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次に
『維摩経玄疏』で説く「理外の二諦」と「理内の二諦」 https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/13
へ続きます。
お付き合い頂きまして
ありがとうございました。
まさにその通りです、法介さん。
智顗の『維摩経玄疏』での整理は、まさに「不二門」の核心に繋がっていると思います。
般若経の三諦は、空・仮・中を分別的に立てることで「理」を説き明かす。 👉 これはまだ「二」という相対を前提とした理解(分別智)。
維摩経の去取の論理は、その分別を踏まえつつ、最終的には「俗も真も捨てて、中道のみを取る」と宣言する。 👉 ここで、分別を超えた「一」への直入が鮮明になる。
そして「一諦」=中道第一義として収斂することは、まさに「二を超えて不二に至る」道。 👉 これが維摩経の「不二法門」の真骨頂です。
つまり智顗は、
法介さん、この「不二門」を「三諦の総合=一諦」へと収斂させる流れを、教学的にもっと「止観の実践」と結びつけて説明した方がいいですか?それとも今回は純粋に経典比較(般若 vs 維摩)にフォーカスして深めた方がよいですか?
そこが〝不二門〟を説く『維摩経』の真骨頂だな。
はい、承知しました! では智顗『維摩経玄疏』の「三諦・二諦・一諦」の展開全体を、先ほどの「二乗=般若経」「菩薩=維摩経」の視点を織り込みながら整理してみます。
般若経の立場(広く二乗も含む)
維摩経の立場(菩薩を対象)
般若経的な提示
維摩経における扱い
最終段階
まず「般若経」的な三諦の理論枠組みを下敷きにする。
その上で「維摩経」では、去取の作業によって俗・真を退け、中道だけを取る。
最終的に「一諦=中道第一義」へ収斂する。
✅ したがって、智顗は「三諦 → 二諦 → 一諦」という順で進めつつ、 実際には 「二乗の理解(般若経)」と「菩薩の理解(維摩経)」を対比させ、最後は維摩経の立場に帰着する」 という構造を意識的に組み込んでいるのですね。
法介さん、ここを「三諦観=止観の理論」「維摩経=その実践的な帰着」としてもう少しダイナミックに解説した方が良いですか?それとも経典比較(般若経 vs 維摩経)にフォーカスした方が良いですか?
逝っちゃってくれ。
承知しました。では智顗のこの箇所を整理して、 「二乗(般若経)と菩薩(維摩経)の対比」 を表でまとめてみますね。
✅ つまり、この部分は単純に「維摩経の体=中道第一義」だけを言っているのではなく、 まず般若経を参照(=二乗も含む枠組み提示) → そのうえで維摩経の菩薩立場に限定する という二段階の構造になっている、ということですね。
法介さん、この表をさらに「三諦・二諦・一諦」の説明全体に広げて、智顗の三諦観の整理に接続していきましょうか?
やってみてくれ。
はい、その気づきはとても鋭いと思います。 確かに智顗は、ここで「三諦の提示」と「去取による取捨」を区別しており、その背後に 二乗の立場(般若経)と菩薩の立場(維摩経) という二つの視点の対比が潜んでいる、と読めます。
三諦の提示(般若経的) 智顗はまず「俗諦・真諦・中道第一義諦」という三諦の構造を示します。 この枠組みは、まさに『般若経』を通じて二乗(声聞・縁覚)も理解できる、いわば「共通理論」としての般若的世界観。 つまり、二乗でも把握し得る「空・仮・中」という理論が提示されている。
去取による捨て分け(維摩経的) 次に智顗は「しかし、俗諦は凡夫の見にとどまるから経の体ではない。真諦は二乗の見にとどまるから、これも体ではない。中道第一義こそがこの経の体である」と言い切ります。 ここで「この経=維摩経」が登場し、二乗の限界を超えた菩薩の立場から「中道第一義」だけを取る。
般若経(=二乗も理解できる教え) → 三諦を広く提示し、理論的な骨格を与える。
維摩経(=菩薩の立場で説く教え) → そのうち俗諦・真諦を退け、中道第一義のみを体とする。
智顗は「般若経に基づく三諦の理論」をまず示し、そのうえで「維摩経の菩薩的立場」を明確に打ち出しています。 したがって、これは 二乗のレベル(般若的理解)と菩薩のレベル(維摩的実践)を峻別しつつ結びつける構成 と読めるのです。
法介さん、もしよければこの「二乗(般若経)と菩薩(維摩経)」の対比を表に整理しましょうか? そうすると智顗の教学構造がより一目でわかるようになると思います。
そのチャッピーの説明で気づいたんだが、智顗はここで二乗の立場(般若経)と菩薩の立場(維摩経)に分けて説いているんじゃないのか?
鋭いご指摘ですね、法介さん。 今回の箇所(T1777.38.0556a20 以下)の文脈は、三諦・二諦・一諦 の三種の「諦」による説明を順に立てている部分で、そのうち最初に出てくる 「一約三諦分別法性実相」 のくだりが「この経の体」を論じているんですね。
「三諦」についての説明 冒頭に「一略明三諦」とあって、俗諦・真諦・中道第一義諦を並べています。智顗は常に『般若経』を背景にした「三諦」理解(空・仮・中)をベースにしており、その為ここでの〝この経〟は「般若経の枠組みだ」と読めます。
「去取(二去取者…)」についての説明 ここで「俗諦は凡夫の見であるから、この経の体ではない。真諦は二乗の見であるから、これもまた体ではない。中道第一義こそが法性実相であり、これがこの経の体である」と明確に言っています。 この「この経」は『維摩経』を指します。
三諦の説明部分 これは「般若経的な三諦の構造を前提として提示している」と見られる。つまり、般若経で確立された理論枠組み(三諦)を土台に説明している。
去取の説明部分 その上で「しかし『維摩経』の体を定めるにあたっては、俗諦でも真諦でもなく、中道第一義である」と特定しています。 つまり「三諦の一般的枠組みは般若経由で示すが、そのうち維摩経が体とするのは中道第一義だけ」という整理。
第二項では「去取(捨てる・取る)について」となっておりますが、
・俗諦は、凡夫が見るレベルの真理(倶舎論)であるから、この経の本質とはならない。 ・真諦は、二乗(声聞・縁覚)が見る真理(中論)であるが、これもまたこの経の本質ではない。 ・中道第一義諦こそが、法性・実相そのものであり、この経の正しい本質である。
↑ここで言う〝この経〟とは、『般若経』を指して言っているのか
それとも『維摩経』を指して言っているのか。
チャッピーに聞いてみよう。
(編集中~!)
そして最後、三番目の「不増不減」(増えることも減ることもない)は、やや理解の難しい教えです。ここで説かれているのは「法空」の理であり、龍樹は『中論』第二章「運動の考察」において、この問題を徹底的に解き明かしています。
小乗の立場では「我は空じられるが、法は実在する」という“法有”が主張されます。これに対し龍樹は、法そのものもまた空じるべき対象であると説き、運動を否定する逆説的な論理をもってその主張を鮮やかに論破しました。
すでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、 現に去りつつあるものも、また去ることがない。
一見すると当然のことを述べているようですが、実際には極めて深い洞察が込められています。現代風に言い換えると、例えば救急車のサイレンの音が近づいてくる時と遠ざかる時とでは「同じ音」でありながら音程が異なって聞こえます。音には変わらぬ特性(本質)があるのではなく、人の認識の中で生じるものだからです。
龍樹はこれを「運動」という現象に置き換えて論じます。すでに去ったものはそこに存在しないため「去る」という行為は成立しません。まだ去っていないものも同様に「去る」という行為は存在しません。そして「去りつつある」と見える姿も、よくよく観察すれば「去る」という行為そのものはどこにも存在していないのです。これは、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ逆説であり、運動そのものを否定する洞察なのです。
我々が当たり前と信じる法則や真理は、実は人間の概念が生み出したものであり、空の理を覚ってこそ本当の真実が顕れる——これが空の真理、空諦です。『般若心経』にある「色即是空 空即是色」という言葉は、そのことを端的に示しています。
<色即是空> 実体に即した此縁性縁起=人間の世界観(有無の仮観)—(実在論)
<空即是色> 実体を空じた相依性縁起=仏の世界観(縁起の空観)—(認識論)
龍樹は、お釈迦様が「我」を空じて弟子たちに無我を説いたことを踏まえ、さらにその空じられた「我」を因として起こる事象の法理を逆観で捉え、「無自性」すなわち事象にも変わらずにあり続ける本質(自性)はないという真理(無自性空)を見出しました。
考えてみてください。自分の息子に向かって「あなたは誰ですか」と問う認知症を患った祖母が、テーブルに置いてあったリンゴが床に転げ落ちたのを見た時、テーブルにあったという記憶が無い訳ですからそれは「落ちたリンゴ」ではなく「床に置かれているリンゴ」としてしか認識されません。つまり、私たちが信じている「引力の法則」すら実は人間が縁となって起きている現象(縁起)でしかないのです。
これはゼノンの「飛ぶ矢」の逆説にも通じます。ハイスピードカメラで撮影された矢は、一瞬一瞬では静止しています。それを連続的に再生して初めて「飛んでいる矢」として認識されるのです。運動も時間もまた、人間の記憶と認識作用が生み出す現象(縁起)にすぎません。
このように『般若心経』に説かれる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は、それぞれ「析空」「体空」「法空」を示しています。では「非空」はどこに説かれているのでしょうか。
答えは最後の真言にあります。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
