画では 殺人だと想定した映画で 犯人は 牛を殴りコロし肉にする「屠殺」業の若者が 5人の子供の頭を 叩き割る
吐き気を催すほど、物凄い残忍な映画 韓国は 残忍な映画を数多く制作していて
韓国映画「悪魔は闇に蠢く」も すざまじい残忍映画 地下のマンホールに住み着いた男が 少女たちをマンポールの中に引きずり込み コロしてしまい マンホールは血の海になる残忍な映画
韓国映画「罠」も残忍映画で 韓国は 残忍シーンが好きな民族なのか 残忍な映画を数多く制作している
昭和26年の残忍な事件
韓国でも、残忍な事件を 数多く制作している
見出し・・「まるで血の海」「頭が砕かれていた」飲食店一家4人が死体で発見…【「強盗」でも「恨み」でもない】子供まで殺した『驚きの犯人』(昭和26年の事件)
1951年(昭和26年)2月22日、東京・築地の中華料理店で、店主一家4人(42歳店主、40歳妻、11歳長男、10歳長女)の頭蓋が無残に砕かれ、惨殺される事件が起きた。現場のふすまは赤黒い血しぶきでまだらに染まり、畳は血の海と化していた。
凶器とおぼしき血糊のついた鉈が、調理場の冷蔵庫に無造作に残されている。第一発見者は、同店の見習いコックの男(当時25歳)。警察署のすぐ裏手という場所で起きた、あまりにも大胆不敵な凶行だった。
警察は当初、第一発見者の男を疑った。「第一発見者を疑え」は殺人捜査の鉄則だ。電話の受話器が外され、そこから男の指紋が検出されたことも疑いを深めた。しかし、男が語った「新入りの女」の存在が、捜査の舵を大きく切らせる。事件前日から住み込みで働き始めたという小太りの女。閉店後、店主が売上金を数えるのを、闇に潜むようにじっと見ていたというのだ。
女が口にした「衝撃の告白」 釈放された男は一転、捜査に猛烈に協力する「時の人」へと祭り上げられた。例の女のモンタージュ写真作成には寝る間も惜しんで協力し、新聞各社は彼を英雄のように扱った。やがて新聞には〈“男”が私に極力顔を見せまいとする態度から推して、一度や二度は店に来たことのあるものではないか〉などと記した、「私の推理」と題する手記まで掲載される始末だった。
事件発覚から2週間後の3月10日、ついに手配されていた女(当時23歳)の身柄が拘束された。彼女の供述は衝撃的だった。
「犯人は、あのコックさんです」――。
◆◆◆
恩義があるはずのオーナー家族をなぜ…? 【事件の詳細/コックのその後】は以下のリンクからお読みいただけます。
滋賀県の名物、鮒鮨
この鮒鮨が 寿司の「元祖」
「鮒寿司」
鮒寿司は、滋賀県の琵琶湖産ニゴロブナを塩漬け後に、ご飯とともに長期乳酸発酵させた、強い酸味と独特の匂いを持つ伝統的な、なれずしです。
主に薄く切ってそのまま、またはお茶漬けや酒の肴として食べられます
米の飯
なぜ小さい米粒が 主食になったのか?
答えは、ジャガイモやサツマイモは、すぐに腐るが、米は長年「保存できる」長所がある、さらに噛めば噛むほど「味わい深い食い物」だからである
「稲」はベトナムなどの「東南アジア」や 中国の南部(雲南省)に「自生」していた野草
この野草だった稲を 東南アジアや 中国は「人工栽培」 米の飯にする
稲作をする場合、田んぼに川から水を引く この時 川に生息しているフナなどの淡水魚が 水田に「入り込む」
そのため東南アジアや中国人は、水田に入り込んだ鮒を食用にしていた
この様子は 20年程前 水田でフナを手づかみする様子が テレビで報道されていた
そのため 東南アジア人は、水田に入り込んだ「鮒と米の飯」を「塩漬け」にして「発酵」させた「保存食」を作っていた
この東南アジアの保存食が 中国に伝わり 中国人も同じように 鮒と米の飯を塩漬けにして発酵させた保存食が「鮨(スシ)」
この中国の鮨が 日本に伝わり 日本の「琵琶湖」に生息している「ゲンゴロウ鮒」と 米の飯を発酵させたのが滋賀県の名物「鮒鮨」
発酵すれば「酸っぱい味」になり 酸っぱい味は「食欲をそそる」
しかし酸っぱい味を出す為に発酵させるには 時間が掛かる 下手な発酵では 腐ってしまうため
江戸時代 発酵させず 酸っぱい味を出すため 醸造酢を米の飯に混ぜ
発酵していない 新鮮な魚を添えて作ったスシが「寿司」
寿司は 日本人好みで 馬鹿でもチョンでも 寿司を食いたがる
米の飯を 釈迦の遺骨に例え 寿司職人は舎利(しゃり)と言っている
個人的に 寿司は好きではない「かしわの握り飯」が大好きな猫
日本の農耕は、縄文時代の末期
以前の投稿で紹介した
縄文時代、縄文人は「天然自然」の 山の幸 川の幸 海の幸を採取して食料にしていた
ところが中国で 今から6000年前の「米作の遺構」が発見され 中国は 大昔から稲作が行われ それが地続きの朝鮮半島に伝わり
大昔の古朝鮮人も米作を行っていて「縄文時代の末期」 古朝鮮人が日本に渡来 縄文人に米作を伝える
こうして 古朝鮮人と縄文人が「一緒に農耕」を行い、古朝鮮人が 日本に居住 当然、交わり 混血児が誕生 これが弥生時代の「弥生人」
こうして日本は、天然自然の幸を採取して生活していた縄文時代が「農耕で穀物を栽培」する「弥生時代」になる
日本は大昔から「中国文明」を導入していた 農耕の元祖は、中国
日本の農耕は 縄文時代の末期から行われていた この農耕が本格化したのが弥生時代
こうして日本は昔から農耕で「五穀豊穣」を願い 神社には 石碑に「五穀豊穣」が刻まれている これが神農祭
見出し・・縄文土器に残る植物の種子の跡「圧痕」を調べたら栽培ダイズだった…「農耕は弥生時代に始まった」覆す成果
「研究のおもしろさを少しでも伝えられたら」と語る小畑さん
縄文土器の表面や内部にある種子などのへこみ跡「圧痕(あっこん)」を調査してきた熊本大名誉教授の小畑弘己さん(考古学)の研究成果を盛り込んだ書籍「縄文時代のタネとムシ」が、福岡市の「新修 福岡市史ブックレット・シリーズ」から刊行された。最新の調査技術と方法論から見える新たな縄文時代像を紹介している
鹿児島県志布志市の小迫遺跡の土器中から検出されたイネ圧痕の3D画像
圧痕は、土器を製作する際に、粘土に練り込まれた植物の種子や虫の跡。土器を焼成すると種子や虫は失われるが、その形は空洞として残る。そこにシリコーンゴムを流し込んで型取りする「レプリカ法」や、X線やX線CTによる透視画像撮影で、種子や虫の形を再現し、農耕や植物利用の歴史を探ることができる。本書では、福岡市などの遺跡で発掘された土器から検出された虫や種子の圧痕画像とともに、縄文時代後期にダイズ栽培が行われていたとする研究成果や、害虫との共生の様子などについて解説している。
栽培ダイズの圧痕は2007年、長崎県島原市の大野原遺跡の縄文土器から初めて見つけた。カキの種のような扁平(へんぺい)で長い形で、当初はマメと分からなかったが、側面に「へそ」がついていたためダイズと特定。野生のダイズより大きく、形も現代のダイズと似ていることから栽培種と判断した。かつて農耕は弥生時代に始まったと考えられていたが、この圧痕から、縄文時代にダイズ栽培が行われていたことを明らかにした。
イネやアワなどの雑穀栽培の開始時期でも、圧痕を用いた手法による新たな発見があった。福岡県粕屋町の江辻遺跡の縄文時代最末期の土器約1万点を調べ、イネやアワなどの圧痕から得られた15点の炭化物を年代測定したところ、紀元前10~9世紀と示された。佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡から出土した弥生時代最古の炭化米や雑穀の年代より50~80年古い。「縄文時代最末期にはイネや雑穀が朝鮮半島からすでに流入していた」と説明する。
クロゴキブリは縄文時代に存在、在来種だった
筆先の穴が圧痕。顕微鏡をのぞきながら、筆で圧痕内の土などを除去する
圧痕で最も多く検出される虫は、イネの害虫として知られるコクゾウムシだ。小畑さんの考古学の師匠で、福岡市の文化財部長だった山崎純男氏が、05年に日本で初めて縄文時代後期のコクゾウムシの圧痕を発見した。当初はイネがあった証拠と考えられていたが、その後の調査でも縄文時代後期の土器からは確実なイネの圧痕が検出されなかった。
反社会性精神障害
反社会性精神障害とは何か
日常で言われる「反社会性精神障害」は、医学的には多くの場合 反社会性パーソナリティ障害(反社会性人格障害)を指します。
専門的にはパーソナリティ障害の一つで、長いあいだ続く性格傾向の偏りによって 人間関係や社会生活に大きな支障が出ている状態を言います。
🔍 主な特徴のイメージ 医学書や日本語の解説では、反社会性パーソナリティ障害には次のような傾向が挙げられています。(personality-obstacle.com)
社会のルールや法律を軽く見て破りやすい 嘘やごまかしを平気で使い、他人を利用しやすい 衝動的で、先のことをあまり考えずに行動しやすい 他人を傷つけても罪悪感や後悔がとても乏しい 仕事やお金、人間関係で無責任な行動が続きやすい ここで大事なのは「たまにルールを破る人」ではなく、 このような傾向が思春期以降ずっと続き、 自分や周囲が大きな不利益を受けているレベルを指すという点です。
⚠️ 反社会的勢力との違い ニュースなどで出てくる「反社会的勢力」は、 暴力などで不当な利益を得ようとする集団や個人のことで、 法務省などの指針にも定義があります。(boutsui-osaka.or.jp)
これは法律・治安の問題で、 医学的な「反社会性パーソナリティ障害」とは別の概念です。 混同されやすいですが、イコールではありません。
反社会性精神障害の内田被告23歳
反社会性精神障害とは 人をコロして快感を覚える精神障害
内田被告と同じ反社会性精神障害が生首女
見出し・・「死んだふりをしている」内田梨瑚被告(23)に22日判決【旭川女子高校生殺害】事件当時16歳の少年と少女が証言 ビデオ通話で見た凄惨な暴行《連載(2)》
2024年4月に発生した、北海道旭川市・神居古潭(かむいこたん)で当時17歳の女子高校生が川に転落して死亡した事件。 監禁、殺人、不同意わいせつ致死の罪に問われている内田梨瑚被告(23・事件当時21)の裁判員裁判は、22日に判決(求刑・懲役27年)が言い渡されます。
事件の現場・内田梨瑚被告など(80枚)
事件発生から約2年。8回に渡る公判で内田被告は、問われる罪にどう向き合ったのか、裁判員裁判の経過を振り返ります。
証人尋問では、共謀した受刑者の女(当時19)のほかに、内田被告とともに女子高校生を監禁した罪などに問われ、すでに家庭裁判所で保護処分を受けた当時16歳の少年と少女にもリモート形式で尋問が行われました。
■少年(当時16)がビデオ通話越しに見た暴行
裁判4日目に行われた少年(当時16)の証人尋問では、事件が起きた日の夜に内田被告と交わしたビデオ通話の内容が明かされました。
少年の証言によると、2024年4月18日に旭川市内で内田被告と合流し、内田被告から指示されて女子高校生との通話を代わり、暴力団の口調で「どう落とし前つけんの」などと脅すよう頼まれたといいます。
その後、内田被告らは女子高校生を連れて留萌市から旭川市へ向かいましたが、少年は関わりたくなかったことや、門限などの理由から、途中で自宅へ送り届けられ、帰宅しました。
自宅に帰った少年は、状況が心配になり、内田被告にLINEで通話をかけたところ、すぐにビデオ通話に切り替えられました。
画面に最初に映し出されたのは、神居大橋の上で、受刑者の女(当時19)が仰向けになった女子高校生に対して馬乗りになっている状態でした。受刑者の女は、両手や片手で女子高校生の首を絞めたり、顔を複数回殴るなどの暴力を振るっていたと証言しました。その際、女子高校生の両手首は上に挙げられた「万歳のような形」でつかまれており、女子高校生は泣きながら「すみません」と謝り続けていたといいます。
神居大橋には照明がありませんでしたが、スマートフォンのライトと思われる明かりがついていたため、少年は様子を確認することができました。受刑者の女は、これまでに聞いたことのない口調で「こっちは人生かかってるんだよ」と怒鳴っていたと証言しました。少年が内田被告になぜこのようなことをしているのか尋ねると、内田被告は怒った感じで「女子高校生がコンビニで暴れたから」と答えたといいます。
報道・・死去 亡くなる3日前にはインスタ更新「過去1の激痛」
ステージ4の骨肉腫で闘病していた、YouTuberの榎本一心さんが亡くなったことがわかった。21歳だった。
【映像】亡くなる3日前に投稿されたベッドに横たわる榎本さんの姿
高校2年生の時に、骨にできるがんである「骨肉腫」と診断され、高校3年生の時にステージ4の判定を受けたことを公表していた榎本さん。自身のSNSで、抗がん剤治療を受ける姿や車いすで出かける動画など、闘病中の様子を発信していた。
榎本一心さん Instagramより
2026年6月10日に更新したInstagramでは、ベッドに横たわる姿とともに、「緊急の絶望的な検査結果で、右上半身と肺がステージ4の転移で埋め尽くされていることが発覚しました。右肺すべて潰れており、がんが皮膚にまで出てきている。日々激痛や後遺症などとの闘い。それでも生きたいです」と明かしていた。
13日には、「過去1の激痛で、呼吸も出来ず、朝の回診で診て頂いたらまさかの脇腹に大穴があり、大量の出血とうみ。治療がすべて中止になる危険性が」と、つづっていた。
18日の投稿では、家族がInstagramを更新し、榎本さんが16日に亡くなっていたことを報告。「17歳で骨肉腫の診断を受けてからの4年間、多くの方々の温かなご声援、ご支援に支えられながら、前向きに懸命な闘病生活を送ることが出来ました。21年という短い人生ではありましたが、一心は最後まで常に輝き続けておりました。これからは、痛みのない新たなステージで、より一層前を向き、誰かの幸せのために頑張るんだと思います」と、榎本さんへの思いをつづっている。
榎本さんの訃報に、「最後まで闘い抜いた生き方、本当にかっこよかったです。たくさん勇気をもらいました」「たくさんたくさん頑張ったね。涙が止まりません」などのコメントが寄せられている。
山本勘助 と、黒田官兵衛
山本勘助は 歴史資料によれば駿河の大名「今川義元」に仕える しかし今川義元は 山本勘助の容貌は 色が黒く醜男で家臣には取り立てず雑排の「使い走り」にしていた
「使い走り」とは 当時 甲斐の大名だった武田信虎は 自分の娘を 今川義元に「嫁がせ」ていて、今川義元も自分の娘を 武田信虎の息子に嫁がせ 武田家と今川家は姻戚関係
これは武田家と今川家が「互いに敵対関係にならないよう縁組」
つまり戦国時代 大名と大名が 互いに敵対関係にならないよう このように自分の子供を 相手の大名に「人質」として姻戚関係を結んでいた
ところが武田信虎の息子「武田信玄」は山本勘助を評価 家臣にする こうして山本勘助は、武田信玄の家臣となり山本勘助が 武田家の出来事を日誌に書き残したのが「甲陽軍鑑」
武田信玄は 今川義元の下では「使い張り」だった山本勘助を 家臣にしているので ある程度 知略ある軍師だったのは間違いない
ところが 尾張の大名・織田信秀(織田信長の父親)が 駿河の大名・松平広忠(松平竹千代・後の徳川家康の父親)を攻める
そのため松平広忠が 今川義元に援軍を要請 今川義元は 松平広忠に援軍を送るかわりに 息子の松平竹千代を人質にする・・つまり「同盟関係」
ところが 松平広忠は 家臣に裏切られ 家臣からコロされてしまう
そのため今川義元は 人質にしていた松平竹千代を 父親代わりになり 大事し 自分の名前の一部「元」を授ける
そのため、松平竹千代が 松平元信になる これが後の「徳川家康」
そして織田信虎の息子「織田信長」と今川義元が「桶狭間の戦い」
結果は織田信長が勝利 今川義元が 人質(今川家と松平家の同盟関係の為の人質)にしていた 松平元信を織田信長が人質にとる
こうして織田家と松平家は同盟関係となり 織田信長と松平元信(徳川家康)は 入魂の間柄になり
戦いは 織田信長+徳川家康の「連合軍」こうして織田信長が天下人になり 安土桃山時代を築く
この織田信長に仕えたのが「黒田官兵衛」然し、主君の織田信長は 本能寺の変で死去
そのため黒田官兵衛は、信長の後を継いで天下人になった豊臣秀吉の家臣となる 黒田官兵衛は 信長 秀吉 2代に渡り家臣として仕える
昔 中国では 大名は 戦いに勝利するには 知略ある男が必要なので看板を立てて知略ある策士を募集していた
これが 当時の故事
「千軍は得やすく 知略ある1将は 得難い」
三国時代 蜀の国の劉備は 諸葛孔明を知略ある軍事として迎えるため「三顧の礼」を尽くし 蜀の軍師にしている
黒田官兵衛 と 山本勘助
ある識者が 両名は「軍師ではなかった」と解説している
見出し・・黒田官兵衛は“ただの現地指揮官”だった 歴史学者が暴く「軍師」という虚像 なぜ日本人はこんなに「軍師」が好きなのか?[新書ベストセラー]
6月16日トーハンの週間ベストセラーが発表され、新書第1位は『80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間』が獲得した。第2位は『知らないと恥をかく世界の大問題17 米・中・露、三極構造の時代』、第3位は『年とる力』となった。
4位以下で注目は、7位に初登場の『軍師の日本史』。『応仁の乱』(中央公論新社)などのベストセラーで知られる歴史学者・呉座勇一さんの最新著作だ。本書で呉座さんは、「軍師はいなかった」という挑発的な問いを投げかける。私たちが思い描く「主君の傍らで策をめぐらすナンバーツー」というイメージは、実は史実とはかけ離れたものだった――。呉座さんはそう指摘し、現代でもよく知られる「軍師」たちの実像を史料に基づいて提示する。実際の黒田官兵衛は現地指揮官、山本勘助は足軽大将クラス、本多正信は行政官僚にすぎなかったというのだ。
では現在私たちが抱く華々しい軍師像は、いつ、どのように生まれたのか。本書はそのイメージの成り立ちを、江戸時代の軍記・講談、三国志演義などをあげながら解説。また戦後になって大ブームとなった司馬遼太郎作品などの歴史小説で彼らがどう描かれたかに触れ、「軍師」のイメージが確立していった過程を解き明かす。さらになぜ日本では「軍師」がこれほどまでに人気を集めるのか。ナンバーツー、補佐的なポジションに憧れを抱く日本人の人間観、社会観にも踏み込んだ一冊となっている。
物語や大河ドラマで描かれる軍師像に親しんできた読者にとってはとりわけ刺激的な内容といえる。呉座さんが運営するYouTubeチャンネル「春木で呉座います。」では、本人による同書の解説動画が公開されている。興味を持たれた方は、まず動画から触れてみるのもよいだろう。
