ブレンパワード/グランチャーは一人、二人……と「何人」と数えるのが正しい。このノベライズ中には「二機」とある箇所もあって、無理もないが、これは誤り。
人によってこの感じ方は違うはずだと思うが、わたしは「擬人化している」という感じではないと思う。昔、霊長研の人はチンパンジーをやはり「何人」と数えるというのを聞いていて、その感じのほうだと思う。それぞれのパイロットはかなり情緒的にのめり込んでいるけど。
もう一つのオルファン、ビープレート、等言っているのを聞いて「地球だろう」と考えるくらいはSF読者にはごくありふれた発想だ。
一つが浮上しようとしている現在で大騒動になっているのに、実はもう一つ、二つめがあるのかもしれない、それはわからない……それが現実になったときには「三つだと!?」となるのは正しく度肝を抜く。いいこと。
フリュイドスーツにシートベルトは合わなすぎる。ゆったりしているものを、締め付ける感覚はブレンも嫌がりそうだ。そんなものに人を乗せて戦うからじゃないか。 グランチャーは元々、オルファンに対する異物を排除する抗体細胞、戦闘生物として存在しているというのは通説。生殖機能はない。戦闘生物云々もリクレイマーの説だろう。
『ブレンパワード』の作中では、オルファンはいつからかは知れないものの、いつのことか、どこからかこの星(地球)にやってきて、今は海底に眠っているという通説になっていると思う。
先日まで読んでいた『王の心』とこれと、とくに関連づけて読まなくてもいいが、SF的な想像をたくましくすれば、実はこの地球という星も、この太陽系に元からあったのとはかぎらず、宇宙をどこからか旅して現在の場所にたどり着いているのかもしれない。その際、旅する原初の地球だったスペース・アイランドと、オルファンとは、当初からニ者が一体で膠着していたのかもしれない。
現在の太陽系は安住の場所かというと、やはり目指すところはもっと遥か銀河の遠くにあるらしく、オルファンは夢うつつに目覚めて旅立ちたいのだけど、地球の方はまだ眠りこけている、のような空想する。人間のタイムスパンからすると、それが銀河の何処をめざしているが、なぜ翔びたいのかという理由は、想像できない。
アンチボディの乗り手、というか、人間のパートナーのことをここでは普通に「パイロット」と呼んでいる。アニメ本編のほうはもう長らく見ていないので忘れたが、アンチボディと適合することをたしか「アジャストする」と呼ぶ設定になっていると思うけど、このノベライズにはアジャストの称は出てこない。
わたしは人型メカのブレンパワードのデザインは好きで思い出もある……。アンチボディがなぜ人型か、という説明は作中にとくにないと思う。それは本作の場合、「人類がなぜこんな姿形になっているのか」とほとんど同じような問いだ。オルファンは人類発生以前から海底にいるのかもしれない、多分そうだろうし。
ブレンパワード/グランチャーは強い衝撃を受けるとハッチが開いてしまい、パイロットを放り出すことが何度かある。それでいいんだろうか……。最近ジークアクスでも見ていささか不思議な光景にも映っていた。エアバッグの有用さも確認できる。
94まで。第七章「大地、女性、豊饒」おわり。
ある若者が地球連邦軍の基地の近くを通りかかると、塀の隙間から偶然に、軍の新型モビルスーツの姿が見えた。モビルスーツの見事な造型は装甲を貫いて輝き出すかに見え、若者は以来、モビルスーツに対して抑えがたい思いを抱くようになった。悶々として夜も眠れぬ日々が何週間も続いたあと、若者はすっかりやつれ果ててしまい、このまま死ぬのならいっそのこと、軍に入隊して、少しでもモビルスーツの近くで死のうと思い、志願の手続に及んだ。前世に奇縁があったのか、若者の少なからずニュータイプ的な素質はニタ研の目に留まり、やがて基地内の研究所で特別な訓練を受ける身分になった。
