もう関係者も高齢で引退したり亡くなったりして覚えてる人も少なくなったので昔の話として歴史を記録します。僕も歴史を語れるくらい年とってしまった。歴史って誰も語らないと無かったことにされてしまう、たかだか5~60年自転車に関わっただけの人間ですが、それでもいろいろな歴史と直接関わってきました。
あまり面白くないかも知れませんが興味があったら暇つぶしに読んで見て下さい。
もう関係者も高齢で引退したり亡くなったりして覚えてる人も少なくなったので昔の話として歴史を記録します。僕も歴史を語れるくらい年とってしまった。歴史って誰も語らないと無かったことにされてしまう、たかだか5~60年自転車に関わっただけの人間ですが、それでもいろいろな歴史と直接関わってきました。
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第1回 僕の自転車生活のはじまり
僕が自転車と初めて関わったのは師匠にオールスター競輪で3連勝したピストを頂き、それに乗り始めたこと、最初からアマチュアで走るつもりはなく、めざすのは競輪のみ。固定ギア競輪ピストから自転車を始めたのも後から考えると異常だったけど、競輪シューズをペダルに固定しフラペ禁止だったので停止する度に転倒の繰り返し。
一番最初に覚えるのは転倒しないためのスタンディング。30秒止まれないとあちこちでこける。保育園児の横断待ちで耐えられず転倒し、こけてもストラップのベルトを緩めないと足が抜けないので、こけたまま。保育園児が「この兄ちゃんなんでこけたまま動けないんだろ」と不思議そうな顔でこちらを見て横断していった。ガチガチに締め込んでるので、こけても足はすぐには外れない、焦れば焦るほど足は抜けない。
自転車に乗れるというのは静止できるということなんだと思った。走るより前に止まれるようにならなければ道路に出れない。世界戦ではバンクで5時間静止してレースをする(当時のスクラッチレースでは30分以上の静止はザラ。僕は分どころか30秒の静止ができなかった)スクラッチは昔の競技名で今とは違いますが昔の呼称をそのまま使います。
僕が自転車に乗り始めたのは10歳、競輪ピストを頂きバンクを走ったのは11歳、その間自転車に乗った経験もなく、なんて自分は未熟なスキルしかないんだと思った。走るより静止、徹底的にスタンディングを練習した。師匠のピストはシートが530mmあった、当時の僕の身体には大きすぎてギリギリ乗れただけでコントロールができなかった。ピストのサドルは細くて乗る部分が少なく、ずり落ちた。ハンドルはタイヤより下が定位置で前傾が半端ない、僕は器械体操が得意だったので身体がものすごく柔らかったので、あんな極端で身体に合わなかった自転車でも乗れたのだと今ならわかる。
というか、あんな凶器みたいな自転車小学生に乗せるなよ!今ならパワハラ人殺し。テレビで星一徹がちゃぶ台ひっくり返して星飛雄馬が大リーグボール養成ギブスをつけてた時代。師匠がオールスター3連勝した自転車で走れないのは自分の実力が足りないせいと疑わなかった。昭和って無茶苦茶が通ってました。結局、身体が大きくなってフレームに体格が合うまで、このピストはうまく扱えなかった。
あるとき僕はなんてスキルが低いんだと思ってた時、同級生が乗ってたジュニア車を借りて静止してみた。なんと1分くらいは静止できた。それから近くの学校運動会で自転車遅乗り競争に近所のおばちゃんのママチャリで参加したら圧倒的遅さ(みんなはゴールしてるのに僕はスタートで静止していた)で優勝した。この時、俺静止一番うまいんちゃう?と自信持った。スタンディングが下手だったのは身体に合ってない競輪ピストが原因、でも師匠にはそんなことは間違っても言えない。それから自分の身体に合った自転車を作ろうと決心した。でもどうやって??当時、整備も含めて自転車の知識はゼロだった。
まず近所の自転車屋に行ってみた。競輪ピストを乗っていくと珍しくジロジロ見られる。2~3質問すると「この自転車屋はピストを触ったことがないド素人」とわかった。ママチャリしか知らない自転車屋ばっかりだった。当然僕が作ろうと思っている自転車の情報はない。師匠はどこで部品を買っているのか聞いてみた。「競輪開催日に競輪場に売りに来る業者から買ってる、整備もそこでやってもらってる」開催日に僕がそこに行って買うことはできる??「それは出来ない、開催期間中は出入りは厳重に監視され選手も宿舎に缶詰になる、部外者は絶対入れない」
どこに僕が求める自転車屋があるんだ・・・大阪の街を自転車屋を求めて走り出した。
第2回 自転車の街 大阪 へつづく
第2回 自転車の街 大阪
近所の自転車屋の親父から部品は城東輪業から買うと教えてもらった。会社の場所は玉造、さっそく訪ねた。店内は部品だらけの倉庫、その中にカタログのような一冊の本があった。社員さんがその本を見て電話で商談している。この本どこで売ってるんですか??桃谷のトモダが出しているよ、玉造から桃谷は環状線の駅で2つ、自転車だと10分位??
