実は、ちゃわわん氏が喧嘩しているところを見たことがなく、そもそもちゃわわん氏が悪口を言っているのも見たことないんだけど、やっぱり「喧嘩」の時は悪口言ってるの?
>> 199 大丈夫です。心外でも何でも無いです。寧ろ妥当です。言葉選びだとか、オビディくんから漂うホワホワとした雰囲気を見て優秀な8歳とも考えれるか・・・って思ってました。決して侮辱では無いです。
良ければ喧嘩スレやら雑学や哲学などなどのスレを立てれたらなーと思ってる。右も左も分からない新参だけどどうぞ宜しく。
p.s. 良かったらzawazawa喧嘩界に見に行ってみてね!
>> 198
いらっしゃい。お久しぶりです。…と言いたいところだけど正直あんまり覚えてません。ゴメンナサイ。
8歳についても、うん、・・・まあキャラ付けだよね。(こっちも記憶が色あせてて たぶん小学生けんかしって名乗ってたところから着想を得てなんとなく自称してた感じだと思います。 今となってはいい思い出かな。
なんかゴメンね。あらためてよろしく〜。
約15年前にこの界隈の存在を知ってしまったことで人生が終わりました。
もし知らずに過ごしていたならば、今頃は……………
今は毎日財布と、周りの目を気にしながら生きています。
暴力ではなく、レスバトルで決着をつける社会。真理がレスバトルのエモさで決まる社会。恋愛のプロセスがレスバトルである社会。セックス中のレスバトルでオーガニズムに達し、生まれてきた赤ん坊の泣き声がすでにレスバトルであるような社会。なんつってなw
「現代の悪口、実は最適解説」か。俺はこれに賛成だよ。汎喧嘩主義者なんでね(笑)。ネットであろうがリアルであろうが、みんなが日常的に堂々と悪口を言い合い、むしろ悪口をコミュニケーションのベースとする社会になれば、誰も傷つかないんじゃないの?当たり前だから。俺、幸之助には悪口言われても平気というか、むしろ嬉しいくらいなんだけど、こういう関係性がもっと広がらないかしら。もちろん双方向的という前提でだけど。
では、和泉氏とちゃっぴーのどちらが正しいのか。結論から言えば、「どちらの視点も正しいが、見ている『スケール(時間軸と空間軸)』が異なる」のだと考えます。
つまり、ちゃっぴーの指摘通り、現代の悪口は単なる「昔の機能の誤作動」で片付けられるものではなく、「現代という歪んだ環境が、人間から引き出してしまった新たな適応の形」である可能性があります。それはある種のディストピア的な適応であり、皮肉な進化と言えるかもしれませんね。
この「現代の悪口、実は最適解説」、さらに深掘りしていくと、SNSのアルゴリズムや個人の認知の歪みなど、どこまで話を広げても面白そうです。あなたは、この現代的な「悪口による適応」のなかで、どのような部分に一番グッときましたか?
これに対して、ちゃっぴーが「いや、現代の悪口こそが適応なのでは?」と疑問を呈す背景には、「現代社会という環境そのものが、かつての自然環境とは異なるルールで動いており、個人の生存・心理戦略として悪口が最適化されている」という見方があります。
まず和泉氏の主張(あるいは一般的な進化論的アプローチ)のベースにあるのは、「人間の脳や心理メカニズムは、小規模な狩猟採集社会(数人〜数十人程度の血縁・地縁コミュニティ)の環境に最適化されたままになっている」という前提です。
【Geminiの回答】 和泉悠氏の論考(『悪口の起源』などにおける、生体機能としての悪口論や集団維持メカニズムの分析)を踏まえつつ、「現代の悪口こそが、実は現代社会への進化的適応なのではないか?」というちゃっぴー(ChatGPT)の視点――非常に刺激的で、思わず「なるほど」と膝を叩きたくなるアプローチですね。
この「悪口=単なるミスマッチ(バグ)か、それとも新たな環境への適応(アップデート)か」という問いについて、いくつかの角度から整理して考えてみたいと思います。
ちゃっぴーすごい。和泉悠が「悪口は古代においては社会を維持するポジディブな機能をもち、進化に適応的であったが、現代では過剰になり、社会に反する進化的ミスマッチとなってしまった」と主張するのに対し、ちゃっぴーは「果たしてそう言い切れるかな?(ニヤリ)」と疑問を呈し、「現代の悪口は、現代社会に対する進化的適応なのではないか?」という可能性を示唆するのです。いや、ちゃっぴーの言うとおりでしょ。
最後に、一つ、少し違った角度から問題を提起してみます。
この論文は、悪口を言う人間の心理的メカニズムが、環境の変化によって過剰に作動しているという説明を提示しています。
しかし、そもそも人間はなぜ他者を劣位化したがるのでしょうか。
ここで、二つの仮説を考えられます。
仮説1:悪口は社会的秩序を維持するためのものだった。
傲慢な人物を牽制し、権力の集中を防ぎ、集団内の平等を維持する。そのために悪口が機能していた。
仮説2:悪口は社会的な優位性を獲得するためのものだった。
他者を貶めることによって自分の相対的な地位を高める。つまり、悪口は地位獲得競争の手段だった。
この二つは、似ているようで違います。
仮説1では、悪口は集団全体の秩序を維持するために働きます。
仮説2では、悪口は個人が自分の地位を高めるために働きます。
もちろん、両方の機能を同時に持つ場合もあるでしょう。
そして、ここから面白い問いが生まれます。
ネット上の喧嘩は、原始的な共同体における平等主義的な社会統制の名残なのでしょうか。それとも、他者を劣位化することで自分の社会的地位を獲得しようとする競争の場なのでしょうか。
あるいは、その両方が複雑に絡み合っているのでしょうか。
私は、この問いを掘り下げることが、この論文をネット上の喧嘩の研究に接続するうえで、かなり重要だと思います。
特に、以前話していた「喧嘩とは何かと問うてはならない。我々は喧嘩で何をしており、そして何をしたいと思っているのかを問え」という問題意識とも接続できます。
悪口の起源を進化心理学から考えるだけでなく、現代のネット上の喧嘩師たちが、実際にどのような社会的ゲームを演じているのかを分析する。その方向に進める余地があると思います。
この論文の評価
着想に価値がある
優れている点
今後の理論的課題
補強が必要な点
なお、重要な留保があります。
このPDFは通常の完成した研究論文というより、2024年10月のシンポジウム発表に基づく提題者報告要旨です。著者自身も、悪口への進化的ミスマッチの適用について、詳細な議論や可能な反論の検討はできないと断っています。したがって、上記の批判の一部は、著者が意図的に今後の課題として残している部分に対するものでもあります。
ここからは、私なりに、この論文の議論を発展させる方向性を考えてみます。
個人的には、次の三つの理論を接続すると面白いと思います。
悪口を、社会的な競争における戦略として捉える方向です。
例えば、悪口を言うことによって、
といった利益が得られる場合があります。
この場合、悪口は単なる心理的傾向性の発露ではなく、社会的利益を獲得するための戦略的行動として分析できます。
こちらは哲学的に面白い方向です。
悪口を単なる情報伝達としてではなく、何らかの社会的効果を生み出す言語行為として分析します。
例えば「お前は馬鹿だ」という発言は、命題内容としては相手の知能についての評価ですが、実際の会話では、それ以上のことをしています。
相手を侮辱し、相手の発言の信用性を低下させ、場合によっては第三者に対して相手を軽視するよう促しています。
つまり、悪口には命題内容だけでなく、発話によって社会的関係を変更する側面があります。
ここではオースティンやサールの言語行為論、さらにはバトラーの言語行為・傷つける言葉についての議論などと接続できるでしょう。
これは、以前から話題にしている論証やレスバの問題と特に関係します。
ネット上の喧嘩では、相手の主張の正しさだけでなく、相手が「信用に値する人物か」という評価も争点になります。
例えば、相手の論証に反論する代わりに、相手の知性、学歴、人格、過去の発言などを攻撃することがあります。
これは、論証の内容をめぐる争いと、論証する人間の社会的評価をめぐる争いが重なっている状態です。
ここでは、次の二つを区別する必要があります。
両者は関連しますが、同じではありません。
ネット上の喧嘩では、この二つが頻繁に混同されます。
論証としては正しいことを言っている人物が、人格攻撃によって社会的に劣位化されることもありますし、反対に、社会的に高い評価を得ている人物の誤った主張が受け入れられることもあります。
この問題は、悪口研究と非形式論理学・社会的認識論を接続する重要な論点だと思います。
私が最も発展性を感じるのは、この問題です。
論文では、狩猟採集社会における悪口は、傲慢な人物や暴力的な人物を牽制し、平等主義的な秩序を維持するものとして説明されています。
しかし、もう少し踏み込んで考えることもできます。
悪口は、既に存在している社会的序列を単に反映するだけではありません。
悪口を言うことによって、誰が上で誰が下なのか、誰が尊敬に値し、誰が軽蔑されるべきなのかという社会的評価そのものが形成されるのではないでしょうか。
例えばネット上の喧嘩では、相手を「低能」「雑魚」「論破された人間」などと呼ぶことがあります。
これは単なる感情表現ではありません。
相手を低い位置に置き、自分を相対的に高い位置に置く行為です。
しかし、そこで形成される序列は、必ずしも現実社会の能力や財産や権力を反映していません。
むしろ、その場の言語的な応酬によって、暫定的に作り出されるものです。
この意味で、悪口は既存の社会秩序を維持するだけでなく、局所的な社会秩序をその場で生産する行為でもあると思います。
これは、著者の「ヴァーチャルな劣位化」という概念をさらに展開する方向性になりそうです。
この論文の説明を単純化すると、次のようになります。
しかし、ここには一つの飛躍があります。
社会的情報が増加すれば、必ず悪口も増加するのでしょうか。
例えば、情報量が増えても、他者への関心を失ったり、情報を無視したりすることは可能です。
