最新トピック
16
1 日前
Electric Forest 1 日前
66
2 日前
神林長平 周回 2 日前
9
23 日前
五代ゆう ノート 23 日前
51
24 日前
リー作品の受容と連想 24 日前
116
27 日前
作歌作業所 27 日前
120
1 ヶ月前
野阿梓 通読 1 ヶ月前
テロリストのロマン
テロ組織のマフティーはテロリストにしてはひどくロマンチックな(甘ったるい)メンタルの集団である。マフティーに拾われた後にギギが抱くだろう感想「マフティーのみんなは優しい(優しすぎる)」というのは、あながち理由のないことでもない。ロマンチストが集まっているが自堕落でもない。
マフティーの組織内の規律と士気は異様に高い。中で不和を起こしたり乱れたりはしない。志操堅固で、メンバーになりうる人を精選しまくっているので、かえって単純に人手不足に悩むこともしばしば。マフティーに傭兵はいない。
精鋭のみを集めて、思想的には理想的な集団だが、行動を起こせば人員の換えが利かないのが分かりきっているので、組織として長続きはするわけがない。そのことは彼ら自身がよくよくわかっている。
極めて知的で自制の利いた人間達が揃っている。人当たりは穏当で礼儀正しい。ハーラみたいな跳ね返りでさえ不規律は嫌う。一方、優しいといってもその場の他人に優しいだけで、殺人者であることは厭わない。作戦の巻き添えに無関係な人々が死ぬことも最低限やむないとするし、自分自身についても、作戦を敢行した後に生き延びることも諦めている節がある。
宇宙世紀のシャア反乱以後のパイロット達の行く末をシミュレーションしたらそうなったのかもしれない。もはやシャアが居ないこの時代に、人として考える頭と行動する能力があってしまったらできることは何なのか、腐った政府の下で軍に奉仕しても腐敗を助長するだけだと分かってしまった後で、鬱積した自分のやるせなさをぶつけられる何の仕事があるのかと考えた末に末路的にマフティー活動に身を投じた……能力と意識は高いが、生きて先にする目的がない。
この世で純粋に清廉潔白な行為を探したら高すぎるハードルの決死的挑戦しかなかった。まず生きて帰ることは考えられない。そこに報酬なんかないんだが、せめて任務に情熱をもって打ち込めるだけのスリルを求めてやっているのかもしれない。そこまでは創作として分かるだろう。
雷鳴!いきなりの爆発音でこの曲は始まる。
閃光のハサウェイの話をしていて「王」とはなにか。このあと95年の富野小説『王の心』になら合いそうなタイトルだけど、今はハサウェイ……。ハサウェイで王と言えば、マフティー・ナビーユ・エリン「正当なる預言者の王」というネームがある。もっとも、それはでっち上げの合成語で、作中世界の誰もそこに正当性とか宗教的な意味を認めているはずがない。信じてはいけない。
ウソの名前を名乗ってしているのがテロで、まるで
俺達は間違っている、正しくないことは承知でやってる
と言わんばかりの胡散臭さを公然と表明している。ハサウェイはそのグループの象徴的リーダーだが、この「王」は神話的なストーリーの中では、自ら死ぬことで世界を再生させるか、次代の王にその地位を引き継ぐだろうということが暗に語られている。それあっての正当なる・預言者の王。ここまでは常識的に了解事として良いと思う。
「王の死」はロマン主義者には絶対的な主題だが、映画ハサウェイがそこまで行き尽くすかは第三部のマランビジーまで観てみるまで、まだまだわからないところ。虚構の王がその死によって本物の神話になってしまうのか、映画閃ハサはそこまで行けるか?
