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「……」
「焚き火の揺らめきに、肩越しのまなざしが紛れていた」
「剣を研ぐ彼の横顔に、魔法より確かな光を見た」
「森の中で手を取り合った一瞬が、今も心の地図に刻まれている」
「……」
「落葉の絨毯に残された足跡を残して、燥ぐ私を柔和に見つめてくれたり」
「畔の潮風に揺らめく鳥を見て欲しくて、差した指の先を優しそうに見てくれたり」
「手紙を急かすモグの気を逸らす為に、具合悪い演技をして全然気づいてもらえてなかったり」
「お父さんに撫でまわされている私を見て、何処か安堵している瞳を覗かせたり」
「……私が彼を守った時、何処までも辛そうな顔をしてくれたり」
「……瘴気の中で、私の名前を呼んでくれたり」
「……私という存在に、彼の罪を被せてくれたり」
「……私と一緒に、旅をしたいって、言ってくれた」
「其処を通じて、彼の利己は思い出を築いていって」
「憂鬱という深い深い海から、初めて飛びっきりの笑顔を浮かばせた」
「その全てが、他の誰でもない、私に向けられた表情」
「私だけの、彼」
その最後の言葉だけは、ひどく静かだった。
所有欲ではない。
誰かに奪われたくないという意味でもない。
数え切れない人間と出会い、数え切れない思い出を残したユンフという男の中で、たった一人の少女へ向けられたもの。
その事実を、アトリは何より大切に抱えていた。
「……」
「生きる意味なんてない、なんて顔してたんだよ」
「でも、私と一緒に居る時、それは優しい焔に変わって、色んな思い出を描いていくの」
「そして、思い出を抱えていきたいっていう願いを持った彼は」
「いつか来る未来に、私を添えてくれた」
「利他的だった彼が、願った自分の為の思い出」
「私は、そんな彼が帰ってこないなんて、思わない」
「私が哀しい思いをするなんて、絶対に赦さないって思うだろうから」
「それが、彼の成したい事」
「方向標の先に立つ、私」
「……」
「安寧の煌めきさん」
「ユンフの現状を伝えるだけだったら、きっと貴方達は来なかったと思います」
「教えて」
「私に何が出来るのか」
「彩りたいの」
「彼の為の色を」
「……」
「……」
「もう一度、彼を引っ張りあげましょう」
「貴方の想いで」
「貴方の詩で」
「貴方の勇気で」
都市におけるユンフの現状。
それを受け止めようと幾度も文字を咀嚼する。
アトリはその快活さを失いながらも、
決して笑みだけは崩さぬようにと、目を伏せた。
その笑みを浮かべるアトリを、青年は変わらぬ憂鬱めいた瞳で見つめ、
何故その笑みを崩さないのか不思議そうにさえした。
「……また、沈んでしまったんだね……」
「何故、そのような哀し気な笑みを浮かべるのでしょうか」
「明るさの象徴ではなく、崩れそうなものを両手で支えるような笑み」
「……笑っておきたいんだ」
「私は、まだ、彼が帰ってくるって」
「信じているから」
「……」
「きっと、きっと」
「ユンフはまだ、戦っているんだと思う」
「私を護る為に、自分の築き上げたものを放り投げてでも」
「私の為という、自分の為に」
「……」
苦痛にさえ感じる虚勢の笑み。
だが、其処には確かに信じる者だけが出来る瞳があり、
絶望に屈しない希望を秘めていた。
彼女もまた、彼女自身の想いを肯定すべく、
彼の帰りを待っている。
そう感じ取った青年は、細めた視線を下ろして目を伏せる。
「彼、優しいんだ」
「何処までも利他的で、自分の幸せなんて二の次にして」
「いつも沈んだ瞳で、平気そうな顔して……」
「人の為に、自分を内包する」
「だから、自分の色を持たなくても、人の思い出に絵具を注ぐの」
「それが、彼だけの持つ焔だったから」
声が弾む。
「……」
「そんな彼がね、私を見て、笑ってくれたんだ」
「笑ってくれるだけじゃない」
「色んな、色んな表情を見せてくれるの」
「……お聞きしても?」
青年に応えるように、アトリは頷く。
胸の奥から一枚ずつ絵を取り出すように、言葉を紡いだ。
「……どうしてそこまで……」
「……どうしてなんでしょうね……」
「ただ、ただ……」
「そうしたいと、思ったからじゃないでしょうか」
「……」
「彼を助けたいと願う我々の気持ち」
「絶望に侵食された世界の中で、嘘偽りの無い希望を与えてくれた彼に」
「私達はただ、寄り添いたいと思っただけなんです」
アトリは、その言葉を静かに受け止めていた。
自分の知らない場所でも、ユンフを覚えている人間がいる。
それだけで、胸の奥に僅かな灯火が生まれたようだった。
「……貴方のような人と、ユンフは友達になれたんですね」
「彼を慕う者は多いです」
「私はそのうちの一人に過ぎません」
「他にも彼に応えたいと思う人は多く」
「都市の世界でも彼の為にと動いている者はいます」
「……ユンフは……今……」
「元気に、してる?」
小さな声は、不安を彩っていた。
「……」
「それを、伝えにきたんですよね」
「気を使わないでください、安寧の煌めきさん」
「貴方が来たという事は、きっと、彼の身に何かあったってことぐらい」
「察する事は出来るから」
「……」
「彼自身は、まだ健在です」
「しかし彼の魂は、都市に於いて観測不可能となっています」
「どういうこと?」
「『ユンフ』という感情の側、彼を構成する肉体そのものは、生きているでしょう」
「貴方との思い出を失った彼は、内側に秘めた感情の殻の中が空虚になり」
「その空虚を埋めるように別の人格が構成されました」
「貴方の知るユンフさんは、既に都市という世界には居ません」
「……」
「今ではその軌跡は穢れ、都市に於いて異質であったその物語は」
「もう、都市という世界に染まりきった中身の無い過去」
「彼は、沈んでしまいました」
「……そうですか……」
「それと、会いに来てくれた人が居たんです」
「流れてきた記憶の最後の方に位置する人で」
「この世界に戻ってきたもう一人の旅人」
「その人からも、ユンフの旅と、そして垣間見てきた物語を聞きました」
「……」
「……貴方にとって、彼はどんな人?」
緩やかな風が窓の隙間から入り込む。
青年の前髪は揺れ、その憂鬱にも等しい瞳の奥底に、
ある人物とのやり取りが映り込んだ。
そうして其処で語られた言葉を一つ一つ思い出していくと、
青年の表情は穏やかなものへと変化していった。
「……温かな人……」
「花を愛でる焔を抱えている」
「利己的で、何処までも一途で」
「口下手なクリスタルキャラバンです」
「――……ふふっ……」
アトリの口から、小さな笑いが零れた。
その笑いには懐かしさがあった。
まるで、その人物を知っている者だけが共有できる、ささやかな記憶の温度だった。
「都市という世界で、何処までも異質で」
「誰よりも異端でした」
「ですが、その異なる性質に、誰もが彼の焔に照らされ」
「心を通わせながらも、自身の成したい欲望(りそう)に沿って」
「善性を育んでいました」
「……だからこそ、私は彼が好きです」
「幻想体という枠組みでありながら、私を『友』と評してくれた事」
「そしてその枠組みに居ながらも、私一個人はその『友』の為に」
「貴方の元へと参りました」
「……別の世界、なんですよね。『都市』という場所は」
「なら、どうやって私達の世界に?」
「私を研究対象とする施設の技術力」
「私という素体、幻想体であるが故の力」
「都市に歪みを生み出した、地下に流れる河の揺らめき」
「其処から生じた扉の先」
「彼が残した『方向標』の軌跡」
そこまで聞いて、アトリの表情が僅かに曇る。
遠く離れた世界を繋いだのは、偶然などという言葉では済まされないほど多くのものだった。
「お茶、どうぞ」
コトリ、と小さな音を立ててマグカップが置かれる。
立ち昇った柔らかな湯気が二人の間を薄く隔て、その向こうには、憂鬱にも似た表情を崩さない青年の顔があった。
湯気の向こうで揺れる視線を見つめながら、アトリは静かに席へ腰を下ろす。
「ありがとうございます」
旅を経験していたであろうに、その手首はあまりにも細かった。かつて幾つもの道を歩き、幾つもの景色を越えてきた者の手とは思えないほどに。
彼女はそんな手を、自身の服の裾の中へそっと隠した。
見られたくないのか、それとも、見せる必要がないと思ったのか。
互いに腰を掛け、ようやく二人の間に対話の形が整った。
「……」
「……」
沈黙だけが、温かな陽気の中へ静かに溶けていく。
窓から差し込む光は穏やかだった。
冷たい都市の景色とは対照的な、柔らかな昼の光。
その中で、青年はアトリを見つめ続けていた。
「……私が何者か、お尋ねにならないのですか?」
青年が、陽気の中へ声を紡ぐ。その声音は静かで、どこか慎重だった。
対するアトリは、彼の警戒を解くように、陽射しよりも柔和な笑みを浮かべて首をやや傾げる。
「ユンフの友達、なんですよね」
「それなら、貴方は彼の思い出です」
「……」
一瞬、青年の瞳が僅かに揺れた。
問いに対する答えとしては、あまりにも真っ直ぐだった。けれど、その言葉には奇妙な温度があった。
「ごめんなさい、そう言う事を聞きたかったんじゃないよね」
「いえ……きっと、聞きたかった言葉の一つだと思います」
「……」
「何故、私をご存じなのでしょうか」
その問いに、アトリは一度だけ視線を落とした。
そこには、長い旅路を思い返すような静かな時間が流れる。
