それで、ル・グインはそれより後の世代になる。1972年のル・グインが踏襲しているジャンル伝統はフェミニズムであったり、ベトナム戦争だったり、被支配側の視点だったりするが、それはこの当時のチャレンジングではない。今読むとデイビッドソン大尉がかわいそうなくらいだ。目線のあるのはThe Word for World is Forest……アスシー人の言葉では「世界」に当たる語は「森」を意味する、それぞれを表す別の言葉はそこに持たないのだった、というところ。それ自体は、2020年代の読者に気持ちを揺さぶることになりにくいのだが、この話の当時はそこに揺れるということを思い出せればよい。
世界の(略)、小尾芙佐・小池美佐子訳を読む。わたしは前回もこの訳の本文より、とにかく「訳題が気に入らない」ということは憶えていて、それしか今に憶えていない。サガフロ2のゲーム中に引用されていたとか、そういうことは知っているがわたしには関係ない。
5か月ほど中断していた。再開、2まで。
いまタニス・リーのVisを読んでいたのでLowlanderがこの異星人のような連想はしていたが、それは70年代SFの「人種」モチーフのものだろう。本作は「言語」の話だったように思う。
「人種」よりは、まず「消えゆく民族」の話題から思い出したほうがいいのか。
こんなやり取りは1972年当時に読者にはお馴染みのものじゃないのか。それとも、SFというジャンルで登場するのは目新しかったのかな。荒唐無稽で低俗なサブカルだったSFでもいまや民族や社会の話をするようになった! のような。
わたしはこういう作品の、以前の記憶をたどって連想しているのは『エンダーのゲーム』の続篇の二部……『死者の代弁者』(1986)だった、まで今思い出した。似たシチュ、と言い出せば後に幾らでも増えるだろう。オーソン・スコット・カードの読んだ記憶も今は詳しくたぐれなくなっていてメモしておくまで。
『歴史がない』は最近何度か同じようなことを書いた気になるが、バイストン・ウェルは静態的は言えても『暴力、殺人、戦争がない』とは全く言えない。そこは歴史学がない、歴史観が古い、のような言いだった。
この文庫本の前半、「世界の合言葉は森」まで読了。
上の話は、「消えゆく民族」のようなストーリーをするなら19世紀末までか、1920年代くらいまでが下限。その下限を区切るのは、わたしにはちょうどカレン・ブリクセンの経歴を目安にしていて、ブリクセン夫人はその時代の最後を経験した人だが、その小説作品はすでにそれが主題にはならなかった。次の時代へ行った、と考える。
ル・グインが何を読んで育ったかはル・グインが書いている。ハイニッシュ等のシリーズになるSFの発端がコードウェイナー・スミスだったというのは、1961年(アルファ・ラルファ大通り)。SFのジャンルで神話ファンタジーに与するというか、創作神話のようなロマンチックな運動ができることを知って、それが大いに刺激になった。SFでそれが新しいと思えたのが、じつに1960年代まで下る。ジャック・ヴァンスなどもこの世代に入るんだろう。
それで、ル・グインはそれより後の世代になる。1972年のル・グインが踏襲しているジャンル伝統はフェミニズムであったり、ベトナム戦争だったり、被支配側の視点だったりするが、それはこの当時のチャレンジングではない。今読むとデイビッドソン大尉がかわいそうなくらいだ。目線のあるのはThe Word for World is Forest……アスシー人の言葉では「世界」に当たる語は「森」を意味する、それぞれを表す別の言葉はそこに持たないのだった、というところ。それ自体は、2020年代の読者に気持ちを揺さぶることになりにくいのだが、この話の当時はそこに揺れるということを思い出せればよい。
「アスシー」
「シャアブ」
神=通訳というのも刺激的な設定じゃないか?
それにしても「合言葉」はないだろう、とやっぱり思う。他に訳になる日本語はなかったとしたら、「語にこだわること」の意味を考えてみるかもしれない。
言語というのはいつでも、逐語的に一対一の対訳になるとでも思っているとか? まさか。そういう含みまで持っている邦題であるとかね。
小尾先生にべつに怨みがあるわけではなくて、わたしは他にもたくさん訳書のお世話になっているもの。ただ、そういう葛藤があるのだったら、今はもう英語で原書で読んだほうがいい。邦訳が手許にすでに積んであるのでなく、取り寄せようと思えば邦訳の古本より英字電子版のほうが安いとなれば考えられない。
わたしは以前に読み進めてきた経緯が、費用と、FTやSF小説を原書で読む発想がなかったのとでそうだが、今はそのほうが安いし、いつの間にか小説も英語で読むようになっていれば怠惰な日本人読者でも「ル・グインくらい」と思うようにはなった。アースシーはそうだろうと思う。
この話をわざわざ口ずさみ読み返したいかというと、そうでもなく、このたびはスルー。次回、『マラフレナ』は上下巻を見つけられなかったから、それは英語で読む。
ISFDBをみると「世界の~」と「アオサギ」は英語の本でも合本になっている場合があるらしいが、この二作をひとつにする気分は1990年代にはわかるが、今の感覚だと不適切だな。
近いモチーフを掲げて同著者のそれぞれべつの趣向を味わうカップリング、なら別に変ではない。
日本の読者はぜったい、表題作より「アオサギの眼」のほうが好き、のように思うに決まっているけど両作には6年も間があって、とくにお互いに密接な関係を言う理由もない。アオサギのほうは、一見して少女の自我のめざめの教養的なジュブナイル(少女小説)を装う。それは装っているので、著者はそうした様々な文体を駆使することができるアピールになってる。
体裁は教養的で、朗らかな気分で、逆にいうと毒にも薬にもならないが、文章の響きを楽しむにはこちら。という印象を漠然と言い換えると「好き」になると思う。わたしは……英語で読みたいなら、というな。
ル・グインは「小説はエンターテインメント」という筋を脱線しない、と言っているんだから、その技の多いことを読むべきだよな。
「アオサギの眼」読了。つぎは『所有せざる人々』(1974)。
併読中の富野作品(リーン)との接続などを考えてみると、本作中でもたとえば「非暴力・不服従」は「より大きく、的確な被害を敵に与える戦術」として考えられている。これはル・グインより以前に遡れてスミス由来だと思う。平和とは「次の戦争、より大きな戦争に勝つための武器」として考えられ、作中人物も、まず戦いがなければ平和を考えることもできないと呟いている。
「戦争を始めないこと」には近づいていない。現代的に、この次の展開はなにか。