若者はサイコミュを使った機械操作に抜群の成績を挙げた。胸の裡なる思いはひた隠しにして訓練に励んでいたが、ついに念願の新型モビルスーツの実機試験におけるパイロット候補になると、もはや情念は留めようがないほどに高まった。その夜、若者は格納庫に忍び込むと、静かに待機しているモビルスーツの膝元に近づき、夢に見たあの美しい機体をひとしきり存分に堪能した。そして、コックピットに這い入っていった。翌朝には、新型モビルスーツが格納庫内で無惨なまでに穢されているのが知られることとなったが、パイロット候補の若者の姿は、どこにもなく、コックピットにはただ得体のしれない白いどろどろの粘性体がわだかまっているのが発見されたばかりだった。(宇宙世紀〇〇九〇年頃)
「救世軍」とは説話に登場する地球上を遍歴する騎士のような武装集団をいう。ジオン軍残党を救世軍として語ることもある。
ジオン戦争以後の地球では、多くの武装勢力が割拠して暴虐であった。救世軍の一団がメコン川のほとりに至ると、密林の迫る狭い土地に隠れるように作られた小さな集落では葬儀が行われていて、荼毘の煙が上がり、村人達の泣き声が聞こえてきた。集落に近い谷には、ジオン軍の残党のモビルスーツが住むという噂があった。夜ごとにモビルスーツは村にやってきては、若者をさらい、無惨に食い殺していく。救世軍の人々が、どうしてそんな恐ろしい土地に住み続けているのかと訊ねると、村人の口々に答えるには、「どんなにむごいモビルスーツの害も、強制移民法を楯に過酷な税と暴力がまかり通る都市の暮らしよりもましだ」とのことで、これは中世以前の、あまりに無法にすぎる酷い現状である。
救世軍の人々がガンタンクを押し立てて進んでいくと、やがて例の谷間に差し掛かるところで、案の定、ジオンのモビルスーツが姿を現し、まさかりを掲げて走ってくるのが見えた。こちらは用意万端、一斉射を見舞えば、たちまち巻き上がる土砂と爆風の中にモビルスーツは見えなくなった。塵煙が収まって確かめると、あとに、全身が毛皮に覆われた体長二メートルあまりの類人猿の死骸が見つかった。怪物は牙をむき出し、凄まじい形相で死んでいた。
野生動物とモビルスーツとは往々にして誤認されるものである。ジオン軍の地球侵攻以来、数十年にわたって、地球に怪モビルスーツ出没の噂が広まる一方、野生のゴリラやウェンディゴが目撃されたとき、それらがモビルスーツと誤認されていた可能性がある。(宇宙世紀〇〇九〇年頃)
戦争当時のガンダム恐怖、アムロ伝説については、『ハイ・ストリーマー』にも
アムロが乗ったモビルスーツが接近しただけで、ジオング以下十数機のジオン軍のモビルスーツが撃破された
などがある。
ジオン戦争のとき、宇宙要塞を守備するモビルスーツが埠頭から遠くを見やると、宇宙空間を白いガンダムが疾走してくるのが目視できた。ガンダムはぐんぐん迫ってきて、あわやという頃になったので、要塞のモビルスーツが皆集まって来、未完成のジオングまでも準備して、もはや白兵戦は避けられず、かくなる上は見事に立ち向かって死のうと話し合っているところに、間近にガンダムが漂ってくるのを見れば、それは地球連邦軍の白いノーマルスーツで、宇宙服の中身はミイラ化した死体であった。
宇宙空間で人間とモビルスーツを誤認する例はこの頃多かった。ガンダムへの恐怖のあまり、要塞の数十人のモビルスーツが同時にガンダムを妄想した戦場心理はありうることだ。要塞が陥落するまでの数十日は毎日がこんな有り様だった。 (宇宙世紀〇〇八〇年代)
『さいはての島へ』読了。次は、『世界の合言葉は森』
世界の(略)、小尾芙佐・小池美佐子訳を読む。わたしは前回もこの訳の本文より、とにかく「訳題が気に入らない」ということは憶えていて、それしか今に憶えていない。サガフロ2のゲーム中に引用されていたとか、そういうことは知っているがわたしには関係ない。
さいはての島へ(清水真砂子訳)読了。次は、『世界の合言葉は森』
受信能力、と書いても受動的な意味にはなるのでここらの書き方は今でも難しいな。そこにあるものを認める能動的な能力がある、というほうだ。
リバイバル後のブレンまたはグランチャーの、瞳を見たらもう放っておけない、というのはやっぱり、生まれたてのアンチボディが「一人では生きていけないから」という求愛信号を発しているんだろう。その信号が、電波とか精神波のように発信してはいなくても、そんな目でみる生き物がいたらシグナルとして受け取ってしまう「受信能」を持った人間の方が、人類の何パーセントかに元々いるんだと思う。
