Presently the house snored, and Shina lay by the ashes of the fire, in the low ebb hours the other side of midnight.
これと同年頃のEast of Midnight(訳題:月と太陽の魔道師)のストーリーよりもタイトルが好きで憶えているけど、今回スルーしておこうかと思ったがあれもこれも連想で読みたくなってしかたないなあ……。East of Midnightは、平たい地球シリーズの余話にまたその再話みたいなのがあったな。
素直に天野正道を聴けばいいんじゃない? ガーゼィは日本の小説で、日本のOVAだ。鷺巣詩郎=天野正道というイメージがあるくせに鷺巣詩郎は避けるというひねた通り方をするからだ。ここ富野由悠季の小説通読なんだけどな。
やはり「ベン・ハー」か。このガーゼィの前に吹奏楽の「出エジプト記」を引いたのはこの連想もあったと思う。ユダヤ人のことではなくて、天野正道さんが「架空の映画音楽」というときに「ベン・ハーみたいな」というから。
ガーゼィ小説中に書いてあるから印象が残っていたんだろうけど、書いてあること自体は忘れていた。ここは戦車戦の話しで、わたしは最近しょっちゅう触れているバースグレイブにもそのオマージュみたいな大スペクタクルの戦車試合があるんで、これもまた何か資源を探してみようかな。映画みればいいが、サウンドトラック盤かその再演(音楽)がほしい。
符牒や暗号が互いに通じないのは男女に数えない。性的な含みも必須でない、人にわからなければ人でもない。そこにある共謀とか共犯関係にだけ、ほとんど感じないくらいでいいから、眼前の白いものを消し去って漂うそこはかとない賢さも呟く。ラ……とか。
「共犯関係」といえばこのまえセシリーとシーブックの「悪友関係」と言ったのも思い出す。その暗号がわからない他人に割って入られると(親でも)「機械ごとき」で罵るだろうと。『密会』を読むときまた思い出してもいいかもだな。
Volkhavaarも、もしも邦訳が復刊されるなら『幻魔の虜囚』は戻して『ヴォルクハヴァール』で出してほしい気がするんですけど……いま、訳文がきらいだとか、わたしはべつに浅羽莢子さんのアンチでもないけどこれはやはり原題がいいし、とくに当時のFTの出版事情の雰囲気でなければ、2020年代にカタカナで構わないし……。まあ、それはコレクター的な意味が半分。
この小説のタイトルにもしも仮に『シャイナ』では、ないだろう。ちょうど、先日の「イルスの竪琴」なら各編の1巻に「モルゴン篇」2巻は「レーデルル篇」とか散文的なタイトルを付けても意味は合ってる。読者がわたしみたいな不良だったら『ミスラン』とか『ギステスルウクルオーム』が唯一の興味になりかねないが、それはおかしい。
これと同年頃のEast of Midnight(訳題:月と太陽の魔道師)のストーリーよりもタイトルが好きで憶えているけど、今回スルーしておこうかと思ったがあれもこれも連想で読みたくなってしかたないなあ……。East of Midnightは、平たい地球シリーズの余話にまたその再話みたいなのがあったな。
最近の記事にこんなのがある。
わたしには今、そんなに関係ない…。誰の紹介にかかわらず通読・縦断してみようというところだから。Electric ForestやSabella、70~80年代作品はやはり万遍なく挙がるなあ……なにも急ぐわけではないが、急がねば。
The Birthgraveに「SF要素もあるよ(笑)」みたいにある。『悪魔の薔薇』の解説(中村融)に、
というのもそれだったのかな? そんなに気にしなくても面白かったよ。お茶目。
「血」を設けた、これで行けそうだ。phelenみたいなテンプレキャラクターの集団を扱うのに「吸血鬼」はむしろ悩まないで真っ先に決めたのを思うと、シチュエーションの違いで面白いな……。また、こうした情報操作は常に一様の基準ではなく、そのつど目的に応じて考え直す必要がある、それは「命名」を求める、というのもあらためて確かめる。
リーはそれとしても他の作家や、小説にかぎらず民俗や神話研究を蒐めるときに何かの基準を設けないでは始まらない。
