サウンドトラックでない菅野よう子オリジナルアルバム「Song to fly」かな。飛ぶための音楽と称しているから浮上力、フロート・エナジィだ。もともとゲーム音楽のためらしいが、これはあり。
上で触れたのは野菜畑の話なので、「アルジュナ」もかな。アルジュナって、映像は綺麗なんだけど話の内容がクサすぎる、流石インド人監督と揶揄られるアニメだったけど、主役のバカップルがエイサップとリュクスみたいと思えばわりと逆に富野的だったかもしれない。今夜もう遅い時間になったので、Song to flyを聴こう。ABC Mouse Paradeは久しぶりに聴く。
それはそれとして、二、三作別のタイトルを挟むと前に読んだのの細かい諸点はもう忘れてしまうから、だ。順当にいくと『夜の言葉』まで6冊先になる。そう考えれば、そっちを先にしよう。
ちらちら見ているが、『闇の左手』の印象が新しいうちに『夜の言葉』を先に行ったほうがいいかな……。実のところ、作品年譜の順といっても正確な初出順というわけでなく、いつも怪しいものだし。とはいえ、たとえ作者自身の自作評であっても、それが全てだと思ってるわけではないというのが今わたしだけどね……。「ル・グインによるル・グイン評」というと、それが権威だと思ってしまう人もいるのだ、わたしは、わたしの関心がそうではない。ル・グイン本人にしても、その文を書いてるときと、10年後にもう一度チェックしたときとで言うことが変わっている。その前後関係というかな。
『闇の左手』読了、つぎ『こわれた腕環』
これも日本語訳が難しげ。原文を覗いていないが、faithかな。
18章「氷原の上で」ここにまたまとまった発言があるが、これはまた「エクーメンのスローガンについて」を言っているところで、ここに列べて書き抜きするよりは本文を読み返したほうがいい。邦訳より英語原文でないとややわかりにくいかもしれないくらいだ。
エクーメンの方針についてのことで、それが必ずしも主人公アイの信念だとも、真理だとも作者のル・グインの考えだとも言ってはいないが、ここにメモしておくのは、プラグマティックかどうか、政治的か神秘的か、目的は手段を選ばずか、というワードがどっと列ぶので、余所でまたそれを見たらここを思い返してもよい、等々。
このあたりはやはり隣の富野通読にも連想しそうだ。考え方ではなく、同じ字句が出てくるからだが。光と闇、と言い出せば宮崎駿を連想しそうなくらいの意味で。それは、1980年代や90年代のことで何がどういう経緯を辿っているにせよ年代は憶えている。
争闘やまないカロッダを鎮定するために掲げたフローランド思想は天下布武、ではないし八紘一宇、でもない。四字熟語でいえば……わたしはいま、「天壌無窮」のような言葉を連想したが、それは先日の菅野よう子のイメージが若干あった。
政治思想(政治目的)としてのフローランド思想は壮大だ。壮大で、言っててちょっと荒唐無稽だと、自分で言っているグラン王も思えてしまうほど。
グラン王が掲げたフローランド思想は宗教的な面はあるけど、フロー教という宗教国家を作ろうとしたわけではない。フローランドが現実に実現している現在に至ってもフロー教徒の地位はやはり何故か、あんまり高くない。
フロー教のアジャリの容貌をみるに、フロー教徒の使命はまず第一に古伝説(創世記)の伝承。自然哲学と、修行者の能力開発に専念している。知的選良(エリート)のみの教義で、凡愚のともがら=民衆の生活態度には全く何も指導しないし、権力に容喙しない。ネオ・フリーメーソンやヘルメス財団に似ているといえば似ている。
上の話ならドレイクと較べたほうが妥当じゃないのかな。わたしは意外にドレイクを思い出さない傾向があるらしい。
たまたま、騎士の領地の話で、ドレイクの場合ガロウ・ランとの戦争では騎士の戦功に報いる封土を得ることがないので、それが騎士の時代の終わりと次の覇権主義の台頭を推し進めたという論旨で書かれたが、クワウンゾゥの機械信奉はこの世界で「新時代の思想」のようには言われていないだろう。
