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コドールとハッサーン
コドールについて、「コドールは悪妻」のようなイメージをあらかじめ固めて読むのは、避けたい。アニメではアニメの受け手に向けデフォルメするというのは、ナディア・ロナもそうだった。
コドールが迫水の故郷の地上界を見てみたいという憧れ、それはきっと少女時代から迫水を見て抱いたのだろうことは、想像したい。
地上世界の文明を見たい夢を抱くことでは『ガーゼィ』のハッサーンを連想するとはまえに書いた。巫女ハッサーンによるバイストン・ウェルの理解は神話的な物語よりは即物的な捉え方で、それも何かコドールに通じるように感じる。話にきく地上界の原子力や原子爆弾が「存在そのものを脅かす」と語っているのに、そういう世界も見てみたいのです――のところ。
あってはならないことが起こっている地上界の現状は恐ろしいことだが、恐ろしいや忌むべきはそれとして、見てみたい。世界に対しては冒瀆的か、言うを憚るようなことかもしれないが、ある意味正直でもある。そういうところはコドールに好感をもってもいいはず。
結婚前のアピアがジョン・ロンの地上由来の哲学を訊いて感激していたようだったが、少女アピアのようなたんに新しい考え方への興味でもなく、世界の成り立ちや、存在そのものの驚異を体得したい、やはり実在への志向というか、哲学や科学者ではなくてもその思いはあるはず。
リュクスの性格付けは、読み返すほど念入りに準備されている。エミアの人柄だけでなく、エミアから見たコドール評も。
アピアと結婚したときに祝辞を述べた十歳のロドウが成長して産んだ娘がコドールで、コドールが生まれたときに四歳のエミアが迫水と会った。その約二十年後にアピアが亡くなり、エミアと再婚した娘がリュクス。
この関係というより、その時点その時点で迫水にとって記憶(追憶)にどんな思いを残した女性達だったのかで、それは描かれているけれど章が移ると時間が流れ次々に現れ消えてゆく物語の中で読者がしっかり印象に残しているかはどうかな。『リーンの翼』の読者はおおむね文芸よりはアニメファンだろうし……。
リュクスは十六歳と作中に書いてなかったっけ? ここまではない。エイサップは十九なのでエイサップのほうが歳上のはずだ、が前回。
わたしは最近はずっとファンタジーを読んでいることが多いし、タニス・リーもそうだがフェミニズムの流れを汲む作家に興味もあって直近では『アリーテ姫』を読んだり観返したりしていたな。
が、わたしはとくにフェミニストでもなく、リュクスのことは『ジュブナイルになった…!』と思ってアレッと思うような気分。
リュクス姫様
このたび『リーンの翼』は、三巻になってから据え置いたきり既に三か月ほどもゆっくりしたペースで読んでいて、その間に他の作家の作品も飛び歩いている。わたしの読書数自体、わたしの事情でめっきり少ないが。それで『リーンの翼』については、電子版を開けばこの三か月は「迫水と国家の話」を考えているところだった。
アマルガンが訪ねてきた年から、アマルガンが蜂起するまでは作中の迫水の感覚ではまるでつい先日のように書かれているが、リュクスの歳をみるとその間に十三年ほど過ぎている。
少女リュクスのキャラクターは迫水譲りの気性もあってまず活発な子。従順で大人しい子だったら政治や軍事に口出さないか、元気でも現在のホウジョウの気風に逆らわず軍国少女か、艦隊少女になっていたかもしれないところ。それが、実母のエミアの影響と現在の義母コドールへの反感もあって「反軍思想」になっている。
そのコドールとの家族関係もあってリュクスが物語に加わってくると、父迫水との政治の話から移って発進するキントキに潜り込もうとするまでが、いつの間にか「冒険に憧れて城を抜け出すお姫様の話」にすり替わっているんだった。
エミア、コドール、アマルガンと迫水の、各場面でのそれぞれの年齢をおよそ推算できると思う。それには電子書籍版で前後を検索できたほうが少し便利だ。
コドールが前回出生したときの話のあとに、すでに二十歳頃のこと、その次には三十前頃を語っていて、文中では「ホウジョウ暦何年」という年次を書かない代わりに人物の加齢で年月の経過を語っていく。
蓼科中尉については「遺言」と書かれているから亡くなったんだろうなとわかる後で、回想として老年の蓼科中尉との談話がもう一度語られもする。迫水より少し上なので八十歳を超えているのか。老衰での死去だったんだろう。
文章ではアマルガンの訪問のあとに、
とあるのだけど、アマルガンが抱いてあやしているリュクスは三歳頃のこと。後に岩国で邂逅したときは、たしかエイサップはリュクスより二つか三つ年上だったと思う。文章の叙述の順序は曖昧に前後する意味の『このころ』かもしれないし、バイストン・ウェルと地上界の年代は厳密にシンクロしていないでオーラロードが開くたびに何年も齟齬していることもすでにいわれている。