ヴァンパイアリズムでなく、吸血にかぎる、あるいは「血」のシンボリズムに着目するのはありかな。一文字で短いのはタグとしていい。これだと、バルバヤートは含む。
シルヴァーのどこが不良品と作中で言われていたか、それは忘れたけど、セクサロイドが違法でない世界でも、そのお仕事をするキャラクターが一目みてそれとわかる、ポルノ的な下品で不潔な見た目なら、その用向きのお客は自分の趣味と責任において押すか引くか決めるだろう。
それが、育ちのいい純な少女を恋してたらすほど見境がなく魅力的であってはならない。80年代の時代もあって、たぶんシルヴァーには「R-18が付いてないこと」が「不良」と呼ばれるゆえんか。
ヴァンパイアリー
Volkhavaarのバルバヤートは作中で明確にvampireと呼ばれて血を吸うけど、一般的なイメージでいう「美形妖魔、夜の貴族、カリスマ…」というのには当たらない。逆に、吸血行為はしないでもヴァンパイア的属性をいうなら、ヴァンパイアリーとかヴァンパイアリズムと呼んだ方がいい。
もともとヴァンパイアというジャンルが百年以上は頽廃しているからだが、リーのようなそれに重い興味のある作家を扱うにおいてヴァンパイアタグを設けても全作品がなんらかそれに当たるだけで、用をなさない。
アズュラーンは血を吸わないが他のことはなんでもやるし、シルヴァーだって「ヴァンプ気質の不良ロボ」だろう。Shadowfire頃にヴァズカーのときは「カリスマ」を取り上げていたが、ヴァズカーもマインドコントロールだけでなく、女たらしだ。
今、ル・グインの再読の部屋を立ててふと思い出したのは、ル・グインを読むときにたぶん90年代以降と思う、ゲド戦記の日本語読者は決まって河合隼雄を引く(影について)のがひどく煩わしく思っていた。その分析して悪いはずはない。
それが、80年代頃の解説にたとえば上の「冬物語」はゲド戦記を思わせるようにあって、それをまた後のレビュワーが「リーによるル・グインのアレンジ」のように書かれると、それはおかしい、となる。……なんなら、あからさまに行動主義者として『魔法の原理がなんであれ、それがブラックボックスであれ、ゲドはいかに行動したか。その結果物語はどう転がったか』のように文学観を説いても間違ってはいない。むしろリーの愛読者にはそのほうが気分は合ってると思う。ル・グインはル・グインのトピックで追々しよう。
「女子向けのノベル」という欲求で書いていても、なんとか、どうにかして男の子の存在意義を設けようとしておかしなことになっているのと、行く所まで行くと「男はいらない」と割り切れてしまうフェミニズム観のちがい、みたいなものはあるよ。煮えきらないからといって、不徹底な態度がべつに作家の良し悪しじゃない。
章ごとに、書き出しはじわじわしているうちに言葉がどんどん押し寄せ、高潮して、章末でさあっと退くという感じはリーもマキリップも似ている。Birthgraveはやりすぎだ……。邦訳を読んでいる感じでは、こちらは韻文のリズムではなさそうかな。イルスの竪琴を読んだらあとはしばらく置いておく、それは今いい。
全然関係ないがしばらく前のボエティウスを連想していた。大学以来、このシチュエーションには必ず思い出すのかもしれない。
最近また、リーは放ったらかして別のあたりをうろうろしていたので此方は進んでいない。わたしは、リーとマキリップは併読が無理なのは上にも書いた。モルゴンやレーデルルより、マキリップが敵にみえる。
『かげろう』と歌に書いてイメージするカゲロウとは違う種類の昆虫なので、『くさかげろう』と六字消費しなければ正しく伝わらない。名前を言わなくて『虫』か……。そういうとき言葉遊び(頭韻、シャレ)にすればいい
上でも一回掠めたけど、ガンダムリスナーだったら三枝成彰「ヤマトタケル」は聴かれてほしい。CDではオラトリオ。オラトリオ版とオペラ版のYoutubeに動画があるけど、ラストの歌詞はそれぞれに省略か変更になっているみたいだ。バージョン違いがある。
この不滅論が好きだとこの春も書いた、この詞はCDで聴ける。現代語の平易な台本と、このロジック(レトリック)はたぶんなかにし礼。時代を貫いて変わらない無名の、無数の庶民の感情は哀しみである。その哀しみこそ民族の生命である。英雄の物語は哀しみに彩られている。だから英雄は不滅である。