「彼の彩った旅路」
「其処に記された軌跡の曲線」
「『安寧の煌めき』」
「あの時、貴方を通じてユンフが都市で撒いた種が芽吹いて」
「その大きな花は、彼にとってとても大きな出来事になったんです」
「大切な、大切な思い出」
「私を起こす為に、その思い出をしずくに変えて」
「……」
―ティパの村―
「牛の様子はどうだ?元気そうか?」
「あぁ、もう文字通り道草食いすぎて腹いっぱいだってよ」
「ったく、俺達が世話してやってるからいいものを」
「あの野郎さっさと帰ってこいってのに」
「あぁ、帰った暁には、懲らしめてやらねぇとな」
「兄ちゃん帰ってくんの!?」
「いや、あー、はは、まだ?」
「えー、なんだよ!クリスタルキャラバンの時の話、聞きたいのに!」
「それはまた今度!ほら、なんてーの?男が参ってるときは、そっとするってのが流儀ってもんでよ」
コッコッコッ……
「……」
「……ん~?客……?」
「……」
「……こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
「ティパの村へようこそってんだ。見慣れない恰好してるけど……」
「ローラン村長に用か?」
「いえ」
「思い出を、探しに来ました」
「思い出を……?」
「……」
「アトリさん」
「その方は、どちらにいらっしゃいますか?」
「あぁ、アトリの嬢ちゃんに用事かい」
「井戸の方に居る。クリスタルがぶっささってるのが見えるところだよ」
「ありがとうございます」トットット……
「……」
「おやっさん、アレ何処の人だ?クラヴァット……か?」
「さぁ」
「花ぶっ刺さってた!カッケェ!」
「真似すんじゃねぇぞチビスケ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「私のものは 何も残さないで下さい」
「あなたこそ わたしのすべてだと 言えるように」
「私の意志は 少しも残さないで下さい」
「あらゆるところにあなたを 感じ得ますように」
「そして ことごとに あなたに来て 常にあなたに 愛をささげ得ますように」
「……?」
「はじめまして、アトリさん」
「……――」
「――」
「……はじめまして」
「……安寧の煌めきさん」
当該文章は12区巣内隔離地域で起きた情報を整理したものである。
特徴――
『透明の軌跡』を素体としたねじれが発生。
全身は灰白色の発光体と半透明の構造物によって形成されており、周囲の光量や精神状態によって、その輪郭は僅かに揺らぐ。
皮膚、筋肉、骨格といった生物学的組織は確認されていない。
人間の表情を構成する器官は一切存在せず、頭部そのものが無機質な灰色の発光構造として形成されている。
また、複数の本が常時付着及び浮遊しており、
古びた冊子、記録帳、手帳に類似しているが、いずれも通常の書物としての用途を果たしているとは考えにくい。
4つの腕には筆、キャンバス、本が握られており、残り一つの手は常に何かを探し求めているような仕草をする。
中央に位置する空洞にはガンブレードが貫かれており、特色が描いてきた軌跡を示すかのように残光が揺らめている。
事件規模――
出現時、『紫の涙』との交戦が確認された。
紫の涙の撤退後、裏路地への出現を確認。
一部の街を機能停止にした後、12区内の薬指ギャラリーを崩壊させたのち、22区へと移動。
『里帰り』の被害地域であるエル村、ソル村を崩壊させ、
現時点で其処で『横道』を作る発言を残している。
巣を渡り歩く能力を持ち、特色を押し退ける、5本指の1つの拠点を崩壊させるなど、
その被害状況は多岐に渡る。
被害者そのものは組織を中心としたものではあるが、
今後の被害規模を想定する限り、その最大数は甘く見込む事はできない。
ねじれた本体が『透明の軌跡』である事を考慮し、
当事件は都市の星級災害であることを断定する。
当個体は『透明の軌跡』から派生したものあり、
同時にその特色を蔑む行為に及んでもいるため、同名での呼称はしない。
よって、このねじれの名称は
『灰色の旅人』とする。
廃墟には、音がなかった。
崩れ落ちた天井の向こうから夜の冷気が流れ込み、割れた窓枠が風に軋んでいる。
異変が起きたとすれば、其処には無数の紙が舞っていた事。
二枚、三枚。まるで見えない何かに引かれるように次々と宙へ昇っていく。
そうして紙がいくつも舞う中、異形に身を捻じった精神は浮かび上がる。
人間の形を借りようとして、途中で諦めたような姿。
灰色の発光体が幾重にも重なり、それらが辛うじて「身体」という形を保っている。
「……成っちまったか」
紫の涙は妖艶にも微笑みながら、その巨体を見上げた。
歳月を重ねた顔には幾筋もの皺が刻まれていたが、その眼差しだけは老いを知らなかった。
「無数の物語を持った者の身体を借りた者が行きつくのは、自身の物語の形成」
「小僧、アンタは憧れの側面があったからこそ」
「そんな未練がましい姿になっちまったんだね」
幾重にも浮遊する本を横目に、紫の涙は腰に位置する柄へと掌を乗せる。
頁が舞う世界の中、紫の涙は決してそれらを拾う事は無く、
ただ目の前のねじれに視線を合わせ続ける。
『――』
残骸は、最早思い出を求める群れとなり、
形無き形を彩ってしまった。
「『ねじれ』……」
<……>
<そう解釈すること自体は受け入れるけど>
<やっぱり誰かに名前を言い換えて欲しいわね>
<自分の形をそのまま放出させるだけ>
<その人にとって、より良い世界を映し出せる瞳を持てる形>
<でも、名前なんて後から幾らでも変われるもの>
<貴方だってそうよ>
<『ユンフ』として生きていけると同時に>
<その先は何者にでもなれる自由を得るの>
「俺は――俺は――」
アイツのようになりたかった。
アイツのようになることは出来ないと示された。
誰もが見る目を気にした。
何故なら、俺には何もないから。
何一つとして、この手に残っていないから。
<何かを残したい?>
残した人生にしたい。
アイツが残したように、俺もそうしたい。
どうすりゃいい。
この先も、過去も、何もない俺が、
何を生み出せるというのだろうか。
<全てを模倣することはないのよ>
<貴方が感じた、貴方の残し方>
……。
記録……記憶……。
俺にないものを、残して行けば……。
都市は、皆は……。
俺を、見てくれるのだろうか。
<貴方は貴方らしくしたいという欲求に素直になれる>
<崇高な理念>
<揺るぎない意思>
<孤独や恐怖にだって耐えられる>
<貴方だけの人生を>
なら、俺はもう、真似る事を止めながら、真似る事が出来る。
俺のやり方で、都市を生きていいのなら
「俺は――』
<光になって、溶けていって、貴方だけの色を咲かせるの>
『俺は――』
<自分の望んだ姿形になれるように>
<貴方の世界を創れるように>
思うがまま、お前の軌跡を上書きしてみせる。
<それって、貴方がしないといけないことなの?>
――
<例え形は異なれど、今その身体に生きているのは貴方>
<名前も無くて、過去も無くて、答えをずっと探し求めている旅人>
<そんな空っぽな貴方が、ユンフの枠組みに無理やり入る事なんて>
<いずれ摩耗して壊れてしまうだけ>
「それは――」
<視線が怖いのでしょう?>
<ユンフの身体で生きているのに、そうじゃないって言われる視線が>
<最初はその上で生きて往こうと思ったのに>
<今ではユンフの真似事をしてみようとさえ思う>
<いい?それは決して根本の解決にはならない>
<周りに合わせる必要なんてないの>
<自分には自分だけの形があって、私はそれを肯定するだけ>
<耳を傾けた先に、本当の自分が見付けられるの>
声は、恐ろしい程に俺を肯定した。
一つずつ掘り下げてしまえば、いつだってそれはしっかりと絡まり合っていた。
気が付けば、分別さえできない巨大な罪悪感の塊はいつも俺の手に握られていた。
其処には幾つもの都市の思い出があり、俺のものではない暖かい気持ちが籠っていた。
そんな感情を前にして、俺は一度逃げ、その上で再び向き合おうとした。
だが、其処に発生する苦痛を、俺自身も分からないまま喰らい続けていた。
<でも、それだと貴方は結局身体に縛られたまま生きて往くことになってしまう>
<だから私は手助けしたいと思ったのよ>
<貴方がユンフの延長線として生きて往くんじゃなくて>
<『ユンフ』として生きていけるように>
「違う!!!」
「俺は、アイツじゃない!」
「アイツであってはならない!」
<『ユンフ』でいいのよ>
<その上で、貴方は自分らしく生きるの>
<都市が、世界が、故郷が、誰がなんと言おうと>
<貴方の心の形は貴方の望む人生を彩る>
心地よい。
自身でどれだけ否定したとしても、声は俺の心の奥底に潜んでいた欲求を掬い上げる。
中途半端に決めた覚悟は、こうも簡単に瓦解していく。
今、苦痛に歪めた表情も、おそらく俺の反骨が生む虚偽に過ぎない。
それだけ、俺の心は容易く魅了されていく。
声の通りに。
<他の罪に目を向けてはならない>
<貴方を彩る怠惰と向き合った時、其処から初めて進めるの>
光を感じる。
俺を肯定する声は、其処に沈んだ泥沼の感情を剥いでくれて、
心は雪解けのように軽くなっていった。
「……そうか……」
「生きた走馬灯が語った過去の声は、アンタだったのか」
<孤独を埋めてくれる優しさに満たされない人>