それはむしろカロッダのほうで、フローランドという新秩序を宣布してカロッダ全土をまとめたというほうがドレイクの思想にも近い、はず。クワウンゾゥの動機とする機械力によるコングリヨンのフローランド化は倒錯、グラン王やグラン王の息子から見ればむしろ時代遅れの妄想、狂気と見えた。これらは作中に書いてあるが、読み返しでは幾らか意識的に追い直してもいい。
巻の四まで、クピドとプシケの物語の途中。
この「ジャム人」のところは雪風ファンの間では言われ尽くしたことで、ジャムでいい、いやここはジャム人だ、とか言われたことだろう。さっきのはそうでなく、口に昇すときの響き。
こういってみると、おおよそほとんど「詩集」みたいな気分で再三読み返しているからな。現代日本語でその気分で読める作家に今も乏しくて飢える気持ちは、まあ同じ読者ならわかっているだろう。
これは前回どこで言ったんだっけ……騎士道のところか。
これは『雪風』旧版の文庫からだが、「破滅した」のところは〈改〉では「壊滅した」になっている。すぐあとに零が「ほんとうに壊滅したかどうか」と思っているから文章の続きとしては「壊滅」のほうがいかにも正しい。軍隊の通信文としても普通は壊滅の語が使われそうだ。かといって、これは誤りだろうか……のような、旧と改を何度も行き来していると字句の同異で時々思ったりする。無論今現在、出版されているものは〈改〉が決定版だからマニアの片端な興味でしかない。
「老覇王」のキャラクターについてはこれまで触れてきたが、ゴゾ・ドウやズムドゥ・フングンの面影を引いているのはわたしの印象ではこの『王の心』では主人公グラン王その人で、ここで、「クワウンゾゥ」という思いにはあまりならない。
フングン王が恐獣使いで国興しをしたようにクワウンゾゥは機械信奉者とはいえるかもしれないが……。ゲトラ・ゲイはむしろクワウンゾゥ寄りの覇王かもしれなかった。ゲトラ・ゲイの実像は、じつはよくわかっていないことも面白い。
『王の心』第二の物語 完。第二話にしていきなりハードルの高いエピソードだとは思うが、ガンダムよりは想定読者の年齢か文芸経験は求めるということだ。趣味についてはむしろ微笑ましくもある。
わたしは、今この説話チックなシチュエーションに連想をかき立てられることはもう前から書いた。実際に読み返すとそんなに古典ほど古めかしくもないけど、おかげで『屍鬼二十五話』以下からの読み返しを始めるきっかけにはできた。あれやこれ併読のモチベーションになる。
この第二話の中の、騎士の領地経営のあれこれ話題はこれ単独で独自の興味にもなる。『オーラバトラー戦記』にもジョクの領地経営とそこにアリサを連れてくる話があり、『戦記』中ではそれだけで面白い小説にはなりきらないかもしれないが、その話もう少し詳しく聞いてみたいような気はした……のを思い出す。田舎の館のつくりは古代よりはだいぶ新しい時代のよう。
この小説中のテッサリアの魔術(魔女)の所行をこまごま列挙しておこうかと思ったがその気にもなれない。最初のほうの、非難する連中を一室に閉じ込めて扉が開かないように魔法で封鎖し、餓えて音を上げるまで監禁してやったとか、家ごとはるか彼方の山上に持ち運んで異郷に放置してやったとかは、なかなか良い魔法の使い方だ。
今ここの読み返しの続き、『屍鬼』と続けて共通点としては、人の死骸を持ち去って魔法の儀式の材料に使ってしまう、という忌まわしい所行を語られていること。その実態があるのかもしれないし、実際にどうかは知れなくてもそのような噂なら決まって語り草になるだろう。
浮上する音楽
サウンドトラックでない菅野よう子オリジナルアルバム「Song to fly」かな。飛ぶための音楽と称しているから浮上力、フロート・エナジィだ。もともとゲーム音楽のためらしいが、これはあり。
