このまえ「マリア・アーモニア」の名前はいかにも新興宗教っぽくてありがちな名前だ、といっていたけど、小説Vガンダム中にそのアーモニアの由来そのものの説明は結局なく、1巻でウッソがフォンセ・カガチのめざすところ(動機)にある文化混淆的な趣味の一つに挙げていたくらい。
アベニール1巻で、「アベニールってなにか」と初めて訊かれたときにゲイズ・カレッカ少尉が、『そのへんの新興宗教の教祖さんとか自称預言者というのが、使いそうな名前じゃないか』と半笑いで返す。わたしはこういうところを混ぜて憶えていたのかもしれない。カガチではなくか。
マリア団体の成り立ちをよむと、ヒーリングができるようになったマリアの活動を宗教団体として政庁に申請するまえに、もともと余所の新興宗教にいたスタッフが、ビデオで売っていたりしたマリアのそれまでの言葉と、キリスト教等の既存宗教の文脈を突き合わせて辻褄の合う「教典」なるものを作ってくれた。最低限、何を説いているかはっきりしないと団体として認められない。
それまでは、マリアの言葉というのはアドリブで「お告げ」のように喋っていたが、それが時代の空気にあったというのも、マリア発明の独創的な内容というよりは当時のスペースコロニーではありふれた、もともと皆知ってるような教えだったのだろう。宇宙で暮らす人々は大地との絆を失っているのです、とか、母胎的・女性的なものが大事ですなどは、どこのスペースコロニーでも言われていそうなことで、無学なマリアが人に話すにしても不思議でないと思う。ただ、最初からそんなことを語るために宗教を思い立ったわけではなかった。
こっちからわたしの連想するのはコードウェイナー・スミスの『鼠と竜のゲーム』。それをいうと今度はまたアウトロースターの「猫と少女と宇宙船」。富野読む気ないのか…。
クンパ大佐は劇中でずっと「他人のあら探し(ベックメッサー)」をしていて、言うことはかなり手厳しいところもある。アイーダに言う、道具の使い方云々とか……。
レコンギスタ運動はもとは彼が仕組んだ騒動とはいえ、劇冒頭のラライヤ事件から始まる一連は彼の意図ではなく、想像以上にナンセンスだ。ときには生真面目に、あまりに地球人が馬鹿馬鹿しいので苛立ちもする。 スコード世界の中枢キャピタルにいて、出身不詳の余所者なのに各国のタブー破りの監視をする調査部の長に就いてる、あからさまに怪しい人物だが、その物腰で誰からも敬意は払われている。実のところは、アーミィの士官達からも煙たがられているのだが、人から敬遠されることについては気にしてない。そのくせ、ジュガンごときが「あのなあ」とタメ口になると、あとでかなり気分を害している。
このあと『アベニールをさがして』では、読むのはこれからだが、ここではベケットの古典的な価値とか、不条理劇の面白さの説明などはまた、全くないと思う。読者は知ってる前提だ。そこは日向オノレ君がアケモちゃんの気を引きたい一心で懸命に喋っているところ。たぶんこんな感じ、
「実のところ今だってさ、正確にいえば僕たちが必要なんじゃない。テンダーギアは優しいマシンだし、他の人間にだってこの任務はやってのけるに違いないよ。僕たちより上手くできるかどうかは、別としてさ。インスパイアー・エンジンや、アラフマーンのスペシャリストがいるわけじゃないんだ。ベストン・クーリガの呼びかけは日本人、むしろ人類全体に向けられたものだった。ただし、今現在この場では、この場でアラフマーンにもっとも近い位置にいるのは僕たちだ。これは僕らが好むと好まざるとにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。そうだろ?」 「ごめん、聞いてなかった」 「確かにね。事の賛否を互いに一々検討して考えぬくことも、人間の条件だ。笛吹中尉はサージェイのダイサンカのビジターであるからには、わが身に少しの反省もなく任務に邁進できる。フール・ケアさんはすぐにアウトサイダーを言って、ただちに逃げ出す。でも、問題はそこにはない。「僕らが」「現在」「ここで」何をなすべきか、考えねばならないのは、それだ。だがさいわいなことに、僕らはそれを知っている。そうだ、この広大な混沌の中で明らかなことはただ一つ、すなわち、僕らはアベニールをさがしているということだ」 「そりゃそうね」