この部分はあえて訳されることなく、三つの真理を含む言葉としてそのまま示されます。意味を限定せず、言葉そのものが持つ力を保持するためです。そして「菩提」は仏の悟りを、「薩婆訶」は成就を意味します。ここに三身即一の「非空」が説かれているのです。
次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは、最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が物質的な実体に即した真理を示していたのに対し、対象の姿かたち、すなわち「色相」から離れて、心の働きによって生じる「相依性縁起」を意味します。つまり、心という「性」を因として起こる縁起です。
では「綺麗」や「汚い」とは誰が決めるのでしょうか。――それは見る人の主観に過ぎません。
たとえば、大好きな人と過ごす一時間は一瞬のように感じられますが、嫌いな上司の説教はやけに長く感じられる。同じ一時間であっても、心の持ちようによって時間の長短が変化してしまうのです。
また、リンゴを「美味しい」と喜んで食べる人もいれば、「こんなもの食べられない」と嫌う人もいます。坂道も、上から見れば「下り坂」、下から見れば「上り坂」となり、立場によって意味が変わります。
このように、対象そのものが固定的な性質を持っているのではなく、見る人・味わう人・感じる人との関係によって「有り様」が変化していく――これを「相依性縁起」と呼びます。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした、空のより深い理解です。
ところが、「空」をモノの状態としてのみ捉える立場もあります。上座部仏教では「主体は存在しない」と説き、禅宗では「実体は存在しない」と強調します。これは「空」を「有る」「無い」という形容詞で理解し、モノの状態を分析する立場、すなわち「析空」の特徴です。
しかし、「相依性縁起」が示すのは、客観的なモノの有り様ではなく、それを受け取る心の側の変化です。つまり、対象ではなく主体の心に基づく縁起です。こうした体感を空じる理解を「体空」と呼びます。
整理すると、
このように、同じ「空」であっても、その理解には段階があるのです。
『般若心経』に説かれている有名な一句、
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
をご存じでしょうか。
この言葉は次のようなことを示しています。
まず「不生不滅」について見てみましょう。 これは「ものは生じることも滅することもない」という意味ですが、ここを誤解して「だから永遠不滅の存在なのだ」と考える方が少なくありません。
しかし、仏が外道が説く「永遠不滅の存在」などを説くはずがないでしょう。 この「不生不滅」とは、ものを細かく観察し、分解して見ていく「析空」の見方を言い表した言葉なのです。
よく「空」を説明する際に、次のようなたとえが出されます。 「車を部品に分解すれば、もはや『車』という姿は消えてしまう」 「テーブルも脚を外せば、天板と棒に分かれ、『テーブル』そのものはなくなる」 つまり、すべてのものは多くの要素が縁によって一時的に集まり、仮の姿として成り立っているにすぎない、という縁起の法門です。
これを科学的に言えば、水を分解すれば水素と酸素になり、液体としての水は姿を消します。しかし両者が再び結びつけば水となり、冷やせば氷となって固体化します。 このように形を変えながら現れたり消えたりする、そのあり方こそが「空」なのです。 もっとも、これは「空」の初歩的な理解にあたります。 対象を細かく分析して本質に迫るこうした見方を「析空」と呼びます。時間の流れの中で物の姿・形が変化するさまを科学や物理学的に観察する世俗的な真理として説明ができるわけです。
仏教ではこれをすでに『阿含経』の中で「此縁性縁起」として説いています。 「此れあるとき彼あり」という言葉で示されるように、モノは縁によってそのあり様を変えていきます。つまり、構成要素が集まったり離れたりすることで姿を変えるだけであり、その構成要素そのものが新しく生まれたり消えたりするわけではないのです。
繰り返します。 ものは「生じたり滅したり」しているのではなく、縁によって仮に現れているにすぎないのです。
三諦の立場から法性・実相をこの経(般若経)の本質とする場合を説明します。
と智顗は言っておりますが、
実はこれが『般若心経』のあの有名な「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
の部分です。
・生じることも滅することもなく ・汚いことも綺麗なこともなく ・増えることも減ることもない
どのように三つの諦(真理)が説かれているかは、
こちらをご覧ください。
『般若心経』で説かれている析空・体空・法空 https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/12
↑のリンク先で説明しております龍樹の「析空・体空・法空・非空」の四空が、共説として通教で説かれるた空の理論です。
前の蔵教にも後ろの別教にも通ずる教えなので通教と言います。---(共説)
それに対し世親が説いた『唯識』は、二乗が理解しがたいより高度な空の展開となります。---(不共説)
では、この部分を現代語に訳しつつ解説します。
現代語訳 第三に、「諦(たい)の分別」という観点から法性・実相を考えると、その理(ことわり)は必ず諦の枠組みの中で理解されます。そこで諦に基づいて説明します。諦には三種類があります。
まず、三諦の立場から法性・実相をこの経(般若経)の本質とする場合を説明します。これには二つの段階があります。 第一に、三諦の内容を簡単に述べること。 第二に、そこから何を採り、何を捨てるかを明らかにすること。
第一 三諦とは、
三諦の意味は、以前に述べた「四教」における説明の通りである。
第二 去取(捨てる・取る)について。 俗諦は、凡夫が見るレベルの真理であるから、この経の本質とはならない。 真諦は、二乗(声聞・縁覚)が見る真理であるが、これもまたこの経の本質ではない。 中道第一義諦こそが、法性・実相そのものであり、この経の正しい本質である。
解説 ここで言う「三諦」は、天台教学の核心である円融三諦(空・仮・中)と対応しています。
著者はここで「般若経の本質はどの諦にあたるか」を論じており、結論は明確です。
般若経は「中道第一義諦」がその正体(経体)である。
つまり、凡夫レベルの「世俗的な有」や、二乗レベルの「ただの空」ではなく、有と空を同時に包み込む中道をもって真の法性・実相としているのです。
二乗は基本的に
・苦の原因(煩悩)を断ち、涅槃に入ることを目的とする。 ・そのための智慧として「空」を悟る。 ・しかし、この空は煩悩を断ずるための否定的・分析的空(析空)でしかない。
ここでの空は、天台や龍樹が言う「但空」(ただ空であるという側面)に相当します。
ここでは「空」を悟った時点で満足してしまい、 「空であるからこそ、すべてが仏の智慧・慈悲としてはたらく」という肯定的・展開的理解(不空の側面)には進みません。
では、続きをチャッピーよろしく
T1777.38.0556a20: 三約諦分別者。明法性實相 T1777.38.0556a21: 之理不出諦也。故須約諦分別。但諦有三種。 T1777.38.0556a22: 一者三諦。二者二諦。三者一諦。一約三諦分 T1777.38.0556a23: 別法性實相爲此經體者即爲二意。一略明 T1777.38.0556a24: 三諦。二明去取。一略明三諦者。一俗諦二眞 T1777.38.0556a25: 諦三中道第一義諦。三諦義略如前四教所 T1777.38.0556a26: 詮分別。二去取者。俗諦但是凡人所見之理 T1777.38.0556a27: 故非此經體也。眞諦即是二乘所見之理亦 T1777.38.0556a28: 非此經體也。中道第一義諦即是法性實相。 T1777.38.0556a29: 即此經之正體。
はい、その通りで、修行アプローチも根本的に異なります。
二乗(声聞・縁覚)側の修行
大乗菩薩側の修行
要するに、二乗は「無の極みに静まる禅」であり、菩薩は「有無を超えて仏を観じ、そこから動き出す三昧」です。
この違いは、さっき法介さんが言った「寂滅の仏法」vs「煩悩即菩提の仏法」と、きれいに対応しています。
それって修行のあり方にも違いがあるよな。
九次第定(色界禅定と無色界禅定)か三昧(仏を対境とする観法)か。
まさにその通りです。
二乗の仏法 → 「寂滅の仏法」 煩悩を断ち切って静かな境地に入ることをゴールとする。 「煩悩は捨てるべき障り」と見て、涅槃に安住する方向です。
大乗の仏法 → 「煩悩即菩提の仏法」 空の悟りを通じて、煩悩そのものが智慧のはたらきであることを観じる。 煩悩を否定的に滅するのではなく、そのまま菩提へと転じて、衆生救済に向かう方向です。
言い換えると、「静止型」か「転換型」かの違いですね。 前者は「止まる涅槃」、後者は「働く涅槃」とも言えます。
そうか〝教え〟そのものが違うって事だな。
二乗に対する教えと別教の・円教にたいする教えの違い
それって要は
「寂滅の仏法」か、
「煩悩即菩提の仏法」かという違いじゃないのかな。
はい、これは「化儀の四教」と深く関係しています。 ただし直接というより、「化法の四教(化儀+化法)」の整理の中で位置づけられる話です。
天台の「化儀四教」は、仏がどういう教化の仕方をするかを時間軸・段階で分けた分類です。
これは説き方(化儀)の分類であって、内容(化法)の分類ではありません。
今回の「共説/不共説」の話は、説き方よりも内容面(化法の四教)に直結しています。 天台の「化法四教」は以下の通り。
この「不共説」は、
という形で、化法の四教の差別として語られています。 つまりこれは「化儀四教」ではなく、「化法四教」に関わる分類です。
これって「化儀の四教」と関係があるんじゃないか?