上で触れたのは野菜畑の話なので、「アルジュナ」もかな。アルジュナって、映像は綺麗なんだけど話の内容がクサすぎる、流石インド人監督と揶揄られるアニメだったけど、主役のバカップルがエイサップとリュクスみたいと思えばわりと逆に富野的だったかもしれない。今夜もう遅い時間になったので、Song to flyを聴こう。ABC Mouse Paradeは久しぶりに聴く。
『王の心』がブレンパワードに近いというのは、シーマ・シーマから一連の「浮上する世界」という、だいたい背景舞台世界のことで、オルファンが海底から徐々に、徐々に浮上して海上に全貌を現してくる上昇イメージはよく踏襲していると思う。でも、「愛の輪郭」を聴くとやはり歌詞がブレンすぎる。オフヴォーカルでも良い曲だけど……。
ブレンパワードのサントラ全般はやたら映画っぽいというか、ノヴィス・ノアは海軍艦じゃないがバグパイプでは今ないな。("Departure"のこと)
歌詞をいえば、∀での「月の繭」の歌詞に直接繋がるようなワードが『王の心』このあとの巻に出てくる。それを言っている。それだけでも『王の心』が今後読み返されていいくらい大事なところ。ただ∀のサントラ全般も∀の音楽にしか今は聴こえないものだろう。
菅野よう子音楽については、絶大な人気なので評論は数多あると思う。わたしはその関心ではない。今わたしの関心では、根はポップスの作家で自己主張が強く、菅野楽曲になじむと、いずれ何を聴いても「ニャッ」というあの、どんな時にも例のユーモア、何ともいえず可愛らしさが聴こえてくる。……
映像の場面と音楽が一見ちぐはぐでも強烈な印象でアピールするくらいで、「本編をMVにするアニメ」の一ジャンルを築いた偉業はあるが、サウンドトラックでは、作品の求める一定の劇的動機を提示するみたいな劇伴音楽のドラマツルギー論からは常に収まらない。こういう話は今はトピック違いなのであまりすまい。わたしは菅野も富野もファンだ。
この小説通読では富野作品を読みながら何かしらの音楽をこれまで探しているのだが、『王の心』の架空のサウンドトラック、というのも今まであまり、考えたり想像したことがない。
Vガンダム後だから千住明か、というのはむしろ『アベニールをさがして』でもよかった。『ガーゼィの翼』にもあれこれ空想はしたけど、『王の心』については、作品内容がブレンパワードや∀ガンダムにすでに直接接近している部分があって、菅野よう子音楽をそろそろ聴いていきたいかな、というのがわたしはある。
わたしは菅野よう子さん作品は「てつ100%」の頃の旧いのからほぼ網羅している。時期的には、1995-96年頃というとマクロスプラスのあとエスカフローネという頃なのだけど、わたしはまず管弦楽を聴きたい。「エスカフローネ」を聴いてエスカ以外に聴こえるリスナーがいるわけがない。……
わたしはこのマジカル云々というのはここでずっと追ってはいるが、隣ではル・グインの古典的な『闇の左手』なんかを読んでいてさえ今日また同じような連想をしていた。ただし、ル・グインを読むのに適当かはべつ。わたしの中でそれに残響しているものがあるの話。
富野話題では、この6回の対談記事中、第5回「未来の開き方」という、ここではVガンダムのときに「時の見かた」と書いたのを思い出した。
それにしても、かつて80年頃アニメの中の少年少女が『ああ、刻が見える…!』と叫んだその頃に、テレビの前や映画館で少年少女に「刻が見えたか」というと、見えんし、わからんかったと思う。『いつか見えるだろうという希望を投げかけた』のような評論なら書かれたかもしれないが、少年少女の多くはべつにそんな希望なども抱かず、ただぼんやり眺めていれば感動できたと思う。
それを、刻を見に行こう、あるいは、見るならどんな仕方で見えるか、と考え進めていくのはさらに10年、20年と経ったからだ。『今なら』という。その経過も読み返すことはでき、「ニュータイプ論は後に否定された」とかではない。
