The Winter Players
Indifference kills faith, and lack of faith puts out the torch of God that burns in each of us. 云々。これらにかぎらず、上でも触れたが、faithとかindifferenceは初期の作品には頻出するので一々その箇所を書き留めたりはしない。タニス・リーのファンタジーで魔法の使い方は一貫していて、ジャンルがSFでもそこは変わらないくらい、基本。
The Winter Playersにいく。これは既読だしバースグレイブほど凄惨混沌でもないので多少早いと思う。電子だと「いつでも読める」気分で後回しにしまくる癖、というのはどうしてもあるようではあった。
katka_yg (@ygasea.bsky.social)
The Winter Playersを開いているけど何か気が乗らないというか、読み始めたばかりなのにラストシーンがすでに脳裡にちらちらする。これは、もともと邦訳(冬物語)で入っていて、しばらく前に英語で読んでて、こんどkindleで購入したからまたもう一回ログ付けておく周回なんだけど。テキストは正確に憶えていないが、タニス・リー小説のラストにくり返す例のあのリズムが耳に再生する。 なんだろうこれ……と思ったら、気に入りの作品が終わった後のキャラクターの「ロス」っていうやつ、ヴァズカーロスだ。その感覚、わたしは長らくなくて久しぶりだった
行動規範
三日月のブーフゥ、ザンネックとのサイキックバトルになっていくが、初会合のこれのここ、わたし面白い。大方はファンタジー的表現だと思って読まれるだろうけど、頭脳ファンタジーはともかく「行動規範」という言葉を使うのがことに面白い。「鈴の音」を聴いた瞬間にこうなって、続いて敵のビームが来る前に、ノータイムで回避行動に移る。ウッソの深い意識から発した衝動がそうさせる、という。
行動規範は、ここは明らかに意識してこの語を使ってる。こんど通読中に「規範」という言葉は点々とあったが、「行動規範」ととくにいうと、小説ではオーラバトラー戦記のあいだに二度、軍人のそれと民間人のそれのような文脈であり、このあとアベニール中に一箇所ある。おおむねただの「規範」。こういう言い方もある。
日常、あらゆる場面場面で瞬時の行動を求めるとき、人間はそのたび毎回、その場で得るデータを根拠に考えて「判断」をしているわけではないし、そもそもその場で何が適切か曖昧な状況というのが常だ。道で大声を上げている者がいたら反射的に振り向くか、振り向かずにそのまま歩き抜くのような行動は、人によっては同じではない。わたしは行動という興味はもともとあるのと、ここ十年くらいは、幻想文学と夢の話がつづいて、こういう言葉には敏感になっていた。
『小股の切れあがったジュンコ』『ガラッパチのシュラク隊』とか、1990年代でも現用語としてはなかなか……使いづらくなってはいただろう。MAVじゃあないが、界隈のジャーゴンとしてでもまだ使ってみたい語だガラッパチ。
シュラク隊はガラッパチか。上のクロノクルの少年時代の「ヤクザな気分」と同じ意味でシュラク隊のコニーのような性格の底にあるはぐれ者・無頼の気分のことも、ヤクザ気質、とも呼んでいた。それは、ヤケのヤンパチ。シュラク隊の女達の気分は『Vガンダム』の主要な見せどころのひとつだからこまごま書いてある。
メカのデザインがゴチャゴチャしていくことを(ちょっと違うが)この巻の表現では「バロック化」と書いてある。それがわざわざ巻末に参考文献として入れてあるけど、ガンダム界隈でバロック化なんて用語は聞いたような覚えがない。「『恐竜的進化』なんて今どき、言わんだろ」みたいなことはきく。
Vガンダム4読了。このあいだの「カスバ」の話は、アメリアじゃなくてどうも月面都市セント・ジョセフのようだったな。わたしのはんぶん記憶だし……。
この直前に、『ダウンタウンの各階層ごとには、それぞれの民族が、それぞれのマーケットや歓楽街を形成して……』というユートピア感の話がチラとあって、この時代の宇宙都市にも民族があることには触れてる。今これくらいでつぎ、か。
上でもふれた「言葉」や「道具」のような個々の話題は、こないだのシオの文学観のような一連の続きでもあり、それは小説媒体だから挑んでもいるので、アニメのキャラが出ないとか、キャラの代わりに富野の思想を代弁しすぎ、みたいな読者の通念からは踏み込んでこない。わたしは話し相手がいない。
もっとも、ガンダムはロボットアニメで、レーベルは角川スニーカー文庫で、読む層は上から下まで無差別な想定のガンダムの場で、富野が『子供相手に子供騙しはしない』と言ってたとしても、最初からジュブナイルの枠を超えて十代の読者に分からない話を説明抜きにするのは大人げなさだ。
