- Gray Traveller
- 468
―12区 裏路地―
依頼人との対面。
場所も、空気の澱みも、壁に落ちる影の角度すら、あの日と寸分違わぬ位置に固定されている。
都市は変化を繰り返すが、後悔だけは同じ座標に留まり続ける――そんな錯覚を覚えさせる一画だった。
剥がれ落ちた壁面を伝う湿気が、肺の奥にまで絡みつく。
陰湿な空気の中、ユンフと依頼人は言葉よりも先に、互いの瞳を投げ合っていた。
測る視線と、見透かす視線。
どちらも、退路を持たない。
「結果から話せ」
依頼人は、かつての癖を呼び戻すように、ありもしない煙草を指に挟む仕草をした。
空を掴む指先は僅かに震え、その動作が過去の自分をなぞるための儀式であることを示しているようにも見えた。
一拍。
彼は短く息を整え、その間に生じた沈黙を飲み干してから答えた。
「見届けてきました」
「……見縊るな……」
「嘘を付くのが下手だな、お前」
「虚偽報告は依頼報酬減額の正当な理由になる」
言葉は鋭いが、声音には怒気よりも倦怠が滲んでいた。
責めるための台詞ではない。
確認のための確認――それを自分自身にも言い聞かせるような響き。
「……」
その言葉が出てきた時、ユンフの石のような無表情の中、
眉が僅かに動きを見せた。
「業務記録の消去」
「こちらは完遂出来ませんでした」
空気が一瞬、止まる。
裏路地の奥で滴る水音だけが、時間の流れを代弁していた。
ローブの影から覗かせた瞳と、その叫ぶ事に疲れた口元には、
端から予想していたかのような乾いた笑みが浮かぶ。
その笑みは、何処か安堵さえ隠そうとしていた。
「特色でも任務は失敗するのか」
「これはハナ協会に申し出を立ててやろう」
「お前に掛かる依頼費や報酬金における配分が下がる事に震えていろ」
足元の水溜まり。
雨が降ったことを示唆するそれは、灰よりも黒い感情の掃き溜めのように濁っている。
依頼人は糸が切れたように首を垂らし、その水面に映った自身の顔を覗き込んだ。
そこにいるのは、憎悪ではなく、自己嫌悪に濡れた人間だった。
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「他の宛てがあるんでしょうか」
「……」
「シ協会に頼むのが最も効率的だ。金は嵩むが、お前に頼むより正確だったろうよ」
「南部シ協会は1課含め、膨大な業務依頼における不在が続いています」
「終止符事務所。標的を間違いなく狙撃出来るはず」
「リーウェイさん達は宗教的拷問組織への張り込みで受注依頼停止済みです」
「ベイヤード事務所。あの荒くれ共なら巣の施設を荒らす事ぐらい余裕だろう」
「チャールズ事務所に所属していた人が中心となった事務所です。その金額は膨大ですよ」
名を挙げるたびに、選択肢は一つずつ潰れていく。
それは可能性の否定ではなく、言い訳の排除だった。
「……」
「さっきからなんだ……」
依頼人の声に、苛立ちと戸惑いが混じる。
「業務として不履行だった依頼です」
「俺に出来る事が、まだある、という提示のつもりでした」
「……透明の軌跡、話に聞く限り、お前はいつもそうだな」
「感情を"業務外"に分類したつもりで、結局すべてを持ち帰る」
「絆されたか?アレは最早人間として生きていくことの出来ない技術の産物だ」
「お前や俺の個人的感情によって延命されていいものではない」
「依頼主がそれを許容するなら、問題はありません」
「馬鹿が。許容するのは俺ではなく、あの子だ」
「……最初から分かっていた」
「お前が、この依頼を完遂できないことを」
「思い出を抱えていくフィクサー」
「記録消去なんて仕事は、最初から相性が最悪だ」
諦観の温度。
「だからこそ、他に出来る事がある」
「俺の事を調査したんでしょう」
「そして、俺がこの依頼を受けて尚、失敗することだって分かっていたはずだ」
「なら、俺が提示する方向標を、貴方は既に分かっているはず」
