これのトラック7あたりを聴くたび00年代頃のESTなどを連想する。わたしはよく憶えていないし、それは時代的な印象で直接関係ないやつだろう。澤野さんは自分の影響元なんかは公言していると思う。ハサウェイにもどって、今あえてヴォーカルの「Möbius」「Tracer」は良いなと思ってみて、たとえば「ガイア・ギア」のドラマテーマ曲「Voice of Gaia」などは92年当時でも古い…という印象だったろう。2020年代にTracer聴いて「新しい!」とは感じないと思うが、もし1990年にこれを映画でやっていたらやはりびっくりだ。平成初期のTVアニメのオープニングにMöbiusを空想してみるのも、なかなか。
この短編の見どころはやはり、妻の姿形が急激に変化してからの、変容、変態というか脱皮するように生まれ変わるグロテスクな、妖しく魅惑的でもある経過の描き方だろう。
宇宙や、遺伝子のことを除けば、わたしは最近もリーのHunting the White Witch(1978)中でも「老女の若返り奇跡」シーンを読んだ。それは魔術だが、その場の人々はやはり畏怖に打たれながら、「やめてくれ、冒涜だ」と叫ぶ博士もいる。2020年代から読み返して、こういう「老女の全身が角質化し、ひび割れて、中から羽化するように美少女が現れる」イメージってそれほど冒涜的だろうか、おぞましさや驚きをまだ感じなければならないだろうか……のような連想で、思い出した。今は見慣れているようだ。
80-90年代とかラノベ一般に、こういう文章の粗というよりは校正の雑さが珍しいことは全然ない、普通によくある。つまんない話なんだけど、富野作品の場合「ラフに提出されたものが長年そのまま読み継がれている」という問題が、今どきネット上で時々困ることがある。
前回『ガイア・ギア』で触れた、文意が真逆になっているようなのは、いま読み返していて、わたしの思ったよりは少ないな。最悪なのはこのあと『ガーゼィの翼』だけどな。
上のセシリーのとこなんかも、わたしはわたしが読み返すときに、何年おきかにそのたび「??」と思っていると思うので、メモを書き留めておくのはわたしのためだ。
上のところは、補うなら、
という、宇宙世紀初出の「ビーム・シールド」のお披露目の描写だが、それがどうも抜け落ちてみえると言いたかった。小説ではビーム・フラッグのほうが先に出ている。
これも変な文章だ。――こういうのはいわゆる「富野節」というリズムの問題ではなくて、執筆時にペンが滑って書き飛ばしたのをそのままに、その後チェックされてないだけだと思う。版による違いなどは知らない。わたしは、電子版で読んでいるのはこのたびゼータだけだけど、ゼータでは電子版で全く訂正など見られなかったからF91もそうだろう。『閃光のハサウェイ』では新装版の際に明らかな誤りの箇所は小訂正が入ったと聞いている。
富野文にある特徴的なプロセス文体、プロシージャというか……手続き文では、今回それも気にしながら読み続けていたけど、読者の印象からは意外に、90年頃までそれほど多用はされていない。
文章の接続は保ってダラダラ続けていくので、日本語の文法自体は壊れてはないだろう。
『言葉使い師』から「美食」「イルカの森」今夜ここまで。
「イルカの森」は『魂の駆動体』や『Uの世界』から後に思い返し連想するとは以前に書いた。アラスカというと『猶予の月』だけどその取材についてはそちらの後書きかに書いてあった気がする。わたしの連想のはなしで、そんなに大事なことじゃない。
演劇部で弁論部。宇宙世紀中でも、へらず口では負けないヒロインのはず。
I remain beside the road, impervious, and with no companion.