ジュブナイルというのは子供騙しの意味ではなくて、ジュブナイル自認でも必ずしも恋や冒険や成長を描かなくてもいい。恋や冒険や成長は、そのテーマなら十四歳とか十七歳という年齢でも未経験で十分に受け止める、というレーティングにすぎない。というのは、先日も隣で書いた。個人の嗜好では、四十歳や六十歳がジュブナイルを読んでいても全然構わない。
一方で、この作品の主題の感情はせめて二十歳くらい…という読者の制限もときには求めないと、無造作に踏み入ってきた層には、それを価値あるものとして受け取ってくれないだろう。青少年の保護よりも作品保護の意味で。
実年四十でも十五歳水準で停まってる人もいるし、五十歳感覚で居ながら社会的見地からレーティングを意識してジュブナイルを語っている人もいる。その二者は一見おなじに見えることがある。1970年代から80年代、90年代というのは事実として野放図の感はあっただろう……のような思いは浮かぶ。わたしはガノタというよりは、ファンタジー文芸一般のうち富野愛読者あたりに退いてる。上の線引きがあって不毛なやりあいに混ざる気がない。
Vガンダム3まで。『ガイア・ギア』のときに少しだけ掠めたが、モビルスーツの空戦描写はこの小説Vガンは面白いと思ってるのだけど、それは一瞬ですぎ、3巻の内容はすし詰めでアーティ・ジブラルタルからあれよあれよの間にカイラスギリー艦隊とぶち当たり、それ自体前代未聞の椿事を高速で飛ばして子供達のサイド2まで行ってしまう。しかも、その高速進行で肝心のドラマを飛ばしている気はしないのが結構すごいところ。
まあ読者によってはそう思うかもしれない。間に挟む富野ドキュメントが「余談」「脇道」と思って、ストーリーの筋道と関連づけられないで読み飛ばすというのは……むしろ大半かもしれないけど……、ここはべつにそんなファン同士の安易さや馴れ合いは関係ない。著者に体当たることで、わたしは長年フレンドもフォロワーもゼロでする通読は作業だ。
ずっと彼のことを考えてる。3時間か4時間しか寝ない。彼には気づかれていないと思っていたら、彼の方はとっくに察してる。相手は侮れないと思いつつ、どこかで侮っていたとわかってまた見直す……。の、ようなところな。なんの初期症状なんだ。会った瞬間に未知の未来をサイキックに予知したのかもしれないが、それ自体べつの言葉で一言でいえんか。
主人公オアイーヴを全面的に後押ししたくなる、というのはやはりジュブナイルには好ましいことだ。そこが心が壊れてると、『オアイーヴにもグレイにも共感しないがわたしはどうも、わたし自身ナイワスのような役だと思っている…』のような読み方になってしまう。
タニス・リーの吸血鬼って血を吸うとはかぎらない。『薔薇の血潮』って血吸ってたっけ…。吸血鬼短編のアンソロジーに収録されてるが、いつものリー作品なだけで作中とくに吸血行為にこだわってないようだ、とかね。
「曖昧なときはまず収集する」が原則。見過ごすと次に出遭う機会は何年後にもなるから、怪しいものは拾っておいて後で整理した方がよい。
また、収集基準の境界でいつもいつも悩むようなのは、分類の立て方を怪しむ。「吸血鬼」のような名前がもともと適切でないか、文化的にすでに意味を失っている等で、切り分けるか、あらたに命名し直す。こういうときにパワーワードも使う。ここまでは前回。
FTを蒐めているところで「魔法」なんて分類を設けてもすぐに爆発しそうだな。「不死」なんて多いのか、実はそれほどでもないか……キャラクターでなく作品の要素でいうと「吸血鬼小説」には「不死テーマ」が必ず付随しているような気もするし、「文学は人間を不死にするもの」のように言い張ればあらゆるジャンルの作品が不死属性にもなる。
これはまた、これを使うユーザーごとの特殊な興味で、必要に応じてデータを作っていくべきこと。それも、できるだけタグの数は増やさず、重複内容は整理するよう念じながら、「分類作らないと困る、不便だ」との内圧が昂じてきたらそのときの合図だ、というのが同じ法則だろう。だから今は憶えておいて、面倒だからしない。「ドン・キホーテ」というジャンルだけは設けているな。
作業場を読メからブクログに移った利点のひとつに、登録アイテムのタグ管理が細かくできて著者名による以外にもたとえば作中要素を抜いて「タニス・リー 吸血鬼」とか「タニス・リー 白雪姫」とかスペース区切りで属性分類ができる。作品数が多く、あの感じの例のあれはどれだっけ……という短編タイトルを思い出せないことがよくあるから、これは活用すべき。
このタグはユーザーの個人的な設定項目だから好きに振っていいが、使い途としてはカテゴリに含まれるアイテムが二件以上あって初めて役に立つ。あまりに一般的で多すぎると逆に役に立たない、表示欄が混雑するから「ドラゴン」より「龍」、収集内容を限るより広く採ったほうが用になるので「龍」より「竜」で始めたほうがよさそう、など想像できる。これらの要点はphelenのアーカイブ作成方針なんかのときにも注意書きしたのが使える。
She had succeeded, worked the magic without spells, by her will alone.