「……俺にあの場所へ赴けというのか……」
「えぇ」
「俺は後押しするだけ」
「ふざけるな……」
「いいか、俺が望む、俺の出す依頼とは」
「記録の消去だ」
「後悔の消滅ではない」
「俺は、忘れたくて、そして忘れたくない」
「忘れてはならなくて、それでも忘れなければならない」
「俺も、あの子も、都市で生きていくには不器用すぎるから」
「俺達は、死ななくてはならないが故に」
その言葉は、裏路地に落ちる前に、依頼人自身の胸に突き刺さった。
そして――霧の向こうで、
白い廊下の匂いが、静かに立ち上り始める。
都市以外に生を授かったら、俺はどんな人間になれたのだろうか。
時々考える。俺自身が望む俺以外の存在の理想形を。
それは決して都市に存在しない。
俺はこの世界の事しか知らないが、他の世界があったらきっとそこは自由で、平和で、
生きる事がとても素晴らしい世界なんだろうと、勝手に思っていた。
その思考が発生する要因。
それは俺が『疾患維持無変化培養保存技術』を取り扱う研究員だったから。
――俺がまだ工場……研究員だった頃だ。
病院は、白かった。
ただしそれは清潔の白ではない。
光を反射しすぎるがゆえに、影を拒む色だった。
壁も床も天井も、等しく同じ明度で統一され、
人の輪郭だけが異物のように浮き上がる。
「旧個体患者のバイタル異常が常に一定値を示しています」
「この状況を保存して、崩壊アンプルの類似製品を扱います」
「ニゲラ。異常形態を維持した個体の保存領域確保は滞りありませんね」
病室の一画。
意味を成さない俺を示す固有名詞。
ただ仕事内容を割り当てる為だけに存在する、儀式的で不快な言葉。
「技術生産量は既定値に達している」
「既に個体としての在り方は人間の尊厳さえ融解した低俗なものへと変貌済み」
都市における保存技術はU社が所持している現状保存容器。
だが、俺達が扱う保存は物質的な保存ではなく、
概念的保存。病気の進行度の保存を主とした製品製造。
「では重症患者向け重篤治癒アンプルへの保存患者への変更としましょう」
「治癒シーケンスは此処までとし、以降は保存シーケンスへ」
機械的で、情熱も感じない仕事の会話。
エンゲージメントなど存在しない、冷えた職場。
最早忘れたが、この病院で働く俺の上司や同僚との対話は、
常に技術に囚われていた。
「新個体のカルテです」
ある日差し出された一枚の診断書。
「珍しい新個体だな。ここまで健康部位が限られているのでは保存箇所は少ない」
まだまだ幼いその写真には不釣り合いの重篤患者。
「アベリア、この個体の心身ではせいぜい延命がいいところだ」
小さな体躯に圧し掛かった、多くの代償を背負った若き命。
「儂の延命シーケンスで少しでも長く生きてもらおう」
普段通り保存し、技術として昇華する消耗品。
「……いや……」
そのはずだった。そのはずだったが、俺はその時、天秤に手を添えてしまった。
俺は、押し留める事が出来なかった。研究員としての矜持を。
「……この子の症状であれば、以前保存したアンプルの投与で完治を望めるんじゃないか?」
バカ――医師共の集う白い部屋で、俺は技術の見せ処を提示した。
この病院に於いて、届けられる患者は皆、完治を望めない憐れな存在。
だが、そんな存在達を俺達が魂ごと抽出していった結果、
その存在を救えるかもしれないという妙な希望を抱いた。
「ニゲラの意見は珍しいですね」
「では重篤治癒アンプルによる投与実験として」
「治癒シーケンスを組み立てます」
「こちらの患者の完治を目指し、途中結果を保存していきましょう」
ただの気紛れ。
だが、その意見はあっさり通った。
技術の保管は大切だが、同時に証明も俺達研究員にとって必要な行程だった。
それ故に、俺は届けられた命で実験しようとした。
命を護る実験を。
治癒被検者による疾患消滅リサーチ。