という言い方には Companions on the Road (1975, アヴィリスの妖杯) のタイトルを連想させるが。
「あらすじ」のように手短に説明しがたい混沌の展開……無数の凄惨な死、生と死を超克して深い悲しみと孤独、の数行あとには独特の"ヴァズカー節"のブラックユーモアが戻ってきて、不謹慎で冒瀆的も甚だしいが妙に清々しい変な笑いが込み上げてしばらくクスクス笑いが止まらなくなる。この三部作はほんとにすごいが……ほんとに疲れる。今夜中にこの章まで読んでしまおう。
――Part IV: The Cloud / Book 1 終わり。
「官僚腐敗をただす」「みんなの生活を守ろう」「宇宙民の地位を向上するため」、そういうことは眼中に入ってない。歴史との戦いに挑むから前衛、尖兵のバンガードと。
さっきの宣言のとこは、てきとうを書いたので、クロスボーンが「市民」を名乗るかは、ちょっと思わないかな。
今日この日、地球連邦は、――
手短に檄だからここで具体的な演説しなくていい。その長きにわたる虚飾を暴かれ、システムが犯した人類史上の罪に対し鉄槌を下されるであろう、くらい。わたしは最近の流れで、システムと歴史認識にふれるニュアンスはほしいな。
映画のほうだけど、ブリッジにいても「家庭の問題だからな…」のようにサイコミュ的な感応しているらしいことも思えば、とくにザムスにそのための機材等を求めるわけではないのか。
サイコミュ要塞のエンジェル・ハイロゥに行くまえに、サイコミュ戦艦という段階を思ってみたかったんだ。
ラフレシアに乗っていて上の機能が使えないんでは何のためのネオ・サイコミュかわからない。中枢はラフレシアで、ラフレシアを発進して全機能を使うにはケーブルでつながるが、それでなくても鉄仮面とラフレシアは常時無線で連動はしているという考えのよう。
ザムス・ガルの司令官室(ブリッジではない)からはネオ・サイコミュを使って外界を走査し、ミノフスキー粒子散布下にかかわらず戦況を鉄仮面の意識に直接感知できる。そういう機械設備が司令室にあるのか、室はただの室だが鉄仮面は念力でネオ・サイコミュできるのか?等、小説F91のここにしかない記述なので詳しくはわからない。
読むかぎり、砲が連動していないだけでザンネック。フォトン・サーチャーでもいいけど。ザムス・ガルが「サイコミュ戦艦」かのような話もこの後一切ないけど、前後に分離するだけでない特殊な艦らしい、引っかかりだけはあった。鉄仮面を中心にバグ‐ラフレシア‐ザムス・ガルも含めて一連のシステムのような想像してみたかった……ようには思ったことがある。
クロスボーン艦隊侵攻。モビルスーツ部隊発進に先立ち、鉄仮面の宣言。
この文章はおかしい。地球連邦に叛旗をひるがえすクロスボーンの将兵らの健闘を祈るのはもちろん地球連邦ではなくて、鉄仮面。『――地球連邦は、』までで意味が切れていて、そこに続くのは『宇宙史に前例のない市民による鉄槌を受けるだろう』みたいな文章だろう。原稿の途中でペンが走ってすっ飛んだんじゃないかと思える。
十五章でセシリーにグライダーのことを言われて初めて狼狽している。それはやはり、初対面のときシーブックにそのことは念頭になかったんだろう。セシリーはシーブックの名前を知っていたが、シーブックは「工科の居残りだからタウン民」と当てられたと思ったのか。「シーブック」と途中で呼ばれているんだけどな。
結局、今時もはやどうでもいいことだが、このこと前後の章でなにか辻褄があっていないようで、それで読み返すとわたしは気になる、ということだった。その話だけでいい。
いや、やっぱり、彼がシーブック君だとは察し、シーブックがタウン民だとも知っていたが、『タウンでしょ?』というタウンにとりわけ蔑視的な強勢つきで言ったんではない、のいみか。『蔑視』は、インバーバ区民からタウン民に、この子シーブックだけどなんだタウンか、タウンはタウンに帰れよみたいな響きが出てたら、さよならだ。上のじゃない。
「シーブックは学内でそこそこ有名」は、作中に書いてあるようだけど、あまりそう思わないみたいだ。あえて言うなら『サイド7では機械好きで有名な子』のようなキャラ付けを踏襲してるんだろう。
このあとシーブックがF91に適合できたのは、工学科やグライダーの経験や、母が開発者だったからではとくにない。それは「F91に乗る動機」にはなった。「ニュータイプの素養」だとかは、子供は誰でもニュータイプになりうるくらい誰でもいいので、シーブックにとくに優れてニュータイプ的だというところはない。それは後でかんがえようか。
タウンでしょ?