上でも書いているので続けて書いたりはしない。言いたいことはわかるはず。わたしのここのは「いま何章まで読んだ」の報告だけでいいと思ってるけど、作品自体それほど長くはないし、黙ってればすぐ読み終えてしまうかな。
シャクティが無口な子か……、というと、「言葉を使うのが苦手」というよりか、「シャクティ語でしゃべっている」ようなことは、1巻最初から書かれてはいる。シャクティの言葉使いは、今のところウッソにしか解読できない、カサレリアの近所のおばさんにも通じないのはわかっているけど。ウッソは、彼女独特の語彙や表現力にはしばしば感嘆してる。人形みたいに無感動な子ではない。
シャクティは、大人の常套句を自分がまねるのは「恥ずかしい」と思うし、「自分の気持ちをちゃんと説明してない、とりあえずの表現」の言葉使いにためらう。
ここの再読では歴史観についてじわじわ触れているが、ここでいうとき「史観」というのも「道具」だ。人類はどんな歴史を辿って今どこにいる、という認識も、史観Aまたは史観Bのどちらが上手く現状を語れるかという、道具の使いこなしの問題としてのみ俎上にのぼる。その結果が作中グロテスクに積んでいくが、
ひとまずここまでの筋道があってウッソ2巻になる。わたしは発行当時からだけど、初読では「グロい」という感想になるのは仕方ないとして、バイストン・ウェルほどじゃない。今の再読だと、今までにないくらいスリリングな感覚をおぼえるね。
シャクティ語 リスニング
ぶらぶらしてる少年の投げやり、という意味だ。ここのヤクザ。
クロノクルのヤクザ
2巻15章。クロノクルはビクトリーの戦闘を望観しながら、そのマシーンを操縦しているのが彼をシャッコーから振り落とした少年ウッソということは想像もつかない。白いモビルスーツの性能に戦慄しつつ、対リガ・ミリティア戦の今後の局面を危惧する。
クロノクルの過去、少年時代の様子は前の章で少しだけ描かれた。士官である現在の「実直な反応」としては、敵兵器の凄さを認め、彼の役職上の立場としては、その脅威が彼の属するイエロージャケット部隊の今後の仕事(任務)にどんな影響をもたらすか、に思いを走らせている。
そこでもし「実直でない反応」をするとたとえば、こんな仕事やってられるかっ! 怖いんだよ! 俺はもう帰りたい!! のように言うと、なかなか実直ではない。正直な気持ちではある。
クロノクルが少年時代のテンションに戻ってしまうという、「ウッソ・エヴィンと白いガンダム」の関係(!)を彼が呑み込んでしまうと、今の実直さもすっ飛んでしまうかもしれない。富野ヤクザといえば「やられたらやり返す」暴力応酬のことで言うことがあるが……これを見て、そんなのありかよ!と不条理を呪ったり、ウッソ・エヴィンめ! このインチキ小僧ーッ!のように激昂するとヤクザやチンピラに近くなると思う。ウッソとシャクティの関係のことはクロノクルのストーリー線上にまだ昇ってこない。
今のような言い方はプラクティカル・マジックよりか、プラグマティックというんだ。そんないかがわしく訳されてはいないよ。『呪文がきいたのだ』と書いてある。
オアイーヴは目をつぶって立ち尽くしているので、"呪文"は、唱えていないようにみえるかな……心の中で必死に気持ちを呟いているけど。魔法がきく過程は地の文で綴られている。だから合ってる。
The Spell had worked.
