やはり先日のル・グインのエッセイ中(1970年代)で『かもめのジョナサン駄作』という話は読んでいて、わたしはそれはよくわかるのだが、同時にまたこのタニス・リー等を読みつつ、「シャイナの魔法の使い方は駄目」のようには言いたくない。
まずどういう理由かはおいても、リー作品はこれはこうありたい、これがいいのようには思う。"No,"から始めて火を吐くようなシャイナの台詞を読み返せばいいだろう。ここにモラルがないとは言えない。 それと、ル・グインはそこではそう書いていないが「まず文体が気に入らない」と思ってるのが第一、に決まってる。どうせ本を読むなら暗誦するくらい熟読したいものな……ここらへんのリーの文章はまず文体のものだ。それあって、英語読むのが楽しい文章でも、あえてつまらない話をテキストにしたくないな。
これらの話を時代的に振り返るのを何処から読み返せばよいか、わたしは今あまり言えない。わたしの場合コリン・ウィルソンの50-60年代……『アウトサイダー』『オカルト』あたりは一回取り戻しておこうかな。手元にないはず。
Part Three終わり。つづき。
読み始めるとすぐ済むのだけど、ここしばらくタニス・リーを開くタイミングが得られず、開いても数ページ読んでは気が済んでまた止んでしまう。この二年あまり、自覚しててそれがくり返す。
ジン・ジャハナムに複数の影武者が存在したように、ビクトリー・ガンダムのパイロットであるウッソ・エヴィンにも複数人説・年齢や性別の諸説・虚構説などある。ウッソのプロフィールにかかわる正確な情報が乏しい理由は、一にはリガ・ミリティアの組織内に行われた極端な秘密主義がある。同組織のリーダー=真なるジン・ジャハナムさえ、ガンダムのパイロットを示す暗号名「UE」がウッソ・エヴィンを表すことを知らされなかった。
ザンスカール戦争後にリガ・ミリティアの組織は崩壊し、ウッソ・エヴィンの消息も途絶えた。間近にウッソに接した僅かな人々の証言と、厖大にのぼった噂による以外、後の時代にウッソの正確な人物像は掴めなくなっている。戦後さほどを経ない宇宙戦国期にはすでに無数の異説を生んでいた。
北ヨーロッパ地域に残るウッソ伝説はおおむね、ウッソを小柄で敏捷な子どもとして語る。ガンダムを駆ってベスパを翻弄する痛快冒険譚の少年ヒーローであるとともに、悪口毒舌を叩き、悪戯をくり返すティル・オイレンシュピーゲル型の主人公である。
これは前回ritualの話だったな。 リーはまたfaithとかtruthがよくあるけど、faithかloyalかというのがこの前、ル・グインの話の最中に一度悩んだ。
こんどル・グインのエッセイ中に
ギリシア人が傲慢(ヒュブリス)と呼び、キリスト教徒が高慢(プライド)と、ユング派の人々が慢心(インフレーション)と呼んだところのものを、
わたしはヒュブリスとインフレーションを一律に考えることをあまり考えなかったようで、この文を見たときに胸にグサッと痛みを感じていた。傲慢だったからのような記事も最近したばかりだったんだ。
demonを「妖魔」と訳すものかなあ……他にどう言えとも思わないところだけど。それは、とくに先駆としてまず訳者が決める権利はあるよ、たしかに。「蘆薈」などは言わなくてよいと思う。
前回たまたま、邦訳を隣で参照した箇所の近くだったので気づいたが、浅羽訳はgeniusを「力の源」のように訳していて、普通にここは守護神とか守護霊の意味だと思うけど遠回りにするのはなんでだろうと思った。
1983年に読者にその概念がわかりにくいかな。そんなことはなさそうに思う。ともかく、訳文のことは今いちいち気にしない。わたしはKindleリーダーで辞書開くよりそっちの方が手早かったりするが、この際はあまり役に立っていない。リーだと前回、室住信子訳が気が利いてて面白かった。あっそうか、そう言えばいいんだ(負けた)みたいな。
50年もまえの古典的名作に今更ネタバレなんて言わない……か? というと、たとえ2000年前の作でもそれを触れるとダメージになるような点については今でもあまり言わんね。「ドゥニゼルの死に方」なんかは大っぴらに書いていても誰に痛いほどでもない。そういう物語じゃないから。
シャイナの年齢(17歳)は文中に書いてあったと思ったが検索しても17とは書いてない。16歳で老アッシュの家に奴隷に買われ、それからおよそ1年過ごしているから17らしい。 ウォーナもついでに、わたしは14か15の印象だったようだが年齢は書いてなかった。わたしの記憶は当てにならん。