王の挽歌
チェロ協奏曲「王の挽歌」(1993) 三枝成彰、を今の時間続けて聴こう。二楽章で34分くらい。
チェロ独奏:藤原真理 大友直人指揮 東京シティフィルハーモニック管弦楽団
1994年のアルバム「コンチェルトの夜」から、同年3月のコンサートのライブアルバム。
先日来わたしのコンチェルト気分の続き。数日の間に三木稔「源氏音楽物語」も入っていた。「王の挽歌」は遠藤周作の同名小説に想を得て書かれた曲で、この「王」は大友宗麟のことと書いてあるけど、それは置いておいて自主的にガンダム関係と表題からの連想を貰って聴く。
「グラディウスⅤ」オリジナル・サウンドトラック(2004) 崎元仁 を聴く。シューティングゲームのサントラ。上の、サウンド的なものの連想から。
アリュゼウス君で抵抗するレーン君を執拗にエイムエイムする気分になるかと思って……情緒とかないんだが。でも、ミノフスキークラフトでスィーと移動するクスィーガンダムは横シュー向きな気もする。
キルケーの魔女 サウンドトラック
「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女 オリジナル・サウンドトラック」澤野弘之、を聴く。
音楽続き、前回は三枝音楽のなごり。
ファーストインプレッション。公式サイトに「交響組曲形式」とあったので別のものをイメージしていたが、一曲目の初っ端に「ん?」と思っただけで事情はすぐにわかった。SYMPHONICとは書いていない。この[THE SORCERY OF NYMPH CIRCE] SUITEは、映画第一部とOST1をこの何年か周回もしていたから作品のメインになる諸々のテーマはあらかじめ十分承知の上、新たに第二部「キルケ―の魔女」へのモチベーションになる。
――といえばそうだが、初日、劇場で観ている間はメロディは聴き取るものの、どんなアレンジなのかまで聴ききれなかった。映画館には音響と音楽を聴きに行ってる面がわたしは結構あるのにね……。画面を追うのに忙しかったとは言う。あらためて音楽として聴いてみると「こんな音が鳴っていたのか」と端々に面白さがあるのと、後はひとえに「こんな暴力的なサウンドだったか?」と驚くほど激しい。映画第二部は、ストーリーはそれほど静謐な印象でもなかったと思うが。
次は、早くも第三部の音楽がどうなってくるのか楽しみ。もうどうなっても構わないと思うけどな。型は「組曲」だが、これをまた澤野さんのライブイベントでこの通り演奏するような機会があるのかは、今後知らない。SUITEに続く残りの曲は、映画の各シーンから叙景。意外にエスニックな音を感じたりするけど、もしかしたら第三部に続く「マランビジー」のようなテーマにはそういうサウンドを入れてくるのかもしれない。
これが事実だ・実証済みだとは言っていない。範型としてこのような一覧を提供でき、それは今後の論の展開に有用な概観を与えてくれるだろう、と言ってる。「概論」という本の役目はそれだともいう。
しかしこれは、大学生くらい……二十歳かそこそこの初学者にその意味合いを噛み分けてくれというのは、難しいと思う。年数を空けて再読するのがよい。
アグテックのタブー(科学技術を今ある以上に発展させてはならない)は、Gレコの当時の地球人の一部(アメリア人)には笑うべきナンセンスに思えている。
『自由に任せればいいじゃない、自由に任せるべき、自由に任せなければならないじゃない?』
これに説くためにはどんな語り方をしたらいいだろうか。歴史上、旧時代の人類はそのせいで全滅寸前まで行きましたよと説くことでは伝わらなかった。
信じられないことだが、モビルスーツに乗るのにノーマルスーツ(宇宙服)を着ない人々がいる。その人に「着てください」と頼んでも、はたして素直に聞くだろうか。「命にかかわるから」と言っても?