夜の自転車置場で初めて会った後、セシリーが言い当てるところ、わたしは読み返すとふっとわからない気になる。
まずセシリーの筋道は飛躍しているとして、わたしの場合……この前の章でスペースコロニーの「タウン」の住宅と経済事情の説明をしているので、ここの『蔑視』という意味が、――タウン住みの工科学生には卒業後の就職のために居残りで遅くまで実技修得に励んでいる子が何人もいる、普通科や、工科でも余裕のある家の子はそんなにがつがつしていないから、こんな遅い時間に学校にいるのはタウンでしょ?――というと、ブルーカラー家庭への蔑視なのかなという読み方を、してしまう。最初に読んだ頃そうだったと思う。
ではなくて、どうもシーブックは学園内ではすでにグライダー制作でそれなりに有名な「名物一年生」として普通科の女子達にも知られているらしく、学校の機材で遅くまで何かしてる人物として……セシリーは面識がなくて相手を『シーブック・アノー君でしょ?』と気づいた、らしい。「実習室のヌシのアノー君はタウンの子」とまで噂で知っているのか……まで。このあと会話中で結局シーブックは自分から名乗っていないが、セシリーは彼を「シーブック」と呼んでるからあらかじめ名は知ってる。
その場合の『蔑視』となると、「グライダーやってるシーブック・アノー君でしょ。キモい」というのが、ここでいう蔑視だろう。理不尽だけど、女子からのそんな一方的な男子蔑視ありがちだ。普通科の生徒から工科に対する謎の壁も。
セシリーにその蔑視はないという話、だった。ともかく初対面で不快感をもたれないだけでも少年として相当な戦果だとわたしは思うがな…。同好の大人に名前を知られていることはシーブックには意外だったが、学内の女子に個人認識されているくらいは当り前でとくに感慨はないらしい。グライダーの実績だろうね。自転車を漕ぎながら帰っていくのを見送りながら、
それは偏見である。
シオはもともとフィクション志望で、たまたま純粋なノンフィクションに挑んでみようとするとナディアが反対した、という本文だった、むしろ。上の、シオの文学観はまちがっていない。
不純なファンタジー
シオが不得手なりに書いたファンタジー、ここでは、ノンフィクションに対してフィクション全般というくらいの意味で「ファンタジー」と言っているようだが、どのようだろう。シオ・フェアチャイルド作のその内容に興味をもつとか、いかにガンダム界隈に人が多くてもあまりいないと思うけど。雑誌に載せた実績ほどにはなったが、シオ自身としては本意の作品とはいえないもの…。
作家として純粋なファンタジーには躊躇するんだから、「不純」な要素のあるファンタジーだろう。現実社会への批判が作中にプチプチ挟むとか。読者に面白かったと言われるための要素ではあっても、この愛らしいのはフェアリーではなくフェラリオなのです、とか、これはストーリーよりもリ・ストーリーというべきものです、とかの事ごとに言い訳がつくのは不純さ。
伝えたい言葉を選ぶのさえ、少年少女にはむずかしくて目もくらむように思えることがある、大人になっても簡単にできることではないかもしれない。なんでも叫べばいいわけじゃないのはわかってる。ナディア譲りのセシリーの特質は、聞き上手
七章「記憶」より。ナディアが失踪して一年後、シオと、中学卒業間近のセシリーはゆっくり話し合う時間をもつ。少女のセシリーは母の振る舞いの裏をあれこれ想像できる齢になっていたが、シオはナディアの人格に立ち入ることには節度を保ちながら、セシリーにわかるように大人の男女関係の一端を話してくれる。シオ自身の偽らない気持ちでもある。
男女関係はロマンチックな恋愛、だけではなく、打算や慰め合いで一緒になることも多々ある。それでも、夫婦生活の長年の経過や別離に耐えて「愛というものは、育てるものだ」と教えてくれた、母さんを愛している、と躊躇わずに話してくれた。衒いや嘘でなくそういう話をしてくれることがセシリーには嬉しかったし、
シオは小説家のキャリアで、手短に言い表すのがむずかしいことや、子供には想像するしかないことも、伝えたいことを正確に言葉にする訓練をしているからこんなふうに話せるんだ……と、思う中学生セシリーはそれはまた年不相応なのかな、むしろ年相応なのか。「中学生らしい達見」とか「大人ぶった意見」が彼女の口から続けて出てくる。シオは苦笑しながらも、言葉の言いつくろいでその場でごまかすことはしない。一つ一つに答えていく。この章はこのF91上下巻でもとくに良いところで、モビルスーツや政治陰謀はないが、著者も相当に集中力を傾けて書いているだろう、対話篇になっている。