みたいに、めちゃくちゃ語りたくなるのだがだからといってオノレとアケモちゃんが手に手をとって宇宙に飛び出していくかというと、発進しない。オノレは、ネットゲームでやっているシェイクスピア時代の英語が好きのように書いてあったけど、シェイクスピアを熱読しているかは、わからない。高校生に演劇史や文学史が語れるわけはないだろ。わたしは面白いので、やろうかな。今度は英語を直にと、折角するなら福田恆存作品の延長でつづきだ。
そういえば先日、『アベニール』の想像上のサントラとしてはどうかで、Vガンダム続きイメージで千住明でもどうか、同時期の『沈黙の艦隊』なんか聴くと案外いけそう、という話をしていた。
そのときに大谷幸といっていたのは『アウトロースター』のことで、アウトロースターのOSTも昨日少し聴き直してみたけど、わたしはどうも……今そういう気分でもなかった。伊東岳彦のトワードスター世界もったいなすぎるので、わたしも今でも多少の未練はある。 その繋がりだとゴドーを待ちながらというと、『宇宙英雄物語』の連想の方があるけど、挿絵だけをネタに富野小説であえて語ることはとくにない。インティパ世界ってエーテル宇宙じゃん、でもバイストン・ウェルとの関連や連続を語った方がこちらは強いし。
『ゴドーを待ちながら』第二幕、おわり。これは手元にしておいても良い本だ。わたしはこの頃の演劇がそんなに得意分野ではないけど、これをどうやって上演するのかが非常に面白いやつ。今は富野通読の話が主……。
富野作品と不条理劇のようなことは、直接にはあまりないだろう。富野アニメにしても小説にしても、作品自体は不条理な作品はめざしてなく、右肩上がりに上昇していってカタルシスという考え方だと思う。劇中、点々と意味不通な台詞の応答や、何も起こらない、のような要素は感じられてもそれに専念してそれをしようとしているとは思わない。
このたびの通読では前回Vガンダム中のウッソに、強い目的意識をもつことへの疑い、のような台詞が、ちらっと混じった。『Vガンダム』全体がその話になっているかは、べつだが、その順序は憶えておくといいと思う。それはないわ、じゃなくて、ある。
エンジェル・ハィロゥのようなエリアでは、心に思うことが率直に現実に起こる。人の思うことは他人の思いに溶け込んでくるし、全面的にファンタジー世界に突入している。その場では、「何ができるか」より「何を望むか」ではなかったか、もしも意思の強さが問題なら、人類を抹殺する意思が強ければ意図としていいのか、のように反省させられると、そこはむしろ幻想文学がもっぱらにする領域になる。「語り」の興味では、寓意や目的を志向しない・語らないとか、何かをしようと言いながら何も始まらないとか、信じてはいけないと語る、物語の方法もある。
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(1952)を読む。安堂信也・高橋康也訳(2009新装版)。『アベニールをさがして』この後の章にその話が出てくるから、そのついで。今夜、第一幕まで。訳注に構わなければこんなのすぐ済む。
ニュータイプなどは一山幾らで扱うフォンセ・カガチが個性としてもっとも優れている・偉大だわ……のように思うやつは一定いると思う。ありふれてると思うが、木製帰りにしてもカガチを「ニュータイプ」と認めて語られることはない。その場合は、宇宙人になりきって異質の倫理観を振りかざすようになった人々、などいう。