開始された日から、研究員の数人は新個体――そう呼ばれた患者の元でアンプル措置を行っていた。
元々虚弱且つ薄汚い技術の副作用を患っていたからか、アンプルによる投与後の治癒速度は決して著しくはなかった。
だが、俺達の技術の結晶は、彼によって証明される。
そう。命を維持するだけではなく、命を紡ぐ技術。
俺はそんな行為を、決して誉れを持って行っていた訳では無く、
今後金になることを理解していたからこそ、この完治を願っていた。
「……」
病室を覗いてみる。
境界線の上に、横たえられていた彼。
その表情は明るく、都市に似合わない純粋な笑みだった。
また別の日のこと、病室、扉が開いていた。
のぞき見なんて、と思ったが、俺は彼の様子を見たくて眼を挟んだ。
「……」
相変わらずの笑みを浮かべていた。
それは善良の笑みだった。
都市には存在しない、貴重な笑み。
俺は、この子が別世界から来た人なんかじゃないかって思うぐらいに、
その笑顔がたまらなく尊かった。
「……」
俺も自然と笑みを浮かべたろう。
ここの連中が、必ず彼を治してくれるだろう。
そう、俺は期待に胸を含まらせて、作業に従事した。
彼が来てから幾数週間が経った。
俺の進める技術生産は滞りなく、旧個体となってしまったあらゆる患者からアンプルを抽出する事。
それは患者の廃棄を意味するものであり、最初は嫌悪塗れのものであったが、今となっては慣れたものだった。
だがここ数日、旧個体の抽出作業がやけに増加した。
普段の管理状況であれば、決してあり得ない数値を叩き出した。
「ニゲラ、ちょっといいですか」
研究員に呼ばれたのは、彼の病室。
多くの研究員が挙って治癒の途中結果の張り出された資料を眺め、
その数値に指を示す。
遠目に見えたその数値の項目は、「再生医療技術項目」
「新個体N381」
「例の治癒被検者ですが」
「再生医療用のアンプルに素晴らしい数値を叩き出しました」
「これは我々の研究がより神秘に達する異例の実験体になります」
目を輝かせる訳でもなく、淡々と事実を述べる同僚。
だがそのアンプルによる数値を示す物は彼の完治への道ではなく
「――」
「――」
「――実験段階のアンプルを、投与したのか……?」
研究対象として良好なモルモットである数値であった。
ベッドに固定された身体。
皮膚の下を走る管。
輸液ポンプの規則正しい音。
その中枢で彼は息をしていた。
生きていた。
俺は確かに、この生命を治す為の提示をしたはずだった。
だが、此処にいる連中は挙ってその生命を研究素材として見る目に変化していた。
「――!」
痛みに耐えながら、笑みを浮かべる少年の姿が見えた。
その笑みは、俺達の本質を理解しながら、自身の在り方を見つけたモルモットの笑みだった。
その日、俺は初めて吐いた。
会議室で贅沢なテーブルを囲みながら、資料を眺める。
「治癒シーケンスにおける完治目的での疾患切除アンプルを投与した瞬間、新個体N381が示した拒絶反応に儂は見覚えがあった」
「再生医療用アンプルを投与したのは、新個体381の感情表現に微かな反応が見えた故」
「儂は研究員としてその在り方を示したまで」
「新個体N381が求めているのは治癒ではなく、存在性」
「なら儂は新個体N381という個体性よりも、当個体を置き去りにした未来への群体の為に研究する」
「……」
「……治癒シーケンスはまだ続行中のはずだ」
「都市的合理性を求めるのもいいが、彼の虚弱な身体を無暗に引っかき回すのは最善ではないだろう」
「痛覚遮断処置はどうだろうか」
「ニゲラらしくない発言ですね」
「ですが、新個体N381の正しき反応が喪われる事は都市的損失としては憚れない」
「対象個体への担当医、次回診察時、治癒シーケンスの段階において痛覚遮断処置を実施してください」
「……」
「見守りましょう」
「我々は、この技術を世界に羽ばたかせるのです」
再生医療はK社の特異点。