オルファンがいつから地球にいるのかは書いてあったかな、今は忘れた。
本放送でなくレンタルビデオで追っていたら何か月後という時間差は今よくわからないが、OSTの方が先になっていただろうし、「菅野よう子が勿体ない」という正直な感想だったと思う。ガンダムの富野監督だから興味、という見られ方は、V以降富野監督の名前にそんなイメージ消えているし、「復帰作」のようには見てない。アニメに詳しくてもWOWOWがOVA感覚だったら『ガーゼィ』の二の舞みたいに見えたと。
当時頃のTVアニメ全般が相当ひどい荒廃に見えてて、……という時代環境のことは、ここにくどく書くと富野通読と離れるので省くほうがいいみたいだ。
そもそも放送当時に『ブレンパワード』にそんなに注目や反響なんてなかったと思う。アニメ見るためにWOWOW加入する人はいたかもしれないが、いたらがっかりしただろう。誤解されてる以前にアニメ誌の記者のような人以外に一般視聴者にはほとんど関心をもたれなかったはずで、その方がウソつけという感じでもある。
第一章まで。今夜これだけ。
それにしても、比瑪ちゃん気持ち悪くないのかな……。『不思議に怖いという感情はまったくなかった』。子ども達はそれなりにびくびくしているので、アンチボディに適合するヒトはあらかじめそんな恐怖や嫌悪を感じないか、感じさせないかするんだろう。
「感じさせない」というと洗脳みたいでまた不気味な言い方だが、雛鳥の口を開けているのを見ると親鳥が無性に餌をやりたくなるとか、動物の仔をみれば異種でも「可愛い」と感じるような愛情の提示をしているのかもしれん。提示というのはアフォード、みたいな意味をいった。
さっき書いたようにわたしはこのたびの通読は小説家・富野由悠季の文章・文体に主たる関心があってしている。それは「富野節」とネットで言われるような、エキセントリックな意味にかぎらず、たとえば事件がまず起こって説明は前倒して進んでいくみたいな、筆法なども。だので、「アニメの設定資料」としてはさほど興味ない。
ブレンパワードの体内って、グランチャーもだろうが、生暖かくて、空気にはある種のにおいがある。不快な臭いではないらしい。アニメでは臭いの表現までしないからな。
もっとダークなストーリーだったら、「不快な臭いはするけど仕方なく乗っている」ということはあると思う、血の臭いがするとか、汚物や腐敗臭そのものがするとか。オーガニック・マシンのアンチボディはまず、清潔なんだ。
ブレンパワードでは、 エモーショナルなものを志向したのだが、 その呼称ゆえに誤解を孕んでしまった。 が、事象というものは、しばしばこのように 現れるという暗喩ではある。
『ブレンパワード』というタイトルが、頭脳をパワーアップするようなサイバーものだろうと思って皆が注目したが、そんなつもりは全然なかったという意味だ。ウソをつけ……としか思われない笑止な御文だが、小説版の序としてやはり掲げてある。
『密会』読了。ブレンパワード。
今は小説ブレンを読む。これはほとんどアニメに沿っているのでアニメを観返せばいいようなものだが、一応進捗のみ。富野文でもないのだけど、小説通読して作品間の話題があるかもしれない。今度アニメを観返したらそのときにトピックを再利用するだろうか。
あとがきまで、読了。短いからすぐ。面白かった。 次はやはり、『ブレンパワード』も今いこうか。あまり読み返したいと思わなかった。『リーンの翼』は新旧対読する準備をしている。
『Gのレコンギスタ』のG-セルフが最終的に脚を折られて擱座するのも象徴的ではあるね…。わたしは、あれはとにかく見て痛そうなので嫌。片腕がちぎれるくらいは最終話の味つけでどんなアニメでもやる。頭がもげてもガンダムは平気だ、バラバラになったり黒焦げになったりするが、「脚が折れてはもう立てない」というのは痛みとして説得力がある。
アムロの機体は、頭部を破壊された。が、アムロにとっては、ただのカメラをやられただけだ。
アムロはロマンの話がわからない子だ。このへんは変わらない。
