唯識では、この外観(客観)から内観(主観)が生じる過程を、次のように説明します。
1.外境(例:小川)が此縁性縁起により現れる —(色)〔外観〕
2.眼識による認識情報が阿頼耶識に薫習される —(受)〔外観から内観への入口〕 (↑これが「色即是空」) (↓ここから「空即是色」)
3.薫習された種子を因として空即是色の縁起が起こる —(想)〔内観〕
4.阿頼耶識の種子が因となって末那識(第七識)を縁に「種子生現行」が起こる —(行)〔内観の深層構造〕
5.第六識(意識)でその現行が具体的に顕現し、これが主観となって再び阿頼耶識に上書き保存される —(識)〔内観の表層〕
このように、順観(外境 → 阿頼耶識への薫習)と逆観(阿頼耶識の種子 → 主観の顕現)が循環することで、私たちの「主観と客観」という二重構造の世界観が成立します。 この全体的なシステムこそが、仏教で説かれる五蘊(色・受・想・行・識)の働きであり、私たちが見ている世界(仮観)は、外観と内観の相互作用によって立ち上がっているのです。
自然界に「小川」があるとしましょう。雨が大地に降り注ぎ、水が集まって川となって流れる――私たちはそれを「小川」と呼びます。しかし「小川」という名称や概念は、人間の言語や認識によって付与されたものであり、幼児や言語を持たない存在が同じ光景を見ても、そこに「小川」という概念はありません。
ここで私たちが見ているのは、雨が降る → 土を伝って水が集まる → 流れができる、という時間的因果の連鎖(此縁性縁起)の結果として現れた姿(色)です。これは外から観察する外観のレベルであり、「色即是空(色はすなわち縁起である)」の感覚です。
では次に、同じ小川を内観の視点から見てみましょう。あなたがその小川を「美しい」と感じるとき、それは水や光の物理現象だけで生じているわけではありません。そこには、次のような条件が関わっています。
・過去の思い出(子供の頃に遊んだ川の記憶) ・季節や天気(春の柔らかな日差し) ・心の状態(穏やかな気分か、悲しい気分か) ・文化的背景(童謡や文学作品に描かれた川のイメージ)
これらの条件が相互に依存し合い、「これは小川だ」「美しい」「懐かしい」といった主観が立ち上がります。もし心が沈んでいれば、小川は寂しく冷たい場所に見えるかもしれません。これが相依性縁起であり、内側からの観察=内観の領域です。
此縁性縁起とは、因と果の必然的な関係を示す縁起のことです。典型的な表現は次の通りです。
「此(これ)があれば彼(あれ)があり、此がなければ彼はない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼も滅する。」
要点を整理すると:
此縁(しえん):直接的・近接的な因や条件。例として「種子」があれば「芽」が生じる関係。
性縁起(しょうえんぎ):因と果の本性上の必然性。種子はその性質として芽を生じさせる力を持つ、という理解。
此縁性縁起の特徴は、事物の変化が時間の経過の中で起こることに依拠している点です。自然現象や物理的変化はまさにこのタイプの縁起で説明できます。言い換えれば、「時間」そのものが重要な条件(縁)となっているのです。
これに対して相依性縁起は、物事の存在や意味が「他との相互依存」によって成り立つことを示します。ここでは時間的な因果よりも、「関係性」そのものが核心です。
例えば、人が「美しい」と感じる花は、花そのものが絶対的に美しいわけではありません。その色合いや形、香り、そしてそれを見る人の経験や感情、文化的背景などが相互に作用する条件の中で、「美しい」という意味が立ち上がります。
同じ花でも、心が沈んでいるときは美しく感じられず、喜びの中ではより輝いて見える――これが相依性縁起のはたらきです。つまり、心の状態や関係性のネットワークによって主観が形成されるのです。
・此縁性縁起:時間軸上の因果の連鎖(客観的な成立)
・相依性縁起:相互依存的な関係性からの成立(主観的な成立)
長い・短い、汚い・綺麗といった区別は、物としてそこに固定的に存在しているわけではありません。これらは人の心が、そのときの条件によって作り出す相対的なものであり、仏教でいう「縁起」のはたらきに属します。ここで、主観で起こる縁起を「相依性縁起」、客観側の時間的な因果関係を「此縁性縁起」と呼び、両者を対比して理解します。
・主観 = 相依性縁起(心のはたらきによって成立する縁起)
・客観 = 此縁性縁起(因と結果が時間軸で現れる縁起)
次に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」のうち、二番目の「不垢不浄」について説明します。ここで言う「不垢不浄」とは、直訳すれば「汚れてもおらず、清らかでもない」という意味です。つまり、「清い」「汚い」といった価値判断は、事物そのものの性質(客観)に備わった絶対的なものではなく、むしろ私たちの心のはたらき(主観)によって生じるものである、ということを示しています。
ここまでの流れをまとめておきます。
龍樹は、このような客観的世界の縁起を「此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)」とし、それとは別に、主観的世界の縁起を「相依性縁起(そうえしょうえんぎ)」として説いています。
つまり──
そして『般若心経』の「不生不滅」は、まさにこの客観の姿が“空である”ということを明らかにしているのです。
この析空の教えは、世界悉檀=俗諦としての真理、つまり物理学や科学でも通用する「客観的な縁起」の視点であり、初期仏教では『阿含経』、アビダルマ仏教では『倶舎論』などに詳しく説かれました。
三種の不の最初の「不生不滅」──これは析空(しゃっくう)にあたります。
よくある誤解として、この句をもって 「仏は永遠不滅である」といった解釈がなされることがあります。 しかし、『般若心経』がここで説いているのは、そうした実体的な永遠性のことではありません。
たとえば、「テーブル」というモノを考えてみましょう。 テーブルは、天板と脚などの部品が組み合わさってできています。 その部品をバラバラにすれば、テーブルという形(色)は消えますが、 部品そのものは消滅していません。
つまり、何かが生まれたわけでも、滅びたわけでもないのです。 因縁が和合すれば「テーブル」という姿が顕れ、因縁が離れればその姿が消える。 このように、「生じた」「滅した」と見るのは、私たちの主観による捉え方であり、 実際には、何も本質的には生じても滅してもいない──これが「析空」の見方です。
龍樹の四悉檀
① 世界悉檀(せかいしつだん) 世間一般の常識や知識(科学・哲学など)と同じ次元で説かれる教え。 縁起によって「ものごとがどう成り立っているか」を解き明かす世間的真理。これは仏教における俗諦(ぞくたい)にあたります。