「数年前に、われわれは、このキールームにごく一般的なニュータイプをたたせて、現在の一番内側のリングに、千人ほどのサイキッカーを収容しまして、小型のエンジェル・ハィロゥを作動させてみました。そのテストでは、基本的に物事を洞察する能力が拡大されたという現象はみえましたが、それは、サイキッカーたちの洞察力を総体したものにすぎませんでした。良き意志を外界に発振するまでには、いたりませんでした」 「それでは、エンジェル・ハィロゥの性能としては、不十分なのです」
『ごく一般的なニュータイプ』『五万人ほどのサイキッカー』などが平然と語られる場所でサイキックとニュータイプがどう違うのか等、初歩的な疑問すぎて訊けそうにない。近未来SFや遠未来のテクノロジー万能社会に微弱なプレコグやPK能力者が普通に認知されていていまだ説明がついていないことは普通のことだ。
ニュータイプは同時代に対して普通じゃないタイプをいうが、サイキック自体はサイガ・ババ級の能力者もきっと民間にいる。フールケアに常識や慎みのないのはいずれにしても問題だ。小型核融合炉やEMOがあってなんでピアスがだめだ。
『どういう男とだっ!』と鉄仮面がひとり叫ぶとき、もし聞こえていたらそこを指摘されるのはセシリーにはこの瞬間にもいささか不本意だろう。シーブックには本懐と思える。 『シーブックならいいのよ!』とは胸を張って言えないと思うな。『機械ごときに!(つべこべ言われることじゃないわ!)』と押し切ってしまうか……弁論部。
ふつうの人
ヘルメット同士がぶつかって邪魔だった。 セシリーは自分の腰がシーブックに密着している感覚を問題にするより、ヘルメットのことを解決しなければならないと感じて、両手を首にまわしてパイロット・スーツの首まわりのファスナーを外して、ヘルメットを脱いだ。
ふつうじゃない人
彼女の頭と首筋が揺れれば、それが、オノレの股間に遠慮なく伝わってくるのだが、彼女はそんなことはまったく気にしていなかった。 〈この人、ふつうじゃないんだ……〉 そうでなければ、唇にピアスをしたような女が、この日本でアウトサイダーなどやっていられるはずはないのだ。
『ピアスくらいいいだろ』という感想はアベニールではこの後くどいくらい続くので、忘れる。
「沈黙の艦隊」オリジナル・サウンドトラック(1995)も、ついでに聴く。高橋良輔監督のOVA、千住明作曲、演奏ワルシャワフィル。指揮者のアンソニー・イングリスは上のTHOUSAND NESTSもと、このあと菅野よう子のあれこれでアニメ音楽リスナーもたびたびみてる名前だと思う。
スターバスターかパブッシュ艦隊みたいか、事あるごとにナショナリストと罵られる連想かな……。わたしはアベニールを千住明の想像したことはないと今さっき書いたばかりだったが、画が伊東岳彦でなければ案外いけるかもしれない。
盤の説明がややこしい。これのこと。これとべつに、ボブ佐久間作曲のラジオドラマ音楽と、そのドラマもたいへんお勧めなのだがわたしは原作漫画のファンというわけではそんなにないのが不思議。これは別の話。
「機動戦士Vガンダム」~交響組曲第二番 THOUSAND NESTS 千住明、を聴く。これもあらためて書くことないだろう……ガンダム関連アルバムではずっと人気だし、わたしも好きなやつ。わたしは千住明アルバムをそんなに蒐めたりはせずにきたけど、ドラマのテーマ曲集ベストとか、持ってても聴かない。交響組曲第何番という作家の通し何番で時折に集成してくれたほうがわたしはいいな。カレンダー組曲なんかはもってる。
つぎ「アベニールをさがして」の音楽のイメージ……のように思うと、千住明という気はわたしはしないかな。当時の雰囲気だと田中公平でも大谷幸でもありそうな気はする。
