かとかの記憶

リーンの翼 / 367

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katka_yg 2026/01/08 (木) 09:19:31 修正

逆撫でするがおさめる

バランモン会話の続き。

「そのような状況があったにしても、それこそ、世界の理、リーンの翼が許容した事象でありましょう」
 それは、バランモンのムツトウの言葉である。
 その言われ方があまりにも蓋然的な表現なので、当事者にすれば神経を逆撫でされる感触があるのだが、それも腹におさめるしかない。

蓋然的な言い方」については既に再三再四。『リーンの翼』に入ってからも幾度か挙げたはず。

富野的な用法の中では、「蓋然的な言い方は無責任で腹立つ」「大人の世慣れた、空疎な言葉使い」という否定的な意味だけでなく、「気持ちを逆撫ではしても承服するしかない」「ウソは言わなくて済むものね?」という有用さを暗に語っていて、富野監督自身がよく使っている。

『何々、という言い方があります』と言われるたび人をイラッとさせるが、否定はさせないという使い方をする。独善ではないかと思えるのだが…等。

ウソを言うためというより、それをもってファンタジーやマジックも成立させる技術にしようというテーマが窺われる。小説作品を読んでいると年代的な(年齢的な)変化は微妙だが、若い頃(三〇代)にはまだそれほど表に現れてこない。積極的に用途を考えているのは90年代になってからのよう。

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  • 368

    現実世界ではたとえば、「われわれ民族の方針の正しさは神の認めるところで、このたびの侵略が神意にもとることなら神罰があったはず。現に罰されないのは、神が認めているからだ」とか、優生学などを語るときには問題がある。

    神意は実証はされないが反抗を塞ぐにはその言い口が見え透いていても実際に通用している言い方だ。その論法を批判する人が少数いたとしても、ネットの大勢はそれを通説、事実、として信じるのは今も同じ。

  • 369
    katka_yg 2026/01/08 (木) 09:42:52 修正 >> 367

    「バランモンのあいだには、燐気雲という経文がありましてな。雲にのった賢者は世を平らかにするという教えを説いたものです。そのなかに現れる乗り物をオーラ舟というのです。……

    これはまるでフロー教の教義。「空を飛ぶこと」と「世界平和」がなぜ関係あるのか? 宇宙に行くため?

    バランモンの話はわたしにはとくに面白いみたいだけど、あまりかかわると横道に逸れる、はまるので、程々に切り上げるのがよいみたい。信じてはいけません! と言う。

  • 371
    katka_yg 2026/01/08 (木) 23:00:50 修正 >> 367

    使う人次第です

    この上まだバランモン話が面白いが――

    迫水の去ったシッキェの地は急速に軍事国家になりつつあり、その尖兵たる兵器オーラバトラーなるものの第一号の名が「サッコウ」、という話は当の迫水の気分を甚だ害するのだけど、ムツトウ師は聖戦士伝説が大衆に訴える影響力、社会心理についての知見を披瀝するだけで迫水本人への悪意はないらしい。そこで『皮肉なものですなあ』のように言わない。

    「……!!」と迫水は思うが、堪えて技術的な関心に話を戻しつつ、

    「強獣の組成を組み合わせたオーラバトラーなら、性格的に武闘を好むのですか?」
    「いや、オーラバトラーといっても道具ですから、つかう人間次第です」
    そんなバランモンでも性悪説を想定することはないのだから、癇の虫をおさめるしかない。

    「道具は使う人次第」という台詞は、これは昔ながらのアニメファンの身に馴染んでもいる信条で、善人には正しく使われるが悪人に渡れば悪事に使われる、鉄人28号みたいなつもりでモビルスーツ(軍用兵器)も語るのはおよそ平成頃まで通じてガノタにも引き継いでいる。たとえばホワイトドールもそれで語ろうとするので……『∀』はロランの無条件の善良さありきのストーリーだ、と後から言う人もいたりする。

    Gレコまで下るとそれにはもう躊躇う。この『リーンの翼』は2010年。

    372
    katka_yg 2026/01/08 (木) 23:07:50 修正 >> 371

    バランモンはあくまで知識者としての楽観的態度。人間は集団になれば相争うもの(性悪説)であるから、オーラマシンのような強力なものは、使う者が善人であれ悪人であれ、誰が使おうといずれは戦争の道具になるのでは……とは思ってもみない(想定しない)。あえてシニカルな言い方をするつもりもなかった。

     しかし、生体力というものは生存競争にうちかつための衝動のはずなのだから、本来的に闘争的なのではないかというのが、迫水の実感ではある。

    ――ではある。
    (本来的に闘争的なのだ とは言っていない)