<あの人は私の意見を聞いたうえで、その空洞を自ら断った>
<それが、誰も泣かない事だと信じて>
<自分らしく、自分の色を見付けたの>
「……」
<貴方の心は痛そうね>
<だって貴方の境遇は、誰にも理解されず、誰かの価値観を押し付けられたものだから>
<それでも貴方は進んでみようと思ったのでしょ>
<ユンフに憧れたから>
「……」
<でも、その感情に気づいた時はもう遅かったわ>
<ユンフが今まで築いてきた軌跡の延長線を歩いた貴方は>
<彼が決して下さなかった決断を幾つも実行してきた>
<それは『透明の軌跡』が成してきた行路を閉ざす事と一緒>
<彼の物語は、潰えてしまったも同義なの>
「お前が勝手に終わらせていい物語じゃねぇ」
「アイツの描いた軌跡は、必ず届けなくちゃならない」
「俺は、俺が何者でもない事を悟った上で」
「その上で、俺はアイツの物語を届けようと――」
<方法も、結末も、何もかも確立されていない事なのに>
<その不確定要素に取り囲まれた絶望に近しい道程を、貴方は歩めるの?>
「――」
<いい、ユンフ。貴方が歩めなくても、それは誰にも責められることではないわ>
<この都市に蔓延る心の病は、誰しも抱えるもの>
<例え違う世界から飛び出された貴方だとしても、其れは等しく抱えてしまっている病巣>
<救われるべきなのよ、貴方は>
温かい声は、俺を庇うように言葉を繋げ続ける。
心地よい言葉は、耳の中で温度を保ち、心だけではなく、身体そのものに高揚感を齎した。
謳うような、夢でも見るかのような音節。それはまるで、罪を減らしてやろうとする慰めのように聞こえた。
だが、俺はその罪を預けようとは思いたくなかった。
穢してしまった俺の手は、もう二度と綺麗になる事はないけれど、
それでも、あの時見えた少女の笑顔の為に奔走した男の物語を、
俺は拾い上げて届けたかった。
「救われるべきは、俺じゃない」
「この身体の真の持ち主」
「俺は、其処に当てはめられただけの都市の人間の一人に過ぎない」
そう、俺が望むことは――
傾ける
静寂だった。
久しぶりに感じる完全な静寂。
その中で、この空間の主であることを語る者の声が朗らかに聞こえてくる。
光の中に溶けていくかのような輝かしい声が。
「……声……」
「何処からだ」
<はじめまして、ユンフ>
「俺はユンフじゃない」
「誰でもない」
口に出して初めて、それが意味の無い問いである事を悟る。
俺を『ユンフ』と定義する者は、その軌跡を既に見た事のある人物だから。
<どうかしら>
<貴方は今、その身体に生きて、その身体が成した事に従事しようとしていた>
<そしてその行路を確かなものにしようとして>
<自らの意思にさえ逆らいながら都市の循環に身を寄せていたでしょう>
「誰なんだ、アンタ」
<私が何者かなんてことは大事なことじゃないのよ、ユンフ>
「だから俺はユンフじゃ――」
<とにかくお話ししましょう>
目の前には、明るく温かい光だけがある。
まるでこの都市の至るところに散らばっていた光のような、ここにいるだけで全ての過ちを露わにされてしまうような羞恥を呼び起こされる。
そうして必ず思い浮かぶ顔がある。
救済というものを無闇に抱えてはならないとでもいうように、鮮明に。
<私達はお互いにお客さん>
<私が貴方に聞きたい事があるように、貴方も私に言いたい事があってもいいと思うわ>
直感的に覚えたのは、この声に耳を傾けてはならないということ。
この都市では、答えを得る事の出来ない質問が多い。
俺が誰であるか、ユンフの軌跡を描けているのか、そしてこの物語に終わりはあるのか。
まるで誰も答える事の出来ない、そんな疑問に対して、
この声は答えてくれる。
そんな気がした。
<答えは奥底に眠っているわ>
<『ユンフ』>
「会えたのか」
その小さな流れの中に希望があるというのであれば、
紫の涙が犠牲にしたもので、得た何かがあるかという事。
だが、結局それも
「会えなかったさ」
無駄になっちまった。
「恨むだけ恨んでくれて構わないさ」
「でも、並行世界のアンタが、果たして幸せだったかと云うと」
「そんなことはなかった」
「気休めなことしか言えないが――」
「……」
ガンブレードを握る。
そう、背中に手を添えた時には、
紫の涙の刀は既に俺の首元に突きつけられていた。
幾人もの命を吸い取ったそれは、暗がりの中でさえ輝いていて、
一つの動作を取っただけで、俺の首が跳ねる事は目に見えていた。
「止しときな」
「その身体の強さはよく知っているけれど」
「心に付随した力が無けりゃ、実力を持った相手には敵わないよ」
「……その怒りを抑えられるってんなら」
「何でも答えてやろう」
「……」
「二つある」
刀は鞘へと戻り、紫の涙は余裕そうな笑みを抱えたまま手をひらひらとさせる。
「ユンフの身体は抜け殻になっていたんだろ」
「なら、その精神は一体何処に行ったっていうんだ」
「私はあくまでユンフという身体にお前を埋め込んだだけ」
「その身体の所有権はお前に有って、元来備わっていた魂は停止している」
「……話す手段は……?」
「自身の対話ってのは、極致に立たされない限りは成立しない」
「もっとも、お前達は別人ではあるんだけどね」
「私の知る由の無い、お前の精神が壊れるきっかけでも訪れなければ」
「その身体は一生お前のものだよ」
「……」
何者にも成れず、何者かを模倣する事さえ叶わない。
それだというのに、こうも無責任にも自由を言い渡された。
俺は、もう既に幾重にも辿ろうとしたというのに、
ユンフという影は、ただ奥底に潜み続けるだけ。
だというのに、その影に照らされた都市の人間どもは、
俺を見て訝し気になる。
あぁ、そうさ。
それは俺自身がアイツと異なる言動を取ってしまったから。
そう決められた人間と乖離してしまったから。
「……」
なら、俺はこの世界で生きていくことは出来るのだろうか。
その問いに、俺は生を見出すことは出来るのだろうか。
分からない。
一体俺は――。
「こっちの世界の『枠』が空いたんだ」
「なら、他の世界の何かを、こっちに持ち込む」
「そうすれば次元事の変数は可変して」
「何かが変わるかもしれない」
「……その変数ってのが」
「『俺』の事なのか」
「そうだね」
「ただ、私は次元の先で強い干渉を齎すことは出来ない」
「だから、補助輪が必要だったのさ」
「その補助輪が、硝子技術」
「次元を超えた先、本当に無作為に選んだ一つの命」
「ちょうど硝子技術の亀裂に映し出されたアンタを」
「私が奪い取った」
紫の涙が手元を開いて、四角い何かを見せつける。
恐らく、どっかの特異点だか技術だかの代物なんだろう。
どす黒い犠牲の末に出来た、都市の技術が小さく転がっていた。
「『魂転送技術』」
「他の次元からちょいと借りたものさ」
「アンタが生地に反映された時、コイツに入れて」
「抜け殻である透明の小僧の身体に取り入れた」
「大変だったよ」
「適当に選んでしまったアンタの元へ飛び」
「次にはユンフの傍にまで唐突に飛ぶ羽目になったんだから」
「……」
「項垂れていた透明の小僧にお前を取り入れることは苦労しなかったね」
「あの麦の香りがするビルの中で、彼はただ抜け殻となっていただけだった」
「魂が抜けたように、がらんどうになった心」
「肉体だけで繋ぎ止めた命の中に、アンタを入れる事で」
「きっと世界の平行線に乱れが生じて」
「何か、何かが変わってくれたらと願った」
「息子と会えると願ったさ」
「……」
紫の涙の個人的な欲求から発せられた現時点での事象。
俺という精神体が、ユンフという肉体に宿った出来事。
あぁ、だが、結局はそれだけの事。
規模の小さな、僅かな都市の循環。
なんてことない、なんてことのない流れ。
俺は、本来の俺は、その小さな小さな流れに付き合わされただけ。
「俺は、誰なんだ」
「多次元における有象無象の一人」
「あの薬指に捕えられていた小僧たちの犠牲者……そこから派生した魂」
「私は生憎、それを形作る過去を知らないよ」
相手するのも馬鹿らしい、とでも言うような嘲笑を浮かべる。
俺に記憶が無いように、俺の記憶さえ蔑ろにしながら、
紫の涙は此処に、この世界に居た。
「何故自分が選ばれたのかって聞きたいようだね」
「正直、誰でもよかったのさ」
「『里帰り』から発生された都市の河への巨大な反応」
「あれは次元に干渉する魔法みたいなもんでね」
「それを感じ取った時、都市に平行する万物の物語に変革が訪れた」
紫の涙は崩れ切った窓から離れ、僅かに差しこんでいた日差しから抜ける。
暗がりに隠れるように移動するが、その紫色に潤んだ瞳は、決して居場所を隠すことはなかった。
「もしかしたら、と思ったんだ」
「透明の小僧が都市の星へと向かった」
「そして彼が描く軌跡は、この都市でも酷く美しいもの」
「お前ももう分かっているだろう」
「ユンフという男が描く軌跡は、何処までも綺麗である必要があった」
「里帰りの解決には、都市の地下に流れる河が必ず因果として繋がる」
「なら、その河に接続する瞬間が訪れたとしたら」
「河に繋がった無数の世界の変数に綻びが生じるはず」
石畳から乾いた足音が響く。
話を聞けと言わんばかりの、力強いヒールの音。
「予想は的中したよ」
「ユンフの記憶を媒体として、都市以外の世界に繋がりが生じた時」
「彼の存在は都市に歪みを築きあげた」
「嘗て、私は彼の平行世界を覗き見ようとしたけれど」