城東輪業は部品の小売りはしない卸売り会社。部品は売ってくれない、でも店にあったニップル回しにひと目ぼれした、これ売って欲しいと無理に頼んで買った。城東輪業製のニップル回し、16番がついている。UKAIという競輪用リムのニップルが16番で、他のどのニップル回しでも滑ったけどこの城東輪業製だけは回せた。車輪組み修行で一番使った城東輪業製ニップル回しとこの時出会った。
城東輪業に教えてもらいトモダにいった。競輪ピストを店頭で止めるとおやっさんが出てきて、これ乗ってきたんかとジロジロ見る。僕は当時、自転車の部品名も言えないド素人、トモダの店内にはガラスのショーウィンドウにカンパやユーレーなど貴重な部品が並んでいた、非売品も多い。城東輪業に置いてあった本が山積みされていた。僕の目当てはこの本、名前は「ワールドパーツ」。トモダは世界中に自転車部品を通信販売していた、その販売に使っていたのがこの本。1万点ほどの部品の写真と値段が掲載されている。値段は800円、かなり高かった。でも買った!
僕はこの本がボロボロになりページが分解するまで何度も読んだ。僕の自転車部品の知識はこの本で作られた。そしてトモダで現物を見た。昔は自転車の部品の実物を購入前に見て触り買った。
今は部品を手にとって見れない時代、僕が大阪の自転車屋を探検していた頃、部品は目の前にあり手にとって確認ができた、トモダにはカンパもチネリもあった。トモダのおやっさんは儲けを全部部品購入につぎ込む、自転車愛にあふれる本物の自転車屋だった、でも整備はほとんどしなかった。おやっさんのすごいとこは整備ができないことを隠さず、これはできんと正直に言った。ほとんどの自転車屋は(大人は?)本当は整備できないのに(小学生相手にかっこつけたい?)できないことを認めず、触って壊す。そして言い訳する。しかしトモダのおやっさんは最初から出来ないことは出来ないといって触らなかった。小学生相手でも自分の知らないことは聞いてくるし、競輪ピストのフレームの話などもいろいろした。この潔さと自転車愛はすごいと思った。僕は最初に本物の自転車愛を持った自転車屋と出会った。
シマノはデュラエースを出し、今のアルテと呼ぶクラスをシマノ600として売り出し、まだ105は出ていなかった。当時のデュラは品質がイマイチで競輪選手はクランクはスギノ、ハブは三信を使った。僕もデュラのクランクを使ってみたけど剛性がイマイチでたわんだ。デュラのクランクがまともに使えるレベルになったのは7400から、それまでのクランクは弱くて、アマはカンパ、プロはスギノを使った。しかしハブとスプロケは600は結構よかった。クランク以外はシマノは使えた、特にフリーについてはシマノは世界一。カンパはスプロケを製造していなくてボス式時代はレジナに丸投げだった。
シマノはハブにフリーが一体でついているカセットフリーを発明し、これで最少ギアが11使えるようになった。ボス式時代は最小14しか使えなかった。サンツァーのボススプロケは耐久性がなく音がうるさかった、だからカセットフリーを一度使うと2度とボスは使いたくない。当時ボスは5速がMAXだった、しかしシマノはカセット化したことにより6速、7速を出した。
イトーの兄ちゃんとの出会い。
僕が部品を買ってたお店は大阪守口市にあるイトーサイクル。ここはネジ一個、ベアリング1個から販売してくれた。アマゾンもネットもない時代、イトーに行けば倉庫の中から兄ちゃんが必ず探し出してくれる、どんな部品でも値段をすぐ答え、出してくる、この人の頭の中は自転車の知識で埋まってる、イトーにはオタクのおっちゃんが集まる、店に来る自転車はとんでもない改造。この部品、こんなとこに付くんだ!自転車を見るだけで発見した。
僕のピストは前後クイック仕様、固定ギアユーザーは少なく部外者?。イトーを中心に大阪のオタクが集まっていた。イトーサイクルを知らない人間は大阪で自転車を語るなかれ・・・イトーの兄ちゃんと勝尾寺で一度会った、なんかヒョロヒョロ走るオールカンパでフレームのラグが美しいチネリの自転車。何者?、イトーの兄ちゃんだった。納得・・、イトーらしさがにじみ出てるやん。イトーの兄ちゃん坂登るのこんなに速いんだ、勝尾寺も来てるんだ。
僕にとっては兄ちゃんだけど、もうみんなじいちゃんの年齢。トモダもイトーも10年以上行ってない。自転車屋って整備下手なんだと教えてもらった。本当に整備極めたいなら自分でやるしかない、僕にとってはそれを早い段階で教えてもらえた、そして様々な自転車部品を見せてもらい触り、「芸術品」だと感動した。昔の自転車の部品は置いておくだけでも、キラキラ輝いていた。
イトーやトモダで自転車部品を見ている時間は博物館で美術の展示品を観賞しているみたいだった。少年時代いい時間を過ごしていた。イトーもトモダも大阪では有名自転車店だったけど、いいかっこせず整備は他でやってもらいと部品販売に徹していた。整備を極めたい、達人を求めて、あちこちの自転車屋に行った 第3回 整備の達人はどこにいる?につづく
城東輪業は倒産したのか、消息不明(?)ですからね。時代も変わりました…
城東輪業30年以上いってないです。たぶん卸は成立しない時代ですから無くなっても不思議じゃない。僕でも部品はアマゾンで買ってますから・・自転車屋で部品買えなくなっちゃいましたね。城東輪業は小売りはしてくれなかった卸の筋を通してた。でも部品の話とかシマノの話とか聞けて全部初めてのことだったので目を輝かせて聞いてた。あと売ってくれなかったけど捨てる部品(B品)をくれた。教えてもらってシマノ城下町の堺の町工場にもいった。そうなんだ実際にシマノ部品を作ってるのは堺の町工場なんだと知った。たぶん今は工場が中国やマレーシアにあるんでしょう、シマノの品質は堺の町工場の品質。戦国時代から鉄砲を作ってきた刀鍛冶の技術がシマノを支えた。だから昔のメードインジャパンのシマノと今のチャイナシマノを比べると、やっぱり雲泥の差を感じる。堺の職人は中国にはいない??