また、情報量が同じでも、集団の規範やプラットフォームの設計によって、悪口の頻度は変わるでしょう。
つまり、情報の入力と悪口の出力との間には、何らかの媒介変数が存在するはずです。
例えば、
などです。
これらを導入しないと、進化的ミスマッチという説明は、現象を大まかに説明することはできても、なぜ特定の環境で特定の種類の悪口が生じるのかまでは説明しにくいと思います。
論文の説明では、現代のデジタル環境において悪口が増大する原因は、社会的情報の入力が際限なく増加したことにあります。
しかし、私はここに少し物足りなさを感じます。
インターネットには、単に他者の情報が大量に存在するだけではありません。
それ自体が、独特のコミュニケーション環境を形成しています。
これらは単なる情報量の増大とは異なる問題です。
例えば、匿名掲示板の喧嘩を考えてみましょう。
ある人物が他者を嘲笑する。それを見た第三者が加勢する。さらに別の人物が、その加勢した人物を嘲笑する。
こうして、最初の当事者同士の関係とは無関係な人々まで巻き込んだ対立が形成されます。
ここでは、悪口の対象となる人物が増えただけではありません。
悪口を言うこと自体が、他者からの評価を獲得するための社会的なパフォーマンスになっている可能性があります。
これは重要な違いです。
進化的ミスマッチだけではなく、観客効果、評判形成、集団同調、競争的な地位獲得といった理論も導入すると、ネット上の悪口をより立体的に説明できるのではないでしょうか。
この論文では、悪口を「ヴァーチャルな劣位化」として理解する立場が紹介されています。
ここは非常に興味深いところです。
悪口とは、単に相手を不快にさせる発言ではなく、相手の社会的な位置を引き下げようとする言語行為だというわけです。
しかし、ここには一つ問題があります。
悪口が社会的な序列を操作する行為であるとしても、すべての悪口が同じ社会的機能を持つとは限りません。
例えば、次のようなものを考えてみましょう。
これらはすべて悪口と呼ばれる可能性がありますが、目的も機能も異なります。
特に興味深いのは、悪口が必ずしも既存の序列を維持するとは限らないことです。
むしろ、既存の序列を破壊したり、新しい序列を作ったりすることもあります。
したがって、
「悪口とはヴァーチャルな劣位化である」
という定義と、
「悪口には集団の平等主義的秩序を維持する機能がある」
という説明は、区別して扱う必要があります。
前者は悪口という言語行為の概念的な説明であり、後者はその行為が特定の社会環境で果たす機能についての説明です。
この二つを接続する理論が、さらに必要になるでしょう。
ここからは、著者の主張をいったん離れて、論証そのものを検討します。
私が特に重要だと思う問題は五つあります。
この論文の最も重要な前提の一つは、悪口が小規模な狩猟採集社会において適応的な機能を果たしていた、というものです。
確かに、悪口によって傲慢な人物を牽制し、権力の集中を防ぐことができるなら、それは集団にとって有益でしょう。
しかし、ここには論理的に区別すべき問題があります。
ある行動が進化の過程で有益な機能を果たしていたことと、その行動がその機能を果たすために進化したことは、同じではありません。
例えば、悪口が集団内の権力を抑制する効果を持っていたとしても、それだけでは「悪口を言う心理的傾向が、その機能を果たすために自然選択された」とは言えません。
考えられる可能性は複数あります。
これらは別々の仮説です。
論文は進化的ミスマッチという枠組みを提示していますが、悪口を言う傾向性そのものの進化的起源については、まだ説明の余地があります。
これは論文の結論を直ちに否定するものではありません。ただし、進化的ミスマッチという説明を成立させるためには、もう一段階の議論が必要だと思います。
著者は、悪口を言う傾向性が、限定的な社会的情報を前提とした環境では適応的に機能していたものの、現代のデジタル環境では過剰な悪口を生み出すと結論づけます。
今後の課題として、次の問題も挙げています。
以上が論文の基本的な構成です。
ここが論文の核心です。
著者は、第二節で紹介した進化的ミスマッチのモデルを、今度は悪口に適用します。
その際、まず重要になるのが、狩猟採集社会における悪口の機能です。
著者によれば、悪口には次のような社会的機能がありました。
例えば、狩猟の腕前を誇る若者を馬鹿にすることで、その人物が傲慢にならないようにする慣習が紹介されています。
つまり、悪口は必ずしも社会を破壊するものではなく、場合によっては社会秩序を維持するための手段だったということです。
ところが、インターネットでは状況が変わります。
小規模な共同体では、悪口の対象も限定されていました。しかし、デジタル空間では、ほぼ無制限の他者に関する情報が流れ込んできます。
その結果、悪口を言う傾向性が際限なく刺激され、揶揄、嘲笑、中傷、罵倒が大量に生み出される。
これが著者の提示する進化的ミスマッチの構図です。
この節では、心理学者リムらの進化的ミスマッチ論が紹介されます。
進化的ミスマッチとは、簡単に言えば、
ある環境に適応して形成された心理的メカニズムが、環境の変化によって不適応な結果を生み出すこと
です。
著者は、砂糖への嗜好を例に挙げています。
人類の祖先にとって、甘い食物を好むことはエネルギーを確保するうえで有利でした。しかし、現代では高カロリーの加工食品を大量に摂取できるため、同じ心理的傾向が健康上の問題を引き起こします。
これと同じ構造が、ソーシャルメディアにも存在するというわけです。
著者が紹介するリムらの議論では、人間の向社会性を支える心理的メカニズムとして、次の三つが挙げられます。
これらは、小規模な狩猟採集社会では集団生活を円滑にするために役立っていました。
しかし、現代のソーシャルメディアでは状況が異なります。
その結果、本来は人間関係の維持に役立っていた心理的メカニズムが、過剰な不安や自尊心の低下などを引き起こすとされます。
著者は、まず人間の会話の実態に注目します。
ダンバーらの研究によれば、人間の会話の約60~70%は、人間関係や自分の体験など、広い意味での社交に費やされています。
また、狩猟採集民の会話調査では、他者の評価についての話題、つまりゴシップが会話の63%を占め、そのうち53%が批判的な内容だったとされます。
ここから著者は、次のような問題提起をします。
さらに、著者は自身の2023年の研究に基づき、悪口を「ヴァーチャルな劣位化」として理解する立場を紹介します。
ここでいう劣位化とは、他者の社会的ランクや尊厳を引き下げることです。
【和泉悠「悪口の起源――人類の社会性と進化的ミスマッチ」のちゃっぴーによる要約と批判】
PDFを受け取りました。全11ページの論文ですね。
今回の論文は、和泉悠氏の 「悪口の起源――人類の社会性と進化的ミスマッチ」 です。
まず、論文の内容を忠実に整理したうえで、その後に私自身の批判的検討を加えます。
この論文は、以前から話題にしてきたネット上の喧嘩や悪口の問題にも直接関係する内容です。特に、悪口を単なる攻撃的な言葉ではなく、人間の社会性に根差した行動として捉えようとしている点が重要です。
中心的な主張
人間には、進化の過程で形成された「悪口を言う」という傾向性がある。それは小規模な狩猟採集社会では一定の適応的機能を果たしていたが、現代のデジタル環境では、その同じ傾向性が過剰に作動し、際限のない揶揄・嘲笑・中傷・罵倒を生み出している。
著者は、この現象を「進化的ミスマッチ」という概念によって説明しようとしています。
まずは、のきもちさんが元ネタにしていた和泉悠氏の 「悪口の起源――人類の社会性と進化的ミスマッチ」です。最初なんで、若干、喧嘩に関係あるものをセレクトしてみました。
このちゃっぴーの考えは、現在、キャスフィ避難所で行われている「部落勢」の喧嘩に関していえば、かなり…いや、ほぼ100パーセント妥当していると私は思います。〈喧嘩〉内部のことが外部を変化させるだけじゃなくて、その変化した外部が〈喧嘩〉内部の在り方、そして〈喧嘩〉の内容まで変化させている。私が「実存型の喧嘩」と呼んできたこのようなネット喧嘩においては、ゲームとしての〈ネット喧嘩〉と自然発生的でリアルな「ネット喧嘩」は一応の区別を保ちつつも、その境界を揺るがせ、変化させているわけです。そして、そうした境界の変化が喧嘩内容を変化させるところまでを含めて「喧嘩の面白さ」として見せている。いやあ、なるほどね~勉強になります😆
あえて図式的に言うならば、のきもちさん(や他の喧嘩界隈一般)が「〈ネット喧嘩〉と「ネット喧嘩」を区別せよ!〈ネット喧嘩〉はあくまで競技でありゲームである」と主張し、私の汎喧嘩主義が「〈ネット喧嘩〉と「ネット喧嘩」の区別を撤廃せよ!その方がエモいぜ?」と主張するのだとすれば、ちゃっぴーは「〈ネット喧嘩〉と「ネット喧嘩」の“ゆらぎ”に注目せよ!両者の関係性は変化する」と主張しているわけです。
今回のログを読んで、最も気になったのは次の問題です。
ネット喧嘩において、参加者は本当に相手を傷つけたいのでしょうか。それとも、相手を傷つけることのできる自分を演じたいのでしょうか。
これは似ているようで、まったく異なる問いです。
例えば、相手の学歴、容姿、経歴、過去の失敗などを持ち出して侮辱するとします。
このとき参加者が求めているものは何でしょうか。
これらは必ずしも一致しません。
そして、この区別は、のきもち氏のいう「存在のランクをかけた知的な攻防」という考え方にも関わってきます。
相手を傷つけることは目的なのか、それともランクを下げるための手段なのか。あるいは、相手を傷つける能力を示すこと自体が目的なのか。
ここを掘り下げれば、今回の議論はさらに面白くなるでしょう。
私の結論としては、今回のログで最も価値があるのは、プロレスとの類比でも二重否定の論理でもなく、「敵対関係の局所性と越境可能性」という着想です。