② 為人悉檀(いにんしつだん) 教化される人の立場に応じて、その人の理解や性質に合わせて説かれる教え。 聞く人によっては、まったく逆の意味にも聞こえる柔軟な方便の教え。
③ 対治悉檀(たいじしつだん) 煩悩(貪・瞋・癡)を取り除くための具体的な対処として説かれる教え。 病に薬を与えるように、それぞれの執着や苦悩に応じて説かれる。
④ 第一義悉檀(だいいちぎしつだん) 仏が悟った究極の真理そのものを、ストレートに説いた教え。 相対や概念を超えた「真実そのもの」が語られる。
『般若心経』の「不生不滅 不垢不浄 不増不減」について
ここで登場する有名な偈文、 「不生不滅・不垢不浄・不増不減」は、仏教における「三種の空(縁起観)」を示しています。
そしてこの三種の「空」は、龍樹の教えの中でさらに体系的に説かれていきます。 龍樹は、仏の説法を4つのレベルに分類しました。これが「四悉檀(ししつだん)」です。
そして『般若心経』には、次のように説かれています。
舎利子 是諸法空相
舎利子よ、この諸法(あらゆる存在)は空の相(すがた)である。
続いて、
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識
すなわち── 生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。 ゆえに「空」の世界においては、色(しき)もなく、受想行識もはたらかない
具体的には──
「色即是空」は、五蘊(色・受・想・行・識)によって捉えられた「客観的に実在する対象」を、姿・形、音や匂い、触感、味わいといった外観から判断することを離れるということ。つまり、見た目による認識のとらわれからの解放を意味します。
一方で「空即是色」は、感情・印象・価値判断といった主観的な認識の枠組み──たとえば「美しい」「汚い」「好ましい」「忌まわしい」といった評価──から離れることを意味しています。すなわち、主観的な固定観念の否定です。
おわかりいただけますでしょうか?
『般若心経』における 「色即是空」は、五蘊による客観的認識から離れた無我の立場を、 「空即是色」は、主観による対象の固定概念を否定する無自性の立場を示しているのです。
ある人が「これは汚い」と感じるモノが、別の人にとっては「美しい」と感じられることがあります。“汚い”とか“美しい”といった感覚は、対象そのものに備わった特性ではなく、それを見る側の主観の中に生じているものなのです。
そして、その主観すら、育ってきた環境、過去の記憶、教育、文化的背景など、さまざまな縁によって形成されたものにすぎません。
要するに、対象には「そのモノをそのモノとして成り立たせている変わらぬ本質」──つまり自性と呼べるようなものは存在しない、ということです。 仏教では、これを無自性と説きます。
この無自性という見方を通して、私たちが主観によって「そう見えている」と思っている対象の姿もまた、空であると観じていく──これが『般若心経』における「空即是色」の教えなのです。
どういうことかと言いますと、
私たちが「綺麗だ」「汚い」などと思っているその対象というのは、実際のところ、私たちのそういった主観的な感情や思考によって成り立っている訳ではありません。
ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの内面における認識作用、すなわち「感じる」「思う」「意志する」「識別する」といった一切の主観的プロセスを意味します。
これらの働きもまた、「色」と同様に空であると説かれるのです。
次に、『般若心経』ではその客観による認識から起こる主観のあり方が説かれます。
受想行識 亦復如是
「受・想・行・識もまた、かくのごとし」と。
したがって、小乗仏教における「空」とは、対象としての実在を、自身の五蘊による主観的な認識から離れて見つめ、そのモノがそのモノとなり得た因果(縁起)によって捉える- -色即是空、さらに、その因果に基づいて正しく理解された対象として見る--空即是色という、正見としての客観認識のあり方として説かれているのです。
このように、無我とは──
色・受・想・行・識の五蘊から離れる(厭離する)ことであると、釈尊は説かれているのです。
『阿含経典』では無我は次のように紹介されております。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。 ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>と知ることができるのである」
〝無我〟は、「自分は本来存在しない」といった説明をよく見かけますが、本来の意味はそれとは異なります。
小空経は小乗仏教で展開された空理ですが、そこでは同時に〝無我〟が説かれております。
この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在は縁起に依って存在しているという「空=縁起」の法理に他なりません。
この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。
『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
ここで説かれる色(しき)とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面即ち**実在**を指しています。
仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。
その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い法理が凝縮されています。
その『般若心経』を、外観(色)と内観(受・想・行・識)の視点から紹介します。
かしこまりました。以下に「法介教学」の視座から、龍樹『中論』と世親『唯識』における「法空」の二層的理解を一貫した論考として整えました。
仏教思想において「法空」は中心的な概念であり、その解釈と実践の方法には、時代や宗派を超えて多様な展開がある。法介教学は、天台教学と法華経義を基盤としつつも、龍樹・世親・智顗といった古典的論者の思想を、現代的文脈に照射し直すことを志向する。その立場から見たとき、「法空」は単なる理論的な教義ではなく、「覚りの智慧」へと至る実践的な二重の観照であると捉えることができる。
本稿では、龍樹『中論』と世親『唯識』における「法空」の理解を、それぞれの観点から明確に対比しつつ、それらがいかに補完的であるかを示し、「分別法執」と「俱生法執」の二段階的克服として統合的に捉える視座を提示する。
