目先は常に暗く、俺を彩る世界は既に無く。
焦燥に駆られた自意識は、時刻という概念そのものを希薄へと転換させる。
色を失った世界で、唯一ある色の元へと返り咲く事。
それはその時の俺にとっての唯一と言っていい程、生きる理由であった。
聳え立つ城を溶かし往く夕日を背景に、食の営みの源泉を育んでいく。
そう、俺はその風景に、手を伸ばして、
君という愛しき人の為、ただ、ただ、ただ。
休む暇はなかった。
心身を労わる事はせず、ただ帰郷の為の道程を歩む。
聞きなれない一人だけの足音。
その哀しさを模した地面の音色が、俺の心を蝕む。
ケージの中で揺れるしずくの水面。
其処に反射する俺の好きな表情は、何処にもなく、
映るは見えない自身の表層だけ。
そうだ。
俺はその時、旅なんざしていなかった。
「……」
空を見る。
それは普段であれば、皆と夢を語らう行路であった。
そして、その夢を語らう俺達に、夢を語らう奴の好きな事でもあった。
だが今は、ただ時刻を確認する為だけの行為。
何の情緒も存在し得ない、義務的な動作。
半月を示す満ち欠け。
「あと……2週間……」
満月までの日付を逆算する。
それまでに溜めたミルラのしずくを、ティダの村へと届ける。
それが、希望のつどった村への帰郷。
刻々と進み往く絶望への秒針。
だが今はまだ、希望の時。
確かに俺は絶望に染まり、感情に至っては最早機能さえしていなかった。
それでも俺は希望の村、ティダのクリスタルキャラバンであり、
其処で待つ最愛の人々の家族。
「……」
決意を胸に、歩む。
消耗は既に終えた。
ならば後は、この散々なる己の人生を賭けてでも、
希望を掴み取るまでだ。
「……」
仲間を喪った哀しみは、俺を弱くした。
奪われた思い出はどれも代え難く、そして美しく。
故にこそ、俺は心の空洞に埋められた苦痛を呪う。
呪い続ける事で、俺の生きるための糧が新たに生まれる。
この感情を名付けるには俺は不明瞭過ぎた。
ただ、燃え上がるような復讐心は、俺に帰郷への道筋を経たせたんだ。
「帰るぞ……」
「必ず……」
あと一つ、ミルラのしずくを溜めればいい。
ファム大平原の大地を蹴る。
帰る為の気持ちは、既に十分だった。
ゴオオオオオッッッ!
吹き荒ぶ雷雲。
空を裂く白が一閃し、遅れて轟音が大地を叩く。
空気そのものが震え、肺の奥まで押し込まれるような圧力が襲いかかる。
風は荒れ、雨は叩きつけるように降りつけ、視界は断片的にしか保てない。
色無き世界を更に暗闇へと誘うその轟音は、大平原で帰路に辿る俺にとって絶望そのものであった。
大平原。帰路。
その単語すら、今は意味を持たない。
ファム大農場に続く行路の最中、俺は遠方に見える川――本来、あった場所の氾濫が目に入る。
眼下では、川がすでに「川」と呼べるものではなくなっていたんだ。
本来であれば、メタルマイン丘陵に繋がるジェゴン川の舟渡で航路を辿ればいいものの、
この嵐の中で水路を辿るのは自殺行為に過ぎない。
濁流が土を削り、木々を引き抜き、何もかもを呑み込んでいく。
水面は荒れ狂い、波と渦がぶつかり合いながら、境界を失ったまま広がっていた。
流路という概念を捨て、ただ低きへと流れ落ちる質量の塊。
水は流れていない。
地形ごと、世界ごと、押し流している。
濁流が土を削り、木々を引き抜き、岩を転がし、
あらゆる境界を破壊していく。
水面は存在しない。
あるのは、絶えず形を変える落下の連続。
踏み込めば、終わる。
考えるまでもなく理解できる。
普段なら渡れるはずの距離は、今や断絶だ。
足を踏み入れれば、瞬く間に引きずり込まれる。
「……」
足止めを喰らう。
この雷雨はそう長く続くものではない。