宇宙人は実在するのか
個人的には この無限ともいえる広大な宇宙の何処かの惑星に、宇宙人が実在していても不思議ではない
しかし 太陽系の惑星では 地球にだけ生命を誕生させる環境があるが 太陽系の他の惑星には「生命誕生の環境がない」
ただ太陽系に最も近い アルファ・ケンタウルス座でも光速で4,2光年の遠い距離
光速は、1秒間に30万km 地球を7回り半する速度で、この光速で4,2年間もかかる距離 往復で8,4年かかる
仮に 30歳で、光速の衛星に乗り アルファ・ケンタウルスを往復すれば38、4歳
生存するための食料も 衛星に膨大に搭載 宇宙空間は真空なので衛星が1度 光速で飛ばすと 空気抵抗がないので 光速で飛行し続けるので 燃料は、それほど必要にならない
しかし時間が掛かり過ぎて遭遇は無理だろう アインシュタインは物体の速度が光速に近く成れば「質量無限大」になり 物体の速度は 光速に成れない言っている
仮に光速の50%の速度の衛星なら アルファ・ケンタウルスを往復すれば30歳が46,8歳になる
この広大な宇宙の何処かの惑星に 人類のような知的生命体の宇宙人が実在していても、地球人との遭遇は、まずありえない
宇宙人との遭遇を映画化したのがスチーブン・スチルバーグの「未知との遭遇」
このキャッチフレーズが we are not alone
見出し・・「宇宙人は存在する?」野口聡一氏と宇宙の”都市伝説”について徹底討論<そこまで言って委員会サタデー
野口聡一氏が宇宙飛行士ならではの視点で語る
読売テレビの黒木千晶アナウンサーと野村明大アナウンサーが司会を務める「そこまで言って委員会 NP」(毎週日曜昼1:30-15:00、読売テレビ系)が、「そこまで言って委員会サタデー」(昼2:30-4:00)として6月20日(土)に放送され、宇宙飛行士の野口聡一氏が初出演する。
■野口氏と「宇宙人は実在する?月面着陸は事実?」など徹底討論
この番組では、「野口聡一と考える都市伝説・陰謀論徹底解明スペシャル」というテーマのもと、パネリストの古舘伊知郎・橋下徹氏・田嶋陽子氏・竹田恒泰氏・古市憲寿氏・丸田佳奈氏・RaMuとともに、「宇宙人は実在するのか」「アポロ11号の月面着陸は事実なのか」「パラレルワールドは存在するのか」など、 さまざまな謎について徹底討論する。
さらに、ゲストとして、陰謀論に詳しい国際ジャーナリストの大野和基氏、世界の謎に迫る雑誌「ムー」編集長の三上丈晴氏、オカルト編集者の角由紀子氏が参戦する。
■野口聡一氏 収録後コメント
この番組は、関東では地上波で見られないので、TVer で見たことあるんですけど、本当に伝説的な番組ですよね。なかなかこれだけ自由に地上波で、まさに「言っていいんかい!」という感じのギリギリを攻めているという意味で極めて貴重な番組だと思っています。思っていたよりも、うさん臭くない真っ当な議論がくり広げられていて(笑)、すごくいろんな観点からの意見が出ており、MC の黒木さんと野村さんが非常にうまく回していて、議論が発散しそうで発散せずにちゃんとまとまる方向に行っていたのがすごく面白かったなと思います。途中、橋下さんと激論を交わすような場面もありましたけれども、そういうのも含めてすごく見応えがある回になっていると思いますので、ぜひご覧ください。
朝倉義景
これは室町時代で 越前(現在の福井県)の大名の名前
室町幕府は、足利尊氏が築いた幕府で 「幕府」とは 最高権力者を「征夷大将軍」といい「上様」と呼ばれていた
この征夷大将軍(上様)の家臣が 大名で「殿様」と呼ばれていた
朝倉義景は「越前の大名(殿様)」で 室町幕府の足利征夷大将軍(上様)の「家臣」
だから朝倉義景は 室町幕府の足利征夷大将軍に「忠誠を誓っていた家臣(大名)」だった
ところが三河(現在の愛知県)の大名だった「織田信長」は 自分が天下人になる為に 室町幕府の15代、足利義昭・征夷大将軍に謀反
そのため 室町幕府の足利大将軍の家臣・朝倉義景と 同じ家臣の織田信長が「敵対関係」となり 織田信長が 越前の大名・朝倉義景を滅ぼしてしまう
こうして織田信長が、室町幕府を滅ぼし天下人となり 安土桃山時代を築く
この織田信長に、滅ぼされた朝倉義景の史跡を報道
朝倉義景の史跡
朝倉義景については 次に投稿
見出し・・・戦国期の「夢の跡」一乗谷朝倉氏遺跡、出入り口の土地も国特別史跡へ
一乗谷川の右岸にある国の特別史跡に追加指定される見通しの土地=2026年6月17日、福井市、平井良和撮影
戦国期の栄華と滅亡の歴史を伝える「一乗谷朝倉氏遺跡」(福井市)の国の特別史跡としての指定範囲が広がる見通しになった。国の文化審議会が19日、一乗谷の出入り口近くの土地を追加指定するよう文部科学相に答申した。今後、発掘調査が進められる。
一乗谷朝倉氏遺跡の特別史跡に追加指定される見込みの場所を示した地図=福井県教委提供
戦国大名の朝倉氏が5代103年にわたって支配した一乗谷は、城下町が「北陸の小京都」と呼ばれるほど栄えた。だが、1573年に織田信長に攻め滅ぼされ、焦土と化した。
1967年以降の調査で多数の遺物が発掘され、戦国の城下町の姿を伝える遺跡として71年に「国宝級」とされる特別史跡になった。これまでに、一乗谷川沿いの朝倉館跡や城下町があった場所など約278万7300平方メートルが指定されている。
この日の文化審議会では新たに、谷の出入り口付近の足羽川と一乗谷川が交わる場所にある約8400平方メートルの土地の追加指定が答申された。
一乗谷川右岸の一角で、1990年度と2003年度の調査で武家屋敷の遺構や土器などが発掘された。近くには、谷の奥への侵入に備えた防御用の土塁「下城戸」の跡があり、遺跡の管理事務所によると、新指定地での調査によって建物の配置のさらなる解明が期待される。
現況は約5500平方メートルが民有の畑などで、残りが国有地と県有地になっている。追加指定を受けた後に福井市が民有地の公有地化を進め、発掘調査や遺跡としての整備につなげるという。
「事後策」を考えなかった高市
こんな事をすれば、どういう結果になるのか❓名誉欲が強い高市は「結果」も考えずに 総理指名選挙で 対立候補を誹謗する動画
もし悪い結果になれば 悪い結果を「どう切り抜けるか」対処法を考えねばならない
しかし高市は 名誉欲ばかり気を取られ、悪い結果を切り抜ける事後策を深く考えていなかった
当時の状況では 対立候補は小泉進次郎 その為、高市は小泉を内閣に採り入れ、防衛大臣に抜擢すれば 切り抜けられると考えていた
しかし世の中 考えるほど甘くない
見出し・・高市総理に「見苦しいぞ!」「証拠がある!」「参考人に来てもらうしかない!」などヤジの嵐…ネガキャン疑惑 「声紋鑑定」の結果受け追及
19日、参議院本会議において、立憲民主党の打越さく良議員が、高市総理の陣営をめぐるネガキャン(誹謗中傷)動画疑惑について追及した。打越議員の質問に対し高市総理が答弁を行ったが、議場内からは複数のヤジが飛び交う展開となった。
高市総理に「見苦しいぞ!」ヤジの嵐の瞬間(実際の様子)
打越議員はまず、昨年の自民党総裁選や本年2月の衆議院選挙で、総理の公設第一秘書が他候補に対する中傷動画の作成や大量拡散に関わっていた疑惑について質問した。打越議員は、今月5日の参議院予算委員会での総理の答弁内容に誤りがあったとして、自民党側から答弁訂正の申し出があったことを指摘。打越議員は、問題の答弁について、動画拡散を自ら告白する起業家男性とのオンライン会議を行なっていたと認めていた高市事務所の文書回答を、総理自身が明確に否定した件に関わるものだとして、「部分的な訂正や取り消しで済まされる問題ではありません」と主張した。これに対し、議場内から「そうだ!」とヤジが飛んだ。
打越議員は続けて、「総理、まず、この時の答弁が虚偽答弁であったことをお認めになり、この場で国民に対して謝罪すべきではないでしょうか?」と迫った。再び議場内からは「そうだ!」とヤジが上がった。
さらに打越議員は、総理がこれまで「秘書も確信は持てないと言っている」などと曖昧な答弁を繰り返してきたとした上で、「週刊文春」の続報で声紋鑑定の結果「同一人物の音声と推定してよい」との鑑定結果が出たと報じられたことを指摘。公設第一秘書と起業家男性との間で行われていたとされる中傷動画作成についてのやり取りや、秘書が具体的に中傷動画の作成を指示していたと思われるメッセージの内容も公表されていると言及し、「総理、『公設第一秘書はこの起業家男性と一切面識がない』という答弁は虚偽であったことをお認めになりますか?」とただした。これに対しても議場内から「そうだ!」とヤジが飛んだ。
打越議員は、公設第一秘書と起業家男性との関係や中傷動画の作成・拡散等の関わり、この男性が販売した「サナエトークン」にどこまで関与していたのかなど、全て再調査して明らかにするよう要求。「中傷動画の大量拡散によって民意が歪められた可能性と、そして、一国の総理大臣が国会で虚偽答弁を繰り返していた可能性が問われる問題です」と述べ、真相究明のため、予算委員会で理事会協議要求事項となっている総理の公設第一秘書の参考人招致に応じるよう強く要求し、再審法改正案の質問に移った。議場からは拍手が起きた。
今日の話題から
結局 豊臣秀吉の「跡継ぎ」が原因
豊臣秀吉は 若い頃 寧々(ねね)という女と夫婦になり天下人になり寧々は正室となり北政所㋾言われていた
ところが秀吉と正室の北政所(ねね)との間に「子供(後継ぎ)」が「できなかった」
後継ぎは正室との間に設けた「長男」が 皇太子になり「跡継ぎ」になるのが中国 朝鮮 日本でも「常識」
その為、秀吉は後継ぎを作る為、側室にした淀君との間に「豊臣鶴松」を作る この鶴松は 秀吉の血筋を引いた秀吉の子供で秀吉は 鶴松を「跡継ぎ」にする
正室との間に 後継ぎがいない場合 側室との間にできた子供を「跡継ぎ」にしていた
だから 正室都の間に後継ぎがいない いても病死 戦死する場合があり 主君は 後継ぎを絶やさない為、何人もの側室を抱えていた理由
しかし鶴松は3歳で「病死」 そのため後継ぎを喪う
その為 秀吉は、後継ぎを作る為、姉の息子(甥)の「豊臣秀次」を後継ぎにする
しかし秀次は秀吉の言いなりにならず 秀吉は 秀次に「出家」を命じた為 秀次「自害」
こうして秀吉は、またも後継ぎを失う
この後 秀吉は「朝鮮出兵」 当然 秀吉の家臣たちが 李氏朝鮮を征服するため出兵、ここで「活躍した家臣」が、武闘派の「加藤清正」
しかし李氏朝鮮の国王 宣祖は姑息で卑劣な国王 光海君を身代わりにして安全地帯に逃げてしまい 加藤清正は 宣祖の首を取れず 戦功を上げられなかった
他方 豊臣秀吉は「高齢」で男性機能が衰え 血が繋がった子供(皇太子)を作れず 側室の淀君と 家臣の大野治長との間に子供を作らせ 後継ぎにしたのが「豊臣秀頼」
秀頼は、秀吉とは血の繋がりがない他人の子供 そのため家臣の加藤清正 黒田長政たちは 豊臣秀頼を「跡継ぎとは認めなかった」
然し家臣の「石田三成」は 豊臣秀頼を「跡継ぎとして認め 忠誠を誓っていた」
当然 秀頼を「後継ぎとは認めない」加藤清正 黒田長政と「後継ぎに認めた石田三成」は「対立」
ところが徳川家康も 秀吉の子供ではない豊臣秀頼を「跡継ぎとは認めず」 自分が 天下人になろうとする
そのため 秀吉の家臣で 秀頼を後継ぎに認めず秀頼に忠誠を誓えない加加藤清正 黒田長政などは秀頼に忠誠を誓えず 徳川家康に「寝返る」
こうして豊臣秀頼に忠誠を誓う石田三成と 徳川家康*加藤清正*黒田長政が 秀吉の後継ぎを巡り 関ケ原の戦い
これは徳川家康が 天下人の豊臣家を滅ぼし 家康が天下人になるための戦い
結果 徳川家康 勝利 こうして徳川家康は「関ケ原の戦い」で自分に寝返った加藤清正を肥後の「大名」として召し抱え 黒田長政を福岡の「大名」として召し抱える
この関ケ原の戦いから 徳川家に忠誠を誓った武将が「外様大名」
関ケ原の戦い以前から 徳川家に忠誠を誓っていた武将が「譜代大名」
さらに徳川家康は豊臣家を滅ぼしてしまうため 大阪城に居城していた 豊臣秀頼とその母親・淀君を「大阪夏の陣」で攻め自害させ こうして
豊臣家は 滅亡してしまい・・ 徳川家康は 豊臣家を滅ぼし 天下人になり徳川幕府(江戸時代)を築く
結局 豊臣秀吉が「間違った後継ぎ」にしたのが 全ての「原因」:
どうせ 血の繋がりがない後継ぎなら忠臣だった「石田三成」を後継ぎにすればよかった それでも血の繋がりがない後継ぎなので 加藤清正 黒田長政が 後継ぎ(天下人)を狙い 政権闘争
今日の話題
報道・・なぜ石田三成は「七将襲撃事件」で加藤清正ら秀吉子飼いの武将から襲われたのか? その背景には朝鮮で戦った武将たちの秀吉への怒りがあった
〈豊臣政権はなぜ安定しなかったのか? 秀吉を天下人に押し上げた「気前の良さ」こそが、政権の不安定を招いた〉 から続く
「七将襲撃事件」の原因には、豊臣政権内の加藤清正ら「武断派」と石田三成ら「吏僚派(文治派)」の対立があると言われるが、歴史学者の本郷和人氏は「三成は秀吉の身代わりだった」と考察する。その根拠は鎌倉時代の「梶原景時(かじわらかげとき)の変」との類似性である。本郷氏の最新刊 『インテリジェンス関ヶ原』 (文春新書)から男性武闘集団内部の愛憎の力学を解き明かしたくだりを一部抜粋してお届けする。
朝鮮出兵で溜まった鬱憤 朝鮮で苦戦を強いられた武将たちが譴責(けんせき)などの処分を受ける一方、彼らに不利な報告をした軍目付(いくさめつけ)たちには、褒美として新しい領地が与えられました。この軍目付たち、福原長堯(ふくはらながたか)・熊谷直盛(くまがいなおもり)は三成の縁族、垣見一直(かきみかずなお)も三成と近しい間柄でした。
さらに秀吉は、石田三成に小早川秀秋から没収した筑後国・筑前国(秀秋は越前へ減封)を与えようとします。さすがに三成は辞退しますが、筑前の名島(なじま)城を与えられました。蜂須賀や黒田たちが面白く思うはずがありません。また、三成は、減封によって浪人となってしまった小早川家の旧臣たちを自家に引き受けますが、これも反感の種となったことは想像に難くないでしょう。
このように、朝鮮出兵を通じて、三成は秀吉の側近としての発言力を強めていきます。派遣軍からの情報を集約し、秀吉に伝え、秀吉の決定を現地に送る。後方支援や戦況の判断についても、三成の存在感は大きなものとなりました。
三成らは有能な実務家ではありました。難易度の高い海外での補給戦も、朝鮮からの撤兵も、彼らの高度なオペレーションによって可能になったのです。この戦いを早く終わらせたいという判断も間違ってはいなかったでしょう。エリートたるゆえんです。
しかし、清正ら現地の武将たちが、「老いの進む秀吉の威を借りて、実際には三成らが秀吉政権を動かし、自分たちを陥れているのではないか」と考えるのも、無理からぬことでしょう。
理不尽な戦争を始めたのも、現地の武将たちに無理難題を押し付けてきたのも、不公平な裁定をくだしたのも、おおもとは三成ではなく、秀吉です。
しかし、清正らにはこれまで恩顧を受けてきた、絶対的な権力者である秀吉が間違っているとは言えませんでした。しかも、彼らが帰国を果たしたときには、秀吉はこの世の人ではありません。出兵組の鬱憤(うっぷん)を受け止めるはずの相手は、すでにいなかったのです。
なぜ日本は、太平洋戦争で 米国に「敗戦」したのか
答えは 1つしかない 32代米国大統領ルーズベルトの「知略」に敗れたからである
日本人は 太平洋戦争を「知らない」ので 本当の真実に「無知」
なぜ太平洋戦争なのか? この経緯は複雑で分かりやすく説明
1937年7月 日本軍が 中華民国の「盧溝橋」という橋の近くで「軍事演習」していると中華民国の兵士が軍事演習していた日本軍に「発砲」:
これは中華民国による日本軍への「戦争の挑発行為」なので この1937年7月の「盧溝橋事件」を契機に、日本軍が「中華民国を侵略」
ところが「米国ルーズベルト」は、それ「以前」に、中華民国の「利権を確保」するため「ビルマのラングーン」から中華民国の本拠地が置かれていた「揚子江の重慶」を繋ぐ道路を7年間かけて建設、ところが 中華民国を侵略した日本軍にとって侵略先の中華民国を 支援投資する道路は「邪魔な道路」なので「日本軍が破壊」する
この道路を「援蔣ルート」という
つまり中華民国を侵略した日本軍は援蒋ルートを破壊し、米国の「利権を妨害」する、そのため米国ルーズベルト大統領は「報復措置」として「日本の弱点」だった「資源に乏しい日本」に石油の「全面禁輸」を行う
そのため日本経済が「大ダメージ」しかし「米国の軍事力」は日本の10倍以上「米国の国力」は日本の4倍余りで 戦争では 日本は「米国に勝ち目はない」ので、当時 日本政府の「近衛文麿」総理は「対話での解決」を図る
そして対話で解決するため 当時「駐米大使」だった「野村大使」「来栖大使」を米国ホワイトハウスに送る、しかし ルーズベルトはホワイトハウスに「不在」で代わりに「ハル国務長官」が対応
野村大使・来栖大使に対し‥「日本軍と日本人居留民が、中華民国から全面撤退しない限り 対話に応じない」・・対話拒否
何故「対話拒否」したのか・・米国は軍事力で日本軍の「10倍以上」で戦争で「日本を叩き潰す」為に「対話拒否」
そのため近衛文麿・総理は日本連合艦隊司令長官の「山本五十六」に「もし日本と米国が戦争になれば、どうなるか尋ねる」
以下は、山本五十六の返答
「暴れろ,と言われれば、半年や1年そこら暴れて見せますが、それ以上に成れば確証は持てない」
意味は 日米戦争すれば、半年や1年は、勝利して見せますが それ以上の長期戦になれば勝利する確証がない」と言う意味、そのため近衛文麿総理は 対話解決を 何度も何度も米国に要請するが、米国は 軍事力で 日本を叩き潰すため「執拗に対話拒否」:
その為「対話解決を失敗」した近衛文麿総理は 責任を取り 辞職
その後を引き継いだ「東条英機・総理」も 米国に対し、譲歩に譲歩を重ね「対話解決を要請」しかし「頑固として対話拒否する米国」
そのため「東条英機・総理」は 日米戦争を「想定」し 当時 日本海軍の「軍事秘密基地」があった北方領土の「択捉の単冠湾(ひとかっぷわん)」の「日本聯合艦隊・機動部隊」に 1941年11月26日「出撃命令」を下す
この日本連合艦隊・機動部隊を「率いていた」のが 解説に登場する「南雲忠一・中将」
そして 日本聯合艦隊・機動部隊は「ハワイの沖合」に「停泊」
なぜ ハワイ沖合に停泊させたのか?