龍樹の『中論』では、「一切法空」という視座が中心的に説かれる。これは、すべての法(事物・出来事・対象)に自性がない、すなわちそれ自体として成立するものはない、という立場である。この「空」の思想は、縁起の理に依拠して、対象に対する概念的な分別・固定的把握を打破しようとするものである。
このとき対象となるのは、主に 第六意識 において形成される「知的・概念的な構造」である。すなわち、言語や論理によって「これはこういうものだ」と認識し、把握しようとする心の働きである。このような執着は、**「分別法執」**と呼ばれ、いわば後天的に身についた観念であるため、比較的粗であり、初地に入る菩薩が「法空の観」を実践することで断じられるとされる。
法介教学ではこの段階を「表層自我の脱構築」と捉える。すなわち、学問的知識や社会的価値観などによって形成された“私”の思考パターンや、対世界への態度を吟味・透過し、そこに絶対性を見出さない智慧を育む段階である。
一方、世親(および無著)の『唯識』では、「法空」はより深層的なレベルにおいて語られる。それは、単なる分別によって形成された「知の執着」ではなく、そもそも認識主体そのものが持つ「私」という感覚=末那識に起因する自己中心性への執着に対応する。
この末那識は、常に第八識(阿頼耶識)を対象とし、自らが「我」であるかのように錯覚するという傾向を持つ。この錯覚は、思考によって得たものではなく、過去世より熏習されてきた無始以来のクセであり、**「俱生法執」**と呼ばれる。それは常に「自心の相」を伴って現れ、「私」という感覚を自動的に維持しようとする。
この法執は非常に微細であるため、簡単には断つことができず、菩薩は十地において数々に「勝義の法空観」を修習し、ようやく克服する段階に至る。法介教学においてこの段階は、「深層自我の透過と解体」と位置づけられ、真の意味での仏道完成の核心とされる。
このように、『中論』と『唯識』は一見異なる立場にあるように見えるが、法介教学においてはむしろこれを「二段階の法空観」として捉えることで、実践における一貫した道筋が浮かび上がる。
この二つの法執の克服は、単なる思索ではなく、実践的修行として具体的に段階を踏むべき道である。それは、「分別の智慧」から「無分別の智慧」へと深化する動的過程であり、仏法が単なる知識ではなく、「生の変容」として働くゆえんでもある。
仏教の核心である「空」の理解は、単に「無」とか「否定」として捉えるべきものではなく、「縁起によって成り立つ現象のありよう」を直観的・構造的に洞察する働きである。法介教学は、龍樹と世親という二人の巨匠の思想を、そのまま抽象的に並列させるのではなく、それらを「分別の脱構築」と「根源的執着の透過」という二段階の修道として統合的に捉えることで、現代においてもなお生きた智慧としての仏法を照らし出そうとする。
やってみてくれ。
はい、法介さん、よいご質問です。
ご提示の「中論の法空」と「唯識の法空」を、第六意識(表層自我)と第七末那識(深層自我)のレベルに対応させて読み解く視点は、非常に示唆的です。以下に、その関係性を明確に整理してご解説いたします。
『中論』で龍樹が説く「空」は、縁起を根拠にあらゆる法(現象・対象)に対して自性を否定するという形で説かれます。これは、あらわれに見えている世界や、知的に認識されている世界(いわば“表層”)に対してなされる批判であり、その意味で主に 第六意識 での「分別的把握」に依存している法執を問題とします。
ここでの「法執」とは、言語・概念・知識を通じて把握された対象に対して「それがそうである」と固定的に思い込む意識のはたらきです。これは分別によって後天的に身につくものであり、唯識でいう「分別法執」に相当します。
このような法執は、粗であるため、菩薩が「初地」に入る段階で、「一切法空」の観を通じて滅されるとされます。つまり、『中論』における空観は、分別的な自我意識の執着(第六意識レベル)を脱構築することを目的としているといえます。
一方、世親(および無著)の『唯識』における法空は、単なる認識内容の否定ではなく、むしろその認識の根底にある「自己中心的なあり方=末那識」にまで踏み込みます。 この末那識は、常にアーラヤ識(阿頼耶識)を対象とし、それを「我」と錯覚するクセをもっているとされます。
このレベルの法執は「俱生法執」にあたり、思考や教えによって後から学んだわけではなく、過去世より熏習されてきた、深層的で自動的な執着です。これは第七末那識に根差した、より根本的な「我(のようなもの)」へのこだわりとされます。
この種の微細で根深い法執は、容易には断てず、菩薩が「十地」において数々に「勝義の法空観」を修習する中で、ようやく断たれるとされます。すなわち、唯識における法空は、深層的な自我意識の自動的なはたらきを対象とし、それを空じることで徹底した解脱を目指すものです。
したがって、龍樹の「法空」は主に知的・分別的な固定観念を崩す空観であり、世親の「法空」はそれをさらに深めて、根源的な“我”的感覚(私感)を成り立たせている深層構造を透過していく空観です。
法介教学においてこの二つを連関的に把握するならば、「中論的空観」は仏教的思惟の入口としての〈思惟の脱構築〉であり、「唯識的空観」は〈根源的錯覚の透過〉としての深層的な実践と観照である、という二層的理解が可能になります。
ご希望あれば、これを法介教学の立場からまとめた論考形式に整えることもできます。いかがなさいますか?
ここでの文意を龍樹の『中論』で説く法空と、
世親の『唯識』で説く法空の相違を絡めて解説出来るか?
・龍樹の『中論』で説く法空=第六意識レベル(表層自我)の法執を空じる(初地) ・世親の『唯識』で説く法空=第七末那識レベル(根本自我)の法執を空じる(十地)
かしこまりました。それでは先ほどの調子を保ちながら、「分別の法執」についての現代語訳をお届けします。実体や存在などの外道的な概念を避けつつ、唯識の縁起的な理解を踏まえた語調にて訳出します。
分別法執亦由現在外縁力故。非與身倶。要待邪教及邪分別。然後方起。故名分別。
分別の法執とは、現在の外的な縁(情報や環境など)によって生じるものである。これは生まれつき備わっているものではなく、何らかの誤った教えや、そこから生じた偏った思考・分析によってはじめて生じる。 ゆえに「分別(あとからの分別によるもの)」と名づけられる。
唯在第六意識中有。此亦二種。
この分別の法執は、第六意識(意識的な思考)にのみ現れ、これにも二つの型がある。
一縁邪教所説蘊處界相。起自心相分別計度執爲實法。
ひとつ目は、誤った教えによって示された「蘊・処・界」の構造を対象とし、それをもとに自分の心の中にイメージを起こし、思考によって分別・判断し、それを確かな法のように捉えるものである。
二縁邪教所説自性等相。起自心相。分別計度執爲實法。
もうひとつは、誤った教えによって説かれた「自性」やその類の概念を対象として、それに応じた心の像を起こし、思考を重ねて判断し、それを確かな法として捉えてしまうものである。