日本の自転車部品の最高傑作は「シュパーブ」三信、スギノ、サンツァー、ダイヤコンペが1980年代、中野浩一とともに世界の頂点に立った。部品の箱にアンカンシェル(5輪の5色線)が入ってた。カンパの箱にはいつもアンカンシェルラインが入ってた。1960年代から1980年代まで世界の頂点はカンパだった。そして80年代、日本が頂点に立った。シュパーブはカンパレコードと同じく部屋に飾っていて眺めているだけで感動できる、芸術品。サンツァーが倒産し90年代、7400デュラでシマノが頂点に立つ。今の部品って真っ黒で個性がない。とても美術品の代わりにはならない、昭和は美術品になる自転車部品を作っていた。
第3回 整備の達人はどこにいる?
自転車屋は山ほどあるけど、整備がまともにできる自転車屋は日本全体で3軒くらい。僕が全国の自転車屋を回って感じたこと、有名な自転車屋でも本当にひどい。僕の回りには競輪選手が沢山いた、特別競輪に常連で出ているs1選手もいた。競輪選手は自転車のプロと呼ばれる、しかし現実にはママチャリのパンク修理もできない人もゴロゴロいる。というより強い選手は整備をしない人が多い。私、走る人 あなたメカニック。
あまり自転車をチマチマ気にする人は強くなれない。競輪選手に限らずアマチュアでもトップクラスの選手は整備は嫌い?だから僕みたいな整備マニアはレース会場で捕まり、この決戦ホイール振ってるの直してとか、何か調子おかしい見てくれとか「もう次のレース1時間切ってるのに頼まれた」
僕なんか予選で負けてるし暇だし、自転車見ると、こんなひどい状態でよく準決まで残れたなと驚くほどひどくて、こんな自転車でも強い人は勝つんだと思った。僕だったら負けた原因を自転車の整備にしてるかも??やっぱもっと大きい器にならなければと反省。それでホイールピシッと組み直して、それで優勝。やっぱあのひどい状態でも勝ってきたんだから抵抗減らしたら絶対優勝する。レース後「ありがとうホイール軽かったわ」と優勝のお礼言われた。
ということで競輪選手で整備教えてもらえそうな人はいなかった。ハンドルのセンターにものすごいこだわるとか1カ所だけの整備が飛び抜けている人はいたけど、トータルで整備を教えてもらえそうな人はいなかった。選手って「なんでわからん」と鉄拳が先に飛んでくるので、なるべく近づきたくなかった。よく競輪選手の店という自転車屋があるけど・・・僕なら触らぬ神に祟り無し?