大平原の草地が抉れる程の突風と、鼓膜を突き抜ける程の雷の轟音から察するに、
夜が明ければ収まりが付くのは容易に想像出来た。
「……」
だが、その合理が――
今の俺にとっては異物だった。
暦は、正確ではない。
半月の満ち欠け。雲に隠れた可能性。
ラモエとの戦闘。転移の誤差。
メテオパラサイトの直前か、数刻後か。
時間が、曖昧だ。
曖昧であることが、致命的だった。
「……」
思考が増殖する。
もし、もう遅れていたら。
もし、既に終わっていたら。
もし――
「……ッ」
呼吸が乱れる。焦燥が、合理を食い潰す。
「……ヴェオ・ル水門側から回る」
「ファム大平原との陸地の距離は最も短期のはず」
「裏側から回って、ゴーレムの祭壇も無視してミルラのしずくを手に入れられるはずだ……」
待つ、という選択肢は存在しなかった。
俺は身を刃で切り裂くような嵐の中、ケージを抱えて突き進んだ。
ファム大農場を過ぎて、ヴェオル高地に最も隣接した大平原の奥地。
氾濫により水没しかけた草原に足を付き、遠方を見据える。
月夜さえも照らす事の無き暗雲の世界でも、僅かに目視できるミルラの木の輝き。
雨と闇に遮られながらも、確かにそこにある輝き。
クリスタルの恵みが、淡く、しかし揺るぎなく光を放っている。
それはヴェオ・ル水門の位置を示した希望であった。
僅かではあるが、嵐の強風は鳴りを潜めつつある。
その現実が、俺の焦燥を更に駆り立たせていた。
底の抜けた墨をひっくり返したように沈み込む空。
其処に唯一彩る、俺の手元のケージ。
己の身一つであれば、水門に辿り着くまで泳ぎきる事が出来るだろう。
だが、このケージを抱え、持って帰らなければ意味を成さない。
「……」
そう、このケージさえあれば。これさえ、これさえあれば――。
雨ごと息を吸い込む。
最早形振り構う事など到底不可能であり、
ただ、ただ。一刻でも早く帰らなければならない。
あと一つ、しずくを手に入れなければならない。
その使命感が、強く圧し掛かる。
そして、俺なら出来る。
そう、今は亡き者達が、俺にそう言っていると信じてしまって、
俺は氾濫せし濁流の中へと、次の雷鳴が落ちるよりも早く飛び込んだ。
「――ウッ……!」
全身を強打するかのような冷水が息を奪う。
既に足場は無く、流れが身体を横へ、下へと引きずり込んでいく。
腕を掻き、脚を蹴るたびに、水は抵抗ではなく暴力として返ってきた。
「クッ……!!!」
それでも俺は手を離さない。ケージだけは護りきらなければならない。
胸元に抱え込んだケージは、泥に濁る水の中でもかすかに光を保ち、俺の掌に冷たい現実として存在している。
「――ガハッ!」
流される。
体勢が崩れ、頭が水面下に沈む。濁った水が口と鼻に入り込み、咳き込む暇もなくさらに押し流される。
腕が何かにぶつかり、皮膚が裂ける感触。流木か、岩か、確かめる余裕もない。ただ痛みだけが遅れてやってくる。
それでも、手は離さない。
「――!」
無理にでも体勢を戻し、濁流を飲み込みながらでも前へと進む。
ほんの一瞬、指が滑る瞬間さえもあった。だが、執念で掴み直す。
爪が食い込み、皮膚が裂けても構わない。
指先の感覚が鈍くなっても、その硬質な輪郭だけは、確かにそこにあったから。
何度も、何度も、何度も。
どれだけ繰り返して、どれだけ苦しくて、どれだけ哀しくて。
ただただ、時間が過ぎながら泳ぎ続けた。息が続かない。
肺は焼けるように苦しく、腕も脚も、すでに自分のものではないように重い。
永遠にも思える濁流の中、俺は
「――ガハッ!!」
暗黒にも聳える暗闇の中、ほんの僅かな淀み。
そこに身体をねじ込み、最後の力を振り絞って岸へと腕を伸ばす。
ガバッ!