一企業が翼と同等の技術を扱うには、その特許さえ上回る効果や、独自性が求められる。
例え翼に成り得なくとも、その土俵で戦うというだけでも莫大な金に繋がる事は明白だった。
なら取るべき行動は決まっている。
新個体N381。
その治癒シーケンスを解除し、保存シーケンスへの移行。
治す事はなく、その身体に秘められた技術を抽出し、その身体に俺達の技術を集約する。
そうすれば、都市に生きる未来の人間の病気を一手で治せるアンプルが登場する。
数値的に見ても確定していた。
新しいアンプルを築き上げて、俺達の企業は間違いなく翼に成り得る技術を有すると。
彼の為に放棄される患者。
そして彼の為に奔走する我々研究員。
今この時、この病院の全ては、彼の為に動いていた。
彼へアンプル投与を施す研究員は、日々の研究結果を資料室に貼っていく。
一枚。
次の日、一枚。
次の日、一枚。一枚。
次の日、一枚。一枚。一枚。
次の日、一枚。一枚。一枚。もう一枚。
……一枚……。
…………一、枚…………。
…………………………………………。
…………一枚…………。
……一枚……。
一枚。
幾日か経った。
「研究速度が速すぎる」
「これでは彼の身が持たない。今からでも治癒シーケンスの解除取り消しを……」
「適正投与値の範疇であり、君が推奨した痛覚遮断処置により個体自身の感情希薄効果は十分に役立っている」
「この研究結果は、君の選択の基で行われた神秘だ、ニゲラ」
「儂は誇らしく思う。君の選択は、間違いではなかった」
「だが――」
「ニゲラ」
「儂らが紡ぐは命ではない」
「礎だ」
「――」
「絆されるな」
「儂らのこの血肉で敷かれた技術こそが」
「都市を救う礎となる」
「――」
「治癒シーケンスは次回訪問時に解除される」
「……ッッ!!!」
「頭を冷やせ」
「その怒号を、あの個体に聞かせるのも数値に反映されるやもしれんが」
「決して碌なことにはならないだろう」
一度さえ言葉を交わしたことのない彼。
ただ、あの笑みが忘れられない。
忘れるべき笑み。
俺は医療技術と保存技術に邁進した一研究員であり、
都市に生きる以上、彼に対して抱くこの拘りは決して必要なものではない。
俺は、バカだと思った連中にさえ押鎮められる程、冷静ではなかった。
俺は、俺は――。
「ニゲラ、個体N381との接触は?」
「必要ない」
「あれほどの逸材……君が治癒シーケンスを推奨したからこそ見付けられたものなのです」
「会ってあげては如何ですか」
「必要ない」
「挨拶すらしていないのでしょう」
「必要ない」
「個体N381」
「本日に治癒シーケンスを打ち切る旨を開示されます」
「なら、必要なのは我々研究員の言葉です」
「必要ない」
「ニゲラ」
「貴方の言葉を、個体N381は必要とするかもしれません」
「必要ない」
「ニゲラ」
「必要ない」
「ニゲラ」
「必要ない」
「ニゲラ」
「必要ない」
「ニゲ――」
「アベリア」
「……」
「わかってくれ」
「……貴方は自分が提示した治癒への道が」
「個体N381を被検体に変えてしまったことを憂いているのですか」
「あの時、俺が治癒シーケンスを提示した」
「馬鹿だった。技術の進歩で人を救うその在り方に憧れてしまったが故に」
「俺は彼の延命の道を断ったんだろ」
「……」
「アベリア、お前にとって、彼はなんだ」
「それを言えば、君の顔が歪む事を私は知っています」
「……」
「不思議ですね。君ほど都市に順応していた人間が」
「こうして一人の患者に心揺さぶられているのは」
「……」
「ニゲラ」
「私達は『疾患維持無変化培養保存技術』という」
「扉であり、旗であり、足枷であり、病気に蝕まれて生きていかねばなりません」
「個体N381を通して、私達は未来へと羽ばたくのです」
「其処には君も居ます」
「君も居てこそ、私達は医者として都市に蔓延る疾病を正していけるのです」
「……」
「個体N381は貴方に会いたがっていました」