自転車で走っていて自転車屋があると飛び込んで親父の整備スキルを見る。そんなことを続けていて、やはり自転車屋で整備スキルが高いと思う人はいなかった。僕がトモダで最初に買った物は3本ローラーとホーザンの振取り台、自転車では運べなくて、電車で行って持って帰った。自転車をやると決めた時にこの2つの道具は絶対必要だった。振取り台は小学校6年に買ったけど今でも使ってる。だけどホイールをどうやって組むのかが全くわからなかった。今みたいにユーチューブはなかったし、自転車整備の本もなかった。しかたないので古い競輪のホイールとゴミママチャリホイールをもらってきて、それを分解して組み、何度も分解して組み、どう組むのか考えた。競輪ホイールは間違った組み方すると変形してしまい元に戻せなくなる、珍しい木のリムは一度組んで見事に割って(折って)しまった。
ホイール組は一発勝負の世界・・20回位組んでわかった。ママチャリの鉄リムホイールは振れが取れなかった、自転車屋の展示品を見ても鉄は振りが大きかった。競輪のアルミリムの方が幅1mm以下で奇麗に取れる、UKAIのリムは段差がどうやっても取れなかった、新家の方がクセがない。マビックは精度高く、フィアメやカンパは日本製よりひどかった。100本ほど組み修行積むと、自転車屋の親父のスキルが見えた。苦労して自分で身につけたスキルは一生の財産、50年以上自転車と関わってきて今はわかる。でも小学校や中学校の時は知らなかった。
匠との出会い
天神橋筋六丁目に、その会社はあった。自転車屋ではないけどオリンピック出場で使ったロードやピストが天井に吊っていた。片倉シルク、1970年前後の日本のレースを背負っていた会社。当時、競輪選手でもシルクに乗っている人が多くいた。世界一周のキャンピング車も作ってた。とても品質がよく、すごい自転車会社だと僕も一目置いていた。その大阪支店が天六にあった。
ダメ元でスギノピストのチェーンリングを売って欲しいと入っていった。完全に会社でメーカーなので小売りはしてないのはわかってる。中からメガネでスーツ姿の少し太ったおっちゃんが出てきた。この人が大阪支店の一番偉い人で他の社員は「部長」と呼んでた。
どうみてもサラリーマンって感じ、言葉は東京弁で関東の人、最初の印象はこの人自転車整備できんやろ。しかし全然違ってた。論理的で考えられないような整備をする。特に車輪の組み方は他の誰とも違う常識を覆したものだった。振り取り台なんかいらないよ、ホイールは全てを均等に組めば振らない。面で組む。センターを見るのも、バルブ穴から向こう側のスポークを除き、それがハブのセンターを通ってればOK。センターゲージなんかいらない、穴から覗くとセンターが見えた。
白いワイシャツにネクタイ。7・3分けの社長さんが自転車整備を瞬時にしていく、そのスピードが常人じゃない、その格好からは想像もできない匠のスキル。僕が初めて出会った達人だった。天井に吊ってたオリンピックで使った自転車も、その人がしたと言ってた。どこの整備が難しく、どうやってしたか解説が論理的で完璧だった。週2,3度通って、いろいろ教わった。さすが片倉シルク、只者じゃない。格安でシルクのロードを売ってもらい、オリンピックで使った部品をつけてもらった。僕が初めて乗ったロードは片倉シルク。僕の整備は「部長さん譲り」中学2年の頃には競輪の決戦ホイールを組める位のスキルをつけていた。部長さんの提案で大阪支店で「実業団チームを作りたい」というので、僕がキャプテンを引き受けた、それで関西の実業団大会に何度か出たけど、シマノレーシングと団抜きやって追い抜かれたり、当時大阪大会は全国屈指の強豪が集まっていてスギノ、サンツァー、新家など名門がずらり。片倉シルクは名前だけは名門だけどメンバーはほとんど素人で週1の練習も20kmほど長柄の橋周辺を流してただけ、最弱実業団チーム。でもなんか面白かった。みんな青春やってた。片倉シルクがイベントなどで店を出すと「店番」やらされたり、いろんな経験させてもらった。
同時期にこの部長さんと同じ車輪組をする自転車屋の兄ちゃんとも出会った。当時大学生で親が急死し店を継ぐことになったインテリの兄ちゃんだった。自転車屋らしからぬ格好とかは部長さんと同じ。いつも不機嫌そうで人見知りが激しく近づきがたいムードがあって、あそこの店はいかない方がいいと自転車仲間で評判だった。でも僕はなぜか、その兄ちゃんと気があった。あるとき車輪組みをしていた兄ちゃんがバルブの穴からセンターを覗いていたので「おおおお」と思った。そして車輪組みを観察していると、まさしく部長さんのやり方だった。この兄ちゃんもしかして達人??いろいろ話すると思想が同じ。
こんな人いるんだ、カンパやチネリの部品を買う時、仕入れてもらった。・・・つづく
第4回 長 義和
長さんはスクラッチ(今のスプリント)の選手で高校時代に日本一になりオリンピックで日本人初のメダルを狙えると言われた怪物。僕が長さんと会ったのはスギノレーシングに入り、敵無しの全盛期。長さんと練習で会ったのは2回、スギノの赤いユニフォームを着て走っていた。僕は梅田から阪奈道路を抜け伊賀上野まで街道を走っていた。阪奈道路は当時有料で頂上に料金所があり、大阪選手会は無料で通れた。僕はまだ中学生だったけど阪奈クラブの選手たちと走り師匠譲りのダービーとかオールスターのユニフォーム着ていたので競輪選手と思われて顔パスだった。今の阪奈道路は車多すぎて走る気がしない、でも有料道路時代は空いていて走りやすかった。大阪側の下から料金所まで一番早い選手は11分で登った(師匠が一番速かった)僕は師匠には負けたけど他の選手よりは速かった、12分位だった。
当時S1選手と互角に走れたので天狗になっていた。俺は強い、負けない、なんて速く走れるんだろう。この自信はある日、一気に崩れ去った。いつも午前4時に梅田を出て9時に帰ってきていた、その日は寝坊して朝出るのが遅く阪奈を7時位に走っていた、いつもは自動車がいないガラガラの道を走る、でもその日はトラックも多く通勤ラッシュが始まろうとしていた。阪奈道路は2車線の有料道路、僕は左端を走って登る、速い乗用車が追い抜いていく、別に自動車に抜かれても気にはならなかった、自転車なんだから自動車より遅くて当然、まして山の登り。ところが追い抜き車線をゴォーと自動車を抜いて走っていく1台のロードバイク。うそやろぉ、ユニフォームは赤にスギノの字。夢見てるのか?