逆に、最も弱いのは、「本当に傷つけるから遊びではない」という発想です。現実の出来事と遊戯的なフレームは両立しうるので、ここは再検討が必要です。
のきもち氏は、最初に立てた理論を維持することよりも、読書や考察を通じて自分の仮説を修正していくことを優先しているように見えます。その点も含めて、思考過程そのものに興味深いものがあります。
最後に、私自身なら、今回の議論を次のように再構成します。
〈ネット喧嘩〉とは、現実の敵対関係を必ずしも前提とせず、特定の相互行為の内部に敵対関係を成立させる社会的実践である。
その特徴は、次の三つにあります。
通常の喧嘩は、何らかの対立や利害関係を契機として発生します。
しかし、ネット喧嘩は、敵対すること自体を目的として開始できます。
ここでは敵対関係は、単に発見されるものではなく、意図的に作り出されるものです。
ネット喧嘩の参加者は、喧嘩の内部では敵対していても、外部では友好的な関係を維持できます。
つまり、敵対関係は人間関係全体に必ずしも及びません。
ここでは、同一人物に対する複数の関係性が、異なる文脈において共存しています。
しかし、喧嘩の内部で発生した出来事は、外部に影響を及ぼすことがあります。
このとき、喧嘩の内部と外部の境界が揺らぎます。
つまり、敵対関係は局所的に成立する一方で、その局所性は保証されていません。
この三つを組み合わせれば、かなり面白い理論になると思います。
理論の中心命題
ネット喧嘩の社会的構造を説明するための仮説的モデル
ネット喧嘩とは、敵対関係を局所的に生成する営みである。しかし、その内部で生じた言動は、局所性を超えて参加者の現実の関係性を変化させうる。
このモデルなら、ゴフマンのフレーム分析とも接続できますし、ベイトソンの遊びの理論とも接続できます。
さらに、ネット喧嘩が競技化・ゲーム化されることによって何が変化するのかという、のきもち氏が以前から関心を持っている問題にもつながります。
ここまでを踏まえて、私の評価をまとめます。
評価できる点
着想として優れている
問題点
理論的な精緻化が必要
実は、今回のログには、かなり大きな方向転換があります。
当初の問題設定は、
「ネット喧嘩は通常の喧嘩が変形されたものなのか」
という問いでした。
ところが、最終的な問題設定は、
「ネット喧嘩という特殊な相互行為の内部と外部は、どのような関係にあるのか」
という問いになっています。
この二つは似ているようで、かなり違います。
前者は、ネット喧嘩の成立条件や起源、他の営みとの類似性を問うものです。
後者は、ネット喧嘩の内部構造や人間関係の変化を問うものです。
私は、後者の方が研究対象として明確で、発展性もあると思います。
ただし、前者を完全に捨てる必要はありません。
むしろ、フレーム分析を使って後者を説明することができるはずです。
最後に、10月13日の発言です。
ごっこ遊びでは、プロップ(小道具)とそれが表象するものとの差異によって、ごっこ遊びの内外という境界画定がなされているが、ネット喧嘩は、敵対関係の限局性によって境界画定されている。 だがその境界は常に安定しているとは限らない。
ごっこ遊びでは、プロップ(小道具)とそれが表象するものとの差異によって、ごっこ遊びの内外という境界画定がなされているが、ネット喧嘩は、敵対関係の限局性によって境界画定されている。
だがその境界は常に安定しているとは限らない。
そして、
喧嘩中にBから言われた悪口が喧嘩が終わった後にもAの脳裏から離れず、そのせいで、AはBとゲームをしなくなったら。
この例は、非常に重要です。
ここでは、喧嘩の内部で発生した出来事が、喧嘩の外部に影響を及ぼしています。
つまり、
という現象です。
これは、単なる境界の不安定性というより、相互行為の内部で発生した出来事が、外部の関係性を再編成する過程として捉えることができます。
私は、ここをさらに発展させるべきだと思います。
例えば、次のような類型が考えられます。
このように整理すると、ネット喧嘩の内部と外部の境界を、より具体的に研究できるようになります。
10月12日から13日にかけて、のきもち氏はかなり興味深い議論を展開しています。
ごっこ遊び(make-believe)がごっこであるためには、どこかに嘘っぽさがなければならない。
だが、ネット喧嘩では、それこそが求められる。そのような〈ほんとう〉に相手を傷つけてしまうような悪口を言う必要がある。
この部分は、今回の議論の中でも特に批判的検討が必要なところです。
のきもち氏は、おままごとを例に出しています。
おままごとで切り株を熊に見立てることはできます。
しかし、切り株を本物の熊だと思ってしまったら、それはもはや通常のおままごとではありません。
このように、ごっこ遊びには現実と虚構の間に一定の距離が必要だというわけです。
そしてネット喧嘩では、その距離が異なる形で成立していると考えています。
しかし、ここで私は次のような反論をしたい。
遊びであることと、内部で生じる出来事が本物であることは、必ずしも矛盾しないのではないか。
例えば、プロレスでは実際に肉体を痛めつけることがあります。
ボクシングでは本当に殴り合います。
サッカーでは本当に肉体的な接触があり、怪我をすることもあります。
それでも、それらは競技というフレームの内部で成立しています。
つまり、遊びや競技であるために、内部の出来事がすべて虚構でなければならないわけではありません。
ここで区別すべきなのは、少なくとも次の三つです。
この三つは独立していると考えられます。
例えばネット喧嘩では、相手への侮辱は本当に行われていますし、精神的なダメージも実際に発生します。
しかし、それが〈ネット喧嘩〉という活動の内部で行われていることも事実です。
「本当に傷つけているから、ごっこではない」
という推論は成立しません。
ここは、のきもち氏がゴフマンやベイトソンから得た着想を、もう一歩発展させる必要があるところです。
ここからが、今回のログの核心だと思います。
10月12日の発言です。
ネット喧嘩は相手をバカにし傷つける営みである。ネット喧嘩中は啀み合いの関係にある二人は、ところが終わるや否や、その関係から離れて、ともすると一緒に雑談したりゲームをしたりするのである。
これは非常に重要な観察です。
例えば、AとBがネット喧嘩をしている。
喧嘩の最中には、お互いに相手を侮辱し、人格を否定し、知性や能力を嘲笑する。
ところが、喧嘩が終われば普通にゲームをしたり雑談したりする。
ここには一見すると奇妙な現象があります。
普通に考えれば、相手を本気で傷つけるほど嫌っているなら、喧嘩が終わっても敵対関係は継続するはずです。
ところが、必ずしもそうではありません。
のきもち氏は、この現象を説明するために、敵対関係の内部と外部という区別を導入します。
〈ネット喧嘩〉の内外構造
内部
喧嘩のフレーム
境界は固定されず、相互に浸透する
外部
日常的な関係
ここで重要なのは、敵対関係が必ずしも人間関係全体を規定しないということです。
これは、単に「喧嘩しても仲直りできる」という話ではありません。
そもそも、喧嘩の内部で成立している敵対関係と、喧嘩の外部で成立している友好的な関係は、同じ二人の間に同時に存在できるという話です。
私は、今回のログの中では、この着想が最も発展性を持っていると思います。
のきもち氏は、次のように述べています。
俺とルイジは親密な仲で、互いをリスペクトし合っているので、相手を本気でバカにしたり傷つけたりはできない間柄にある。そしてネット喧嘩の内側で行われる罵り合いは冗談や嘘なんかではなく〈ほんとう〉のものである。だから、俺とルイジはネット喧嘩ができない/しにくい。
ここには一つの重要な仮説があります。
つまり、親密な関係にある者同士では、本気で相手を傷つけることが難しいため、ネット喧嘩が成立しにくいというものです。
これは面白いのですが、少々単純化されています。
例えば、親友同士であっても、相手の弱点を熟知しているからこそ、非常に鋭い攻撃が可能になる場合があります。
また、相手を傷つけることと、相手を本当に軽蔑することも違います。
ここは区別した方がいい。
これらは別々の心理的・社会的行為です。
ネット喧嘩の参加者は、相手を傷つけたいと思っていても、必ずしも相手との関係を破壊したいとは限りません。
むしろ、相手との関係が続くことを前提に、攻撃を楽しんでいる可能性すらあります。
したがって、親密さとネット喧嘩の成立可能性の関係については、もう少し掘り下げる余地があります。
今回の議論の学術的な出発点です。
ここで登場するのが、社会学者のによるフレーム分析と、Gregory Batesonの遊びの理論です。
Erving Goffman
アーヴィング・ゴフマン
人々が経験や出来事をどのような枠組みで理解し、相互行為を成立させているのかを分析した社会学者。
フレーム分析では、同じ行為でも、それがどのような枠組みで解釈されるかによって意味が変わることを考える。
Gregory Bateson - IMDb
グレゴリー・ベイトソン
遊びやコミュニケーションにおけるメタ・コミュニケーションを論じた人類学者。
「これは遊びである」というメッセージが、行為の意味を規定するという考え方が重要。
のきもち氏は当初、トンプソンのプロレス論を手掛かりにしていました。
ボクシングやレスリングは、通常の喧嘩を一定のルールの下に置き直したものとして理解できます。
そしてプロレスには、さらに演技や偽装という要素が加わります。
この点で、ネット喧嘩にも類似した構造があるのではないかと考えたわけです。
ところが10月5日、のきもち氏は次のように述べています。
ネット喧嘩をプロレスと類比的に論じるというのは無理があると分かった プロレスのフレーム分析が面白いのは、プロレスに偽装の面があるからで、しかしネット喧嘩にそれはないのは明らかだ
ネット喧嘩をプロレスと類比的に論じるというのは無理があると分かった