タニス・リー作品の主要キャラクターの年齢を一覧にしてやったら面白いのではないかと思い、それは16、17、18歳に集まるだろうがやはり「17歳」というイメージだろう?……
と思ったのだけど、これまたBirthgraveで手が停まる。The Birthgraveの主人公は火山の地下で眠りから目覚めたところから物語が始まるので、最初からすでに正確な年齢は不明。でも読んでいると、行動の端々に「リアル20歳くらい」の若い女の子の感じがちょくちょく見える。それは読んでてもわかったが、作者タニス・リーの中では彼女の年齢設定は幾つと後の方にはっきり指定してあり、それがまた結構重要なストーリー上の伏線に関わるので、年齢ひとつをまたあまり言いたくないのだった。
第四の物語 完。一巻のレビューに「短編連作の……」と書き出したが、ここからはもうそれではないな。第七話が独立した挿話になっているくらいか。
「第一章 王子の出生」まで。 さっそく、瞬時にして人物の名前と関係が晦冥に陥ったが、章末の表を脇に控えておいて読もう。
作品の時代が多少違っても、東洋文庫のインド古典シリーズの「訳注」に記されている語釈は毎回、大体内容はくり返している(――なんとか鳥、何々樹、儀式の名etc)のだけど、そのつど忘れているようだから世話ない。花や鳥の画像くらいネット検索して出てくるのではないか?
それと、この章の最後にある『窃盗術、賭博などの詐術に至るまで――』とある件については、田中先生の「盗賊指南書」の文があるのでこのあと読もう。今夜はここまで。
十王子物語再読。直接には前回『屍鬼二十五話』から伝奇物語集のつづき。田中於菟弥先生については前回、カーリダーサ。
ここは主に、停滞しがちな読書の進捗を今どこと書き込むために使う。再読から何事かの新発見や、書くべき所感を求めなければならないと思えばそれが壁になるくらいだから、意識して何も書かなくてよい。トピックを立ててあれば将来にメモを探すか、引用するときにしやすい。編成上の理由による。
訳注は、手こずるなら読み飛ばすかもしれない。これも引き続き同じ。
作業場の体裁を立て直して発進するのは(すでに別の場所で)慣れているのでするとなれば躊躇うことではないし、手を下せば一気にしてしまう。早い。
とはいえ、今これだけでふーーっと息をついてしまうようだぜ。十王子物語も立てて始めておこうか。
夜の言葉(同時代ライブラリー111, 1992版)読了。このエッセイ集には新旧バージョンがある。
次、『天のろくろ』(1971)。ル・グイン作品についてわたしは今、それほどここに書き込んでいるようでもないと思うが、やはり量が厖大化していくのは目に見えているので、今後の方針として作品ごとにトピックを立てていこう。……整理/管理をまめにすればその方がよい。
当時、富野作品の時期的に近かった「馬鹿馬鹿しいほどの白兵戦」は小説Vガンダムのカイラスギリー艦隊戦中、スクイードに挑む陸戦。
そのまえの、旧式艦を楯にしつつ特攻・自爆させる戦法は、正攻法に美学を求めるタシロには『外道だ。プロとして恥ずべきことだ』これがゲリラのやり方か!と思うのだけど、火船戦法自体はすごく古典的な戦法で、軍人になるために教科で学んでいないはずがない。
ブレンパワードまで今読みたいけど……小説ブレンは小説として文章(文体)の楽しみが乏しいので資料程度でしかない。面出明美氏のせいとは言いたくないが読者としてはそう。
それとべつに、「皆で手をつないでオルファンに呼びかける」のような話自体が嫌いなのは今も変わっていない。オルファンは人類と共存するために迎えられたのではなく、しばらくこの場に留まって、やはり宇宙にはやがて旅立つと思うよ。
それより以前に、公刊されているテキストにも読者が見てわかる誤脱字が目立つので、まずテキストを補訂しよう、それが第一だというのが、ファンとしてはわたしの現在の感想。人類が富野ファンでなければならないかは疑問だけど、それであって悪いはずはないと思っている。
「東方からここまでこのグラウンドを観察して、つくづく厭になった。果てしない砂漠につづく砂漠……砂漠でなければ、火の山だ。その噴煙さえも、天空に舞い上がって、雲になることもなく地をはうのだ……バイブルで語られたような海というようなものもない。このようなところで、未来永劫に人が生きていくためには、機械の力を借りてグリーン・テリトリィを存続させるしかないのだ。王子よ……機械は偉大だ。われらドウガロの機械力をもってすれば、グリーン・テリトリィを拡大させることもできるかもしれんのだ」