対話解決に成功すれば ハワイ沖合に停泊させていた日本連合艦隊・機動部隊を「日本に帰還」させるため、しかし 米国は 最後の最期まで「対話拒否」
そのため東条英機・総理は・・もはや対話の道は閉ざされた 日米開戦やむなし・・日米開戦 決断
そのため ハワイの沖合に停泊していた 日本聯合艦隊・機動部隊に 打電
「二イタカヤマノボレ 1208」・・暗号文で 1941年12月8日 真珠湾を攻撃せよ」という意味
こうして1941年12月8日 日本軍が米国ハワイ州の米軍基地「真珠湾」を奇襲攻撃、これが 日米開戦(太平洋戦争)
これは ルーズベルトが軍事力で 日本を叩き潰すために 日本に仕掛けた「戦争の罠」ルーズベルトは、米国記者団に次のように言っている・・これは記録フイルムに残されている
「もはや日本をベビーイングする時代は終わった、いかにして日本を戦争に誘い込むか それが問題である 先に拳銃を抜いた方が悪者に決まっている」
このルーズベルトの発言は、今も 記録フイルムに残されている
このルーズベルトの発言は 前述した日本軍の行動と「一致」している
軍事力で 日本を叩き潰すには「対話解決」を「拒否」すれば「戦争で 解決するしか術はない」こうしてルーズベルトは「日本を戦争に誘い込む」ため 頑固として 対話拒否したのである
そして「先に拳銃を抜いた方が悪者」だと言っている、そのため 日本軍が先に拳銃を抜き 米国ハワイの真珠湾を「先制攻撃」
日本軍が 最初に拳銃を抜き「真珠湾を奇襲攻撃」こうして日本は「悪者」になり 米国は「正当防衛」として「正義の国」にしたのである
これが ルーズベルトの「知略」
ルーズベルト大統領は軍事力で 日本を叩き潰すため 日米開戦(太平洋戦争)そのため1942年 太平洋の「ミッドウエー海戦」で「日本聯合艦隊」と 米軍の「太平洋艦隊」が激戦
このミッドウエー海戦で 解説文に登場したのが「友永丈市・大尉」で 日本聯合艦隊の「戦局が不利」になったので「友永丈市・大尉」は米軍空母エンタープライズに 体当たりで自爆・・特攻 名誉の戦死
しかしミッドウエー海戦で 日本聯合艦隊は 米軍の太平洋艦隊に「惨敗」してしまう、この1942年のミッドウエー海戦から 日本軍は「敗退の一途」を辿り、1945年8月15日 日本敗戦
太平洋戦争は「戦う前」から 日本敗戦は分かっていた ルーズベルトの「知略に敗れた」のが 太平洋戦争の「真実」
太平洋戦争に無知な日本識者
なぜ 日本軍は、太平洋戦争で 米国に敗戦したのか その理由すらハッキリ分かってない日本・・ 次の投稿で説明
解説文に登場する「友永」とは「友永丈市・大尉」のことで 「南雲」とは「南雲忠一・中将」の事
次の投稿で 詳しく説明
見出し・・「あと5分あれば勝てた」は真っ赤な嘘だった…!? “ミッドウェイ海戦”の定説《運命の5分間》を打ち砕いた“とある女性作家”の恐るべき執念に迫る
〈「ふんどし一丁で香を焚いて瞑想して作戦を考えた」山本五十六のお気に入りだった“変人参謀”がミッドウェイ海戦で犯した“重大なミス”とは《日本海軍の致命的欠陥》〉 から続く
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「あと5分あれば、こちらの攻撃隊が発進して米空母を撃破していたのに……」。
ミッドウェイ海戦について、淵田美津雄や源田実ら旧海軍の元将校たちが語り継いできた「運命の5分間」という運命の分かれ道。しかし現在、この言い訳は誤りであったことが定説になっている。
神話を打ち砕いたのは、作家の澤地久枝氏。彼女はどのようにして従来の見方を覆したのか。大木毅氏の著書『 ミッドウェイ海戦 』(文春新書)の一部を抜粋し、紹介する。
雷装から爆装へ 友永から第二撃の要請があった直後より、南雲機動部隊はミッドウェイ島の基地から出撃したアメリカの基地航空隊、B17四発重爆撃機「空の要塞」やTBF雷撃機、B26双発爆撃機などの波状攻撃を受けます。しかし、ミッドウェイの基地航空隊は戦闘機をミッドウェイ基地の防衛に回し、攻撃隊に掩護を付けなかったため、南雲機動部隊の上空直掩機の迎撃で、つぎつぎと撃ち落とされます。機動部隊の物的被害はなし。ところが、攻撃してきたのは基地航空隊で、空母から来たものではないと判断した源田航空甲参謀は、心おきなく地上を叩けるとばかりに、機動部隊に残っていた機体を兵装転換し、第二次ミッドウェイ攻撃を実施すべきだと、南雲司令長官に強く進言しました。南雲も、これに同意し、午前7時15分、兵装を艦船攻撃用から陸上攻撃用に転換せよとの命令が下達されます。
インド洋作戦のところで述べた通り、この兵装転換というのが非常に困難な作業でした。飛行機の下にもぐって、航空魚雷や対艦船用爆弾を輸送車に下ろします。本当は、それを下段甲板の弾薬庫にしまわなければいけないのですが、このときは、そんなひまはないということで傍らに放置されてしまいました。それから陸上攻撃用の新しい爆弾を運んできて、懸吊索(けんちょうさく)でそろそろと持ち上げて、機体に取り付ける、これを狭い格納庫内で(ミッドウェイ海戦では、一部飛行甲板上でも行われたようです)、1機あたり3人でやります。航空魚雷や大型の陸用爆弾は800キロあります。しかも、日本海軍の悪いところで、魚雷や爆弾の種類ごとに取り付け金具もばらばらで、統一されていない。
憲法第9条の成り立ち
日本は「明治時代」から「軍国主義」になる この明治時代から太平洋戦争で日本敗戦するまで日本の国号は「大日本帝国」
憲法の「大日本帝国憲法」で「天皇が立憲君主」の憲法
そして昭和時代の1941年 日米開戦(太平洋戦争)に突入
しかし 米国の軍事力は 日本の10倍以上 国力は日本の4倍余りで翌年1942年 太平洋のミッドウエー海戦で日本が世界に誇る「日本聯合艦隊」が米軍の「太平洋艦隊」から 惨敗
この1942年のミッドウエー海戦から「日本軍は 敗退の一途を辿る」
日本軍は「連戦連敗」の「負け戦」になる
ここで日本は「米国に降伏」すべきだった しかし日本政府(鈴木貫太郎内閣)・軍部は、米軍と「徹底抗戦」するため大日本帝国憲法の「国家総動員法」に基き、若き日本人男女を「徴用」
若き日本人男児には「召集令状(赤紙)」が配布され 必ず戦場に「出兵」させられ
若き日本人女子は 軍需関連工場で「女子挺身隊」の勤労奉仕
そして 18歳になった日本人男児は「予科練」に入隊 そして18歳~20歳前後の日本人男児は「特攻隊」
特攻隊とは 米国戦艦に「体当たり自爆」して「必ず戦死」せねばならなかった
そのため特攻機には 米国戦艦に「辿り着けるだけ」しかガソリンが搭載されておらず 帰還するためのガソリンが搭載されていなかった
だから 帰還したくとも「生還できなかった」機体に250k爆弾を抱き米国戦艦に体当たり、自爆せねばならなかった
日本政府・軍部は 日本男児に 必ず戦死するように仕向け 日本人を「戦争の犠牲」にしていた
これでは 太平洋戦争は「終わりなきエンドレス・ウオー」になる為、米軍は 太平洋戦争に「終止符を打つため」・・日本敗戦を認めされる為
「日本が戦争できない」よう 叩き潰すため1945年8月6日広島に「原爆投下」
この広島の「被爆体験」を描いているのが中沢啓治の「はだしのゲン」
さらに8月9日 長崎に原爆投下 大勢の日本人たちが 生きた儘3000度の高熱で 焼きコロされてしまう
そのため昭和天皇は「このままだと日本人が絶滅してしまう」と考えられ 1945年8月15日 無条件降伏
同年 米国戦艦ミズーリ号で戦勝国代表と 敗戦国の日本代表が「無条件降伏の調印式」
この調印式で 米国代表マッカサーが以下のスピーチ
「憎むべき戦争を永久に追放せねばならない」
これは 太平洋戦争で最後の最期まで徹底抗戦した日本に向けられたメッセージ
この当時 日本は「幣原総理」で マッカサーの意図を解し「日本は恒久的に戦争放棄」する旨をマッカサーに伝える
ここで「米国の意向」と「日本の意向」が一致 それまでの大日本帝国から日本国になり 日本国憲法・第9条に「恒久的戦争放棄」の条文が盛り込まれた
この条文は、日本は「戦争しない」という意味ではなく 日本は「戦争できない」という意味の条文
なせなら太平洋戦争で 日本は降伏を認めず徹底抗戦したからである
だから戦勝国は、日本が「戦争できない」ように「憲法第9条」
これは「第1次大戦」も同じで、戦勝国が敗戦国のドイツが「戦争できない」ようにするるため「天文学的な巨額戦争賠償金」を課す
戦争には、巨額な「軍事費」が必要で 巨額の戦争賠償金を課せば、ドイツは「戦争できない」
そのためドイツは経済・財政「破綻」ドイツ人民は生活難
ところが第1次大戦で伍長だったヒトラーがドイツを再建するためドイツ労働党(ナチス党)を発足
ドイツを破綻させた戦勝国を「復讐」するため1939年、第2次大戦に突入
つまり戦勝国が、敗戦国のドイツに「巨額の戦争賠償金」を課した為に「第2次大戦」に突入
だから第2次大戦(太平洋戦争)で戦勝国は、敗戦国の日本に戦争賠償金を課すと、ドイツのように 大戦に突入してしまうので 戦争賠償金を課す代わりに 日本が「戦争できない」ように、憲法第9条で「日本が戦争できない条文」を盛り込ませたのである
ところが1945年から戦勝国の米国GHQが 日本を「統治支配」する
これは太平洋戦争で「敵の米国」から日本人が 支配されるので日本人が米国GHQに「反抗」 日本の秩序が乱れてしまい 米国GHQが 日本人による「反乱を鎮圧」するため「警察予備隊」を発足させる
この「警察予備隊」は 日本人の警察官からなり この日本人の警察予備隊が 反抗する日本人を「共産主義の手先」という名目で 反抗する日本人を「弾圧 虐待」する
この警察予備隊が、現在の「自衛隊」 憲法内条で、自衛隊は軍隊ではなく「戦争できない警察予備隊」
ところが1950年の朝鮮戦争で「資本主義の米国」と「共産主義のソ連」は、軍事的な「敵対関係」の東西冷戦
そのため1945年から日本を統治支配していた資本主義の米国は共産主義を防衛するため1951日米同盟・日米安全保障条約 これが翌年1952年 実効となり 警察予備隊が 共産主義を防衛する「自衛隊」になる
だから 憲法第9条は「自己矛盾」になっている
日本は 戦争できない国 自衛隊は軍隊でなく 戦争できない
では 他国から攻撃・侵略された場合 日本は どうするのか
戦争できない 戦争しない これで日本が守れるのか
だから高市総理は 自己矛盾している憲法第9条の改憲
どんな矛でも防げる盾があり どんな盾でも貫く矛がある・・自己矛盾している憲法第9条
だから自衛隊は軍隊でない 自衛隊は本来「警察予備隊」
憲法第9条に無知な高市総理
次の投稿で、憲法第9条の経緯を説明
見出し・・・憲法改正と言うけど…中身知ってる?「戦争を永久に棄てましてん」大阪おばちゃん語訳で読む「憲法9条」 法学者・谷口真由美氏が語る“主語を私にする”憲法の読み方
第9条〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕 大阪おばちゃん語訳
高市早苗総理が強い意欲を見せている憲法改正。しかし、そもそも憲法の中身をどれだけ知っているだろうか。
ニュース番組『わたしとニュース』では、法学者の谷口真由美氏と漫画家の瀧波ユカリ氏とともに、憲法の条文を「大阪おばちゃん語」で読み解きながら、憲法を自分ごととして捉えるためのヒントについて深掘りした。
■「9条は変えたくない」「ほとんど分からない」街の声と現状
70代女性(街頭インタビュー)
「憲法9条の存在は、世界の平和、日本国の安定にとって、総理は砦だと感じられたか、足かせだと感じられたか、そこの根本的な価値判断をお聞きしたいとかねてから思っていました」(中道改革連合・小川淳也代表)
ホルムズ海峡の事実上の封鎖について、トランプ大統領との首脳会談で自衛隊の派遣が話題になった際、憲法9条をどのように認識していたか、問われた高市総理は…。
「トランプ大統領との会談の時に砦だと思ったか、足かせだと思ったかということですが、そういったことを考えていたわけではございません。確かに自衛隊派遣の話はありました。現行の憲法9条はこうなっている、そして現行の自衛隊法ではこうなっている、今できることとできないことがある。これはできませんということをしっかりと申し上げた」(高市総理)
「戦争の放棄」や「戦力を持たない」ことなどを定めた憲法9条。武力に頼らない平和主義を示す、日本の憲法の要とも言える条文だ。そもそも、この憲法9条について街の人はどう思っているのか。
「9条は変えたくないっていうのはあります。世界中が戦争している。それに巻き込まれたくない」(70代女性)
「えー憲法…いやもうほとんど分からないです。(9条は)戦争とかのやつですか?若干分かります」(30代女性)
「9条の問題とか、一番初めには出てきますね。(Q.憲法9条の内容は言えますか?)パッと出てこないですね」(40代男性)
憲法9条という言葉は聞くが、具体的に中身を答えられる人は少ないのが現状だ。こうした状況を踏まえ、谷口氏は次のように指摘する。
「こんなものだと思う。いろいろなところで話をするが、『憲法は何条まであるか知っていますか?』と聞くと、みんな『ん?17条?』などと言って『聖徳太子か』みたいにコントみたいな話になったりする。その頃より複雑な社会になってるのにそんな短いわけないやんと。正しくは103条。実質は99条で終わりで、あとは補則などだ。それすら知らない人たちが私の実感だとたくさんいる中で憲法改正を、国民の総意としてしようとしているというのは、そうなのかな?という気がする」
瀧波氏も、現状への懸念を口にする。
「内容がわからないで『改正』と言われた時に、『改正』って『改めて正しい』と書くから何かいいことをしようとしているのかな、ぐらいに感じてしまっているとしたら、それはとても怖いことだと思う」
韓国は動物愛護なのか、動物虐待なのか
韓国で 亀の甲羅にペンキで願い事を書いたところ動物虐待で起訴されたと言う
しかし 韓国映画では 犬をコロし肉を食う映画が何本もある
見出し・・生きているカメの甲羅にペンキで「チェ○○ 55歳」…あきれた落書きの正体=韓国
韓国で侵略的外来種に分類されている北米原産のミシシッピアカミミガメ。国立生態院
韓国の50代男性が生きているカメの甲羅にペンキで願い事を書いて放流していたことが分かった。
甲羅にペンキで落書きされた状態で発見されたカメ
17日に放送されたJTBC『事件班長』では、先月11日に慶尚南道(キョンサンナムド)のある海水浴場を散歩中、甲羅に特異な模様のカメを発見したというAさんのエピソードが紹介された。
Aさんは「模様が本当に奇妙だな」と言いながら近づいたが、よく見るとカメの甲羅にペンキで落書きがされていたという。
カメの甲羅には人名や年齢、住所、連絡先のほか、健康運や仕事運を祈願する内容が書かれていた。
Aさんは直ちに市役所と警察に通報した。さらにAさんが甲羅に記されていた電話番号へ直接電話したところ、男性が応答し、この男性は容疑を認めたという。
このカメは、侵略的外来種である「ミシシッピアカミミガメ」であることが確認された。
『事件班長』側は、「侵略的外来種を放流したこと自体が問題であり、動物虐待の疑いもあるため捜査が進められた」とし、「警察は検察に送致する予定だ」と明らかにした。
日銀はもっと金利引き上げたがいい
安倍政権と日銀黒田と植田が イカレポンチで未曾有の 0金利 マイナス金利政策 その為 諸物価高騰
NOタリン丸出し 玉金もろ出しの愚策 政策金利3%程度が理想
ある識者がマトモな正論
見出し・・「日本もアメリカの政策金利の3.75%の水準まで金利を引き上げればいい」 アベノミクスのブレーン浜田宏一が指摘する「植田日銀の金融政策は『臆病』だ」
6月15、16日に開催された日本銀行の金融政策決定会合で、中東情勢による物価上昇リスクを受け、0.75%の政策金利を1.0%へ引き上げることが決まった。その水準は1995年9月以来ほぼ31年ぶりだという。
アベノミクスを理論面から支え、安倍晋三政権で内閣官房参与を務めたエール大学名誉教授の浜田宏一氏は、現在の植田和男日銀総裁について、アメリカと比較して低金利で政策運営する姿勢を「極端に臆病」と評価する。なぜそう考えるのか。その理由を聞いた。
※新潮社の新潮QUE【アベノミクスのブレーン浜田宏一、かく語りき】などの一部を再編集した記事です。
植田総裁は「極端に臆病」 植田和男日銀総裁の金融政策運営について、私は極端に臆病だと思っています。現在の日本の政策金利1.0%は低すぎる。早いうちから金利を上げることが必要です。アメリカの政策金利が3.75%にある状況で、日本だけが低金利を続けると、円を借りてドルで運用するだけで利益が出るという「キャリートレード」が生じています。その結果、円売り・ドル買いが進み、円安に伴い物価も高騰します。低金利政策を終わらせて、極端な話、日本もアメリカの政策金利の3.75%の水準まで金利を引き上げればいいと思っています。
ただ、その際に生じるショックへの対応は難しい問題です。植田総裁は2024年7月の日銀金融政策決定会合で政策金利の引き上げを決めた途端に、歴史的な株価の暴落になったということもあります。確かに金融政策は、物価の動向だけでなく、雇用や景気への影響も考慮しながら決めなければなりません。金利を引き上げればインフレを収める効果を期待できますが、その一方で企業収益の悪化や失業者の増加につながる恐れもあります。
一時的にはスタグフレーションのような状況も覚悟しなければならないと考えています。インフレ局面で、物価だけをスムーズに下げていくような経済政策は世の中に存在しない。日本を取り巻く経済情勢が悪くなっているので国民は我慢するしかないのです。それが一部の国民にとってかわいそうなことであれば、それについては財政の支援も必要でしょう。物価の安定と経済活動のバランスをどれだけとるかが、植田総裁の政策運営の手腕にかかっていると思います。
また財務省は為替介入の権利を持っていますが、現在の変動為替制度の下では為替レートを決めるのは第一に金融政策、第二に財政政策です。日銀の金融政策の結果で為替レートが大きく変わるのです。いくら財務省が為替介入をしたとしても一時的に円高になれど、為替レートが変わらないというのは経済学の常識です。
今夜の歌
この掲示板は 誰も投稿せず 吾輩が1人で投稿しているので 今夜の歌は こっちゃ来て 投稿して欲しいので「こっちゃえ節」
吾輩の名前は「孝一(こういち)」と言い むかし友人が 吾輩を呼ぶ時
「こっちゃん」「こっちゃん」と呼んでいたので 今夜の歌は「こっちゃえ節」
ただ歌の動画は「著作権」があるので 掲示板で投稿すれば「著作権・違反」になるので吾輩が直接「こっちゃぇ節」を歌います
・・お江戸日本橋~~ 七つ立ち~~ 行列揃えて~~~ あれわいさのさ~~!ああ こっちゃえ~~ こつちゃえ~~!
・・‥こっちゃ来て、投稿してくれ~~~!_こっちゃぇ~~ こっちゃえ~!_
こっちゃえ節
こっちゃえ節の歌詞
民謡やわらべ歌の「〇〇節」は素敵ですが、「歌詞そのものは権利の関係」で、そのまま全文を書くことができません。
🎵 こっちゃえ節とは
こっちゃえ節は、江戸時代から伝わる流行り歌で、「お江戸日本橋」の別名としても知られている古い端唄です。
山梨県鳴沢村などの民俗芸能の資料にも「こちゃえ節」が登場し、当時すでに流行していたことが記録されています。
豆知識
日本人が「食い物」にしている「おでん」は「田楽」がルーツ
平安時代 農民たちが穀物の「五穀豊穣」を願い 歌を歌い 踊りを舞っていた、これは農民たちが「田んぼ」で行っていたので 文字通リ「田楽(でんがく)」といい「日本古来の伝統芸能」
こうして農民たちが「田楽」を田畑で演じ「大豆」や「こんにゃく」を作っていた
そして「江戸時代」になり 今度は、江戸の庶民が 大豆で「豆腐」を作り こんにゃくで「こんにゃく玉」を作っていた
そして豆腐やこんにゃくを「角切り」にして 竹の櫛で刺し 炭火で焼いて 味噌をつけて食っていた この食い物も「田楽」といい
この「食い物の田楽」は、農民たちの「田楽を演じる姿」に「似ていた」ので この食い物も「田楽」という
この「田楽」が 現在、日本人の食い物「おでん」の元祖
参考
おでんの元祖は田楽
おでんのルーツに興味を持つと、日本食の歴史がぐっとおもしろく感じられますよね。
🍢 おでんと田楽の関係
おでんの元祖が何かという話では、一般的に「おでんは田楽から発展した料理」と説明されます。
日本文化を紹介する解説でも、
・もともと「田楽」は、豆腐やこんにゃくなどを串に刺し ・味噌を塗って焼いた料理で ・これが変化して、具材を出汁で煮込むスタイルになり ・明治時代ごろに現在の「おでん」の形が広まった といった流れで説明されています。
神社の「神楽殿(かぐらでん)」
神社や天満宮には「神楽殿」が設けてある
神楽殿とは平安時代「農民たち」が 神様に「五穀豊穣」を願い 歌を歌い 舞を舞い 五穀豊穣を願っていた
この五穀豊穣を願うため「農民たち」が、田畑で 演じていた歌や舞を「田楽」といい、日本の伝統的な芸能
この神に捧げる「田楽」を、演じる所が 神社や天満宮に設けられている「神楽殿」
この植木天満宮の神楽殿で ベトナム人青年と 出会った
ベトナムでも、米作が盛んに行われている
田楽
田楽(でんがく)は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」
日本の若者は、世界一のNOタリン豚
今から15年ほど前、植木天満宮の神楽殿で、寝そべっていると 参拝客の足音がした
この植木天満宮は、滅多に参拝客がいないので、起き上がって聞いてみた
おたく天満宮の関係者ですか?
彼は たどたどしい日本語で・・・いいえ私は ベトナム人で25歳です‥という
そして両手を差し伸べ握手を求めて来た
彼は 今から自動車試験場でテストを受けるので 合格を祈願して参拝したと言う
そこで 彼に聞いてみた・・日本はいい国か?
彼は いい国だと言っていた そして別れの時 また両手を差し伸べ 握手を求め 何度も頭を下げ・・‥これから行って来ます・・別れの挨拶
実に「礼儀正しいベトナム人の25歳青年」だった
今迄こんな礼儀正しい日本人青年に 出会ったことは1度もなかった
この25歳のベトナム人青年を見て 日本の若者は礼儀も知らない NOタリンだと思った
これは「日本の両親」が NOタリンの馬鹿なので 若者(子供)も 馬鹿になったのである
日本の若者は、馬鹿者で 意地が悪く 中高年を非難する
日本の若者は世界一心が狭い、NOタリン こんな日本に「未来はない」
日本の未来は 閉ざされた豚小屋になる
掲示板でも分かる 若い投稿者は、中高年を「排斥」している
見出し・・・“おじさん”なら叩いていいのか? 「パーカーはNG」「すね毛は見たくない」…雑いじりの先にある笑えない現実
近年、たたかれすぎの“おじさん”は疲労困憊?