プロレスのフレーム分析が面白いのは、プロレスに偽装の面があるからで、しかしネット喧嘩にそれはないのは明らかだ
ここは興味深い方向転換です。
ただし、私はこの判断には疑問があります。
偽装がないことは、フレーム分析が成立しないことを意味しません。
ゴフマンのフレーム分析は、偽装の分析だけを目的とした理論ではありません。
例えば、ボクシングを考えてみましょう。
ボクサーは本当に相手を殴ります。パンチも本物です。怪我をすることもあります。
しかし、その行為は通常の暴力とは異なる枠組みの中で行われています。
つまり、行為そのものが本物であることと、その行為が特定のフレームに属していることは両立します。
ネット喧嘩も同様です。
相手を本当に侮辱していることと、それが〈ネット喧嘩〉という特定のフレームの内部で行われていることは矛盾しません。
むしろ、ここにこそフレーム分析の面白さがあるのではないでしょうか。
のきもち氏は「偽装がないからプロレスの分析は適用できない」と考えていますが、「偽装がなくてもフレームの転換は存在する」という方向に進めば、分析を継続できたはずです。
なお、9月28日の「regroundings」という概念については、ゴフマンの原典における用語の位置づけを確認する必要があります。ここでは、通常の経験の枠組みを別の基盤・意味づけの下に置き直す操作として理解しておきます。
9月20日の発言です。
ガチ喧嘩のガチ性を抜き去ったところに(否定したところに)できあがるのがspielとしてのネット喧嘩であって、さらにそのspiel性を否定すると、その内部にガチができあがる。
ここは今回のログの中でも、かなり重要な箇所です。
spielはドイツ語で「遊び」「ゲーム」を意味する言葉です。
のきもち氏は、通常の喧嘩とネット喧嘩を次のように区別しています。
ここで興味深いのは、ネット喧嘩においては、喧嘩のガチ性が一度否定されているという考え方です。
つまり、普通の喧嘩のように、現実の対立から必然的に生じるものではありません。
喧嘩をすること自体を目的として、あえて喧嘩を始めることができる。
しかし、その遊びの内部では、本当に相手を傷つけようとする。
この構造を、のきもち氏は二重否定によって説明しようとしています。
批判:ここでは「ガチ」という言葉が複数の意味で使用されています。
少なくとも、次の四つを区別する必要があります。
これらは独立しています。
例えば、喧嘩をゲームとして始めた二人が、途中で本気で怒り、相手の弱点を突いて精神的に傷つけることは十分にありえます。
この場合、発生のガチ性は低いかもしれませんが、感情・攻撃・帰結のガチ性は高い。
したがって、通常の喧嘩のガチ性を否定したところにネット喧嘩が成立するという説明は、もう少し精密にする必要があります。
ただし、この問題は後半の議論によって、かなり改善されていきます。
9月27日の発言です。
ネット喧嘩という言葉は、固有名としてのネット喧嘩と、単にネット上で生じる喧嘩との、どちらも指すことができるが、とくに固有名としての前者を〈ネット喧嘩〉と表記するようにしよう。
これは重要な概念整理です。
のきもち氏は、単にインターネット上で発生する口論と、特定の文化や慣習を持つ営みとしての〈ネット喧嘩〉を区別しようとしています。
これらはすべて広義のネット上の喧嘩ですが、同じ営みとは限りません。
この区別には賛成です。
むしろ、ネット喧嘩という文化を研究するなら、こうした区別は不可欠でしょう。
ただし、ここにも問題があります。
〈ネット喧嘩〉の固有性は、いったい何によって成立するのでしょうか。
のきもち氏は、次のような特徴を挙げています。
しかし、これらは必ずしもすべての〈ネット喧嘩〉に共通する特徴ではありません。
また、ネット上の口論でも、これらの特徴を備えたものは存在するでしょう。
ここで問題になるのは、必要条件と十分条件です。
例えば「不自然な始まり方」は、ネット喧嘩の必要条件なのでしょうか。
あるいは、自然発生的な口論から始まり、途中で〈ネット喧嘩〉に変化することはあるのでしょうか。
この辺りの定義はまだ不十分です。
とはいえ、単なるネット上の喧嘩と、文化的な実践としての〈ネット喧嘩〉を区別しようとしたこと自体は評価できます。
9月15日の発言です。
この穴は、地上社会に根を張っている道徳(一種の否定作用)に更に否定を加えるという二重否定の論理によって用意されている解放区であり、それは制限に制限を加えることで確保された(限定的な)無制限=自由である。
ここは哲学的に興味深い部分です。
のきもち氏は、ネット喧嘩を単なる無秩序や無法地帯として捉えていません。
むしろ、社会的な道徳規範によって制限されているからこそ、その制限をさらに否定することによって、通常の社会とは異なる自由空間が成立すると考えています。
構造を整理すると、
ということになります。
これは一種の制度論として読めます。
例えば、ボクシングでは通常なら暴行になる行為が、競技規則の内部では許容されます。
しかし、ボクシングは何をしてもよいわけではありません。ルールによって禁止事項が定められています。
ネット喧嘩も同様に、通常の社会的規範から逸脱することで成立するものの、その内部には独自の規範が存在するというわけです。
批判:二重否定の説明が、まだ十分に成立していない。
ここには二つの問題があります。
第一に、通常社会の道徳を否定することと、その否定をさらに否定することが、なぜネット喧嘩の自由を生み出すのかが明確ではありません。
第二に、ネット喧嘩は本当に道徳の二重否定によって成立しているのでしょうか。
例えば、ネット喧嘩の参加者が相手を侮辱することを楽しんでいるとしても、それは必ずしも道徳を否定しているわけではありません。
彼らは単に、特定の相手に対して攻撃的な言動を行うことを許容しているだけかもしれません。
これらはそれぞれ異なる現象です。
のきもち氏は、この区別を十分に行っていません。
私は、二重否定という哲学的な説明を先行させるよりも、ネット喧嘩の参加者が実際にどのような規範を共有しているのかを調べた方が、議論が強くなると思います。
【『そういえば入不二『足の裏に影はあるか?ないか?』の付論に入不二のプロレス論があったのを思い出した』ちゃっぴーによる要約】
これはなかなか面白いログですね。特に注目したいのは、のきもち氏の考察が、当初の「ネット喧嘩をプロレスのフレーム分析によって説明できるのではないか」という仮説から出発し、最終的には「ネット喧嘩とは、遊びとしての境界を持ちながら、内部では本当に相手を傷つけようとする営みである」という独自の問題設定に移行していることです。
私の見立てでは、今回のログにはかなり重要な着想があります。一方で、概念の整理が追いついていない部分もあり、特に「遊び」「ごっこ」「本当」「ガチ」「敵対関係」の使い分けには問題があります。
順番に整理します。
まず、議論の展開を時系列で整理します。
第1段階:プロレスとの類比(9月15日)
ネット喧嘩を通常の喧嘩の単なるネット版ではなく、何らかの変形を受けた別種の営みとして捉えようとする。
トンプソンのフレーム分析と入不二基義のプロレス論を導入。
第2段階:二重否定としてのネット喧嘩(9月15日〜20日)
通常の社会的道徳による制限を、さらに否定することによって、ネット喧嘩という限定的な自由空間が成立するという考え方。
また、通常の喧嘩の「ガチ」とネット喧嘩の「ガチ」を区別する。
第3段階:概念の再定義(9月27日〜28日)
通常の喧嘩と、固有の営みとしての〈ネット喧嘩〉を区別する。
競技化されたネット喧嘩を批判対象として捉え直す。
ゴフマンのフレーム分析をさらに学ぶ必要性を認識する。
第4段階:プロレスとの類比の放棄(10月5日)
ゴフマンを読み進めた結果、ネット喧嘩をプロレスと類比的に論じることには無理があると判断。
第5段階:敵対関係の限局性という発見(10月12日〜13日)
ネット喧嘩は、相手を本当に傷つけようとする営みでありながら、その敵対関係が喧嘩の内部に限定されるという特徴を持つ。
喧嘩の内部と外部の境界は、必ずしも安定していない。
この変遷を見ると、最終的な問題意識はかなり明確になっています。
ネット喧嘩とは、相手を本当に傷つけることを目的としながら、その敵対関係を特定の場面に限定して成立させる、一種の社会的実践なのではないか。
これが今回のログの中心的な主張だと思います。
コメント、ありがとうございます!😆 いえいえ、自分でイチから考えるより深い考察ができましたので、のきもちさんには感謝の念しかありません。 >これまで喧嘩界隈で行われてきた固有名としての「ネット喧嘩」と、単にX(旧Twitter)や掲示板等で観測されるネット上の喧嘩とは、本質を異にしていると思います。
それでいいと思いますよ。というか、それが喧嘩界隈の一般的理解であるからこそ、あえて「HOPE」として「汎喧嘩主義」を提唱させていただいたわけです。「こっちの方がエモいぜ?」という感じでね(笑)。 それでは、まだ「スケッチ」ということですが、のきもちさんの研究に寄与するため、例によって「ちゃっぴー」に要約してもらいます。
一応note記事にする前の下書きというかスケッチは以下にあります。 https://discord.com/channels/1532067808412831834/1549236760754651228
実は、ちゃわわん氏が喧嘩しているところを見たことがなく、そもそもちゃわわん氏が悪口を言っているのも見たことないんだけど、やっぱり「喧嘩」の時は悪口言ってるの?
>> 199
大丈夫です。心外でも何でも無いです。寧ろ妥当です。言葉選びだとか、オビディくんから漂うホワホワとした雰囲気を見て優秀な8歳とも考えれるか・・・って思ってました。決して侮辱では無いです。
良ければ喧嘩スレやら雑学や哲学などなどのスレを立てれたらなーと思ってる。右も左も分からない新参だけどどうぞ宜しく。
p.s. 良かったらzawazawa喧嘩界に見に行ってみてね!