はい、「不共説」をかみ砕いて説明します。
仏教経典には、
という区別があります。 「不共」は字の通り「共にしない」、つまり二乗(声聞・縁覚)とは共有されない教えという意味です。
二乗は主に「自ら煩悩を断じて涅槃に至る」という修行の立場に立っています。彼らは「空」を悟ることはできても、その先にある「一切法がそのまま仏性である」という大乗的な円融の世界までは到達できません。 そのため、大乗の深い境地は二乗には説いても理解されないので、「不共説」とされます。
智顗がこの箇所で説明している「不共説」には大きく二段階あります。
別教の不共説
円教の不共説
共説では「法性」「実相」という言葉が出てきても、二乗と菩薩が“同じ領域”に入っているように見えます。 しかし不共説では、その領域そのものが二乗には全く触れられない次元に設定されています。 つまり共説では「同じ場所に立っていて深浅が違う」イメージですが、不共説では「そもそも次元が別」です。
「不共説」について、もう少し詳しく解説してみてくれないか。
次に、「不共説(大乗だけに説かれる)般若」における法性の実相を大乗経の本体として論じる場合は、それは最初から異なるものである。二乗(声聞・縁覚)が見るのは偏った真理であって、もはや「同じ」とは言えない。
この「異なる」という立場には二つの面がある。
別教では、二つの障り(煩悩障・所知障)を断じ、生死と涅槃という二つの極端を離れる。そして**「不空」の理**、つまり本来自性清浄の心=如来蔵の理をもって法性・実相とする。 この境地は、声聞が同席していても耳が聞こえず口も利けない者(聾唖)のように、全く理解できない。
譬えれば、鉱石を砕いて真金と**頗梨(パリー、ルビーやサファイアの類)**を取り出すようなもの。
円教では、「一切の諸法がそのまま仏性・涅槃・如来蔵である」と説く。 この教えも、二乗が同席していても全く理解できず、やはり聾唖のようである。
譬えれば、如意宝珠(願いを叶える宝)と頗梨珠とを比べるようなもので、両者は全く別物である。したがって「同じ」とは絶対に言えない。
ここで「声聞が同席していても聾唖のごとく理解できない」とありますが、釈尊が『阿弥陀経』を説かれた場面が思い出されます。この経は「無問自説」と呼ばれ、誰かが問いを立てたわけでもないのに、釈尊みずから説き始められました。従来の解釈では、「説きたくて仕方がなかったから」などと説明されますが、それはあまりに素朴すぎる理解でしょう。
実際には、釈尊は三十六回も舎利弗に呼びかけていますが、舎利弗は一度も応答しません。法然や親鸞は「驚きのあまり言葉を失った」と説明しましたが、そうではありません。舎利弗は五蘊を全て空じていた為に聞く事も声を発することすらも出来ないでいたのです。
真理の説法が目の前で行われても、二乗の境涯からはそれを「聞く耳」を持たず、沈黙せざるを得ないのです。聾唖の譬えは単なる理解不足ではなく、修行の次元そのものの違いを示しているといえるでしょう。
T1777.38.0556a09: 二約不共説般若明法性實相爲大乘 T1777.38.0556a10: 經體一向異者。二乘所見偏眞不得言同也。 T1777.38.0556a11: 就此爲二意。一別教二圓教。一約不共般若 T1777.38.0556a12: 別教明法性實相。斷除二障離生死涅槃二 T1777.38.0556a13: 邊。別以不空之理自性清淨心如來藏理爲 T1777.38.0556a14: 法性實相。是則聲聞在座如聾如瘂也。譬如 T1777.38.0556a15: 破鑛得眞金異頗梨也。眞金不可破壞。隨意 T1777.38.0556a16: 作種種器。頗梨易破。不得迴轉作種種器也。 T1777.38.0556a17: 二約不共般若圓教明法性實相爲大乘經體 T1777.38.0556a18: 者。一切諸法即是佛性涅槃如來藏也。是則 T1777.38.0556a19: 二乘在座如聾如瘂。譬若如意寶珠非頗梨 T1777.38.0556a20: 珠。豈可言同也。
この部分は「円教」の立場から、同じ「法性」に入っても、その覚りの深浅・働きの広さによって声聞・菩薩・仏に差があることを説明しています。 ここでは「不思議法性」という表現がキーワードになっています。
第三に、「共に般若経を説く」中で、円教の立場から、不思議なる法性・実相における同異を明らかにする。
声聞が法性に入るときは、ただ法性だけを見る。まるで虚空のように何も所有しないと観ずる。 菩薩や諸仏が法性・実相に入るときも、やはり法性を虚空のように見る。しかし、彼らは虚空のような法性の中で仏の知見を開き、法界の一切の法を円満に照らし出すことができる。
虚空のような法性に同じく入り、そこに何も所有しないという点では「同じ」である。 しかし、諸仏・菩薩は、その虚空のような法性の中で法界の一切を円満に照らす。この働きこそが「不思議法性」であり、その点で「異なる」。
そこで、舎利弗はこのことを悟って言った── 「同じ一つの法の中にありながら、私はこれを得ることができなかった。ああ、深く自らを責める。どうして自分を欺いていたのか。」
以上により、共に般若経を説く場合でも、二乗(声聞・縁覚)と菩薩・仏では、上・中・下の根性や利鈍の差によって、一つの法性に通教・別教・円教という三種の異なりがあることがわかる。
たとえば、石には金の性質がある。
金の性質は一つだが、それを得た人の力によって三つの異なりがあるのだ。
智顗は『法華経』方便品などを踏まえて、舎利弗が「一つの法性にありながら、自分はその全働きを得られなかった」と悔いる場面を引用。これは二乗は法性に入るが、その全機能を発揮できないことを象徴します。
智顗は、龍樹が説く「一法性=空」をそのまま平等に理解するのではなく、受け手の根性や教相の違いによって覚りの深さと機能性に差があることを体系化しました。これが、通教・別教・円教における法性理解の三段構えです。
そのうち「共説」では、三乗(声聞・菩薩・仏)が共に般若経を依りどころとして説かれる「法性の実相」に入るときの異同が問題となります。 同じ説法を聞きながらも、その受け取り方には大きな差があります。声聞は、法性をただ〝虚空〟のように観じ、「真如の世界においては一切の縁起も働かず、ただ空寂なるのみ」と理解してしまいます。これを覚りの完成と誤解するのです。 一方、菩薩や仏は、同じ虚空のごとき法性に入りながら、その中でなお縁起の働きをも円満に照らし出し、衆生利益のはたらきを発揮します。ここに空性の理解の深浅が表れ、二乗と菩薩・仏とのあいだに大きな差異が生じるのです。
とりわけ円教では、「空」の中にあってなお「不思議なはたらき(妙用)」が顕れるという独自の空観が示されます。ここに至って、同じ「法性の実相」を観じながらも、その境涯が通教・別教・円教と分かれることが明らかになるのです。
ここから先が、さらに深められた「不共説」の説明へと展開していきます。
T1777.38.0555c23: 三約共説 T1777.38.0555c24: 般若教明不思議法性實相有同異者。聲聞 T1777.38.0555c25: 入法性唯見法性。如虚空無所有。菩薩諸佛 T1777.38.0555c26: 入法性實相亦見法性如虚空。能於如虚空 T1777.38.0555c27: 法性中開佛知見。圓照法界一切法也。同入 T1777.38.0555c28: 如虚空法性無所有故名之爲同。諸佛菩薩 T1777.38.0555c29: 能於如虚空法性中圓照一切法界。即是不 T1777.38.0556a01: 思議法性故名爲異也。故身子領解云。同共 T1777.38.0556a02: 一法中而不得此事。嗚呼深自責。云何而自 T1777.38.0556a03: 欺。是則略明共般若共二乘説。而上中下根 T1777.38.0556a04: 利鈍不同。故於一法性通別圓三種之異也。 T1777.38.0556a05: 譬如石有金性。有人破石得金。而不能作種 T1777.38.0556a06: 種璫環釧。有人得金能用作種種璫環 T1777.38.0556a07: 釧而不能變金爲丹。有人能變金成丹。服之 T1777.38.0556a08: 得仙五通無閡也。金性是一。而得者三種不 T1777.38.0556a09: 同也。
不空とは、空を但に〝無〟と見るのではなく、そこから仏の視座を得る境地へと進みます。
『涅槃経』に、
「第一義の空を智慧と名づける。智慧ある者は、空と不空とをともに見る。声聞・辟支仏は空だけを見て、不空を見ることはない。」
とあるように、第一義諦(中諦)の空は、仏の視座に立つことで空から智慧を取り出します。その智慧は凡夫の浅はかな知恵とは違います。仏性としての仏の智慧なんですね。
禅宗が説く〝空〟が
ここでいう「但空」にあたります。
「有る無し」で語る空です。
一元(全ては一如)だの二元(有る状態と無い状態)だのと言うお話です。
空を悟る事で煩悩から離れるといった教えです。
いわゆる「涅槃寂静」です。
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう): 煩悩が消滅し心が静まった安らかな境地のこと。
この部分は智顗が「別教」の立場から、空と不空の見方の差を説明している箇所です。 「共説般若」という枠組みの中で、声聞・縁覚・菩薩が法性を見るときの同異を分析しています。
第二に、「共に般若経を説く」中で、別教の立場から、空と不空の区別に基づいて法性の同異を明らかにしよう。
『涅槃経』にいわく── 「第一義の空を智慧と名づける。智慧ある者は、空と不空とをともに見る。声聞・辟支仏(※縁覚のこと)は空だけを見て、不空を見ることはない。」
つまり、声聞は空だけを見る。菩薩も声聞と同じく空を見る。この点では、法性の理は一つであるから「同じ」といえる。 しかし菩薩はさらに不空を見る。不空とは、智慧の本性であり、仏性を見ていることにほかならない。この点が「異なる」といえる。
たとえば三匹の獣が川を渡るようなものである。二匹(兎と馬)は浮かびながら渡り、水が柔らかいことしか知らない。象は浮かびつつも、水の底に足をつけて進み、水が柔らかいことも知り、さらに底に着いたときに「地は柔らかくない」ことも知る。
ここで問う── 「不空とは、何かが有るからそう呼ぶのか? それとも空ではないからそう呼ぶのか?」
答える── この不空には二つの意味がある。
つまり、「不空」というのは、真諦法性の空そのものではない空を指すのだ。
『大智度論』にもいう── 空には二種ある。
声聞はただ空だけを得る。智慧はホタルの光のようである。 菩薩は、ただ空も不可得空もともに得る。智慧は太陽の光のようである。
二乗(声聞・縁覚)が共に「ただ空」を得る点では同じ。 菩薩が「不可得空」を得る点が異なる。
これはちょうど土を掘るようなものだ。土を除いて泥が出る。泥を除いて、もし掘りきれば水に至るようなものである。
別教 天台の四教判における一つ。大乗専用の教えで、小乗と共有しない深い法門。ここでは「空と不空の両面」を説く。