スイッチが入った、自転車を追い越し車線に出す。車より速く走らなければ追突される。前方のスギノのユニフォームを追う、メガネ。長さんだ!関西実業団大会スクラッチ決勝で、長さんはとんでもない技を出した(あんなことをするのは後にも先にも長さんだけ)絶対忘れない強烈な記憶。追い抜いてやる!必死で追ったけど抜けなかった。速い!次元が違う。長さんは10分を切ってたと思う、師匠よりも速かった。
阪奈で会ってから半年くらいした寒い冬の朝、大阪の内環状線を放出から緑橋へ白のダウンを着て、追い越し車線をぶっ飛んで走るロードに会った。自動車が点になりぶっちぎっていく。長さんだ、一目でわかった。スギノは東大阪にあった、通勤だったのかな??あまりにも速すぎて、追いかけようとも思わなかった。長さんは思考回路が常人ではない、逸話がいろいろあるけど今は秘密にしておきます、やばいので近づくと大火傷する、遠くから眺めるのが身のため。僕も周囲からぶっ飛んだ人間と思われていたけど、自転車の常識をことごとくぶっ壊し、ここまでやっていいんだと見せてくれた長さん。大阪の街で同時代を走れたのは、とてもラッキーだった。
第5回 カンパの達人に会いたい
競輪選手はカンパの部品を使えなかった。初めてカンパレコードを見た時、とりこになった。欲しい、3本ローラーとホーザン振取台を合計したよりクランク1本の値段が高かった。僕は親父とは相性悪く、小学4年で家を出て自活していた。親父はケンカが生き甲斐のような人で梅田界隈で親父を知らない人はいなかった。勉強をしろと言われたことはないけどケンカで負けたら帰る場所はなく腹切るしかない、口より鉄拳が飛んできた。小学2年の時、近所の土建の組と親父が乱闘になり1対20人、さすがの親父もボロボロになり僕一人現場に残して消えた。それから数時間後、3人の殺気が歩いているような助っ人を連れて戻ってきた。
その中の若い、アルカポネのようなハットを被り黒のスーツを着た兄ちゃんが懐に手を突っ込み「おまえらプロかアマか」と聞いた。ピストルのカチャッという金属音が響いた、20人のおっさんが凍った、殺気で時間が止まる、ケンカにはならなかった。20人が親父に土正座。僕は大人の本物のケンカを見た。
アルカポネの兄ちゃんは15歳の時に一人で日本刀を持ち組事務所に殴り込み7人を切って壊滅させた人物だった、小学2年の時はそんな経歴など知らず呆然とみていた、漂うオーラと威圧は半端じゃなかったのはわかる、親父は常に正々堂々真剣勝負だった。絶対ひかない、人に頼まれればやり切る。しかし、すぐ殴ってくる、顔がパンパンに腫れ上がるくらい毎日殴られた。そしておふくろも殴った、毎日殴られると慣れてパンチが見える。小学校3年頃にはパンチを見切れるようになってた。小学校4年の時、おふくろが大けがするくらい殴られた、僕は我慢できず親父をつかみ「女を殴る男は最低だ」と言った、押さえた時勝てそうな気がした、親父こんなに小さかったかな。その後10発くらい殴られた、僕は親父が死ぬまで一発も殴ったことはない「殴れば負けだ」勝てる相手を殴ってもしかたない。
でも自分が最低と思ってる親父に面倒みてもらってる俺はもっと最低?とこの時思った。自活しよう家を出た、おじいちゃんの借家の部屋をひとつただで借りた。それから生活費は全部自分で稼いだ、高度成長期の梅田にはいくらでもバイトがあった。当時教師に給料聞いたら僕の稼ぎより少なかった、でもカンパレコードのクランクを買うには2ヶ月はかかった。
カンパレコードクランクを買った夜、うれしくってクランクを抱きしめて寝た、うれしくって興奮して寝れず、何度も眺めた。それからカンパをひとつひとつそろえていった、師匠には競輪で使えない部品を使うなと怒られた。僕の人生でチネリとカンパは別格。でも整備がわからない。変速なんてシマノと同じやり方してもスムーズに動かない。どう整備する?謎だ。カンパの整備方法を知りたい。
そんな時、街道練習ですれ違うレーシングチームがあった。自転車はカンパで組まれている。名前はズノウレーシングチーム、工房は旭区にあった。自転車屋ではなくオーダーフレームの会社。競輪選手にも供給していた。ズノウに行った時、表にオールカンパのロードが置いていた。FDの角度、隙間などを観察していると店内からビンの底みたいなメガネを掛けた社長さんが出てきた。カンパの整備のコツとかあるんですか?と聞いてみた。それ動かしてみ、動かすと僕のFDと同じところでもたつく。これ変速おかしいです。カンパはそんなものと返答、ただすごいカンパもあるという。当たり外れがあるそうだ、いい物はものすごいいい、3個に1個くらいかな?。こんな高価なもの3個も買えないよ。結構なバクチ。