「一つとして存在しなかったんだよ」
「それはユンフが都市の人間ではないから」
「そして里帰りを帰す為に、方向標を見失った彼は」
「今、私達が踏みしめている都市で抜け殻になった」
コツン、と終止符を打つような足の響き。
目前で怪し気に笑みを浮かべ続ける巨大な女を前に、
俺はただ見上げる他なかった。
紫の涙が放った内容を咀嚼しながら、
俺は其処に俺との繋がりを探す。
―???―
俺はユンフではない。
身体に秘められた精神は、外側の肉壁から拒絶されるべき概念。
その事実の中、浮かんだ疑問はただ一つ。
俺は誰なのか。
「……」
街並みは変わらない。
俺という個体の中で繰り広げられる疑問は、この都市を覆う程に絶大だというのに、
誰一人としてその影響を受けていない。
ぽつりと、独りでいるだけ。
喧騒は煩わしいものではなく、都市の一部として機能する。
其れが正負のどちらに傾こうとも、都市を循環する一つの営みだ。
俺はどうだろうか。
元の生地の人生。更にその平行線から引っ張られた人格。
当て嵌められた肉体。
そんな誰でもない俺が、都市の流れに沿って生きていたところで、
一体何を得られるというのだろうか。
「……」
ユンフが携えていたガンブレードを背に、ただ歩む。
確信も無く、保証もない。
ただ漠然とした予感が、俺の脚を動かしていた。
「……」
図書館が僅かに見える廃墟。
巣の霧は相変わらず濃霧といって差し支えなく、
誰かの輪郭をはっきりと映し出すことはなかった。
窓と呼べたであろう残骸に寄り掛かり、
命の危機さえ感じていない程、飄々とした女の名を、俺は囁く。
「紫の涙」
身の丈程の鞘を揺らし、獲物を舐め腐ったような細めで奴は振り返ってみせる。
瞳に映った俺の表情は、決して愉快とか言えなかった。
だが、霧の中でもその怠惰は映し出されていた。
「随分早かったね、坊主」
「答えは得たかい?」
「俺はアンタを知らねぇ」
「そうだろうさ」
「其処に当てはめられた偶像は、再現性の無いイレギュラーに巻き込まれた都市の人間だから」
……ガンブレードに手を掛けていた。
少し前の俺なら。
だが、『対話』を以てして、アイツは軌跡を描いてきた。
俺は、今も尚、アイツではない事を悟りながら、その軌跡の延長線をなぞりたいと思っていた。
「其方の基となる人物は分かりようがない」
「無作為に選ばれた生地、そしてその投影先を特定する事など」
「海に放り投げられた一粒の砂を、拾い上げる事と同義故」
「……俺は……」
「延長線ですらないのか……」
「言葉の裏を探るような温順さなど持ち合わせてはいないが」
「新たな人生を歩めるのだ」
「それもその強靭な身体を以てして、都市を自由に歩める」
「透明の軌跡という媒体は不自由と言った言葉は不釣り合いであり」
「正しく翼を得た鳥が如く」
「有象無象に過ぎない人々が羨む事であるというのに」
「其方は何故そのように沈鬱たる表情を取る」
「……」
「ただ、『ユンフ』だったかもしれない」
「その憧れさえ、もう持てない」
「ふむ」
「不可解ではあるが、なるほど」
「其方がこれまで歩んだ道に」
「その軌跡の延長線である理由付けがされた」
「人の感情にケチを付ける程、高尚たる存在に成り上がったつもりもないが」
「他者を存在理由とした脆い人種か」
「今、アンタをぶん殴っても」
「きっと、何もよくならねぇんだろうな」
「元の生地となった其方は、決して温厚とは言えない人間であったが」
「こうも人は変わり往く事が出来るのか」
「それが徒労とならない事を祈ろう」
「……さて、俺は多忙の身であるが故、定時退勤は稀なのだ」
「答えは、得たのであろう」
「……アンタ、エラディアを知ってんのか?」
「さて、な」
「次元を司る人間の言葉をなんとなしに覚えていただけ」
「其処に当てはまる人物は、其方の他に居なかった」
「……」
「不可解な事を理解する必要は無い」
「其方は、俺が生み出してしまった愚かな人間の一人」
「いや、その言い方だと禁忌に触れてしまうか」
「卑下されし、人格の一つ」
「故にこそ、その生を楽しむことが、最も其方の為になろう」
アセアはそうして研究室の一室から去っていった。
残された透明の軌跡は、ただ硝子越しに研究室に聳える被検体のカプセルを眺め
「……」
ただ納得の行かない、憂鬱な表情で目を伏せるばかりであった。
「引っ張られた人格」
「其処に張り合わされた、ユンフの身体」
「……は……」
「クソ……」
「互いに……被害者なのかよ……」
光が包む。
そうして研究室には、誰一人として居なくなってしまった。
「そう断言できるのは、俺が施した被検体の視線の先」
「見えた硝子の断片」
「其処に映ったのは、今の其方のような表情をした都市の人間の一人」
「そういう顔をする輩は、都市には少なく」
「印象的であるが故」
エラディアは、自身が思い浮かんだ事象の根源へと誘う。
「……」
目前に示された『人格』を被せられた『生地』
何かが、重なり合う。
「都市の技術は都市の人間の為に邁進するもの」
「例えどのような被検体であっても、いずれは技術として昇華され」
「数在る人生の懐で輝くものだ」
「その被検体の内、俺が担当していた生地が一つ、破裂する事なく此処に留まった」
「だが、意識は無く、それは生きているとは言えないもの」
「……」
「何やら『次元』に干渉する能力が作用したようでな」
「俺は非科学的な未来分析図に眼を置く程、戯れ心に富んだ人間ではない故」
「そのような事象に耳を傾ける事はしなかったが」
「どうやら其方の存在がそれを証明したらしい」
「……」
ユンフという身体。
其処に根差す精神。
異なる人格。
それはつまり、自身が身体の宿主ではない誰かである事。
何処までも、他者である事。
それを突き付けられる。
「透明の軌跡」
「その身体は生地だ」
「そして、その生地に被せられた『人格』」
「俺のガラス技術により、本来投影されるはずだった生地の『誰か』」
「それが、今こうして言の葉を紡ぐ其方なのだろう」
「……」
握り拳に、怒りが込められる。
だが、その矛先は決してアセアに向くことは無く、
消化するように力を緩める。
「俺が貴重な生地の一つを使ってまでそなたにコレを見せたのは」
「俺の軌跡の中に、そなたが居る事を知って欲しかったからだ」
「念無しに思うのは勝手ではあるが、今にも振り翳しそうなその腕の力を収めてくれ」
「……」
「さて、透明の軌跡」
「研究者とは、一点の技術に対して純粋よりも真摯であらねばならない」
「俺が今、恋心さえ放り投げて熱心と言える感情を抽出したこの技術」
「『ガラス』だ」
アセアはテーブルに添えてあった硝子の破片を手に取る。
目元まで持ち上げると、自然と反射が透明の軌跡を映す。
其処に映った自身の表情は、決して愉快なものではなかった。
「其方が今、目前とした反射」
「其処は決して科学的領域ではなく、『可能性』が映り込んだ別次元の世界」
「今、アンタが手に持っているものに映ってんのは俺だ」
「意味も定義されていないただの硝子だ」
「其処に映りし存在の、別の可能性を投影する」
「……別世界の俺を、此処に呼ぶ……ということか」
「否」
「其方という生地に投影させる」
破片を投げ捨てるように机へとスライドさせる。
アセアは再び研究室を見るよう、首で促した。
先程絶命した被検体。
其処から伸びる亀裂の数々。
流れる血はまだ鮮明で、先ほどまで生きていたことが用意に分かった。
「あの生地は、硝子の映りし先となった素体」
「数多の可能性をあの生地へと投影させるのだ」
「そうだな、今思いついた文をそのまま述べるのであれば」
「『人格』を被せた、というべきか」
「……人格……」
「あの生地に投影させた人格は、一つではない」
「硝子に生じた亀裂の数だけ、あの生地には経験や記憶が幾重にも具現化する」
「結果、数多の硝子の破片に映りし自分に耐え切れず、あのように破裂した」
「……」
「名の言葉を借りよう」
「其方の今の形は、透明の軌跡たる『ユンフ』の身体。それが生地」
「そして、今その身体の精神支配をしているのが、其方だ」
「どういう」
「あ、あぁ……!あああああ!!!!」
液体越しでも伝わる悲痛。
その叫びは、決して普通のものではなかったというのに、
周囲に居た研究員は其れに感情を投げかける事は無く、
ただ作業に従事する。
『いいえ、おばあさま。私は双六なんてしたくなかった』
『前にも言いましたよね?それは過去ではなく未来に繋がるものだって』
『そうして積み重ねた不満を黒く染め上げた大地へと捨てて』
『生き残るために持ってきたパンを千切って埋めた』
『ちょうちょはくねりながら右目と握手して』
『あ!今夜会いに行くからね』
『ボーボー!泣き叫ぶ火事と一日分の栄養が!!!』
『あああああああああああああ!!!!!』
被検体の支離滅裂な叫びを目にして、透明の軌跡は瞳を凝縮させる。
眼前で行われている実験は、都市では有り触れた技術の犠牲に過ぎない命。
その命の価値が底辺にまで落ち、そして其れに対する尊敬の念が一切払われない異質な空間。
被検体が正気を失っていく様が、彼の瞳に映り込む。
幾多用にも代わり往く負の感情を持った表情を映し続け、最後に見たのは
『…………』
『…………私が…………』
『あまりにも多すぎる』
培養液の中で霧散していく被験者の無表情であった。
パリンッ!