近年、“おじさん”は何かと批判の的になる。40歳を過ぎた“おじさん”はパーカーを着てはいけないとか、絵文字の多用や長文、妙になれなれしい呼びかけをするメッセージが「おじさん構文」だとからかわれるとか、東京都庁がクールビズの一環としてハーフパンツでの勤務を認めると、「おじさんのすね毛は見たくない」といった声が上がる。なぜ“おじさん”は、ひとくくりにしてたたかれるのだろうか。
* * *
■“おじさん”たちに対し「石を投げてもいいだろう」
男性学やジェンダーの視点から「おじさん」という存在の葛藤や生きづらさを分析してきた文筆家の清田隆之さんはこう話す。
「これまで特権的なポジションを中高年男性が独占してきたという、男性優位社会における歴史があって、今までえらそうに振る舞ってふんぞり返ってきた“おじさん”たちに対して、石を投げてもいいだろうという感覚があるのだと感じます。俯瞰してみると、男性がこれまでの社会で享受してきた特権みたいなものに対するカウンターとしての現象という見方もできます」
これまでの昭和的価値観において、若いうちに結婚すべきだとか、化粧がどうだとか、服装がどうだとか、年齢や外見に対する圧力を、社会が女性に強いてきた歴史もある。一方で男性も、ふんぞり返っていた人ばかりではないし、ひとくくりに“おじさん”とはこうだと断ずることはできない。
そもそも“おじさん”といっても、内実は一様ではない。組織内で権限を持つ管理職もいれば、雇用不安や収入減、介護、孤立を抱える中高年男性もいる。にもかかわらず、“おじさん”という言葉がひとくくりに使われることで、個々の状況は見えにくくなる。価値観のアップデートやコンプライアンス順守など、めまぐるしく変化する時勢に息苦しさを抱えている中高年男性も多いはずだと清田さんは指摘し、続ける。
「男女限らず、ガスのようにたまった鬱屈した感情がベースにある。そのうえで問題を深刻化させているのは、対立や分断といったネガティブな投稿のほうがインプレッションを取りやすいために、そこに意図的に火をくべて対立構造をあおり立てる人たちがSNS上にいることだと思っています。“ハーフパンツおじさん”の例で言えば、実生活において『汚いから長ズボンをはけ』とか、職場で『気分が悪いのでやめてくれませんか』なんて声が本当に飛び交うのかなと思います」・
4ページ目
「日本に帰ってくると、手元の資金が底をついていました。アルバイト情報誌を見ると『即金日払い8000円』という文字が目に飛び込んできました。それが荷揚げの仕事でした」
前述の通り、荷揚げは大変な仕事だが、今村には耐える能力があった。スポーツインストラクターや某テーマパークでダンサーをしているという体力自慢がバイトに来てもすぐに逃げ出した。何人かのゲーマーが長く続くのは意外だった。
しかし、今村はこの時点で30歳。前職の経歴も転職市場で十分に通用する。日雇い仕事で食いつなぐには若すぎる。
「そう思います。1年ほど荷揚げの仕事をして、体がきついので、31歳のとき外資系のコンピューターメーカーに就職しました。今度は、法人にパソコンを売る営業でした。経験があったのでよく売れて、3カ月目の営業成績は社内で3番目でした。残業もなく定時で帰れる会社でした。ただ外資系の縦割り社会と息の詰まるような雰囲気は肌に合いませんでした。3カ月は試用期間で、4カ月目に入るとき『正社員になりますか?』と言われましたが、『私は会社を辞めます』と返事をして、それっきりです。2カ月後、その会社は日本撤退を決めたようでした」
会社員に戻れる力はあったが、組織に勤めることに今村は拒絶反応があった。一度、日雇いの暮らしを知ると、飼い慣らされた月給取りの生活には魅力を感じなかった。
今村に、荷揚げ屋で生き残れた理由を聞いてみた。
「ポリシーはなく、なんとなく流されて、です。これを辞めたらどうやって食ってこうという人生設計も考えていませんし、切迫感はありません。ダラダラ続けていたら30年以上経っていました」
2度目のサラリーマン生活を抜け出して以降は、主に荷揚げ屋で生活を成り立たせている。ビルやマンションなどの引き渡しは年度末である3月末が多い。それゆえ荷揚げの仕事は、4月、5月、6月は閑散期となる。その間、今村は、オフィスのイスや机を配送し、組み立てる派遣の仕事をしたり、貯金でしのいだりしている。
3ページ目
■「会社を辞めます。世界一周に行きます」
入社して数年経つと、今村は部署のリーダークラスに出世をした。残業自体は変わらなかったが、バブルは弾け、会社が利益率に厳しくなってくると、定時でタイムカードを切らされた。残業代はつかないが仕事はしている。いわゆるサービス残業だ。
ある日曜日、今村は翌日提出の提案書を作るために出社した。会社の電源が落とされていたため、近くの公園で同僚たちと打ち合わせをして、徹夜のまま月曜日も営業に行った。
「そろそろ潮時かな」
今村はふと、そう思った。仕事への情熱が冷め、折悪しく小さな支店に転勤にもなった。支店では、本社とは情報の質と量が圧倒的に違った。別業種の子会社に行く道もあったがコンピューター以外に興味が持てなかった。
上司たちを見て思った。課長クラスになれば、だいたい子会社へ出向する。部長からその先へとピラミッドの頂点に残れるのは同期入社の中でもほんの一部だ。10人が5人、そして3人。自分は残れるのだろうか。
少しは転職活動もしてみたがもうすぐ30歳。面接では「どんな仕事で利益を作れるのか」ばかりを求められ、嫌になった。ある日、心を決め上司に言った。
「会社を辞めます。世界一周に行きます」
それまでもゴールデンウィークや年末年始に、短い休暇を使いアメリカや中国などを訪れていた。
「同僚にも海外旅行に行く人は多かったです。理由は上司や客先からの問い合わせの電話に追いかけられないからです。今なら考えられませんが、休暇中に実家へ電話がかかってくるのは当たり前で、新婚旅行先のホテルに電話がかかってくることもあったみたいです。だから面倒な客先の夏休みと期間をずらして海外旅行を入れている人は多かったですね」
今村はこのとき20代だったが、残業代がもらえていたときの年収は500万円を超えていて、資金には余裕があった。
■手元の金は尽き、たどり着いた即金日払い
世界一周はまずニューヨークからだった。そこからロンドンに飛び、ギリシャ、トルコを回った。学生時代、ESS部だったので英語にはそれほど苦労しなかった。バルセロナの空港では、荷物の盗難に遭った。盗難証明のため警察に行くと、その日だけで100人目の被害者だった。再度、ワシントンDC、ロサンゼルスと回り、日本へ帰国。約90日間、費用は60万円ほどの旅だった。
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キツい仕事だ。さすがの今村も50歳を過ぎてからは、重量物ではなくアルミサッシなどの軽めの荷揚げ現場に行くことが増えている。時には荷揚げだけでなく、アンカーを打ったり、玄関の鍵を付けたりと職人のような仕事もしている。
■「君、終電は何時だ?」人気企業の実態は残業130時間
今村は最初から日雇いをしていたわけではない。
両親が教師という厳格な家庭に育ち、関西の私大で大学生活を送った。卒業後、就職した企業は日本を代表する電機・コンピューターのメーカーだった。グループ全体の従業員数は10万人を超え、就職ランキングでもトップ10に入ることが多い人気企業である。
「1浪していて、1988年に大学を卒業しました。日本では重工業、化学工業、自動車産業の順に発展してきました。当時はバイオ関連とも悩みましたが、ちょうどコンピューターが上向きになってきたころで就職先として選びました」
会社が用意した寮に入り、3カ月の新人研修を受けた後、コンピューターの法人営業の部署に配属された。
「企業向けのコンピューターを営業します。多いのは4年リースで、数億円の契約になります。ライバルと競合して負けると、次は4年後に向けて、御用聞きをしながら顔をつないでおきます。ノルマは結構厳しくて、期末、年度末などには別の部署と売り上げを交換する伝票操作もありましたね」
今村は直接恩恵を受けたわけではないが、時代はバブル末期である。右肩上がりの経済を背景に「24時間働けますか」というフレーズのCMが流れ、長時間労働が美徳とされていた。
「研修後、営業部の上司と最初に話したことは『君、終電は何時だ?』でした。月に130時間以上の残業、週に1回は徹夜。ホワイトボードに外回りの行き先を書いて、朝4時に会社に戻ることもありました。客先で21時まで打ち合わせをして、会社に戻り、事務作業をしてから翌日のための提案書を徹夜で作っていました。僕の部署では年間何十人も辞めて、3人ほど自殺した人もいました」
ある男性の生き様、4ページ全文
人生は どう転ぶか 分からない 糖尿病で週に3回、4時間の人工透析せねばならない男性の生き様
これに付いてはアインシュタインは、こう主張
「神はサイコロを振らない」・・神はサイコロを振っていい加減なことはしない
これに対し量子論のボーアは反論「なぜあんたにそれが分かるのか」
こうして アインシュタインとボーアが世紀の対決「ソルべェ会議」
前半戦はアインシュタインの勝利 後半戦はボーアの勝利
こうして現代は「実態が曖昧で揺らぐ量子論」が主流となりテレビ コンピュータ 携帯は量子論で機能
神は 常にサイコロを振り いい加減な仕打ち
運 不運の運命は天命 運だけは、いかに努力しても、どうにもならない
株で勝つか負けるか天命 ・・博打的
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年収500万円を捨て、透析を受けて…一流電機メーカーを辞めた64歳が現金日払いの「荷揚げ屋」を30年以上続ける切実な理由
荷揚げ屋として働く今村康二さん(仮名・64歳)
新連載『“現金とっぱらい”の現場で』では、現代の日本で「即金日払い」という生き方を選んだ人々の人生を追う。彼らはなぜ、その働き方を選んだのか。そうせざるを得ない理由があるのか。
第1回は、かつて日本を代表する大手電機メーカーで、数億円規模の商談を動かしていた元営業マンの男性だ。退職後に彼が選んだのは“荷揚げ屋”という仕事だった。それから30年以上、なぜ彼は大企業の組織に戻ることなく、日払いの労働を続けたのか。その理由を聞いた。
日当は1万円を切ることも…元営業マン・今村さん(仮名・64歳)の一見過酷で気楽な日常とはーー
■ひとつの現場で2.8トンを運ぶ、過酷な労働「荷揚げ屋」
初対面の男の腕には、痛々しい針の跡が目立っていた。糖尿病が原因で腎臓を悪くして、3年前から人工透析を受けているからだ。今村康二(仮名・64歳)は、月曜、水曜、金曜の夕方から夜にかけての4時間を病院のベッドの上で過ごす。
「今は週に3、4日仕事に出ますが、生活はギリギリですね。透析がある日は15時には現場を上がります。翌日が仕事のこともあります」
荷揚げ屋という仕事を知っているだろうか。建設現場で壁材や石膏ボード、金属や木の柱などを運ぶプロだが、その仕事は苛烈さを極める。荷揚げ屋の仕事の一例を示すと、ビルや住宅などの壁に使われる1枚約14キロの石膏ボードを100枚から200枚、現場の所定の位置に人力で配置する。リフトがない現場では、ボード2枚か4枚を背中に担ぎ、何回も階段を上がる。仮に200枚ならひとりで2.8トンもの荷物を動かすことになる。建設現場の中でも、かなり体力を使う仕事であることは想像できるだろう。そんな仕事を30年以上続けているのが今村だ。
「荷揚げの仕事は10人中9人が1週間で辞めます。短い人なら初日の10時の休憩で消えます。1週間は『新人』と呼ばれ、それ以上現場に来ることができると、やっと名前を覚えてもらえます。私も初日は、お昼ご飯を食べようとしたら手が震えて、箸が持てないので、おかずを箸で刺して食べました。
始めた1990年代は日当8000円。今は1万円から1万1000円ぐらいですかね。荷揚げではなく、手元という雑用に回されることもあって、こちらは体が楽ですが、日当は6000円のときもあります」
火縄銃の「火薬」
ある識者の以下の解説は「事実」
>信長は若い頃から橋本一巴(いっぱ)に鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石(しょうせき)を確保するため奔走したことも事実である
・・・当時、火縄銃の火薬は「黒色火薬」で、黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)と硫黄と木炭を混ぜると黒色火薬になり 火縄銃の火薬に使われていた
黒色火薬の原料だった「硝石」とは どうやって作っていたのか?
こうやって硝石を作っていた
「小便」を壺の中に入れ「長い間保管」していると 壺の内側に 固い物質が こびり付く
これが 黒色火薬の原料となる「硝石」
つまり「硝石」を作るには、小便を壺に入れ「長い間保管」していなければ「硝石ができない」
そのため 火縄銃の黒色火薬を作るのは 長い時間が必要で 鉄砲軍団の織田信長は 黒色火薬を入手するため悩んでいた
この織田信長の鉄砲軍団を 今度は「豊臣秀吉」が引き継ぐが黒色火薬が必要だった
ところが 茶人の「千利休」が 弟子の「山上宗二」を 豊臣秀吉に「紹介」する
ところが山上宗二は、茶人でもあり「堺の商人」でもあったので豊臣秀吉は、堺の商人・山上宗二に「火薬を入手するよう命じる」
しかし、山上宗二は「北条家に忠誠」を誓っていたので 秀吉の要請を「拒否する」
そのため豊臣秀吉は、自分に忠誠を誓わない山上宗二を 家臣に命じ 鼻 耳を そぎ落とし 首まで斬り落としてしまう
この山上宗二が残した言葉が「一期一会」
このように 秀吉は、自分の「言いなりにならない者」は「制裁」を加えていて、自分の「跡継ぎ」にした「豊臣秀次」も言いなりにならなかったため「出家」を命じる
そのため豊臣秀次は「自決」してしまう さらに茶人の千利休も 言いなりに成らなかったので千利休も「切腹(自決)」する
此の後、秀吉は 中国は「明王朝を支配」するため 明王朝に服属していた 李氏朝鮮を支配するため「朝鮮出兵」
ここで「倭軍も朝鮮軍」も 火縄銃で黒色火薬を使っていた
火縄銃の黒色火薬の原料(硝石)は「小便」で作る
そして火薬は「ニトログリセリン」になる このニトログリセリンは爆発しやすい危険な液体で
床に 1摘 落とすと爆発する 爆発しやすい危険な火薬
そのため「ノーベル」が 安定した火薬(ダイナマイト)を開発
このノーベルが開発した火薬(ダイナマイト)で 大儲け
そして現在 各ジャンルで功績があった学者が「ノーベル賞」
武田信玄の「騎馬軍団」と、織田信長の「鉄砲軍団」
歴史資料には「信憑性」がある歴史資料が 第1資料~第3資料で
信憑性がない「風説。伝聞 噂」などは 第4資料~第5資料として分類している
歴史では 武田信玄は「騎馬軍団」で兵士(武士)が 鎧・兜を身に着け馬に乗り、槍や刀で 敵兵を倒す兵隊が「騎馬軍団」
「鉄砲軍団」は、織田信長が 戦場で最初に鉄砲を用いたと言われ 当時の鉄砲は「火縄銃」で
銃口から 火薬と弾丸を入れ 火縄に火を点け 引き金を引くと 火縄の火が、火薬に点火 火薬が爆発 弾丸が発射されるのが火縄銃
つまり 連発銃ではなく「単発銃」
そのため 1発 弾丸を発射すると また銃口から火薬と弾丸を詰め込まねばならず これには「時間が掛かり」敵の矢でコロされてしまう
そのため織田信長は 単発銃(火縄銃)の兵士を「3列縦隊」に並ばせ
「1列目」の鉄砲隊が 弾丸を発射 すれば 次の火薬と弾丸を詰め込むため「時間がかる」ので
「2列目」の鉄砲隊が、すかさず発射 2列目の鉄砲隊が火薬と弾丸を詰め込むには「時間がかかる」ので 「3列目の鉄砲隊」が すかさず発砲
この間に「1列目」の鉄砲隊は 火薬と弾丸を詰め終わっているので すかさず発砲
織田信長は このように 単発銃を「連発銃」にして、敵と戦ったのが「鉄砲軍団」で 織田勢は「3000丁」の「鉄砲軍団」と言われている
こうして騎馬軍団を率いる「武田信玄」と 鉄砲軍団を率いる「織田信長の両者が「天下人」になるため武田信玄と織田信長の「天下分け目の戦い」
しかし 武田信玄は「天下分け目の戦い」の「最中」 持病の労咳(肺結核)が悪化 臨終の床に伏してしまう
武田信玄は、臨終の床で息子・武田勝頼に 以下のように「遺言」
これは武田家の日誌「甲陽軍鑑」に書き残されている
「向こう3年 動いてはならぬ 困った事あれば上杉謙信に頼れ」
「動いてはならぬ」という意味は 武田信玄は、織田信長と天下人を争うが、息子の武田勝頼は 織田信長とは「天下人を争うな」という意味で
父親の武田信玄は 息子の勝頼が 織田信長と戦っても「勝ち目がなかった」ため 向こう3年 動くなと遺言
これが「武田信玄の軍旗」になっている「風林火山」で‥「動かざること 山の如し」
不利になれば「上杉謙信」を頼るよう遺言
なぜ武田信玄は 息子の武田勝頼に「宿敵」だった上杉謙信を「頼るよう遺言」したのか
上杉謙信の研究家「井上鋭夫」は 次のように説明している
上杉謙信は、生涯 70戦するが 殆ど全ての戦いは 他の大名から「依頼」されて戦った「代理戦争」で 自分の戦いではなく 他の大名の為の戦い
さらに「武田信玄と上杉謙信」は「川中島の戦い」で 5回戦っていて 歴史家は、前半戦は「上杉謙信の勝利」 しかし 後半戦は「武田信玄の勝利」として「両者引き分け」にしている
こうして 信玄と謙信は「宿敵」となり お互いに「敵ながらあっぱれな武将」として認めあっていた
これは 中国も 米国も 日本も同じで、騎士道、武士道の理念により 立派な敵には「敬意を表していた」
だから 日米開戦でも 米軍ハワイのカネオエ基地に 自爆した飯野房太中尉を 米軍は「敵ながらあっぱれな日本軍人」と表し カネオエ基地に「飯田房太」の「顕彰の碑」を建てている
このように 武田信玄と上杉謙信は「宿敵」だったが 互いに「敵ながらあっぱれな武将」として称賛していた
だから 武田信玄は、息子の武田勝頼に「困った事態になれば上杉謙信」を頼るよう遺言
しかし 武田勝頼は 天下人を目指し 父親の「遺言」を無視 うごいたため「織田信長+徳川家康」の連合軍との「長篠の戦い」で 追い詰められ自害
こうして武田家は 滅亡してしまう もし勝頼が 父親の遺言を守っていれば 武田家は滅亡しなかったろう
長篠の戦い
ある識者が 長篠の戦いで 武田勢の「騎馬軍団」も織田信長の「鉄砲軍団」も創作だったと言う
報道・・武田勝頼の「騎馬軍団」も信長の「三段撃ち」も創作だった…最新の研究で分かった長篠の戦いの「本当の姿」
1575年、武田勝頼は織田・徳川連合軍と長篠の戦いを行い、敗戦する。歴史学者の渡邊大門氏は「小説や映画で描かれるような戦いが行われたかは非常に疑わしい。そもそもこの戦いの実像を示す一次史料は極端に乏しい」という――。(第3回)
【画像をみる】武田勝頼(1546~1582)の肖像画(部分)
※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■「三段撃ち」も「騎馬軍団」もなかった
織田・徳川連合軍が向かった場所は、長篠城の手前にある設楽原(愛知県新城市)である。設楽原は平野ではなく、丘陵地が沢や小川に沿って南北に連なっている地形だった。武田方と織田・徳川連合軍は連吾(れんご)川を挟んで陣を置き、川を自然の堀として防御線を築いた。
織田・徳川連合軍は、丘陵地ゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、馬防柵(ばぼうさく)を築くなどして万全の体制を敷いた。なお、武田方の率いた軍勢の数よりも、織田・徳川軍のほうが圧倒的に多かったといわれている。
天正3年(1575)5月21日、長篠の戦いの前哨戦として、鳶ケ巣(とびがす)山砦(愛知県新城市)において攻防が繰り広げられた。鳶ケ巣山砦は、武田方が長篠城を攻略する際の付城として築かれたものである。
織田・徳川連合軍は奇襲戦で鳶ケ巣山砦を攻略すると、武田方の退路を断つことに成功した。これにより、織田・徳川連合軍が自軍の士気を大いに高め、当初から戦いを有利に進めたのである。
天正3年(1575)5月21日、両軍は長篠の戦いに突入したが、この戦いで避けて通れない問題は、織田・徳川連合軍の軍事革命といわれる戦法である。織田・徳川連合軍は、戦国最強とされた武田氏の騎馬軍団を3000丁もの鉄砲で撃破したと長く語られてきた。
■熟練した射手が3000人もいたのか
とりわけ鉄砲の「三段撃ち」は軍事革命と称されてきたが、近年はその評価の見直しが進んでいる。それは、武田の騎馬軍団も同じである。では、この通説はどこに問題があったのか考えてみたい。
鉄砲の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団の根拠史料となったのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『信長記』(織田信長の一代記)である。その後、参謀本部編『日本戦史 長篠役』(元真社、1903年)がこの説を採った。軍事の専門家である参謀本部の影響力は大きく、「鉄砲の三段撃ち」対「武田の騎馬軍団」という構図は長らく通説とされてきたのである。
しかし、甫庵の『信長記』の内容は、同じ二次史料の太田牛一の『信長公記』を参考とし、おもしろおかしく創作・脚色したものである。
牛一の『信長公記』は二次史料とはいえ、客観性に富んでいるが、甫庵の『信長記』は歴史小説にすぎず、歴史史料としては適さない。したがって、今となっては甫庵の『信長記』を根拠とした、「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」は否定されている。
以下、もう少し「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」について考えてみよう。まず、鉄砲隊が三列に並び、1000丁ずつ交代射撃を行うのは極めて困難だったことが指摘されている。熟練した射手を3000人揃えるのも難しかったに違いない。
■馬から降りて戦っていた
また、実際の戦いでは武田の騎馬軍団が突撃したのではなく、下馬して戦った可能性が高いといわれている。別の合戦の例になるが、戦闘の際には馬から降りて戦ったという記録がある。
その一方で、馬上で槍を振るって戦った事例も報告されているが、それは馬で突撃したわけではない。馬は高価で貴重だったので、失うことが懸念されたと考えられる。
その後の研究では反論も示されたが、なかなか決定打が出ていないのが現状である。このように、近年の研究は従来説を鵜呑みにせず、長篠の戦いの実像を丁寧に再検討している。以下、さらに具体的に確認していきたい。
まず、織田方が3000丁もの鉄砲を準備し、1000丁の鉄砲を代わる代わる撃つ「三段撃ち」を行ったのかという点を考えてみたい。
信長は若い頃から橋本一巴(いっぱ)に鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石(しょうせき)を確保するため奔走したことも事実である
黒く濁る村
これは韓国映画で ストーリーの展開が秀逸な作品で、この原作者は天才
それ以上に、素晴らしい傑作は、中沢啓治の漫画「はだしのゲン」で、人類至上最高傑作
先輩の娘に「はだしのゲン」を勧めたところ 小学生の頃 学校で習ったという
なるほど 小学校で小学生に教えるほど 価値ある漫画
「はだしのゲン」は、中沢啓治が 少年の頃、広島で原爆被爆者となり自分の原爆被災体験を 漫画「はだしのゲン」の主人公「中岡元」に 置き換え
少年の中岡元が、原爆で「両親と姉と弟」を亡くし 原爆で亡くした姉と そっくりな被爆者の女性と 運命の巡り会い 姉と弟の関係になり、互いに励まし合い さらに 被爆者の少年と運命の出会い 兄弟関係になり励まし合い、互いに放射能障害を抱え 逞しく、朗かに生き抜く姿を描いたのが漫画「はだしのゲン」
胸を 鷲掴みされるほど素晴らしい漫画
日本人なら死ぬまでに見ていた方がいい 物凄く為になる漫画
吾輩は この漫画を見て「生きる力」を教えられた 一生忘れられない漫画
今夜の歌・・テレビドラマ「藍より青く」のテーマ曲「耳をすましてごらん」
この歌詞と 中岡元の「生き様」は「全く同じ」
「耳をすましてごらん」
耳をすましてごらん~~ あれは遥かな~~海の轟き~~!