終章冒頭に、怪モビルスーツ・ジオングの「足がないこと」についてシャアの所感がある。シャアがなぜジオングに足がなくて不満を言うかには諸説があって、有名なのはルウム戦役でザクの足で敵艦を蹴って加速する「八艘飛び」をやったからというが、それはそれで突飛な話だと今は思う。突撃して飛ぶからか。
この『密会』独自になるジオングの足論は、有機体が創造した究極の形が人型なので、その至高の形を損なうことには不安がある、不安定である、エゴの突出だのように言う。これも、今ではわりと知られている説だとと思う。ただ、シャアが突然のようにここで神秘めいた観念を持ち出してくるのには多少の不審には思っていい。
ここは「有機体が創造した」というが、「神が創造した至高の形=人体」という考え方の流れは、古い。それは調べればいいとして、富野作品では、具体的に文中に現れるのは『オーラバトラー戦記』にある。そこではオーラバトラーと仏像の比較をして、巨大な人型について思案したことがある。『小説Vガンダム』では、ゴーレム伝説などを連想した。
このたび通読で触れたのは、『アベニールをさがして』の中に、フリーメーソンの教義として、至高存在を幾何学の理想としてG(ジオメトリー)と呼んだという伝統を紹介している。ここではとくに人型メカのテンダーギアのことを言っていないし、アベニールはガンダムシリーズでもないのだけど、究極の理想のデザインのことも「ガンダムとは呼ばなくてもGとは呼びうる」ような神秘的な根拠にはなる。こういう経緯を通して読んでいると、「ガンダムはやめたい」発言などが過去にあってもそれを素朴に受け取っていいのかとは思う。
10。このまえ、「なんで忠誠心の話なのか」と思ったが、いつかまた思うときはここらを思い出すといいかな……。恋人達の愛なども書いてあるが、愛はよく書かれているだろう。
いや、そうでなくて……わたしは、ガンダムとかの界隈を「再履修」したかったのではなくて、富野由悠季の文章、文体を読みたかったんだ。今の関心は基本それ、文のリズムとか語の意味とか。
語の意味というのは、用語のSF的や哲学的解説ではなく、『同じ言葉づかいをしていても前の作品と後の作品とで意味を違えてきている』のような、作家史的な。ガノタはとくに文学的教養に弱いからあえて今から始めても新たに価値がある。
「引用の元ネタを知ってる」という意味でなく、「作家の中でも意味をどういう重層・深化させているか」というはなし。その興味は乏しいとしたら、惜しいだろうといいたい。
まじめにいえば、ガンダムにかぎらず80年代なら前後の星山小説、遠藤小説とか、もちろん安彦小説/漫画などなど、当時の気配は押さえておくべきで、富野作品やエッセイ「だけ」を読んでいるのは何か危ういとは思うけど。手元にあっても数が多いんだって……安彦作品はこの後で追うと思う。
この『密会』のララァはまた、アニメの台詞をなぞっているようにみえるが、たとえば、『そういう言い方、嫌いです』といっても台詞の意図はちょっと違うニュアンスじゃないかのような、解釈が補われている。もとからそうだったとは思わないので、1997年版ララァということになるかな。演出の違いと。
「ソロモンの会戦」まで。
少し前のカシミール効果、のところで、モビルスーツのコックピットは宇宙でハッチを開け放しにしていても気流のバリアーがあってそれだけでは空気は抜けていかない設定は、後から順々に理屈付けが加わっていき、結局のところどういうことなのかは今も作品により、場面によりまちまちなんだろうと思う。
わたしは小説通読で『Zガンダム』の最終巻の、ゼータのフタが開いていてカミーユのバイザーも上がっていると書いてあってもかつ、カミーユが窒息しているような気はなくて読んでいたのを思い出す。 わたしの初読時はいつとは言わないが上の設定などは聞いたこともないはずで、なぜそう感じていたのかは今は自分でもわからない。たぶん、ガンダムの小説版は小説版で、Zの後には『ZZ』(遠藤明範著)をその直接続編と理解していたからだろう。今は、富野著は富野でまとめて他著者と切り離して読んでいるから、遠藤氏の文章がどんなだったかもよく憶えていないんだった。宇宙世紀年表なんかに従うとあれもこれも多すぎるばかりだから、従えない。