小説を書くにかぎらずあらゆる作業進捗報告で、この文、――「やっておきました」と書き込むと実際に行われる効果ある。今案外ゆったり読んでいる。オアイーヴ可愛いな。
ついでに、わたしは邦訳を対読はしていないけどあるものは隣でたまにチラ見でき、室住信子訳はなかなか気が利いてるし読むには日英どっちでもいい。
とにかく、タニス・リー作品には必ずこれが出てくることと、徹頭徹尾これが後年まで作者のテーマになっているのが「タニス姉貴はガチ」という理由でもある。
実践的だから、という実践的なことに欠点もなくはなくて、欠点はある。何より「実践すると死にます」という話をするんだから無意味に大勢にばら撒くには悪い物語群だ。言えば、「死んでもいい」目的があるときにはリーを読んでいれば捗る。それか死なないか、死んだら自力で生き返る人。
この世に、熱情的に生きられる人は成人のもしも10パーセントくらいだとしたら、「熱情を説き続けること」は残りの90パーセントにとっては望んでも決して報いえない、不毛さの害にもなりかねない。また、熱の人も何の目的や甲斐も得られない日々にこの種の教唆を聴き漁り続けると心を蝕まれる。処方箋としては、そのときにはダンセイニみたいな態度の方がいい、と上記。「信じるな」という語りの徳もファンタジーの方法としてある。本当を説き続けないからといって、嘘じゃない。
小説を読んで癒やしになるとか、力になるとか、そういう読み方を勧めているわけではない。「読書は娯楽だ」と思ってる人にとっても、娯楽として読めない鬱になることがある、のこと。とくに、古典的な共感呪術を基礎にしているものはその理論で効いているはず。その後、80年代末頃を境に創作の方法は変わったらしい。
faith
The Winter Players
Indifference kills faith, and lack of faith puts out the torch of God that burns in each of us. 云々。これらにかぎらず、上でも触れたが、faithとかindifferenceは初期の作品には頻出するので一々その箇所を書き留めたりはしない。タニス・リーのファンタジーで魔法の使い方は一貫していて、ジャンルがSFでもそこは変わらないくらい、基本。
タニス・リー魔術の特徴は実践的なことで、プラクティカル・マジックというとこれのことだ。小説作品は架空の創作なのになんで「実践」か? という話はわたしはしない。それには今後もそれを書く気ない。
「物や人の真の名前を知るとそのものを支配する」のような作動原理は、実践魔術に必ずしもいらなくてリー作品にはあまり出ては来ない印象。言葉に対して無関心なわけはないが、呪文や、儀式様式の無意味さについては結構手厳しい批判が入ることはある。伝統やしきたりにはとにかく逆らえ、破れ、というくらい反逆徒だけど、命名や呪文にしても全く使われないわけではない。Birthgraveはそうだし、このあとすぐVolkhavaarなんかにも出てくるはず…。
この気持ちでよかった。ウッソの気持ちがわかる程度には、わたしはわたしでよかった。
「宇宙世紀の神観」という話は、今かんがえるとあまりオフィシャルに聞かされたことはない気がするけど、これはそうだろ? その話だったかもしれない。メモっておいていいことだ。
2巻3章。人類のクソエゴイスティックな態度について。『これでなんの問題があろうか? ということなのだ』に続き、
このあとは、人類が現状生き延びるには反省しなければならない、科学で何でもできるから/何でもしていいという態度は通らない、という話が続くが、引用部の文章は何か変な気がする。
まず『神が――』という、著者の富野由悠季が"信仰者"のような態度を普段しているようではなくて、これは宇宙世紀シリーズを書くときにかぎり、(アメリカの)古典SF作家みたいなポーズをまとって語り口にするのような、言われないお約束があるのだから、そこは気にしなくていい。福井晴敏さんなんかは逆に気にしすぎに思う。
自然の複雑さ、後に流行った言葉だが多様性のようなものを神の意思とする。人間が自分都合で生物種を剪定してしまったり、好ましい環境に気候改造することが「整理統合」の意味なら、整理統合は神の御心とは思われない。ここはいい。