ドウガロのシンシア。ここの、『このようなところで、未来永劫に人が生きていくためには』の節に少し気になる。1995年。もっと後、Gレコより後の最近の富野インタビュー等にもこれに近い発言は度々あったりするが、そういうときどういう意味か。ネットでファン語りにするときには『21世紀以後の富野は宇宙進出を否定している』という富野論のために引用されることがよくある。
そういう文脈は適当に裁断して、人は大地に立つのがよい、健やか大事、御大の落ち着いた結論よね、という"富野フォロワーの発言"はしきりに目につく。でも、仮に富野発言を権威の根拠に何かを言いたいとしても、わたしはテキスト批判は自分単独で続けていることゆえ、それは信用しない。
ここまでも、マラークは離陸中の飛行機械に馬で乗りつけて飛び乗ってきたのだが、
全力疾走をした馬は足をもつれさせて草原に横転して、尾翼に頭をぶつけないですんだ。
飛行機械の形状はなかなかビジュアルが掴めないものの、こういう一文で書き飛ばしてしまうのがいいね。富野監督はこの頃不調だと言っているが、文章はそうか?
「機長! あの巨人機に着陸だっ!」 マラークは、後方につづく巨人機が、自機を狙撃しようとするのには気にもかけなかった。 「しかしっ……」
白兵戦を敢行する! 二巻に入って始まるこれが好き。これと、俊英マラークについてはこれまでも微かに触れていたが天才と阿呆の子は紙一重でするのが富野作品一連で「俊英」と呼ぶのだろう。 前回、『シーマ・シーマ』では意外にナウシカばりの空中移乗攻撃はしていない。スィープ・スティードで強行着艦はしたっけ。
ヴォルクの場合は、ヴァズカーじゃないの。他者の意思に及ぼす支配力、カリスマという話題は去年からつづき。ヴォルクには「性欲がない」とはっきり書いてあるので、それだけでも全然違うけどね。
The Birthgraveが刺激だったせいでしばらくずっとそれの連想を考えているようだが……同じ作者のキャラクターだから作品をまたいでも何かしらの性格は共有か、重ね合わせているのは当然として……80年代までのリーのジュブナイルの少女達に散らばっているものはやはりThe Birthgraveの「私」に凝縮して現れていたようには思える。
ここではシャイナと、シャイナだけでなくウォーナにも。それをまたヴォルクにも、バルバヤートにも――と言い出せばなんでも言えてしまえそうではあるから、牽強付会はほどほどにして、「ウォーナにも」はあるね。
Part Three - Chapter 14まで。祝祭と劇とぶきみな会食のところ。これはなに祭りだったっけ……。
Spring Fair of the Sun。Arkevでは太陽と月を主祭殿にもっぱら祀っている。
富野総合からトピ分け。『王の心』ここまでは、
とくに、有意義な思案や発見などを書き込まなくていい。
本を読みさして別件に行き、一か月以上滞ることがよくあるので、ここには「今どこまで読んだ」という進捗をちょくちょく書き込んでいれば、それでよい。特定の書名を単独トピックにしておくとあとでリンクしたり、編纂しやすいのと、タニス・リー作品の予定はあらかじめものすごく多いことがわかっているから細かく管理したほうがいい。
タニス・リー総合から分割。作品個別トピックで以後扱う。ここまでのメモは、
カーニック・ヴォルク
邦訳 (浅羽莢子)
最近のファンタジーもののベストセラー『かもめのジョナサン』は、真面目な本、間違いなく誠実な本である。と同時に、知的、倫理的、情緒的にはとるに足らない駄作である。作者はものごとを徹底的に考え抜いていない。彼は、この国でわれわれが得意とするたぐいの、見事に包装された〝お手軽な答え〟のひとつを押しつけようとしているにすぎない。彼は、あなたが自分で非常に速く飛べると思うのなら、そう、速く飛べるのですよ、と言っているだけである。にっこり笑いさえすれば万事うまくいく、世界中が幸せになる。あなたが微笑をうかべれば、カンボジアで壊疽で死にかけている男も、バングラディシュで飢える四歳の子も、隣に住むガンを病む女も、みなずっと幸せな気分になり、彼らのほうでもにっこりするだろう、というわけだ。