「インディアン・サマー」を読む、今4。
9。
8。
ブレンパワード/グランチャーは一人、二人……と「何人」と数えるのが正しい。このノベライズ中には「二機」とある箇所もあって、無理もないが、これは誤り。
人によってこの感じ方は違うはずだと思うが、わたしは「擬人化している」という感じではないと思う。昔、霊長研の人はチンパンジーをやはり「何人」と数えるというのを聞いていて、その感じのほうだと思う。それぞれのパイロットはかなり情緒的にのめり込んでいるけど。
もう一つのオルファン、ビープレート、等言っているのを聞いて「地球だろう」と考えるくらいはSF読者にはごくありふれた発想だ。
一つが浮上しようとしている現在で大騒動になっているのに、実はもう一つ、二つめがあるのかもしれない、それはわからない……それが現実になったときには「三つだと!?」となるのは正しく度肝を抜く。いいこと。
フリュイドスーツにシートベルトは合わなすぎる。ゆったりしているものを、締め付ける感覚はブレンも嫌がりそうだ。そんなものに人を乗せて戦うからじゃないか。
グランチャーは元々、オルファンに対する異物を排除する抗体細胞、戦闘生物として存在しているというのは通説。生殖機能はない。戦闘生物云々もリクレイマーの説だろう。
『ブレンパワード』の作中では、オルファンはいつからかは知れないものの、いつのことか、どこからかこの星(地球)にやってきて、今は海底に眠っているという通説になっていると思う。
先日まで読んでいた『王の心』とこれと、とくに関連づけて読まなくてもいいが、SF的な想像をたくましくすれば、実はこの地球という星も、この太陽系に元からあったのとはかぎらず、宇宙をどこからか旅して現在の場所にたどり着いているのかもしれない。その際、旅する原初の地球だったスペース・アイランドと、オルファンとは、当初からニ者が一体で膠着していたのかもしれない。
現在の太陽系は安住の場所かというと、やはり目指すところはもっと遥か銀河の遠くにあるらしく、オルファンは夢うつつに目覚めて旅立ちたいのだけど、地球の方はまだ眠りこけている、のような空想する。人間のタイムスパンからすると、それが銀河の何処をめざしているが、なぜ翔びたいのかという理由は、想像できない。
アンチボディの乗り手、というか、人間のパートナーのことをここでは普通に「パイロット」と呼んでいる。アニメ本編のほうはもう長らく見ていないので忘れたが、アンチボディと適合することをたしか「アジャストする」と呼ぶ設定になっていると思うけど、このノベライズにはアジャストの称は出てこない。
わたしは人型メカのブレンパワードのデザインは好きで思い出もある……。アンチボディがなぜ人型か、という説明は作中にとくにないと思う。それは本作の場合、「人類がなぜこんな姿形になっているのか」とほとんど同じような問いだ。オルファンは人類発生以前から海底にいるのかもしれない、多分そうだろうし。
ブレンパワード/グランチャーは強い衝撃を受けるとハッチが開いてしまい、パイロットを放り出すことが何度かある。それでいいんだろうか……。最近ジークアクスでも見ていささか不思議な光景にも映っていた。エアバッグの有用さも確認できる。
94まで。第七章「大地、女性、豊饒」おわり。
モビルスーツに魅了された若者
ある若者が地球連邦軍の基地の近くを通りかかると、塀の隙間から偶然に、軍の新型モビルスーツの姿が見えた。モビルスーツの見事な造型は装甲を貫いて輝き出すかに見え、若者は以来、モビルスーツに対して抑えがたい思いを抱くようになった。悶々として夜も眠れぬ日々が何週間も続いたあと、若者はすっかりやつれ果ててしまい、このまま死ぬのならいっそのこと、軍に入隊して、少しでもモビルスーツの近くで死のうと思い、志願の手続に及んだ。前世に奇縁があったのか、若者の少なからずニュータイプ的な素質はニタ研の目に留まり、やがて基地内の研究所で特別な訓練を受ける身分になった。