高野君の蘊蓄語り中、「精神の国土回復運動 」について。
富野連想がしてふっと面白かったのと、それとまた別に、物部氏と蘇我氏のところの当時の皇道主義とかの話は、わたしは福田恆存の史劇シリーズの中でも重視しているのでこの箇所は憶えておいていい。
「第七章 ホウジョウの名」
エレボスは見た目は小娘のようだが、リュクスが生まれた頃にはすでにジャコバの側で小娘然としているし、少なくともリュクスよりは年長。
六章まで。発艦する戦闘機は『生き物になる』だったが、海上自衛隊の海難飛行艇のほうは、海上を加速して『飛行することをめざす飛行艇 になっていった』と同じような文でも表現がユーモラスになっている。飛行艇はお船。
法勝寺塔供養~伶楽の楽器と聲明の声のために~ (1988)
砂手本~二面の箏と十七絃のための~ (1989)
「ロマンチックさ」をあくまで追究しながら「陳腐さ」とも戦わなければならなくなりつつある……。わたしは一体、現在2026年の住民なのか怪しい気分になる。少なくとも何十年かは昔の文学のテーマじゃないのか。でも、足りないなら追ってみるしかなかろう。
陳腐さ
ハンナ・アーレントはいずれにしても読むが、ここで挙がっている
『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』
について、「陳腐さ」については最近も面白い連想があった。できるだけ早めに続ける。その際は、「悪の陳腐さ」ではなく、「死」を陳腐なものとして語ったこと。死について。
時代小説の講談調では、寄せくる敵を片端から切っては払い、それでも寄せてくるのは「ええい面倒」とばかりに両刀を抜いて右左に水車か、風車になるのは当たり前だがリーンの翼の文のスタイルはその前後一貫していないんだ。しかし、空中を蹴って方向転換するような一瞬で超人的になる。
第六章。空母パブッシュから一機の戦闘機が発艦するところは、2010年にもなった富野文の行き着くプロセス文の真骨頂みたいである。
『……して、……なので、……である。』
『……って、……れば、……なのだ。』
『……れば、……って、……っていく。』
『……して、……ていって、……になって、……になる。』
くどいほどの『……って』接続が三ページ以上にわたってめんめんと続く。各文の末尾は『……していた』『……する』の時制は混在、リズミカルな内に現在形を畳みかけるほど緊迫感は高まる。間に、
ドウッ、ズオウッ……。
という富野擬音も混ぜる。バイストン・ウェル作品ではガンダムシリーズほど擬音は多くないが、効果的に使われる。
エモーショナル。マシン描写が一気にファンタジーになる。『機体は生き物になる』の表現は適切でかっこよく、みごとに一文を締めくくっていると思うけど一連の文章全体はすごいくどさで、とても真似できない。リーン作中ではこれまで、『風車になる』のような凄まじいと面白いの半々のような興味があった。
それをして本当に憎むべきはジャコバ・アオンなのか??は、こんどその章まで追ってから考えよう。簡単にそう思ってしまってはヒロイック・ファンタジーは面白くないかもしれない。ジャコバは所詮とるにたらないフェラリオとも言える。
新しい国ホウジョウを「覇権主義」にはしてはならないという自戒を、迫水や地上人らがたびたびする。彼らは第二次大戦までの反省が身に染みてあってそう言っているが、読者には、「覇権主義がなぜいけないのか」は、日本の教育一般としてインプットされているとしても、主体的に説明できる人はそうはいない。
このたびの富野通読では、富野作中で「国家の覇権主義への傾斜」を警戒し拒む気持ちは『王の心』に書かれていて参考になった。1995年の作品でありこういう時に前後を繋げておきたいが現在、絶版が壁になるところ。
迫水の終生のテーマ
二十年がすぎる間に迫水の仕事はものすごく忙しかった。休む間もない、妻子の顔を見に帰る間もないほど。読者としては、迫水が何に忙しかったかを一々挙げ尽くせない文章量だが、迫水が何を中心軸にしているかでは、
ここでは、コモン人の部族社会を一新して考えなければならない仕事は軍・産業・民生に及び、戦争だけではない経済から医療から教育からとシステムを整えていくほど、社会の体裁が社会主義や全体主義になっているじゃないか――ではなく、『人は性善説でうごくのか、性悪説なのかといった問題だ』という。
これも富野読者に区別がわかりにくいポイントかもしれない。迫水のこれまでのテーマについては、前巻までのガダバ編までではあくまでも彼の個人的なロマンチシズムに集約できたと思う。今のテーマが「組織と人間」になり、それは終生というから死ぬまで。
この巻の後の章には、「エメリス・マキャベルの終生のテーマ」もある。それは、「正しい戦争はあるのか」「軍人にとって命令は常に正しいことか」等。追っておこう。