不滅の英雄
英雄である日本武尊が死したときにその御霊は白鳥と化して飛び去った、という伝説である。多くの人がそれを見たと伝えられている。その目撃者が誰であったかはついぞ分からない。まことに実在した人かも知るまい。日本の建国神話の一端。
その物語にはなにものかにはたらきかけていずれかを志向するエネルギーがある。なにをさせるのかというと、白鳥の飛ぶ映像イメージは、音として聞こえれば『大和男の盛りを見せよ――』とも聞くだろう。見せよというから命令だ。
『ガーゼィの翼』3巻読了。
わたしは既読だから全体の筋は知っていて上のような話(戦争と殺人)だが、前にも書いたように敵にとどめを刺す儀式はバイストン・ウェル物語では恒例のような「通過儀礼」ではある。
それでなくても、慈悲の一撃(クー・ド・グラース)とかは日本の武士の「介錯」ともまたちょっと違う文脈をもってて、海外ファンタジー作家も取り上げることはしばしばある。クロスボーンのときの貴族精神の話とは親和しやすいとは思うんだ。それで対人殺傷の話をするんだけど、今読み返すとどんな感想かなと思ってた。
日本武尊のことは、地氣(気脈)のはなしだから白山のシンボルであろうは、わたしは今わからなくはない。それと、その話の端で白鳥伝説の「神話のエネルギー」なる言葉がまた、ポッと唐突に言われたけど、後先ない出任せでなければそれもちょっと興味のある言葉だ。面白いぞガーゼィ……。
ゲーム浸りの現代の軟弱な若者にはシビアな現実は無理!……とは既に言ってない。「スポーツ剣道の実戦化」「にわか知識の実用化」までは、移行プロセスのいくばくかを経れば可能である、と説く。ただし、ここまでの章でまだ具体化していない「戦争と殺人」の問題に答えていない。
こうみるとクレバーな構成のようでもある。それが、Vガンダムやアベニールと時期的に連続してみえるのが言い尽くせなくてもどかしいところ。
ウッソは戦闘で人を殺して苦しまないのか……または、なぜか。サイコミュの場で殺人すると深刻な心のダメージを負うことは語られている。それはどういう意味なのか。
人の死を直に共感するダメージで人は戦意喪失するし、裏切って敵に回ったりする、そんなPTSD製造機みたいなサイコミュがろくな兵器になりそうにないが、そういう機能があることも、そのつど問題に付されずに送られるのはサイコ・マシーンが毎回破壊したり封印されて、体験もフィードバックされないからのようだ。神経細胞にニュートリノ的な直撃云々は今それじゃない。
そこのこれに、『大和男の盛りをみせよ』だ……? 日本武尊は何を言いたいのかと考えあぐねたところ。3巻の、示現流などの話は充実してて面白い。
『よくわからないのになぜ知っているのか』と、メトメウスの人々からすれば不思議だと思うんだよな。1巻あたりの頃は「聖戦士だからでありましょう」みたいに簡単に済んでたかもしれないところか。でもそのテーマを、面白く描くのはやはり難しそうではある。
「戦闘集団」の話は、古代には軍の進む後におびただしい女子供、民間人がついて移動することはよくあった。軍団の駐屯場所で商売する人々の話は『オーラバトラー戦記』に一章割かれてる。
進軍したらその先に入植する予定でついてくる群集なら家族と全財産を担いでいるし、初期の十字軍なんかは浮浪者の群れに見えたとか。『ガーゼィ』のメトメウスも一民族のエクソダスなので、荷馬車の列とそれを守る戦士(武者)が混じってひしめく。足手まといのこの有り様ではアシガバ軍に襲撃されたらひとたまりもないぞ……、とクリスは集団分けを提案しようとするが。
異世界で戦争するとき、こっちで知ってる近代兵器や戦術を持ち込むだけでなく、近代的な「軍編成」を試みようとするのもこのジャンルでたぶん、そう珍しくない発想だろう。そこでノベルの作品名に詳しくないのがわたしは粗だが。『ガーゼィの翼』の微妙に独特に思うところは、その近代軍思想、そのものではなく、ケッタ・ケラスやフィロクレースにその説得をしようとしてクリスに説明できる知識はないこと、みたいだ。プロの自衛官ではないしミリタリーマニアでもない。一般人のゲーム知識で、なんとなく常識として知っている。