若者はサイコミュを使った機械操作に抜群の成績を挙げた。胸の裡なる思いはひた隠しにして訓練に励んでいたが、ついに念願の新型モビルスーツの実機試験におけるパイロット候補になると、もはや情念は留めようがないほどに高まった。その夜、若者は格納庫に忍び込むと、静かに待機しているモビルスーツの膝元に近づき、夢に見たあの美しい機体をひとしきり存分に堪能した。そして、コックピットに這い入っていった。翌朝には、新型モビルスーツが格納庫内で無惨なまでに穢されているのが知られることとなったが、パイロット候補の若者の姿は、どこにもなく、コックピットにはただ得体のしれない白いどろどろの粘性体がわだかまっているのが発見されたばかりだった。(宇宙世紀〇〇九〇年頃)
「救世軍」とは説話に登場する地球上を遍歴する騎士のような武装集団をいう。ジオン軍残党を救世軍として語ることもある。
野獣とモビルスーツを誤認
ジオン戦争以後の地球では、多くの武装勢力が割拠して暴虐であった。救世軍の一団がメコン川のほとりに至ると、密林の迫る狭い土地に隠れるように作られた小さな集落では葬儀が行われていて、荼毘の煙が上がり、村人達の泣き声が聞こえてきた。集落に近い谷には、ジオン軍の残党のモビルスーツが住むという噂があった。夜ごとにモビルスーツは村にやってきては、若者をさらい、無惨に食い殺していく。救世軍の人々が、どうしてそんな恐ろしい土地に住み続けているのかと訊ねると、村人の口々に答えるには、「どんなにむごいモビルスーツの害も、強制移民法を楯に過酷な税と暴力がまかり通る都市の暮らしよりもましだ」とのことで、これは中世以前の、あまりに無法にすぎる酷い現状である。
救世軍の人々がガンタンクを押し立てて進んでいくと、やがて例の谷間に差し掛かるところで、案の定、ジオンのモビルスーツが姿を現し、まさかりを掲げて走ってくるのが見えた。こちらは用意万端、一斉射を見舞えば、たちまち巻き上がる土砂と爆風の中にモビルスーツは見えなくなった。塵煙が収まって確かめると、あとに、全身が毛皮に覆われた体長二メートルあまりの類人猿の死骸が見つかった。怪物は牙をむき出し、凄まじい形相で死んでいた。
野生動物とモビルスーツとは往々にして誤認されるものである。ジオン軍の地球侵攻以来、数十年にわたって、地球に怪モビルスーツ出没の噂が広まる一方、野生のゴリラやウェンディゴが目撃されたとき、それらがモビルスーツと誤認されていた可能性がある。(宇宙世紀〇〇九〇年頃)
戦争当時のガンダム恐怖、アムロ伝説については、『ハイ・ストリーマー』にも
などがある。
人間とモビルスーツを誤認
ジオン戦争のとき、宇宙要塞を守備するモビルスーツが埠頭から遠くを見やると、宇宙空間を白いガンダムが疾走してくるのが目視できた。ガンダムはぐんぐん迫ってきて、あわやという頃になったので、要塞のモビルスーツが皆集まって来、未完成のジオングまでも準備して、もはや白兵戦は避けられず、かくなる上は見事に立ち向かって死のうと話し合っているところに、間近にガンダムが漂ってくるのを見れば、それは地球連邦軍の白いノーマルスーツで、宇宙服の中身はミイラ化した死体であった。
宇宙空間で人間とモビルスーツを誤認する例はこの頃多かった。ガンダムへの恐怖のあまり、要塞の数十人のモビルスーツが同時にガンダムを妄想した戦場心理はありうることだ。要塞が陥落するまでの数十日は毎日がこんな有り様だった。
(宇宙世紀〇〇八〇年代)
『さいはての島へ』読了。次は、『世界の合言葉は森』
世界の(略)、小尾芙佐・小池美佐子訳を読む。わたしは前回もこの訳の本文より、とにかく「訳題が気に入らない」ということは憶えていて、それしか今に憶えていない。サガフロ2のゲーム中に引用されていたとか、そういうことは知っているがわたしには関係ない。
さいはての島へ(清水真砂子訳)読了。次は、『世界の合言葉は森』
受信能力、と書いても受動的な意味にはなるのでここらの書き方は今でも難しいな。そこにあるものを認める能動的な能力がある、というほうだ。
リバイバル後のブレンまたはグランチャーの、瞳を見たらもう放っておけない、というのはやっぱり、生まれたてのアンチボディが「一人では生きていけないから」という求愛信号を発しているんだろう。その信号が、電波とか精神波のように発信してはいなくても、そんな目でみる生き物がいたらシグナルとして受け取ってしまう「受信能」を持った人間の方が、人類の何パーセントかに元々いるんだと思う。