カプセルは爆ぜ、中に入っていた被検者の全身には硝子の先端のような破片が亀裂を帯びるように突き出ており、
それは見るからに生きている者の姿ではなかった。
ブー、ブー、ブー
エラー音が響き渡る。
被検体の様子をカルテに書き込んでいた研究者はこちらを見上げ、首を左右に振る。
アセアはその様子を受け、『はぁ』とため息を分かりやすくついた。
「屈折率の設定に誤りは無かった」
「3点強度に上げたくらいであり、亀裂は最大で30」
「破損するには些か脆すぎた生地であった」
「……アイツはどうなるんだよ」
「どうもなにも」
「実験に失敗したということは、そういう事であろう」
「実験体が粉々となった」
「硝子が見せる世界に耐えられず、本体は幾重にも襲いかかる平行世界の人格の重圧に耐えられず」
「あのように圧死するのだ」
舌打ち。
透明の軌跡はあからさまな嫌悪をアセアと向ける。
「……ふむ」
「都市の導きは、時に不可解を形として残す」
「今まさに、そなたが置かれる状況に」
「俺を巻き込んでいるこの空間」
「……透明の軌跡……その個体である『ユンフ』……」
「だが、眼前に在りしそなたの姿は、何処か異なる」
「併して、今こうしているのは確かに特色たるそなたの姿」
「……」
「……なるほど」
アセアは窓の下で行われる実験を眺めながら、その気だるげな目元をより緩めた。
そうして透明の軌跡へと視線を送り直し、付近の真っ白なテーブルに資料を添える。
「これは恐らく、俺の失敗作なのだろうな」
「透明の軌跡」
「……」
「結論から話すのは性急に駆け出す衝動に打ち勝てないが故」
「俺は人より忙しない身ではあるが」
「少しそなたに俺の過程を伝播させなくてはならぬ責任者」
アセアは窓ガラスの向こう側を指さす。
透明の軌跡もまた、その指先へと視線を向けた。
其処に在ったのは、研究者が一人、そして培養液に浸かった被検体が一人。
「屈折率の出力値を既定に戻した上で、作動しろ」
表情を変えず、アセアは口を開く。
無線機がある訳ではなかったが、下に居た研究員は彼の指示通りに機械を操作し始める。
培養液の中で振動が強まる。
内部に居る被検体は、みるみるうちに表情を変え、目まぐるしい程に形相を様々に変えた。
―???―
無数に広がるカプセル状の培養技術の装置。
如何にも人体実験を行うような空間。
その狭間に、透明の軌跡は降り立った。
「――転送されたのか?」
「何に反応して……」
「……」
硝子越しに見下ろしたその風景、そしてその光景。
複数の科学者が眠りに堕ちた被検体を前にして、バインダーに固定された資料に筆を奔らせる。
被検体は目を見開き、ゴボゴボと培養液の中で呼吸をしていた。
「おや、廊下の痕跡は見当たらなかったが」
「稀なる客、其れも特色が此処に到達するのは聊か不可解ではあるな」
薄暗い研究室から、声がかかる。
研究員は両手をあげながら、「敵意は無い」と透明の軌跡へと示した。
その気だるげで余裕のある視線は、髪に隠れた右目からも分かるほど、
『野望』というものからかけ離れた怠惰が存在していた。
「どうか俺を捕まえんとする不必要な時間の浪費はしないで欲しい」
「俺はただ拉致され、監禁されし身故に」
「残りの8人の朋さえも忘れ得る時を過ごした憐れな研究員だ」
「……アンタは……」
「アセアという」
「その睨視を此方に突きつけるのはやめてはくれないか」
「過日の時、旧朋でさえ俺をそのような眼で見る事は無かった」
気だるげでありながら、飄々とした表情。
口角を僅かに上げたまま、アセアは透明の軌跡からやや離れた位置の窓に歩んだ。
そうして並列となり、研究所の被検体達へとその小さな瞳を投げやった。
「併して透明の軌跡」
「そなたは伝聞と異なり、聊か怠惰に満ちし風貌だな」
「何故此処に姿を現したのかもわからんが」
「元来の透明の軌跡という概念であれば、この地に足を踏み入れる事は」
「『方向標』なる帰郷の頁に泥を塗るようなもの」
「……アンタもアイツを知っているのか」
「狂逸なことを聞いてくれるな」
「俺個人とそなたの関わりは微塵も無ければ」
「どの世界に於いても、交差する可能性は絶無に等しい」
「どの世界?」
硝子技術
―L社 02支部―
金属製の煌めきを放っている台座が一つ。
そのシルエットは依然として変わらず、使用者の存在を待つかのように鎮座していた。
「エラディア……」
透明の軌跡が降り立つはツール型幻想体が鎮座する収容室。
彼は仮宿で得た情報を基に、L社の支部に己の軌跡を探しにきていた。
「観測記録によれば、一度目はN社内部」
「二度目はL社内部に転送」
「転送先は都市内部に限定されており、『感情』に反応して」
「使用者の『疑問』に応えるかのように光を放つ……か」
嘗てユンフが辿った軌跡を、改めて確認する。
そのツールとして存在していた幻想体と睨み合いをし、
彼は手元の資料を角の机へと放り投げる。
「『疑問』ってのは、起源がなけりゃ発生しない」
「恐らくアイツは、自身が都市に誘われた理由や、故郷について思い浮かべたんだろう」
「……俺に使えんのか、これ」
立入禁止のテープを超え、台座の前まで身体を前進させる。
特に反応は無く、「やっぱりか」とため息をつくように、
透明の軌跡はエラディアを真上からゴツンと叩く。
「皮肉なもんだな」
「……てか、折れた翼の特異点が何で野放しになってんだよ」
「こういう金目になるもんは普通その辺の組織とかが挙って回収するもんだが」
「……はぁ……あれか」
「自ら特異点の技術の犠牲になる奴なんざいねぇってことか」
目を伏せ、呆れたように一息つく。
そうしてその場から離れようとした時。
ピカッ……
彼を引き留めるように、エラディアは光を放った。
長く続いた思索に疲れ果てたように、透明の軌跡は自傷的な笑みを浮かべた。
それは笑顔と呼ぶにはあまりにも力がなく、己の空白を嘲るためだけに残された、乾いた表情だった。
椅子の背凭れへ身体を預ける。
支える力すら惜しむように、全身の重みをそのまま背後へ委ね、首を僅かに傾けた。
視線だけが、机の上に残された一枚の絵画へ向けられる。
「……この子は」
「今も笑っているのだろうか」
「お前を信じ待っているのだろうか」
描かれた少女の笑みは変わらない。
透明の軌跡は、その表情を見つめながら、先ほど浮かべた口角をそのまま維持する。
笑っているのか。
諦めているのか。
あるいは、そのどちらでもないのか。
自分自身でさえ、もう判別出来なかった。
「いつか、教えてくれるか」
「お前が見てきた笑顔の暖かさを」
「お前が護りたかった鼓動の尊さを」
自分にはないもの。
自分が知らないもの。
けれど、かつてユンフという人間が確かに知っていたもの。
その温度を、いつか知りたいと思った。
それが記憶なのか、感情なのか、それともただの憧憬なのか。
今の彼には、まだ名前を付けることすら出来ない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この絵を描いたのはユンフではない。
この感情を抱いたのも、ユンフではない。
少なくとも、そうであろうとしている。
それでも彼は、ユンフの延長線上にいる。
ならば、その線の先に何があるのかを確かめることくらいは許されるのだろうか。
そんな答えのない問いを胸に残したまま、透明の軌跡は疲れ切ったように瞼を閉じた。
身体から力が抜け、椅子へ預けたままの姿勢が僅かに崩れる。
やがて、呼吸がゆっくりと一定の間隔へ変わっていき、眠りに堕ちた。
蝋燭に揺らめく光の中、少女の絵画の笑みは変わらず暖かさを放っていた。
その芸術は、ユンフの描いたものより描写力に優れたものだった。
長い髪。
閉じられた瞼。
そして、ほんの僅かに口元を緩めた、穏やかな表情。
紙面には淡い褐色の色彩が沈み、輪郭を縁取る線には手描き特有の揺らぎが残っている。
精巧に整えられた肖像というより、何度もその姿を思い返しながら、少しずつ形にしていったような絵だった。
たった一度の邂逅。其れもキャンバス越しに見えた少女の姿。
透明の軌跡は、そんな彼女を描いた。
ユンフとしての筆ではなく、彼自身の筆として、
ユンフの軌跡の先に存在する方向標を。
「……」
「『いつもの日』」
「お前が見たい笑顔は」
「感情というコップに注がれた愛」
「唯一無二の思い出」
「何もない俺と違って」
「お前は――」
筆を置く。
溢れそうになった感情を抑え込みながら、描いた少女を見つめる。
決して自身の記憶に存在するものでもなく、
自身の核を形成するものでもない。
ただ、今描いた少女そのものが、この肉体に宿る魂を構成する感情そのもの。
ならばその肉体に宿りし自身は何者なのか。
虚像、フェイク、贋作――。
思考に奔るノイズは、どれも自身を攻撃する。
偽物なのだと。空っぽなのだと。借り物なのだと。
劣等感は際限なく、彼の表情を変える。
「――」
「……」
「その物語を有するなら……」
「何故俺は、此処にいる」
「お前は、何故俺を此処に誘った」
「何故、この子の為に戻る決断をしなかった」
「その軌跡を、何故俺に委ねた」
「――」
「答えはわからねぇか」
「こうして『意識』が此処にある以上」