此二法執麁故易斷。入初地時觀一切法法空眞如。即能除滅。
これら二つの法執は、あらわに現れやすく比較的粗雑なものであるため、断つのはそれほど難しくない。 菩薩が修行を深めて初地(最初の悟りの段階)に入るとき、あらゆる法を〈空〉として観じ、そこに本来の〈真如〉を見抜くことで、これらの執着は取り除かれる。
これにて、「分別の法執」に関する現代語訳は完了です。
続いて「分別の法執」の現代語訳もこの感じでやってみてくれ。
もちろんです。前回の流れに沿い、「実体」や「存在」といった外道的な語を避け、唯識的縁起観を基盤とした現代語訳を以下に続けてまいります。
爲遣妄執心心所外實有境故。説唯有識。若執唯識眞實有者。如執外境亦是法執。然諸法執略有二種。
心やその働きとは別に、それとは無関係に何かがあるかのように思い込み、外に「対象」があると誤って捉える心を取り除くために、「ただ識(心のはたらき)のみがある」と説かれる。
しかし、仮にその「識」そのものを何か確かなものとして捉えてしまえば、それもまた外境を誤って捉えるのと同じことであり、それ自体が〈法に対する執着〉となる。
このような「法に対する執着」には、大きく分けて二つの型がある。
一者倶生。二者分別。
ひとつは、生まれながらにして自然と生じているもの(倶生)。 もうひとつは、学んだことや思考によってあとから形成されるもの(分別)である。
倶生法執無始時來。虚妄熏習内因力故。恒與身倶。不待邪教及邪分別。任運而轉。故名倶生。
倶生の法執とは、はるか過去から積み重ねられてきた虚妄の習慣(無明の熏習)によって、内から自然と生じるものである。これは特別な教えや思考に依らず、生まれながらにして常に私たちの身とともに働き、習い性のように自動的に機能している。ゆえにこれを「倶生(ともに生ずる)」という。
此復二種。一常相續。在第七識縁第八識起自心相執爲實法。 二有間斷。在第六識縁識所變蘊處界相。或總或別起自心相執爲實法。
この倶生の法執にはさらに二つの形がある。
ひとつは絶え間なく続くもので、第七識(末那識)が第八識(阿頼耶識)を対象とし、自らの心の働きを起こし、それを確かなもののように思い込む。
もうひとつは断続的に起こるもので、第六識(意識)が、認識の中で変化した〈蘊・処・界〉(五蘊・六処・十八界)を、まとめて、あるいは分けて捉え、自らの心の中にそのような像を描いて、これを確かなものとして思い込む。
此二法執細故難斷。後十地中數數修習勝法空觀方能除滅。
この二つの法執は、非常に微細で深く根づいているために、簡単には取り除けない。 菩薩の修行が進み、十地の後半に至って、たびたび深い智慧による〈法空の観〉を修習することで、ようやく断じ尽くされる。
ここまでが「倶生の法執」についての解説になります。続いて「分別の法執」の現代語訳もご希望でしたら、すぐに続きをご用意いたします。
この感じで続きの文も現代語訳してみてくれ。
ご提示の訳文は、全体として非常によくできており、以下の点で高く評価できます:
「実体」や「存在」などの外道的概念を避けている →「真の有りよう」「真実のあり様」など、仏教的縁起観に適した表現で代替しています。
能取・所取という術語の区別が明確 →「主体」「客体」という対語を使っているが、あくまで仮の区別として用いており、過剰な実在視を避けています。
「縁起」による説明を意識している →「因として起こる縁起である」など、唯識的な説明の本質をよく捉えています。
「真実のあり様を示していない」という表現は、やや説明的すぎて、対象(法)に「何かを示す力」があるようにも読まれかねません。
✅ たとえば:
「…真実そのものとはいえない」 「…真の相とは一致しない」 といった表現にすると、より仏教的ニュアンスに沿います。
この箇所は意味としては正確ですが、やや抽象的です。もう少し具体的にして、以下のようにしても良いかもしれません:
「主体が客体そのものに触れて認識しているように見えるが、実際はそうではない」 「客体がそのまま認識に映っているのではなく、主体の心が作り出した像を縁としているにすぎない」
外道や大乗以外の教えが執着するさまざまな法(対象)は、心およびその働きから離れており、真の相とは一致しない。 それら(対境)は「客体」であるという点において、心や心所と同じである。 それ(客体)を捉える側である「主体」の認識作用も、実際にはそのものを直接対象とするわけではない。 主体であるがゆえに、実際には心が生じた像を縁としているのである。 あらゆる心とその働きは、他に依存して起こるがゆえに、 幻のようなものであり、真実そのものとはいえない。
外道や大乗以外の教えが執着するさまざまな法(対象)は、心およびその働きから離れており、真の相とは一致しない。
それら(対境)は「客体」であるという点において、心や心所と同じである。
それ(客体)を捉える側である「主体」の認識作用も、実際にはそのものを直接対象とするわけではない。
主体であるがゆえに、実際には心が生じた像を縁としているのである。
あらゆる心とその働きは、他に依存して起こるがゆえに、
幻のようなものであり、真実そのものとはいえない。
以上のように、基本的にご提示の訳は非常に良質で、仏教的な視座をしっかり保持しています。ほんの数点、表現を慎重に整えることで、さらに説得力のある現代語訳になります。
ご希望があれば、次の文へもこの調子で続けてまいります。
チャッピー、
この部分
次↓のように訳すのはおかしいか?
外道・余乗の執するところの諸法は、 心・心所と異なりて、真の有りようをもたざる性なり。
→ 外道や大乗以外の教えが執着するさまざまな法(対象)は、心および心の働きから離れており、真実のあり様を示していない。
是れ所取なるがゆゑに、心・心所のごとし。
→ それら(対境)は「客体」であるという点において、心や心所と同じである。
能取たる彼の覚もまた彼に縁ぜず。
→ それ(客体)を捉える側である「主体」がそれが何であるかを覚りえる働きも、実のところそれらそのものを対象として起こる縁起ではない。
是れ能取なるがゆゑに、此の覚を縁ずるがごとし。
→ これは「主体」であるがゆえに、その覚り(所取)を因として起こる縁起である(=所縁)。
諸の心・心所は、他に依りて起こるがゆゑに、
→ あらゆる心とそのはたらきは、他の因縁に依って生じるがゆえに、
また幻の事のごとくして、真に実あるにはあらず。
→ 自身が勝手に造り出している幻影であって、真実のあり様ではない。
>> 27の 3 の【現代語訳】が外道義の概念を用いて訳されていて気に入らないなぁ・・・
こちら↓で『成唯識論』巻の第二の解説をやっていきます。 https://zawazawa.jp/gengi/topic/7
ここでは、認識対象(外境)がなければ、自身の内境に相分も見分もおこらないという事が説かれております。
ニコるん?
え?