前の文がエゴ人類な態度から続いているので、自然の恣意的な整理統合がもしも、摂理にもとった行為だとしたら、神は人類を創造なさらなかったろう……とも言いたくなる。「のっとった」のところ……。何が問題だ? 現に神がお許しのことは良いことだ、との開き直りの常套。でも後続文から推して文意はそうではないようだ。
むしろ、人類が存続上必然的に自然を整理統合するものなら、神は人類を創造なさるべきではなかっただろう、という方が主旨に近く思う。それは痛切な自認だが反面、それはそれでまた不遜な言い方だ。全体として、言いたいことは読者はふわっと読み流すと思うけど、ここも前後かなり長い富野文の激越な調子でとうとうと書いている途中でロレッた感じがする。
しようのない隅っこの話題のつづき。でも『V』はここのところが少し面白かったと思う。このあと。
そういえば昨年末から今年にかけて、わたしの気持ちでは、ちょうど富野再読が『ガイア・ギア』にかかったところでNHK-FM年末のバイロイト音楽祭で「ニーベルングの指環」を全曲する機会になったから、順当に読み進んで『F91』の頃には、クラシック音楽のモチーフもワーグナーから時代下って「ペレアスとメリザンド」あたりのイメージを当ててみると面白いかも、と想像していた。
『F91』まで来てみると実際にカロッゾ・ナディア・シオのような関係図にそれほどペレメリ感もない。アニメのOSTには全然ないし、上の小説レビューにも書いてるようにF91ガンダムが発進したら諸々のいきさつは後に置き去り破滅する世界を疾走して燃え上がる、やはりお祭りだったし、これはこれでよかった。
貴族精神について、「血統上の貴族」と「精神の貴族」とはまた違う。生まれは何者でもないが高貴な心映えを備えていればそれは貴族、という唱え方の話は、もうだいぶ話題が逸れてきたが、富野話題でも「ノーブル・マインド」はたびたび、出てくるだろう。
それと、「貴族」と「騎士」とはまたちがい、往古の「騎士道」と「騎士道精神」も、言葉の指す意味を言い出せばまた厳密にはちがう。それは、わたしは昨年も一人で鬱々と読み返していて、古典文学に興味のある読者ならレオン・ゴーティエ『騎士道』(1884, 武田秀太郎訳,2020)が最近訳されていて、ためになる。わたしの場合、宗教と戦争についてや、ディネーセン(カレン・ブリクセン)の小説を再読していた続きでその一帯は参考にもなった。こんなことまめに書いておくものだ。
貴族と海賊
クロスボーンの話にもどって、スレッドが切れているのでリンクのみ。
「クロスボーン・バンガードは貴族を名乗っているのに一方で市民を名乗るのは変だろ」という意味しかない。もっとも、貴族や市民という言葉の意味自体、古代ギリシアやローマ時代のような一々を挙げれば曖昧だが、近代の「市民戦争」という場合にはコスモ・バビロニアのようなイメージはそぐわない。
バビロニア勃興は自ら宣言している一方で、その当時の宇宙全般からみればあくまでマイッツァー・ロナ個人の地球連邦への反乱ということになっている。この場合のマイッツァーはやはり連邦の一市民という数え方になる。
わたしはまた、アメリカ独立史の初期と、海賊史に登場するリバタリアン(ミッソン船長のこと)を関連してイメージしているから、海賊というのはそれもまたファッションとしてほしい。こういうことも書いておかないと「宇宙海賊」のイメージも人によっては違うだろう。
市民戦争と戦国時代
上で一度、「クロスボーンが市民を名乗るのは変かな」と書いていた。Vガンダムを読み始めると、ニュング伯爵の言うところ、
そうだ、というのはウッソの「地域主義、民族主義でしょう?」に答えるものだが。ここの文中でもクロスボーン・バンガードの勃興と衰退があり、宇宙の市民戦争時代……という順序で記していて、クロスボーンのことを市民戦争とは言っていないみたい。フロンティア・サイドの独立騒ぎは後に続く時代のインパクトになった。
『Vガンダム』中で市民戦争という言葉は一巻だけで、以後に現れない。物語の舞台はもっぱらザンスカールとの戦いになり、各サイドの独立運動を称えているニュング伯爵にしてもザンスカールを同じ言葉で称えてはいない。ザンスカールは帝国だし、祭政一致の恐怖支配で、どんな意味でも市民・民主的らしくはない。そのザンスカールも含めた地球連邦宇宙の崩壊事情のことは、二巻以降、宇宙の戦国時代と呼んでいく。
