katka_yg
katka
通報 ...
今年の始めから野阿梓作品を読み始めて、通読することには決めたけどわたしの進行はあまり早くない。まず一周目ではレビューなど書いたりはしないだろう。ここは、今は現在進捗を書き込むまで。
今、『銀河赤道祭』まだ上巻を開いて読み始めていない。手元に『五月ゲーム』『月光のイドラ』を取り寄せたところ。
わたしはここ最近、テロリストとロマンの話になっていたので折良く喜んでいた。もっともレモン・トロツキーとハサウェイでは比較にちょっと無理がある。あとは、ロウリィとか。
『銀河赤道祭』上巻読了、続いて下巻。
読み始めてすぐ、
これは『子午線の祀り』かな、と思うが、野阿梓作品に作中、先行する何についての言及や示唆が仮にあっても、それがストーリーに重要な意味をもっているかはわからない。上巻を読み終えた時点でもそれとわからない。
のような文を読むとまたそれを連想し、それくらいだ。ベオウルフ号と「赤道祭」のシーンが下巻でどうはたらいてくるのか。
野阿梓作品の作中、出てくるワードにいちいち意味を求めることはできない。カルボナード火山だから『グスコーブドリ』だな、のように勘ぐってみる意味はあんまりなさそう。でも、全部のネタ元を読者が知っているわけでは絶対あるまいから、いっそその出典を後で一覧してみれば興味にはなると思う。
ほかには……「PX」というのは『レンズマン』のようだった。思い出せなければネット検索すればすぐに挙がる。それはそのメモしておけばよく、「野阿梓Wiki」が必要というほどでも。
わたしは今「1950年代頃生まれ」の世代作家を併読しがちで、その1980-90年代の作品を読んだり読み返したりしている傾向のようだが、「作家の違い」は最近ようやく区別が分かってきた感じ。神林長平は前から通読していた。
野阿梓の『花狩人』集から読み始めると同年頃の水見稜作品を連想していたが、その比較だと水見作品の目的不明で空中分解する感じでなく、野阿作品はこの文章だとふわふわと爆発してしまいそうなのに最後まで書き通す粘り強さというか、むしろなぜモチベーションが保ち続けられるのかわからない驚き。それを構成力というのかな。
『銀河赤道祭』読了。なにか巻末解説に本書を半ば放って『兇天使』の解説が書いてある。
わたしはここまで『兇天使』も『銀河赤道祭』も結構熱心に読んできたが、今度『バベルの薫り』を読み始めると最初からもう陳腐感を覚える。文中にルビが倍増したからだろうか……? 最近では、古川日出男作品も同じようなことを思ったのだったか。
ネオ上海の情景のあたりは意識して失笑を控えるのが悩むような。笑いを禁じる、なども、昨年の課題でいまも懸案だったのをまじめに思い出す。
読者によってはそういう惰気が先に入って何を読んでもろくに読めないのだろうというのが、現状、ネット上もどこを見ても思うことだった。和歌なんかやっているのだからわたしはそれが課題だ。
萩尾望都やめるへんめーかーのイラストが大幅に救いになってると考えられるのは、あるな。あらかじめそれで、コミック感かメルヘン感かを暗示しておいてくれる。
朝、目が覚めてから漠然と思い出していてふと気づいたのは、上のことは文章やリアリティがどうと思っていたのではなくて、前作のキノ・グラースと同様わたしは姉川孤悲のようなキャラクターが端から虫が好かないみたいだった。
主人公がそれだと作品世界全体に対してアンチ的な目が向く……。美女で、強くて賢くて何でもできて、権威者にも一歩も退かない、ことに作者の御贔屓のようだからな。キノの場合は、あとから来て自分が主役然としてその場を乗っ取るのがはなはだカチンと来たようだった。
それくらい分かっていればその約束で了解して問題なく読める。わたしは去年、タニス・リー通読と併読するとマキリップのヒロイン達に苛立って仕方なかったものだった。
主人公に都合よく世界が彼女中心に回っているのはいいはず。小説だから当たり前だ。その書かれ方についてで、前回リーのトリビュートではsubversionとかreframeについて触れられていた。わたしはそれが気になっていて、その後も考え続けていた。
野阿梓は、最近わたしの読んでた久美沙織や古川日出男よりも用語はさらに高度だが、物語のロジックはいずれも裏表のない、一本調子だったのではなかろうか……。語彙が問題ではないのか。それは気づいていたように思うけど、この何年かはいつも、読み進めば何でもそこに突き当たるようだ。
リーの話の続き「traditional approach to storytelling」が強みと述べられていて、……ストーリーテリングの手管、手数のこと。