『夜の言葉』(1979)より。ル・グインは『かもめのジョナサン』を挙げるたびに叩いているみたい。この文章のあとはザミャーチンの『われら』に続く。
ここで連想しているのは魔法の使い方について。
参考:
Zawazawaのここの板を立てた時点で、一個のトピックでどれだけの話をするかの見当がなかったので曖昧に始めているが、本当は、読書なら本一冊ごとに一トピックで立て、その時系列や関連は総合スレでまとめるように編成していくのが、良いんだろう。その量的な見当がないと言ってるのだが。
特定の話題に絞って記事を立てるのが後でリンクを繋いだりするには、確かによい。それがわかっていても最初からそうできないのだが、次に再周するときには個別に新規に立てると考えていてもいい。 タニス・リーなどはあらかじめ90以上とわかっているから今からもう分割を始めていいか。神林長平は逆に、再読したとしても今あらためて書き込むことが思いつかないほどで、閑散としている。場合によるのだが、富野やリーにしても実際そんなに書いているのかな……? 「書き込める場を立てれば書く」ということもあるし。
アリスがかけぶとんの上を見ると、そこにはちっぽけできれいな人が立っていて、アリスのほうを見上げていました。その小さな貴婦人がそこにいるのは、まったくあたりまえのことのように思われました。世の中ではよくあることですが、とても信じられないようなことでも、いったん起こってしまうと、ちっとも不思議ではなくなるものなのです。 (「妖精の国」1867)
ただ、そう書けばいつもそうなる、わけではない。上にもあるようにそれからどんなお話が始まるの、という。
本当におとぎ話なら書かなくていいようなのにマクドナルドの場合わざわざそう書く、のようにもみえる。1860年代くらい。
矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)読了。1970なので古いといえば既に半世紀だが、役に立つ。
矢島文夫氏の著書を読まれるのはふつう『ギルガメシュ叙事詩』と『世界最古の物語』の邦訳だろう。それが現在どういう興味の人が手に取るのかは分かるけど「ギルガメシュ叙事詩」はいきなりに臨んでわかるものかは疑問だ。 近年の読者ならゲームに出てくるようなその話が、教科書に載っているような書名とはいえ、その文を高校生くらいで無手で挑んでもどこが面白い物語なのか、これがどういう経緯で現代に価値があるのかは、ぴんとこないことがあるかもしれない。
ともかく手がかりを得てそこから関心を広げていくには、むしろこの『ヴィーナスの神話』の本がわたしは幅広い関心に点火する、起爆剤になった。言語学の入門編にはならない。
この中に挙がっているタイトルから過去にわたしの興味があったものを抜き出すと、
わたしは、金枝篇や千一夜物語はこれよりは前に他の経緯だったと思うけど、上の辺りはここらから参考文献リストをたぐった跡みたいだな……。いずれもそれなりに古いのは当然だろうが、ピエール・ルイスなどは最近も読み返していたね。
この次は、もとに戻ってインドの続き、十王子物語か鸚鵡か……。エリアーデは暇潰しのように置いているが、再読継続中。別トピックで思い出したのでライラーとマジュヌーン。クレイマー『聖婚』を読み返したいけど、併読が多すぎる。
『黄金のろば』読了。今読まれる興味のなかには最終章の、イシス女神の諸々の異名や一連の密儀の次第などはあるのだろうがそれはまた別に任せるとして、わたしは伝奇小説の古典として。魔術の興味は途中で薄れたが、やはり、面白い。
今日読んだ中では先ほど、九巻の、寝取られ男の話が意外に面白かった。意外にというのは、わたしはもともとその種の笑話艶話にそれほど積極的な興味が湧かないからだが、その、寝取られ男のおおむね同趣向の類話を続けて三話語ってみせるなど小説家としてなかなか面白い仕方ではないか。
読み終えたので、上に戻って矢島文夫『ヴィーナスの神話』を続き。この本は概説というか入門書的なもので美術叢書中のそのテーマを紹介するものだが、もとその専門ではないわたしには、興味の発端としてとても役に立った。関連書名を挙げるのはまたその項でしよう。
九。この寝取られ男の話は、亭主はそれでも当初より余計な金額を貰っているのだし、本人は儲けたつもりで良い気分でいるのを笑いものにはされても、痛烈にしてやられたほどでもない。密通のほうが急場をどうにか言い抜けたのと、男女とも懲りもしない性根の悪さを暴露しただけのようか……。