論外でしょ^^
仏教2年目のリダンは
そこのところまで理解が進んでいないが、
ムーさんはそろそろ気づいてもいい頃じゃないかな^^
【唯識による外観から内観への変換プロセス】
唯識では、この外観(客観)から内観(主観)が生じる過程を、次のように説明します。
1.外境(例:小川)が此縁性縁起により現れる —(色)〔外観〕
2.眼識による認識情報が阿頼耶識に薫習される —(受)〔外観から内観への入口〕
(↑これが「色即是空」)
(↓ここから「空即是色」)
3.薫習された種子を因として空即是色の縁起が起こる —(想)〔内観〕
4.阿頼耶識の種子が因となって末那識(第七識)を縁に「種子生現行」が起こる —(行)〔内観の深層構造〕
5.第六識(意識)でその現行が具体的に顕現し、これが主観となって再び阿頼耶識に上書き保存される —(識)〔内観の表層〕
このように、順観(外境 → 阿頼耶識への薫習)と逆観(阿頼耶識の種子 → 主観の顕現)が循環することで、私たちの「主観と客観」という二重構造の世界観が成立します。
この全体的なシステムこそが、仏教で説かれる五蘊(色・受・想・行・識)の働きであり、私たちが見ている世界(仮観)は、外観と内観の相互作用によって立ち上がっているのです。
【具体例:小川の場合】
自然界に「小川」があるとしましょう。雨が大地に降り注ぎ、水が集まって川となって流れる――私たちはそれを「小川」と呼びます。しかし「小川」という名称や概念は、人間の言語や認識によって付与されたものであり、幼児や言語を持たない存在が同じ光景を見ても、そこに「小川」という概念はありません。
ここで私たちが見ているのは、雨が降る → 土を伝って水が集まる → 流れができる、という時間的因果の連鎖(此縁性縁起)の結果として現れた姿(色)です。これは外から観察する外観のレベルであり、「色即是空(色はすなわち縁起である)」の感覚です。
では次に、同じ小川を内観の視点から見てみましょう。あなたがその小川を「美しい」と感じるとき、それは水や光の物理現象だけで生じているわけではありません。そこには、次のような条件が関わっています。
・過去の思い出(子供の頃に遊んだ川の記憶)
・季節や天気(春の柔らかな日差し)
・心の状態(穏やかな気分か、悲しい気分か)
・文化的背景(童謡や文学作品に描かれた川のイメージ)
これらの条件が相互に依存し合い、「これは小川だ」「美しい」「懐かしい」といった主観が立ち上がります。もし心が沈んでいれば、小川は寂しく冷たい場所に見えるかもしれません。これが相依性縁起であり、内側からの観察=内観の領域です。
【此縁性縁起】
此縁性縁起とは、因と果の必然的な関係を示す縁起のことです。典型的な表現は次の通りです。
「此(これ)があれば彼(あれ)があり、此がなければ彼はない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼も滅する。」
要点を整理すると:
此縁(しえん):直接的・近接的な因や条件。例として「種子」があれば「芽」が生じる関係。
性縁起(しょうえんぎ):因と果の本性上の必然性。種子はその性質として芽を生じさせる力を持つ、という理解。
此縁性縁起の特徴は、事物の変化が時間の経過の中で起こることに依拠している点です。自然現象や物理的変化はまさにこのタイプの縁起で説明できます。言い換えれば、「時間」そのものが重要な条件(縁)となっているのです。
【相依性縁起】
これに対して相依性縁起は、物事の存在や意味が「他との相互依存」によって成り立つことを示します。ここでは時間的な因果よりも、「関係性」そのものが核心です。
例えば、人が「美しい」と感じる花は、花そのものが絶対的に美しいわけではありません。その色合いや形、香り、そしてそれを見る人の経験や感情、文化的背景などが相互に作用する条件の中で、「美しい」という意味が立ち上がります。
同じ花でも、心が沈んでいるときは美しく感じられず、喜びの中ではより輝いて見える――これが相依性縁起のはたらきです。つまり、心の状態や関係性のネットワークによって主観が形成されるのです。
・此縁性縁起:時間軸上の因果の連鎖(客観的な成立)
・相依性縁起:相互依存的な関係性からの成立(主観的な成立)
長い・短い、汚い・綺麗といった区別は、物としてそこに固定的に存在しているわけではありません。これらは人の心が、そのときの条件によって作り出す相対的なものであり、仏教でいう「縁起」のはたらきに属します。ここで、主観で起こる縁起を「相依性縁起」、客観側の時間的な因果関係を「此縁性縁起」と呼び、両者を対比して理解します。
・主観 = 相依性縁起(心のはたらきによって成立する縁起)
・客観 = 此縁性縁起(因と結果が時間軸で現れる縁起)
次に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」のうち、二番目の「不垢不浄」について説明します。ここで言う「不垢不浄」とは、直訳すれば「汚れてもおらず、清らかでもない」という意味です。つまり、「清い」「汚い」といった価値判断は、事物そのものの性質(客観)に備わった絶対的なものではなく、むしろ私たちの心のはたらき(主観)によって生じるものである、ということを示しています。
ここまでの流れをまとめておきます。
龍樹は、このような客観的世界の縁起を「此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)」とし、それとは別に、主観的世界の縁起を「相依性縁起(そうえしょうえんぎ)」として説いています。
つまり──
そして『般若心経』の「不生不滅」は、まさにこの客観の姿が“空である”ということを明らかにしているのです。
この析空の教えは、世界悉檀=俗諦としての真理、つまり物理学や科学でも通用する「客観的な縁起」の視点であり、初期仏教では『阿含経』、アビダルマ仏教では『倶舎論』などに詳しく説かれました。
三種の不の最初の「不生不滅」──これは析空(しゃっくう)にあたります。
よくある誤解として、この句をもって
「仏は永遠不滅である」といった解釈がなされることがあります。
しかし、『般若心経』がここで説いているのは、そうした実体的な永遠性のことではありません。
たとえば、「テーブル」というモノを考えてみましょう。
テーブルは、天板と脚などの部品が組み合わさってできています。
その部品をバラバラにすれば、テーブルという形(色)は消えますが、
部品そのものは消滅していません。
つまり、何かが生まれたわけでも、滅びたわけでもないのです。