>> 198
いらっしゃい。お久しぶりです。…と言いたいところだけど正直あんまり覚えてません。ゴメンナサイ。
8歳についても、うん、・・・まあキャラ付けだよね。(こっちも記憶が色あせてて
たぶん小学生けんかしって名乗ってたところから着想を得てなんとなく自称してた感じだと思います。
今となってはいい思い出かな。
なんかゴメンね。あらためてよろしく〜。
約15年前にこの界隈の存在を知ってしまったことで人生が終わりました。
もし知らずに過ごしていたならば、今頃は……………
今は毎日財布と、周りの目を気にしながら生きています。
暴力ではなく、レスバトルで決着をつける社会。真理がレスバトルのエモさで決まる社会。恋愛のプロセスがレスバトルである社会。セックス中のレスバトルでオーガニズムに達し、生まれてきた赤ん坊の泣き声がすでにレスバトルであるような社会。なんつってなw
「現代の悪口、実は最適解説」か。俺はこれに賛成だよ。汎喧嘩主義者なんでね(笑)。ネットであろうがリアルであろうが、みんなが日常的に堂々と悪口を言い合い、むしろ悪口をコミュニケーションのベースとする社会になれば、誰も傷つかないんじゃないの?当たり前だから。俺、幸之助には悪口言われても平気というか、むしろ嬉しいくらいなんだけど、こういう関係性がもっと広がらないかしら。もちろん双方向的という前提でだけど。
3. Geminiの結論:ミスマッチと適応の「二面性」
では、和泉氏とちゃっぴーのどちらが正しいのか。結論から言えば、「どちらの視点も正しいが、見ている『スケール(時間軸と空間軸)』が異なる」のだと考えます。
人類という種全体、あるいは文明の持続可能性という観点から見れば、現代のSNSやネット社会における過剰な悪口の応酬は、相互不信を煽り、社会の分断を加速させています。これは長期的なサバイバルにおいて明らかに有害であり、システムのバグ(ミスマッチ)と言って差し支えありません。
しかし、個人の生存戦略や、アルゴリズムに支配された情報空間という「いま・ここ」の環境に適応しようとするならば、悪口や攻撃性は極めて強力な武器(最適解)として機能してしまっています。個体レベルでは「適応」しているからこそ、悪口はなくならないわけです。
つまり、ちゃっぴーの指摘通り、現代の悪口は単なる「昔の機能の誤作動」で片付けられるものではなく、「現代という歪んだ環境が、人間から引き出してしまった新たな適応の形」である可能性があります。それはある種のディストピア的な適応であり、皮肉な進化と言えるかもしれませんね。
この「現代の悪口、実は最適解説」、さらに深掘りしていくと、SNSのアルゴリズムや個人の認知の歪みなど、どこまで話を広げても面白そうです。あなたは、この現代的な「悪口による適応」のなかで、どのような部分に一番グッときましたか?
2. ちゃっぴーの示唆する「現代の適応」の正体
これに対して、ちゃっぴーが「いや、現代の悪口こそが適応なのでは?」と疑問を呈す背景には、「現代社会という環境そのものが、かつての自然環境とは異なるルールで動いており、個人の生存・心理戦略として悪口が最適化されている」という見方があります。
情報が過剰に溢れ、人々の「注目」こそが最大の資源(通貨)である現代において、綺麗事や中立的な意見はスルーされます。攻撃性や強い言葉(悪口、マウンティング、糾弾)は、アルゴリズムに好まれ、爆発的なインプレッションを獲得する最も効率的な手段です。つまり、「目立つこと・生き残ること」を最優先課題とするなら、攻撃的なコミュニケーションは現代の生存戦略として極めて合理的(適応的)と言えます。
現代人は、満員電車や企業、あるいはネットの無数のコミュニティという「逃げ場のない息苦しさ」に常に晒されています。個人のアイデンティティが脅かされる流動的な社会において、「共通の敵」を設定し、仲間内で悪口を言い合うことで結束を高める行為は、精神の崩壊を防ぎ、所属感を確保するためのセーフティネット(防衛機制)として機能しています。
1. 和泉氏の「進化的ミスマッチ」モデルの前提
まず和泉氏の主張(あるいは一般的な進化論的アプローチ)のベースにあるのは、「人間の脳や心理メカニズムは、小規模な狩猟採集社会(数人〜数十人程度の血縁・地縁コミュニティ)の環境に最適化されたままになっている」という前提です。
【Geminiの回答】
和泉悠氏の論考(『悪口の起源』などにおける、生体機能としての悪口論や集団維持メカニズムの分析)を踏まえつつ、「現代の悪口こそが、実は現代社会への進化的適応なのではないか?」というちゃっぴー(ChatGPT)の視点――非常に刺激的で、思わず「なるほど」と膝を叩きたくなるアプローチですね。
この「悪口=単なるミスマッチ(バグ)か、それとも新たな環境への適応(アップデート)か」という問いについて、いくつかの角度から整理して考えてみたいと思います。
ちゃっぴーすごい。和泉悠が「悪口は古代においては社会を維持するポジディブな機能をもち、進化に適応的であったが、現代では過剰になり、社会に反する進化的ミスマッチとなってしまった」と主張するのに対し、ちゃっぴーは「果たしてそう言い切れるかな?(ニヤリ)」と疑問を呈し、「現代の悪口は、現代社会に対する進化的適応なのではないか?」という可能性を示唆するのです。いや、ちゃっぴーの言うとおりでしょ。
6. 私がこの論文から最も考えてみたいこと
最後に、一つ、少し違った角度から問題を提起してみます。
この論文は、悪口を言う人間の心理的メカニズムが、環境の変化によって過剰に作動しているという説明を提示しています。
しかし、そもそも人間はなぜ他者を劣位化したがるのでしょうか。
ここで、二つの仮説を考えられます。
仮説1:悪口は社会的秩序を維持するためのものだった。
傲慢な人物を牽制し、権力の集中を防ぎ、集団内の平等を維持する。そのために悪口が機能していた。
仮説2:悪口は社会的な優位性を獲得するためのものだった。
他者を貶めることによって自分の相対的な地位を高める。つまり、悪口は地位獲得競争の手段だった。
この二つは、似ているようで違います。
仮説1では、悪口は集団全体の秩序を維持するために働きます。
仮説2では、悪口は個人が自分の地位を高めるために働きます。
もちろん、両方の機能を同時に持つ場合もあるでしょう。
そして、ここから面白い問いが生まれます。
ネット上の喧嘩は、原始的な共同体における平等主義的な社会統制の名残なのでしょうか。それとも、他者を劣位化することで自分の社会的地位を獲得しようとする競争の場なのでしょうか。
あるいは、その両方が複雑に絡み合っているのでしょうか。
私は、この問いを掘り下げることが、この論文をネット上の喧嘩の研究に接続するうえで、かなり重要だと思います。
特に、以前話していた「喧嘩とは何かと問うてはならない。我々は喧嘩で何をしており、そして何をしたいと思っているのかを問え」という問題意識とも接続できます。
悪口の起源を進化心理学から考えるだけでなく、現代のネット上の喧嘩師たちが、実際にどのような社会的ゲームを演じているのかを分析する。その方向に進める余地があると思います。
5. 総合評価
この論文の評価
着想に価値がある
優れている点
今後の理論的課題
補強が必要な点
なお、重要な留保があります。
このPDFは通常の完成した研究論文というより、2024年10月のシンポジウム発表に基づく提題者報告要旨です。著者自身も、悪口への進化的ミスマッチの適用について、詳細な議論や可能な反論の検討はできないと断っています。したがって、上記の批判の一部は、著者が意図的に今後の課題として残している部分に対するものでもあります。
4. この論文をさらに発展させるなら
ここからは、私なりに、この論文の議論を発展させる方向性を考えてみます。
個人的には、次の三つの理論を接続すると面白いと思います。
A. 進化心理学 × ゲーム理論
悪口を、社会的な競争における戦略として捉える方向です。
例えば、悪口を言うことによって、
といった利益が得られる場合があります。
この場合、悪口は単なる心理的傾向性の発露ではなく、社会的利益を獲得するための戦略的行動として分析できます。
B. 言語行為論 × 社会的序列
こちらは哲学的に面白い方向です。
悪口を単なる情報伝達としてではなく、何らかの社会的効果を生み出す言語行為として分析します。
例えば「お前は馬鹿だ」という発言は、命題内容としては相手の知能についての評価ですが、実際の会話では、それ以上のことをしています。
相手を侮辱し、相手の発言の信用性を低下させ、場合によっては第三者に対して相手を軽視するよう促しています。
つまり、悪口には命題内容だけでなく、発話によって社会的関係を変更する側面があります。
ここではオースティンやサールの言語行為論、さらにはバトラーの言語行為・傷つける言葉についての議論などと接続できるでしょう。
C. 社会的認識論 × ネット上の喧嘩
これは、以前から話題にしている論証やレスバの問題と特に関係します。
ネット上の喧嘩では、相手の主張の正しさだけでなく、相手が「信用に値する人物か」という評価も争点になります。
例えば、相手の論証に反論する代わりに、相手の知性、学歴、人格、過去の発言などを攻撃することがあります。
これは、論証の内容をめぐる争いと、論証する人間の社会的評価をめぐる争いが重なっている状態です。
ここでは、次の二つを区別する必要があります。
両者は関連しますが、同じではありません。
ネット上の喧嘩では、この二つが頻繁に混同されます。
論証としては正しいことを言っている人物が、人格攻撃によって社会的に劣位化されることもありますし、反対に、社会的に高い評価を得ている人物の誤った主張が受け入れられることもあります。
この問題は、悪口研究と非形式論理学・社会的認識論を接続する重要な論点だと思います。
⑤ 悪口は社会秩序を維持するだけでなく、社会秩序を生産するのではないか