訓練されたスペースノイドにとって、宇宙空間にノーマルスーツも着ずに普段着で飛び出すことは、裸でいるより恥ずかしい。それを踏まえたうえで、宇宙空間に裸で飛んでいるものは言語を絶する不思議、素晴らしさだ。
哲学・宗教の語り
ファンタジーやSFというのはごく近代の文芸だが、遡れば古代から人は、「どうすれば他人の心を侵さずに大切なことを伝えられるか」に悩んできた。プラトンの対話篇では生徒が自発的に真理に達する自己発見の過程を誇り、後の諸学、中世の宗教も大体はそこに帰ろうとしてきた、とする。
富野通読で架空世界の宗教を考えようとするのは、読者的には、コスモ・クルスやVガンダムのマリア教の教えにはあまり身に迫ったものはない。「地に足をつけて生きよう」みたいな上っ面なメッセージに、他人に与える説得力なんかあったことはなかった。地球を守れと他人に教えるよりは、地球を潰したほうがましだ。
『アベニールをさがして』では、より読者自身の意識に即した実存問題に接近するかもしれない……でもアベニールはわかりにくい小説で、その作中からは、少なくとも宗教的な何かは汲み取れないだろう。
『∀ガンダム』と黒歴史の語りは文量が多く、まだまだ解明されてなさそうなことがわかっている。さらに15年後『Gレコ』まで下るとすでにそこまでのコンテクストがたくさん揃っていて端々の連想が捗る。
宇宙の端(太陽系辺境)に生きる――スコード教
スコード教に連想するわたしの雑想メモ。キーワードは、『笑いを禁忌とする』。
とりとめなく目次を集めてみると、
これが宇宙の宗教の実践教範だとすると、この実践者はまるで傷つきやすい心の小鳩のような人であり、すごくシャイで控えめな少女のように振る舞うことであり、ふてぶてしく喋るハゲのように言ってはならない。
――これらのことを「良し」とする。
小説の最後の一文で読者を「エッ?」と思わせてそのまま脱走する、完結してしまえば、後は残された読者がそれぞれに思い悩めばいい。小説ではそれで勝ちなんだ。
閃光のハサウェイから。
人に「信じろ」と言って信じさせることなら、それは相手を洗脳・支配することになる。信じてほしくても「信じて」と言ってはいけない。ではどうして伝えるか……は、テレパシーの考察だったり、フェミニズムに接していったりもする。
ファンタジー作品には「モラルをどうやって語るか」は今も昔も重要問題だ。一方で80-90年代頃の和製ファンタジーの流行頃には、手本になる海外古典のこうした心理面はあまり顧みられず、翻訳にも脱色された文章になっていることは段々わかってきた。日本人作家や読者も文芸作品にモラル面は求めずに形を学ばれたようだった。出版業の商業的な理由はあっただろう。
それは音楽の用語でいえばパンク化の傾向で、日本にかぎらず当時的には世界でもおなじのよう。
富野作品に戻ってその表現については、ベルトーチカ・チルドレンから「ナイチンゲールのさえずり」を挙げて興味を深めていた。オスカー・ワイルドの連想がわたしにある。このたびの通読のあらすじはそれくらい。
この数年通読を続けているタニス・リーもしばしば引っかかる話題なので気づいてはいる。それはリー通読のトピックで。リーの場合、言葉はfaithとかで、文芸上のマジックと同時に実践魔術を志向する。
先日ちょうど、リーのトリビュート作品集の中にそれに近いものがあって思い出していた。このときは文中、probabilityでなくpossibility
ファンタジーの語り
もともと富野由悠季独自のテーマというわけではなく、ファンタジー文学と一部SFの、伝統的に重要な一ジャンルである。わたしの関心だと日本の古典文学、和歌の歌論の中にもいえる。それは追って含めて行こう。
最近の読書では主に海外ファンタジーから。わたしはロード・ダンセイニの作品(とくに後期作品)の中にこの追究があることから前々から関心があった。有名作家ではすぐに思い当たるのはル・グイン。その影響下を想像するだけでも厖大な裾野がある。