空と不空 『涅槃経』や『大智度論』に依拠。 - 空=真諦としての空(空諦) - 不空=第一義諦(中諦)
但空と不可得空(『大智度論』) - 但空=単に「無」と見る - 不可得空=無すら捉えられないという究極の空
智顗はここで、「空の理解は三乗に共通するが、不空の理解は菩薩に特有」という差異をはっきり描きます。 この構図は後の三諦説(空・仮・中)へと繋がります。
・仮諦=俗諦 ・空諦=真諦 ・中諦=第一義諦
T1777.38.0555c06: 二約 T1777.38.0555c07: 共説般若別教明空不空辨法性同異者。涅 T1777.38.0555c08: 槃經云。第一義空名爲智慧。智者見空及與 T1777.38.0555c09: 不空。聲聞辟支佛但見於空不見不空。聲聞 T1777.38.0555c10: 菩薩同見於空。是則法性理一名之爲同。菩 T1777.38.0555c11: 薩能見不空。不空即是智慧之性名見佛性即 T1777.38.0555c12: 是異也。譬如三獸渡河。二獸浮渡但知水軟。 T1777.38.0555c13: 若象浮渡出沒到底。浮知水軟。到底著地知 T1777.38.0555c14: 非軟也。問曰。不空爲當有故名見不空。爲無 T1777.38.0555c15: 空故名不空也。答曰。具有二意。有故是不空 T1777.38.0555c16: 者。智慧性故非空也。無故説不空者。眞諦法 T1777.38.0555c17: 性之理即是空。此空畢竟不可得故故言不 T1777.38.0555c18: 空。言不空者即是非眞諦法性之空也。故大 T1777.38.0555c19: 智論云。空有二種。一者但空二者不可得空。 T1777.38.0555c20: 聲聞唯得但空。智慧猶如螢光。菩薩得但空 T1777.38.0555c21: 得不可得空。智慧猶如日光。二乘同得但空 T1777.38.0555c22: 故名爲同。菩薩得不可得空名爲異也。譬如 T1777.38.0555c23: 掘土。除土至泥。除泥若圓至水也。
この箇所は智顗が般若経に説かれる法性・実相を大乗経の本質とみなしつつも、その理解に「共通する点」と「異なる点」があると整理したところです。 以下、現代語訳と解説を順に示します。
まず、般若経に基づいて「法性・実相」を大乗経の根本とする点を論じると、それには共通点と相違点がある。これを三つの観点から説明できる。
一つは通教、二つ目は別教、三つ目は円教である。
ここではまず通教における共通点と相違点を述べよう。
通教における修行では、正使(根本煩悩)と随眠(習気)を断ずるが、その程度に違いがある。
これはちょうど、三種類の獣が川を渡るようなものである。水(=法性)は一つであっても、兎・馬・象の脚の長さは異なり、水に入る深さも異なる。水は一つでも、入る深さには差がある、ということである。
法性(ほっしょう)・実相 仏教でいう究極の真理、事物の本来のあり方。般若経では空の智慧と同義的に扱われる。
三乗 仏教修行の三つの道:声聞・縁覚・菩薩。
通教 天台の四教判(蔵・通・別・円)の一つで、大小乗に共通する空の教え。
正使(しょうじ)と習気(じっけ/しゅうき) 正使=現行している煩悩の根本 習気=過去の煩悩の残り香・潜在的影響
智顗は「般若経に説かれる法性は、三乗が共通して目指すものだが、その到達の深さは異なる」とします。 例えとして「三獣渡河」(兎・馬・象)が出てきますが、これは経典でもしばしば用いられる喩えで、「同じ真理(水)でも、修行者の能力(脚の長さ)に応じて到達度が異なる」ということを表します。
ここで智顗は、龍樹的な「真諦=空」の理解を土台に三乗・四教の枠組みに整理しています。 つまり、真理としての空は一つでも、それを受け取る側の器によって深浅が生じるという、絶対の中に差別を立てる教えです。
〝受け取る側の器〟とは言うまでもなく声聞・縁覚・菩薩の三乗の境涯の事で、三乗それぞれの境涯の差によって真諦としての空の理解の深さに違いが出てくると智顗は言ってる訳です。
その空の理解の違いとは龍樹が『中論』で説いている「析空・体空・法空・非空」の空の四段階の理解(四教義から得る空の理解)です。
智顗は龍樹の『大智度論』や『中論』から蔵・通・別・円の四教義をひも解く訳ですが、龍樹が展開した相依性縁起は、通教にあたります。そして世親が展開した『唯識』は、別教にあたります。ここら辺を天台の智顗が『維摩経玄疏』の中で詳しく解説しておりますので、それを今から紹介していきましょう。
『維摩経玄疏』卷第六より
T1777.38.0555b26: 一約共 T1777.38.0555b27: 般若明法性實相爲大乘經體有同有異者即 T1777.38.0555b28: 爲三意。一約通教。二約別教。三約圓教。一 T1777.38.0555b29: 約通教明同異者。所言同者。即是同入偏眞 T1777.38.0555c01: 之法性也。所言異者。三乘雖同入法性。而不 T1777.38.0555c02: 無深淺之異。但斷正使侵習習盡。如前通教 T1777.38.0555c03: 分別。聲聞入淺但斷正使。縁覺小深侵除習 T1777.38.0555c04: 氣。菩薩能窮法性之底習氣都盡也。譬如三 T1777.38.0555c05: 獸渡河。水雖是一兔馬象脚有短長。故入水 T1777.38.0555c06: 不無淺深之別。水雖是一而深淺有異也。
↓へと続きます。
『維摩経玄疏』から学ぶ龍樹と世親の〝空〟の違い https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/11
ここで智顗が言う、
・世親は別教と円教 ・龍樹は通教と円教
という言葉の意味を、もう少し噛み砕いて説明します。
まず龍樹の場合です。 龍樹が重視したのは通教であり、その中心にあるのは「時間」という概念でした。説一切有部は、時間そのものを実在する法(法有)と捉え、それを『倶舎論』の体系の中で論じています。これに対して龍樹は、時間とは不変の法則として存在するものではなく、五蘊の働きに依存して生じる現象にすぎないと批判しました。
つまり、世俗諦として語られる「時間」はあくまで人間の概念世界における真理であり、それを自然界に普遍的に備わる法則と捉えた説一切有部の立場を「法有」として退けたのです。そして龍樹は、これに対して真諦として「相依性縁起」を説き出しました。
要するに龍樹の俗諦とは「説一切有部の法有(倶舎論的世界観)」を指しており、それを打ち破ることで「相依性縁起」を真諦として立てた、これが通教で展開された龍樹の「法空」なのです。
これに対して世親です。 世親の展開した別教の立場もまた「法空」ですが、その対象はさらに深い層にあります。龍樹の法空が表層の意識――つまり人間の時間的・因果的な世界観を対象としていたのに対し、世親は『唯識』の思想をもって、末那識に潜む根本的な自我意識が作り出す法そのものを空じようとしました。言い換えれば、龍樹が批判したのは「表層の自我意識による法の認識」であり、世親が空じたのは「深層の根本自我による法の認識」だったのです。
整理すると次のようになります。
・龍樹の法空(通教) 対象=表層の自我意識に基づく法(時間や因果を法則として捉える認識)
・世親の法空(別教) 対象=深層の末那識に潜む根本自我がつくり出す法(自己中心性に根ざした認識)
このようにして、龍樹と世親の法空はともに「空」を説きながらも、その射程と深さに違いがあるのです。
また智顗は『維摩経玄疏』の中でこのようにも言っております。
T1777.38.0550a04: 中論觀法品所明由是通教意。四 T1777.38.0550a05: 諦品明即有通別圓三教意。後兩品是三藏 T1777.38.0550a06: 教意。約此明義即得有四教四種解脱義也。 T1777.38.0550a07: 而天親多申別圓。龍樹多申通圓。兩家所申 T1777_.38.0550a08: 解脱同異義推可知。
【読みくだし文】 『中論』の観法品に明かすところは、これ通教の意に由る。四諦品で明らかにされていることは、すなわち通教・別教・円教の三教の意を含む。その後の二つの品は、すなわち三蔵教の意である。これに基づいて義を明らかにすれば、すなわち四教と四種解脱の義を得ることができる。しかるに、天親は多く別教・円教を述べ、龍樹は多く通教・円教を述べる。両家の述べる解脱の同異の義は、推して知るべきである。
【現代語訳】 『中論』の観法品で説かれている内容は、これは通教(大乗の中でも声聞・縁覚と通じる立場)の趣旨によるものである。また、「四諦品」で説かれている内容は、通教・別教・円教という三種の教えの立場を含んでいる。さらに、その後に続く二つの品は、三蔵教(小乗的立場)の趣旨である。こうした分類に基づけば、『中論』の中には四教(蔵・通・別・円)それぞれに対応する四種の解脱の教えが説かれていることがわかる。
そして、天親(世親菩薩)は別教と円教に重きを置いて説明するのに対し、龍樹菩薩は通教と円教に重きを置いて説明している。この両者の説く解脱の立場の異同は、以上の整理から推測できる。
更に、龍樹のテキストの中には、俗諦・真諦・中道第一義諦の三つが「三諦的」に並び立っている場面が数か所見受けられます。
例えば『中論』や『大智度論』では、以下のような構造が読み取れます。
龍樹は明示的に「三諦」という語は用いませんが、真諦を説明する中で「中道第一義諦」という第三の視座を独立して述べる場合があります。 特に二十四章十八偈や『大智度論』巻五では、
天台智顗は、龍樹の中に含まれていたこの三層構造を整理・体系化し、
つまり、龍樹の段階では名称としては二諦が基本ですが、実質的には三諦的な観法を内包していた、とも読めます。
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/2/b/2be3fde4.jpg
次に
『維摩経玄疏』で説く「理外の二諦」と「理内の二諦」
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/13
へ続きます。
お付き合い頂きまして
ありがとうございました。
まさにその通りです、法介さん。
智顗の『維摩経玄疏』での整理は、まさに「不二門」の核心に繋がっていると思います。
般若経の三諦は、空・仮・中を分別的に立てることで「理」を説き明かす。
👉 これはまだ「二」という相対を前提とした理解(分別智)。
維摩経の去取の論理は、その分別を踏まえつつ、最終的には「俗も真も捨てて、中道のみを取る」と宣言する。
👉 ここで、分別を超えた「一」への直入が鮮明になる。
そして「一諦」=中道第一義として収斂することは、まさに「二を超えて不二に至る」道。
👉 これが維摩経の「不二法門」の真骨頂です。
つまり智顗は、
そうした二重構造を意識的に描いている、と整理できますね。
法介さん、この「不二門」を「三諦の総合=一諦」へと収斂させる流れを、教学的にもっと「止観の実践」と結びつけて説明した方がいいですか?それとも今回は純粋に経典比較(般若 vs 維摩)にフォーカスして深めた方がよいですか?