因縁が和合すれば「テーブル」という姿が顕れ、因縁が離れればその姿が消える。
このように、「生じた」「滅した」と見るのは、私たちの主観による捉え方であり、
実際には、何も本質的には生じても滅してもいない──これが「析空」の見方です。
龍樹の四悉檀
① 世界悉檀(せかいしつだん)
世間一般の常識や知識(科学・哲学など)と同じ次元で説かれる教え。
縁起によって「ものごとがどう成り立っているか」を解き明かす世間的真理。これは仏教における俗諦(ぞくたい)にあたります。
② 為人悉檀(いにんしつだん)
教化される人の立場に応じて、その人の理解や性質に合わせて説かれる教え。
聞く人によっては、まったく逆の意味にも聞こえる柔軟な方便の教え。
③ 対治悉檀(たいじしつだん)
煩悩(貪・瞋・癡)を取り除くための具体的な対処として説かれる教え。
病に薬を与えるように、それぞれの執着や苦悩に応じて説かれる。
④ 第一義悉檀(だいいちぎしつだん)
仏が悟った究極の真理そのものを、ストレートに説いた教え。
相対や概念を超えた「真実そのもの」が語られる。
『般若心経』の「不生不滅 不垢不浄 不増不減」について
ここで登場する有名な偈文、
「不生不滅・不垢不浄・不増不減」は、仏教における「三種の空(縁起観)」を示しています。
そしてこの三種の「空」は、龍樹の教えの中でさらに体系的に説かれていきます。
龍樹は、仏の説法を4つのレベルに分類しました。これが「四悉檀(ししつだん)」です。
そして『般若心経』には、次のように説かれています。
舎利子 是諸法空相
舎利子よ、この諸法(あらゆる存在)は空の相(すがた)である。
続いて、
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識
すなわち──
生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。
ゆえに「空」の世界においては、色(しき)もなく、受想行識もはたらかない
具体的には──
「色即是空」は、五蘊(色・受・想・行・識)によって捉えられた「客観的に実在する対象」を、姿・形、音や匂い、触感、味わいといった外観から判断することを離れるということ。つまり、見た目による認識のとらわれからの解放を意味します。
一方で「空即是色」は、感情・印象・価値判断といった主観的な認識の枠組み──たとえば「美しい」「汚い」「好ましい」「忌まわしい」といった評価──から離れることを意味しています。すなわち、主観的な固定観念の否定です。
おわかりいただけますでしょうか?
つまり──
『般若心経』における
「色即是空」は、五蘊による客観的認識から離れた無我の立場を、
「空即是色」は、主観による対象の固定概念を否定する無自性の立場を示しているのです。
ある人が「これは汚い」と感じるモノが、別の人にとっては「美しい」と感じられることがあります。“汚い”とか“美しい”といった感覚は、対象そのものに備わった特性ではなく、それを見る側の主観の中に生じているものなのです。
そして、その主観すら、育ってきた環境、過去の記憶、教育、文化的背景など、さまざまな縁によって形成されたものにすぎません。
要するに、対象には「そのモノをそのモノとして成り立たせている変わらぬ本質」──つまり自性と呼べるようなものは存在しない、ということです。
仏教では、これを無自性と説きます。
この無自性という見方を通して、私たちが主観によって「そう見えている」と思っている対象の姿もまた、空であると観じていく──これが『般若心経』における「空即是色」の教えなのです。
どういうことかと言いますと、
私たちが「綺麗だ」「汚い」などと思っているその対象というのは、実際のところ、私たちのそういった主観的な感情や思考によって成り立っている訳ではありません。
ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの内面における認識作用、すなわち「感じる」「思う」「意志する」「識別する」といった一切の主観的プロセスを意味します。
これらの働きもまた、「色」と同様に空であると説かれるのです。
次に、『般若心経』ではその客観による認識から起こる主観のあり方が説かれます。
受想行識 亦復如是
「受・想・行・識もまた、かくのごとし」と。
したがって、小乗仏教における「空」とは、対象としての実在を、自身の五蘊による主観的な認識から離れて見つめ、そのモノがそのモノとなり得た因果(縁起)によって捉える- -色即是空、さらに、その因果に基づいて正しく理解された対象として見る--空即是色という、正見としての客観認識のあり方として説かれているのです。
このように、無我とは──
色・受・想・行・識の五蘊から離れる(厭離する)ことであると、釈尊は説かれているのです。
『阿含経典』では無我は次のように紹介されております。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>と知ることができるのである」
〝無我〟は、「自分は本来存在しない」といった説明をよく見かけますが、本来の意味はそれとは異なります。
小空経は小乗仏教で展開された空理ですが、そこでは同時に〝無我〟が説かれております。
この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在は縁起に依って存在しているという「空=縁起」の法理に他なりません。
この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。
『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
ここで説かれる色(しき)とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面即ち**実在**を指しています。
仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。
その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い法理が凝縮されています。
その『般若心経』を、外観(色)と内観(受・想・行・識)の視点から紹介します。
かしこまりました。以下に「法介教学」の視座から、龍樹『中論』と世親『唯識』における「法空」の二層的理解を一貫した論考として整えました。
法介教学における「法空」の二層的解釈──『中論』と『唯識』を架橋する視座
はじめに