巡り会い~~見つめ遭い~~出会ったその日から~~生きるの強く あの海があるから~~!
旅を続けて遥か~~、ひとり振り向く~~遠いふるさと~~!
思い出に~~幸せに~~寂しくないよと~ほほ笑えんで~~生きるの強くあの空があるから~~!
時は過ぎ~~人は去り~~冬の世界を歩むとも~~生きるの強く あの愛があるから~~!
「織田信長」は「癇癪もち」の精神疾患者だった
常軌を逸した行動が多い 報道では織田信長が、討ち取った 武田勝頼の首を愚弄したと説明されているが、これは事実だろう
これ以外にも、織田信長は、討ち取った朝倉義景と浅井長政の 生首から頭蓋骨を造り 金粉を塗り 朝倉・浅井の頭蓋骨を「肴」にして酒を飲んだという 普通の精神ではなかった
室町時代 天下取りで 武田信玄と 織田信長が「天下分け目の戦い」
この最中 武田信玄は持病の「労咳(肺結核)」が重症化 大量の喀血
臨終の床に伏し 息子の「武田勝頼」に 以下のように「遺言」
「向こう3年、動いてはならぬ、困った事あれば上杉謙信を頼れ」
・・意味は「父親の武田信玄」と「織田信長」は「天下分け目の戦い」
父親の信玄が死去すれば、息子の武田勝頼は「織田信長+徳川家康」に攻められ「武田家が滅亡」してしまう もし窮地に陥れば 越後の上杉謙信を頼るよう遺言
上杉謙信と武田信玄は「互いに宿敵」だったが上杉謙信は本来「僧侶」で慈悲深い大名で「敵にも塩を送った」と言う程の慈悲深い大名
そのため武田信玄は、息子の武田勝頼に 上杉謙信を「頼るよう遺言」する
そして死去 この信玄の訃報を聞いた上杉謙信は、落涙したと上杉年譜に書き残されている
信玄と 謙信は「互いに宿敵」だったが、互いに相手を「敵ながらあっぱれな武将」として認めていた
しかし息子の武田勝頼は、父親の遺言を無視 動いてしまい 織田信長+徳川家康の連合軍に攻められ自害してしまう
こうして武田家は滅亡してしまう そして勝利した織田信長は 討ち取った武田勝頼の首を愚弄したと言う
この織田信長の「癇癪もち」の精神疾患が原因で 愚弄された家臣の明智光秀から攻められ本能寺の変で 自害してしまう
自分の癇癪持ちが 命取りになった織田信長
見出し・・敵将・武田勝頼の首を前にした織田信長の苛烈な態度とは?
武田信玄の後継者となったのはその子・武田勝頼ですが、勝頼は天正10年(1582)2月、織田信長・徳川家康により攻められて、その翌月に滅亡してしまいます。信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記『信長公記』には、武田家滅亡の様が詳細に描かれています。勝頼はその嫡男・信勝らと共に「討死」して果てるのですが『信長公記』は武田家3代(信虎・信玄・勝頼)がこれまで多くの人々(数千人)を殺してきたと書いています。「国主」(大名)に生まれた人は他国を奪い取ろうとして人を殺すことは「常の習」。そしてそれは武田家も例外ではなかった。その「因果」が巡ってきたと言うのです。同書は「哀れなる勝頼哉」と記しますが、人を多く殺してきたということでは信長も同じです。武田家滅亡と同じ年に信長もまた京都の本能寺で果てますが『信長公記』の筆法をもってするならばそれもまた「因果」なのかもしれません。
『信長公記』によると、勝頼の首は織田の将・滝川一益より、織田信忠(信長の嫡男・後継者)に進上されます。その後に信長に「御進上」とあります。勝頼の首にまつわる逸話が『常山紀談』(江戸時代中期に成立した逸話集。著者は儒学者の湯浅常山)に掲載されています。
それによると、信長は勝頼の首を見た時、次のように語ったとのこと。「汝の父(信玄)、非義道なりし故に、天の責めを逃れ難く、今、このようになった。信玄は1度、都に赴こうと志したと聞く。汝が首を都に送り、女童に見せよう」と。つまり、勝頼の父・信玄が非義(道理に外れたこと)であったので、天誅が下って、勝頼は滅亡したというのです。ちなみに同書はこの信長の言行を「罵り」とありますので、信長の口調は勝頼を軽侮するものだったのでしょう。
同書には「一説」として、勝頼の首を前にした信長の苛烈な態度も記述しています。それによると、信長は勝頼の首を前に様々な罵りの言葉を吐いたのみならず、杖で二回も勝頼の首を突いて、足蹴にしたというのです。それを見ていたのは、勝頼の首を持参した滝川荘左衛門。荘左衛門は「織田家の運命は尽き果てた」と呟いたとのこと。敵将の首に悪罵を投げ付け、足蹴にする信長に未来はないことを荘左衛門は見抜いたのです
前方後円墳
この形状は長年の謎だったが。答えは簡単、偉大な人間を形にしたした墓
弥生時代から古墳時代「貫頭衣」を着ていた これは大きな布の中央に 頭が入る程の穴を開け 穴に頭を通し 布を前後に垂らした衣服が 文字遂り「貫頭衣」
この形が 頭を丸出し。首から下は ワンピースのような形になるので これが 前方後円墳の形状
正しくは「前円後方墳」歴史家どもは 逆に見ているので 長年の謎
土偶にも ワンピースを着ているのような形をした土偶がある
見出し・・日本人にはお馴染みの《前方後円墳》はなぜあの形なのか? 最新研究でわかってきた“意外と合理的”な2つの理由
前方後円墳の独特な形に込められた2つの意味とは (写真:at/PIXTA)
私たち日本人が古墳と聞いてまずまっ先に思い浮かべるのは、あの鍵穴のような独特の形をした前方後円墳ではないでしょうか。ですが、誰にとってもお馴染みでありながら、なぜあの形をしているのかは、意外と考えたことがないかもしれません。
そこで本稿では、駒澤大学名誉教授・瀧音能之氏の著書『最新考古学が解き明かす 空白の4世紀』から一部を抜粋・編集する形で、最新研究の結果からわかってきた、あの形に込められた合理的な意図について紹介します。
■所属グループを明確化する合理的な形状
前方後円墳は英語では「Keyhole Shaped Tombs(鍵穴式古墳)」と呼ばれるが、鍵穴の形状は上空からしかわからない。この特殊な前方後円墳の形状についてはさまざまな説があり、解決を見ていない。
それまでにあった陸橋付き円形周溝墓から「ハシ」の重要性が高まり、前方部が発展した可能性を示したが、単なる祭祀施設の役割のみならば、よりシンプルな形状でもいいことになり、この説のみでは説明がつかない。
前方後円形は中国王朝には見られず、朝鮮半島でも5世紀以降に日本から移住した倭人が多く住んだ南西部にしか見られない。前方後円形が日本独自の形状であることは間違いない。
これまで、特殊な形状について、中国の思想に基づいた天円地方(天は円形、大地は方形という宇宙観)を模したとするものがある。しかし、前方後円墳は天と地が並べられており、天円地方を明確に表しているとはいい難い。
また前方部が台形状であることから円と鋭角の三角形が重ねられたものとして、円を女性器、三角を男性器として男女の統合を意味するという説もある。これは『日本書紀』でオオモノヌシと神婚したモモソヒメの伝承に通じるが推測の域を出ていない。
多くの人員と長い年月を要する巨大古墳の築造に、わざわざ方形と円形を組み合わせた複雑な構造を用いたことは、この形状に必然性があったことを物語っている。
そのヒントとなるのが、箸墓古墳の直前に築造されたホケノ山古墳である。ホケノ山古墳はそれ以前の4基の纒向型前方後円墳にはなかった葺石(ふきいし)が施され、初めて段築(2段)が設けられた。この2つの特徴は箸墓古墳に継承された。
大阪公立大学教授の岸本直文氏は、古墳の形状などから主系統と副系統があることを示したが、その中で大きな違いの1つが段築の違いである。
続く
このパレスチナ解放機構を結成したのはユダヤ人のイスラエルから追放された」難民たちで 前述したように 追放されたパレスチナ人難民は紀元前500年の頃 パレスチナのユダヤ人のイスラエル王国が「滅亡」したので隣国のエジプト ヨルダン レバノンのアラブ人たちが パレスチナ人となり 紀元前500年から 1948年まで2400年間もの長年パレスチナに居住していたので パレスチナ難民の「パレスチナ解放機構」にとってパレスチナは「祖国」
だから パレスチナ難民は祖国のパレスチナを ユダヤ人のイスラエルから「取り戻す」に パレスチナ解放機構PLO結成
このパレスチナ解放機構のパレスチナ人とは 前述したように エジプト ヨルダン レバノンにアラブ人
そのためエジプト ヨルダンが、パレスチナ解放機構に「味方」
A)パレスチナ解放機構 + エジプト + ヨルダンの連合軍
これに対しユダヤ資本を受けていた米国が ユダヤ人のイスラエルを「味方」
B)イスラエル + 米国の連合軍
こうして A)と B)が1948年からパレスチナを巡り 第1次中東戦争 第2次中東戦争 第3次中東戦争 第4次中東戦争に突入
この第3次中東戦争(1967年)で 米国が支援するイスラエルは・国連が承認した48%の領土から 80%に「領土拡大」
こうしてパレスチナのパレスチナ人(アラブ人)は本来の祖国である エジプトに隣接する「ガザ地区」に追い詰められ
本来の祖国である ヨルダンのヨルダン川の「西岸地区」に追い詰められてしまい居住地を失う
そのためエジプトに隣接する「ガザ地区」のパレスチナ人たちが インテファーダ(大衆蜂起) イスラエルから奪われた居住地㋾奪い返すため 抵抗組織「ハマス」を結成
ハマスが居住地をイスラエルから 奪還する為 イスラエル攻撃
そのためイスラエルのネタニヤフ首相がガザ地区のパレスチナ人を「無差別に大量殺戮」のジェノサイド
これは 明確な「国際法違反」 その為 国際刑事裁判所がネタニヤフに「逮捕状」を発行
このパレスチナ人はイスラム教なので イスラム教「イランがハマス」を「軍事支援」
そのため「イスラエル+米国」と イランが「敵対関係」になり 米国トランプがイラン攻撃 イスラエルのネタニヤフがイラン攻撃
しかし トランプはイランとの停戦合意
ところが イスラエルのネタニヤフは 停戦合意を無視 レバノンの「ヒズボラ」を攻撃 このヒズボラはイスラム教シーア派で シーア派の「イランが ヒズボラを軍事支援
このレバノンの「ヒズボラ」とは「レバノン政府」の「政党」なので イスラエルのネタニヤフは、レバノン政府を攻撃
これは トランプが せっかくのイランとの停戦合意に 水を差す行為で 多分 トランプは、自分の名誉を傷つけられ ネタニヤフを大馬鹿者として激高しているだろう
以上が 今日の報道
‥続く
こうして パレスチナの「ユダヤ人のイスラエル王国」は 紀元前500年の頃「滅亡」する
そのためパレスチナに隣接するエジプト ヨルダン レバノンのアラブ人たちが パレスチナに「移り住む」 これが「パレスチナ人」
つまり 紀元前500年の頃 パレスチナのユダヤ人のイスラエル王国が滅亡 南ユダ王国のユダヤ人2支族は パレスチナに「居残る」
エジプト ヨルダン レバノンのアラブ人(パレスチナ人)と「南ユダ王国のユダヤ人」は、紀元前500年の頃からパレススチナに「共存」していた
ところが今度は 西ローマ帝国が パレスチナを支配 しかしパレスチナには「ユダヤ教の南ユダ王国」が居残っていたので 西ローマ帝国が ユダヤ教の「南ユダ王国を支配」する
ところが 紀元0年の頃 パレスチナのベツレヘムで イエス・キリスト誕生
そしてユダヤ教の洗礼者ヨハネから、パレスチナとヨルダンの国境を流れる「ヨルダン川」で 洗礼を受け キリストは「ユダヤ教徒」になる
しかし パレスチナのユダヤ教は 西ローマ帝国が支配していたため キリストは ユダヤ教から「離れ」 人々にエホバの神の愛を説く
そのため 人々はキリストに「追従」
そのためユダヤ教徒が 西ローマ帝国のピラト提督に告げ口
「人民たちは西ローマ帝国のティべリウス皇帝でなく キリストに追従しております」
そのためキリストは、西ローマ帝国の「邪魔者」になり ピラト提督は邪魔者は消せ・・で 人民に「見せしめ」にするため「ゴルゴタの丘で磔刑」で処刑
こうして信者たちが「キリスト教」を作る この聖典が「新約聖書」
歴史は「複雑」で 分かりにくい
そして近代になり 第1次世界大戦で 英国陣営の英国、フランス 帝政ロシアは イスラム教オスマン帝国の領土だった「産油国の中東」を この3国で「分割統治」するため「サイクス・ピコ協定」を密約
そして 戦後「サイクス・ピコ協定」に基づき イスラム教オスマン帝国の中東を 英国 フランス 帝政ロシアの3国で 分割統治する
英国は 中東の「パレスチナ」を統治支配する ところが パレスチナに居残っていた「南ユダ王国のユダヤ人」が パレスチナは ユダヤ人の国として、英国をパレスチナ支配から「排斥」するためテロで英国をテロ攻撃
これがパレスチナに居残っていたユダヤ人の子孫でテロリストになり 英国をテロ攻撃していた「メナへム・ぺギン」で テロリストで 後の「イスラエルの首相」になる
そして西洋に離散していたユダヤ人が 旧約聖書では紀元前 パレスチナには ユダヤ人12支族が イスラエル王国を築いていたので 再度 パレスチナにユダヤ人の王国の再建を目指す「シオニズム」が台頭
そのため 西洋に離散していたユダヤ人には 金貸し業で世界的な金融財閥になっていた「ロスチャイルド」が、パレスチナにユダヤ人の王国を再建するシオニズムを目指し
パレスチナを支配していた英国政府に「ユダヤ資本」を提供
そのため英国政府要人「バルフォア」が パレスチナにユダヤ人の国家を「承認」する「バルフォア宣言」
ところがこれが国際的な大問題になる 理由は英国は それ以前に アアラブが英国の味方をすれば パレスチナにアラブ人の国家を「承認」する 「フサイン・マクマホン協定」を一方的に「破棄」した為
このパレスチナにアラブ人の国家建設するため 英国政府がアラブに派遣した英国人将校が T・E・ロレンスで、一般的に「アラビアのロレンス」として 映画化されている 主演 ピーター・オトゥ―ル この映画を観た人もいるだろう
ロレンスの活躍により アラブの太守フサインと 英国代表マクマホンがパレスチナにアラブ人国家建設」を約束した「フサイン・マクマホン協定」
この協定を 英国は一方的に破棄 パレスチナにユダヤ人国家を承認する「バルフォア宣言」
そのため 国際社会が 英国を 三枚舌のデタラメな外交政府として非難したため パレスチナにユダヤ人の国家は、実現できなかった
そして第2次大戦で 世界覇権は英国から 米国に移り 米国が世界覇権国となり 米国主導で 米国ニューヨークに「国際連盟」設立
そのため ユダヤ資本が 世界覇権国となった 米国政府に提供され
米国主導の国際連合は 1947年 パレスチナの48%をユダヤ人の国家として「承認」
そして翌年1948年 ユダヤ人が パレスチナにユダヤ人のい国家イスラエルを再建
ところがパレスチナには 紀元前500年から 1948年まで2400年間も パレスチナ人が住んでいて ユダヤ人のイスラエルは パレスチナのパレスチナ人を 邪魔者として 迫害:追放してしまう
これが 歴史に残る「ナクバの追放」
結果70万人のパレスチナ人たちが パレスチナから追放され「パレスチナ難民」となり パレスチナ難民たちが 奪われた居住地を奪い返すため「パレスチナ解放機構(PLO)」結成
このリーダーが アラファト議長
・・・長文は投稿できないので 次に続
イスラエルのネタニヤフは最大の「悪の枢軸」
だいたい識者(学者・大学教授)が「中東の歴史経緯」を解説してないのでユダヤ人の「イスラエルの悪徳」が分かってない
報道・・・イラン「ホルムズ海峡を再封鎖」 レバノンでの停戦違反と非難
イラン革命防衛隊は20日の声明でホルムズ海峡が「全ての船舶に対して封鎖された。接近してはならない」と主張した。国営テレビが報じた。イラン軍事当局は、米国やイスラエルが戦闘終結に向けた覚書合意に違反しているとして非難した。レバノンでの停戦は米イランの交渉入りの条件だったが、イスラエルとレバノンの親イラン民兵組織ヒズボラの交戦が激化し死者が多数出ていた。米政府当局者によると、双方は19日に停戦で合意したが、停戦発効後も応酬が続いていた。
・・・この問題は 全「旧約聖書・出エジプト」から始まる
紀元前1000年の頃 エジプトには アラブ人と「ヘブライ人の12支族」が共存していて、エジプトの王は「ラムセス2世」でアラブ人
しかしエジプトのアラブ人の神は「太陽の神」ヘブライ人の神は「エホバの神」信仰が違う 慣習が違うのでラムセス2世は ヘブライ人12支族を「毛嫌い」していた
そのためヘブライ人の予言者「モーセ」が ラムセス2世に。。お前の息子は病死すると予言
モーセの予言通り ラムセス2世の息子は病死してしまいラムセス2世は ヘブライ人を「呪われた民」としてエジプトから「追放」する
そのためモーセがヘブライ人12支族を率い「エジプトを脱出」する
以上が、旧約聖書・出エジプト記
しかしモーセは 旅の途中、死亡 ヘブライ人12支族は エジプトの隣接する「パレスチナ」に辿り着き ここがエホバの神がヘブライ人に約束し「カナンの地」として紀元前1000年の頃 12支族のうち「ユダ族」の「ダビデ」が パレスチナに12支族の「ヘブライ王国」を築く
そしてエホバの神が ヘブライ人のヘブライ王国の「イスラエル」の称号を授け ヘブライ王国が「イスラエル王国」になる
そしてイスラエル王国が紀元前700年の頃 ユダ族の「ソロモン王」の時代 ソロモン王は ヘブライ人にパレスチナを授けたエホバの神に感謝 パレスチナに「神殿」を築く
そして神殿の周囲を エル・シャローム(ヘブライ語で平安の都)=エルサレムとし イスラエル王国の首都にする
この頃、数十人のヘブライ人たちが、エホバの神から啓示をうけ、数十人のヘブライ人たちが それぞれヘブライ語で 羊皮紙に エホバの神の啓示を書き残す
これを1冊の本に纏めたのが「旧約聖書」この旧約聖書を聖典として信仰する宗教が パレスチナにヘブライ人12支族のイスラエル王国を築いた「ユダ族のダビデ」に因み「ユダヤ教」
このユダヤ教を信仰するヘブライ人が「ユダヤ人」
ところが イスラエル王国が ユダ族の「レハプァム王」の時代 それまでずっとイスラエル王国の王は「ユダ族」ばかりだったので 12支族のうち「10支族」が 反乱
10支族が イスラエル王国の国号を引き継ぎ「北イスラエル王国」を築き
12支族のうち ユダ族とベニヤミンの2支族は イスラエル王国を築いたユダ族に因み「南ユダ王国」を築きイスラエル王国は「南北分断」しる
そのため メソポタミアの勢力「アッシリア」が 北イスラエル王国を滅ぼし 北イスラエル王国のユダヤ人10支族を捕虜にする
ところが 同じメソポタミアの勢力「新バビロニア」が アッシリアを滅ぼしアッシリアが捕虜にしていた北イスラエル王国のユダヤ人10支族を「解放」する
ところが 今度は 新バビロニアが 南ユダ王国を滅ぼし 南ユダ王国のユダヤ人2支族を捕虜にする
ところが今度は「ペルシャ(現在のイラン)」が新バビロニアを滅ぼし 新バビロニアが捕虜にしていた南ユダ王国のユダヤ人2支族を「解放」するこうしてペルシャが中東の最大勢力になり ペルシャ大王が ペルシャ(イラン)とアラビア半島に挟まれる湾も ペルシャ湾として支配
だから 現在もペルシャ(イラン)がペルシャ湾を支配
各国は 産油国から このペルシャ湾で 原油をタンカーの満載 輸入していてイラン戦争で イランが ペルシャ湾の出入り口」のホルムズ海峡を封鎖
そのため各国は 中東産油国から 原油が輸入できなくなり 日本では原油から作る「ナフサ不足」で騒がれている
話は前に戻り・・そのため 後から解放された南ユダ王国のユダヤ人がパレスチナに帰省すると 先に解放された北イスラエル王国の10支族が「いなくなっていた」
これが歴史に残る「消えた10支族」
パレスチナは、エホバの神がヘブライ人に約束した「カナンの地」だったがアッシリア 新バビロニアに滅ぼされたため パレスチナはエホバの神が ユダヤ人(ヘブライ人)に約束したカナンの地ではないとして10支族は パレスチナを捨て 西洋 ウクライナに離散する
しかし 後から解放された ユダ族とべ二アミン族の南ユダ王国は パレスチナに「居残る」
‥・長文になると 投稿できないので ここらで中断‥続く
韓国でも残忍な事件を映画化
韓国で起きた残忍な事件を、映画化したのが「カエル少年失踪事件」
1991年 5人の子供が カエルを取りに出かけるが そのまま失踪してしまう
そのため警察が捜査するが、原因が不明のまま「迷宮入り」となった事件を映画化したのが「カエル少年失踪事件」
映画では 殺人だと想定した映画で 犯人は 牛を殴りコロし肉にする「屠殺」業の若者が 5人の子供の頭を 叩き割る
吐き気を催すほど、物凄い残忍な映画 韓国は 残忍な映画を数多く制作していて
韓国映画「悪魔は闇に蠢く」も すざまじい残忍映画 地下のマンホールに住み着いた男が 少女たちをマンポールの中に引きずり込み コロしてしまい マンホールは血の海になる残忍な映画
韓国映画「罠」も残忍映画で 韓国は 残忍シーンが好きな民族なのか 残忍な映画を数多く制作している
昭和26年の残忍な事件
韓国でも、残忍な事件を 数多く制作している
見出し・・「まるで血の海」「頭が砕かれていた」飲食店一家4人が死体で発見…【「強盗」でも「恨み」でもない】子供まで殺した『驚きの犯人』(昭和26年の事件)
1951年(昭和26年)2月22日、東京・築地の中華料理店で、店主一家4人(42歳店主、40歳妻、11歳長男、10歳長女)の頭蓋が無残に砕かれ、惨殺される事件が起きた。現場のふすまは赤黒い血しぶきでまだらに染まり、畳は血の海と化していた。
凶器とおぼしき血糊のついた鉈が、調理場の冷蔵庫に無造作に残されている。第一発見者は、同店の見習いコックの男(当時25歳)。警察署のすぐ裏手という場所で起きた、あまりにも大胆不敵な凶行だった。
警察は当初、第一発見者の男を疑った。「第一発見者を疑え」は殺人捜査の鉄則だ。電話の受話器が外され、そこから男の指紋が検出されたことも疑いを深めた。しかし、男が語った「新入りの女」の存在が、捜査の舵を大きく切らせる。事件前日から住み込みで働き始めたという小太りの女。閉店後、店主が売上金を数えるのを、闇に潜むようにじっと見ていたというのだ。
女が口にした「衝撃の告白」
釈放された男は一転、捜査に猛烈に協力する「時の人」へと祭り上げられた。例の女のモンタージュ写真作成には寝る間も惜しんで協力し、新聞各社は彼を英雄のように扱った。やがて新聞には〈“男”が私に極力顔を見せまいとする態度から推して、一度や二度は店に来たことのあるものではないか〉などと記した、「私の推理」と題する手記まで掲載される始末だった。
事件発覚から2週間後の3月10日、ついに手配されていた女(当時23歳)の身柄が拘束された。彼女の供述は衝撃的だった。
「犯人は、あのコックさんです」――。
◆◆◆
恩義があるはずのオーナー家族をなぜ…? 【事件の詳細/コックのその後】は以下のリンクからお読みいただけます。
滋賀県の名物、鮒鮨
この鮒鮨が 寿司の「元祖」
「鮒寿司」
鮒寿司は、滋賀県の琵琶湖産ニゴロブナを塩漬け後に、ご飯とともに長期乳酸発酵させた、強い酸味と独特の匂いを持つ伝統的な、なれずしです。
主に薄く切ってそのまま、またはお茶漬けや酒の肴として食べられます
米の飯
なぜ小さい米粒が 主食になったのか?
