会う人ごとに「可愛い、可愛い」と言われながら美少女自認はなく、周りから万全に護られながら「危険に晒されている」「不安」といい、ハンサムでお似合いな青年と王家の血筋との道筋が敷かれていて、倒すべきおぞましい混沌の勢力が前に置いてある。読者としては、とても居たたまれない。
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会う人ごとに「可愛い、可愛い」と言われながら美少女自認はなく、周りから万全に護られながら「危険に晒されている」「不安」といい、ハンサムでお似合いな青年と王家の血筋との道筋が敷かれていて、倒すべきおぞましい混沌の勢力が前に置いてある。読者としては、とても居たたまれない。
『美少女とは絶対いわないこと』や『超絶の美貌は身に付きまとう呪いとして、愚かな人類を侮蔑していること』などが1970年代頃の経緯としてこれまで読んでいるので、前回がElectric Forestで今はSabellaの間でこれは辛い気持ちになる。
だからこれは、リー作品の方向性ではなく、いわばちょうどマキリップのような乙女ゲー感覚に近い。わたしは、居たたまれない気になる。
主役のアトリとロナーのことは放っといて、読者としては混沌の側に与してこの世界の敵に回るのが好ましい読み方です、と言っているのかというと作者にその意図は絶対ないしね。デスタムーアだけに共感するみたいな。そんなのは冷笑的な態度だ、といわれるに決まってる。でもモラルはすでに転倒している。むずかしい……
日本人にはそれは合わないか、もとにキリスト教的な背景がなければファンタジーにはならないのではないのか、というと『日本人に真正のファンタジーは書けない』という説のようになって、それもあながち嘘でもないと思うので悩みだ。わたしなんかはどこへ行けばいいのか。
それもあって、最近では遠藤周作などが昔思っていた以上によくわかる、のだった。その経緯は富野由悠季と言ったほうが早いけどな。
わたしはマキリップのアンチみたいになったが、そういえば最近ジェイン・ヨーレンのファンタジーについて(『三つの魔法』)その読者ストレスを上手く避けてみえるという感想をもっていた。ヨーレンの、もっとこれに近い作品は『光と闇の姉妹』『白い女神』をすでに積んでいるから、五代作品や久美沙織作品とその印象比べをしてみるのはあとで興味にはなる。
作者が『可愛い、可愛い』と宣伝する主人公に、読者はそのたびじわじわヘイト積もらせるというのは、まさに現代日本の文芸や文化風土にその筆法が抜けてでもいるのかと思わせ、でもオスカー・ワイルドとかストリンドベリとかダンセイニを読んでもそこの処はファンタジーにとってとても大事だと思うんだ。
ジャンルの主流作家を現在最新作まで追ってみて、その経過できっと『日本のFTがどういう需要・同化過程を経て、その間FTの何に注目され、何が抜け落ちてきたか』が読み取れる。ジャンル外では、『なぜ現代フェミニズムは自滅をたどったか』のようなことに視点を得られるだろう。