第5回 カンパの達人に会いたい
競輪選手はカンパの部品を使えなかった。初めてカンパレコードを見た時、とりこになった。欲しい、3本ローラーとホーザン振取台を合計したよりクランク1本の値段が高かった。僕は親父とは相性悪く、小学4年で家を出て自活していた。親父はケンカが生き甲斐のような人で梅田界隈で親父を知らない人はいなかった。勉強をしろと言われたことはないけどケンカで負けたら帰る場所はなく腹切るしかない、口より鉄拳が飛んできた。小学2年の時、近所の土建の組と親父が乱闘になり1対20人、さすがの親父もボロボロになり僕一人現場に残して消えた。それから数時間後、3人の殺気が歩いているような助っ人を連れて戻ってきた。
その中の若い、アルカポネのようなハットを被り黒のスーツを着た兄ちゃんが懐に手を突っ込み「おまえらプロかアマか」と聞いた。ピストルのカチャッという金属音が響いた、20人のおっさんが凍った、殺気で時間が止まる、ケンカにはならなかった。20人が親父に土正座。僕は大人の本物のケンカを見た。
アルカポネの兄ちゃんは15歳の時に一人で日本刀を持ち組事務所に殴り込み7人を切って壊滅させた人物だった、小学2年の時はそんな経歴など知らず呆然とみていた、漂うオーラと威圧は半端じゃなかったのはわかる、親父は常に正々堂々真剣勝負だった。絶対ひかない、人に頼まれればやり切る。しかし、すぐ殴ってくる、顔がパンパンに腫れ上がるくらい毎日殴られた。そしておふくろも殴った、毎日殴られると慣れてパンチが見える。小学校3年頃にはパンチを見切れるようになってた。小学校4年の時、おふくろが大けがするくらい殴られた、僕は我慢できず親父をつかみ「女を殴る男は最低だ」と言った、押さえた時勝てそうな気がした、親父こんなに小さかったかな。その後10発くらい殴られた、僕は親父が死ぬまで一発も殴ったことはない「殴れば負けだ」勝てる相手を殴ってもしかたない。
でも自分が最低と思ってる親父に面倒みてもらってる俺はもっと最低?とこの時思った。自活しよう家を出た、おじいちゃんの借家の部屋をひとつただで借りた。それから生活費は全部自分で稼いだ、高度成長期の梅田にはいくらでもバイトがあった。当時教師に給料聞いたら僕の稼ぎより少なかった、でもカンパレコードのクランクを買うには2ヶ月はかかった。
カンパレコードクランクを買った夜、うれしくってクランクを抱きしめて寝た、うれしくって興奮して寝れず、何度も眺めた。それからカンパをひとつひとつそろえていった、師匠には競輪で使えない部品を使うなと怒られた。僕の人生でチネリとカンパは別格。でも整備がわからない。変速なんてシマノと同じやり方してもスムーズに動かない。どう整備する?謎だ。カンパの整備方法を知りたい。
そんな時、街道練習ですれ違うレーシングチームがあった。自転車はカンパで組まれている。名前はズノウレーシングチーム、工房は旭区にあった。自転車屋ではなくオーダーフレームの会社。競輪選手にも供給していた。ズノウに行った時、表にオールカンパのロードが置いていた。FDの角度、隙間などを観察していると店内からビンの底みたいなメガネを掛けた社長さんが出てきた。カンパの整備のコツとかあるんですか?と聞いてみた。それ動かしてみ、動かすと僕のFDと同じところでもたつく。これ変速おかしいです。カンパはそんなものと返答、ただすごいカンパもあるという。当たり外れがあるそうだ、いい物はものすごいいい、3個に1個くらいかな?。こんな高価なもの3個も買えないよ。結構なバクチ。
ズノウの店内にあるロードはカンパだらけ、大阪中のカンパがここに集まってた。ズノウには地下があり、そこでフレーム製作していた。僕が行った時、中川さんがフレームを作ってた。社長さんが作ってたのは見たことがない。ズノウのフレームは「速い」レースに勝てると評判だった、そのズノウ、中川さんが製作してたかも?(と思う)。中川さんはその後独立しnakagawaフレームを製作、あさひと組んでミネルバも出した。nakagawaのフレームがどれだけ優秀かは使っている人ならみんな知ってる。
クロモリでは長沢と並ぶ歴史に残るフレームです。つづく