小説の挿話にしても切れの悪さは、むしろ世間並みの笑話としてリアルなのかもしれないな。その場の、女の口振りを真似て面白がるんだろう。
また直後の話でもそうだが、密夫が取り持ちの奴隷や女の心を買収するのに多額の賄賂を使う、その出費について密夫はとくに気にしたり苦にしたりしないみたいだな。 堅塁奪取に金に糸目はつけないか……色男にしては、後でその場しのぎの機転と、なにか前後の振る舞いが合わないような感じだ。ここの押す点は、大胆不敵さ。やり口が大雑把に見えるけど、しゃあしゃあと言い抜ける開き直る。
やはり先日のル・グインのエッセイ中(1970年代)で『かもめのジョナサン駄作』という話は読んでいて、わたしはそれはよくわかるのだが、同時にまたこのタニス・リー等を読みつつ、「シャイナの魔法の使い方は駄目」のようには言いたくない。
まずどういう理由かはおいても、リー作品はこれはこうありたい、これがいいのようには思う。"No,"から始めて火を吐くようなシャイナの台詞を読み返せばいいだろう。ここにモラルがないとは言えない。
それと、ル・グインはそこではそう書いていないが「まず文体が気に入らない」と思ってるのが第一、に決まってる。どうせ本を読むなら暗誦するくらい熟読したいものな……ここらへんのリーの文章はまず文体のものだ。それあって、英語読むのが楽しい文章でも、あえてつまらない話をテキストにしたくないな。
これらの話を時代的に振り返るのを何処から読み返せばよいか、わたしは今あまり言えない。わたしの場合コリン・ウィルソンの50-60年代……『アウトサイダー』『オカルト』あたりは一回取り戻しておこうかな。手元にないはず。
Part Three終わり。つづき。
読み始めるとすぐ済むのだけど、ここしばらくタニス・リーを開くタイミングが得られず、開いても数ページ読んでは気が済んでまた止んでしまう。この二年あまり、自覚しててそれがくり返す。
【ウッソ・エヴィン伝説】
ジン・ジャハナムに複数の影武者が存在したように、ビクトリー・ガンダムのパイロットであるウッソ・エヴィンにも複数人説・年齢や性別の諸説・虚構説などある。ウッソのプロフィールにかかわる正確な情報が乏しい理由は、一にはリガ・ミリティアの組織内に行われた極端な秘密主義がある。同組織のリーダー=真なるジン・ジャハナムさえ、ガンダムのパイロットを示す暗号名「UE」がウッソ・エヴィンを表すことを知らされなかった。
ザンスカール戦争後にリガ・ミリティアの組織は崩壊し、ウッソ・エヴィンの消息も途絶えた。間近にウッソに接した僅かな人々の証言と、厖大にのぼった噂による以外、後の時代にウッソの正確な人物像は掴めなくなっている。戦後さほどを経ない宇宙戦国期にはすでに無数の異説を生んでいた。
北ヨーロッパ地域に残るウッソ伝説はおおむね、ウッソを小柄で敏捷な子どもとして語る。ガンダムを駆ってベスパを翻弄する痛快冒険譚の少年ヒーローであるとともに、悪口毒舌を叩き、悪戯をくり返すティル・オイレンシュピーゲル型の主人公である。
これは前回ritualの話だったな。
リーはまたfaithとかtruthがよくあるけど、faithかloyalかというのがこの前、ル・グインの話の最中に一度悩んだ。
こんどル・グインのエッセイ中に
わたしはヒュブリスとインフレーションを一律に考えることをあまり考えなかったようで、この文を見たときに胸にグサッと痛みを感じていた。傲慢だったからのような記事も最近したばかりだったんだ。
demonを「妖魔」と訳すものかなあ……他にどう言えとも思わないところだけど。それは、とくに先駆としてまず訳者が決める権利はあるよ、たしかに。「蘆薈」などは言わなくてよいと思う。
前回たまたま、邦訳を隣で参照した箇所の近くだったので気づいたが、浅羽訳はgeniusを「力の源」のように訳していて、普通にここは守護神とか守護霊の意味だと思うけど遠回りにするのはなんでだろうと思った。
1983年に読者にその概念がわかりにくいかな。そんなことはなさそうに思う。ともかく、訳文のことは今いちいち気にしない。わたしはKindleリーダーで辞書開くよりそっちの方が手早かったりするが、この際はあまり役に立っていない。リーだと前回、室住信子訳が気が利いてて面白かった。あっそうか、そう言えばいいんだ(負けた)みたいな。