こういうのは丁々発止、とはいわないが充実した父娘の会話だっただろう。脆くて、どっちにでも壊れそうな時期のセシリーの気持ちをシオは父親として注意深く守ってくれたのはたしか。その時間のあとで、シオは一人になり、「言葉を弄んでみせたこと」にやはり淡く苦い思いを残している。シオの文学面の#2
上のは、「富野小説を再読したらOSTか交響組曲聴くのは儀式」と言っているので。F91いま交響詩でなく、コンサートアルバムの方を開こうとし、1曲目のメドレーだけ聴いてハサウェイのほうを思い出した。F91はまた後日にする。このメドレー中のBEYOND THE TIMEのところがわたしは好きだったりする。
「閃光のハサウェイ」オリジナル・サウンドトラックを聴く。イヤホン、街歩きの行き来中。
この折に「F91」の交響詩アルバムを聴こうと思ったのだけど、そういえばハサウェイ読んだの忘れていたからハサウェイに変えた。映画一部のあと何度も聴いてる。わたしは澤野弘之作品は手元にそんなに持ってないし聴いていない。きらいなのではなくて、音楽はどっちかというと好きなタイプだけどその頃わたしが映画やアニメ見ないとか、劇伴蒐めなくなった時期だったりした、間のせい。
これのトラック7あたりを聴くたび00年代頃のESTなどを連想する。わたしはよく憶えていないし、それは時代的な印象で直接関係ないやつだろう。澤野さんは自分の影響元なんかは公言していると思う。ハサウェイにもどって、今あえてヴォーカルの「Möbius」「Tracer」は良いなと思ってみて、たとえば「ガイア・ギア」のドラマテーマ曲「Voice of Gaia」などは92年当時でも古い…という印象だったろう。2020年代にTracer聴いて「新しい!」とは感じないと思うが、もし1990年にこれを映画でやっていたらやはりびっくりだ。平成初期のTVアニメのオープニングにMöbiusを空想してみるのも、なかなか。
Book 1 - Part III: The Crimson Palace まで。
ヴァズカーの魔術については、平たい地球シリーズのダタンジャの魔術も較べて参照。ダタンジャのささやかな魔術は、見せかけのちゃちな小道具を使うことで「不思議さを相殺する」というもの。ヴァズカーの奇跡は驚異すぎる。
が、とんでもなくスペクタクルで面白い。ヴァズカーの女性遍歴では、マルミラネットの姿態にほんとうは全然似ていないディミズダーの面影をふと浮かべるヴァズカーは痛ましい。
シオ・フェアチャイルドの文学観
シオ・フェアチャイルドの文学観について#1。教条主義的で、ミーハー的で、現実を直視しない小説家というのは、90年頃だとどんなのかはわたしはぱっとわからない。
ハサウェイから直に続きだと、例の法案はその後どうなったんだ、のような興味はF91のこのハウゼリーの章のところで遠回りに補われるのだったか。ハサウェイの話だとこの数年しばしばそれを思っていた。
わりとこの頃から「共喰い」なる言葉があることはあったが、それが主題なところでもないし、他で見たような記憶もないなあ…
ハサウェイ中下巻おわり、何度も読み慣れていてそれぞれ1日ほどで読んでしまう。さすがに今更なにか書き込むこともないか。次、F91。これもたぶん早い。
わたしは上の短編は読んでいなかったのだけど、一日以上時間が経ってふと、前日譚にバーガディシュ少尉がいるのはおかしい気がしたが、まあ、そういう齟齬を言い出せば「ぼくの、マシン」の頃だって何か違和感だった気はする。
雪風は間を空けて書き継がれているので人物の性格が数か月で二十歳ぶんくらい変化していても気にしない、とは前回。五部の連載中、エピソードを読むたび「また知らない特殊戦機が出てくる…」と思っていた。それも恒例。零が同僚の名前を覚えていないらしいのは意外な箇所があったけど、考えてみればもともとその方が意外でないのかもしれなかった。
『言葉使い師』から「愛娘」SFマガジン82年3月号初出
話の落とし所のジョークは弱くて拍子抜けな気分で終わるが、それはあまり重要でない。女性についての話で、男はもういらないのかい、という幾分コミカルな苦笑的な男性目線をまじえる。
この短編の見どころはやはり、妻の姿形が急激に変化してからの、変容、変態というか脱皮するように生まれ変わるグロテスクな、妖しく魅惑的でもある経過の描き方だろう。