答えは、ジャガイモやサツマイモは、すぐに腐るが、米は長年「保存できる」長所がある、さらに噛めば噛むほど「味わい深い食い物」だからである
「稲」はベトナムなどの「東南アジア」や 中国の南部(雲南省)に「自生」していた野草
この野草だった稲を 東南アジアや 中国は「人工栽培」 米の飯にする
稲作をする場合、田んぼに川から水を引く この時 川に生息しているフナなどの淡水魚が 水田に「入り込む」
そのため東南アジアや中国人は、水田に入り込んだ鮒を食用にしていた
この様子は 20年程前 水田でフナを手づかみする様子が テレビで報道されていた
そのため 東南アジア人は、水田に入り込んだ「鮒と米の飯」を「塩漬け」にして「発酵」させた「保存食」を作っていた
この東南アジアの保存食が 中国に伝わり 中国人も同じように 鮒と米の飯を塩漬けにして発酵させた保存食が「鮨(スシ)」
この中国の鮨が 日本に伝わり 日本の「琵琶湖」に生息している「ゲンゴロウ鮒」と 米の飯を発酵させたのが滋賀県の名物「鮒鮨」
発酵すれば「酸っぱい味」になり 酸っぱい味は「食欲をそそる」
しかし酸っぱい味を出す為に発酵させるには 時間が掛かる 下手な発酵では 腐ってしまうため
江戸時代 発酵させず 酸っぱい味を出すため 醸造酢を米の飯に混ぜ
発酵していない 新鮮な魚を添えて作ったスシが「寿司」
寿司は 日本人好みで 馬鹿でもチョンでも 寿司を食いたがる
米の飯を 釈迦の遺骨に例え 寿司職人は舎利(しゃり)と言っている
個人的に 寿司は好きではない「かしわの握り飯」が大好きな猫
日本の農耕は、縄文時代の末期
以前の投稿で紹介した
縄文時代、縄文人は「天然自然」の 山の幸 川の幸 海の幸を採取して食料にしていた
ところが中国で 今から6000年前の「米作の遺構」が発見され 中国は 大昔から稲作が行われ それが地続きの朝鮮半島に伝わり
大昔の古朝鮮人も米作を行っていて「縄文時代の末期」 古朝鮮人が日本に渡来 縄文人に米作を伝える
こうして 古朝鮮人と縄文人が「一緒に農耕」を行い、古朝鮮人が 日本に居住 当然、交わり 混血児が誕生 これが弥生時代の「弥生人」
こうして日本は、天然自然の幸を採取して生活していた縄文時代が「農耕で穀物を栽培」する「弥生時代」になる
日本は大昔から「中国文明」を導入していた 農耕の元祖は、中国
日本の農耕は 縄文時代の末期から行われていた この農耕が本格化したのが弥生時代
こうして日本は昔から農耕で「五穀豊穣」を願い 神社には 石碑に「五穀豊穣」が刻まれている これが神農祭
見出し・・縄文土器に残る植物の種子の跡「圧痕」を調べたら栽培ダイズだった…「農耕は弥生時代に始まった」覆す成果
「研究のおもしろさを少しでも伝えられたら」と語る小畑さん
縄文土器の表面や内部にある種子などのへこみ跡「圧痕(あっこん)」を調査してきた熊本大名誉教授の小畑弘己さん(考古学)の研究成果を盛り込んだ書籍「縄文時代のタネとムシ」が、福岡市の「新修 福岡市史ブックレット・シリーズ」から刊行された。最新の調査技術と方法論から見える新たな縄文時代像を紹介している
鹿児島県志布志市の小迫遺跡の土器中から検出されたイネ圧痕の3D画像
圧痕は、土器を製作する際に、粘土に練り込まれた植物の種子や虫の跡。土器を焼成すると種子や虫は失われるが、その形は空洞として残る。そこにシリコーンゴムを流し込んで型取りする「レプリカ法」や、X線やX線CTによる透視画像撮影で、種子や虫の形を再現し、農耕や植物利用の歴史を探ることができる。本書では、福岡市などの遺跡で発掘された土器から検出された虫や種子の圧痕画像とともに、縄文時代後期にダイズ栽培が行われていたとする研究成果や、害虫との共生の様子などについて解説している。
栽培ダイズの圧痕は2007年、長崎県島原市の大野原遺跡の縄文土器から初めて見つけた。カキの種のような扁平(へんぺい)で長い形で、当初はマメと分からなかったが、側面に「へそ」がついていたためダイズと特定。野生のダイズより大きく、形も現代のダイズと似ていることから栽培種と判断した。かつて農耕は弥生時代に始まったと考えられていたが、この圧痕から、縄文時代にダイズ栽培が行われていたことを明らかにした。
イネやアワなどの雑穀栽培の開始時期でも、圧痕を用いた手法による新たな発見があった。福岡県粕屋町の江辻遺跡の縄文時代最末期の土器約1万点を調べ、イネやアワなどの圧痕から得られた15点の炭化物を年代測定したところ、紀元前10~9世紀と示された。佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡から出土した弥生時代最古の炭化米や雑穀の年代より50~80年古い。「縄文時代最末期にはイネや雑穀が朝鮮半島からすでに流入していた」と説明する。
クロゴキブリは縄文時代に存在、在来種だった
筆先の穴が圧痕。顕微鏡をのぞきながら、筆で圧痕内の土などを除去する
圧痕で最も多く検出される虫は、イネの害虫として知られるコクゾウムシだ。小畑さんの考古学の師匠で、福岡市の文化財部長だった山崎純男氏が、05年に日本で初めて縄文時代後期のコクゾウムシの圧痕を発見した。当初はイネがあった証拠と考えられていたが、その後の調査でも縄文時代後期の土器からは確実なイネの圧痕が検出されなかった。
反社会性精神障害
反社会性精神障害
反社会性精神障害とは何か
日常で言われる「反社会性精神障害」は、医学的には多くの場合
反社会性パーソナリティ障害(反社会性人格障害)を指します。
専門的にはパーソナリティ障害の一つで、長いあいだ続く性格傾向の偏りによって
人間関係や社会生活に大きな支障が出ている状態を言います。
🔍 主な特徴のイメージ
医学書や日本語の解説では、反社会性パーソナリティ障害には次のような傾向が挙げられています。(personality-obstacle.com)
社会のルールや法律を軽く見て破りやすい
嘘やごまかしを平気で使い、他人を利用しやすい
衝動的で、先のことをあまり考えずに行動しやすい
他人を傷つけても罪悪感や後悔がとても乏しい
仕事やお金、人間関係で無責任な行動が続きやすい
ここで大事なのは「たまにルールを破る人」ではなく、
このような傾向が思春期以降ずっと続き、
自分や周囲が大きな不利益を受けているレベルを指すという点です。
⚠️ 反社会的勢力との違い
ニュースなどで出てくる「反社会的勢力」は、
暴力などで不当な利益を得ようとする集団や個人のことで、
法務省などの指針にも定義があります。(boutsui-osaka.or.jp)
これは法律・治安の問題で、
医学的な「反社会性パーソナリティ障害」とは別の概念です。
混同されやすいですが、イコールではありません。
反社会性精神障害の内田被告23歳
反社会性精神障害とは 人をコロして快感を覚える精神障害
内田被告と同じ反社会性精神障害が生首女
見出し・・「死んだふりをしている」内田梨瑚被告(23)に22日判決【旭川女子高校生殺害】事件当時16歳の少年と少女が証言 ビデオ通話で見た凄惨な暴行《連載(2)》
2024年4月に発生した、北海道旭川市・神居古潭(かむいこたん)で当時17歳の女子高校生が川に転落して死亡した事件。
監禁、殺人、不同意わいせつ致死の罪に問われている内田梨瑚被告(23・事件当時21)の裁判員裁判は、22日に判決(求刑・懲役27年)が言い渡されます。
事件の現場・内田梨瑚被告など(80枚)
事件発生から約2年。8回に渡る公判で内田被告は、問われる罪にどう向き合ったのか、裁判員裁判の経過を振り返ります。
証人尋問では、共謀した受刑者の女(当時19)のほかに、内田被告とともに女子高校生を監禁した罪などに問われ、すでに家庭裁判所で保護処分を受けた当時16歳の少年と少女にもリモート形式で尋問が行われました。
■少年(当時16)がビデオ通話越しに見た暴行
裁判4日目に行われた少年(当時16)の証人尋問では、事件が起きた日の夜に内田被告と交わしたビデオ通話の内容が明かされました。
少年の証言によると、2024年4月18日に旭川市内で内田被告と合流し、内田被告から指示されて女子高校生との通話を代わり、暴力団の口調で「どう落とし前つけんの」などと脅すよう頼まれたといいます。
その後、内田被告らは女子高校生を連れて留萌市から旭川市へ向かいましたが、少年は関わりたくなかったことや、門限などの理由から、途中で自宅へ送り届けられ、帰宅しました。
自宅に帰った少年は、状況が心配になり、内田被告にLINEで通話をかけたところ、すぐにビデオ通話に切り替えられました。
画面に最初に映し出されたのは、神居大橋の上で、受刑者の女(当時19)が仰向けになった女子高校生に対して馬乗りになっている状態でした。受刑者の女は、両手や片手で女子高校生の首を絞めたり、顔を複数回殴るなどの暴力を振るっていたと証言しました。その際、女子高校生の両手首は上に挙げられた「万歳のような形」でつかまれており、女子高校生は泣きながら「すみません」と謝り続けていたといいます。
神居大橋には照明がありませんでしたが、スマートフォンのライトと思われる明かりがついていたため、少年は様子を確認することができました。受刑者の女は、これまでに聞いたことのない口調で「こっちは人生かかってるんだよ」と怒鳴っていたと証言しました。少年が内田被告になぜこのようなことをしているのか尋ねると、内田被告は怒った感じで「女子高校生がコンビニで暴れたから」と答えたといいます。
報道・・死去 亡くなる3日前にはインスタ更新「過去1の激痛」
ステージ4の骨肉腫で闘病していた、YouTuberの榎本一心さんが亡くなったことがわかった。21歳だった。
【映像】亡くなる3日前に投稿されたベッドに横たわる榎本さんの姿
高校2年生の時に、骨にできるがんである「骨肉腫」と診断され、高校3年生の時にステージ4の判定を受けたことを公表していた榎本さん。自身のSNSで、抗がん剤治療を受ける姿や車いすで出かける動画など、闘病中の様子を発信していた。
榎本一心さん Instagramより
2026年6月10日に更新したInstagramでは、ベッドに横たわる姿とともに、「緊急の絶望的な検査結果で、右上半身と肺がステージ4の転移で埋め尽くされていることが発覚しました。右肺すべて潰れており、がんが皮膚にまで出てきている。日々激痛や後遺症などとの闘い。それでも生きたいです」と明かしていた。
13日には、「過去1の激痛で、呼吸も出来ず、朝の回診で診て頂いたらまさかの脇腹に大穴があり、大量の出血とうみ。治療がすべて中止になる危険性が」と、つづっていた。
18日の投稿では、家族がInstagramを更新し、榎本さんが16日に亡くなっていたことを報告。「17歳で骨肉腫の診断を受けてからの4年間、多くの方々の温かなご声援、ご支援に支えられながら、前向きに懸命な闘病生活を送ることが出来ました。21年という短い人生ではありましたが、一心は最後まで常に輝き続けておりました。これからは、痛みのない新たなステージで、より一層前を向き、誰かの幸せのために頑張るんだと思います」と、榎本さんへの思いをつづっている。
榎本さんの訃報に、「最後まで闘い抜いた生き方、本当にかっこよかったです。たくさん勇気をもらいました」「たくさんたくさん頑張ったね。涙が止まりません」などのコメントが寄せられている。
山本勘助 と、黒田官兵衛
山本勘助は 歴史資料によれば駿河の大名「今川義元」に仕える しかし今川義元は 山本勘助の容貌は 色が黒く醜男で家臣には取り立てず雑排の「使い走り」にしていた
「使い走り」とは 当時 甲斐の大名だった武田信虎は 自分の娘を 今川義元に「嫁がせ」ていて、今川義元も自分の娘を 武田信虎の息子に嫁がせ 武田家と今川家は姻戚関係
これは武田家と今川家が「互いに敵対関係にならないよう縁組」
つまり戦国時代 大名と大名が 互いに敵対関係にならないよう このように自分の子供を 相手の大名に「人質」として姻戚関係を結んでいた
ところが武田信虎の息子「武田信玄」は山本勘助を評価 家臣にする
こうして山本勘助は、武田信玄の家臣となり山本勘助が 武田家の出来事を日誌に書き残したのが「甲陽軍鑑」
武田信玄は 今川義元の下では「使い張り」だった山本勘助を 家臣にしているので ある程度 知略ある軍師だったのは間違いない
ところが 尾張の大名・織田信秀(織田信長の父親)が 駿河の大名・松平広忠(松平竹千代・後の徳川家康の父親)を攻める
そのため松平広忠が 今川義元に援軍を要請 今川義元は 松平広忠に援軍を送るかわりに 息子の松平竹千代を人質にする・・つまり「同盟関係」
ところが 松平広忠は 家臣に裏切られ 家臣からコロされてしまう
そのため今川義元は 人質にしていた松平竹千代を 父親代わりになり 大事し 自分の名前の一部「元」を授ける
そのため、松平竹千代が 松平元信になる これが後の「徳川家康」
そして織田信虎の息子「織田信長」と今川義元が「桶狭間の戦い」
結果は織田信長が勝利 今川義元が 人質(今川家と松平家の同盟関係の為の人質)にしていた 松平元信を織田信長が人質にとる
こうして織田家と松平家は同盟関係となり 織田信長と松平元信(徳川家康)は 入魂の間柄になり
戦いは 織田信長+徳川家康の「連合軍」こうして織田信長が天下人になり 安土桃山時代を築く
この織田信長に仕えたのが「黒田官兵衛」然し、主君の織田信長は 本能寺の変で死去
そのため黒田官兵衛は、信長の後を継いで天下人になった豊臣秀吉の家臣となる 黒田官兵衛は 信長 秀吉 2代に渡り家臣として仕える
昔 中国では 大名は 戦いに勝利するには 知略ある男が必要なので看板を立てて知略ある策士を募集していた
これが 当時の故事
「千軍は得やすく 知略ある1将は 得難い」
三国時代 蜀の国の劉備は 諸葛孔明を知略ある軍事として迎えるため「三顧の礼」を尽くし 蜀の軍師にしている
黒田官兵衛 と 山本勘助
ある識者が 両名は「軍師ではなかった」と解説している
見出し・・黒田官兵衛は“ただの現地指揮官”だった 歴史学者が暴く「軍師」という虚像 なぜ日本人はこんなに「軍師」が好きなのか?[新書ベストセラー]
6月16日トーハンの週間ベストセラーが発表され、新書第1位は『80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間』が獲得した。第2位は『知らないと恥をかく世界の大問題17 米・中・露、三極構造の時代』、第3位は『年とる力』となった。
4位以下で注目は、7位に初登場の『軍師の日本史』。『応仁の乱』(中央公論新社)などのベストセラーで知られる歴史学者・呉座勇一さんの最新著作だ。本書で呉座さんは、「軍師はいなかった」という挑発的な問いを投げかける。私たちが思い描く「主君の傍らで策をめぐらすナンバーツー」というイメージは、実は史実とはかけ離れたものだった――。呉座さんはそう指摘し、現代でもよく知られる「軍師」たちの実像を史料に基づいて提示する。実際の黒田官兵衛は現地指揮官、山本勘助は足軽大将クラス、本多正信は行政官僚にすぎなかったというのだ。
では現在私たちが抱く華々しい軍師像は、いつ、どのように生まれたのか。本書はそのイメージの成り立ちを、江戸時代の軍記・講談、三国志演義などをあげながら解説。また戦後になって大ブームとなった司馬遼太郎作品などの歴史小説で彼らがどう描かれたかに触れ、「軍師」のイメージが確立していった過程を解き明かす。さらになぜ日本では「軍師」がこれほどまでに人気を集めるのか。ナンバーツー、補佐的なポジションに憧れを抱く日本人の人間観、社会観にも踏み込んだ一冊となっている。
物語や大河ドラマで描かれる軍師像に親しんできた読者にとってはとりわけ刺激的な内容といえる。呉座さんが運営するYouTubeチャンネル「春木で呉座います。」では、本人による同書の解説動画が公開されている。興味を持たれた方は、まず動画から触れてみるのもよいだろう。
宇宙人は実在するのか
個人的には この無限ともいえる広大な宇宙の何処かの惑星に、宇宙人が実在していても不思議ではない
しかし 太陽系の惑星では 地球にだけ生命を誕生させる環境があるが 太陽系の他の惑星には「生命誕生の環境がない」
ただ太陽系に最も近い アルファ・ケンタウルス座でも光速で4,2光年の遠い距離
光速は、1秒間に30万km 地球を7回り半する速度で、この光速で4,2年間もかかる距離 往復で8,4年かかる
仮に 30歳で、光速の衛星に乗り アルファ・ケンタウルスを往復すれば38、4歳
生存するための食料も 衛星に膨大に搭載 宇宙空間は真空なので衛星が1度 光速で飛ばすと 空気抵抗がないので 光速で飛行し続けるので 燃料は、それほど必要にならない
しかし時間が掛かり過ぎて遭遇は無理だろう アインシュタインは物体の速度が光速に近く成れば「質量無限大」になり 物体の速度は 光速に成れない言っている
仮に光速の50%の速度の衛星なら アルファ・ケンタウルスを往復すれば30歳が46,8歳になる
この広大な宇宙の何処かの惑星に 人類のような知的生命体の宇宙人が実在していても、地球人との遭遇は、まずありえない
宇宙人との遭遇を映画化したのがスチーブン・スチルバーグの「未知との遭遇」