機動力とかの「概念の有無」を、異世界ジャンルなら勝敗の根拠にしたいんだろうとは思う。ここの興味はそれではなくて、「なぜ有利なのか」と率直に訊き返されるとクリスは答えに詰まってしまう、このキャラが今読み返すとわたしは案外おもしろい。説教臭くなって面白くないところもある。
ほかに、「ゾア」というのがゾア家の家名や氏族名ともかぎらず、彼固有の称号、冠称として与えられたもので「俊英ザギニス」のような意味があるのかもしれない。そんなことは作中でさっぱり追われないから、不思議のまま。
シャアブル
ザギニス・ゾア=ザギゾアという名前の略し方は独特で、バイストン・ウェルのコモン人の名前が長い人物一般にそういう略称がされるわけでもなく、それでいてアシガバにもメトメウスにもニックネームとして違和感なく通用しており、誰もあえてそのことに触れない。普通に「ザギニス」と呼んでそんなに長いわけでもない。愛称として本人が積極的にその呼びを広めようとしているクリム・ニック(クリムトン・ニッキーニ本名)に近いかもしれない。
シャア・アズナブルとシャリア・ブルが名前が似ててまぎらわしいとは古今だれしも思ったはずで、きっと一年戦争中の兵卒には、
『シャアブルなあ……有能にはちがいないが、どうも純朴すぎて世間で他人を食ってでもグイグイ行こうという押しに欠ける。人格的には良い人なんだが本人が板挟みになってるのが見てて居たたまれないんだよな。ロマンチストなとこは絶対良いとこなんであれで野心か女性関係のスキャンダルでもあれば……えっ赤い彗星?――ごめん俺ふつうに勘違いしてしゃべってたわ。ところで、誰それ』
のような作為的に取り違えて語るテンプレだっただろうとは疑いない。
ル・グインが河合隼雄の読者だとはかぎらないという読み方を今ならする、というわたしの態度のこと。
『ロカノンの世界』前回、小尾美佐訳。この文庫本の解説(小谷真理)にある、ル・グィンの少女時代のルーツ(本人談)には
文筆の仕事に入って三十代頃に、ロカノン時点でインスパイア元になったのが
こういう書き方をSFでできるんだ!というコードウェイナー・スミスのショックはわかる(1961年)、のは前回書いた。ロード・ダンセイニについても、ダンセイニの初期のペガーナ神話や一連の幻想短編に没頭した気持ちはわかる。スミス自身の創作動機はまたそれともべつなことも言え(心理戦の研究)、ダンセイニも後期の作品(ジョーキンズやミステリ作品)を含めればだいぶ話は違ってくると思う。それを言ってル・グィンがダンセイニやスミスの徹底コアだとはかぎらない、アメリカ・インディアンの歌はわたしも昨年あらためて親しんだ。今はル・グィンの話。
ル・グインの作品は、わたしは十数年か前までに集中して読んだことがあって既訳はおおかた既読、英語ではアースシー(ゲド戦記)一連までは触れてる。手元にある。そのあと、ル・グイン自体になんというか苦手意識ができて、側に置かなくなった。
最近になっておもにソード&ソーサリー方面からファンタジーの古典的系譜などを追い返して「1970年代、80年代頃」というあたりまで時代を下ってくると、結局どうしても一部にル・グインの連想をするか、当時の同時代作家の雰囲気を知っておきたくなる。で思い返そうとすると、読んだはずなのに全然思い出せないことがわかり、ル・グイン今後再読してみることには決めた。
ただ今現在それでなくても併読が積みまくって渋滞している最中だから、今は作業場だけ立てておいて本格的にはまた先にするつもり。富野由悠季がそろそろ壁になってきたからそのあとくらい。
ル・グインの邦訳事情は、訳者によって訳の良し悪し(好み)が結構あることは知ってる。英文を読むつもりなら、それも古いペーパーより電子書籍なら新たに買い直したほうが絶対いい。
カテジナ目線でクロノクルがどういう青年に見えているかは想像できるけど、「女王の弟」(リアル王子様)という要素はそこに入ってない。クロノクルは感心なことに自分で言ってないし、後では知ったろうがもともとその打算はない…。