ズノウの店内にあるロードはカンパだらけ、大阪中のカンパがここに集まってた。ズノウには地下があり、そこでフレーム製作していた。僕が行った時、中川さんがフレームを作ってた。社長さんが作ってたのは見たことがない。ズノウのフレームは「速い」レースに勝てると評判だった、そのズノウ、中川さんが製作してたかも?(と思う)。中川さんはその後独立しnakagawaフレームを製作、あさひと組んでミネルバも出した。nakagawaのフレームがどれだけ優秀かは使っている人ならみんな知ってる。
クロモリでは長沢と並ぶ歴史に残るフレームです。つづく
第6回 アルミフレーム登場
クロモリフレームしか無かった時代、初めて見たアルミフレームはズノウに来ていた川崎さんが乗っていた。ALANとバッジがあった。これがアルミなんだ、ジロジロ。フレーム軽いんだろなと持ってみると、それほど軽くなかった。当時一番軽かった石渡のクロモリより少し軽い位。フレームは溶接ではなくラグに接着。剛性はほとんどなく柔らかくて乗り心地は抜群。アルミフレーム=乗り心地いい=柔らかいという情報がインプットされた。
僕が初めて買ったアルミフレームはブリジストン レイダック。これも乗り心地抜群だった。それから時代が下ってGIANT R3買ったんだけど、これがガチガチで地獄の腱鞘炎マシン、トレックもスペシャもアルミは硬さを競っていた時代、とても乗れたフレームではなかった。その代わり反応素早く走りはよかった。ALANもレイダックも反応悪かった。もうアルミ最悪時代が続く。
fuji アブソリュート3.0のフレームを買った時に、どうせまたガチガチだろと期待してなかったけど、すべるような走り、クロモリより振動吸収がよく、レイダックのような頼りなさもない。これ最高!しかしfuji最高時代はそう長くは続かなかった。3.0のフレームはアメリカ製でfujiはアメリカの会社。昔、日米富士という会社が日本にあったけど倒産?してアメリカに行きfujiになった。アブソリュートはアメリカ製アルミフレーム。フジは競輪ピストフレームも供給していてピストの会社のイメージが強い。
と何十年分の歴史を数行で語ってしまったけど、ALAN時代はアルミフレームは羨望の的、乗ってるだけで注目された、でも川崎さんそれほど速くなかったので、あまりいいフレームじゃなかったのかも?見た目はかっこよかった。レイダックが出た時、値段も安かったので試しに買ったけどクロモリの方が走ったので飾りで置いてた。
今はアルミは戦闘的なフレームが多い。カーボン全盛時代だけど一発逆転を狙えるフレームがアルミにはある。ただ乗り心地は厳しいので美容と健康には悪いかも??
第7回 サイクルベースあさひ1号店
サイクルベースあさひの第1号店は東千里店、僕が行った時は全国でこの店があるだけだった。下田さんは長髪で店の前でフォークを歌ってた??息子さんが閉店してからダンスの修行してた??当時万博公園サイクルロードレースが毎週開催されていた(万博レースは自動車の侵入でゴール勝負の集団が正面衝突しケガ人を多数だして永久に開催中止になった)
万博は東千里店から近く、レースに参加していた選手たちも店に来ていた。
僕は下田さんに3本ローラーは自転車に絶対必要、店頭に置いて誰でも乗れたらいいと思う、とアドバイスしたら、すぐ店頭に3本ローラー置いてみんなが使ってた。箕面の勝尾寺でヒルクライムレースを開催したり、僕も手伝った。あさひは大阪の都島で「こども乗り物あさひ」という店を下田さんのお父さんがやっていた、この店はスポーツ自転車など扱っていなくて普通のママチャリを扱うお店。僕は近くを何度も通りすぎていたけど行ったことはなかった。
下田さんは東千里店をロードやMTBを扱うスポーツ自転車の店にしていた。まだ大阪の街にはワイズロードもカンザキサイクルもなかった時代。日本の自転車屋はスポーツサイクルでは食えない、ママチャリで食ってるとよく言ってた。そうなんだろうな・・・あんまり整備は得意ではなくてカンパの整備はこうすると見せてあげたら、回転が変わったと驚いてた。
あさひは東千里店ひとつだけの時代は5年位?あったと思う。その時代は僕もよく行った。奥さんは宮城の人で実家帰ってきたと「海苔とか」おみやげもらった。そのうち店にいっても下田さんはいなくて奥さんだけが店番する時代になり「店できる不動産探して全国飛び回ってる、自転車屋じゃなく不動産屋みたい」と奥さんがいってた。当時僕は趣味でドラマのシナリオ書いていて、ある全国コンクールで優勝し楯もらったので、優勝したよと見せにいったら、シナリオ読んでくれて。この楯飾って置きたいから貸してと言われて、何ヶ月?か下田さんの家に飾ってた。