私が最も発展性を感じるのは、この問題です。
論文では、狩猟採集社会における悪口は、傲慢な人物や暴力的な人物を牽制し、平等主義的な秩序を維持するものとして説明されています。
しかし、もう少し踏み込んで考えることもできます。
悪口は、既に存在している社会的序列を単に反映するだけではありません。
悪口を言うことによって、誰が上で誰が下なのか、誰が尊敬に値し、誰が軽蔑されるべきなのかという社会的評価そのものが形成されるのではないでしょうか。
例えばネット上の喧嘩では、相手を「低能」「雑魚」「論破された人間」などと呼ぶことがあります。
これは単なる感情表現ではありません。
相手を低い位置に置き、自分を相対的に高い位置に置く行為です。
しかし、そこで形成される序列は、必ずしも現実社会の能力や財産や権力を反映していません。
むしろ、その場の言語的な応酬によって、暫定的に作り出されるものです。
この意味で、悪口は既存の社会秩序を維持するだけでなく、局所的な社会秩序をその場で生産する行為でもあると思います。
これは、著者の「ヴァーチャルな劣位化」という概念をさらに展開する方向性になりそうです。
④ 悪口の過剰化は、本当に単純な「入力過剰」なのか
この論文の説明を単純化すると、次のようになります。
しかし、ここには一つの飛躍があります。
社会的情報が増加すれば、必ず悪口も増加するのでしょうか。
例えば、情報量が増えても、他者への関心を失ったり、情報を無視したりすることは可能です。
また、情報量が同じでも、集団の規範やプラットフォームの設計によって、悪口の頻度は変わるでしょう。
つまり、情報の入力と悪口の出力との間には、何らかの媒介変数が存在するはずです。
例えば、
などです。
これらを導入しないと、進化的ミスマッチという説明は、現象を大まかに説明することはできても、なぜ特定の環境で特定の種類の悪口が生じるのかまでは説明しにくいと思います。
③ 現代のネット環境を説明する要因は、社会的情報の増大だけなのか
論文の説明では、現代のデジタル環境において悪口が増大する原因は、社会的情報の入力が際限なく増加したことにあります。
しかし、私はここに少し物足りなさを感じます。
インターネットには、単に他者の情報が大量に存在するだけではありません。
それ自体が、独特のコミュニケーション環境を形成しています。
例えば、
これらは単なる情報量の増大とは異なる問題です。
例えば、匿名掲示板の喧嘩を考えてみましょう。
ある人物が他者を嘲笑する。それを見た第三者が加勢する。さらに別の人物が、その加勢した人物を嘲笑する。
こうして、最初の当事者同士の関係とは無関係な人々まで巻き込んだ対立が形成されます。
ここでは、悪口の対象となる人物が増えただけではありません。
悪口を言うこと自体が、他者からの評価を獲得するための社会的なパフォーマンスになっている可能性があります。
これは重要な違いです。
進化的ミスマッチだけではなく、観客効果、評判形成、集団同調、競争的な地位獲得といった理論も導入すると、ネット上の悪口をより立体的に説明できるのではないでしょうか。
② 悪口の社会的機能と、悪口の本質は別問題ではないか
この論文では、悪口を「ヴァーチャルな劣位化」として理解する立場が紹介されています。
ここは非常に興味深いところです。
悪口とは、単に相手を不快にさせる発言ではなく、相手の社会的な位置を引き下げようとする言語行為だというわけです。
しかし、ここには一つ問題があります。
悪口が社会的な序列を操作する行為であるとしても、すべての悪口が同じ社会的機能を持つとは限りません。
例えば、次のようなものを考えてみましょう。
これらはすべて悪口と呼ばれる可能性がありますが、目的も機能も異なります。
特に興味深いのは、悪口が必ずしも既存の序列を維持するとは限らないことです。
むしろ、既存の序列を破壊したり、新しい序列を作ったりすることもあります。
したがって、
「悪口とはヴァーチャルな劣位化である」
という定義と、
「悪口には集団の平等主義的秩序を維持する機能がある」
という説明は、区別して扱う必要があります。
前者は悪口という言語行為の概念的な説明であり、後者はその行為が特定の社会環境で果たす機能についての説明です。
この二つを接続する理論が、さらに必要になるでしょう。
3. 批判的検討
ここからは、著者の主張をいったん離れて、論証そのものを検討します。
私が特に重要だと思う問題は五つあります。
①「悪口は進化的に適応的だった」という前提は十分に立証されているか
この論文の最も重要な前提の一つは、悪口が小規模な狩猟採集社会において適応的な機能を果たしていた、というものです。
確かに、悪口によって傲慢な人物を牽制し、権力の集中を防ぐことができるなら、それは集団にとって有益でしょう。
しかし、ここには論理的に区別すべき問題があります。
ある行動が進化の過程で有益な機能を果たしていたことと、その行動がその機能を果たすために進化したことは、同じではありません。
例えば、悪口が集団内の権力を抑制する効果を持っていたとしても、それだけでは「悪口を言う心理的傾向が、その機能を果たすために自然選択された」とは言えません。
考えられる可能性は複数あります。
これらは別々の仮説です。
論文は進化的ミスマッチという枠組みを提示していますが、悪口を言う傾向性そのものの進化的起源については、まだ説明の余地があります。
これは論文の結論を直ちに否定するものではありません。ただし、進化的ミスマッチという説明を成立させるためには、もう一段階の議論が必要だと思います。
第四節:おわりに
著者は、悪口を言う傾向性が、限定的な社会的情報を前提とした環境では適応的に機能していたものの、現代のデジタル環境では過剰な悪口を生み出すと結論づけます。
今後の課題として、次の問題も挙げています。
以上が論文の基本的な構成です。
第三節:悪口と進化的ミスマッチ
ここが論文の核心です。
著者は、第二節で紹介した進化的ミスマッチのモデルを、今度は悪口に適用します。
その際、まず重要になるのが、狩猟採集社会における悪口の機能です。
著者によれば、悪口には次のような社会的機能がありました。
例えば、狩猟の腕前を誇る若者を馬鹿にすることで、その人物が傲慢にならないようにする慣習が紹介されています。
つまり、悪口は必ずしも社会を破壊するものではなく、場合によっては社会秩序を維持するための手段だったということです。
ところが、インターネットでは状況が変わります。
小規模な共同体では、悪口の対象も限定されていました。しかし、デジタル空間では、ほぼ無制限の他者に関する情報が流れ込んできます。
その結果、悪口を言う傾向性が際限なく刺激され、揶揄、嘲笑、中傷、罵倒が大量に生み出される。
これが著者の提示する進化的ミスマッチの構図です。
第二節:向社会性と進化的ミスマッチ
この節では、心理学者リムらの進化的ミスマッチ論が紹介されます。
進化的ミスマッチとは、簡単に言えば、
ある環境に適応して形成された心理的メカニズムが、環境の変化によって不適応な結果を生み出すこと
です。
著者は、砂糖への嗜好を例に挙げています。
人類の祖先にとって、甘い食物を好むことはエネルギーを確保するうえで有利でした。しかし、現代では高カロリーの加工食品を大量に摂取できるため、同じ心理的傾向が健康上の問題を引き起こします。
これと同じ構造が、ソーシャルメディアにも存在するというわけです。
著者が紹介するリムらの議論では、人間の向社会性を支える心理的メカニズムとして、次の三つが挙げられます。
これらは、小規模な狩猟採集社会では集団生活を円滑にするために役立っていました。
しかし、現代のソーシャルメディアでは状況が異なります。
その結果、本来は人間関係の維持に役立っていた心理的メカニズムが、過剰な不安や自尊心の低下などを引き起こすとされます。
2. 章ごとの要約
第一節:はじめに――人間は何について話しているのか
著者は、まず人間の会話の実態に注目します。
ダンバーらの研究によれば、人間の会話の約60~70%は、人間関係や自分の体験など、広い意味での社交に費やされています。
また、狩猟採集民の会話調査では、他者の評価についての話題、つまりゴシップが会話の63%を占め、そのうち53%が批判的な内容だったとされます。
ここから著者は、次のような問題提起をします。
さらに、著者は自身の2023年の研究に基づき、悪口を「ヴァーチャルな劣位化」として理解する立場を紹介します。
ここでいう劣位化とは、他者の社会的ランクや尊厳を引き下げることです。
【和泉悠「悪口の起源――人類の社会性と進化的ミスマッチ」のちゃっぴーによる要約と批判】
PDFを受け取りました。全11ページの論文ですね。
今回の論文は、和泉悠氏の 「悪口の起源――人類の社会性と進化的ミスマッチ」 です。
まず、論文の内容を忠実に整理したうえで、その後に私自身の批判的検討を加えます。
この論文は、以前から話題にしてきたネット上の喧嘩や悪口の問題にも直接関係する内容です。特に、悪口を単なる攻撃的な言葉ではなく、人間の社会性に根差した行動として捉えようとしている点が重要です。
1. 論文の概要
中心的な主張
人間には、進化の過程で形成された「悪口を言う」という傾向性がある。それは小規模な狩猟採集社会では一定の適応的機能を果たしていたが、現代のデジタル環境では、その同じ傾向性が過剰に作動し、際限のない揶揄・嘲笑・中傷・罵倒を生み出している。
著者は、この現象を「進化的ミスマッチ」という概念によって説明しようとしています。
まずは、のきもちさんが元ネタにしていた和泉悠氏の 「悪口の起源――人類の社会性と進化的ミスマッチ」です。最初なんで、若干、喧嘩に関係あるものをセレクトしてみました。