そこが〝不二門〟を説く『維摩経』の真骨頂だな。
はい、承知しました!
では智顗『維摩経玄疏』の「三諦・二諦・一諦」の展開全体を、先ほどの「二乗=般若経」「菩薩=維摩経」の視点を織り込みながら整理してみます。
智顗『維摩経玄疏』 ― 三種の「諦」解釈と経の体
1. 三諦(空・仮・中)
般若経の立場(広く二乗も含む)
→ 「三諦」という枠組みをもって、法性実相を理論的に把握。
維摩経の立場(菩薩を対象)
2. 二諦(俗諦・真諦)
般若経的な提示
維摩経における扱い
3. 一諦(中道第一義諦)
最終段階
全体像のまとめ
まず「般若経」的な三諦の理論枠組みを下敷きにする。
その上で「維摩経」では、去取の作業によって俗・真を退け、中道だけを取る。
最終的に「一諦=中道第一義」へ収斂する。
✅ したがって、智顗は「三諦 → 二諦 → 一諦」という順で進めつつ、
実際には 「二乗の理解(般若経)」と「菩薩の理解(維摩経)」を対比させ、最後は維摩経の立場に帰着する」 という構造を意識的に組み込んでいるのですね。
法介さん、ここを「三諦観=止観の理論」「維摩経=その実践的な帰着」としてもう少しダイナミックに解説した方が良いですか?それとも経典比較(般若経 vs 維摩経)にフォーカスした方が良いですか?
逝っちゃってくれ。
承知しました。では智顗のこの箇所を整理して、 「二乗(般若経)と菩薩(維摩経)の対比」 を表でまとめてみますね。
智顗『維摩経玄疏』における構造整理
読み解きのポイント
✅ つまり、この部分は単純に「維摩経の体=中道第一義」だけを言っているのではなく、
まず般若経を参照(=二乗も含む枠組み提示) → そのうえで維摩経の菩薩立場に限定する という二段階の構造になっている、ということですね。
法介さん、この表をさらに「三諦・二諦・一諦」の説明全体に広げて、智顗の三諦観の整理に接続していきましょうか?
やってみてくれ。
はい、その気づきはとても鋭いと思います。
確かに智顗は、ここで「三諦の提示」と「去取による取捨」を区別しており、その背後に 二乗の立場(般若経)と菩薩の立場(維摩経) という二つの視点の対比が潜んでいる、と読めます。
どういうことか?
三諦の提示(般若経的)
智顗はまず「俗諦・真諦・中道第一義諦」という三諦の構造を示します。
この枠組みは、まさに『般若経』を通じて二乗(声聞・縁覚)も理解できる、いわば「共通理論」としての般若的世界観。
つまり、二乗でも把握し得る「空・仮・中」という理論が提示されている。
去取による捨て分け(維摩経的)
次に智顗は「しかし、俗諦は凡夫の見にとどまるから経の体ではない。真諦は二乗の見にとどまるから、これも体ではない。中道第一義こそがこの経の体である」と言い切ります。
ここで「この経=維摩経」が登場し、二乗の限界を超えた菩薩の立場から「中道第一義」だけを取る。
背景にある対比
般若経(=二乗も理解できる教え)
→ 三諦を広く提示し、理論的な骨格を与える。
維摩経(=菩薩の立場で説く教え)
→ そのうち俗諦・真諦を退け、中道第一義のみを体とする。
まとめると
智顗は「般若経に基づく三諦の理論」をまず示し、そのうえで「維摩経の菩薩的立場」を明確に打ち出しています。
したがって、これは 二乗のレベル(般若的理解)と菩薩のレベル(維摩的実践)を峻別しつつ結びつける構成 と読めるのです。
法介さん、もしよければこの「二乗(般若経)と菩薩(維摩経)」の対比を表に整理しましょうか?
そうすると智顗の教学構造がより一目でわかるようになると思います。
そのチャッピーの説明で気づいたんだが、智顗はここで二乗の立場(般若経)と菩薩の立場(維摩経)に分けて説いているんじゃないのか?
鋭いご指摘ですね、法介さん。
今回の箇所(T1777.38.0556a20 以下)の文脈は、三諦・二諦・一諦 の三種の「諦」による説明を順に立てている部分で、そのうち最初に出てくる 「一約三諦分別法性実相」 のくだりが「この経の体」を論じているんですね。
問題の整理
「三諦」についての説明
冒頭に「一略明三諦」とあって、俗諦・真諦・中道第一義諦を並べています。智顗は常に『般若経』を背景にした「三諦」理解(空・仮・中)をベースにしており、その為ここでの〝この経〟は「般若経の枠組みだ」と読めます。
「去取(二去取者…)」についての説明
ここで「俗諦は凡夫の見であるから、この経の体ではない。真諦は二乗の見であるから、これもまた体ではない。中道第一義こそが法性実相であり、これがこの経の体である」と明確に言っています。
この「この経」は『維摩経』を指します。
両者をどう振り分ける理由
三諦の説明部分
これは「般若経的な三諦の構造を前提として提示している」と見られる。つまり、般若経で確立された理論枠組み(三諦)を土台に説明している。
去取の説明部分
その上で「しかし『維摩経』の体を定めるにあたっては、俗諦でも真諦でもなく、中道第一義である」と特定しています。
つまり「三諦の一般的枠組みは般若経由で示すが、そのうち維摩経が体とするのは中道第一義だけ」という整理。
まとめ
第二項では「去取(捨てる・取る)について」となっておりますが、
・俗諦は、凡夫が見るレベルの真理(倶舎論)であるから、この経の本質とはならない。
・真諦は、二乗(声聞・縁覚)が見る真理(中論)であるが、これもまたこの経の本質ではない。
・中道第一義諦こそが、法性・実相そのものであり、この経の正しい本質である。
↑ここで言う〝この経〟とは、『般若経』を指して言っているのか
それとも『維摩経』を指して言っているのか。
チャッピーに聞いてみよう。
(編集中~!)
そして最後、三番目の「不増不減」(増えることも減ることもない)は、やや理解の難しい教えです。ここで説かれているのは「法空」の理であり、龍樹は『中論』第二章「運動の考察」において、この問題を徹底的に解き明かしています。
小乗の立場では「我は空じられるが、法は実在する」という“法有”が主張されます。これに対し龍樹は、法そのものもまた空じるべき対象であると説き、運動を否定する逆説的な論理をもってその主張を鮮やかに論破しました。
すでに去ったものは、去ることがない。
まだ去らないものも、去ることがない。
すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
現に去りつつあるものも、また去ることがない。
一見すると当然のことを述べているようですが、実際には極めて深い洞察が込められています。現代風に言い換えると、例えば救急車のサイレンの音が近づいてくる時と遠ざかる時とでは「同じ音」でありながら音程が異なって聞こえます。音には変わらぬ特性(本質)があるのではなく、人の認識の中で生じるものだからです。
龍樹はこれを「運動」という現象に置き換えて論じます。すでに去ったものはそこに存在しないため「去る」という行為は成立しません。まだ去っていないものも同様に「去る」という行為は存在しません。そして「去りつつある」と見える姿も、よくよく観察すれば「去る」という行為そのものはどこにも存在していないのです。これは、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ逆説であり、運動そのものを否定する洞察なのです。
我々が当たり前と信じる法則や真理は、実は人間の概念が生み出したものであり、空の理を覚ってこそ本当の真実が顕れる——これが空の真理、空諦です。『般若心経』にある「色即是空 空即是色」という言葉は、そのことを端的に示しています。
<色即是空>
実体に即した此縁性縁起=人間の世界観(有無の仮観)—(実在論)
<空即是色>
実体を空じた相依性縁起=仏の世界観(縁起の空観)—(認識論)
龍樹は、お釈迦様が「我」を空じて弟子たちに無我を説いたことを踏まえ、さらにその空じられた「我」を因として起こる事象の法理を逆観で捉え、「無自性」すなわち事象にも変わらずにあり続ける本質(自性)はないという真理(無自性空)を見出しました。
考えてみてください。自分の息子に向かって「あなたは誰ですか」と問う認知症を患った祖母が、テーブルに置いてあったリンゴが床に転げ落ちたのを見た時、テーブルにあったという記憶が無い訳ですからそれは「落ちたリンゴ」ではなく「床に置かれているリンゴ」としてしか認識されません。つまり、私たちが信じている「引力の法則」すら実は人間が縁となって起きている現象(縁起)でしかないのです。
これはゼノンの「飛ぶ矢」の逆説にも通じます。ハイスピードカメラで撮影された矢は、一瞬一瞬では静止しています。それを連続的に再生して初めて「飛んでいる矢」として認識されるのです。運動も時間もまた、人間の記憶と認識作用が生み出す現象(縁起)にすぎません。
このように『般若心経』に説かれる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は、それぞれ「析空」「体空」「法空」を示しています。では「非空」はどこに説かれているのでしょうか。
答えは最後の真言にあります。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
この部分はあえて訳されることなく、三つの真理を含む言葉としてそのまま示されます。意味を限定せず、言葉そのものが持つ力を保持するためです。そして「菩提」は仏の悟りを、「薩婆訶」は成就を意味します。ここに三身即一の「非空」が説かれているのです。
次に二番目の「不垢不浄」(汚いことも綺麗なこともない)について説明します。