「面会は保存シーケンスにおける現状保存アンプル表面浮上効果時間外であれば何時でも可能です」
「個体との対話スケジュールに取り組んできます」
「貴方も来ますか」
「……必要ない……」
「了解しました」
……。
アベリアが彼の病室に入った後だ。
俺はその病室の引き戸に額スレスレになるほど、接近して突っ立っていた。
その時、俺がこの行動を取ったのは彼に会いに来たからではない。
その残酷な提示に立ち会うべきだと思ったから。
だが、それさえ俺は出来ず
《回復の見込みはない》
中から聞こえてきた言葉に、
アベリアが感情を殺して放った言葉に、
俺は大人げなく声を荒げてしまった。
病室から飛び出てきたアベリアに抑えられた。
その最中に見えた、ベッドで横になる彼の素顔を見た時。
「――ッッッ」
「――ごめんよ――」
俺は、何も言えず、ただその日は涙を流すだけだった。
俺の精神状態に異常が見られたとして、
アビストラウマ矯正室に送り込まれた。
記憶はない。
だが覚えていることがあった。
俺のトラウマを克服するために、
必要なものを一つ、多額の資金を叩いて買った事だ。
そしてそのテスト用品として、花を掴んだ事。
幾数カ月という時が流れ、
俺は再び病院に戻ってきた。
「おかえり、ニゲラ」
「……久しぶり、アベリア……」
「……すまなかった……」
「私は歓迎します」
「そしてきっと、『彼』もそうだと思います」
「……」
「……必要ない……」
「……そうですか……」
久々の白衣という名の作業着を着て、以前従事していた保存作業に勤しむ。
だが、既にその保存作業の名目は断たれたようなものであった。
「もう保存患者は随分と少ないんだな」
分かっていたことだった。
彼という個体に新技術が見出された時点で、
他の保存患者は最早ただの消耗品であった事。
そしてあらゆる研究員が彼に従事しているということは、
その分だけ、あの資料室に貼られた枚数が増えているということ。
「……」
都市らしい、損得勘定だった。
「個体N381から抽出した技術の保存作業」
「義手、内臓に直接略動を送る補助器官、有機物型延命装置」
「他にも多くの結果が出た」
「ニゲラ、これからはお前が保存作業の担当をしろ」
「既に旧個体含めた患者の残存は消滅した」
「あの個体だけが、会社を支える柱であり、都市の人々の希望となる」
「個体のことは任せておけ。儂らが最後の時まで共に居る」
「……分かった……」
義肢を流す。
補助器官を梱包する。
延命装置を組み立てる。
彼から出た技術が、医療器具として、保存された証として、
形になっていた。
俺があの時、完治を願ったが故に、この技術は誕生した。
誕生してしまった。
彼の命を賭して、命を支える器具が生まれてしまった。
あの笑顔が脳裏に浮かぶ。
あれは、幸せの笑みだった。
だが、それは偽りだ。
決して、望むものではない。
望んでいるが、そうではない。
その矛盾は、救いではない。
俺は、俺が、
彼に対する選択の後悔を、
治癒シーケンスを進めればいい。
患者の数の成り立っていない病院。
それは既に病院に非ず、工場である。
医者の命を無残に消せば、倫理委員会が黙っていない。
だがここは工場である。
そう、いわば『禁忌』に触れる事は無い。
この工場には、保存容器が存在する。
個人を示す情報書類も個々に存在する。
「薬品棚の整理」
「保存器官技術生産機」
「概念焼却機」
「ニゲラ、話とはなんだ」
「アビストラウマ矯正室に居た頃、俺がこの病院でしでかした事を聞いた」
「そのお詫びをしたいと思って」
「……構わん」
「人として生きる以上、我々は選び、捨てていかねばならない」
「見つけてしまったものを拾い上げる事は、決して人として逸脱したことではない」
「……儂が言う事ではないのかもしれないがな……」
「……それで、なんだ?茶でも振舞ってくれるというのか」
「そんなところだ」