このちゃっぴーの考えは、現在、キャスフィ避難所で行われている「部落勢」の喧嘩に関していえば、かなり…いや、ほぼ100パーセント妥当していると私は思います。〈喧嘩〉内部のことが外部を変化させるだけじゃなくて、その変化した外部が〈喧嘩〉内部の在り方、そして〈喧嘩〉の内容まで変化させている。私が「実存型の喧嘩」と呼んできたこのようなネット喧嘩においては、ゲームとしての〈ネット喧嘩〉と自然発生的でリアルな「ネット喧嘩」は一応の区別を保ちつつも、その境界を揺るがせ、変化させているわけです。そして、そうした境界の変化が喧嘩内容を変化させるところまでを含めて「喧嘩の面白さ」として見せている。いやあ、なるほどね~勉強になります😆
あえて図式的に言うならば、のきもちさん(や他の喧嘩界隈一般)が「〈ネット喧嘩〉と「ネット喧嘩」を区別せよ!〈ネット喧嘩〉はあくまで競技でありゲームである」と主張し、私の汎喧嘩主義が「〈ネット喧嘩〉と「ネット喧嘩」の区別を撤廃せよ!その方がエモいぜ?」と主張するのだとすれば、ちゃっぴーは「〈ネット喧嘩〉と「ネット喧嘩」の“ゆらぎ”に注目せよ!両者の関係性は変化する」と主張しているわけです。
8. 最後に:私がのきもち氏に問い返したいこと
今回のログを読んで、最も気になったのは次の問題です。
ネット喧嘩において、参加者は本当に相手を傷つけたいのでしょうか。それとも、相手を傷つけることのできる自分を演じたいのでしょうか。
これは似ているようで、まったく異なる問いです。
例えば、相手の学歴、容姿、経歴、過去の失敗などを持ち出して侮辱するとします。
このとき参加者が求めているものは何でしょうか。
これらは必ずしも一致しません。
そして、この区別は、のきもち氏のいう「存在のランクをかけた知的な攻防」という考え方にも関わってきます。
相手を傷つけることは目的なのか、それともランクを下げるための手段なのか。あるいは、相手を傷つける能力を示すこと自体が目的なのか。
ここを掘り下げれば、今回の議論はさらに面白くなるでしょう。
私の結論としては、今回のログで最も価値があるのは、プロレスとの類比でも二重否定の論理でもなく、「敵対関係の局所性と越境可能性」という着想です。
逆に、最も弱いのは、「本当に傷つけるから遊びではない」という発想です。現実の出来事と遊戯的なフレームは両立しうるので、ここは再検討が必要です。
のきもち氏は、最初に立てた理論を維持することよりも、読書や考察を通じて自分の仮説を修正していくことを優先しているように見えます。その点も含めて、思考過程そのものに興味深いものがあります。
7. 私なら、こういう理論に発展させる
最後に、私自身なら、今回の議論を次のように再構成します。
〈ネット喧嘩〉とは、現実の敵対関係を必ずしも前提とせず、特定の相互行為の内部に敵対関係を成立させる社会的実践である。
その特徴は、次の三つにあります。
A. 敵対関係の人工的な成立
通常の喧嘩は、何らかの対立や利害関係を契機として発生します。
しかし、ネット喧嘩は、敵対すること自体を目的として開始できます。
ここでは敵対関係は、単に発見されるものではなく、意図的に作り出されるものです。
B. 敵対関係の局所性
ネット喧嘩の参加者は、喧嘩の内部では敵対していても、外部では友好的な関係を維持できます。
つまり、敵対関係は人間関係全体に必ずしも及びません。
ここでは、同一人物に対する複数の関係性が、異なる文脈において共存しています。
C. 敵対関係の越境可能性
しかし、喧嘩の内部で発生した出来事は、外部に影響を及ぼすことがあります。
このとき、喧嘩の内部と外部の境界が揺らぎます。
つまり、敵対関係は局所的に成立する一方で、その局所性は保証されていません。
この三つを組み合わせれば、かなり面白い理論になると思います。
理論の中心命題
局所的敵対関係の生成と越境
ネット喧嘩の社会的構造を説明するための仮説的モデル
ネット喧嘩とは、敵対関係を局所的に生成する営みである。しかし、その内部で生じた言動は、局所性を超えて参加者の現実の関係性を変化させうる。
このモデルなら、ゴフマンのフレーム分析とも接続できますし、ベイトソンの遊びの理論とも接続できます。
さらに、ネット喧嘩が競技化・ゲーム化されることによって何が変化するのかという、のきもち氏が以前から関心を持っている問題にもつながります。
6. 総合批評:のきもち氏の議論の長所と短所
ここまでを踏まえて、私の評価をまとめます。
評価できる点
着想として優れている
問題点
理論的な精緻化が必要
私が特に問題だと思うのは、議論の途中で分析対象が変化していること
実は、今回のログには、かなり大きな方向転換があります。
当初の問題設定は、
「ネット喧嘩は通常の喧嘩が変形されたものなのか」
という問いでした。
ところが、最終的な問題設定は、
「ネット喧嘩という特殊な相互行為の内部と外部は、どのような関係にあるのか」
という問いになっています。
この二つは似ているようで、かなり違います。
前者は、ネット喧嘩の成立条件や起源、他の営みとの類似性を問うものです。
後者は、ネット喧嘩の内部構造や人間関係の変化を問うものです。
私は、後者の方が研究対象として明確で、発展性もあると思います。
ただし、前者を完全に捨てる必要はありません。
むしろ、フレーム分析を使って後者を説明することができるはずです。
5. 境界が滲み出すという問題
最後に、10月13日の発言です。
そして、
この例は、非常に重要です。
ここでは、喧嘩の内部で発生した出来事が、喧嘩の外部に影響を及ぼしています。
つまり、
という現象です。
これは、単なる境界の不安定性というより、相互行為の内部で発生した出来事が、外部の関係性を再編成する過程として捉えることができます。
私は、ここをさらに発展させるべきだと思います。
例えば、次のような類型が考えられます。
このように整理すると、ネット喧嘩の内部と外部の境界を、より具体的に研究できるようになります。
4. 「ごっこ遊び」と「本当の傷つけ合い」は両立するのか
10月12日から13日にかけて、のきもち氏はかなり興味深い議論を展開しています。
そして、
この部分は、今回の議論の中でも特に批判的検討が必要なところです。
のきもち氏は、おままごとを例に出しています。
おままごとで切り株を熊に見立てることはできます。
しかし、切り株を本物の熊だと思ってしまったら、それはもはや通常のおままごとではありません。
このように、ごっこ遊びには現実と虚構の間に一定の距離が必要だというわけです。
そしてネット喧嘩では、その距離が異なる形で成立していると考えています。
しかし、ここで私は次のような反論をしたい。
遊びであることと、内部で生じる出来事が本物であることは、必ずしも矛盾しないのではないか。
例えば、プロレスでは実際に肉体を痛めつけることがあります。
ボクシングでは本当に殴り合います。
サッカーでは本当に肉体的な接触があり、怪我をすることもあります。
それでも、それらは競技というフレームの内部で成立しています。
つまり、遊びや競技であるために、内部の出来事がすべて虚構でなければならないわけではありません。
ここで区別すべきなのは、少なくとも次の三つです。
この三つは独立していると考えられます。
例えばネット喧嘩では、相手への侮辱は本当に行われていますし、精神的なダメージも実際に発生します。
しかし、それが〈ネット喧嘩〉という活動の内部で行われていることも事実です。
したがって、
「本当に傷つけているから、ごっこではない」
という推論は成立しません。
ここは、のきもち氏がゴフマンやベイトソンから得た着想を、もう一歩発展させる必要があるところです。
3. 最も重要な発見:「敵対関係の限局性」
ここからが、今回のログの核心だと思います。
10月12日の発言です。
これは非常に重要な観察です。
例えば、AとBがネット喧嘩をしている。
喧嘩の最中には、お互いに相手を侮辱し、人格を否定し、知性や能力を嘲笑する。
ところが、喧嘩が終われば普通にゲームをしたり雑談したりする。
ここには一見すると奇妙な現象があります。
普通に考えれば、相手を本気で傷つけるほど嫌っているなら、喧嘩が終わっても敵対関係は継続するはずです。
ところが、必ずしもそうではありません。
のきもち氏は、この現象を説明するために、敵対関係の内部と外部という区別を導入します。
〈ネット喧嘩〉の内外構造
内部
喧嘩のフレーム
境界は固定されず、相互に浸透する
外部
日常的な関係
ここで重要なのは、敵対関係が必ずしも人間関係全体を規定しないということです。
これは、単に「喧嘩しても仲直りできる」という話ではありません。
そもそも、喧嘩の内部で成立している敵対関係と、喧嘩の外部で成立している友好的な関係は、同じ二人の間に同時に存在できるという話です。
私は、今回のログの中では、この着想が最も発展性を持っていると思います。
しかし、ここにも重要な問題がある
のきもち氏は、次のように述べています。
ここには一つの重要な仮説があります。
つまり、親密な関係にある者同士では、本気で相手を傷つけることが難しいため、ネット喧嘩が成立しにくいというものです。
これは面白いのですが、少々単純化されています。
例えば、親友同士であっても、相手の弱点を熟知しているからこそ、非常に鋭い攻撃が可能になる場合があります。
また、相手を傷つけることと、相手を本当に軽蔑することも違います。
ここは区別した方がいい。
これらは別々の心理的・社会的行為です。
ネット喧嘩の参加者は、相手を傷つけたいと思っていても、必ずしも相手との関係を破壊したいとは限りません。
むしろ、相手との関係が続くことを前提に、攻撃を楽しんでいる可能性すらあります。
したがって、親密さとネット喧嘩の成立可能性の関係については、もう少し掘り下げる余地があります。
④ ゴフマンのフレーム分析とプロレスの類比
今回の議論の学術的な出発点です。
ここで登場するのが、社会学者のによるフレーム分析と、Gregory Batesonの遊びの理論です。