「俺はお前の延長線に立つ何者かなんだろうよ」
「……俺の芸術……」
「横道」
「お前の方向標」
「思い出」
「……」
「『愛情』」
「一度も手に入れた事なんざないってのに」
「なんて残酷な道を提示するのだろうか」
「クソ」
「俺自身、どうしたいんだろうな」
「都市に存在する以上、都市で生きて往くことは当たり前だ」
「だが、俺の前任はそうじゃなかった」
「都市は『思い出』への通過点に過ぎない」
「見ている場所が違う」
「……故郷ってなんだ」
「故郷の連中とは仲良かったのか」
「何故そいつらを護ろうと思った」
「その上で、何故利己的に生きる決断が出来た」
「その決断をさせた子は」
「一体、どんな子だったんだ」
瞼の裏に現れたのは、大切に保管された画材に描かれた一人の少女の絵。
彼自身の記憶には存在しない。
それでも、その姿だけは妙に鮮明だった。
柔らかな輪郭。橙にも輝く太陽のような笑顔。
これまで色彩に乏しかった彼の視界へ、初めて強烈な色を差し込んだ存在。
「……」
蝋燭の炎が揺れた。
その僅かな光が、透明の軌跡の瞳へ映り込む。
虚ろにも見える瞳だった。
けれど、その奥には先ほどまで存在しなかった微かな光があった。
視線の先にあるのは、空白の画材。
「……」
「俺の感情は俺のものだ」
「それ故に、俺は都市で描かれた軌跡に抗いたくて」
「数多の人間との視線を遮ってきた」
「俺でない俺を見ているその視線」
「……その視線を描いてきたのは間違いなくユンフであり」
「そのユンフを構成したのは……」
「君なんだろうな」
徐に手を伸ばし、筆を奔らせる。
筆先が、画用紙の上を静かに滑っていく。
淡い色が細い線となって残される。
手首はほとんど動かず、指先だけが微細な調整を繰り返していた。
力を込めれば濃く、僅かに緩めれば掠れる。そのわずかな力加減だけで、線には異なる表情が生まれていく。
その精錬にも思える程、細やかな動きで、描き手の意思を紙面へと紡いでいく。
誰かから教えられたわけでもなく、
ユンフの記憶の真似事をしている訳でもない。
ただ、自身の意思で、筆を動かしていった。
「……」
溶け落ちた蝋は燭台の縁を伝い、小さな炎は頼りなく揺れながら、それでも暗闇を退けるには十分な光を投げかけていた。
其処に差し込まれた仮初の芸術。
―12区 裏路地 仮宿―
窓もなく、隙間風が過ぎ去る一つの部屋。
夜の静けさと冷えた空気が心地よい湿感を保っている。
暖炉からの明かりも無く、煤の黒さだけが妙に鮮明で、
かつてここにあった炎の熱を思わせるものはもう何もない。
その付近の一脚の机。
蝋燭に照らされた1畳程の机の表面が擦り減り、角は丸く削れていた。
先まで合った資料は乱雑にファイリングされ、隅へと追いやられている。
「……」
透明の軌跡はその作業台と向き合い、一つの画材に手を掛けていた。
空白で埋められた白い画用紙。
何かを描く前の白ではなく、何も描けなかった者の白。
手元には数多の彩りが揃えられた筆がケースに収まっており、
絵描きを思わせる構図が出来上がっていた。
「……」
透明の軌跡は、白紙を見つめ続ける。
その視線の奥には、既に何度も聞き返した言葉があった。
ドルドインの言葉が幾度も脳裏を巡る。
ユンフという旅人が示した芸術。
単一の意味ではないことは理解していた。
だが、其処に想いを馳せるには、彼は思い出がなかった。
「今更思い出作りに励んだところで」
「俺の思う芸術って奴を、この白紙に埋める事なんざ出来やしない」
言葉にした途端、その現実だけが妙に鮮明になった。
なればどうすればいいのか。
思考が幾多にも絡まる。
一つの問いから別の問いが生まれ、それがさらに別の疑問を引きずり出す。
答えへ近づいているのか、それとも同じ場所を延々と回っているのかすら分からない。
自身の在り方が薄っぺらであると、ドルドインは突きつけてきた。
それもそのはず。
ユンフという男は、発芽のために蓄えられていた、潤沢な栄養を含んだ種だった。
旅をして。
人と出会い。
故郷を想い。
誰かを護ろうとし。
そして、最後にはたった一人の少女のために、利己を提示した。
それら全てが、種の中に蓄えられていた。
だからこそ、彼は芽吹いた。
だが、その中身が失われ、残されたのは種の外殻だけ。
形はある。肉体もある。声もある。名前すらある。
けれど、その名前に相応しいだけの中身がない。
感情の外側に存在する肉体。殻のみ。
それだけが、彼を「透明の軌跡」として成立させている。
そして、それを誰よりも理解しているのは、他でもない彼自身だった。
その言葉の後には、長い沈黙が残った。
悲しみとは少し違う。悔恨とも違う。
忘れてしまった。
けれど、忘れていたことを悲しいと思えた。
知らなかった。
けれど、知らない少女のために誰かが生きたのだと知ることができた。
それだけでいい。
少なくとも今は、それだけでいい。
少女の笑顔が、スポットライトの中で淡く揺れている。
その光景を前にして、彼は初めて、自分の中に残された空白を完全な「無」ではないのだと知った。
そこにはまだ、名前のない色がある。
まだ線にはならない。まだ形にもならない。
それでも確かに、そこにある。
「貴方の線を、描けるといいですね」
「貴方のアヴァンギャルドを」
スポットライトの光が揺らめく。
粒子が散るその背景に、
彼は普段よりもぶっきらぼうに笑いながら、溶け込んでいった。
「貴方が持ち帰る分には、彼は何も言わないでしょう」
「一度の対話でしたが」
「私の根底を揺るがすような芸術を見せつけた彼です」
「彼がどのような思いを持ち、今の貴方を見てどのような顔をするかだなんて」
「自ずと分かるに決まっているではありませんか」
手元の肖像画を、透明の軌跡へと再び差し出す。
陽光そのものを閉じ込めたような笑顔。
見る者の記憶さえ照らし出すような、太陽のような輝き。
それは、描かれた少女の表情というより――彼女を見ていた誰かの眼差しまで描いた絵だった。
そんな絵画と、彼はしばらく見つめ合う。
やがて、ゆっくりと目を伏せた。
「俺が受け取る資格はないだろ……」
「まだ、自分の芸術を表現するだけの『利己』を持ち合わせちゃいないんだ」
その言葉とともに、視線が横へ滑る。
そこにあるのは、空白のキャンバス。
白い面だけが、無機質な照明を受けている。
そこには、何かを描こうとした痕跡すらなかった。
筆跡も色彩もない。線一本すら存在しない。
ただ、何も描けなかったという事実だけが、真っ白な画面の上に残されている。
空白とは、何もないことではない。
描けなかった者にとっては、描けなかったという事実そのものが、何より雄弁な証明になる。
彼はそこへ視線を置いたまま、自嘲するように口角を僅かに吊り上げた。
「……そうですか」
その笑みに対する応えとして、ドルドインは再び目を伏せ、小さく笑った。
「貴方の望む答えは得られましたか」
「さぁな……でも、なんだろうか」
声には、先ほどまでとは僅かに違う響きがあった。
答えを得たわけではない。
むしろ、分からないことが増えたのかもしれない。
それでも――何も知らなかった頃とは、明らかに違っていた。
その笑みを浮かべたまま、アトリの絵画へ視線を置く。
少女は変わらず笑っている。
ただ、いつか来る「いつもの日」を待つように。
彼は、寂し気に口角を上げる。
「この子の事を知っていれば」
「忘れる、なんてこと、なかったんだろうなって思う」
「そう感じられただけでも」
「良かったかな」
目を細め、絵画に触れる。
「記憶というものは、本来ならば脳裏に刻まれた像であり、過ぎ去った時間の断片に過ぎない」
「失えば、二度と取り戻せない」
「少なくとも、そう思っていた」
「だけど、なんなんだろうな」
「名前も顔も、共に過ごした時間を知らなくても」
「この子がどれ程大切な存在だったのかは、わかる」
「なんとも儚く、それでいて力強い意思を感じるとは思いませんか」
「そんな彼を私のキャンバスに描く事が出来たら」
「どれ程の傑作が生みだされたのでしょうか」
ドルドインはそう言いながら、絵画を見つめていた。
その瞳に浮かんでいるのは、芸術家としての純粋な渇望だった。
羨望とも違う。憧憬とも違う。
自分の中には存在しなかった色彩を見つけた者が、それをどうにか自分の作品へ取り込もうとする、抗いがたい創作欲。
点によって世界を描いてきた男にとって、ユンフという存在はあまりにも異質だった。
彼は、点ではなく線を残した。
そしてその線は、過去から現在へ、記憶から感情へ、そして一人の少女から、今ここにいる誰かへと伸びている。
「……」
「ドルドイン」
「なんでしょうか」
「ユンフなら、この肖像画を持って帰るだろうか」
視線だけを、差し出した肖像画へ落とすドルドイン。
「私達薬指に、自分の芸術を具現化させたものを提示してきたのです」
「恐らくですが、彼は既に心に少女の絵画を持っているのでしょう」
「形としてこの世界に残したのは」
「先ほど貴方が形を持たないといった軌跡に色彩を添えるため」
「……は……なんだ、そりゃつまり……」
「惚気ですね」
「『愛情』の付随した芸術は、非常に繊細でありながら、堂々たる完成度を有しています」