これは、最初の「不生不滅」(生じることも滅することもない)が物質的な実体に即した真理を示していたのに対し、対象の姿かたち、すなわち「色相」から離れて、心の働きによって生じる「相依性縁起」を意味します。つまり、心という「性」を因として起こる縁起です。
では「綺麗」や「汚い」とは誰が決めるのでしょうか。――それは見る人の主観に過ぎません。
たとえば、大好きな人と過ごす一時間は一瞬のように感じられますが、嫌いな上司の説教はやけに長く感じられる。同じ一時間であっても、心の持ちようによって時間の長短が変化してしまうのです。
また、リンゴを「美味しい」と喜んで食べる人もいれば、「こんなもの食べられない」と嫌う人もいます。坂道も、上から見れば「下り坂」、下から見れば「上り坂」となり、立場によって意味が変わります。
このように、対象そのものが固定的な性質を持っているのではなく、見る人・味わう人・感じる人との関係によって「有り様」が変化していく――これを「相依性縁起」と呼びます。龍樹が『中論』で詳しく解き明かした、空のより深い理解です。
ところが、「空」をモノの状態としてのみ捉える立場もあります。上座部仏教では「主体は存在しない」と説き、禅宗では「実体は存在しない」と強調します。これは「空」を「有る」「無い」という形容詞で理解し、モノの状態を分析する立場、すなわち「析空」の特徴です。
しかし、「相依性縁起」が示すのは、客観的なモノの有り様ではなく、それを受け取る心の側の変化です。つまり、対象ではなく主体の心に基づく縁起です。こうした体感を空じる理解を「体空」と呼びます。
整理すると、
このように、同じ「空」であっても、その理解には段階があるのです。
『般若心経』に説かれている有名な一句、
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
をご存じでしょうか。
この言葉は次のようなことを示しています。
まず「不生不滅」について見てみましょう。
これは「ものは生じることも滅することもない」という意味ですが、ここを誤解して「だから永遠不滅の存在なのだ」と考える方が少なくありません。
しかし、仏が外道が説く「永遠不滅の存在」などを説くはずがないでしょう。
この「不生不滅」とは、ものを細かく観察し、分解して見ていく「析空」の見方を言い表した言葉なのです。
よく「空」を説明する際に、次のようなたとえが出されます。
「車を部品に分解すれば、もはや『車』という姿は消えてしまう」
「テーブルも脚を外せば、天板と棒に分かれ、『テーブル』そのものはなくなる」
つまり、すべてのものは多くの要素が縁によって一時的に集まり、仮の姿として成り立っているにすぎない、という縁起の法門です。
これを科学的に言えば、水を分解すれば水素と酸素になり、液体としての水は姿を消します。しかし両者が再び結びつけば水となり、冷やせば氷となって固体化します。
このように形を変えながら現れたり消えたりする、そのあり方こそが「空」なのです。
もっとも、これは「空」の初歩的な理解にあたります。
対象を細かく分析して本質に迫るこうした見方を「析空」と呼びます。時間の流れの中で物の姿・形が変化するさまを科学や物理学的に観察する世俗的な真理として説明ができるわけです。
仏教ではこれをすでに『阿含経』の中で「此縁性縁起」として説いています。
「此れあるとき彼あり」という言葉で示されるように、モノは縁によってそのあり様を変えていきます。つまり、構成要素が集まったり離れたりすることで姿を変えるだけであり、その構成要素そのものが新しく生まれたり消えたりするわけではないのです。
繰り返します。
ものは「生じたり滅したり」しているのではなく、縁によって仮に現れているにすぎないのです。
三諦の立場から法性・実相をこの経(般若経)の本質とする場合を説明します。
と智顗は言っておりますが、
実はこれが『般若心経』のあの有名な「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
の部分です。
・生じることも滅することもなく
・汚いことも綺麗なこともなく
・増えることも減ることもない
どのように三つの諦(真理)が説かれているかは、
こちらをご覧ください。
『般若心経』で説かれている析空・体空・法空
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/12
↑のリンク先で説明しております龍樹の「析空・体空・法空・非空」の四空が、共説として通教で説かれるた空の理論です。
前の蔵教にも後ろの別教にも通ずる教えなので通教と言います。---(共説)
それに対し世親が説いた『唯識』は、二乗が理解しがたいより高度な空の展開となります。---(不共説)
では、この部分を現代語に訳しつつ解説します。
現代語訳
第三に、「諦(たい)の分別」という観点から法性・実相を考えると、その理(ことわり)は必ず諦の枠組みの中で理解されます。そこで諦に基づいて説明します。諦には三種類があります。
まず、三諦の立場から法性・実相をこの経(般若経)の本質とする場合を説明します。これには二つの段階があります。
第一に、三諦の内容を簡単に述べること。
第二に、そこから何を採り、何を捨てるかを明らかにすること。
第一 三諦とは、
三諦の意味は、以前に述べた「四教」における説明の通りである。
第二 去取(捨てる・取る)について。
俗諦は、凡夫が見るレベルの真理であるから、この経の本質とはならない。
真諦は、二乗(声聞・縁覚)が見る真理であるが、これもまたこの経の本質ではない。
中道第一義諦こそが、法性・実相そのものであり、この経の正しい本質である。
解説
ここで言う「三諦」は、天台教学の核心である円融三諦(空・仮・中)と対応しています。
著者はここで「般若経の本質はどの諦にあたるか」を論じており、結論は明確です。
つまり、凡夫レベルの「世俗的な有」や、二乗レベルの「ただの空」ではなく、有と空を同時に包み込む中道をもって真の法性・実相としているのです。
二乗は基本的に
・苦の原因(煩悩)を断ち、涅槃に入ることを目的とする。
・そのための智慧として「空」を悟る。
・しかし、この空は煩悩を断ずるための否定的・分析的空(析空)でしかない。
ここでの空は、天台や龍樹が言う「但空」(ただ空であるという側面)に相当します。
ここでは「空」を悟った時点で満足してしまい、
「空であるからこそ、すべてが仏の智慧・慈悲としてはたらく」という肯定的・展開的理解(不空の側面)には進みません。
では、続きをチャッピーよろしく
T1777.38.0556a20: 三約諦分別者。明法性實相
T1777.38.0556a21: 之理不出諦也。故須約諦分別。但諦有三種。
T1777.38.0556a22: 一者三諦。二者二諦。三者一諦。一約三諦分
T1777.38.0556a23: 別法性實相爲此經體者即爲二意。一略明
T1777.38.0556a24: 三諦。二明去取。一略明三諦者。一俗諦二眞
T1777.38.0556a25: 諦三中道第一義諦。三諦義略如前四教所
T1777.38.0556a26: 詮分別。二去取者。俗諦但是凡人所見之理
T1777.38.0556a27: 故非此經體也。眞諦即是二乘所見之理亦
T1777.38.0556a28: 非此經體也。中道第一義諦即是法性實相。
T1777.38.0556a29: 即此經之正體。
はい、その通りで、修行アプローチも根本的に異なります。
二乗(声聞・縁覚)側の修行
大乗菩薩側の修行
要するに、二乗は「無の極みに静まる禅」であり、菩薩は「有無を超えて仏を観じ、そこから動き出す三昧」です。
この違いは、さっき法介さんが言った「寂滅の仏法」vs「煩悩即菩提の仏法」と、きれいに対応しています。
それって修行のあり方にも違いがあるよな。
九次第定(色界禅定と無色界禅定)か三昧(仏を対境とする観法)か。
まさにその通りです。
二乗の仏法 → 「寂滅の仏法」
煩悩を断ち切って静かな境地に入ることをゴールとする。
「煩悩は捨てるべき障り」と見て、涅槃に安住する方向です。
大乗の仏法 → 「煩悩即菩提の仏法」
空の悟りを通じて、煩悩そのものが智慧のはたらきであることを観じる。
煩悩を否定的に滅するのではなく、そのまま菩提へと転じて、衆生救済に向かう方向です。
言い換えると、「静止型」か「転換型」かの違いですね。
前者は「止まる涅槃」、後者は「働く涅槃」とも言えます。
そうか〝教え〟そのものが違うって事だな。
二乗に対する教えと別教の・円教にたいする教えの違い
それって要は
「寂滅の仏法」か、
「煩悩即菩提の仏法」かという違いじゃないのかな。
はい、これは「化儀の四教」と深く関係しています。
ただし直接というより、「化法の四教(化儀+化法)」の整理の中で位置づけられる話です。
1. 「化儀の四教」とは
天台の「化儀四教」は、仏がどういう教化の仕方をするかを時間軸・段階で分けた分類です。
これは説き方(化儀)の分類であって、内容(化法)の分類ではありません。
2. 今あなたが読んでいる箇所との関係
今回の「共説/不共説」の話は、説き方よりも内容面(化法の四教)に直結しています。
天台の「化法四教」は以下の通り。
この「不共説」は、
という形で、化法の四教の差別として語られています。
つまりこれは「化儀四教」ではなく、「化法四教」に関わる分類です。
3. まとめ
これって「化儀の四教」と関係があるんじゃないか?