富野由悠季をユーモア作家だと思っている人って今意外に……でも、そうだろう。人間性の文学性の深みとか、現代思想家のように語られなければならないのか。言われてることは大半「ユーモア」で片がつきそうでもある。
Vガンダムおわり、つぎアベニール。4月までにガンダムシリーズまで終わってしまえと思っていたようだけど、まだ『密会』を忘れていた。まあ、ネット封鎖とかは今もう気にすまい。
ジグザグ機動などは「戦術」の一端として、本当にセオリーなんだろうと思うけど、それを見たカミーユやファラが、いつものように「人の感性を逆撫でするように動く」「小癪なかんじ」と思って、次に、ああなるほど、と腑に落ちる節を挿むのは恒例じゃないか。
富野小説中の戦闘場面中、兵士が語り伝えているらしき伝説・迷信・ジンクスはくり返し出てくるものもあり、通読なら書き控えておくとよかったかもしれない。三つ四つはすぐに思いつく。
「砲声が聞こえる間は生きている」のような事実は、そこから踏み込んで「構えている間は死神こない」「恐怖を殺して只中に飛び込む」「あとは本能に任せても間違わない」のように展開することもあり、しまいに行くと本当に「哲理」の語りになる。「ビームの直撃は恐怖を感じない」のように分岐して別の展開もする。
富野やガンダムにかぎらず、現実の過去の戦争体験記や戦記小説からの引用を求めれば無数だろうし、作れば後からでも作れる。富野作品に出てくるやつ~の関心だと、思いついても具体的な用例箇所は逐一目で探す必要になるので、面白そうなことは通読時に拾っておくことだ。今度おぼえておこうか。
スペースコロニーの雪はスペースコロニーの畑と無縁だしね。コロニーの農作物は農業コアのようなところで集約生産される。『F91』の牛乳の話題のように、なんとか人手を入れようという理念はあるが、自然と人のかかわりを語らせればあらかじめ作り事にはなってしまう。でもシャクティもまたそれはすこし厳しいと思うよ。Gレコのように下れば、宇宙には宇宙の夢も物語もあると言いたいと思う。
自然との関わりで築かれる人の規範、というようなまとめになるな……。上で「行動規範」について言葉だけ掠めたので参照しておく。先々に、「宇宙にある海の夢」のような言い方を聴くとき、こういう箇所を憶えていると印象が違うだろう。
シャクティ語のその後の展開は、5巻になると、月面都市に降る雪についてシャクティ独自のこだわりを見せる。「こんなの雪じゃないわ」と呟くところ、雪については彼女に一くさりの蘊蓄と、こだわりがある。
カサレリアにも、数年に一度は大雪もあって面倒なものなのだが、種もみを強くするためには、寒さは必要なのだ。
これは事実。シャクティのこだわり処は、
土が寒さでかたまって滋養をため、春のあたたかさで、土がこなれてくれると、植物のための床(とこ)ができて、芯のしっかりした野菜を手にいれられる。 そんなふうに想像するのは、シャクティの得意なことだ。 そのような物語がえがけないイミテーションの雪などは、ナンセンスなのだ。 こんなことでは、人の心はふるえない、とシャクティはおもう。
「雪」というより、「物語」にシャクティの押したいポイントがあるようにも思える。人工の雪は軽いのよ、軽い物語しか語れないのよ、雪ってもっと物語るものだし、雪が降って震えるのは、体ではなく心なのよと思ってるようでもある。
「偉大なるエンジェル・ハィロゥ」に対してはこのあと「偉大なるプロト・フロンティア」のような偉大なるイメージもある。ずっとあとにGレコの頃に「偉大なる脅威」なんてトラックにもある。偉大さ、というか、偉大なるさ較べ。「圧倒する」とかで求めても面白いかな。
「雄偉なる」のようでは必ずしもこの語感は出ない、やはり偉大なるだ。
規範形成と夢の話は、今ここで別の話だが、ファンタジー(幻想文学)の話をするには有益なので機会があったら今度しよう。ダンセイニなんか夢の話をしないで語れない。