Vガンダムは、小説はTVよりなおハードな内容含みなんで、刺激的だけどな…。ここはせっかく作者通読をしているので、作品をまたいだ連続をこのついでに拾っておきたいはある。1巻読了、やっぱり早いだろ。
イエロージャケットの言葉使い
Vガンダム1巻22「クロノクル」より。御大の御文章の読み方、というより、国語の時間になってきたような気もするが……今わたしは他人や、少年少女相手に案内のようなことは考えない。
ベスパのイエロージャケットの戦術について――核兵器などというアイテムはベスパは使わない。毒ガスや生物兵器も非道である。あくまで、モビルスーツで、それも機銃掃射で人間を狙う。ハンティング行為は人道的である、との論法についてクロノクルにはいまだ一抹の懐疑がある。
言及はひとまず歴史観に移り、西洋近代以来の人間は科学技術の進歩とともに、狡猾な論理を使いこなして、人間は「人間であること」自体について疑義や追及を負わず、求める義務、自然本来の死さえ拒否して、わが身の便利さ・安全さを築こうとしてきた。自分の周りに硬い殻をめぐらす人間の態度のことをガンダムシリーズではおおむね「エゴ」という。宇宙にまで追いやられた人類の歴史の、人類自身に求める原因・元凶で、ここまでは現状理解に終始する語りになる。つづき、
上の数回の話では、これら主にガンダムシリーズでは科学技術機械の進化と同じように、人のつくる組織集団の体制、社会システムも「道具」として扱っているといった。ここでまた踏み込んで、「言葉」もまた道具として利用し運用されるものとみなしていく。道具としての言葉の使いかた。言葉を曖昧不明瞭でなく、明快に使いこなすことは、良いことである。言葉の良い使いかたによって表される戦術は、良い、ということ。
これがベスパのイエロージャケットの行動規範になる、実行される、というこの章のストーリーになっているが、富野小説でも同じような文章を以前にも読んでいるとは思う。ただ、たとえば『ガイア・ギア』のときには、ストーリーの場面を途中で切って突然に富野エッセイが割り込んだように感じただろう。精読しているには印象が違う、もっとシリアスだ。
そういうベスパの言葉運用、または言葉に操られているとすれば「それは詭弁だ」と叫びたくもなるが、ここにその声は今ない。『閃光のハサウェイ』の序文のときは、それは不条理だと断定できるのだが――と言葉を求めようとし、求めかねていた。言葉は、おおむね宇宙に拡散するのだから……、とそんな、徐々変転を読む。
「交響詩 ガンダムF91」を聴く。小説読後のイメージアルバム的な気分なので、OSTよりかこちら。映画はまた見るかもしれない。
わたしはこのF91の音楽には、世間一般並みと全く同じような感想・連想しか持っていないが、これ交響詩(組曲)として純粋に格好いいので棄て置かれるのも勿体ない。へんな印象が混ざって微妙な気持ちになるのは、それこそ時代性みたいなもので「これを再演してほしい」みたいな欲求が、どうしてもあまりない。それは三枝楽曲と差のあるところ。
わたしは門倉聡作品は他にあまり持っていないし聴いていない。他にメタルマックスくらいしか知らないが、たぐってみれば面白そうな音楽家の人のようでもあって、それはまた今度にしよう。主題歌は、森口博子の最近のガンダムソングカバーズアルバムから聴いた。
それでマリアにもどると、そうした趣味嗜好のファッションであったり、もしかすると冗談や悪意に発しているネーミングかもしれないが、それが宗教になってそれで既に生活しているマリア信者にとっては、世界観で、お互いに会って「マリア・アーモニア」と言い交わせば「スコード」「ユニバース」くらいには挨拶として通じよう。アッサラーム(平安あれ)くらいの意味は含まれてはいるから、問題はなくて、良いこと。
それがまた走って、
「やっちまったぜ! マイ・マリア!」
「ハイル・マリア・イン・アメリア(くたばれ)」
のような用法や文化が独自に派生していくかもしれないが、それはもう知らないことだ。