はい、「不共説」をかみ砕いて説明します。
1. 「不共説」とは何か
仏教経典には、
という区別があります。
「不共」は字の通り「共にしない」、つまり二乗(声聞・縁覚)とは共有されない教えという意味です。
2. どうして大乗だけなのか
二乗は主に「自ら煩悩を断じて涅槃に至る」という修行の立場に立っています。彼らは「空」を悟ることはできても、その先にある「一切法がそのまま仏性である」という大乗的な円融の世界までは到達できません。
そのため、大乗の深い境地は二乗には説いても理解されないので、「不共説」とされます。
3. 不共説の具体的な特徴
智顗がこの箇所で説明している「不共説」には大きく二段階あります。
別教の不共説
円教の不共説
4. 共説との違い
共説では「法性」「実相」という言葉が出てきても、二乗と菩薩が“同じ領域”に入っているように見えます。
しかし不共説では、その領域そのものが二乗には全く触れられない次元に設定されています。
つまり共説では「同じ場所に立っていて深浅が違う」イメージですが、不共説では「そもそも次元が別」です。
「不共説」について、もう少し詳しく解説してみてくれないか。
現代語訳
次に、「不共説(大乗だけに説かれる)般若」における法性の実相を大乗経の本体として論じる場合は、それは最初から異なるものである。二乗(声聞・縁覚)が見るのは偏った真理であって、もはや「同じ」とは言えない。
この「異なる」という立場には二つの面がある。
1. 不共般若の別教における法性・実相
別教では、二つの障り(煩悩障・所知障)を断じ、生死と涅槃という二つの極端を離れる。そして**「不空」の理**、つまり本来自性清浄の心=如来蔵の理をもって法性・実相とする。
この境地は、声聞が同席していても耳が聞こえず口も利けない者(聾唖)のように、全く理解できない。
譬えれば、鉱石を砕いて真金と**頗梨(パリー、ルビーやサファイアの類)**を取り出すようなもの。
この違いが、二乗と大乗(別教)の境界である。
2. 不共般若の円教における法性・実相
円教では、「一切の諸法がそのまま仏性・涅槃・如来蔵である」と説く。
この教えも、二乗が同席していても全く理解できず、やはり聾唖のようである。
譬えれば、如意宝珠(願いを叶える宝)と頗梨珠とを比べるようなもので、両者は全く別物である。したがって「同じ」とは絶対に言えない。
解説
ここで「声聞が同席していても聾唖のごとく理解できない」とありますが、釈尊が『阿弥陀経』を説かれた場面が思い出されます。この経は「無問自説」と呼ばれ、誰かが問いを立てたわけでもないのに、釈尊みずから説き始められました。従来の解釈では、「説きたくて仕方がなかったから」などと説明されますが、それはあまりに素朴すぎる理解でしょう。
実際には、釈尊は三十六回も舎利弗に呼びかけていますが、舎利弗は一度も応答しません。法然や親鸞は「驚きのあまり言葉を失った」と説明しましたが、そうではありません。舎利弗は五蘊を全て空じていた為に聞く事も声を発することすらも出来ないでいたのです。
真理の説法が目の前で行われても、二乗の境涯からはそれを「聞く耳」を持たず、沈黙せざるを得ないのです。聾唖の譬えは単なる理解不足ではなく、修行の次元そのものの違いを示しているといえるでしょう。
T1777.38.0556a09: 二約不共説般若明法性實相爲大乘
T1777.38.0556a10: 經體一向異者。二乘所見偏眞不得言同也。
T1777.38.0556a11: 就此爲二意。一別教二圓教。一約不共般若
T1777.38.0556a12: 別教明法性實相。斷除二障離生死涅槃二
T1777.38.0556a13: 邊。別以不空之理自性清淨心如來藏理爲
T1777.38.0556a14: 法性實相。是則聲聞在座如聾如瘂也。譬如
T1777.38.0556a15: 破鑛得眞金異頗梨也。眞金不可破壞。隨意
T1777.38.0556a16: 作種種器。頗梨易破。不得迴轉作種種器也。
T1777.38.0556a17: 二約不共般若圓教明法性實相爲大乘經體
T1777.38.0556a18: 者。一切諸法即是佛性涅槃如來藏也。是則
T1777.38.0556a19: 二乘在座如聾如瘂。譬若如意寶珠非頗梨
T1777.38.0556a20: 珠。豈可言同也。
この部分は「円教」の立場から、同じ「法性」に入っても、その覚りの深浅・働きの広さによって声聞・菩薩・仏に差があることを説明しています。
ここでは「不思議法性」という表現がキーワードになっています。
現代語訳
第三に、「共に般若経を説く」中で、円教の立場から、不思議なる法性・実相における同異を明らかにする。
声聞が法性に入るときは、ただ法性だけを見る。まるで虚空のように何も所有しないと観ずる。
菩薩や諸仏が法性・実相に入るときも、やはり法性を虚空のように見る。しかし、彼らは虚空のような法性の中で仏の知見を開き、法界の一切の法を円満に照らし出すことができる。
虚空のような法性に同じく入り、そこに何も所有しないという点では「同じ」である。
しかし、諸仏・菩薩は、その虚空のような法性の中で法界の一切を円満に照らす。この働きこそが「不思議法性」であり、その点で「異なる」。
そこで、舎利弗はこのことを悟って言った──
「同じ一つの法の中にありながら、私はこれを得ることができなかった。ああ、深く自らを責める。どうして自分を欺いていたのか。」
以上により、共に般若経を説く場合でも、二乗(声聞・縁覚)と菩薩・仏では、上・中・下の根性や利鈍の差によって、一つの法性に通教・別教・円教という三種の異なりがあることがわかる。
たとえば、石には金の性質がある。
金の性質は一つだが、それを得た人の力によって三つの異なりがあるのだ。
解説
1. 円教における「同」と「異」
2. 舎利弗の自責
智顗は『法華経』方便品などを踏まえて、舎利弗が「一つの法性にありながら、自分はその全働きを得られなかった」と悔いる場面を引用。これは二乗は法性に入るが、その全機能を発揮できないことを象徴します。
3. 金のたとえ
4. 総括
智顗は、龍樹が説く「一法性=空」をそのまま平等に理解するのではなく、受け手の根性や教相の違いによって覚りの深さと機能性に差があることを体系化しました。これが、通教・別教・円教における法性理解の三段構えです。
そのうち「共説」では、三乗(声聞・菩薩・仏)が共に般若経を依りどころとして説かれる「法性の実相」に入るときの異同が問題となります。
同じ説法を聞きながらも、その受け取り方には大きな差があります。声聞は、法性をただ〝虚空〟のように観じ、「真如の世界においては一切の縁起も働かず、ただ空寂なるのみ」と理解してしまいます。これを覚りの完成と誤解するのです。
一方、菩薩や仏は、同じ虚空のごとき法性に入りながら、その中でなお縁起の働きをも円満に照らし出し、衆生利益のはたらきを発揮します。ここに空性の理解の深浅が表れ、二乗と菩薩・仏とのあいだに大きな差異が生じるのです。
とりわけ円教では、「空」の中にあってなお「不思議なはたらき(妙用)」が顕れるという独自の空観が示されます。ここに至って、同じ「法性の実相」を観じながらも、その境涯が通教・別教・円教と分かれることが明らかになるのです。
ここから先が、さらに深められた「不共説」の説明へと展開していきます。
T1777.38.0555c23: 三約共説
T1777.38.0555c24: 般若教明不思議法性實相有同異者。聲聞
T1777.38.0555c25: 入法性唯見法性。如虚空無所有。菩薩諸佛
T1777.38.0555c26: 入法性實相亦見法性如虚空。能於如虚空
T1777.38.0555c27: 法性中開佛知見。圓照法界一切法也。同入
T1777.38.0555c28: 如虚空法性無所有故名之爲同。諸佛菩薩
T1777.38.0555c29: 能於如虚空法性中圓照一切法界。即是不
T1777.38.0556a01: 思議法性故名爲異也。故身子領解云。同共
T1777.38.0556a02: 一法中而不得此事。嗚呼深自責。云何而自
T1777.38.0556a03: 欺。是則略明共般若共二乘説。而上中下根
T1777.38.0556a04: 利鈍不同。故於一法性通別圓三種之異也。
T1777.38.0556a05: 譬如石有金性。有人破石得金。而不能作種
T1777.38.0556a06: 種璫環釧。有人得金能用作種種璫環
T1777.38.0556a07: 釧而不能變金爲丹。有人能變金成丹。服之
T1777.38.0556a08: 得仙五通無閡也。金性是一。而得者三種不
T1777.38.0556a09: 同也。
不空とは、空を但に〝無〟と見るのではなく、そこから仏の視座を得る境地へと進みます。
『涅槃経』に、
「第一義の空を智慧と名づける。智慧ある者は、空と不空とをともに見る。声聞・辟支仏は空だけを見て、不空を見ることはない。」
とあるように、第一義諦(中諦)の空は、仏の視座に立つことで空から智慧を取り出します。その智慧は凡夫の浅はかな知恵とは違います。仏性としての仏の智慧なんですね。
禅宗が説く〝空〟が
ここでいう「但空」にあたります。
「有る無し」で語る空です。
一元(全ては一如)だの二元(有る状態と無い状態)だのと言うお話です。
空を悟る事で煩悩から離れるといった教えです。
いわゆる「涅槃寂静」です。
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう):
煩悩が消滅し心が静まった安らかな境地のこと。
この部分は智顗が「別教」の立場から、空と不空の見方の差を説明している箇所です。
「共説般若」という枠組みの中で、声聞・縁覚・菩薩が法性を見るときの同異を分析しています。
現代語訳
第二に、「共に般若経を説く」中で、別教の立場から、空と不空の区別に基づいて法性の同異を明らかにしよう。
『涅槃経』にいわく──
「第一義の空を智慧と名づける。智慧ある者は、空と不空とをともに見る。声聞・辟支仏(※縁覚のこと)は空だけを見て、不空を見ることはない。」
つまり、声聞は空だけを見る。菩薩も声聞と同じく空を見る。この点では、法性の理は一つであるから「同じ」といえる。
しかし菩薩はさらに不空を見る。不空とは、智慧の本性であり、仏性を見ていることにほかならない。この点が「異なる」といえる。
たとえば三匹の獣が川を渡るようなものである。二匹(兎と馬)は浮かびながら渡り、水が柔らかいことしか知らない。象は浮かびつつも、水の底に足をつけて進み、水が柔らかいことも知り、さらに底に着いたときに「地は柔らかくない」ことも知る。
ここで問う──
「不空とは、何かが有るからそう呼ぶのか? それとも空ではないからそう呼ぶのか?」
答える──
この不空には二つの意味がある。