同じく上で『ヴィーナスの神話』(矢島文夫)について触れてそれも再び取り寄せ、併読していたらこの中で「黄金のろば」について言及する箇所に追いついてしまった。先にまず「ろば」を読み終えて進めることにする。
テッサリアの魔法や魔女については古く有名で、といっても「月を引き下ろす」とかいう言い伝えのほか具体的にその所行や、魔境テッサリア(テッサリアの魔境ネタ)というのも今わたしは漠然としたイメージでしかない。ネタ的にはこの「ろば」が古典の大手だろう。
古代当時の伝説は伝説として、そうした魔法のあることないこと噂は、時代が下ればいつしか薄れて途絶え、もちろん現在にそんなものはないのだろうが、そのフェードアウトしていく過程を「いつ」と指すにはどう考えたらいいのやらんとわたしは思ったりする。そうした興味も、元からなくもないようだが。
黄金のろば
『黄金のろば』アプレイウス、呉茂一・国原吉之助訳で読む。上でちらっと触れたが、これも詳しく憶えているわけではなく良い折なので読み返す。軽い読み物だし。
いま、魔術について、の興味だったけれど、この話は下世話な小説なのは承知しているけど「性魔術」だったかは憶えていない。それにかまわず、伝奇的興味でいこう。
『屍鬼二十五話』解説まで、終わり。この続きカター・サリット・サーガラに行くか……行くと長いが。『鸚鵡』『十王子』も積んでいるけど、すれば何か月か作業になりそう。東洋文庫の電子書籍は仕様をみるかぎりあまりものの役に立ちそうにないので、ここは今手元にあるもので根気よく読んだほうが自分のためにはなりそうだ。
『屍鬼二十五話』第二十二話。「三人のうち誰がいちばん気が迷っているか」のような問いは、わたしには質問がナンセンスな質問に思われる。
物事の正当さを比べるならそれぞれの根拠を挙げて採るべきところを選びもしようが、狂っているのに狂い度の大小もあるものか。「詭弁的だ」とわたしは反射的に感じるんだけど、このソーマデーヴァや、伝奇物語にかぎらずインド古典でよくする詭弁論のいつものではある。そのつどイラッとするだけで、そんなにめずらしいと思ってるわけではない。
第二十三話はネクロマンシー。死者の魂を招く降霊術ではなく、老いた自分の肉体を棄て新しく若々しい体に乗り移り再生する転生術の古典的な例。
「古典的」といってもこれは十一世紀だけどな。降霊術にせよ長生術にせよ、古来、世界中にはあって何でも言えば視点が定まらない。今いったのは、伝奇小説中の、のこと。
ジャンバラダッタ本第二十二話、性魔術だな……。いまわたしの言う性魔術は、『これこれの者と性交すると願いは成就するぞよ』という語りであれやこれやする、ストーリーで、これは時代を経ても、現代のノベルやコミックにもあまねく語り継がれている。それほどあくどいポルノ的に言わなくても、ボーイミーツガールのジュブナイルでも『少女の肉体に最終兵器の封印が施されている』、などの。少女型の生体ユニットなども一種の性魔術だ。ここはその詐欺話だけど、性愛と祈願成就を関連して説きつける型は古今おなじ。
その「信仰」はむろん古代からあるし、それを揶揄った小説もまた古代からある。「黄金のろば」とかか。今は、中世。
これは遊戯だけ。ホトトギスは先日きいたがアオバズクは今年はまだ聞いていない。
ラミアというのは、文字通り古典古代でいうと、あまり恐ろしい妖女ではなくてむしろ子供を怖がらせるお化け。わたしはルキアノスの小噺集の中に出てくるような言葉としてその印象だが、上のは、現代の耽美的なラミア。青年と人外の愛に耽るが、そのまやかしの魅力を逃れようもなくじきに彼は食い殺される。
これも去年か、クラーク・アシュトン・スミスの三巻本を通し、これも再読ではあったがその際、毎回のように納骨堂、腐敗、屍臭。「またか、飽きないのか」のように思えて、文章の美しさよりうんざりする方がつのった。
スミスのそれは……ラミアか。ジーニーとかグール、ピシャーチャとも言ったが、ラミアというのもいた。