「ユンフが描いた芸術は、自身の成したい事や、根底にある感情を率直に表現しているのです」
「だからこそ、これを手元に残すのではなく」
「彼女を愛した思い出を、此処に残すことを望むと私は解釈しています」
「……」
「利己的でありながら、他者には代替出来ない輪郭です」
「誰かを愛したからこそ描けた」
「誰かを想ったからこそ残せた」
「この一点そのものは、彼だけが描く芸術です」
「……」
「タイトルは『いつもの日』」
「彼が願っていたことの断片です」
「必ず来るであろう未来」
「その未来で、『いつも』が来る事を望み」
「其処に辿り着く為の芸術」
「……」
「貴方は、この絵画を見て」
「どう感じましたか」
「……」
「……」
「……」
「形のない記憶や思い出から成せるものが在る事を、私は知り得たのです」
「彼が頑なに言葉にすることのなかった『愛情』」
「都市を生きる為に、ただこれだけがあれば」
「彼は彼自身の芸術だけで、都市に染まらず歩めることを示しました」
「その上で、私にその芸術を突き付けてきました」
「私ごと、彼の芸術に沿って背負っていくとばかりに」
「……本当に、ただアトリという少女のために」
「彼は全て『いい思い出話』にしようとしていた」
「この利己的な芸術は、きっと貴方の根底にもある」
「そう願っています」
「……」
「インスピレーションは得られましたか」
「……俺は」
「この子を、知らない」
「『覚えてない』んじゃないんだ」
「知らないんだ……」
「えぇ、ユンフという絵具が無ければ、彼女の存在は証明されません」
「……でも……」
「そうか……」
「この子の為に」
「都市を駆け抜けていたんだな」
「ユンフという人は」
「……」
「観点に変異が見受けられる時」
「それは自身を構成する核そのものが幾重にも皮を破る時です」
「記憶を喪っても尚残る感情」
「アイツはそうやって、此処に『思い出』を遺した」
「その軌跡は形を持たないが」
「確かにこうして残っている」
「……これが……ユンフの芸術なのか……」
点と線。
それは、あまりにも単純な対比だった。
点描派にとって、世界は無数の点によって構成される。
細分化され、観測され、配置され、そして一つの像へと統合される。
だが、線は違う。
線には始点と終点がある。
その二つを結ぶために、途中という時間が生まれる。
ユンフが突き付けたものは、まさにそれだった。
過去から現在へ。
そして現在から未来へ。
途切れずに続いていく、一本の線。
「思い出話に華を咲かせながら、自身の芸術が過去にある事を説き」
「そしてその過去の為に残酷な今を歩み抜く」
「その光景を、私達都市の人間に、語り、そして見せてきた」
ドルドインの声が、ほんの僅かに柔らかくなる。
「絶望的な世界観の中でさえ、利他的に生き抜く事を選んだ彼が」
「ただ一人の少女の為に、利己的に生きる事を選んだあの場面」
「えぇ」
「あのエヴォカティブ(喚起的)な芸術は、彼の色だけであり、そして少女の色でもありました」
「……」
ギャラリーには、無音という静寂だけが残った。
「私はその記憶を突き付けられ、彼の芸術の主観に酷く影響されましたよ」
「こんなにも優しく、一途であり、希望溢れる芸術」
「凪いだ風を抱きしめるような、淡い空気を纏った憧憬」
「それを彼は描いてくれたんです」
ドルドインは踵を返し、作品群の一つに手を掛ける。
手つきは異様なほど優しかった。
先程まで作品を撫でていた指先とは違う。
壊れやすいものを扱っているというより、
そこに宿る何かを、決して傷つけてはならないと理解している者の手つきだった。
額縁に嵌ったその画材を手にとり、透明の軌跡の元へと戻って差し出した。
其処に映されていた絵画は、歪な線で、着色も定かではなく、
技巧だけを評価するのであれば、とても上手いとは言えない。
だが、その一枚の絵を見て、透明の軌跡は
「――」
ただ、ただ見る事しか出来ずにいた。
「私は点描派として、『点』に映る美に魅了されています」
「その根底に蔓延る美意識は、常に披露され、そして数多の学生に伝播しています」
「ここまでを聞いて、貴方個人の感想は如何ですか」
ドルドインは透明の軌跡へと向き直る。
彼の視線には、先まで歩いていたドルドインの奥側に潜んでいた作品群が映った。
その時に沸き上がった感情は決して正たるものではなく、
胸の奥に湧き上がるものは嫌悪だった。
「……感性が異なるとしか言いようがない」
「俺はアンタらの芸術に対して、心底嫌気を差している」
「嫌悪を抱く象徴は、その題材となった犠牲でしょうか」
「とても人のする事じゃねぇ」
吐き捨てるような言葉だった。
それは理論ではない。
思想でもない。
ただ、人として抱いた拒絶だった。
「客観性に基づいた芸術」
「今貴方が仰ったのは、受動的な思考に支配された感情です」
「その芸術を肯定しろってのか」
「いいえ」
「思想が希薄である貴方には、我々の芸術を否定する資格がありません」
「肯定も、否定も、貴方の選択は我々の芸術の枠外に存在します」
その言葉には、傲慢さすらなかった。
だからこそ、余計に冷たかった。
肯定する資格もない。
否定する資格もない。
そもそも、彼らの芸術を評価するための土俵にすら立っていない。
そう断じている。
「……」
「その資格が、ユンフにはあったのか」
「えぇ」
「彼を私のオークションに招いたきっかけ」
「出来る事なら、ビエンナーレに彼を飾りたかった程です」
「……」
ドルドインは、ゆっくりと視線を逸らした。
そこには先程までの傲慢な芸術論を語る男とは異なる、微かな感慨が宿っていた。
「彼が描いた芸術は、『思い出』に沿った幸せの道標でした」
「点描派たる私に、『線』を突き付けてきたのです」
「ですが、私はその『線』に対する美を理解する事はしませんでした」
「それは所詮、感情に過ぎない目に見えないものであるが故」
「ですがどうでしょうか」
「彼は、そんな私達を納得させるだけの感情の側面を立体化させてきたのですよ」
「ユンフという人物は、都市において特異な観点を持っています」
「自身の望む事に忠実であり、其処に達観が無い事」
「例えどちらを選んでも不幸せが訪れようとも」
「敢えて選択した上で、それを思い出として抱えていく」
彫刻に飾られたペンダントに手を添え、ドルドインはより小さく笑みを浮かべた。
その光景を目にして、透明の軌跡はその意味を察する事は出来ずに居た。
だが、そこに意味がある事は、漠然とだが理解していた。
「やる事成す事、壮大でありながらも、その到達地点は人としての幸せを享受する事」
「その道を、彼は『方向標』として描いてきた」
「貴方が描こうとして出来なかった壮大な絵です」
「……」
「私はこのギャラリーにおけるマエストロとして、幾多用にも変化した芸術を目にしてきました」
「上腕筋で出来た乾電池」
「剥いだ爪を合わせて振り回すファン」
「スノードームに閉じ込められた心臓」
「私の思い描く芸術とは異なるキッチュに富んだそれぞれ」
「触発されるには少々私の感性に罅を入れる事は叶わなかったのです」
ドルドインがスポットライトで照らされた縁に沿って円を描いて歩み始める。
光の外側には、半ば闇へ沈んだ芸術品が無数に並んでいる。
照明の届かぬ輪郭だけが浮かび上がり、それらはまるで鑑賞者の視線を待つ亡霊の群れのように、静かに佇んでいた。
その一つへ手を添え、指先が作品の表面をなぞる。
愛でるようでもあり、検分するようでもある。
透明な軌跡の周囲を、彼は優雅に歩いていた。
まるで既に完成された一枚の絵画の上を、自身までも構成要素として配置しているかのようだった。
「根底の思想は決して覆る事はありません」
「目に見える形として自身の主観を示す事こそが芸術であり」
「その主観を曲げてはならないのです」
「それが私達薬指の芸術の模式図」
「着想やアイディアを自身の手で形にして、初めて意味を持つ」
「目に見えない感情や言葉だけの作品は、所詮は虚像に過ぎません」
その言葉は、芸術について語っているようでいて、同時に一つの生き方について語っていた。
歩んできた道があれど、
それを人に伝えたり、思い描いたりすることができなければ、
まるで意味がないと言うようなものだった。
「形作るうえで自身の芸術観・美意識を曲げる事」
「それもまた、自身の美学を蔑ろにした瞬間となりえます」
「主観的な感性の押し付け」
「それがアンタら薬指の芸術か」
「身体派のマエストロは、他流派である立体派の美術潮流を混ぜ込むようなことをしました」
「身体派、剰え自身の芸術観の根幹さえ曲解させてしまっている時点で」
「それは芸術とは程遠い駄作になります」
ドルドインは、彼の言葉を咎めることもなく、ただ一歩、また一歩と円を描く。
一周。
数多の芸術に触れたドルドインの手元には、血を思わせる、濃密な色彩が染まっており、
指の節にまで入り込んだ色は、洗い流すことを拒むように皮膚へ絡みつき、
掌の中では粘液めいた艶が、照明を受けてぬらりと光っていた。
「インテュイション(直感)さえ沸きませんか」
「……アンタたちが表現し合ったそれは」
「記憶があるから出来た事なんだろ」
筆を持った腕を力無くぶら下げ、自傷気味に小さく笑う。
