キルケーの魔女 サウンドトラック
「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女 オリジナル・サウンドトラック」澤野弘之、を聴く。
音楽続き、前回は三枝音楽のなごり。
ファーストインプレッション。公式サイトに「交響組曲形式」とあったので別のものをイメージしていたが、一曲目の初っ端に「ん?」と思っただけで事情はすぐにわかった。SYMPHONICとは書いていない。この[THE SORCERY OF NYMPH CIRCE] SUITEは、映画第一部とOST1をこの何年か周回もしていたから作品のメインになる諸々のテーマはあらかじめ十分承知の上、新たに第二部「キルケ―の魔女」へのモチベーションになる。
――といえばそうだが、初日、劇場で観ている間はメロディは聴き取るものの、どんなアレンジなのかまで聴ききれなかった。映画館には音響と音楽を聴きに行ってる面がわたしは結構あるのにね……。画面を追うのに忙しかったとは言う。あらためて音楽として聴いてみると「こんな音が鳴っていたのか」と端々に面白さがあるのと、後はひとえに「こんな暴力的なサウンドだったか?」と驚くほど激しい。映画第二部は、ストーリーはそれほど静謐な印象でもなかったと思うが。
次は、早くも第三部の音楽がどうなってくるのか楽しみ。もうどうなっても構わないと思うけどな。型は「組曲」だが、これをまた澤野さんのライブイベントでこの通り演奏するような機会があるのかは、今後知らない。SUITEに続く残りの曲は、映画の各シーンから叙景。意外にエスニックな音を感じたりするけど、もしかしたら第三部に続く「マランビジー」のようなテーマにはそういうサウンドを入れてくるのかもしれない。
通報 ...
「グラディウスⅤ」オリジナル・サウンドトラック(2004) 崎元仁 を聴く。シューティングゲームのサントラ。上の、サウンド的なものの連想から。
アリュゼウス君で抵抗するレーン君を執拗にエイムエイムする気分になるかと思って……情緒とかないんだが。でも、ミノフスキークラフトでスィーと移動するクスィーガンダムは横シュー向きな気もする。
王の挽歌
チェロ協奏曲「王の挽歌」(1993) 三枝成彰、を今の時間続けて聴こう。二楽章で34分くらい。
チェロ独奏:藤原真理 大友直人指揮 東京シティフィルハーモニック管弦楽団
1994年のアルバム「コンチェルトの夜」から、同年3月のコンサートのライブアルバム。
先日来わたしのコンチェルト気分の続き。数日の間に三木稔「源氏音楽物語」も入っていた。「王の挽歌」は遠藤周作の同名小説に想を得て書かれた曲で、この「王」は大友宗麟のことと書いてあるけど、それは置いておいて自主的にガンダム関係と表題からの連想を貰って聴く。
雷鳴!いきなりの爆発音でこの曲は始まる。
閃光のハサウェイの話をしていて「王」とはなにか。このあと95年の富野小説『王の心』になら合いそうなタイトルだけど、今はハサウェイ……。ハサウェイで王と言えば、マフティー・ナビーユ・エリン「正当なる預言者の王」というネームがある。もっとも、それはでっち上げの合成語で、作中世界の誰もそこに正当性とか宗教的な意味を認めているはずがない。信じてはいけない。
ウソの名前を名乗ってしているのがテロで、まるで
俺達は間違っている、正しくないことは承知でやってる
と言わんばかりの胡散臭さを公然と表明している。ハサウェイはそのグループの象徴的リーダーだが、この「王」は神話的なストーリーの中では、自ら死ぬことで世界を再生させるか、次代の王にその地位を引き継ぐだろうということが暗に語られている。それあっての正当なる・預言者の王。ここまでは常識的に了解事として良いと思う。
「王の死」はロマン主義者には絶対的な主題だが、映画ハサウェイがそこまで行き尽くすかは第三部のマランビジーまで観てみるまで、まだまだわからないところ。虚構の王がその死によって本物の神話になってしまうのか、映画閃ハサはそこまで行けるか?