「主義」と「行動規範」の言葉の使い分けみたいなことは前にいった。そこは、単にまぎらわしいからの理由。
主義について、マリア主義は何主義なんだとか、貴族は主義じゃねえだろとか、そういうことはこのたび、とくに言わんかった。
「……!!」 ウッソは、自分にむかってなげうつようにひびいてくる鈴の音が、ひたいから後頭部につきぬけるようにかんじて、左右の脳全体のシノプスをたちあがらせて、前頭葉を刺激して、ほんらい、幻覚をセーブする視床のフィルターまではずして、実像認識に転化させた。 無意識閾に喚起された衝動まで、現実に対応させる行動規範としてはたらくのだ。
三日月のブーフゥ、ザンネックとのサイキックバトルになっていくが、初会合のこれのここ、わたし面白い。大方はファンタジー的表現だと思って読まれるだろうけど、頭脳ファンタジーはともかく「行動規範」という言葉を使うのがことに面白い。「鈴の音」を聴いた瞬間にこうなって、続いて敵のビームが来る前に、ノータイムで回避行動に移る。ウッソの深い意識から発した衝動がそうさせる、という。
行動規範は、ここは明らかに意識してこの語を使ってる。こんど通読中に「規範」という言葉は点々とあったが、「行動規範」ととくにいうと、小説ではオーラバトラー戦記のあいだに二度、軍人のそれと民間人のそれのような文脈であり、このあとアベニール中に一箇所ある。おおむねただの「規範」。こういう言い方もある。
ハルルの頭の中には、ロゴ・ダウの事件の詳細な報告が入っていた。それらの未知のブロックがどういう性質のものかという彼女なりの想像も働かせていた。妹のカララとは似つかわしくない、明晰な頭脳の持ち主であった。が、それが彼女のすべての規範となってあらわれるために、……
日常、あらゆる場面場面で瞬時の行動を求めるとき、人間はそのたび毎回、その場で得るデータを根拠に考えて「判断」をしているわけではないし、そもそもその場で何が適切か曖昧な状況というのが常だ。道で大声を上げている者がいたら反射的に振り向くか、振り向かずにそのまま歩き抜くのような行動は、人によっては同じではない。わたしは行動という興味はもともとあるのと、ここ十年くらいは、幻想文学と夢の話がつづいて、こういう言葉には敏感になっていた。
『小股の切れあがったジュンコ』『ガラッパチのシュラク隊』とか、1990年代でも現用語としてはなかなか……使いづらくなってはいただろう。MAVじゃあないが、界隈のジャーゴンとしてでもまだ使ってみたい語だガラッパチ。
シュラク隊はガラッパチか。上のクロノクルの少年時代の「ヤクザな気分」と同じ意味でシュラク隊のコニーのような性格の底にあるはぐれ者・無頼の気分のことも、ヤクザ気質、とも呼んでいた。それは、ヤケのヤンパチ。シュラク隊の女達の気分は『Vガンダム』の主要な見せどころのひとつだからこまごま書いてある。
メカのデザインがゴチャゴチャしていくことを(ちょっと違うが)この巻の表現では「バロック化」と書いてある。それがわざわざ巻末に参考文献として入れてあるけど、ガンダム界隈でバロック化なんて用語は聞いたような覚えがない。「『恐竜的進化』なんて今どき、言わんだろ」みたいなことはきく。
Vガンダム4読了。このあいだの「カスバ」の話は、アメリアじゃなくてどうも月面都市セント・ジョセフのようだったな。わたしのはんぶん記憶だし……。
この直前に、『ダウンタウンの各階層ごとには、それぞれの民族が、それぞれのマーケットや歓楽街を形成して……』というユートピア感の話がチラとあって、この時代の宇宙都市にも民族があることには触れてる。今これくらいでつぎ、か。
上でもふれた「言葉」や「道具」のような個々の話題は、こないだのシオの文学観のような一連の続きでもあり、それは小説媒体だから挑んでもいるので、アニメのキャラが出ないとか、キャラの代わりに富野の思想を代弁しすぎ、みたいな読者の通念からは踏み込んでこない。わたしは話し相手がいない。
