『骨牌使いの鏡』を開く。わたしはまだタニス・リー通読がメインなので、読み始めそれと比較するような気分が続いていて、それでいうと、この作品はわたしの最近の印象ではリーよりもマキリップのような感触に近い。世界全体が、魔法について理解がある。主人公はアウトサイダーではない。『Sabella』のまえがきに書いてあるけどリーの主人公はアウトサイダーしかいない。
ダークファンタジーのジャンルでは、世界がダークな一方で主人公の周りにそれなりに理解者が集まっていると、『この世界は間違っている、私が正しい』という言外の押しが強まり、読者がその目線で読んでいれば往々にして作中のメッセージにしている善悪の印象、語るべきモラルは転倒し、小説の主人公への好感は薄れて敵役の悪者のほうばかりに関心が集まることになる。そうなるとファンタジー作家の失敗だ、と理解するようになった。
読者はいつも裏読みをするものだ。でも、ライトノベル・ジュブナイルだからと割り切ってしまえるレーベルではそんなこと言うのは大人げないということもある。でもファンタジーの格は落ちる。それくらいまで、読み始めて一瞬で考えてしまった。五代作品ってどうかな。
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ル・グインは作家が読者を洗脳しているようにしばしば感じるが、リーは読者が作家を女王か女神かのように崇拝している。
被害者意識に発して語る自立、団結、愛、フェミニズム、というのは子供にしか通用しないが、子供向けの本なら良いともいう。子供向けだからこそいけないとも思える。
これは……どうも魔法・魔術よりも、カードバトルが主題の、ゲームの世界観設定として書き始められているような印象の小説だな。カードバトルものは全くわたしの趣味じゃないが、ゲームのコンセプト小説みたいなものが嫌いかというと、鈴木銀一郎の『ドラゴンライダー』などとくに気に入ってここでも紹介していることもある。
『この世の始まりに、まずカードがあった』みたいな神話が問答無用にあり、物語の中でもここぞという見せ場にはカードバトルで白黒を決める、デュエルしろよというノリがしたくて書き始めているにちがいない。
カードでなくて、言葉・物語を武器にする戦い、語りで語り倒す魔術合戦では、わたしは『カレワラ』のワイナミョイネンをお手本にすべきものだと思ってて、それも何度かいってる。カレワラのそれは、根本には民族主義というのがあって、民族と切り離した純娯楽のための現代ファンタジーノベルに「物語を武器に戦う魔術」がその真似事以外になるのかというと、ならないとも思ってる。
今から小説を読むというのにそこまで先に言うことか。女の子の服装と化粧の話が興味でも面白いと思うけど。
ライトノベルの場合、結末は最初からわかってる。どういう過程だろうと、どうせそれなりに主人公が勝って終わるのに、途中の冒険をいくら語られても「どうせ勝つけどな」という読者の予見が壁になって、心の葛藤を語り切らない。
それで「死闘」には絶対にならないのにこれは真剣勝負ですという一応の約束で読者も暇つぶしにするんだ。それではもう飽き足らないとなったら作家も読者もそのジュニア向けジャンルから抜けていくんだろう。
わかるのは、リーを読んでいるときは近いジャンルの作家は併読には喰いあいが非常にわるい。『本邦の作家だから』といえば、日本人だからこうなる、こう書くという話に終始し、これはファンタジーでも日本の作品だからねという言われ方に、実際今でもなるんだ。どういう読み方ならよかったのかな……
会う人ごとに「可愛い、可愛い」と言われながら美少女自認はなく、周りから万全に護られながら「危険に晒されている」「不安」といい、ハンサムでお似合いな青年と王家の血筋との道筋が敷かれていて、倒すべきおぞましい混沌の勢力が前に置いてある。読者としては、とても居たたまれない。
『美少女とは絶対いわないこと』や『超絶の美貌は身に付きまとう呪いとして、愚かな人類を侮蔑していること』などが1970年代頃の経緯としてこれまで読んでいるので、前回がElectric Forestで今はSabellaの間でこれは辛い気持ちになる。
だからこれは、リー作品の方向性ではなく、いわばちょうどマキリップのような乙女ゲー感覚に近い。わたしは、居たたまれない気になる。
主役のアトリとロナーのことは放っといて、読者としては混沌の側に与してこの世界の敵に回るのが好ましい読み方です、と言っているのかというと作者にその意図は絶対ないしね。デスタムーアだけに共感するみたいな。そんなのは冷笑的な態度だ、といわれるに決まってる。でもモラルはすでに転倒している。むずかしい……
日本人にはそれは合わないか、もとにキリスト教的な背景がなければファンタジーにはならないのではないのか、というと『日本人に真正のファンタジーは書けない』という説のようになって、それもあながち嘘でもないと思うので悩みだ。わたしなんかはどこへ行けばいいのか。
それもあって、最近では遠藤周作などが昔思っていた以上によくわかる、のだった。その経緯は富野由悠季と言ったほうが早いけどな。
わたしはマキリップのアンチみたいになったが、そういえば最近ジェイン・ヨーレンのファンタジーについて(『三つの魔法』)その読者ストレスを上手く避けてみえるという感想をもっていた。ヨーレンの、もっとこれに近い作品は『光と闇の姉妹』『白い女神』をすでに積んでいるから、五代作品や久美沙織作品とその印象比べをしてみるのはあとで興味にはなる。
作者が『可愛い、可愛い』と宣伝する主人公に、読者はそのたびじわじわヘイト積もらせるというのは、まさに現代日本の文芸や文化風土にその筆法が抜けてでもいるのかと思わせ、でもオスカー・ワイルドとかストリンドベリとかダンセイニを読んでもそこの処はファンタジーにとってとても大事だと思うんだ。
ジャンルの主流作家を現在最新作まで追ってみて、その経過できっと『日本のFTがどういう需要・同化過程を経て、その間FTの何に注目され、何が抜け落ちてきたか』が読み取れる。ジャンル外では、『なぜ現代フェミニズムは自滅をたどったか』のようなことに視点を得られるだろう。