50年もまえの古典的名作に今更ネタバレなんて言わない……か? というと、たとえ2000年前の作でもそれを触れるとダメージになるような点については今でもあまり言わんね。「ドゥニゼルの死に方」なんかは大っぴらに書いていても誰に痛いほどでもない。そういう物語じゃないから。
シャイナの年齢(17歳)は文中に書いてあったと思ったが検索しても17とは書いてない。16歳で老アッシュの家に奴隷に買われ、それからおよそ1年過ごしているから17らしい。
ウォーナもついでに、わたしは14か15の印象だったようだが年齢は書いてなかった。わたしの記憶は当てにならん。
タニス・リー作品の主要キャラクターの年齢を一覧にしてやったら面白いのではないかと思い、それは16、17、18歳に集まるだろうがやはり「17歳」というイメージだろう?……
と思ったのだけど、これまたBirthgraveで手が停まる。The Birthgraveの主人公は火山の地下で眠りから目覚めたところから物語が始まるので、最初からすでに正確な年齢は不明。でも読んでいると、行動の端々に「リアル20歳くらい」の若い女の子の感じがちょくちょく見える。それは読んでてもわかったが、作者タニス・リーの中では彼女の年齢設定は幾つと後の方にはっきり指定してあり、それがまた結構重要なストーリー上の伏線に関わるので、年齢ひとつをまたあまり言いたくないのだった。
第四の物語 完。一巻のレビューに「短編連作の……」と書き出したが、ここからはもうそれではないな。第七話が独立した挿話になっているくらいか。
「第一章 王子の出生」まで。
さっそく、瞬時にして人物の名前と関係が晦冥に陥ったが、章末の表を脇に控えておいて読もう。
作品の時代が多少違っても、東洋文庫のインド古典シリーズの「訳注」に記されている語釈は毎回、大体内容はくり返している(――なんとか鳥、何々樹、儀式の名etc)のだけど、そのつど忘れているようだから世話ない。花や鳥の画像くらいネット検索して出てくるのではないか?
それと、この章の最後にある『窃盗術、賭博などの詐術に至るまで――』とある件については、田中先生の「盗賊指南書」の文があるのでこのあと読もう。今夜はここまで。
十王子物語はじめ。
十王子物語再読。直接には前回『屍鬼二十五話』から伝奇物語集のつづき。田中於菟弥先生については前回、カーリダーサ。
ここは主に、停滞しがちな読書の進捗を今どこと書き込むために使う。再読から何事かの新発見や、書くべき所感を求めなければならないと思えばそれが壁になるくらいだから、意識して何も書かなくてよい。トピックを立ててあれば将来にメモを探すか、引用するときにしやすい。編成上の理由による。
訳注は、手こずるなら読み飛ばすかもしれない。これも引き続き同じ。
作業場の体裁を立て直して発進するのは(すでに別の場所で)慣れているのでするとなれば躊躇うことではないし、手を下せば一気にしてしまう。早い。
とはいえ、今これだけでふーーっと息をついてしまうようだぜ。十王子物語も立てて始めておこうか。
夜の言葉(同時代ライブラリー111, 1992版)読了。このエッセイ集には新旧バージョンがある。
次、『天のろくろ』(1971)。ル・グイン作品についてわたしは今、それほどここに書き込んでいるようでもないと思うが、やはり量が厖大化していくのは目に見えているので、今後の方針として作品ごとにトピックを立てていこう。……整理/管理をまめにすればその方がよい。
当時、富野作品の時期的に近かった「馬鹿馬鹿しいほどの白兵戦」は小説Vガンダムのカイラスギリー艦隊戦中、スクイードに挑む陸戦。
そのまえの、旧式艦を楯にしつつ特攻・自爆させる戦法は、正攻法に美学を求めるタシロには『外道だ。プロとして恥ずべきことだ』これがゲリラのやり方か!と思うのだけど、火船戦法自体はすごく古典的な戦法で、軍人になるために教科で学んでいないはずがない。
ブレンパワードまで今読みたいけど……小説ブレンは小説として文章(文体)の楽しみが乏しいので資料程度でしかない。面出明美氏のせいとは言いたくないが読者としてはそう。
それとべつに、「皆で手をつないでオルファンに呼びかける」のような話自体が嫌いなのは今も変わっていない。オルファンは人類と共存するために迎えられたのではなく、しばらくこの場に留まって、やはり宇宙にはやがて旅立つと思うよ。