もっとも、ガンダムはロボットアニメで、レーベルは角川スニーカー文庫で、読む層は上から下まで無差別な想定のガンダムの場で、富野が『子供相手に子供騙しはしない』と言ってたとしても、最初からジュブナイルの枠を超えて十代の読者に分からない話を説明抜きにするのは大人げなさだ。
ジュブナイルというのは子供騙しの意味ではなくて、ジュブナイル自認でも必ずしも恋や冒険や成長を描かなくてもいい。恋や冒険や成長は、そのテーマなら十四歳とか十七歳という年齢でも未経験で十分に受け止める、というレーティングにすぎない。というのは、先日も隣で書いた。個人の嗜好では、四十歳や六十歳がジュブナイルを読んでいても全然構わない。
一方で、この作品の主題の感情はせめて二十歳くらい…という読者の制限もときには求めないと、無造作に踏み入ってきた層には、それを価値あるものとして受け取ってくれないだろう。青少年の保護よりも作品保護の意味で。
実年四十でも十五歳水準で停まってる人もいるし、五十歳感覚で居ながら社会的見地からレーティングを意識してジュブナイルを語っている人もいる。その二者は一見おなじに見えることがある。1970年代から80年代、90年代というのは事実として野放図の感はあっただろう……のような思いは浮かぶ。わたしはガノタというよりは、ファンタジー文芸一般のうち富野愛読者あたりに退いてる。上の線引きがあって不毛なやりあいに混ざる気がない。
Vガンダム3まで。『ガイア・ギア』のときに少しだけ掠めたが、モビルスーツの空戦描写はこの小説Vガンは面白いと思ってるのだけど、それは一瞬ですぎ、3巻の内容はすし詰めでアーティ・ジブラルタルからあれよあれよの間にカイラスギリー艦隊とぶち当たり、それ自体前代未聞の椿事を高速で飛ばして子供達のサイド2まで行ってしまう。しかも、その高速進行で肝心のドラマを飛ばしている気はしないのが結構すごいところ。
まあ読者によってはそう思うかもしれない。間に挟む富野ドキュメントが「余談」「脇道」と思って、ストーリーの筋道と関連づけられないで読み飛ばすというのは……むしろ大半かもしれないけど……、ここはべつにそんなファン同士の安易さや馴れ合いは関係ない。著者に体当たることで、わたしは長年フレンドもフォロワーもゼロでする通読は作業だ。
ずっと彼のことを考えてる。3時間か4時間しか寝ない。彼には気づかれていないと思っていたら、彼の方はとっくに察してる。相手は侮れないと思いつつ、どこかで侮っていたとわかってまた見直す……。の、ようなところな。なんの初期症状なんだ。会った瞬間に未知の未来をサイキックに予知したのかもしれないが、それ自体べつの言葉で一言でいえんか。
主人公オアイーヴを全面的に後押ししたくなる、というのはやはりジュブナイルには好ましいことだ。そこが心が壊れてると、『オアイーヴにもグレイにも共感しないがわたしはどうも、わたし自身ナイワスのような役だと思っている…』のような読み方になってしまう。
タニス・リーの吸血鬼って血を吸うとはかぎらない。『薔薇の血潮』って血吸ってたっけ…。吸血鬼短編のアンソロジーに収録されてるが、いつものリー作品なだけで作中とくに吸血行為にこだわってないようだ、とかね。
「曖昧なときはまず収集する」が原則。見過ごすと次に出遭う機会は何年後にもなるから、怪しいものは拾っておいて後で整理した方がよい。 また、収集基準の境界でいつもいつも悩むようなのは、分類の立て方を怪しむ。「吸血鬼」のような名前がもともと適切でないか、文化的にすでに意味を失っている等で、切り分けるか、あらたに命名し直す。こういうときにパワーワードも使う。ここまでは前回。