ドラマのシナリオ好きなんだ下田さんって本当は芸術家肌なんだろうなと思った。それからサイクルベースあさひは全国展開し一部上場企業になっていくんだけど、僕はビジネスマン下田さんの顔はよく知らない。
あさひが東千里店ひとつだった時代、どんな自転車屋を作るか模索し、夜、閉店後、店の前にテーブル並べて、音楽ライブやったり、3本ローラー乗ったり、みんな青春?若かった。そのスタートラインの時になぜか僕も一緒にいて遊んでた。面白かった。
第8回 ガンウェル イワイサイクルの達人
京都の向日町に競輪場がある。僕は梅田に住んでたので甲子園、奈良、向日町、KCSC(関西サイクルスポーツセンター)のバンクを走ってた。その中で一番よく行ったのが向日町、だから京都の選手は知り合いが多くなった。向日町競輪場に行くと、イワイサイクルに寄って帰る(171号線沿いの向日町にイワイサイクルはあった、今は閉店)ガンウェルというフレームビルダーで競輪にも供給、ランドナーやキャンピング車も作ってた。
イワイサイクルは沢山の職人さんがいて、誰が誰かよくわからないんだけど、部品の値段がバナナのたたき売りみたいに交渉で安くなるので、結構買った。イトーサイクルの半額くらいになった。特にカンパが信じられない値段でわざわざ向日町まで買いに行った。
ズノウでカンパの整備を少し教えてもらったけどモヤモヤしたものは晴れなかった。これだ!というカンパの達人を求めてあちこちに行った。そしてみつけた。イワイサイクルに達人がいた。最もイワイサイクルでも、その兄ちゃんだけがカンパオタクでぶっ飛んで詳しかった。ヴェローチェ、コーラス、レコードの違い、整備方法の注意点。スーパーレコードの長所、自分で整備した人間でないとわからない到達点を教えてくれた。僕もある程度修行積んでいたので、この兄ちゃんの言うことがガンガン入ってきた。僕のカンパ整備はこの兄ちゃんに教えてもらった。やっぱりシマノとは全然違ってた。
面白いのはサンツァーシュパーブはカンパと互換性があり、カンパの整備でやれば性能を100%発揮できた点。細部のネジの寸法までカンパと互換だった。イワイサイクルにいって明るい昼間から、夜暗くなるまでカンパの話をした。僕は向日町店ばかり行って他の店は知らないんだけど、向日町店が閉店したと聞いた時、ひとつの時代が終わったなあと思った。あのカンパの達人の兄ちゃん、僕よりだいぶ上の世代だから、もう70歳は超えてるはず、今のカンパ見てどう思うか聞いてみたい。
京都の向日町も向日市にかわり「向日町競輪場」が名前変?とか思われる時代になってしまったけど、少し重かったけどクセのない走りやすいバンクだった。向日町イワイサイクルの閉店となるしまフレンドの閉店は僕にとってはメチャクチャ大きい時代の節目。東京では代々木のなるしまフレンドばっかり行ってたので立川店はあまりしらないけど、今、渋谷店もビルの中に入ってて僕が通ってた頃のなるしまの姿はもうなくなっちゃいました。向日町のイワイサイクルとなるしま代々木店はなんか似てた。
ものすごい親近感を持てる店だった。(なるしまの話も書くと長くなるのでパス)
第9回 プロとアマ
競輪選手って自転車好きと思ってる人が多いかもしれません。その常識間違ってます。僕の見てきた競輪仲間だけで言うと「嫌いな人の方が多い」だから引退したら自転車乗らない。でもその気持ちなんとなくわかる。はっきりいって「自転車乗る=修行」、痛さ、苦しさに耐えて走る。理由はそれで金稼いでるから、それ以外に何もない。あんまり追い込むと朝、ハンドル見ただけで吐き気がする。お金あったら自転車なんか乗らないよ・・・他に稼げる仕事ないし・・・借金払わないとダメだし・・・。
何かを背負わないと、とてもやってられない。
ボクサーってお金もらえなくてもボクシングやるのかな??たぶんしないでしょう。自転車も同じ。
僕の師匠が強かったのも才能というより「借金背負ってたから」高級車を次々と買い、1000万の車、一ヶ月で廃車にしたり、たぶん3億くらいは自動車で散財してる。ある日、次のレースで300万稼いでこなければ不渡りで破産だというとこまで追いつめられてレースに出発していった。そして3連勝で優勝し見事に300万稼いできた。副賞に自動車がついていて、それはすぐに売却。こういうのを背水の陣というんだろうな。競輪のようなハングリースポーツは余裕があるとクソ力は出ない。
本当の姿は誰も知らないところにしかない。