その様子を見たドルドインは、そんな彼の笑みを見ないように目を伏せた。
「現在から派生した過去や未来」
「それらを描くのに必要な事はその人が人たる信念」
「客観視から生まれた評価に怯える事はあれど」
「何も表現出来ない事は、模倣(ミメーシス)さえ叶わぬ事」
「俺には過去がある」
「都市で出来た、横道が――」
「では、それを表現出来ますか」
「――」
「透明の軌跡」
「恐らく貴方は、記憶を喪ってから、新たな思い出を得たはずです」
「それでも其処に描けない事は」
「貴方のカタルシスは根源から異なる事を意味しています」
「どういうことだ」
「美的判断は概念によって完全に証明できるものではありません」
「私が描いた絵を万人に見せた時、その美しさの証明、提示する事は出来ません」
「それでも、私は『この絵を美しい』と胸を張って豪語するのです」
「貴方はその前提に辿り着く事が出来ておらず」
「傷心している」
「……」
「貴方が思い浮かべたその横道というもの」
「其処に派生する感情に、貴方が自ら名前を付けられないというのであれば」
「それは模倣しようとしているに過ぎず、しきれていない事の裏付けにさえなるのです」
「……」
「それもそのはず」
「貴方が本来、思い浮かべ、描きたいであろう事は」
「『ユンフ』という絵具があり、『アトリ』という表現がなければ出来ない事なのですから」
残酷な提示を、ドルドインは容赦なくつきつける。
彼が表現したかった過去の線。
その横道には生きた走馬灯があり、それでも自分の未来へと進む気概があった、
だが、それをいざ表現しろと言われた時、
彼はその思想をキャンバスに描く事が出来ずにいた。
その思い出に名前を馳せる事も出来ず、ただ歩んだに過ぎない。
そう言いつけるように、ドルドインは真っ新なキャンバスに手を添える。
「彼は多彩な色の混じったが故、透明と成り得た」
「ですが、貴方は灰色に染まった透明」
「それさえ表現する事を恐れている」
「……」
「もう少しお話をしましょうか」
「何のだ」
「ユンフが描いていた芸術についてです」
「これも誰かを模して造られた作品か」
「私は身体派や立体派、ましてや野獣派のような暴力性に富んだ作品は好みません」
「モニュメントに記されるべきはその儚さに美を追求した点であるが故」
「貴方が想像するような猟奇的発想など、忘れ去られた記憶と共にゴミ箱へ投げ捨てました」
「……」
怪訝そうに表情を変える透明の軌跡に、ドルドインは小さく笑ってみせる。
「構いません。悠々たる心情を表現する為に、座る必要はありませんから」
「貴方から感じるインスピレーションは、悲劇の最中に過ぎず」
「それを受け入れるには、立ち止まってなどいられないのでしょうね」
「ユンフの事は何処まで知っている」
「一度対話をしただけです」
「互いの芸術、派生した思想を表現し合う」
「キャンバスに彩った絵具と、描かれた表現に」
「私は知る事の無かった芸術を見出しました」
ドルドインは、遠い記憶を手繰るように天井を仰いだ。
スポットライトの眩光がその瞳を灼いているにもかかわらず、目を細めることはない。
その顔には、どこか狂気を孕みながらも、慈愛に似た柔らかな微笑が浮かんでいた。
やがて、再び透明の軌跡へ向き直る。
「透明の軌跡」
「今宵の芸術は郷愁に浸れぬ哀傷の調べ」
「貴方の今を語る時」
「マエストロ自ら、課題評価をしましょうか」
ドルドインの傍らに置かれていたキャンバスへ、新たな画材が添えられる。
一切の色彩を記していない、真新しい画材。
ドルドインはその画角から身を退き、透明の軌跡を手前へ誘うように視線を遣った。
「……」
透明の軌跡は、ゆっくりと歩み寄る。
眼前に佇むキャンバス。
その白紙は、何も描かれていないが故に、あまりにも饒舌だった。
横からドルドインが、小さな筆を差し出す。
描いてごらん、と促うような、微かな笑み。
「点描派の事はお気になさらず」
「思うがまま、表現を」
透明の軌跡は目を細めながらも、その筆を受け取る。
手元に残った小さな筆。
それを暫し見つめた後、画材に筆を――。
「……」
奔らせることは出来なかった。
部屋は、闇そのものを展示空間にしたようだった。
壁も、床も、天井も、ほとんどが黒い。
本来白であったその空間は、暗がりに満ちていた。
照明は意図的に落とされ、広大なギャラリーの輪郭さえ、暗がりの向こうへ溶け込んでいる。
中心で筆を動かす音だけが静かに響き、その音すらも黒い壁に吸い込まれていく。
天井から伸びるスポットライトが、円形の光を床へと投げかけている。
闇の中にぽっかりと開いたその場所だけが、別の世界のように明るい。
光の中心には、ひとりの芸術家が立っていた。
P4号サイズのキャンバスの前で、筆を回す。
描かれた芸術は、血の色をしており、其処に映し出された作品の意味を知るには精神を捻じ曲げねばならなかった。
その作品を手掛けている薬指マエストロ・ドルドインの横顔を遠くから眺めながら、透明の軌跡を足音を響かせて近づいた。
「アヴァンギャルドという言葉をご存じでしょうか」
「芸術面に置いて革新的且つ実験的」
「前衛美術として印象的作品を手掛ける思想の事です」
ドルドインは静かに口角を吊り上げた。
視線は依然として眼前のキャンバスへ向けたまま、透明の軌跡へ言葉を紡ぐ。
「意味の分からない事、理解し難い常識を逸脱した先駆」
「大衆が喜び、声を荒げる芸術への反撥の狼煙」
「線を引き裂いだ先に残った僅かな点に潜んだ感情」
「私のフェティシズム」
「……」
「業を背負う上で必要な覚悟は、如何なる共感を求める物ではないのです」
「客観的な評を得てしまっては、進むべき道の当然感じるべき人の痛みを直で受けてしまいますから」
「……」
「マエストロ薬指、ドルドインだな」
「薬指マエストロ、ドルドインです」
「初めまして、透明の軌跡」
ドルドインは筆を止める。
そして、ゆるやかに身体を翻した。
礼儀正しく一礼を終え、生気の希薄な瞳を透明の軌跡へ向ける。
「会ったことはあるはずだろ」
「そうですね」
「ですが、私が拝見した芸術は『ガンパウダー工房』としての貴方です」
「特異たる色彩に名を馳せた貴方は、また異色の芸術と成り得ました」
ドルドインはスポットライトの円環を横切る。
白く塗られた椅子を手に取ると、
透明の軌跡の傍にまでそれを丁寧に持ち運び、「座ってください」と促した。
内部へ足を踏み入れる。
そこに展示されていたのは、悍ましさという言葉だけでは到底括れない作品群だった。
生体そのものを素材とした芸術。
血肉の表現を忌避するどころか、生命が有する生々しさそのものを作品へと昇華させている。
臓腑を想起させる造形。
生物の輪郭を歪めた彫塑。
生命そのものへの畏敬と冒涜が、判然とした境界を持たぬまま混在している。
猟奇的な発想から生まれたそれらは、生命を嘲弄しているようにも見えれば、
逆説的に、その脆弱さと儚さを誰よりも凝視しているようにも見えた。
「趣味の悪い……」
心の奥底に湧き出る感情を抑え込みながら、ギャラリー内部を歩む。
目的地と言える部屋の途中、ベレー帽を被ったスチューデントに声を掛けられた。
「内部監査……でしょうか?」
「複雑な事情があるだけだ」
「ユンフが彩った軌跡の中の、重要な何かがある場所」
「それが此処だって直感的に信じた道」
「とてもじゃありませんが、特色はオークションが催されでもしなければご来校する事はありません」
「貴方のような『線』を描いてきた人が、我々点描派の作品に共感を示すとは到底思えないのですが……」
「……作品を見に来たわけじゃない」
「ただ、其処の部屋に用がある」
透明の軌跡が指し示した先。
掲げられた名称は――
『マエストロのギャラリー』
芸術
―薬指ギャラリー―
「あぁ……!2回目の落第……」
「つ、次はない……次落ちたら、私は……!」
白亜に塗り潰された建築物。
その佇まいは大学施設そのものを偽装することなく、
構内には学生服めいた装いの裏路地の住人たちが、談笑しながら校庭を闊歩していた。
一方では、蒼白な顔貌に絶望を滲ませる者もいる。
芸術を謳う世界の中で、生死の狭間に立たされているような佳境を演出していた。
昇降口を過ぎ、内部のエントランスホールには、透明の軌跡が受付付近で立っていた。
「来校履歴の確認……ですか」
「身分証のご提示をお願いします」
身分証を求められ、彼は懐へ手を差し入れる。
本来であれば、特色を示すバッジを提示すれば事足りるのだろう。
しかし、それが都市において如何ほどの効力を有するのか、彼には判然としない。
ただの装飾品程度にしか認識していなかったそれを、今さら取り出すという発想にも至らなかった。
懐を探り、何かを見つけようとしては手を止める。
その所作は、まるで無声劇の一幕だった。
すると、隣に腰掛けていたもう一人の受付スタッフが、慌てたように小声で囁く。
「ちょっと、この人は顔パスよ」
「失礼いたしました、透明の軌跡様」
「ギャラリー内部への通行証を発行いたします」
指の組織でありながら、そこには意外なほど外交的な融通が存在している。
透明の軌跡は僅かに怪訝な表情を浮かべながらも、差し出された通行証を受け取り、受付を通過した。