なお重要話題ではあり、長くなってきたので以後個別で続けよう。
富野通読でもこの話題が積んできて、重要でもあるため個別のトピックとして分ける。以後引用する際はこちらを言及する。
前回までのハブ
富野アニメの蓋然論
§2 「なぜ人を殺してはいけないか」~「母系社会」までは、この通読ではトミノ流の蓋然的な言い方の真骨頂ともいえる。富野エッセイだから独擅場で許される。学者がこれをしたら許されない。エリアーデやフレイザーでも両手を振って止めるだろう。
わたしは好感と嫌悪感をこもごもに読み、どういう気持ちかというと、もしも、全面的にトミノが好きだったらあえてトミノを信じる必要ないだろう。「嘘つきだ」と思えばそれまでだ。トミノさんにとっても「そう信じたい」と言っているだけの、これは願望かもしれない。だから読者も、信じるかどうか考えるんだ。それは、トミノは真摯だからじゃない。
「それは独善 ではないか」と思われるのは承知で言うのだが――
というと、話者は独善的ではありませんよという表示をしながらそれについて語ることができる。
独善
この「蓋然的な言い方」の反対が、富野文だと「独善」(エゴ)が使われる。
これから正しいことを言いますと言うこと。反感を買うことは知りません。
最近、英語の小説中で女性の人物もsheと呼ばずにthey(単数)で呼ぶときの特有の事情について考えていたけど、モビルスーツのペーネロペーも翻訳するときにsheと呼んだりしていれば若干ニュアンスは乗るか……。
わたしはアニメの吹き替え事情、モビルスーツを何と呼んでいるかなどはまた全く知らない。
語感の問題だと、89年頃にロボット作品のライバルメカの名前に「パピプペポ」なんて違和感が大きく、とても格好良く強ようにも思えなかっただろうから、当時、アニメ前提でない小説ならではだったんだろう。ペーペーという音の響きの面白さからストーリーが発しているのかもしれないな。先に古典作品の出典ありきだとは思えない。
そういえば、わたしはギリシア悲劇古典の前回最後がソフォクレスの『ピロクテテス』で、この作中でオデュッセウスは悪役だ。善とか悪であまり割り切れない作品だが……。わたしの興味がホメロスではなくて、一連のオレステイアまで一度読み返してリヒャルト・シュトラウスを聴こうという目論見だったのが、また長らく吹っ飛んでしまっていた。古典戻らねば。
女おとこのレーン
ペーネロペーのパイロットのレーン・エイムは、きっとそんな含んだ意味合いはわかってなく、自分の愛機が「女の名前」だというこだわりもなくてメカ操縦に専心しているつもりなのだろうけど、傍から見るとケネスの稚児、愛童という目線で見えなくもないのでやっぱり未熟な若者だ。
『閃光のハサウェイ』の作中にケネスとレーンの怪しい関係はない。ところで、『ガイア・ギア』のウル・ウリアンはレーンと共通点を幾つか挙げられるキャラクターで、ウルとレーンが文中で同じ表現を使って描かれたりすることがある。ウルの上官であるダーゴル大佐はウルに湿度のある目を向けていて、ケネスの態度によってはレーンが同じような危機感を覚えはじめる展開は、考えられなくもなかった。
そこまで行かないぶんレーンのキャラは掘り下げずにあっさりして終わる、ともいうか。上官と部下の嗜虐/被虐(SM)の関係はその後、タシロとファラにつづく。
パイロット出身で今は新型モビルスーツ開発に携わっているケネスは、新型モビルスーツのことを『俺の女』という含みでペーネロペーの名前つけたんだろうな、という気分が想像される。それはケネスの結婚歴にバツが付いているから、(独身漂流中)という若干自嘲的なフシもあるのかもしれない。
新部隊をキルケーと名付けたときも、やはりキルケーはオデュセウスの愛人であって、ケネスにとって『オデュセウス=俺』意識なのは、ギギが俺と寝てくれれば真実キルケー部隊になる、という台詞に残ってる。にもかかわらず、同部隊内にケネス以外にオデュセウスが別にいては台無しじゃないのか。その下世話な趣味はわかられなくてガンダム付けたらしいのか……。