仏教思想において「法空」は中心的な概念であり、その解釈と実践の方法には、時代や宗派を超えて多様な展開がある。法介教学は、天台教学と法華経義を基盤としつつも、龍樹・世親・智顗といった古典的論者の思想を、現代的文脈に照射し直すことを志向する。その立場から見たとき、「法空」は単なる理論的な教義ではなく、「覚りの智慧」へと至る実践的な二重の観照であると捉えることができる。
本稿では、龍樹『中論』と世親『唯識』における「法空」の理解を、それぞれの観点から明確に対比しつつ、それらがいかに補完的であるかを示し、「分別法執」と「俱生法執」の二段階的克服として統合的に捉える視座を提示する。
一.龍樹『中論』における法空──分別の脱構築
龍樹の『中論』では、「一切法空」という視座が中心的に説かれる。これは、すべての法(事物・出来事・対象)に自性がない、すなわちそれ自体として成立するものはない、という立場である。この「空」の思想は、縁起の理に依拠して、対象に対する概念的な分別・固定的把握を打破しようとするものである。
このとき対象となるのは、主に 第六意識 において形成される「知的・概念的な構造」である。すなわち、言語や論理によって「これはこういうものだ」と認識し、把握しようとする心の働きである。このような執着は、**「分別法執」**と呼ばれ、いわば後天的に身についた観念であるため、比較的粗であり、初地に入る菩薩が「法空の観」を実践することで断じられるとされる。
法介教学ではこの段階を「表層自我の脱構築」と捉える。すなわち、学問的知識や社会的価値観などによって形成された“私”の思考パターンや、対世界への態度を吟味・透過し、そこに絶対性を見出さない智慧を育む段階である。
二.世親『唯識』における法空──根本執着の透過
一方、世親(および無著)の『唯識』では、「法空」はより深層的なレベルにおいて語られる。それは、単なる分別によって形成された「知の執着」ではなく、そもそも認識主体そのものが持つ「私」という感覚=末那識に起因する自己中心性への執着に対応する。
この末那識は、常に第八識(阿頼耶識)を対象とし、自らが「我」であるかのように錯覚するという傾向を持つ。この錯覚は、思考によって得たものではなく、過去世より熏習されてきた無始以来のクセであり、**「俱生法執」**と呼ばれる。それは常に「自心の相」を伴って現れ、「私」という感覚を自動的に維持しようとする。
この法執は非常に微細であるため、簡単には断つことができず、菩薩は十地において数々に「勝義の法空観」を修習し、ようやく克服する段階に至る。法介教学においてこの段階は、「深層自我の透過と解体」と位置づけられ、真の意味での仏道完成の核心とされる。
三.法介教学の立場からの統合的理解
このように、『中論』と『唯識』は一見異なる立場にあるように見えるが、法介教学においてはむしろこれを「二段階の法空観」として捉えることで、実践における一貫した道筋が浮かび上がる。
この二つの法執の克服は、単なる思索ではなく、実践的修行として具体的に段階を踏むべき道である。それは、「分別の智慧」から「無分別の智慧」へと深化する動的過程であり、仏法が単なる知識ではなく、「生の変容」として働くゆえんでもある。
結語
仏教の核心である「空」の理解は、単に「無」とか「否定」として捉えるべきものではなく、「縁起によって成り立つ現象のありよう」を直観的・構造的に洞察する働きである。法介教学は、龍樹と世親という二人の巨匠の思想を、そのまま抽象的に並列させるのではなく、それらを「分別の脱構築」と「根源的執着の透過」という二段階の修道として統合的に捉えることで、現代においてもなお生きた智慧としての仏法を照らし出そうとする。
やってみてくれ。
はい、法介さん、よいご質問です。
ご提示の「中論の法空」と「唯識の法空」を、第六意識(表層自我)と第七末那識(深層自我)のレベルに対応させて読み解く視点は、非常に示唆的です。以下に、その関係性を明確に整理してご解説いたします。
■ 龍樹の『中論』における法空
◉ 空観の対象と方法:
『中論』で龍樹が説く「空」は、縁起を根拠にあらゆる法(現象・対象)に対して自性を否定するという形で説かれます。これは、あらわれに見えている世界や、知的に認識されている世界(いわば“表層”)に対してなされる批判であり、その意味で主に 第六意識 での「分別的把握」に依存している法執を問題とします。
◉ 断じられる法執:
ここでの「法執」とは、言語・概念・知識を通じて把握された対象に対して「それがそうである」と固定的に思い込む意識のはたらきです。これは分別によって後天的に身につくものであり、唯識でいう「分別法執」に相当します。
◉ 到達する修行段階:
このような法執は、粗であるため、菩薩が「初地」に入る段階で、「一切法空」の観を通じて滅されるとされます。つまり、『中論』における空観は、分別的な自我意識の執着(第六意識レベル)を脱構築することを目的としているといえます。
■ 世親の『唯識』における法空
◉ 空観の対象と方法:
一方、世親(および無著)の『唯識』における法空は、単なる認識内容の否定ではなく、むしろその認識の根底にある「自己中心的なあり方=末那識」にまで踏み込みます。
この末那識は、常にアーラヤ識(阿頼耶識)を対象とし、それを「我」と錯覚するクセをもっているとされます。
◉ 断じられる法執:
このレベルの法執は「俱生法執」にあたり、思考や教えによって後から学んだわけではなく、過去世より熏習されてきた、深層的で自動的な執着です。これは第七末那識に根差した、より根本的な「我(のようなもの)」へのこだわりとされます。
◉ 到達する修行段階:
この種の微細で根深い法執は、容易には断てず、菩薩が「十地」において数々に「勝義の法空観」を修習する中で、ようやく断たれるとされます。すなわち、唯識における法空は、深層的な自我意識の自動的なはたらきを対象とし、それを空じることで徹底した解脱を目指すものです。
■ 対比まとめ(簡表)
■ 総括的理解
したがって、龍樹の「法空」は主に知的・分別的な固定観念を崩す空観であり、世親の「法空」はそれをさらに深めて、根源的な“我”的感覚(私感)を成り立たせている深層構造を透過していく空観です。
法介教学においてこの二つを連関的に把握するならば、「中論的空観」は仏教的思惟の入口としての〈思惟の脱構築〉であり、「唯識的空観」は〈根源的錯覚の透過〉としての深層的な実践と観照である、という二層的理解が可能になります。
ご希望あれば、これを法介教学の立場からまとめた論考形式に整えることもできます。いかがなさいますか?
ここでの文意を龍樹の『中論』で説く法空と、
世親の『唯識』で説く法空の相違を絡めて解説出来るか?