またBirthgraveの話をすると、その三部作の内容に触れなくても、作中ずっと屍臭が染みていて、まともに息ができないほど空気が悪い場面が多い。同じ作者でもジュブナイル作品になると、「アヴィリスの妖杯」が清潔に感じるという今度は面白い感想になった。ジュブナイルって健全なんだ、とあらためて新鮮さ。
第一の物語 完。短いしね。初読ではびっくりしたと思うが、読み返し、この第一話はすばらしい。
富野作品で「納骨堂」なんてゴシックな舞台が出てくるとは思わなくて、おおっと思ったのを思い出す。暗がりの剣劇の映像の間に、蜘蛛の巣にかかった蛾、なんて絵に描いたようなというか……リアルさでない。富野文でこうクラシックに見える伝奇ファンタジーを書いてもいけるというのが感動した。血みどろのゴアとかなら、バイストン・ウェルでも見慣れてる。
やはりこのアカイアーの話がわたしはまず好きだな。これから何が始まるのかと思う、なんの話をする気なのか全然わからない。続く第二話がまた、グロテスクなというよりは、みょうに定型的なはなしで、なんかの説話文学のような古典にモデルを取ってるようには思うけど、インドなのかペルシアなのか中国なのか……と思うのはそのあたり。二巻からは一挙に違うものになっていくはず。
これは「大義」ではなく「大息」。書き間違いとは思われない。誤植だが、メモしておかないとわたしは読み返すたびにつっかかると思う。
読者としては妙に感心してしまい、面白いんだけど、作中ではシリアスなところなのできっと修正はされたほうがいい。
前にも触れたように思うが、やはりこれは不可解というか……不可解でもなくて、「天蓋」には「キャノピー」とルビしたつもりが、「コクピット」と書いてしまったんだろう。他愛ない書きあやまりにしても、さすが普段、戦闘機とかモビルスーツのことばかり考えている著者ならではと思えるところ。
奴隷とかエルフとか強化人間の子を餌付けするファン妄想の類型があるとして、上の話だと「サイコ・ガンダムの胃袋」のように呼ばれるんだろう。自意識がそれだと、そのうち胃に逃げられてもしらんぞ、と。
シンシア・レーンがチョコレートや甘いものが手放せないような原型には、アイリンツーもコクピットではいつも飴をなめてるような、ささやかな描写があった。それくらい遠いと直接関係はないかもしれない。アイリンの理由は書いてなかったと思うけど、消耗が激しいからだろう。
ぼつぼつと断続的に考えながら、サイコミュからオーラ、アウラ・エナジィ(フロート・エナジィ=浮上力)まで漠然と連想していた。フロー教徒の地位は宮廷や軍でもそれほど高くない。飛行機械の人間エンジンくらいの扱い。
『屍鬼二十五話』第十六話まで。
菩薩の化身が捨身しても皆が神々を非難したら神が現れてさっと生き返し、死んだ王子はめでたく立ち上がる。――さてそれは本当に有り難いのか。というのはここではその言い方ではないが、『菩薩にとっては当たり前だから、その勇気を賞讃することではない』のいう気持ちは、今もなんらか分かるだろう。……
最近では、『騎士道』のときにフランスの中世武勲詩の中で戦い死んでいった勇士たちが話のあとに全員生き返るとか、日本の僧兵の話では、殺傷の罪を自身に引き受けて戦う僧兵には、地獄に落ちても若干の救済があるなど説くことに、むごい話に救済要素を挿むことで物語本来の趣旨は薄れて台無しにしていないか……のような、現代読者として気分を禁じ得ないものがある。
だが、それはやはり聴衆の大勢が耐えられないのだろうというのは、わたしは今そんなにわからないことでもない。
菩薩行のさらに追究はこのあと第二十話にある。
この虚構性(人工性)をつくるのが幻想文学の方法になる。それをやらなくて、現代日本に和歌などをする必要はない。
とほ…ぎす…すぎ…とお…おと…とき…きく
第十三話、『こんな設問をするやつがわるい』というより、『こんなナンセンスな話をする語り手、作者が悪い』と言ってるようで、メタ話を言い出しては伝奇が成り立たない。でもこれで一話稼ぐ。