俺オデュッセウス
「オラシオンガンダム」はひどいが、オデュッセウスガンダム、よりはだいぶマシかな。そのことわたしはずっと悶々と抱えて不満だったのだけど、今更もう言ってもしようのないこと。
というのは、作中の世界でモビルスーツのペーネロペーを誰が命名したのかは明言されてはいないが、話をみているとどうやらケネスらしく、ケネスがなんでペーネロペーと名付けたかについても書かれてはいないが、小説の読者にはなんとなく想像つく。
映画では第一作ですでにあった、「キルケー部隊」のネーミングの際にやはりオデュッセイアを引用する。それは、ペーネロペーという名前をすでに部隊で使っているからそれに因んでいこうというつもりは見せているけど、こんな時代にメカにホメロスから名を採るなんて、まずそんなに格好いいことではないと思う。神話だ神秘的だや、ましてインテリというイメージはなく、むしろケネスは悪趣味、低俗、馬鹿なやつですという作者の語りが入っているようにわたしには思える。
オデュッセウスガンダムが結局なんで公式設定になったかは承知しているが、映画ではっきりとオデュッセウスと言われるなら嫌。それはこのさき、第三部。アニメはアニメだと思って楽しみにはしているので、わたしはべつにそんな端々の設定に強硬に異議も訴えてない。
から。一連の周回の続き。
「閃光のハサウェイ」に戻って、澤野弘之作曲のOSTの印象は前回これ。もちろん、先週の映画館の行き帰りにも聴いてた。
富野小説を読む折に、小説を読んだらそれにちなんだサウンドトラック盤、交響組曲、直接関係ないが連想を喚起するアルバム等を選んで聴くのを儀式にしている。閃光のハサウェイOST2は「交響組曲形式」ときいているので今週たのしみだ。
「閃光のハサウェイ」オリジナル・サウンドトラックを聴く。イヤホン、街歩きの行き来中。
この折に「F91」の交響詩アルバムを聴こうと思ったのだけど、そういえばハサウェイ読んだの忘れていたからハサウェイに変えた。映画一部のあと何度も聴いてる。わたしは澤野弘之作品は手元にそんなに持ってないし聴いていない。きらいなのではなくて、音楽はどっちかというと好きなタイプだけどその頃わたしが映画やアニメ見ないとか、劇伴蒐めなくなった時期だったりした、間のせい。
これのトラック7あたりを聴くたび00年代頃のESTなどを連想する。わたしはよく憶えていないし、それは時代的な印象で直接関係ないやつだろう。澤野さんは自分の影響元なんかは公言していると思う。ハサウェイにもどって、今あえてヴォーカルの「Möbius」「Tracer」は良いなと思ってみて、たとえば「ガイア・ギア」のドラマテーマ曲「Voice of Gaia」などは92年当時でも古い…という印象だったろう。2020年代にTracer聴いて「新しい!」とは感じないと思うが、もし1990年にこれを映画でやっていたらやはりびっくりだ。平成初期のTVアニメのオープニングにMöbiusを空想してみるのも、なかなか。
「EST」というのはエスビョルン・スヴェンソン・トリオ。わたしがファンで好きだから。わたしは必ずしも00年代、10年代の音楽シーン全般には詳しくない。
オラシオンガンダム
三枝成彰の音楽話題。いま、
菅野由弘音楽のリスニングの続き、宮本輝原作小説のラジオドラマ「優駿」(1987)から、三枝音楽の方に逸れて続き。三枝劇伴の好盤のうちでも「交響曲 動乱」やこの「優駿」などは、動乱ガンダム・優駿ガンダム(ガンダムオラシオン)みたいなガンダムシリーズの引き続き印象で聴きがちではあり、今そんなに映画本編のイメージを想起しない。
三枝成彰「オラトリオ ヤマトタケル」(1989)については前回、『ガーゼィの翼』(1995)との連想で一度触れた。
核爆発(モビルスーツの核融合炉の爆発)を地球上でドカドカするから。アポカリプティック映像を見たい欲はあるよね?