オルファンがいつから地球にいるのかは書いてあったかな、今は忘れた。
本放送でなくレンタルビデオで追っていたら何か月後という時間差は今よくわからないが、OSTの方が先になっていただろうし、「菅野よう子が勿体ない」という正直な感想だったと思う。ガンダムの富野監督だから興味、という見られ方は、V以降富野監督の名前にそんなイメージ消えているし、「復帰作」のようには見てない。アニメに詳しくてもWOWOWがOVA感覚だったら『ガーゼィ』の二の舞みたいに見えたと。
当時頃のTVアニメ全般が相当ひどい荒廃に見えてて、……という時代環境のことは、ここにくどく書くと富野通読と離れるので省くほうがいいみたいだ。
そもそも放送当時に『ブレンパワード』にそんなに注目や反響なんてなかったと思う。アニメ見るためにWOWOW加入する人はいたかもしれないが、いたらがっかりしただろう。誤解されてる以前にアニメ誌の記者のような人以外に一般視聴者にはほとんど関心をもたれなかったはずで、その方がウソつけという感じでもある。
第一章まで。今夜これだけ。
それにしても、比瑪ちゃん気持ち悪くないのかな……。『不思議に怖いという感情はまったくなかった』。子ども達はそれなりにびくびくしているので、アンチボディに適合するヒトはあらかじめそんな恐怖や嫌悪を感じないか、感じさせないかするんだろう。
「感じさせない」というと洗脳みたいでまた不気味な言い方だが、雛鳥の口を開けているのを見ると親鳥が無性に餌をやりたくなるとか、動物の仔をみれば異種でも「可愛い」と感じるような愛情の提示をしているのかもしれん。提示というのはアフォード、みたいな意味をいった。
さっき書いたようにわたしはこのたびの通読は小説家・富野由悠季の文章・文体に主たる関心があってしている。それは「富野節」とネットで言われるような、エキセントリックな意味にかぎらず、たとえば事件がまず起こって説明は前倒して進んでいくみたいな、筆法なども。だので、「アニメの設定資料」としてはさほど興味ない。
ブレンパワードの体内って、グランチャーもだろうが、生暖かくて、空気にはある種のにおいがある。不快な臭いではないらしい。アニメでは臭いの表現までしないからな。
もっとダークなストーリーだったら、「不快な臭いはするけど仕方なく乗っている」ということはあると思う、血の臭いがするとか、汚物や腐敗臭そのものがするとか。オーガニック・マシンのアンチボディはまず、清潔なんだ。
『ブレンパワード』というタイトルが、頭脳をパワーアップするようなサイバーものだろうと思って皆が注目したが、そんなつもりは全然なかったという意味だ。ウソをつけ……としか思われない笑止な御文だが、小説版の序としてやはり掲げてある。
『密会』読了。ブレンパワード。
今は小説ブレンを読む。これはほとんどアニメに沿っているのでアニメを観返せばいいようなものだが、一応進捗のみ。富野文でもないのだけど、小説通読して作品間の話題があるかもしれない。今度アニメを観返したらそのときにトピックを再利用するだろうか。
あとがきまで、読了。短いからすぐ。面白かった。
次はやはり、『ブレンパワード』も今いこうか。あまり読み返したいと思わなかった。『リーンの翼』は新旧対読する準備をしている。
『Gのレコンギスタ』のG-セルフが最終的に脚を折られて擱座するのも象徴的ではあるね…。わたしは、あれはとにかく見て痛そうなので嫌。片腕がちぎれるくらいは最終話の味つけでどんなアニメでもやる。頭がもげてもガンダムは平気だ、バラバラになったり黒焦げになったりするが、「脚が折れてはもう立てない」というのは痛みとして説得力がある。
アムロはロマンの話がわからない子だ。このへんは変わらない。
ジオングの足
終章冒頭に、怪モビルスーツ・ジオングの「足がないこと」についてシャアの所感がある。シャアがなぜジオングに足がなくて不満を言うかには諸説があって、有名なのはルウム戦役でザクの足で敵艦を蹴って加速する「八艘飛び」をやったからというが、それはそれで突飛な話だと今は思う。突撃して飛ぶからか。