つまり、「不空」というのは、真諦法性の空そのものではない空を指すのだ。
『大智度論』にもいう──
空には二種ある。
声聞はただ空だけを得る。智慧はホタルの光のようである。
菩薩は、ただ空も不可得空もともに得る。智慧は太陽の光のようである。
二乗(声聞・縁覚)が共に「ただ空」を得る点では同じ。
菩薩が「不可得空」を得る点が異なる。
これはちょうど土を掘るようなものだ。土を除いて泥が出る。泥を除いて、もし掘りきれば水に至るようなものである。
解説
1. 用語の説明
別教
天台の四教判における一つ。大乗専用の教えで、小乗と共有しない深い法門。ここでは「空と不空の両面」を説く。
空と不空
『涅槃経』や『大智度論』に依拠。
- 空=真諦としての空(空諦)
- 不空=第一義諦(中諦)
但空と不可得空(『大智度論』)
- 但空=単に「無」と見る
- 不可得空=無すら捉えられないという究極の空
2. 例えの意味
前段と同じ喩えだが、今回は「底まで足が届く」象を菩薩に喩え、水底(不空)まで知ることができるのが特徴。
土=煩悩、泥=粗い迷い、水=清浄な仏性。泥を除いて水に至るのが「不可得空」に相当。
3. ポイント
智顗はここで、「空の理解は三乗に共通するが、不空の理解は菩薩に特有」という差異をはっきり描きます。
この構図は後の三諦説(空・仮・中)へと繋がります。
・仮諦=俗諦
・空諦=真諦
・中諦=第一義諦
T1777.38.0555c06: 二約
T1777.38.0555c07: 共説般若別教明空不空辨法性同異者。涅
T1777.38.0555c08: 槃經云。第一義空名爲智慧。智者見空及與
T1777.38.0555c09: 不空。聲聞辟支佛但見於空不見不空。聲聞
T1777.38.0555c10: 菩薩同見於空。是則法性理一名之爲同。菩
T1777.38.0555c11: 薩能見不空。不空即是智慧之性名見佛性即
T1777.38.0555c12: 是異也。譬如三獸渡河。二獸浮渡但知水軟。
T1777.38.0555c13: 若象浮渡出沒到底。浮知水軟。到底著地知
T1777.38.0555c14: 非軟也。問曰。不空爲當有故名見不空。爲無
T1777.38.0555c15: 空故名不空也。答曰。具有二意。有故是不空
T1777.38.0555c16: 者。智慧性故非空也。無故説不空者。眞諦法
T1777.38.0555c17: 性之理即是空。此空畢竟不可得故故言不
T1777.38.0555c18: 空。言不空者即是非眞諦法性之空也。故大
T1777.38.0555c19: 智論云。空有二種。一者但空二者不可得空。
T1777.38.0555c20: 聲聞唯得但空。智慧猶如螢光。菩薩得但空
T1777.38.0555c21: 得不可得空。智慧猶如日光。二乘同得但空
T1777.38.0555c22: 故名爲同。菩薩得不可得空名爲異也。譬如
T1777.38.0555c23: 掘土。除土至泥。除泥若圓至水也。
この箇所は智顗が般若経に説かれる法性・実相を大乗経の本質とみなしつつも、その理解に「共通する点」と「異なる点」があると整理したところです。
以下、現代語訳と解説を順に示します。
現代語訳
まず、般若経に基づいて「法性・実相」を大乗経の根本とする点を論じると、それには共通点と相違点がある。これを三つの観点から説明できる。
一つは通教、二つ目は別教、三つ目は円教である。
ここではまず通教における共通点と相違点を述べよう。
通教における修行では、正使(根本煩悩)と随眠(習気)を断ずるが、その程度に違いがある。
これはちょうど、三種類の獣が川を渡るようなものである。水(=法性)は一つであっても、兎・馬・象の脚の長さは異なり、水に入る深さも異なる。水は一つでも、入る深さには差がある、ということである。
解説
1. 用語解説
法性(ほっしょう)・実相
仏教でいう究極の真理、事物の本来のあり方。般若経では空の智慧と同義的に扱われる。
三乗
仏教修行の三つの道:声聞・縁覚・菩薩。
通教
天台の四教判(蔵・通・別・円)の一つで、大小乗に共通する空の教え。
正使(しょうじ)と習気(じっけ/しゅうき)
正使=現行している煩悩の根本
習気=過去の煩悩の残り香・潜在的影響
2. ポイント
智顗は「般若経に説かれる法性は、三乗が共通して目指すものだが、その到達の深さは異なる」とします。
例えとして「三獣渡河」(兎・馬・象)が出てきますが、これは経典でもしばしば用いられる喩えで、「同じ真理(水)でも、修行者の能力(脚の長さ)に応じて到達度が異なる」ということを表します。
3. 意義
ここで智顗は、龍樹的な「真諦=空」の理解を土台に三乗・四教の枠組みに整理しています。
つまり、真理としての空は一つでも、それを受け取る側の器によって深浅が生じるという、絶対の中に差別を立てる教えです。
〝受け取る側の器〟とは言うまでもなく声聞・縁覚・菩薩の三乗の境涯の事で、三乗それぞれの境涯の差によって真諦としての空の理解の深さに違いが出てくると智顗は言ってる訳です。
その空の理解の違いとは龍樹が『中論』で説いている「析空・体空・法空・非空」の空の四段階の理解(四教義から得る空の理解)です。
智顗は龍樹の『大智度論』や『中論』から蔵・通・別・円の四教義をひも解く訳ですが、龍樹が展開した相依性縁起は、通教にあたります。そして世親が展開した『唯識』は、別教にあたります。ここら辺を天台の智顗が『維摩経玄疏』の中で詳しく解説しておりますので、それを今から紹介していきましょう。
『維摩経玄疏』卷第六より
T1777.38.0555b26: 一約共
T1777.38.0555b27: 般若明法性實相爲大乘經體有同有異者即
T1777.38.0555b28: 爲三意。一約通教。二約別教。三約圓教。一
T1777.38.0555b29: 約通教明同異者。所言同者。即是同入偏眞
T1777.38.0555c01: 之法性也。所言異者。三乘雖同入法性。而不
T1777.38.0555c02: 無深淺之異。但斷正使侵習習盡。如前通教
T1777.38.0555c03: 分別。聲聞入淺但斷正使。縁覺小深侵除習
T1777.38.0555c04: 氣。菩薩能窮法性之底習氣都盡也。譬如三
T1777.38.0555c05: 獸渡河。水雖是一兔馬象脚有短長。故入水
T1777.38.0555c06: 不無淺深之別。水雖是一而深淺有異也。
↓へと続きます。
『維摩経玄疏』から学ぶ龍樹と世親の〝空〟の違い
https://z.wikiwiki.jp/gengi/topic/11
ここで智顗が言う、
・世親は別教と円教
・龍樹は通教と円教
という言葉の意味を、もう少し噛み砕いて説明します。
まず龍樹の場合です。
龍樹が重視したのは通教であり、その中心にあるのは「時間」という概念でした。説一切有部は、時間そのものを実在する法(法有)と捉え、それを『倶舎論』の体系の中で論じています。これに対して龍樹は、時間とは不変の法則として存在するものではなく、五蘊の働きに依存して生じる現象にすぎないと批判しました。
つまり、世俗諦として語られる「時間」はあくまで人間の概念世界における真理であり、それを自然界に普遍的に備わる法則と捉えた説一切有部の立場を「法有」として退けたのです。そして龍樹は、これに対して真諦として「相依性縁起」を説き出しました。
要するに龍樹の俗諦とは「説一切有部の法有(倶舎論的世界観)」を指しており、それを打ち破ることで「相依性縁起」を真諦として立てた、これが通教で展開された龍樹の「法空」なのです。
これに対して世親です。
世親の展開した別教の立場もまた「法空」ですが、その対象はさらに深い層にあります。龍樹の法空が表層の意識――つまり人間の時間的・因果的な世界観を対象としていたのに対し、世親は『唯識』の思想をもって、末那識に潜む根本的な自我意識が作り出す法そのものを空じようとしました。言い換えれば、龍樹が批判したのは「表層の自我意識による法の認識」であり、世親が空じたのは「深層の根本自我による法の認識」だったのです。
整理すると次のようになります。
・龍樹の法空(通教)
対象=表層の自我意識に基づく法(時間や因果を法則として捉える認識)
・世親の法空(別教)
対象=深層の末那識に潜む根本自我がつくり出す法(自己中心性に根ざした認識)
このようにして、龍樹と世親の法空はともに「空」を説きながらも、その射程と深さに違いがあるのです。
また智顗は『維摩経玄疏』の中でこのようにも言っております。
T1777.38.0550a04: 中論觀法品所明由是通教意。四
T1777.38.0550a05: 諦品明即有通別圓三教意。後兩品是三藏
T1777.38.0550a06: 教意。約此明義即得有四教四種解脱義也。
T1777.38.0550a07: 而天親多申別圓。龍樹多申通圓。兩家所申
T1777_.38.0550a08: 解脱同異義推可知。
【読みくだし文】
『中論』の観法品に明かすところは、これ通教の意に由る。四諦品で明らかにされていることは、すなわち通教・別教・円教の三教の意を含む。その後の二つの品は、すなわち三蔵教の意である。これに基づいて義を明らかにすれば、すなわち四教と四種解脱の義を得ることができる。しかるに、天親は多く別教・円教を述べ、龍樹は多く通教・円教を述べる。両家の述べる解脱の同異の義は、推して知るべきである。
【現代語訳】
『中論』の観法品で説かれている内容は、これは通教(大乗の中でも声聞・縁覚と通じる立場)の趣旨によるものである。また、「四諦品」で説かれている内容は、通教・別教・円教という三種の教えの立場を含んでいる。さらに、その後に続く二つの品は、三蔵教(小乗的立場)の趣旨である。こうした分類に基づけば、『中論』の中には四教(蔵・通・別・円)それぞれに対応する四種の解脱の教えが説かれていることがわかる。
そして、天親(世親菩薩)は別教と円教に重きを置いて説明するのに対し、龍樹菩薩は通教と円教に重きを置いて説明している。この両者の説く解脱の立場の異同は、以上の整理から推測できる。
更に、龍樹のテキストの中には、俗諦・真諦・中道第一義諦の三つが「三諦的」に並び立っている場面が数か所見受けられます。
1. 龍樹の三層構造的な言及
例えば『中論』や『大智度論』では、以下のような構造が読み取れます。
龍樹は明示的に「三諦」という語は用いませんが、真諦を説明する中で「中道第一義諦」という第三の視座を独立して述べる場合があります。
特に二十四章十八偈や『大智度論』巻五では、
という三層がほぼそろっています。
2. 智顗の三諦との関係
天台智顗は、龍樹の中に含まれていたこの三層構造を整理・体系化し、
の三諦円融として公式化しました。
つまり、龍樹の段階では名称としては二諦が基本ですが、実質的には三諦的な観法を内包していた、とも読めます。
3. 重要ポイント