それとマランビジーで終わっていた。初読者向けの案内なんかはしない。
昨年このZawazawa板を立てたときに、そのときの富野通読状況ではハサウェイをさっさと通過するところだった。昔のテロリスト小説(スリラー)をぽつぽつ読み返していたのと
ベトナム戦後とその後
トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』(1981)読みおわった。ハリス作品を最後に読んだのが10年前だが、このまえ、『ブラック・サンデー』(1975)が、「ベトナム帰還兵がテロを起こす」スリラーの先鋒としてここ、ハサウェイを読み直す参考になりそうと思って再読もしたんだった。それは、今はあまりない。
『ブラック・サンデー』読んでもわかるが、1970年代にベトナム問題は社会問題としてアメリカ国内では衆知で、それは新しい問題でない。それに喚起して「ベトナムでトラウマを負って殺人鬼になる」のような、ベトナム発パターンの読み物がこの頃に量産されるんだろうと思い、その流れに興味なのだけど、そのことはわたしはあまり知らない。バナナフィッシュみたいなのか。
このようなエピソードの例は、『「人殺し」の心理学』(デーヴ・グロスマン,1995 安原和見訳1998)に多く載っている。それは富野より押井守の参考文献の先頭に挙がっていたが、押井作品の話は今しない。
映画第二部から。今頃になってだが、ハサウェイの話題は分設して以後こちらでする。
といっても、原作は昔から読んでいて字句を憶えているくらいだし、今更することは雑談ぎみにしかならないと思う。しょうのない雑話をちょくちょくしているので、SNSでの発言の保管庫にしてもよい。
この世界は夢か
話のあとにジョン・ロンは、
リンレイを幻想にはすまいとし、一方で迫水自身が聖戦士など幻想かもしれないと言う。
迫水に返って、『リーンの翼』のストーリーでは、迫水は特攻の死に損ない意識から発して、この世界バイストン・ウェルは究極的には自分にとって夢・幻ではないのか? という疑念が常にあったことは、前巻までの新旧対読で注意してきた。アマルガンに対しても常に食い下がっていったのはそこだ。ここで、なぜ生きるのか。
ガダバとの戦いの果て、迫水は聖戦士としてバイストン・ウェルに帰属することを選び得たようだったが、再び帰って来た今はまた曖昧になっているのか。ただし、その疑いを自覚して言葉にするようになっているのは、以前とは違う迫水に変化しつつあるように言っておきたい。
コモン人も地上人もおなじ人か
迫水の心の動くところ、心情、感情に注意すること。バイストン・ウェルは魂の物語。
蓼科中尉がコモン界の政治を解説し、ドイツと同じようにヘリコンの地で民族が独立したがるのは、条件が同じなら人間はそう振る舞うという『人間の問題』ではなく、各集団の勢力関係の間で国家が何を志向して振る舞うかには法則があるという『政治の問題』だという。――
異生物。根本的な条件が違うかもしれない。ただし、この言動は迫水には容認ならない。
コモン人も地上人もおなじ人でなければ、リンレイとの関係は迫水にとって「幽霊相手」だったことになってしまう。ハロウ・ロイとの記憶も生々しいのだから迫水にとってはこの点では妥協しない。重要なところ。
道徳形而上学
諸国を放浪しているアメリカ人学生のジョン・ロンは、この地ですっかりバランモンと化していてバイストン・ウェルでカント哲学を語ったりする。哲学というよりは『道徳形而上学』――形而上学、の部分はなお保留せざるをえないけれど、『語るべきことは倫理、道徳だ』(モラル)というポイントはわたしは近頃になって非常に興味がある。
モラルをいかに語るかは興味あるけどちょっと外部に参考書がいる。そして、「自分は実践者ではない」と語るジョン・ロンはやはり迫水と同行せず、別れてゆく。