宇宙や、遺伝子のことを除けば、わたしは最近もリーのHunting the White Witch(1978)中でも「老女の若返り奇跡」シーンを読んだ。それは魔術だが、その場の人々はやはり畏怖に打たれながら、「やめてくれ、冒涜だ」と叫ぶ博士もいる。2020年代から読み返して、こういう「老女の全身が角質化し、ひび割れて、中から羽化するように美少女が現れる」イメージってそれほど冒涜的だろうか、おぞましさや驚きをまだ感じなければならないだろうか……のような連想で、思い出した。今は見慣れているようだ。
それとべつに、作中、宇宙で生まれた子はより宇宙に適応するだろう、との続きに「空間位置関係を把握する能力にすぐれているとかね」と触れているのは、1982年頃だとガンダムだろうか。わたしはその当時事情が確かめられなくて、この作品集を読み返すたび思っている気がする。神林作品にあんまりガンダムへの示唆言及は見当たらないと思うがアニメ文化にはちょくちょくある。
Hunting the White Witch
Book 1 - Part II: The Sorcerer ここまで。2か月くらい、他に寄り道してびっくりするほど進んでいない。ここはまた、英語を読んでいる話なのに英語でコメント書くようにしたほうがいいのか……誰に向いているんだろう。
第3部になってヴァズカーがどんどん面白キャラになっていく。なんだかこのへんのいきさつは、古代ローマ頃の魔術師伝、シモン・マグスや、ルキアノスの「ペレグリーノスの昇天」だったかそんな連想をふとする。イエス・キリストの行跡を過度に誇張したようなダークヒーローみたいだ。それは、あまり気にせずにおくとして、タニス・リー作品でも「剣の戦い」が見せ場になっているのがバースグレイブシリーズは最初にして貴重な。
雪風の命名ってブッカーじゃないの?……だけど、書いたのがブッカーだよ、と。「名付けたのは誰か」に何らかこだわりたい人はいるだろう…。
昔の駆逐艦の名前だとは、零はブッカーに後で教わっている。「どういう意味か」と訊かれたときには、
とこだわっていた。
SFマガジン4月号 戦闘妖精・雪風、読切「棘を抜く者」を読む。これは雪風〈改〉愛蔵版(2022)に書き下ろし・収録作らしい。
なので今更だが、シリーズ読者には通念と思う過去エピソードが若干、書き変わる。それはそれでまた、このエピソードから第一作の不安な関係に繋がらない気もするが……。次はブッカー少佐が零に毛筆の持ち方を指導して漢字を書かせているかもしれない。
マランビジー
今ハサウェイをまだ読んでいるところだった。
上のような「神話」をハサウェイの文脈だとマランビジーという。ただ、小説の原文と裏腹に、ハサウェイとかマフティーという名前は、宇宙世紀の後の時代に象徴のように残っていないと思う。未来の歴史資料には載っているだろうが…。
この頃の時代を、当時に活躍したモビルスーツの名から「ガンダムの時代」と呼ぶ、とも先日の舐め本中には提唱されていた。その通称が読者・視聴者に共有されてもいないけど、ハサウェイが風化してもガンダムの名前だけは悠然と残っていることは誰も疑わないだろう。
宇宙のマランビジーに語り継がれるのはマフティー・ナビーユ・エリンでは多分ないが、神話伝承のその格はガンダムが担う。『シャアの去ってからしばらく経った頃、地球に一人の若者がおった。若者は、ガンダムに出会った…』として語りだす。
上の本などは、帰還兵や戦争傷痍者の社会的支援のような目的や、軍人の使命を伝える意図があって書かれているが、もちろん小説家や漫画家や映画監督にそんな使命感はない。そちらは、「劇中、興味深い人物をつくるための刺激的でリアルな動機のサンプル」が興味。
シャアからカミーユへ
シロッコ目線では「覇権主義の俗物」というのはバスクのことで、バスクは「目の前の戦争で敵を潰して自分がのし上がること」が最大関心、この時代での男の野心だのように信じきっていて人類や宇宙のことは考えていない。本当に俗物でニュータイプとは話が通じない。シロッコ自身も結局それから自由ではなかったが、今はシャアのはなし…
グリプス戦後、行方不明になる前のシャアの心境は、昔のゲームの端切れのムービーなんかを挙げてカミーユの崩壊がどうこうと書かれることもあったが、出典として何ほどの根拠でもないし、わたしは興味がない。
シャアからその後のカミーユについては、今ここは富野小説を読んでいるから、小説から
「脆弱なのは美徳ではない」と一蹴している。戦い続けて繊細な心が押し潰され、しまいに壊れてしまう少年の姿は、脆いなあ、儚いけど美しいなあという大衆好みの同情共感を切り捨ててむしろ冷淡にみる。もっとも、この場面はアムロとの口論中で売り言葉に買い言葉という節が多分にあるが、ネオ・ジオンを組織するまでに来ている頃のシャアに言わせればこんな発言になっていても、おかしくない。