このキャッチフレーズが we are not alone
見出し・・「宇宙人は存在する?」野口聡一氏と宇宙の”都市伝説”について徹底討論<そこまで言って委員会サタデー
野口聡一氏が宇宙飛行士ならではの視点で語る
読売テレビの黒木千晶アナウンサーと野村明大アナウンサーが司会を務める「そこまで言って委員会 NP」(毎週日曜昼1:30-15:00、読売テレビ系)が、「そこまで言って委員会サタデー」(昼2:30-4:00)として6月20日(土)に放送され、宇宙飛行士の野口聡一氏が初出演する。
■野口氏と「宇宙人は実在する?月面着陸は事実?」など徹底討論
この番組では、「野口聡一と考える都市伝説・陰謀論徹底解明スペシャル」というテーマのもと、パネリストの古舘伊知郎・橋下徹氏・田嶋陽子氏・竹田恒泰氏・古市憲寿氏・丸田佳奈氏・RaMuとともに、「宇宙人は実在するのか」「アポロ11号の月面着陸は事実なのか」「パラレルワールドは存在するのか」など、 さまざまな謎について徹底討論する。
さらに、ゲストとして、陰謀論に詳しい国際ジャーナリストの大野和基氏、世界の謎に迫る雑誌「ムー」編集長の三上丈晴氏、オカルト編集者の角由紀子氏が参戦する。
■野口聡一氏 収録後コメント
この番組は、関東では地上波で見られないので、TVer で見たことあるんですけど、本当に伝説的な番組ですよね。なかなかこれだけ自由に地上波で、まさに「言っていいんかい!」という感じのギリギリを攻めているという意味で極めて貴重な番組だと思っています。思っていたよりも、うさん臭くない真っ当な議論がくり広げられていて(笑)、すごくいろんな観点からの意見が出ており、MC の黒木さんと野村さんが非常にうまく回していて、議論が発散しそうで発散せずにちゃんとまとまる方向に行っていたのがすごく面白かったなと思います。途中、橋下さんと激論を交わすような場面もありましたけれども、そういうのも含めてすごく見応えがある回になっていると思いますので、ぜひご覧ください。
朝倉義景
これは室町時代で 越前(現在の福井県)の大名の名前
室町幕府は、足利尊氏が築いた幕府で 「幕府」とは 最高権力者を「征夷大将軍」といい「上様」と呼ばれていた
この征夷大将軍(上様)の家臣が 大名で「殿様」と呼ばれていた
朝倉義景は「越前の大名(殿様)」で 室町幕府の足利征夷大将軍(上様)の「家臣」
だから朝倉義景は 室町幕府の足利征夷大将軍に「忠誠を誓っていた家臣(大名)」だった
ところが三河(現在の愛知県)の大名だった「織田信長」は 自分が天下人になる為に 室町幕府の15代、足利義昭・征夷大将軍に謀反
そのため 室町幕府の足利大将軍の家臣・朝倉義景と 同じ家臣の織田信長が「敵対関係」となり 織田信長が 越前の大名・朝倉義景を滅ぼしてしまう
こうして織田信長が、室町幕府を滅ぼし天下人となり 安土桃山時代を築く
この織田信長に、滅ぼされた朝倉義景の史跡を報道
朝倉義景の史跡
朝倉義景については 次に投稿
見出し・・・戦国期の「夢の跡」一乗谷朝倉氏遺跡、出入り口の土地も国特別史跡へ
一乗谷川の右岸にある国の特別史跡に追加指定される見通しの土地=2026年6月17日、福井市、平井良和撮影
戦国期の栄華と滅亡の歴史を伝える「一乗谷朝倉氏遺跡」(福井市)の国の特別史跡としての指定範囲が広がる見通しになった。国の文化審議会が19日、一乗谷の出入り口近くの土地を追加指定するよう文部科学相に答申した。今後、発掘調査が進められる。
一乗谷朝倉氏遺跡の特別史跡に追加指定される見込みの場所を示した地図=福井県教委提供
戦国大名の朝倉氏が5代103年にわたって支配した一乗谷は、城下町が「北陸の小京都」と呼ばれるほど栄えた。だが、1573年に織田信長に攻め滅ぼされ、焦土と化した。
1967年以降の調査で多数の遺物が発掘され、戦国の城下町の姿を伝える遺跡として71年に「国宝級」とされる特別史跡になった。これまでに、一乗谷川沿いの朝倉館跡や城下町があった場所など約278万7300平方メートルが指定されている。
この日の文化審議会では新たに、谷の出入り口付近の足羽川と一乗谷川が交わる場所にある約8400平方メートルの土地の追加指定が答申された。
一乗谷川右岸の一角で、1990年度と2003年度の調査で武家屋敷の遺構や土器などが発掘された。近くには、谷の奥への侵入に備えた防御用の土塁「下城戸」の跡があり、遺跡の管理事務所によると、新指定地での調査によって建物の配置のさらなる解明が期待される。
現況は約5500平方メートルが民有の畑などで、残りが国有地と県有地になっている。追加指定を受けた後に福井市が民有地の公有地化を進め、発掘調査や遺跡としての整備につなげるという。
「事後策」を考えなかった高市
こんな事をすれば、どういう結果になるのか❓名誉欲が強い高市は「結果」も考えずに 総理指名選挙で 対立候補を誹謗する動画
もし悪い結果になれば 悪い結果を「どう切り抜けるか」対処法を考えねばならない
しかし高市は 名誉欲ばかり気を取られ、悪い結果を切り抜ける事後策を深く考えていなかった
当時の状況では 対立候補は小泉進次郎 その為、高市は小泉を内閣に採り入れ、防衛大臣に抜擢すれば 切り抜けられると考えていた
しかし世の中 考えるほど甘くない
見出し・・高市総理に「見苦しいぞ!」「証拠がある!」「参考人に来てもらうしかない!」などヤジの嵐…ネガキャン疑惑 「声紋鑑定」の結果受け追及
19日、参議院本会議において、立憲民主党の打越さく良議員が、高市総理の陣営をめぐるネガキャン(誹謗中傷)動画疑惑について追及した。打越議員の質問に対し高市総理が答弁を行ったが、議場内からは複数のヤジが飛び交う展開となった。
高市総理に「見苦しいぞ!」ヤジの嵐の瞬間(実際の様子)
打越議員はまず、昨年の自民党総裁選や本年2月の衆議院選挙で、総理の公設第一秘書が他候補に対する中傷動画の作成や大量拡散に関わっていた疑惑について質問した。打越議員は、今月5日の参議院予算委員会での総理の答弁内容に誤りがあったとして、自民党側から答弁訂正の申し出があったことを指摘。打越議員は、問題の答弁について、動画拡散を自ら告白する起業家男性とのオンライン会議を行なっていたと認めていた高市事務所の文書回答を、総理自身が明確に否定した件に関わるものだとして、「部分的な訂正や取り消しで済まされる問題ではありません」と主張した。これに対し、議場内から「そうだ!」とヤジが飛んだ。
打越議員は続けて、「総理、まず、この時の答弁が虚偽答弁であったことをお認めになり、この場で国民に対して謝罪すべきではないでしょうか?」と迫った。再び議場内からは「そうだ!」とヤジが上がった。
さらに打越議員は、総理がこれまで「秘書も確信は持てないと言っている」などと曖昧な答弁を繰り返してきたとした上で、「週刊文春」の続報で声紋鑑定の結果「同一人物の音声と推定してよい」との鑑定結果が出たと報じられたことを指摘。公設第一秘書と起業家男性との間で行われていたとされる中傷動画作成についてのやり取りや、秘書が具体的に中傷動画の作成を指示していたと思われるメッセージの内容も公表されていると言及し、「総理、『公設第一秘書はこの起業家男性と一切面識がない』という答弁は虚偽であったことをお認めになりますか?」とただした。これに対しても議場内から「そうだ!」とヤジが飛んだ。
打越議員は、公設第一秘書と起業家男性との関係や中傷動画の作成・拡散等の関わり、この男性が販売した「サナエトークン」にどこまで関与していたのかなど、全て再調査して明らかにするよう要求。「中傷動画の大量拡散によって民意が歪められた可能性と、そして、一国の総理大臣が国会で虚偽答弁を繰り返していた可能性が問われる問題です」と述べ、真相究明のため、予算委員会で理事会協議要求事項となっている総理の公設第一秘書の参考人招致に応じるよう強く要求し、再審法改正案の質問に移った。議場からは拍手が起きた。
今日の話題から
結局 豊臣秀吉の「跡継ぎ」が原因
豊臣秀吉は 若い頃 寧々(ねね)という女と夫婦になり天下人になり寧々は正室となり北政所㋾言われていた
ところが秀吉と正室の北政所(ねね)との間に「子供(後継ぎ)」が「できなかった」
後継ぎは正室との間に設けた「長男」が 皇太子になり「跡継ぎ」になるのが中国 朝鮮 日本でも「常識」
その為、秀吉は後継ぎを作る為、側室にした淀君との間に「豊臣鶴松」を作る この鶴松は 秀吉の血筋を引いた秀吉の子供で秀吉は 鶴松を「跡継ぎ」にする
正室との間に 後継ぎがいない場合 側室との間にできた子供を「跡継ぎ」にしていた
だから 正室都の間に後継ぎがいない いても病死 戦死する場合があり 主君は 後継ぎを絶やさない為、何人もの側室を抱えていた理由
しかし鶴松は3歳で「病死」 そのため後継ぎを喪う
その為 秀吉は、後継ぎを作る為、姉の息子(甥)の「豊臣秀次」を後継ぎにする
しかし秀次は秀吉の言いなりにならず 秀吉は 秀次に「出家」を命じた為 秀次「自害」
こうして秀吉は、またも後継ぎを失う
この後 秀吉は「朝鮮出兵」 当然 秀吉の家臣たちが 李氏朝鮮を征服するため出兵、ここで「活躍した家臣」が、武闘派の「加藤清正」
しかし李氏朝鮮の国王 宣祖は姑息で卑劣な国王 光海君を身代わりにして安全地帯に逃げてしまい 加藤清正は 宣祖の首を取れず 戦功を上げられなかった
他方 豊臣秀吉は「高齢」で男性機能が衰え 血が繋がった子供(皇太子)を作れず 側室の淀君と 家臣の大野治長との間に子供を作らせ 後継ぎにしたのが「豊臣秀頼」
秀頼は、秀吉とは血の繋がりがない他人の子供 そのため家臣の加藤清正 黒田長政たちは 豊臣秀頼を「跡継ぎとは認めなかった」
然し家臣の「石田三成」は 豊臣秀頼を「跡継ぎとして認め 忠誠を誓っていた」
当然 秀頼を「後継ぎとは認めない」加藤清正 黒田長政と「後継ぎに認めた石田三成」は「対立」
ところが徳川家康も 秀吉の子供ではない豊臣秀頼を「跡継ぎとは認めず」 自分が 天下人になろうとする
そのため 秀吉の家臣で 秀頼を後継ぎに認めず秀頼に忠誠を誓えない加加藤清正 黒田長政などは秀頼に忠誠を誓えず 徳川家康に「寝返る」
こうして豊臣秀頼に忠誠を誓う石田三成と 徳川家康*加藤清正*黒田長政が 秀吉の後継ぎを巡り 関ケ原の戦い
これは徳川家康が 天下人の豊臣家を滅ぼし 家康が天下人になるための戦い
結果 徳川家康 勝利 こうして徳川家康は「関ケ原の戦い」で自分に寝返った加藤清正を肥後の「大名」として召し抱え 黒田長政を福岡の「大名」として召し抱える
この関ケ原の戦いから 徳川家に忠誠を誓った武将が「外様大名」
関ケ原の戦い以前から 徳川家に忠誠を誓っていた武将が「譜代大名」
さらに徳川家康は豊臣家を滅ぼしてしまうため 大阪城に居城していた 豊臣秀頼とその母親・淀君を「大阪夏の陣」で攻め自害させ こうして
豊臣家は 滅亡してしまい・・ 徳川家康は 豊臣家を滅ぼし 天下人になり徳川幕府(江戸時代)を築く
結局 豊臣秀吉が「間違った後継ぎ」にしたのが 全ての「原因」:
どうせ 血の繋がりがない後継ぎなら忠臣だった「石田三成」を後継ぎにすればよかった それでも血の繋がりがない後継ぎなので 加藤清正 黒田長政が 後継ぎ(天下人)を狙い 政権闘争
今日の話題
報道・・なぜ石田三成は「七将襲撃事件」で加藤清正ら秀吉子飼いの武将から襲われたのか? その背景には朝鮮で戦った武将たちの秀吉への怒りがあった
〈豊臣政権はなぜ安定しなかったのか? 秀吉を天下人に押し上げた「気前の良さ」こそが、政権の不安定を招いた〉 から続く
「七将襲撃事件」の原因には、豊臣政権内の加藤清正ら「武断派」と石田三成ら「吏僚派(文治派)」の対立があると言われるが、歴史学者の本郷和人氏は「三成は秀吉の身代わりだった」と考察する。その根拠は鎌倉時代の「梶原景時(かじわらかげとき)の変」との類似性である。本郷氏の最新刊 『インテリジェンス関ヶ原』 (文春新書)から男性武闘集団内部の愛憎の力学を解き明かしたくだりを一部抜粋してお届けする。
◆◆◆
朝鮮出兵で溜まった鬱憤
朝鮮で苦戦を強いられた武将たちが譴責(けんせき)などの処分を受ける一方、彼らに不利な報告をした軍目付(いくさめつけ)たちには、褒美として新しい領地が与えられました。この軍目付たち、福原長堯(ふくはらながたか)・熊谷直盛(くまがいなおもり)は三成の縁族、垣見一直(かきみかずなお)も三成と近しい間柄でした。
さらに秀吉は、石田三成に小早川秀秋から没収した筑後国・筑前国(秀秋は越前へ減封)を与えようとします。さすがに三成は辞退しますが、筑前の名島(なじま)城を与えられました。蜂須賀や黒田たちが面白く思うはずがありません。また、三成は、減封によって浪人となってしまった小早川家の旧臣たちを自家に引き受けますが、これも反感の種となったことは想像に難くないでしょう。
このように、朝鮮出兵を通じて、三成は秀吉の側近としての発言力を強めていきます。派遣軍からの情報を集約し、秀吉に伝え、秀吉の決定を現地に送る。後方支援や戦況の判断についても、三成の存在感は大きなものとなりました。
三成らは有能な実務家ではありました。難易度の高い海外での補給戦も、朝鮮からの撤兵も、彼らの高度なオペレーションによって可能になったのです。この戦いを早く終わらせたいという判断も間違ってはいなかったでしょう。エリートたるゆえんです。
しかし、清正ら現地の武将たちが、「老いの進む秀吉の威を借りて、実際には三成らが秀吉政権を動かし、自分たちを陥れているのではないか」と考えるのも、無理からぬことでしょう。
理不尽な戦争を始めたのも、現地の武将たちに無理難題を押し付けてきたのも、不公平な裁定をくだしたのも、おおもとは三成ではなく、秀吉です。
しかし、清正らにはこれまで恩顧を受けてきた、絶対的な権力者である秀吉が間違っているとは言えませんでした。しかも、彼らが帰国を果たしたときには、秀吉はこの世の人ではありません。出兵組の鬱憤(うっぷん)を受け止めるはずの相手は、すでにいなかったのです。
なぜ日本は、太平洋戦争で 米国に「敗戦」したのか
答えは 1つしかない 32代米国大統領ルーズベルトの「知略」に敗れたからである
日本人は 太平洋戦争を「知らない」ので 本当の真実に「無知」
なぜ太平洋戦争なのか? この経緯は複雑で分かりやすく説明
1937年7月 日本軍が 中華民国の「盧溝橋」という橋の近くで「軍事演習」していると中華民国の兵士が軍事演習していた日本軍に「発砲」:
これは中華民国による日本軍への「戦争の挑発行為」なので この1937年7月の「盧溝橋事件」を契機に、日本軍が「中華民国を侵略」
ところが「米国ルーズベルト」は、それ「以前」に、中華民国の「利権を確保」するため「ビルマのラングーン」から中華民国の本拠地が置かれていた「揚子江の重慶」を繋ぐ道路を7年間かけて建設、ところが 中華民国を侵略した日本軍にとって侵略先の中華民国を 支援投資する道路は「邪魔な道路」なので「日本軍が破壊」する
この道路を「援蔣ルート」という
つまり中華民国を侵略した日本軍は援蒋ルートを破壊し、米国の「利権を妨害」する、そのため米国ルーズベルト大統領は「報復措置」として「日本の弱点」だった「資源に乏しい日本」に石油の「全面禁輸」を行う
そのため日本経済が「大ダメージ」しかし「米国の軍事力」は日本の10倍以上「米国の国力」は日本の4倍余りで 戦争では 日本は「米国に勝ち目はない」ので、当時 日本政府の「近衛文麿」総理は「対話での解決」を図る
そして対話で解決するため 当時「駐米大使」だった「野村大使」「来栖大使」を米国ホワイトハウスに送る、しかし ルーズベルトはホワイトハウスに「不在」で代わりに「ハル国務長官」が対応
野村大使・来栖大使に対し‥「日本軍と日本人居留民が、中華民国から全面撤退しない限り 対話に応じない」・・対話拒否
何故「対話拒否」したのか・・米国は軍事力で日本軍の「10倍以上」で戦争で「日本を叩き潰す」為に「対話拒否」
そのため近衛文麿・総理は日本連合艦隊司令長官の「山本五十六」に「もし日本と米国が戦争になれば、どうなるか尋ねる」
以下は、山本五十六の返答
「暴れろ,と言われれば、半年や1年そこら暴れて見せますが、それ以上に成れば確証は持てない」
意味は 日米戦争すれば、半年や1年は、勝利して見せますが それ以上の長期戦になれば勝利する確証がない」と言う意味、そのため近衛文麿総理は 対話解決を 何度も何度も米国に要請するが、米国は 軍事力で 日本を叩き潰すため「執拗に対話拒否」:
その為「対話解決を失敗」した近衛文麿総理は 責任を取り 辞職
その後を引き継いだ「東条英機・総理」も 米国に対し、譲歩に譲歩を重ね「対話解決を要請」しかし「頑固として対話拒否する米国」
そのため「東条英機・総理」は 日米戦争を「想定」し 当時 日本海軍の「軍事秘密基地」があった北方領土の「択捉の単冠湾(ひとかっぷわん)」の「日本聯合艦隊・機動部隊」に 1941年11月26日「出撃命令」を下す
この日本連合艦隊・機動部隊を「率いていた」のが 解説に登場する「南雲忠一・中将」
そして 日本聯合艦隊・機動部隊は「ハワイの沖合」に「停泊」
なぜ ハワイ沖合に停泊させたのか?