それより以前に、公刊されているテキストにも読者が見てわかる誤脱字が目立つので、まずテキストを補訂しよう、それが第一だというのが、ファンとしてはわたしの現在の感想。人類が富野ファンでなければならないかは疑問だけど、それであって悪いはずはないと思っている。
この星で生き続けるために
ドウガロのシンシア。ここの、『このようなところで、未来永劫に人が生きていくためには』の節に少し気になる。1995年。もっと後、Gレコより後の最近の富野インタビュー等にもこれに近い発言は度々あったりするが、そういうときどういう意味か。ネットでファン語りにするときには『21世紀以後の富野は宇宙進出を否定している』という富野論のために引用されることがよくある。
そういう文脈は適当に裁断して、人は大地に立つのがよい、健やか大事、御大の落ち着いた結論よね、という"富野フォロワーの発言"はしきりに目につく。でも、仮に富野発言を権威の根拠に何かを言いたいとしても、わたしはテキスト批判は自分単独で続けていることゆえ、それは信用しない。
ここまでも、マラークは離陸中の飛行機械に馬で乗りつけて飛び乗ってきたのだが、
飛行機械の形状はなかなかビジュアルが掴めないものの、こういう一文で書き飛ばしてしまうのがいいね。富野監督はこの頃不調だと言っているが、文章はそうか?
白兵戦を敢行する!
白兵戦を敢行する! 二巻に入って始まるこれが好き。これと、俊英マラークについてはこれまでも微かに触れていたが天才と阿呆の子は紙一重でするのが富野作品一連で「俊英」と呼ぶのだろう。
前回、『シーマ・シーマ』では意外にナウシカばりの空中移乗攻撃はしていない。スィープ・スティードで強行着艦はしたっけ。
ヴォルクの場合は、ヴァズカーじゃないの。他者の意思に及ぼす支配力、カリスマという話題は去年からつづき。ヴォルクには「性欲がない」とはっきり書いてあるので、それだけでも全然違うけどね。
The Birthgraveが刺激だったせいでしばらくずっとそれの連想を考えているようだが……同じ作者のキャラクターだから作品をまたいでも何かしらの性格は共有か、重ね合わせているのは当然として……80年代までのリーのジュブナイルの少女達に散らばっているものはやはりThe Birthgraveの「私」に凝縮して現れていたようには思える。
ここではシャイナと、シャイナだけでなくウォーナにも。それをまたヴォルクにも、バルバヤートにも――と言い出せばなんでも言えてしまえそうではあるから、牽強付会はほどほどにして、「ウォーナにも」はあるね。
Part Three - Chapter 14まで。祝祭と劇とぶきみな会食のところ。これはなに祭りだったっけ……。
Spring Fair of the Sun。Arkevでは太陽と月を主祭殿にもっぱら祀っている。
さらに先の混雑を予想して編纂しやすくするため、は同様。富野話題にせっせと書き込んでいると2月頃の当初そんなに思わなんだ。
『リーンの翼』まで読んでしまえば次回いつ戻ってくるか知れんが、そのときはまたあらかじめ場所があると書き込みやすいだろう。この板には基本、「今日ここまで」を記入するだけでよい。
今頃になって個別トピック立てしている作業指針と、
富野総合からトピ分け。『王の心』ここまでは、
トピック立ての方針についてはこのよう。リーと富野話題はたぶん作品単位で今後、分けたほうがいい。富野は気づくのが遅すぎた。ル・グインも、続ければ巨大化しそうには見えているところか。
Volkhavaarは個別トピックに移動。
とくに、有意義な思案や発見などを書き込まなくていい。
本を読みさして別件に行き、一か月以上滞ることがよくあるので、ここには「今どこまで読んだ」という進捗をちょくちょく書き込んでいれば、それでよい。特定の書名を単独トピックにしておくとあとでリンクしたり、編纂しやすいのと、タニス・リー作品の予定はあらかじめものすごく多いことがわかっているから細かく管理したほうがいい。
タニス・リー総合から分割。作品個別トピックで以後扱う。ここまでのメモは、
カーニック・ヴォルク
邦訳 (浅羽莢子)
『夜の言葉』(1979)より。ル・グインは『かもめのジョナサン』を挙げるたびに叩いているみたい。この文章のあとはザミャーチンの『われら』に続く。
ここで連想しているのは魔法の使い方について。
参考:
Zawazawaのここの板を立てた時点で、一個のトピックでどれだけの話をするかの見当がなかったので曖昧に始めているが、本当は、読書なら本一冊ごとに一トピックで立て、その時系列や関連は総合スレでまとめるように編成していくのが、良いんだろう。その量的な見当がないと言ってるのだが。
特定の話題に絞って記事を立てるのが後でリンクを繋いだりするには、確かによい。それがわかっていても最初からそうできないのだが、次に再周するときには個別に新規に立てると考えていてもいい。
タニス・リーなどはあらかじめ90以上とわかっているから今からもう分割を始めていいか。神林長平は逆に、再読したとしても今あらためて書き込むことが思いつかないほどで、閑散としている。場合によるのだが、富野やリーにしても実際そんなに書いているのかな……? 「書き込める場を立てれば書く」ということもあるし。
ただ、そう書けばいつもそうなる、わけではない。上にもあるようにそれからどんなお話が始まるの、という。
本当におとぎ話なら書かなくていいようなのにマクドナルドの場合わざわざそう書く、のようにもみえる。1860年代くらい。
矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)読了。1970なので古いといえば既に半世紀だが、役に立つ。
矢島文夫氏の著書を読まれるのはふつう『ギルガメシュ叙事詩』と『世界最古の物語』の邦訳だろう。それが現在どういう興味の人が手に取るのかは分かるけど「ギルガメシュ叙事詩」はいきなりに臨んでわかるものかは疑問だ。
近年の読者ならゲームに出てくるようなその話が、教科書に載っているような書名とはいえ、その文を高校生くらいで無手で挑んでもどこが面白い物語なのか、これがどういう経緯で現代に価値があるのかは、ぴんとこないことがあるかもしれない。
ともかく手がかりを得てそこから関心を広げていくには、むしろこの『ヴィーナスの神話』の本がわたしは幅広い関心に点火する、起爆剤になった。言語学の入門編にはならない。
この中に挙がっているタイトルから過去にわたしの興味があったものを抜き出すと、
わたしは、金枝篇や千一夜物語はこれよりは前に他の経緯だったと思うけど、上の辺りはここらから参考文献リストをたぐった跡みたいだな……。いずれもそれなりに古いのは当然だろうが、ピエール・ルイスなどは最近も読み返していたね。
この次は、もとに戻ってインドの続き、十王子物語か鸚鵡か……。エリアーデは暇潰しのように置いているが、再読継続中。別トピックで思い出したのでライラーとマジュヌーン。クレイマー『聖婚』を読み返したいけど、併読が多すぎる。
『黄金のろば』読了。今読まれる興味のなかには最終章の、イシス女神の諸々の異名や一連の密儀の次第などはあるのだろうがそれはまた別に任せるとして、わたしは伝奇小説の古典として。魔術の興味は途中で薄れたが、やはり、面白い。
今日読んだ中では先ほど、九巻の、寝取られ男の話が意外に面白かった。意外にというのは、わたしはもともとその種の笑話艶話にそれほど積極的な興味が湧かないからだが、その、寝取られ男のおおむね同趣向の類話を続けて三話語ってみせるなど小説家としてなかなか面白い仕方ではないか。
読み終えたので、上に戻って矢島文夫『ヴィーナスの神話』を続き。この本は概説というか入門書的なもので美術叢書中のそのテーマを紹介するものだが、もとその専門ではないわたしには、興味の発端としてとても役に立った。関連書名を挙げるのはまたその項でしよう。
九。この寝取られ男の話は、亭主はそれでも当初より余計な金額を貰っているのだし、本人は儲けたつもりで良い気分でいるのを笑いものにはされても、痛烈にしてやられたほどでもない。密通のほうが急場をどうにか言い抜けたのと、男女とも懲りもしない性根の悪さを暴露しただけのようか……。
小説の挿話にしても切れの悪さは、むしろ世間並みの笑話としてリアルなのかもしれないな。その場の、女の口振りを真似て面白がるんだろう。
また直後の話でもそうだが、密夫が取り持ちの奴隷や女の心を買収するのに多額の賄賂を使う、その出費について密夫はとくに気にしたり苦にしたりしないみたいだな。
堅塁奪取に金に糸目はつけないか……色男にしては、後でその場しのぎの機転と、なにか前後の振る舞いが合わないような感じだ。ここの押す点は、大胆不敵さ。やり口が大雑把に見えるけど、しゃあしゃあと言い抜ける開き直る。