この『密会』独自になるジオングの足論は、有機体が創造した究極の形が人型なので、その至高の形を損なうことには不安がある、不安定である、エゴの突出だのように言う。これも、今ではわりと知られている説だとと思う。ただ、シャアが突然のようにここで神秘めいた観念を持ち出してくるのには多少の不審には思っていい。
至高の人型
ここは「有機体が創造した」というが、「神が創造した至高の形=人体」という考え方の流れは、古い。それは調べればいいとして、富野作品では、具体的に文中に現れるのは『オーラバトラー戦記』にある。そこではオーラバトラーと仏像の比較をして、巨大な人型について思案したことがある。『小説Vガンダム』では、ゴーレム伝説などを連想した。
このたび通読で触れたのは、『アベニールをさがして』の中に、フリーメーソンの教義として、至高存在を幾何学の理想としてG(ジオメトリー)と呼んだという伝統を紹介している。ここではとくに人型メカのテンダーギアのことを言っていないし、アベニールはガンダムシリーズでもないのだけど、究極の理想のデザインのことも「ガンダムとは呼ばなくてもGとは呼びうる」ような神秘的な根拠にはなる。こういう経緯を通して読んでいると、「ガンダムはやめたい」発言などが過去にあってもそれを素朴に受け取っていいのかとは思う。
10。このまえ、「なんで忠誠心の話なのか」と思ったが、いつかまた思うときはここらを思い出すといいかな……。恋人達の愛なども書いてあるが、愛はよく書かれているだろう。
いや、そうでなくて……わたしは、ガンダムとかの界隈を「再履修」したかったのではなくて、富野由悠季の文章、文体を読みたかったんだ。今の関心は基本それ、文のリズムとか語の意味とか。
語の意味というのは、用語のSF的や哲学的解説ではなく、『同じ言葉づかいをしていても前の作品と後の作品とで意味を違えてきている』のような、作家史的な。ガノタはとくに文学的教養に弱いからあえて今から始めても新たに価値がある。
「引用の元ネタを知ってる」という意味でなく、「作家の中でも意味をどういう重層・深化させているか」というはなし。その興味は乏しいとしたら、惜しいだろうといいたい。
まじめにいえば、ガンダムにかぎらず80年代なら前後の星山小説、遠藤小説とか、もちろん安彦小説/漫画などなど、当時の気配は押さえておくべきで、富野作品やエッセイ「だけ」を読んでいるのは何か危ういとは思うけど。手元にあっても数が多いんだって……安彦作品はこの後で追うと思う。
この『密会』のララァはまた、アニメの台詞をなぞっているようにみえるが、たとえば、『そういう言い方、嫌いです』といっても台詞の意図はちょっと違うニュアンスじゃないかのような、解釈が補われている。もとからそうだったとは思わないので、1997年版ララァということになるかな。演出の違いと。
「ソロモンの会戦」まで。
少し前のカシミール効果、のところで、モビルスーツのコックピットは宇宙でハッチを開け放しにしていても気流のバリアーがあってそれだけでは空気は抜けていかない設定は、後から順々に理屈付けが加わっていき、結局のところどういうことなのかは今も作品により、場面によりまちまちなんだろうと思う。
わたしは小説通読で『Zガンダム』の最終巻の、ゼータのフタが開いていてカミーユのバイザーも上がっていると書いてあってもかつ、カミーユが窒息しているような気はなくて読んでいたのを思い出す。
わたしの初読時はいつとは言わないが上の設定などは聞いたこともないはずで、なぜそう感じていたのかは今は自分でもわからない。たぶん、ガンダムの小説版は小説版で、Zの後には『ZZ』(遠藤明範著)をその直接続編と理解していたからだろう。今は、富野著は富野でまとめて他著者と切り離して読んでいるから、遠藤氏の文章がどんなだったかもよく憶えていないんだった。宇宙世紀年表なんかに従うとあれもこれも多すぎるばかりだから、従えない。
「インディアン・サマー」を読む、今4。
9。
この「うつる」は、映る・移る(雲が)と、水たまりが蒸発するの含みが念頭にあるが、三つは載っていないか…。
8。