対話解決に成功すれば ハワイ沖合に停泊させていた日本連合艦隊・機動部隊を「日本に帰還」させるため、しかし 米国は 最後の最期まで「対話拒否」
そのため東条英機・総理は・・もはや対話の道は閉ざされた 日米開戦やむなし・・日米開戦 決断
そのため ハワイの沖合に停泊していた 日本聯合艦隊・機動部隊に 打電
「二イタカヤマノボレ 1208」・・暗号文で 1941年12月8日 真珠湾を攻撃せよ」という意味
こうして1941年12月8日 日本軍が米国ハワイ州の米軍基地「真珠湾」を奇襲攻撃、これが 日米開戦(太平洋戦争)
これは ルーズベルトが軍事力で 日本を叩き潰すために 日本に仕掛けた「戦争の罠」ルーズベルトは、米国記者団に次のように言っている・・これは記録フイルムに残されている
「もはや日本をベビーイングする時代は終わった、いかにして日本を戦争に誘い込むか それが問題である 先に拳銃を抜いた方が悪者に決まっている」
このルーズベルトの発言は、今も 記録フイルムに残されている
このルーズベルトの発言は 前述した日本軍の行動と「一致」している
軍事力で 日本を叩き潰すには「対話解決」を「拒否」すれば「戦争で 解決するしか術はない」こうしてルーズベルトは「日本を戦争に誘い込む」ため 頑固として 対話拒否したのである
そして「先に拳銃を抜いた方が悪者」だと言っている、そのため 日本軍が先に拳銃を抜き 米国ハワイの真珠湾を「先制攻撃」
日本軍が 最初に拳銃を抜き「真珠湾を奇襲攻撃」こうして日本は「悪者」になり 米国は「正当防衛」として「正義の国」にしたのである
これが ルーズベルトの「知略」
ルーズベルト大統領は軍事力で 日本を叩き潰すため 日米開戦(太平洋戦争)そのため1942年 太平洋の「ミッドウエー海戦」で「日本聯合艦隊」と 米軍の「太平洋艦隊」が激戦
このミッドウエー海戦で 解説文に登場したのが「友永丈市・大尉」で 日本聯合艦隊の「戦局が不利」になったので「友永丈市・大尉」は米軍空母エンタープライズに 体当たりで自爆・・特攻 名誉の戦死
しかしミッドウエー海戦で 日本聯合艦隊は 米軍の太平洋艦隊に「惨敗」してしまう、この1942年のミッドウエー海戦から 日本軍は「敗退の一途」を辿り、1945年8月15日 日本敗戦
太平洋戦争は「戦う前」から 日本敗戦は分かっていた ルーズベルトの「知略に敗れた」のが 太平洋戦争の「真実」
太平洋戦争に無知な日本識者
なぜ 日本軍は、太平洋戦争で 米国に敗戦したのか その理由すらハッキリ分かってない日本・・ 次の投稿で説明
解説文に登場する「友永」とは「友永丈市・大尉」のことで 「南雲」とは「南雲忠一・中将」の事
次の投稿で 詳しく説明
見出し・・「あと5分あれば勝てた」は真っ赤な嘘だった…!? “ミッドウェイ海戦”の定説《運命の5分間》を打ち砕いた“とある女性作家”の恐るべき執念に迫る
〈「ふんどし一丁で香を焚いて瞑想して作戦を考えた」山本五十六のお気に入りだった“変人参謀”がミッドウェイ海戦で犯した“重大なミス”とは《日本海軍の致命的欠陥》〉 から続く
【写真】この記事の写真を見る(5枚)
「あと5分あれば、こちらの攻撃隊が発進して米空母を撃破していたのに……」。
ミッドウェイ海戦について、淵田美津雄や源田実ら旧海軍の元将校たちが語り継いできた「運命の5分間」という運命の分かれ道。しかし現在、この言い訳は誤りであったことが定説になっている。
神話を打ち砕いたのは、作家の澤地久枝氏。彼女はどのようにして従来の見方を覆したのか。大木毅氏の著書『 ミッドウェイ海戦 』(文春新書)の一部を抜粋し、紹介する。
◆◆◆
雷装から爆装へ
友永から第二撃の要請があった直後より、南雲機動部隊はミッドウェイ島の基地から出撃したアメリカの基地航空隊、B17四発重爆撃機「空の要塞」やTBF雷撃機、B26双発爆撃機などの波状攻撃を受けます。しかし、ミッドウェイの基地航空隊は戦闘機をミッドウェイ基地の防衛に回し、攻撃隊に掩護を付けなかったため、南雲機動部隊の上空直掩機の迎撃で、つぎつぎと撃ち落とされます。機動部隊の物的被害はなし。ところが、攻撃してきたのは基地航空隊で、空母から来たものではないと判断した源田航空甲参謀は、心おきなく地上を叩けるとばかりに、機動部隊に残っていた機体を兵装転換し、第二次ミッドウェイ攻撃を実施すべきだと、南雲司令長官に強く進言しました。南雲も、これに同意し、午前7時15分、兵装を艦船攻撃用から陸上攻撃用に転換せよとの命令が下達されます。
インド洋作戦のところで述べた通り、この兵装転換というのが非常に困難な作業でした。飛行機の下にもぐって、航空魚雷や対艦船用爆弾を輸送車に下ろします。本当は、それを下段甲板の弾薬庫にしまわなければいけないのですが、このときは、そんなひまはないということで傍らに放置されてしまいました。それから陸上攻撃用の新しい爆弾を運んできて、懸吊索(けんちょうさく)でそろそろと持ち上げて、機体に取り付ける、これを狭い格納庫内で(ミッドウェイ海戦では、一部飛行甲板上でも行われたようです)、1機あたり3人でやります。航空魚雷や大型の陸用爆弾は800キロあります。しかも、日本海軍の悪いところで、魚雷や爆弾の種類ごとに取り付け金具もばらばらで、統一されていない。
憲法第9条の成り立ち
日本は「明治時代」から「軍国主義」になる この明治時代から太平洋戦争で日本敗戦するまで日本の国号は「大日本帝国」
憲法の「大日本帝国憲法」で「天皇が立憲君主」の憲法
そして昭和時代の1941年 日米開戦(太平洋戦争)に突入
しかし 米国の軍事力は 日本の10倍以上 国力は日本の4倍余りで翌年1942年 太平洋のミッドウエー海戦で日本が世界に誇る「日本聯合艦隊」が米軍の「太平洋艦隊」から 惨敗
この1942年のミッドウエー海戦から「日本軍は 敗退の一途を辿る」
日本軍は「連戦連敗」の「負け戦」になる
ここで日本は「米国に降伏」すべきだった しかし日本政府(鈴木貫太郎内閣)・軍部は、米軍と「徹底抗戦」するため大日本帝国憲法の「国家総動員法」に基き、若き日本人男女を「徴用」
若き日本人男児には「召集令状(赤紙)」が配布され 必ず戦場に「出兵」させられ
若き日本人女子は 軍需関連工場で「女子挺身隊」の勤労奉仕
そして 18歳になった日本人男児は「予科練」に入隊 そして18歳~20歳前後の日本人男児は「特攻隊」
特攻隊とは 米国戦艦に「体当たり自爆」して「必ず戦死」せねばならなかった
そのため特攻機には 米国戦艦に「辿り着けるだけ」しかガソリンが搭載されておらず 帰還するためのガソリンが搭載されていなかった
だから 帰還したくとも「生還できなかった」機体に250k爆弾を抱き米国戦艦に体当たり、自爆せねばならなかった
日本政府・軍部は 日本男児に 必ず戦死するように仕向け 日本人を「戦争の犠牲」にしていた
これでは 太平洋戦争は「終わりなきエンドレス・ウオー」になる為、米軍は 太平洋戦争に「終止符を打つため」・・日本敗戦を認めされる為
「日本が戦争できない」よう 叩き潰すため1945年8月6日広島に「原爆投下」
この広島の「被爆体験」を描いているのが中沢啓治の「はだしのゲン」
さらに8月9日 長崎に原爆投下 大勢の日本人たちが 生きた儘3000度の高熱で 焼きコロされてしまう
そのため昭和天皇は「このままだと日本人が絶滅してしまう」と考えられ 1945年8月15日 無条件降伏
同年 米国戦艦ミズーリ号で戦勝国代表と 敗戦国の日本代表が「無条件降伏の調印式」
この調印式で 米国代表マッカサーが以下のスピーチ
「憎むべき戦争を永久に追放せねばならない」
これは 太平洋戦争で最後の最期まで徹底抗戦した日本に向けられたメッセージ
この当時 日本は「幣原総理」で マッカサーの意図を解し「日本は恒久的に戦争放棄」する旨をマッカサーに伝える
ここで「米国の意向」と「日本の意向」が一致 それまでの大日本帝国から日本国になり 日本国憲法・第9条に「恒久的戦争放棄」の条文が盛り込まれた
この条文は、日本は「戦争しない」という意味ではなく 日本は「戦争できない」という意味の条文
なせなら太平洋戦争で 日本は降伏を認めず徹底抗戦したからである
だから戦勝国は、日本が「戦争できない」ように「憲法第9条」
これは「第1次大戦」も同じで、戦勝国が敗戦国のドイツが「戦争できない」ようにするるため「天文学的な巨額戦争賠償金」を課す
戦争には、巨額な「軍事費」が必要で 巨額の戦争賠償金を課せば、ドイツは「戦争できない」
そのためドイツは経済・財政「破綻」ドイツ人民は生活難
ところが第1次大戦で伍長だったヒトラーがドイツを再建するためドイツ労働党(ナチス党)を発足
ドイツを破綻させた戦勝国を「復讐」するため1939年、第2次大戦に突入
つまり戦勝国が、敗戦国のドイツに「巨額の戦争賠償金」を課した為に「第2次大戦」に突入
だから第2次大戦(太平洋戦争)で戦勝国は、敗戦国の日本に戦争賠償金を課すと、ドイツのように 大戦に突入してしまうので 戦争賠償金を課す代わりに 日本が「戦争できない」ように、憲法第9条で「日本が戦争できない条文」を盛り込ませたのである
ところが1945年から戦勝国の米国GHQが 日本を「統治支配」する
これは太平洋戦争で「敵の米国」から日本人が 支配されるので日本人が米国GHQに「反抗」 日本の秩序が乱れてしまい 米国GHQが 日本人による「反乱を鎮圧」するため「警察予備隊」を発足させる
この「警察予備隊」は 日本人の警察官からなり この日本人の警察予備隊が 反抗する日本人を「共産主義の手先」という名目で 反抗する日本人を「弾圧 虐待」する
この警察予備隊が、現在の「自衛隊」 憲法内条で、自衛隊は軍隊ではなく「戦争できない警察予備隊」
ところが1950年の朝鮮戦争で「資本主義の米国」と「共産主義のソ連」は、軍事的な「敵対関係」の東西冷戦
そのため1945年から日本を統治支配していた資本主義の米国は共産主義を防衛するため1951日米同盟・日米安全保障条約 これが翌年1952年 実効となり 警察予備隊が 共産主義を防衛する「自衛隊」になる
だから 憲法第9条は「自己矛盾」になっている
日本は 戦争できない国 自衛隊は軍隊でなく 戦争できない
では 他国から攻撃・侵略された場合 日本は どうするのか
戦争できない 戦争しない これで日本が守れるのか
だから高市総理は 自己矛盾している憲法第9条の改憲
どんな矛でも防げる盾があり どんな盾でも貫く矛がある・・自己矛盾している憲法第9条
だから自衛隊は軍隊でない 自衛隊は本来「警察予備隊」
憲法第9条に無知な高市総理
次の投稿で、憲法第9条の経緯を説明
見出し・・・憲法改正と言うけど…中身知ってる?「戦争を永久に棄てましてん」大阪おばちゃん語訳で読む「憲法9条」 法学者・谷口真由美氏が語る“主語を私にする”憲法の読み方
第9条〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕 大阪おばちゃん語訳
高市早苗総理が強い意欲を見せている憲法改正。しかし、そもそも憲法の中身をどれだけ知っているだろうか。
ニュース番組『わたしとニュース』では、法学者の谷口真由美氏と漫画家の瀧波ユカリ氏とともに、憲法の条文を「大阪おばちゃん語」で読み解きながら、憲法を自分ごととして捉えるためのヒントについて深掘りした。
■「9条は変えたくない」「ほとんど分からない」街の声と現状
70代女性(街頭インタビュー)
「憲法9条の存在は、世界の平和、日本国の安定にとって、総理は砦だと感じられたか、足かせだと感じられたか、そこの根本的な価値判断をお聞きしたいとかねてから思っていました」(中道改革連合・小川淳也代表)
ホルムズ海峡の事実上の封鎖について、トランプ大統領との首脳会談で自衛隊の派遣が話題になった際、憲法9条をどのように認識していたか、問われた高市総理は…。
「トランプ大統領との会談の時に砦だと思ったか、足かせだと思ったかということですが、そういったことを考えていたわけではございません。確かに自衛隊派遣の話はありました。現行の憲法9条はこうなっている、そして現行の自衛隊法ではこうなっている、今できることとできないことがある。これはできませんということをしっかりと申し上げた」(高市総理)
「戦争の放棄」や「戦力を持たない」ことなどを定めた憲法9条。武力に頼らない平和主義を示す、日本の憲法の要とも言える条文だ。そもそも、この憲法9条について街の人はどう思っているのか。
「9条は変えたくないっていうのはあります。世界中が戦争している。それに巻き込まれたくない」(70代女性)
「えー憲法…いやもうほとんど分からないです。(9条は)戦争とかのやつですか?若干分かります」(30代女性)
「9条の問題とか、一番初めには出てきますね。(Q.憲法9条の内容は言えますか?)パッと出てこないですね」(40代男性)
憲法9条という言葉は聞くが、具体的に中身を答えられる人は少ないのが現状だ。こうした状況を踏まえ、谷口氏は次のように指摘する。
「こんなものだと思う。いろいろなところで話をするが、『憲法は何条まであるか知っていますか?』と聞くと、みんな『ん?17条?』などと言って『聖徳太子か』みたいにコントみたいな話になったりする。その頃より複雑な社会になってるのにそんな短いわけないやんと。正しくは103条。実質は99条で終わりで、あとは補則などだ。それすら知らない人たちが私の実感だとたくさんいる中で憲法改正を、国民の総意としてしようとしているというのは、そうなのかな?という気がする」
瀧波氏も、現状への懸念を口にする。
「内容がわからないで『改正』と言われた時に、『改正』って『改めて正しい』と書くから何かいいことをしようとしているのかな、ぐらいに感じてしまっているとしたら、それはとても怖いことだと思う」
韓国は動物愛護なのか、動物虐待なのか
韓国で 亀の甲羅にペンキで願い事を書いたところ動物虐待で起訴されたと言う
しかし 韓国映画では 犬をコロし肉を食う映画が何本もある
見出し・・生きているカメの甲羅にペンキで「チェ○○ 55歳」…あきれた落書きの正体=韓国
韓国で侵略的外来種に分類されている北米原産のミシシッピアカミミガメ。国立生態院
韓国の50代男性が生きているカメの甲羅にペンキで願い事を書いて放流していたことが分かった。
甲羅にペンキで落書きされた状態で発見されたカメ
17日に放送されたJTBC『事件班長』では、先月11日に慶尚南道(キョンサンナムド)のある海水浴場を散歩中、甲羅に特異な模様のカメを発見したというAさんのエピソードが紹介された。
Aさんは「模様が本当に奇妙だな」と言いながら近づいたが、よく見るとカメの甲羅にペンキで落書きがされていたという。
カメの甲羅には人名や年齢、住所、連絡先のほか、健康運や仕事運を祈願する内容が書かれていた。
Aさんは直ちに市役所と警察に通報した。さらにAさんが甲羅に記されていた電話番号へ直接電話したところ、男性が応答し、この男性は容疑を認めたという。
このカメは、侵略的外来種である「ミシシッピアカミミガメ」であることが確認された。
『事件班長』側は、「侵略的外来種を放流したこと自体が問題であり、動物虐待の疑いもあるため捜査が進められた」とし、「警察は検察に送致する予定だ」と明らかにした。
日銀はもっと金利引き上げたがいい
安倍政権と日銀黒田と植田が イカレポンチで未曾有の 0金利 マイナス金利政策 その為 諸物価高騰
NOタリン丸出し 玉金もろ出しの愚策 政策金利3%程度が理想
ある識者がマトモな正論
見出し・・「日本もアメリカの政策金利の3.75%の水準まで金利を引き上げればいい」 アベノミクスのブレーン浜田宏一が指摘する「植田日銀の金融政策は『臆病』だ」
6月15、16日に開催された日本銀行の金融政策決定会合で、中東情勢による物価上昇リスクを受け、0.75%の政策金利を1.0%へ引き上げることが決まった。その水準は1995年9月以来ほぼ31年ぶりだという。
アベノミクスを理論面から支え、安倍晋三政権で内閣官房参与を務めたエール大学名誉教授の浜田宏一氏は、現在の植田和男日銀総裁について、アメリカと比較して低金利で政策運営する姿勢を「極端に臆病」と評価する。なぜそう考えるのか。その理由を聞いた。
※新潮社の新潮QUE【アベノミクスのブレーン浜田宏一、かく語りき】などの一部を再編集した記事です。
植田総裁は「極端に臆病」
植田和男日銀総裁の金融政策運営について、私は極端に臆病だと思っています。現在の日本の政策金利1.0%は低すぎる。早いうちから金利を上げることが必要です。アメリカの政策金利が3.75%にある状況で、日本だけが低金利を続けると、円を借りてドルで運用するだけで利益が出るという「キャリートレード」が生じています。その結果、円売り・ドル買いが進み、円安に伴い物価も高騰します。低金利政策を終わらせて、極端な話、日本もアメリカの政策金利の3.75%の水準まで金利を引き上げればいいと思っています。
ただ、その際に生じるショックへの対応は難しい問題です。植田総裁は2024年7月の日銀金融政策決定会合で政策金利の引き上げを決めた途端に、歴史的な株価の暴落になったということもあります。確かに金融政策は、物価の動向だけでなく、雇用や景気への影響も考慮しながら決めなければなりません。金利を引き上げればインフレを収める効果を期待できますが、その一方で企業収益の悪化や失業者の増加につながる恐れもあります。
一時的にはスタグフレーションのような状況も覚悟しなければならないと考えています。インフレ局面で、物価だけをスムーズに下げていくような経済政策は世の中に存在しない。日本を取り巻く経済情勢が悪くなっているので国民は我慢するしかないのです。それが一部の国民にとってかわいそうなことであれば、それについては財政の支援も必要でしょう。物価の安定と経済活動のバランスをどれだけとるかが、植田総裁の政策運営の手腕にかかっていると思います。
また財務省は為替介入の権利を持っていますが、現在の変動為替制度の下では為替レートを決めるのは第一に金融政策、第二に財政政策です。日銀の金融政策の結果で為替レートが大きく変わるのです。いくら財務省が為替介入をしたとしても一時的に円高になれど、為替レートが変わらないというのは経済学の常識です。
今夜の歌
この掲示板は 誰も投稿せず 吾輩が1人で投稿しているので 今夜の歌は こっちゃ来て 投稿して欲しいので「こっちゃえ節」
吾輩の名前は「孝一(こういち)」と言い むかし友人が 吾輩を呼ぶ時
「こっちゃん」「こっちゃん」と呼んでいたので 今夜の歌は「こっちゃえ節」
ただ歌の動画は「著作権」があるので 掲示板で投稿すれば「著作権・違反」になるので吾輩が直接「こっちゃぇ節」を歌います
・・お江戸日本橋~~ 七つ立ち~~ 行列揃えて~~~ あれわいさのさ~~!ああ こっちゃえ~~ こつちゃえ~~!
・・‥こっちゃ来て、投稿してくれ~~~!_こっちゃぇ~~ こっちゃえ~!_
こっちゃえ節
こっちゃえ節の歌詞
民謡やわらべ歌の「〇〇節」は素敵ですが、「歌詞そのものは権利の関係」で、そのまま全文を書くことができません。
🎵 こっちゃえ節とは
こっちゃえ節は、江戸時代から伝わる流行り歌で、「お江戸日本橋」の別名としても知られている古い端唄です。
山梨県鳴沢村などの民俗芸能の資料にも「こちゃえ節」が登場し、当時すでに流行していたことが記録されています。
豆知識
日本人が「食い物」にしている「おでん」は「田楽」がルーツ
平安時代 農民たちが穀物の「五穀豊穣」を願い 歌を歌い 踊りを舞っていた、これは農民たちが「田んぼ」で行っていたので 文字通リ「田楽(でんがく)」といい「日本古来の伝統芸能」
こうして農民たちが「田楽」を田畑で演じ「大豆」や「こんにゃく」を作っていた
そして「江戸時代」になり 今度は、江戸の庶民が 大豆で「豆腐」を作り こんにゃくで「こんにゃく玉」を作っていた
そして豆腐やこんにゃくを「角切り」にして 竹の櫛で刺し 炭火で焼いて 味噌をつけて食っていた この食い物も「田楽」といい
この「食い物の田楽」は、農民たちの「田楽を演じる姿」に「似ていた」ので この食い物も「田楽」という
この「田楽」が 現在、日本人の食い物「おでん」の元祖
参考
おでんの元祖は田楽
おでんのルーツに興味を持つと、日本食の歴史がぐっとおもしろく感じられますよね。
🍢 おでんと田楽の関係
おでんの元祖が何かという話では、一般的に「おでんは田楽から発展した料理」と説明されます。
日本文化を紹介する解説でも、
・もともと「田楽」は、豆腐やこんにゃくなどを串に刺し
・味噌を塗って焼いた料理で
・これが変化して、具材を出汁で煮込むスタイルになり
・明治時代ごろに現在の「おでん」の形が広まった
といった流れで説明されています。
神社の「神楽殿(かぐらでん)」
神社や天満宮には「神楽殿」が設けてある
神楽殿とは平安時代「農民たち」が 神様に「五穀豊穣」を願い 歌を歌い 舞を舞い 五穀豊穣を願っていた
この五穀豊穣を願うため「農民たち」が、田畑で 演じていた歌や舞を「田楽」といい、日本の伝統的な芸能
この神に捧げる「田楽」を、演じる所が 神社や天満宮に設けられている「神楽殿」
この植木天満宮の神楽殿で ベトナム人青年と 出会った
ベトナムでも、米作が盛んに行われている
田楽
田楽(でんがく)は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」
日本の若者は、世界一のNOタリン豚
今から15年ほど前、植木天満宮の神楽殿で、寝そべっていると 参拝客の足音がした
この植木天満宮は、滅多に参拝客がいないので、起き上がって聞いてみた
おたく天満宮の関係者ですか?
彼は たどたどしい日本語で・・・いいえ私は ベトナム人で25歳です‥という
そして両手を差し伸べ握手を求めて来た
彼は 今から自動車試験場でテストを受けるので 合格を祈願して参拝したと言う
そこで 彼に聞いてみた・・日本はいい国か?
彼は いい国だと言っていた そして別れの時 また両手を差し伸べ 握手を求め 何度も頭を下げ・・‥これから行って来ます・・別れの挨拶
実に「礼儀正しいベトナム人の25歳青年」だった
今迄こんな礼儀正しい日本人青年に 出会ったことは1度もなかった
この25歳のベトナム人青年を見て 日本の若者は礼儀も知らない NOタリンだと思った
これは「日本の両親」が NOタリンの馬鹿なので 若者(子供)も 馬鹿になったのである
日本の若者は、馬鹿者で 意地が悪く 中高年を非難する
日本の若者は世界一心が狭い、NOタリン こんな日本に「未来はない」
日本の未来は 閉ざされた豚小屋になる
掲示板でも分かる 若い投稿者は、中高年を「排斥」している
見出し・・・“おじさん”なら叩いていいのか? 「パーカーはNG」「すね毛は見たくない」…雑いじりの先にある笑えない現実
近年、たたかれすぎの“おじさん”は疲労困憊?
近年、“おじさん”は何かと批判の的になる。40歳を過ぎた“おじさん”はパーカーを着てはいけないとか、絵文字の多用や長文、妙になれなれしい呼びかけをするメッセージが「おじさん構文」だとからかわれるとか、東京都庁がクールビズの一環としてハーフパンツでの勤務を認めると、「おじさんのすね毛は見たくない」といった声が上がる。なぜ“おじさん”は、ひとくくりにしてたたかれるのだろうか。
* * *
■“おじさん”たちに対し「石を投げてもいいだろう」
男性学やジェンダーの視点から「おじさん」という存在の葛藤や生きづらさを分析してきた文筆家の清田隆之さんはこう話す。
「これまで特権的なポジションを中高年男性が独占してきたという、男性優位社会における歴史があって、今までえらそうに振る舞ってふんぞり返ってきた“おじさん”たちに対して、石を投げてもいいだろうという感覚があるのだと感じます。俯瞰してみると、男性がこれまでの社会で享受してきた特権みたいなものに対するカウンターとしての現象という見方もできます」
これまでの昭和的価値観において、若いうちに結婚すべきだとか、化粧がどうだとか、服装がどうだとか、年齢や外見に対する圧力を、社会が女性に強いてきた歴史もある。一方で男性も、ふんぞり返っていた人ばかりではないし、ひとくくりに“おじさん”とはこうだと断ずることはできない。
そもそも“おじさん”といっても、内実は一様ではない。組織内で権限を持つ管理職もいれば、雇用不安や収入減、介護、孤立を抱える中高年男性もいる。にもかかわらず、“おじさん”という言葉がひとくくりに使われることで、個々の状況は見えにくくなる。価値観のアップデートやコンプライアンス順守など、めまぐるしく変化する時勢に息苦しさを抱えている中高年男性も多いはずだと清田さんは指摘し、続ける。
「男女限らず、ガスのようにたまった鬱屈した感情がベースにある。そのうえで問題を深刻化させているのは、対立や分断といったネガティブな投稿のほうがインプレッションを取りやすいために、そこに意図的に火をくべて対立構造をあおり立てる人たちがSNS上にいることだと思っています。“ハーフパンツおじさん”の例で言えば、実生活において『汚いから長ズボンをはけ』とか、職場で『気分が悪いのでやめてくれませんか』なんて声が本当に飛び交うのかなと思います」・