テロリストのロマン
テロ組織のマフティーはテロリストにしてはひどくロマンチックな(甘ったるい)メンタルの集団である。マフティーに拾われた後にギギが抱くだろう感想「マフティーのみんなは優しい(優しすぎる)」というのは、あながち理由のないことでもない。ロマンチストが集まっているが自堕落でもない。
マフティーの組織内の規律と士気は異様に高い。中で不和を起こしたり乱れたりはしない。志操堅固で、メンバーになりうる人を精選しまくっているので、かえって単純に人手不足に悩むこともしばしば。マフティーに傭兵はいない。
精鋭のみを集めて、思想的には理想的な集団だが、行動を起こせば人員の換えが利かないのが分かりきっているので、組織として長続きはするわけがない。そのことは彼ら自身がよくよくわかっている。
極めて知的で自制の利いた人間達が揃っている。人当たりは穏当で礼儀正しい。ハーラみたいな跳ね返りでさえ不規律は嫌う。一方、優しいといってもその場の他人に優しいだけで、殺人者であることは厭わない。作戦の巻き添えに無関係な人々が死ぬことも最低限やむないとするし、自分自身についても、作戦を敢行した後に生き延びることも諦めている節がある。
宇宙世紀のシャア反乱以後のパイロット達の行く末をシミュレーションしたらそうなったのかもしれない。もはやシャアが居ないこの時代に、人として考える頭と行動する能力があってしまったらできることは何なのか、腐った政府の下で軍に奉仕しても腐敗を助長するだけだと分かってしまった後で、鬱積した自分のやるせなさをぶつけられる何の仕事があるのかと考えた末に末路的にマフティー活動に身を投じた……能力と意識は高いが、生きて先にする目的がない。
この世で純粋に清廉潔白な行為を探したら高すぎるハードルの決死的挑戦しかなかった。まず生きて帰ることは考えられない。そこに報酬なんかないんだが、せめて任務に情熱をもって打ち込めるだけのスリルを求めてやっているのかもしれない。そこまでは創作として分かるだろう。
上のことはそれとして、マフティーに憧れるべきかは一考するべき。「親に迷惑をかけるか」、などはどうでもいい。そんなやつはマフティーの先鋭に求められたりしないから平気。
テロリストが事に及んでロマンチシズムを容れるべきか、だ。それは考えていたが、たまたま先日読んでいた野阿梓の『武装音楽祭』(1984)にそっくりそのくだりがあって、知らずに惜しかった気持ちになっていた。読んでいたのこのたびハサウェイ二部の前々日だったからね。
「耽美と革命はどう接点するか」は今頃になって考え甲斐のある、また自分も密かにフォローしてみたいテーマ。ハサウェイ話に戻れば、マフティーは革命を目指してはいない。絶対無謬の独裁なんてできるわけがないとギギにも言っていた。結果については諦めているけど、ともかくやってみて諦めるなり死ぬなりしよう……では、後に残すメッセージはいかにも弱々しいけど、現代にもまだ細く続いていると思いたい。
大衆を馬鹿にすること
戦闘集団のBGMに行軍歌の代わりに挽歌(レクイエム)が鳴り響いているといえば、富野作品中で具体的には『ガイア・ギア』のビジャン・ダーゴル大佐を挙げられる。背景にワーグナーの、それもジークフリートの葬送を流して立つ大佐の格好は悪質な冗談かと思うほど趣味に走っているので、そこまでワーグナーが体に染みていないウルは我が目を疑い、そんな自分の立場にもぞっとしたのだった。
三枝成彰の甘美な音楽は「逆シャア」のシャア讃歌(我らが願い)にしても、劇中のブラックジョークに使われるにも相応しい。今頃でも、SNSや動画サイトのコメみるとそれに嫌悪するのでなく本当に喜んでいるかのような人間が大勢いて無垢のピープルを馬鹿にする悪どさが分かる。
ふたたび雷鳴!で曲は去っていく。
このライブアルバムは後で通し聴き返しておこう。三枝音楽の再リスニングは追ってするとして、遠藤周作の原作はこんど読む。遠藤周作原作では、松村禎三のオペラ「沈黙」も再聴してみようと思っているけどわたしはあの話が苦手で……。ゴアが苦手なのではなく、山田風太郎の『外道忍法帖』のお馬鹿なパロディを同時に思い出してしまい遠藤の真面目さにのめりこめない。今の時間面白かった……かなり書く。
底流するガンダム主題、と書いたのは前回はマランビジーと書いている。ロマン主義を語ることについて続きはリーンの翼へ行こう。