一方でカテジナが知ってるクロノクルは、それも現在の彼の社会的なポーズで、彼の少年時代までは知らない。白いガンダムの地球以来の経緯が結びついて一挙に憎悪が噴出してるクロノクルのスラム街メンタルはカテジナにはわかってない。クロノクルの生い立ちの要素はやはり小説版かぎりで、アニメに反映して語れず惜しい。
――どいつもこいつも寄ってたかって俺のことを踏みつけにしやがる。それだけがこの街の全てだ
そういう思いがずっと染み付いてるだろうのがウーイッグのお嬢さんに埋められるかな……お嬢さんはお嬢さんだろう。
クロノクル追記
クロノクルについては、今回読み直したのでは少年時代のヤクザ気分と、その上に薄く被っている現在の実直さ……のほうだった。クロノクルはむしろ「若者らしい野心に乏しいこと」が弱みのようで、傲慢さよりは端々で気の良い普通さが出る。
ただし、クロノクルがベスパ士官として実直な仕事をするようになったといって性根が誠実な人かというと、本人が誠実に振る舞おうとしても不自然すぎる地位のせいで、客観的には誠実な行為の示し方になってない、カテジナにも「これはお妾さん扱い」と見透かされていた。そういう弱みは読者によっては駄目が入るかもしれないが、カテジナはでもその彼が嫌いではないみたいな、コミカルな描かれ方だ、と。
そもそも――またシオ文学観の話だが――愛情はロマンチックな情熱だけではない、男女の打算でくっついたり、お互いに傷の舐めあいでやってる自覚でいながら切れずにダラダラ続けてしまうこともある。クロカテは思いっきり自己満足と慰め合いでしかないが、「愛は育てるもの」と思えば、どんな不自然な結びつきにも未来にそう思える芽はある。だからコミカルに(可愛らしく)見えるのかもしれない。
ザギゾア
ザギニス・ゾア! 通称ザギゾア。まず名前が面白い。三巻でクリスと初の邂逅となる、アシガバ軍の若き俊英。わかりやすく「ライバル」として設定されてる強敵……だが。
傲慢で野心家の青年という一群の系列があって、それは「シャアのイメージ」とはもともと違う特殊な興味だという話をしてて、『Vガンダム』のクロノクルまで下るともうちょっと違う、とも。この通読だとわたしはシース・シマーが一番いい劇の役回りだと思ったのだった。ザギゾアはこの最初面白いんだけど、右往左往する間に普通の悪党の定型に逆戻りしてしまうような……でも、今回わたしの興味も新たになったので、ザギゾア楽しみに読んでいこう。『ザギゾアから留美子へ』という題もあるしね。
「俊英」という言葉にはなんのこだわりがあるのか、くり返し使われる。面白いのは、『オーラバトラー戦記』あたりの本の著者紹介には著者・富野由悠季のことも「アニメ界の俊英」と紹介されてる。この後に続くのはやはり、「カロッダの俊英」マラーク。阿呆の子の意味。
『敵は海賊・海賊版』(1983)読了。しばらく放ったらかしすぎた。つぎは『戦闘妖精・雪風』、前回〈改〉で読んでいるからこんど旧版で、データ登録し直すついでに読み直す。
クロノクルが小銭稼ぎにビデオに録って売ろうと考えるあたりなんか、妙にリアルじゃないか。わたしは普段その類の世間話か、下世話が好きでなかったので。
クリスの元同級生の村瀬怜子さんが結婚・出産後に霊媒をするようになって、それが商売になったくだりは『Vガンダム』でのマリアとおなじだ。もちろん怜子さんとマリアの人柄は全然違うが、今読むとこれらはどう考えればいいのかな。新興……というか、民間信仰の巫女さんのようなものに、何らか具体的に取材したものではあるらしい。
わたしは、これがまた知らないだけで、いま多分世間一般の人がそうだろうほどには偏見や蔑視はない。ただ今その興味が主なわけではないのだった。『ガーゼィ』のここでは、巫女の求心力とか女性原理だとかの話はない。
富野作品の関連なら、霊感体質の女の子なら「中臣さん」に期待する流れじゃないか?……それは以前読んだときにも思ったと思う。クリスの彼女の中臣留美子さんは、三巻でまだ出てきていないので待ってみようか。
あと、コモン界の馬には角が生えていることは必ず言及される。この角が何かの役に立ったことはないと思う。それを見ると地上人は世界の違いを再認識させられ、身の内に慄く。