あと、引き続きテレパスについて。いまル・グイン再読では、テレパスが既知の世界でも「テレパシーで嘘をつけるか」が難題になったり、前回『所有せざる人々』では「他者を所有しないこと」のように敷衍されてもいた。
『銀河赤道祭』ではオージュールは〈存在の鏡〉だ、というのがあった。そのテーマもわたしの興味のはずなので、覚えていたい。
作中で教養的な調子にならず、同じ過ちは性懲りもなく何度も何度もくり返すのが面白い、という作品の場合もある。今それが関係ないと思うが。
林譲次君は前作のリュシアンよりか、小林少年のようではないか。
高野君の蘊蓄語り中、「精神の国土回復運動 」について。
富野連想がしてふっと面白かったのと、それとまた別に、物部氏と蘇我氏のところの当時の皇道主義とかの話は、わたしは福田恆存の史劇シリーズの中でも重視しているのでこの箇所は憶えておいていい。
来て一日目の譲次君に求めるものが過大じゃないか…。
しばらくの間、真面目に読んでいたが攻撃開始とタスクフォースの装備を数ページにわたって列ねるところでまた、格好良さより「陳腐さ」が勝って読み進まなくなる感覚に襲われた。
これは不思議なようで――脇で併読しているのが『リーンの翼』で、それはオーラで動く人型巨大ロボの話だ。ナンセンスさはバイストン・ウェルの方がこの比ではないと思う。作中のリアリティ云々より、富野文がなぜ読者の気持ちを牽き続けていられるかには作者自身が「こんなものはナンセンスなのだが――」という自嘲的な語りを、ことあるごとに割り込ませ、読者はその混ぜ返しをバネに「これがリアルだ」という思い込みを勝手に強めている、と思う。
べつに今、野阿作品を下げて踏み台に富野を持ち上げようとしているのではなく、どういう心理が効いてるのかと思うんだった。レモン・トロツキーみたいな最初から稚戯なネーミングで萩尾望都の表紙だとこの「陳腐さ」の感覚をあらかじめ防いでくれると思う。三十年後に作品をフォローするのは、前のめりに共感していくにはたびたび気持ちが難しいことがあるな……。
同時併読していると一方が他方の気分を食う作家作品の関係というのはある、と最近は他でもわかっていた。タニス・リー通読が同ジャンルの併読に向かなすぎるのが悩みで……。このところ野阿作品を開いていると、ハサウェイ等の富野作品をしきりに連想することがあるのと、その間になぜかAMゲームの再開していたのには「捌け口」になる気分上にきっと関係がある。
あとで気づいたが上のところの文章でふと読みが止まり、気持ちが途切れたのは、わたしの場合「HAET弾」。それもミリタリ的な蘊蓄でではなく、この小説当時よりずっと後に、ネットのオタク会話の中でHEATは今どき使わないとか有効かどうかの論議をみて辟易とした覚えがあってそれで水を差したらしい。
でもこれ1991年の作品で、そのたぐいをもしも一々気にしていたら野阿作品読めないはずで、後追いで読んでる読者がアンフェアだ、と。
猟奇慣れ
譲次君の災難がどこまでエスカレートしても読者的には『だよね』と、あらかじめ承知のうえ頷くような、身も蓋もない猟奇慣れの感じは追い払いたい。羞恥もないのかというと羞恥はあるが羞恥は精神侵蝕され……結局羞恥はないのか、とどこかで短絡してしまい、ポルノ感覚は飽和するみたいだ。
山田風太郎などを読んでいるとよくある。とにかく数多い作品群の通読中では「前にもみた」という凌辱シチュエーションを何度もくり返すので、そこの思考停止しないとならない。
恐怖が期待に、嘔吐的嫌悪感が快感に塗り替えられていくまでは、猟奇するだろう。マインドレイプされてウェルカムになってしまうと、はっきりとつまらない。わたしはこういうテーマにあまり踏み込んだことがなく、どこにその創作の塩梅があるのか不明だ。
ヘルマフロディトスタグ
インセストとヘルマフロディトスは一緒にせんでもいいだろう、一度にはどっちかにしろみたいな。
ファンタジーを読んでいるとヘルマフロディトス(的なもの)の題材はたびたび現れ、しばらく前にファファード&グレイ・マウザーのどれかで浮上したときに、そのつど情報収集はしておこうのように言ってそれっきりだった。ブクログのタグに「ヘルマフロディトス」を付しておく……やや長いタグ名だが、これくらいの字数は可。
あと他に最近は、やはりタニス・リーではないかと思うが、どの作品がそうだったかすぐ思い出さず。性転換と両性具有は違うしな。「あのへん……と思うが、すぐにそれと思い出さない」からそのタグを振っておくんだろう?