蓼科中尉やジョン・ロンにしても、彼らはやはり地上人であり、地上界で自分達がなしえなかった思想の実験をバイストン・ウェルのコモン界に来て自由に展開しようとしているのではないかのきらいはある。
アピアが新思想に感動するのはまことに純真なことだが、コモンにはコモンの風土に根付くものはないのかと訊ねると怪しい。文中にそう書いていないが、アメリカが戦後の日本にしたことを今ヘリコンでやろうとしているのは彼らではないかのように。
心の物語
「第三章 新国家に生きる」
オーラバトラー開発史はひとまず置き、章題の通りメッオの新しい国家建設の展望を語る。迫水と語っているのはおおむね最近にコモン界に落ちてきた地上人、おもに軍人達。二十世紀世界の政治批判、その分析というディスカッションが続く。歴史が苦手な読者のことも、逆にこういう座談的なノベルが大好きな読者というのもわたしは想像つくのだが、文中の批評が妥当かどうかよりも、語る態度自体がときに高踏的で無責任でもありがちだとはあらかじめ承知したほうがいいと思う。
小説なので本来注意するのは、この忙しい生活の中で迫水の気持ちがどこにあるのか、徐々に変わっているならどこが変わっているのか見落とさずに追っていくのは、かえって、案外むずかしい。
ふわっと読んでいると、読者の印象は「最初と最後だけ」……特攻隊員であったこととオウカオーで昇天したこと、だけを結びつけて、あとリンゴの歌と天皇がどうのこうの、とだけを記憶して終わってることになってそうではある。すべて、地上と地上のことだけ憶えている、そのような印象になっているとしたら『バイストン・ウェルの物語を憶えている』とはいわない。
昨年ナイチンゲールの話は、ガンダム話から始まり複数スレッドにわたって拡散しすぎたので、そのトピックにあらためてまとめないと、頻繁に言及するたびに変なところにリンクしていて不便だが。どっちかというと日本文学の和歌の理論を説明したほうがFT話題としてもためになるが……。また、そのタイトルが思いつかない。
こういう心理現象
After the Light Fails (Starlene Justice)
タニス・リー作品を読んでいる人なら、そこに「可能性」や「信じること」の飽くなき訴え、メッセージを指摘することはできる。が、リーの愛読者を自認していてもその可能性なり、信じることなりについて自ら書き始めるようになるかは別だ。わたしはわたし自身、可能性について語ることはもうできないんじゃないかと今は思っている。それはさておき。
現代の妖精写真家だった少女について。もしも妖精がこの世にいるのなら、どんなことだってありうる。彼女は目に障害があってその後少し淋しい経過を辿っていくが、読後にあらためてタイトルに戻って「After」の意味を思い返してみたい。わたしは最近は視覚よりか聴覚面について、フェードアウトした後に遅れて聴くナイチンゲール音のような話をしており、それに近いものを感じる。
と書いておいて、人にわかるかどうかはわからないが、リー作品の研究会の成果報告のような趣のある短編。「ビターな」と感じるだけではこの感じは汲み尽くせていないだろう。
theyは日本語には訳せないな……。というか、読んでいる間はそれを意識しないようにしているが、ここには日本語で書いているのでやはり気になる。
まずそのジェンダーの文化が違うので、日本語であえてぎこちなくやってもいいんだが、前回は、それと関係ない箇所で一人称を「おれ」と呼ばせておくみたいな日本語独自の搦手を想像していた。「あたし」だったら必ず女子言葉になってる。
今回はそれでは行かない。「あたし達」と言っては言い過ぎな日本語だろう。英文では違和感のない「これ」とか「こいつ」という言い方は日本語では違和感が強いので、あらかじめそう言わせておくとか、か。原文を逐語訳しては作品を損なうのがわかっているので、和歌みたいな詩心が要るところだろう。ユーモア。