「M社のお土産」
「食べてみてほしい。そんで当ててみてくれ」
「随分とシンプルな形だな。見た目は饅頭だが、どれ……」
「……」
「……」
「……」ドロォ……
「……」
「……ふっ……」
「……K社の崩壊……アンプ……ルか……」
「年季入っているだけすげぇよアンタ……」
「アンタの築いた礎を抹消させることを」
「どうか恨んでくれ」
「あ……ぁ……最期……に……自……分の……拒……絶……反応……を……」
「……」
「――」
「……」
そうしてから、部屋の片隅に隠していた概念焼却機に、職員の情報を詰め込んだ資料を投入した。
……。
燃え上がった瞬間、その人物の形が記憶から塵となっていく。
最早思い出す事は叶わない。だが、何かが在ったことだけは覚えている。
「……」
技術生産を進める。嫌悪はなく、最早慣れ切った作業。
融解しきったその液状を保存器官に嵌めこむ。
そして俺はこの工場でやってきた作業を、いつも通り熟す。
患者という消耗品で、俺は一つの技術を作り、それを投げ捨てた。
事故として処理できる範囲で、
人は、驚くほど簡単に死ぬ。
一日ずつ人を呼び出し、
一人ずつアンプルで融解し、
その都度概念焼却に掛け、全ての人々から記憶を消し、
保存器具として生産して、投げ捨てる。
研究員たちは減っていった。
この行為に果たして意味はあっただろうか。
答えは無い。
何故ならこれは、俺が既に後悔していたことに対して行う、
ただの慰めだったから。
「……ニゲラ……」
「概念焼却機の功績とは言えど、人の記憶は完全には消えません……」
「違和感は残るだろうな」
「在ったはずのもんが消えている」
「だが、何が消えたかは分からない」
「薄らした感覚の中、お前らは彼への研究に夢中で」
「あらゆる患者を見捨てて未来を勝ち取ろうとした」
「技術に犠牲は付き物です……」
「それは君だって分かっていることでしょう……」
「なのに何故こんなことを……」
「アベリア、お前を殺したくない」
「だから頼む、一つだけ聞かせてくれ」
「賢いお前なら応えてくれるはずだ」
「……」
「アベリア、お前にとって、彼はなんだ」
「……」
「……」
「翼の座を狙うための、大きな礎です……」
「……は、はは……」
「……ほら……やっぱり……顔を歪め――」
燃やし、
保存し、
投げ捨てた。
工場には人が居なくなった。
俺が消した。全員。
その時は、最早誰だったかは覚えていなかった。
確かに概念事焼却したはずだったのに……。
……。
……。
俺の選択は、正しかったのだろうか……。
病室に往く勇気さえなかった。
俺は幾日もの間、あの扉が繋がる廊下の遥か彼方で立ち尽くすだけだった。
俺が完治を望んだが故、
彼の善良な笑みを見たが故、
この事実は、後悔として根付いている。
なら、俺は救われていいのだろうか。
俺は彼を救ったのだろうか。
この問いかけ自体に意味などあるだろうか。
俺は都市の未来の一つを潰し、
一人の青年の命さえ護れず、
俺という研究員の矜持さえ溶け切ってしまい、
俺は――。
都市を覆う白、そして黒の世界が訪れた。
白だろうが黒だろうが、俺に圧し掛かる感情に変化はなかった。
L社に近いこの工場は、その振動で大部分が破壊された。
彼の安否が気になったが、その身体が崩壊しているところを観たくなかった。
俺はただ、その病院の隅で息を潜めていた。
都度都度進入してくる輩を目にする。
工場全体を徘徊する組織の連中。
この工場に存在するアンプルを配合して、
俺は融解物質を使って工場に侵入する奴らを悉く蹴散らした。
だが一時、ほんの一時の油断だ。
組織の連中が病室に忍び込んだ時。
俺は今まで入る事の出来なかった病室に飛び込み、
そいつらを消した。
「――」
顔を合わせようとはしなかった。
今でも覚えているあの笑みを彩った顔。
だが、其処に在ったのは……。
空の花瓶を模した悲しい命だったんだ。