わたしはハイ・ストリーマーの文章がそんなに重要だとは思っていないので、こんなのはファンサービスだと思って読む。
退却のシャア
しばらく前にシャアのダカール演説、小説版のテキストに触れてゼータ時点のシャアの理想・理念を追った。
ゼータ以後行方不明になって、再登場したときには人類の敵になっているシャアのキャラクター理解は、昔も今も「わからん」と思われて当然で、今後もそうだろうと思う。
『戦争によって人類の殺し合い状況を演出して人口を調整し、文明を賦活する』という宇宙戦争観は、ガンダム界隈のファンには当り前のように馴染みすぎていて、まず、それが非常識な暴論だということもあんまり思い出されない。
ダカール演説のあと、地球連邦軍の各方面の軍人はエゥーゴ支持に傾きだし、カラバの通行をそれとなく後押ししてくれたり、直接間接に支援が増えた。連邦軍のなかでもティターンズ専横に反感をもっていたとか、その主流から外されて不満だったという派閥意識もいうが、そもそも上のようなジャミトフ思想が、正常な軍人には認められないものだからだろう。
「定期的に人間を殺すために軍隊がある」等、陰謀論ならいつの時代もいいそうなことだが、事実そうと知れれば支持できない。正規の軍人がそのために命を賭けて戦うとは思えない。傭兵でも山賊でもない。そのような一部の戦闘狂がティターンズに集まってヤクザ化しているのは事実で、ジャミトフの私兵という。
シャアの演説はシャア自身がパフォーマンス的だ、道化だといって悩んでいたが、その主張自体はある程度、まじめに理念として通じたらしい。それでジャミトフを討って先は未来に託せればよかったが、すぐに入れ替わり覇権闘争が持ち上がり、ジャミトフを潰してその後のパイを誰が取るかがおおむね関心の、ハマーン、シロッコに巻き込まれる。抗争のあとの歴史には、
『ダカールでのシャアの演説はエゥーゴの覇権に傾けるためのパフォーマンスとして効いた』
という結果に上塗りされていて、あれはやはり支持集めの戦略だ云々の解釈が一般的になり、演説中の理念の方は立ち消えた。
ベトナム戦後とその後
トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』(1981)の上おわった。ハリス作品を最後に読んだのが10年前だが、このまえ、『ブラック・サンデー』(1975)が、「ベトナム帰還兵がテロを起こす」スリラーの先鋒としてここ、ハサウェイを読み直す参考になりそうと思って再読もしたんだった。それは、今はあまりない。
『ブラック・サンデー』読んでもわかるが、1970年代にベトナム問題は社会問題としてアメリカ国内では衆知で、それは新しい問題でない。それに喚起して「ベトナムでトラウマを負って殺人鬼になる」のような、ベトナム発パターンの読み物がこの頃に量産されるんだろうと思い、その流れに興味なのだけど、そのことはわたしはあまり知らない。バナナフィッシュみたいなのか。
このようなエピソードの例は、『「人殺し」の心理学』(デーヴ・グロスマン,1995 安原和見訳1998)に多く載っている。それは富野より押井守の参考文献の先頭に挙がっていたが、押井作品の話は今しない。
タニス・リー魔術の主要概念としてtruthとかfaithは覚えておく。「意思と意図」という方が実践では前に出てくる。The Birthgraveの主人公はpurposeとindependenceがエネルギー源になっていた。「目的意識と自立への欲求」が原動力の女性像、と書くとフェミニズムの化身のようだが今は魔術で、フェミニズムは追々。
反因習や、反抗心は後にもずっと掲げていく。
ritual 儀礼は長い時代を経てそのtruthを失い、代わりにおびただしいsignificance 意味づけ、解釈で装われている。このsignificanceは後から付けた虚飾、意味のないものだ。男どもは無数のdeities, demons, totems, spiritsを捏造する。Tuvekはそんな野蛮な虚飾をもとから蔑んでいるし、自分の肉体能力を自覚してからは尚更神々を必要としなかった。
shireen
The Birthgraveの世界の都市住民でない山野の部族民の女性が着ける面布、顔覆い布 shireen は、第一作で頻繁に言及されるものの具体的なイメージはあまりなく、アラビア女性の伝統衣装のような目線・鼻から下を覆うようなものかと思っていた(放浪の間にボロ布みたいになる)。
用語集はここには作成しない。50行しか書き込めない。長編で忘れるので固有名称は手元に書き控えておくといいが…