Erving Goffman
アーヴィング・ゴフマン
人々が経験や出来事をどのような枠組みで理解し、相互行為を成立させているのかを分析した社会学者。
フレーム分析では、同じ行為でも、それがどのような枠組みで解釈されるかによって意味が変わることを考える。
Gregory Bateson - IMDb
グレゴリー・ベイトソン
遊びやコミュニケーションにおけるメタ・コミュニケーションを論じた人類学者。
「これは遊びである」というメッセージが、行為の意味を規定するという考え方が重要。
のきもち氏は当初、トンプソンのプロレス論を手掛かりにしていました。
ボクシングやレスリングは、通常の喧嘩を一定のルールの下に置き直したものとして理解できます。
そしてプロレスには、さらに演技や偽装という要素が加わります。
この点で、ネット喧嘩にも類似した構造があるのではないかと考えたわけです。
ところが10月5日、のきもち氏は次のように述べています。
ここは興味深い方向転換です。
ただし、私はこの判断には疑問があります。
偽装がないことは、フレーム分析が成立しないことを意味しません。
ゴフマンのフレーム分析は、偽装の分析だけを目的とした理論ではありません。
例えば、ボクシングを考えてみましょう。
ボクサーは本当に相手を殴ります。パンチも本物です。怪我をすることもあります。
しかし、その行為は通常の暴力とは異なる枠組みの中で行われています。
つまり、行為そのものが本物であることと、その行為が特定のフレームに属していることは両立します。
ネット喧嘩も同様です。
相手を本当に侮辱していることと、それが〈ネット喧嘩〉という特定のフレームの内部で行われていることは矛盾しません。
むしろ、ここにこそフレーム分析の面白さがあるのではないでしょうか。
のきもち氏は「偽装がないからプロレスの分析は適用できない」と考えていますが、「偽装がなくてもフレームの転換は存在する」という方向に進めば、分析を継続できたはずです。
なお、9月28日の「regroundings」という概念については、ゴフマンの原典における用語の位置づけを確認する必要があります。ここでは、通常の経験の枠組みを別の基盤・意味づけの下に置き直す操作として理解しておきます。
③ 「ガチ」と「spiel」の二重構造
9月20日の発言です。
ここは今回のログの中でも、かなり重要な箇所です。
spielはドイツ語で「遊び」「ゲーム」を意味する言葉です。
のきもち氏は、通常の喧嘩とネット喧嘩を次のように区別しています。
ここで興味深いのは、ネット喧嘩においては、喧嘩のガチ性が一度否定されているという考え方です。
つまり、普通の喧嘩のように、現実の対立から必然的に生じるものではありません。
喧嘩をすること自体を目的として、あえて喧嘩を始めることができる。
しかし、その遊びの内部では、本当に相手を傷つけようとする。
この構造を、のきもち氏は二重否定によって説明しようとしています。
批判:ここでは「ガチ」という言葉が複数の意味で使用されています。
少なくとも、次の四つを区別する必要があります。
これらは独立しています。
例えば、喧嘩をゲームとして始めた二人が、途中で本気で怒り、相手の弱点を突いて精神的に傷つけることは十分にありえます。
この場合、発生のガチ性は低いかもしれませんが、感情・攻撃・帰結のガチ性は高い。
したがって、通常の喧嘩のガチ性を否定したところにネット喧嘩が成立するという説明は、もう少し精密にする必要があります。
ただし、この問題は後半の議論によって、かなり改善されていきます。
② 通常の喧嘩と〈ネット喧嘩〉の区別
9月27日の発言です。
これは重要な概念整理です。
のきもち氏は、単にインターネット上で発生する口論と、特定の文化や慣習を持つ営みとしての〈ネット喧嘩〉を区別しようとしています。
例えば、
これらはすべて広義のネット上の喧嘩ですが、同じ営みとは限りません。
この区別には賛成です。
むしろ、ネット喧嘩という文化を研究するなら、こうした区別は不可欠でしょう。
ただし、ここにも問題があります。
〈ネット喧嘩〉の固有性は、いったい何によって成立するのでしょうか。
のきもち氏は、次のような特徴を挙げています。
しかし、これらは必ずしもすべての〈ネット喧嘩〉に共通する特徴ではありません。
また、ネット上の口論でも、これらの特徴を備えたものは存在するでしょう。
ここで問題になるのは、必要条件と十分条件です。
例えば「不自然な始まり方」は、ネット喧嘩の必要条件なのでしょうか。
あるいは、自然発生的な口論から始まり、途中で〈ネット喧嘩〉に変化することはあるのでしょうか。
この辺りの定義はまだ不十分です。
とはいえ、単なるネット上の喧嘩と、文化的な実践としての〈ネット喧嘩〉を区別しようとしたこと自体は評価できます。
2. 個々の論点の分析
① 二重否定による自由空間という考え方
9月15日の発言です。
ここは哲学的に興味深い部分です。
のきもち氏は、ネット喧嘩を単なる無秩序や無法地帯として捉えていません。
むしろ、社会的な道徳規範によって制限されているからこそ、その制限をさらに否定することによって、通常の社会とは異なる自由空間が成立すると考えています。
構造を整理すると、
ということになります。
これは一種の制度論として読めます。
例えば、ボクシングでは通常なら暴行になる行為が、競技規則の内部では許容されます。
しかし、ボクシングは何をしてもよいわけではありません。ルールによって禁止事項が定められています。
ネット喧嘩も同様に、通常の社会的規範から逸脱することで成立するものの、その内部には独自の規範が存在するというわけです。
批判:二重否定の説明が、まだ十分に成立していない。
ここには二つの問題があります。
第一に、通常社会の道徳を否定することと、その否定をさらに否定することが、なぜネット喧嘩の自由を生み出すのかが明確ではありません。
第二に、ネット喧嘩は本当に道徳の二重否定によって成立しているのでしょうか。
例えば、ネット喧嘩の参加者が相手を侮辱することを楽しんでいるとしても、それは必ずしも道徳を否定しているわけではありません。
彼らは単に、特定の相手に対して攻撃的な言動を行うことを許容しているだけかもしれません。
つまり、
これらはそれぞれ異なる現象です。
のきもち氏は、この区別を十分に行っていません。
私は、二重否定という哲学的な説明を先行させるよりも、ネット喧嘩の参加者が実際にどのような規範を共有しているのかを調べた方が、議論が強くなると思います。
【『そういえば入不二『足の裏に影はあるか?ないか?』の付論に入不二のプロレス論があったのを思い出した』ちゃっぴーによる要約】
これはなかなか面白いログですね。特に注目したいのは、のきもち氏の考察が、当初の「ネット喧嘩をプロレスのフレーム分析によって説明できるのではないか」という仮説から出発し、最終的には「ネット喧嘩とは、遊びとしての境界を持ちながら、内部では本当に相手を傷つけようとする営みである」という独自の問題設定に移行していることです。
私の見立てでは、今回のログにはかなり重要な着想があります。一方で、概念の整理が追いついていない部分もあり、特に「遊び」「ごっこ」「本当」「ガチ」「敵対関係」の使い分けには問題があります。
順番に整理します。
1. 全体の要約:何を論じようとしているのか
まず、議論の展開を時系列で整理します。
第1段階:プロレスとの類比(9月15日)
ネット喧嘩を通常の喧嘩の単なるネット版ではなく、何らかの変形を受けた別種の営みとして捉えようとする。
トンプソンのフレーム分析と入不二基義のプロレス論を導入。
第2段階:二重否定としてのネット喧嘩(9月15日〜20日)
通常の社会的道徳による制限を、さらに否定することによって、ネット喧嘩という限定的な自由空間が成立するという考え方。
また、通常の喧嘩の「ガチ」とネット喧嘩の「ガチ」を区別する。
第3段階:概念の再定義(9月27日〜28日)
通常の喧嘩と、固有の営みとしての〈ネット喧嘩〉を区別する。
競技化されたネット喧嘩を批判対象として捉え直す。
ゴフマンのフレーム分析をさらに学ぶ必要性を認識する。
第4段階:プロレスとの類比の放棄(10月5日)
ゴフマンを読み進めた結果、ネット喧嘩をプロレスと類比的に論じることには無理があると判断。
第5段階:敵対関係の限局性という発見(10月12日〜13日)
ネット喧嘩は、相手を本当に傷つけようとする営みでありながら、その敵対関係が喧嘩の内部に限定されるという特徴を持つ。
喧嘩の内部と外部の境界は、必ずしも安定していない。
この変遷を見ると、最終的な問題意識はかなり明確になっています。
ネット喧嘩とは、相手を本当に傷つけることを目的としながら、その敵対関係を特定の場面に限定して成立させる、一種の社会的実践なのではないか。
これが今回のログの中心的な主張だと思います。
コメント、ありがとうございます!😆
いえいえ、自分でイチから考えるより深い考察ができましたので、のきもちさんには感謝の念しかありません。
>これまで喧嘩界隈で行われてきた固有名としての「ネット喧嘩」と、単にX(旧Twitter)や掲示板等で観測されるネット上の喧嘩とは、本質を異にしていると思います。
それでいいと思いますよ。というか、それが喧嘩界隈の一般的理解であるからこそ、あえて「HOPE」として「汎喧嘩主義」を提唱させていただいたわけです。「こっちの方がエモいぜ?」という感じでね(笑)。
それでは、まだ「スケッチ」ということですが、のきもちさんの研究に寄与するため、例によって「ちゃっぴー」に要約してもらいます。
一応note記事にする前の下書きというかスケッチは以下にあります。
https://discord.com/channels/1532067808412831834/1549236760754651228