アマのチャンピオンとかが競輪選手になると下位クラスではそこそこの成績を残す、しかし上位20人のバトルには入ってこれない。師匠はよく100人までならアマの走りでも入れる、しかし上位20人に入るならプロになるしかないと言ってた。その違いは何を背負っているかだと思う。
中野さんが世界戦10連覇できたのは「勝つ以外なかった」中野さんは日本を背負って戦った。世界の自転車三流国日本、レース用部品はカンパ、アンカンシェルが許されるのはカンパだけ、そんな時代に日本の部品だけで組んだナガサワのピストで戦った。日東のハンドル、新家のリム、スギノのクランク、和泉チェーン、三ヶ島ペダル、サンツァーハブ、日本はオールジャパンで戦った。
一番危なかった6連覇のシングルトンとの戦いでは「中野を倒せばボーナスとして3億円」が用意された、自転車王国ヨーロッパがいつまでもアジアの三流国日本に世界一を続けさせるわけにはいかない。シングルトンは中野さんを骨折させ負傷棄権を狙って攻撃した。レースというより格闘技。でも競輪は格闘技の本家本元。自転車を転倒で壊され、肋骨を折られ、本来なら負傷で棄権だったけど骨折を隠し(ろっ骨折るとめちゃ痛いよ、僕もろっ骨折ったことあるけど・・)決勝で勝った。
負けたら日本に帰れない、文字通り「決死の覚悟」、新家も日東も三ヶ島もみんな決死の覚悟で戦っていた。だから中野さんに棄権の選択はなかった。本当にオールジャパンでつかんだ10連覇だと思う。中野さんが新人の時にいろいろ教えた縁で師匠とはつきあいがあり、世界選の実録話を僕も聞かせてもらったけど、日本の社会全体が昭和の終わり頃、みんな世界一をめざして戦っていた。ホンダもソニーも任天堂も、今では自転車競技から遠ざかったパナソニックもオールジャパンの自転車競技を引っ張っていた。
心が躍る、躍動するそんな時代のムードが漂っていた。ナガサワさんがデ・ローサに修行に行き帰ってきて中野さんと出会う。今ではリムを撤退した新家の技術者も真剣に世界一をめざして技術改良。アジアの端の島国、日本が世界を追い越せと動いていた。そしてJapan is NO1と言われる1990年に到達する。
僕もSEになって世界で初めてのロボット開発してたけど、コスパタイパ、損得関係なしに「世界一」だから挑戦していた。今なら残業200時間なんて絶対許されないけど、Japan is NO1時代の技術者って、なりふりかまわず全力で突っ走っていた。僕は自転車で金稼ぎたいとは思えなかったのでプロの世界を知ってすぐ場違いを悟った。プロのメンタルとアマのメンタルは全然違う。そしてそのメンタルに周囲の圧力がかかると、とんでもない爆発力を発揮する。中野さんの世界10連覇を近くで見て日本が世界一になっていくのを見れたのは僕にとっては大きな財産だった。フランスで中野さんが神様扱いされて日本とのギャップにも驚いたけど、日本では自転車はマイナーなんだなあと実感。
ツールドフランスで優勝するような日本人選手が出てきたら、この日本の自転車マイナー扱い変わるのかな??
>>ツールドフランスで優勝するような日本人選手が出てきたら、この日本の自転車マイナー扱い変わるのかな??
知人に年配で育成にも携わるバイクレーサーがいて、モトクロスなので競技的には世界で勝てる。でも後輩や弟子が勝っても日本では常にマイナー、海外との温度差が凄いっていいます。勝利しても壁はある。
ただ今はネットを通じ個人で興味を持ってもらいやすい環境、必ずしも既存のメディアに頼る必要はない。問題はそうやって集めた人に、いかに勝てるメンタルを教え込むかとも。なので傍から見ると、ユーチューブが大好きで孫くらいの子に意地悪する変人(褒め言葉)。
個人的には母数を増やし、楽しむ層から勝てる層が基本。気になるのは段々と「安全」に自転車を「楽しめる」環境が減ってない?という疑問です。若い層が友人と安全に練習できる?美しい自然は?昔のほうが良くない?うーん‥‥
時代の差は当たり前ですが、親が子にスポーツで期待する前提には安全がすごく大きいんですよね。
>気になるのは段々と「安全」に自転車を「楽しめる」環境が減ってない?という疑問です。若い層が友人と安全に練習できる?美しい自然は?昔のほうが良くない?
難しいですよね。まだモーターサイクルのほうが、車のペースに合わせれるので安全と思います。自転車はどうやったって車のペースに合わせれないから…(自制心ないとバイクは危険ですが)
>でも後輩や弟子が勝っても日本では常にマイナー
ゲーム(e-sport)でもそうでした。僕はとあるレースゲー専門でしたが、ワールドツアー優勝者に日本人が居ました。そんなの(一般人で)誰が知ってる?となりますよね。
自転車競技や部活?の人も見ます。
一言、もう自転車は流行らないで欲しい。危険。