指先が泥に触れる。その岸は崩れ、捕まりかけた安堵は流される。
だがそれでも掴むため、腕を伸ばした。爪の間に入り込む痛み。手首の悲鳴などどうでもいい。
濁流に流される身体の痛みを、ただ前進する力に変えながら
「――ハァ……!ッッ――ハァッ……!!」
岸に転がり出ることが出来た。
前進は泥と地に塗れ、呼吸が成立しない。吸っても足りない。吐いても足りない。
雨は変わらず叩きつけ、雷はまだ遠くで唸っている。
だが、その手の中には
「――」
決して離す事は無かったクリスタルゲージがあった。
最後まで。
「――」
身体の悲鳴は現界を迎えていた。
立ち上がる事さえままならず、俺は這いつくばりながらヴェオル高地の岸を進んだ。
ヴェオル水門の裏手。
その崖を登る。
断崖に等しいその岩肌は、もはや「登る」という行為を拒絶する形状をしていた。
雨に打たれ、削られ、滑りやすく磨耗した岩肌は、手をかけるたびにわずかに崩れ、指先の支点を奪っていく。
息が、浅い。
肺に空気を送り込んでいるはずなのに、取り込めている感覚がない。
まるで呼吸そのものが外界に拒まれているようだった。
濡れた手が滑る。
爪を立て、指の腹で無理やり摩擦を作る。
その度に皮膚が削れ、鈍い痛みが神経を叩く。
それでも、手を離さない。
一段。
また一段。
脚は既に自分のものではなかった。
力を入れているのか、入っているのかさえ曖昧なまま、ただ上へ、上へと命令だけが通っている。
風が吹く。
体が揺れる。
「――ッ……!!」
その一瞬、意識が遅れる。
落ちる、という未来が脳裏に過る。
だが、掴む。
崩れる岩ごと、掴み直す。
――落ちない。
その一点だけで、身体をねじ伏せる。
やがて。
崖の縁に腕がかかる。
泥と血に塗れた腕で、地面を引き寄せるようにして身体を引き上げた。
「……は……ッ……」
崩れ落ちるように、地面へ。
視界が揺れる。
焦点が定まらない。
雨粒が視界に叩きつけられ、それが涙なのかすら判別がつかない。
息も絶え絶えに、登り切った先にあるミルラの木。
「……」
これまでの苦労がやっと形になった気がして、内心安堵した。
魔物の気配も無く、ケージを抱えてしずくを溜める。
「……」
疲れた。
今、自身の目的が半分定かでなくなった状況下で、
何故俺は此処まで頑張っているのかを改めて問う。
だが、帰ってくる答えは明白だ。
結局、喪ってしまったものがあるとしても、
俺達キャラバンは成さねばならない事がある。
大前提として、生きて帰らなければミルラのしずくを持ち帰る事は出来ない。
そして、其処で待ってくれている人が居る。
ならば、俺個人の感情などその時点で不要となる。
ただ、村を護らなければならない戦士になるだけ。
その上で、生き抜いて、生き抜いて、俺は、俺自身の望む事に感情を奔らせるだけでいい。
そう、自答した。
「……」
身体を横にしたかった。
しずくが溜まった時、後は陸路に沿ってティダへと帰る為の算段を立てるだけになった。
休んで居られない。しずくを回収して、即座に移動しようとした時。
バサッ……バサッ……!
強風が吹き荒ぶ中、力強く聞こえる重力と羽根の音。
暗雲の中でも分かる、影の大きさ。
俺はその音のなる方を見上げ、僅かに残った喉の力で呟く。
「グリフォン……」
ヴェオ・ル水門に澄み付くグリフォン。
嘗て仲間達と共に相手取った巨大な魔物。
その狩人は、強風の中でさえも地に足を付く事はなく、
獰猛なる瞳を以てして、爪を光らせながら俺を狙っていた。
手元の魔石でグラビデを扱う事は出来ない。
ましてや、その後に急所を突くだけの機動力も、俺には無かった。
重なる絶望に、乾いた笑みさえ出てくる。
「――諦めっかよ……」
「かかって……こいや……」
震える手元で剣を抜く。
ケージを脇に抱えながら、その剣先を巨大な魔物へと向け続ける。
最早虚勢だけで、俺は戦意を示す。
だが魔物とは、そんな虚勢が通じる程、感情に長けた者ではない。
「――ッ!」
強風で力の入らない手元、立つのもやっとの脚を狙う、狩人の攻撃。
剣が弾け、肉を裂く。血は風に乗り、雨で流される。
「クソ……!クソ!!!!」
ただ、悔しかった。
しずくを集め、あとは帰るだけだというのに。
目の前に飛び立つ絶望は、嘗ての仲間と共に倒せた壁だったというのに。
ここまで来て。
あと一歩で。
それでも届かない。
一人では。
何も出来ない。
ただ終わってしまうその時の中で、
抗う事も出来ず……命が削られていく様に……。
「クソァァァァアアア!!!!」
奴の魂ごと削るような、鋭利な爪先が俺を襲う。
それでも、俺はケージだけは護り抜く為に、身を縮めた。
ドガァッ!