コスモ・バビロニアのどのへんがバビロニア様式なのかは、わたしはよくは知らない。教科書的な知識でしかしらないけど、マイッツァーの古代趣味にしてもシュメールとバビロニアの区別をしているほど、それほどそこにこだわっているわけではないだろう。
あくまで1990年代時点での、古代メソポタミア的なイメージで行きましょうという設定だ。
鉄仮面の特徴的な顎の突起(あごひげ)は、サルゴンのような時代の大臣達、貴人像の造形の様式、トレンドで見たことがある。それがたしかではないけど。
こういうのだな。宗教的な熱心さ等は、いま無関係に、見た目。
『シュメール』(人類の美術) パロ、から。アスマル出土、アブ神殿のファヴィサから発見された彫像群(礼拝者たち)。前サルゴン時代。当時の宗教信念にもとづいているわけでは必ずしもなくて、美術としてこういうスタイルが好きなのかな、と。
マリア・アーモニアの文化
このまえ先立って触れた、マリアの名前についての話。この小説Vの最初のほうでは、マリア・ピァ・アーモニアストとか、アーモニスとか、一定しないけど、オフィシャルには「マリア・ピァ・アーモニア」。わたしはわたしなりに古代とか、宗教史、思想史のジャンルに興味がなくもなくて、アーモニアとかハルモニア、組み合せてマリア・アーモニア、のような造語の響き印象が、わかるといえばわかる。
それはわたしは専門でもなく、また知りたければ調べればいいことだが、ここの話に限っては、ウッソが思うほどフォンセ・カガチにそんなロマンとかミスティックな信念があって打ち立てているわけでもなくて、カガチにとってはこんなもの「安手の新興宗教にいかにもありがちな、作った名前」という侮蔑的な気持ちが入っている、だと思う。その話がこの後にあったようにも思うけど……あとで探す。
その点で言えば、マイッツァーとシャルンホルストの趣味で決めてるバビロニア・ファッションというのはまだまし、それ自体は本人が好きだからやってる真摯さは認められる。もっとも、軍服やモビルスーツのデザインはともかく、政庁の外観をジッグラト状に改築するなんて流石に誇大妄想的で駄目じゃないかと思うけど……ズム・シティとどっちがいいかは、どうか。わたしはズム・シティの方がましだと思う。
「カガチ」の名前については、わたしはわからない。日本語の大蛇とかそういうイメージではないのかな。ヤマカガシみたいな。
地球行きたい!絶対行きたい!
とりとめもなく書き連ねていたところだった、こういうのは良いこと。小説Vガンダムは、わたしは早く読んでしまってアベニールに行こう。
目的意識と地獄
ファンタジー主人公がみな地獄の淵を歩かなくてもいい。目的意識がゆるくて意思が脆弱にはみえる。それはまた、このまえのワーグナーとドビュッシー(「ペレアスとメリザンド」)のときのような話を思い出す。ここらは、古典的な話題なんだ。
そうか……昨年の経過を読み返すと、わたしはどうも、タニス・リー作品に疲れ果てたらダンセイニを読み返すと回復するという仕組みになっているみたいだった。そこはディネーセンや、アンジェラ・カーターに行くところではない。カーターはまだ積んでるので追々続ける。
富野由悠季とタニス・リーでは話が一見通じなくて、悩んでいたところだ。
ヴァズカー目線というのはこういうのを引いておこう。
Book 2の時点でヴァズカーは21歳と言っている。それで17歳の相手を眺めて、またThat should have been me. と思う。
この件わたしは富野とは直接関係なく、去年の夏頃までに何回か浮上していた事項があるのでここに書いておく。ロマン主義についてはこの後、たしか『リーンの翼』の加筆部に話がある。
去年のはなし
で、現在並行しているタニス・リー通読の部屋と関心が通じてきたという経緯だな。これはわたしの個人的なそれなので今ここ、富野作品とは直接関係ない。人にはわからないが、「過剰への道」については世間一般とも富野とも関係ある。「動画の作法」ではなくて、「ファンタジーの文法」の話をする人はやはりネット上にあまりいないので……。残りのバイストン・ウェル等、次はここから話の続きをするだろう。
The Winter Playersにいく。これは既読だしバースグレイブほど凄惨混沌でもないので多少早いと思う。電子だと「いつでも読める」気分で後回しにしまくる癖、というのはどうしてもあるようではあった。