アピアとの子シンイチは乳児から七歳になり十歳で急死する。明朗な少女だったアピアはいつしか妻らしい婦人になり、一子の死後は鬱にしずんでいく。
オーラバトラー開発記は本章のメインテーマではそんなにないが、マリアはパジャマリアになり、新型機の計画も。マットウタの上空戦で迫水のオーラバトラーから(思い出したように)リーンの翼が顕現し、圧倒的不利な戦況で五十機近い敵を殲滅。この機械化時代でも聖戦士伝説が生きていることを世界に印象づける。
バイストン・ウェルの地上人の最年長者のスコット大佐はこの戦いで戦死。戦死であって老衰で死んだわけではない。蓼科中尉らは現役で健在。ポーランド人が落ちてきた頃には東京オリンピックの頃、学生運動闘争の頃で、日本は戦後二十年になっていた。
「第五章 オーラマシンのもとに」
実弾の数を製造できなければ実戦的な訓練ひとつ行えないということから、そのための工場が必要で、またその実績ある企業を外国から誘致もする等の経過は、リアリズムを欠いた空想からは出てこない、書けないだろうと思い富野作品の特徴に今は挙げるだろう。
一方で、現実世界の社会基盤のあれこれをノウハウとして異世界に移植してみればいい発想は、「異世界もの」ジャンルにむしろありふれたテーゼになりきっているかもしれず、異世界を安易に文化汚染しては足をすくわれる、いけない理由も深く訊ねなくても約束事で済むのが1990年代頃だったのではないか。それは『ガーゼィ』で前回。
『リーン』のホウジョウ建国記を読んで富野作品の独自性がどこにあるのかを言える読者もそんなにいないだろう。どこを取って読めばいいのか?
本章中、起こっている事件の間隔は何年単位で進んでいき、十年がまたたく間にか過ぎる。ひとつひとつを取り上げていけば目にも留まらぬ時間の渦の中のようだ。
RESOUNDING SPHERE Ⅰ 菅野由弘作品集 CDより
これはわたしには、じっと座って聴く関心を保つのがむずかしい。今、手作業の間イヤホン。
伶楽十三軌道~堆積する軌跡~(1987)
林譲次君は前作のリュシアンよりか、小林少年のようではないか。
が今読んで面白かった。第三部が原作通りになるか等はわたしはそんなに気にしていないし、富野監督がもしも作っていたらどうなるかは想像できてたし、「そうじゃなかったのにな」とファンとしては思っただろうと思う。
作中で教養的な調子にならず、同じ過ちは性懲りもなく何度も何度もくり返すのが面白い、という作品の場合もある。今それが関係ないと思うが。
あと、引き続きテレパスについて。いまル・グイン再読では、テレパスが既知の世界でも「テレパシーで嘘をつけるか」が難題になったり、前回『所有せざる人々』では「他者を所有しないこと」のように敷衍されてもいた。
『銀河赤道祭』ではオージュールは〈存在の鏡〉だ、というのがあった。そのテーマもわたしの興味のはずなので、覚えていたい。
主人公に都合よく世界が彼女中心に回っているのはいいはず。小説だから当たり前だ。その書かれ方についてで、前回リーのトリビュートではsubversionとかreframeについて触れられていた。わたしはそれが気になっていて、その後も考え続けていた。
野阿梓は、最近わたしの読んでた久美沙織や古川日出男よりも用語はさらに高度だが、物語のロジックはいずれも裏表のない、一本調子だったのではなかろうか……。語彙が問題ではないのか。それは気づいていたように思うけど、この何年かはいつも、読み進めば何でもそこに突き当たるようだ。
リーの話の続き「traditional approach to storytelling」が強みと述べられていて、……ストーリーテリングの手管、手数のこと。
朝、目が覚めてから漠然と思い出していてふと気づいたのは、上のことは文章やリアリティがどうと思っていたのではなくて、前作のキノ・グラースと同様わたしは姉川孤悲のようなキャラクターが端から虫が好かないみたいだった。
主人公がそれだと作品世界全体に対してアンチ的な目が向く……。美女で、強くて賢くて何でもできて、権威者にも一歩も退かない、ことに作者の御贔屓のようだからな。キノの場合は、あとから来て自分が主役然としてその場を乗っ取るのがはなはだカチンと来たようだった。
それくらい分かっていればその約束で了解して問題なく読める。わたしは去年、タニス・リー通読と併読するとマキリップのヒロイン達に苛立って仕方なかったものだった。
第四章おわりまで。
萩尾望都やめるへんめーかーのイラストが大幅に救いになってると考えられるのは、あるな。あらかじめそれで、コミック感かメルヘン感かを暗示しておいてくれる。
読者によってはそういう惰気が先に入って何を読んでもろくに読めないのだろうというのが、現状、ネット上もどこを見ても思うことだった。和歌なんかやっているのだからわたしはそれが課題だ。