強烈な引き裂きが、俺の身体を宙へと飛ばす。
落下し始めたその先、氾濫しきった川の中へと突き落とされる俺の身体は、
無意識下に於いてただ命令を続行していた。ケージだけは離さないという、使命を。
ザバァッ!!
「――テト――」
先に乗り越えた試練の中、俺の意識は消えながら、
濁流の流れに呑まれていった。
意識が混濁する。
全身に隙間なく入り込んだ水を感じる。
意識に差し込むような、太陽の光。
朦朧とした半覚醒の最中、俺の意識だけが先に起きる。
次に来るのは苦しみ。
体中の水分が暴発しはじめ、俺は唐突に来た吐き気に無理やり身体を起した。
そうして目を開け、咳き込みながらも風景を視線に入れる。
「――」
知らない家の、知らない部屋。
知らないベッド。
即座に外が映る窓へ眼を向ける。
地形の彩りをすぐに記憶の中から辿り、照合する。
「――ティパの村――」
直前の記憶さえあやふやの最中、俺は静かに記憶を整理する。
「水門でのしずく集め……その後グリフォンに……」
「――」
辿った記憶で、まず最初に襲ってきたのは、俺自身の時間。
「時間は――」
「一体俺はいつから――」
ガチャリ。
部屋の扉から姿を現した老人が、身体を起した俺を見て笑みを浮かべていた。
「おはよう、意識が戻ったか」
「――」
「浜辺で打ち上げられていたお前を見かけたんだ」
「あそこはこれからクリスタルキャラバンになるって奴の為に開放している訓練所みたいなもんでね」
「驚いたよ。其処に人が寝っ転がってるなんざ」
「――」
「酷い怪我だったんだぞ」
「応急処置だが、命に別状はない」
「大型の魔物と戦ったんだろう?その傷は――」
「俺を介抱して、どれぐらい経ったんだ……?」
「……」
「クリスタルキャラバンなんだろ」
「満タンのケージを抱えていた」
「どれぐらい経った」
「起きた直後に多くの情報を仕入れると、反って――」
「どれぐらい経っ――ゲホッ!ゲホッ……!」
「……」
「頼む、教えてくれ……」
「……」
「丸一日だ」
「……本当か?」
「あぁ、君を『引き上げて』から、一日」
「……」
「何処のキャラバンだ?」
「ティダ」
「……」
「……」
「……そうか」
「世話になった、すぐに出る」
「クリスタルケージを返して欲しい」
「あぁ、部屋の出口の箪笥の上においてある」
「安心しな。一滴たりとも奪っちゃいないよ」
「ありがとう」
そうして身体を起こす。
痛みは思った程無かった。
介抱されただけあって、身体の傷は癒えていたようだった。
「……不躾な頼みで申し訳ないが、武器だけ貸して欲しい」
「いつかキャラバンの旅で、またこちらの村に来る」
「その時に返すから」
「俺が昔、キャラバンだった頃の伝説の剣が其処に立てかけてある」
「……持っていきな」
「そして、どうか無事に生きるんだぞ」
「……」
老人の意味深な、罪悪感さえ覚えさせるその苦しそうな笑みの意味。
俺は察する事なく、善意で敷き詰められたケージと、老人が使っていた剣を抱えて出て行った。
ティパの村は、昔、俺達が寄った頃と景観に変わりはなかった。
ただ、村人全員が何処となく暗い顔をしていた気はした。
希望を諦めかけているかのような、そんな暗い顔だった。
「……」
当時、俺はテトと岬を眺めただけで、村人達との会話をすることは無かった。
仲間達がそれぞれ、ティパの人々と思い出を紡いでいるのは朧気に覚えている。
こうして恩を受けるなら、あの時少しでも会話をしていれば、と感じたな。
だが、今はそんなことよりも、手元の希望をティダに届けなければならない。
「早く帰ろう」
後は帰路につくだけ。
快晴が照りつく、爽快な青空。
ティダの村まで、一週間もあれば問題なく着くはず。
俺は道中、決して何にも振り返らずに帰ると誓った。