ファンタジーの語り
もともと富野由悠季独自のテーマというわけではなく、ファンタジー文学と一部SFの、伝統的に重要な一ジャンルである。わたしの関心だと日本の古典文学、和歌の歌論の中にもいえる。それは追って含めて行こう。
最近の読書では主に海外ファンタジーから。わたしはロード・ダンセイニの作品(とくに後期作品)の中にこの追究があることから前々から関心があった。有名作家ではすぐに思い当たるのはル・グイン。その影響下を想像するだけでも厖大な裾野がある。
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この数年通読を続けているタニス・リーもしばしば引っかかる話題なので気づいてはいる。それはリー通読のトピックで。リーの場合、言葉はfaithとかで、文芸上のマジックと同時に実践魔術を志向する。
先日ちょうど、リーのトリビュート作品集の中にそれに近いものがあって思い出していた。このときは文中、probabilityでなくpossibility
人に「信じろ」と言って信じさせることなら、それは相手を洗脳・支配することになる。信じてほしくても「信じて」と言ってはいけない。ではどうして伝えるか……は、テレパシーの考察だったり、フェミニズムに接していったりもする。
ファンタジー作品には「モラルをどうやって語るか」は今も昔も重要問題だ。一方で80-90年代頃の和製ファンタジーの流行頃には、手本になる海外古典のこうした心理面はあまり顧みられず、翻訳にも脱色された文章になっていることは段々わかってきた。日本人作家や読者も文芸作品にモラル面は求めずに形を学ばれたようだった。出版業の商業的な理由はあっただろう。
それは音楽の用語でいえばパンク化の傾向で、日本にかぎらず当時的には世界でもおなじのよう。
富野作品に戻ってその表現については、ベルトーチカ・チルドレンから「ナイチンゲールのさえずり」を挙げて興味を深めていた。オスカー・ワイルドの連想がわたしにある。このたびの通読のあらすじはそれくらい。
小説の最後の一文で読者を「エッ?」と思わせてそのまま脱走する、完結してしまえば、後は残された読者がそれぞれに思い悩めばいい。小説ではそれで勝ちなんだ。