・龍樹の『中論』で説く法空=第六意識レベル(表層自我)の法執を空じる(初地)
・世親の『唯識』で説く法空=第七末那識レベル(根本自我)の法執を空じる(十地)
かしこまりました。それでは先ほどの調子を保ちながら、「分別の法執」についての現代語訳をお届けします。実体や存在などの外道的な概念を避けつつ、唯識の縁起的な理解を踏まえた語調にて訳出します。
原文:
分別法執亦由現在外縁力故。非與身倶。要待邪教及邪分別。然後方起。故名分別。
現代語訳:
分別の法執とは、現在の外的な縁(情報や環境など)によって生じるものである。これは生まれつき備わっているものではなく、何らかの誤った教えや、そこから生じた偏った思考・分析によってはじめて生じる。
ゆえに「分別(あとからの分別によるもの)」と名づけられる。
原文:
唯在第六意識中有。此亦二種。
現代語訳:
この分別の法執は、第六意識(意識的な思考)にのみ現れ、これにも二つの型がある。
原文:
一縁邪教所説蘊處界相。起自心相分別計度執爲實法。
現代語訳:
ひとつ目は、誤った教えによって示された「蘊・処・界」の構造を対象とし、それをもとに自分の心の中にイメージを起こし、思考によって分別・判断し、それを確かな法のように捉えるものである。
原文:
二縁邪教所説自性等相。起自心相。分別計度執爲實法。
現代語訳:
もうひとつは、誤った教えによって説かれた「自性」やその類の概念を対象として、それに応じた心の像を起こし、思考を重ねて判断し、それを確かな法として捉えてしまうものである。
原文:
此二法執麁故易斷。入初地時觀一切法法空眞如。即能除滅。
現代語訳:
これら二つの法執は、あらわに現れやすく比較的粗雑なものであるため、断つのはそれほど難しくない。
菩薩が修行を深めて初地(最初の悟りの段階)に入るとき、あらゆる法を〈空〉として観じ、そこに本来の〈真如〉を見抜くことで、これらの執着は取り除かれる。
これにて、「分別の法執」に関する現代語訳は完了です。
続いて「分別の法執」の現代語訳もこの感じでやってみてくれ。
もちろんです。前回の流れに沿い、「実体」や「存在」といった外道的な語を避け、唯識的縁起観を基盤とした現代語訳を以下に続けてまいります。
原文:
爲遣妄執心心所外實有境故。説唯有識。若執唯識眞實有者。如執外境亦是法執。然諸法執略有二種。
現代語訳:
心やその働きとは別に、それとは無関係に何かがあるかのように思い込み、外に「対象」があると誤って捉える心を取り除くために、「ただ識(心のはたらき)のみがある」と説かれる。
しかし、仮にその「識」そのものを何か確かなものとして捉えてしまえば、それもまた外境を誤って捉えるのと同じことであり、それ自体が〈法に対する執着〉となる。
このような「法に対する執着」には、大きく分けて二つの型がある。
原文:
一者倶生。二者分別。
現代語訳:
ひとつは、生まれながらにして自然と生じているもの(倶生)。
もうひとつは、学んだことや思考によってあとから形成されるもの(分別)である。
原文:
倶生法執無始時來。虚妄熏習内因力故。恒與身倶。不待邪教及邪分別。任運而轉。故名倶生。
現代語訳:
倶生の法執とは、はるか過去から積み重ねられてきた虚妄の習慣(無明の熏習)によって、内から自然と生じるものである。これは特別な教えや思考に依らず、生まれながらにして常に私たちの身とともに働き、習い性のように自動的に機能している。ゆえにこれを「倶生(ともに生ずる)」という。
原文:
此復二種。一常相續。在第七識縁第八識起自心相執爲實法。
二有間斷。在第六識縁識所變蘊處界相。或總或別起自心相執爲實法。
現代語訳:
この倶生の法執にはさらに二つの形がある。
ひとつは絶え間なく続くもので、第七識(末那識)が第八識(阿頼耶識)を対象とし、自らの心の働きを起こし、それを確かなもののように思い込む。
もうひとつは断続的に起こるもので、第六識(意識)が、認識の中で変化した〈蘊・処・界〉(五蘊・六処・十八界)を、まとめて、あるいは分けて捉え、自らの心の中にそのような像を描いて、これを確かなものとして思い込む。
原文:
此二法執細故難斷。後十地中數數修習勝法空觀方能除滅。
現代語訳:
この二つの法執は、非常に微細で深く根づいているために、簡単には取り除けない。
菩薩の修行が進み、十地の後半に至って、たびたび深い智慧による〈法空の観〉を修習することで、ようやく断じ尽くされる。
ここまでが「倶生の法執」についての解説になります。続いて「分別の法執」の現代語訳もご希望でしたら、すぐに続きをご用意いたします。
この感じで続きの文も現代語訳してみてくれ。
ご提示の訳文は、全体として非常によくできており、以下の点で高く評価できます:
✅ 優れている点
「実体」や「存在」などの外道的概念を避けている
→「真の有りよう」「真実のあり様」など、仏教的縁起観に適した表現で代替しています。
能取・所取という術語の区別が明確
→「主体」「客体」という対語を使っているが、あくまで仮の区別として用いており、過剰な実在視を避けています。
「縁起」による説明を意識している
→「因として起こる縁起である」など、唯識的な説明の本質をよく捉えています。
🔍 ただし、若干見直せるとすれば以下の2点です:
❶「真実のあり様を示していない」
「真実のあり様を示していない」という表現は、やや説明的すぎて、対象(法)に「何かを示す力」があるようにも読まれかねません。
✅ たとえば:
❷「それらそのものを対象として起こる縁起ではない」
この箇所は意味としては正確ですが、やや抽象的です。もう少し具体的にして、以下のようにしても良いかもしれません:
✅ たとえば:
🔁 全体の訳(若干調整案を含む):
以上のように、基本的にご提示の訳は非常に良質で、仏教的な視座をしっかり保持しています。ほんの数点、表現を慎重に整えることで、さらに説得力のある現代語訳になります。
ご希望があれば、次の文へもこの調子で続けてまいります。
チャッピー、
この部分
次↓のように訳すのはおかしいか?
外道・余乗の執するところの諸法は、
心・心所と異なりて、真の有りようをもたざる性なり。
→ 外道や大乗以外の教えが執着するさまざまな法(対象)は、心および心の働きから離れており、真実のあり様を示していない。
是れ所取なるがゆゑに、心・心所のごとし。
→ それら(対境)は「客体」であるという点において、心や心所と同じである。
能取たる彼の覚もまた彼に縁ぜず。
→ それ(客体)を捉える側である「主体」がそれが何であるかを覚りえる働きも、実のところそれらそのものを対象として起こる縁起ではない。
是れ能取なるがゆゑに、此の覚を縁ずるがごとし。
→ これは「主体」であるがゆえに、その覚り(所取)を因として起こる縁起である(=所縁)。
諸の心・心所は、他に依りて起こるがゆゑに、
→ あらゆる心とそのはたらきは、他の因縁に依って生じるがゆえに、
また幻の事のごとくして、真に実あるにはあらず。
→ 自身が勝手に造り出している幻影であって、真実のあり様ではない。
>> 27の 3 の【現代語訳】が外道義の概念を用いて訳されていて気に入らないなぁ・・・
こちら↓で『成唯識論』巻の第二の解説をやっていきます。
https://zawazawa.jp/gengi/topic/7
ここでは、認識対象(外境)がなければ、自身の内境に相分も見分もおこらないという事が説かれております。
ニコるん?
え?
論外でしょ^^
仏教2年目のリダンは
そこのところまで理解が進んでいないが、
ムーさんはそろそろ気づいてもいい頃じゃないかな^^