上のは、
ファファード&グレイ・マウザー3/霧の中の二剣士より「魔道士の仕掛け」(1947)
「アンドロギュノス」と「ヘルマフロディトス」にはニュアンスの違いがあるが、わたしの興味があるのはたぶん後者。でも収集は大雑把にするべきで、タグ名をそちらにする。
孤悲や譲次の主役の心情に添うより、天皇制や神道や数秘学や言語の話が、今わたしにはたびたび興味ある刺激なのだが。
それよりももっと俗に、
のような台詞ひとつだって、わたしには「鼓腹撃壌」のような語についてきっと同様の感触はもっていても、はっきりと表現にならないと思うので読んでいると気持ちがいい。
野阿梓作品のルビ編集
もうひとつ特殊な感想があって、本作は文中に猛烈にルビが多い。1ページ中に3箇所は必ずルビが振ってあるので、目で読まずに声に出して音読してはまず意味・意図が伝わらないだろうなと思えるほどだ。
その趣味の良し悪しは置いとく。いやなら作家を読まなければいい。昨年まで、古川日出男でもそうだったが、これらは90年代から一過性の文芸の流行りで、それが現代の読者に「かっこいい」と思えるかどうかは、どうだっていいこと。
それとはまたべつの煩いがある。意味上、特殊な読みを求めるルビ、銃の名前を軽機 と書くような、ルビがなければ絶対に読めないものは、意味上必要だろう。黄昏 と黄昏 のような場合、どちらも文中で使われ、その箇所の文脈からもどちらとも読めるが著者の意図するところ(音の響きの感じ等)はこう読んでほしいとしてルビが振ってあるところも、要る。「黄昏れる」と書いてあればルビがなくても読者はまず確定して読める。
一般書のコードとして、訓みが常用水準ではないから同社の出版物には一律で振られているレベルのルビというのは、この種の著者にはいらない。「頽 れる」のような読み仮名はもはや目に煩わしい。野阿梓作品の場合には「凝視める」「凝っと」などは常に使われるので、ハヤカワ文庫ではそのルビも振られてない。
ユーザーがすること
読者の文芸慣れ、著者慣れのレベルについては、電子書籍版では最低の水準であらかじめ全読者対象、ビギナー向けとして、その筋のファンには無用なルビもたくさん盛りつけてあるだろう。鬱陶しいのはそれになる。
こうなると、電子化としても市販の電子版を求めるより、紙書籍から自炊して個々の読者に応じたレベルまで剪定することが必要になるのだろうがその作業はとてもたいへんだ。しかもそんな利用はあまり大きな声で言われない。
電子書籍に内蔵の機能として低水準のルビはオン・オフできるようにして売るか、あらかじめルビの表示は必要最低限にしてあっても、電子リーダーではもしも読者が漢字の訓み・意味がわからなければその単語選択すれば辞書が起動するからまず要らないよ。ということが、現代の出版物にはまだまだ認知されていないと思う。その現状で、読者がどういう態度をするかは他人に言ってもな。
そういう編集、読者がページにメモ書き込みや、付箋を貼ったりもしないでくださいというなら、元からそんなややこしい文章の書き方をしなきゃいいんだ。このルビ多用については、それほど印象的や美的な効果があるともわたしは思ってない。「作家の特徴」ではあるから出版社や編集が勝手に廃してはだめだ。
欄外情報のトレンド
文学伝統(古典)や、軍事や宗教等々についてあらかじめコンテキストの諒解や、それなりに知識のあることを求めなくても、現代の読者は、もしも文意が噛みこなせなければその場でネット検索して言葉の最低限の意味だけは拾ってこれるのだし、なにも文中にびっしりと注釈めいたものを書き込んでいなくてもいい。
ルビや割注、文中の余談に情報を埋め込んでも、その注釈の質が高いわけでは必ずしもない。漫画の欄外に注記やコメントを埋め尽くすような一時期のトレンドも連想させる。そのコメントが簡潔で適切かどうかも頭悩ませた上で「当時の気分」を喚び起こさなければならないだろう。
文章が簡潔でないこと――紙上にたくさんの文字を列べることに視覚的な「映像効果」を求めたようなもの――も、読者のほうが普段コンピュータも使っていてその処理に長けてくる二十年後くらいにはほとんど効果がなくなると思う。一過的な流行りで、表現としては当時的なもの。1990年代頃のラノベにはよくあるが、今頃ではもうその時代ではないだろうという理解。