ユニコーンが出てくるファンタジーではユニコーンはよく角を武器(凶器)にして戦う。実在のユニコーンの生態はわからない、その決まりはないが、野生のシカやサイがするほどのことをユニコーンが躊躇わなくてもいいだろう。
現実の歴史では軍馬に装甲(鎧兜)を施されたこともあった。時代・地域によるが、わたしはフルアーマー化された馬の絵図をみると「勇ましい」よりも、微かにかわいそうな気持ちがする。
このまえ『The Birthgrave』の作中、主人公の女性が馴らした悍馬は面甲に角も装備し、戦闘では彼女のロングナイフとともに馬も共闘して噛みつく、蹄で蹴る、踏み潰すに加えてこの角で突いて斬り裂くと大暴れしたが、その馬は狂暴さのあまりすぐに戦死してしまった。
(馬の角まで熱心に理由付けすると、それを使って馬も戦わなければならない劇中の道具になるし、かわいそうにもそのせいで早く死んでしまう、という空想のお話づくりのことだ)
バイストン・ウェルの動植物は、地上界の動物種・植物種とよく似ているように見えても必ずしも同じでない、現地のコモン人の言葉では現地固有の名前で呼んでいる、葦や熊笹や竹や、魚のニシンとかタラと言っているわけではないが、地上人のクリスには「だいたいそれに似たもの」としてテレパシーで聞きとったり想像する。
べつにそんなこと一々に断らなくてもいいとも思う。ファンタジーを創作するときに、物語の人物のまわりの自然の気象も植生も人工の文物や歴史も何もかも、必ずしも「世界」を丸ごと新規に創造しなくてはならないわけではないだろう。近世のメルヒェンでも「架空のキリスト教国」と思っていれば具体的にドイツとかフランスと言わなくても、お城が建っている周りの森の木々はわれわれも知るブナやカシやナラで結構だ。
その話は今しない……。それは態度であって、上の、氷川さんの本では「世界観主義」のような言い方もしていた。
海外ファンタジーを読んでいるとき、先日も文中でアオギリとかサンザシと言われているのは気にしないとして、ヒマラヤスギ(cedar)という訳語が出てきて、――この世界にヒマラヤはなくてもヒマラヤスギとはいうか――それも読者むけに便宜的に翻訳されたのか――英語の原文にヒマラヤとは言ってないけど、語源を言い出せば松も杉も日本語だしなと思った。よくあること。
バイストン・ウェルの風物は地上人の心がつくりだすものなので、もともと人為的なこと、それと進化や歴史学の考え方と代わるもののように「伝承」がある。ここで地層や化石を掘り返せば混乱を極めるのかもしれない……各話の世界の案内人になるドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる。
書籍データの登録タグに「竜」と設けてると上でいったがドラゴロールは竜とかドラゴンにカウントするかな……。ドラゴ・ブラーは全くのドラゴンだったけど、恐獣はドラゴンなのかとは言いかねるし、このシリーズの恐獣の中ではまだまだ小物程度だったと思うが。
ただ、こういうキャラ属性みたいな恣意的な分類に含むか含まないは、まずは収集を目的に寛容に取ること。収集したデータを選別・整理するのはあとでもできるが、一度見てもそのとき迷ってスルーすると後からはなかなか思い出せない。だから迷うものはまず採取しておく、は原則。
『ガーゼィの翼』2読了。先の、現代剣道と実戦のはなしはこの2巻におおざっぱにあった。クリスは弘道館の紹介記事で知ったとか。わたしは剣客小説が好きなわけでも、過去の剣豪や銘刀のリストを読み漁る趣味があったわけでもないがまあなんとなくそのような話は知ってる。
メトメウス族の武者たちや若者たちの名前は最初にカタカナでまとめて出して、キャラ立ては話が進みながら追々考えられていくよう、これはバイストン・ウェル物語いつもの。クロス・レットくらいで准主役くらいに育つ。ガーゼィでは、メトメウス族は武者(大人層、エウフリオの仲間)と若者(リーリンス以下のティーンエイジャー)の格差があってこれは読むうちにわかる。若者の一人「カブジュ」は2巻の途中から文中で「ガブジュ」と呼ばれるようになって後にはそれで確定するみたい。
そうか、偵察ではなく哨戒行動だったな……。でも斥候 と音のひびきで詠んでしまったし、これはこれで置いとこう。