FTを蒐めているところで「魔法」なんて分類を設けてもすぐに爆発しそうだな。「不死」なんて多いのか、実はそれほどでもないか……キャラクターでなく作品の要素でいうと「吸血鬼小説」には「不死テーマ」が必ず付随しているような気もするし、「文学は人間を不死にするもの」のように言い張ればあらゆるジャンルの作品が不死属性にもなる。
これはまた、これを使うユーザーごとの特殊な興味で、必要に応じてデータを作っていくべきこと。それも、できるだけタグの数は増やさず、重複内容は整理するよう念じながら、「分類作らないと困る、不便だ」との内圧が昂じてきたらそのときの合図だ、というのが同じ法則だろう。だから今は憶えておいて、面倒だからしない。「ドン・キホーテ」というジャンルだけは設けているな。
作業場を読メからブクログに移った利点のひとつに、登録アイテムのタグ管理が細かくできて著者名による以外にもたとえば作中要素を抜いて「タニス・リー 吸血鬼」とか「タニス・リー 白雪姫」とかスペース区切りで属性分類ができる。作品数が多く、あの感じの例のあれはどれだっけ……という短編タイトルを思い出せないことがよくあるから、これは活用すべき。
このタグはユーザーの個人的な設定項目だから好きに振っていいが、使い途としてはカテゴリに含まれるアイテムが二件以上あって初めて役に立つ。あまりに一般的で多すぎると逆に役に立たない、表示欄が混雑するから「ドラゴン」より「龍」、収集内容を限るより広く採ったほうが用になるので「龍」より「竜」で始めたほうがよさそう、など想像できる。これらの要点はphelenのアーカイブ作成方針なんかのときにも注意書きしたのが使える。
She had succeeded, worked the magic without spells, by her will alone.
上でも書いているので続けて書いたりはしない。言いたいことはわかるはず。わたしのここのは「いま何章まで読んだ」の報告だけでいいと思ってるけど、作品自体それほど長くはないし、黙ってればすぐ読み終えてしまうかな。
シャクティが無口な子か……、というと、「言葉を使うのが苦手」というよりか、「シャクティ語でしゃべっている」ようなことは、1巻最初から書かれてはいる。シャクティの言葉使いは、今のところウッソにしか解読できない、カサレリアの近所のおばさんにも通じないのはわかっているけど。ウッソは、彼女独特の語彙や表現力にはしばしば感嘆してる。人形みたいに無感動な子ではない。
シャクティは、大人の常套句を自分がまねるのは「恥ずかしい」と思うし、「自分の気持ちをちゃんと説明してない、とりあえずの表現」の言葉使いにためらう。
ここの再読では歴史観についてじわじわ触れているが、ここでいうとき「史観」というのも「道具」だ。人類はどんな歴史を辿って今どこにいる、という認識も、史観Aまたは史観Bのどちらが上手く現状を語れるかという、道具の使いこなしの問題としてのみ俎上にのぼる。その結果が作中グロテスクに積んでいくが、
『こういうことを思いつき、やってきてしまって、それが、歴史の必然などという言葉遣いは、やめなければならない。抹殺されなければならない種は、知恵をつかう人間の大人たちなのではないか? ぼくら子供が、その大人になるということは、無惨なことだ。だとしたら、そうではない大人の世界を獲得しなければならない』
ひとまずここまでの筋道があってウッソ2巻になる。わたしは発行当時からだけど、初読では「グロい」という感想になるのは仕方ないとして、バイストン・ウェルほどじゃない。今の再読だと、今までにないくらいスリリングな感覚をおぼえるね。
ぶらぶらしてる少年の投げやり、という意味だ。ここのヤクザ。
2巻15章。クロノクルはビクトリーの戦闘を望観しながら、そのマシーンを操縦しているのが彼をシャッコーから振り落とした少年ウッソということは想像もつかない。白いモビルスーツの性能に戦慄しつつ、対リガ・ミリティア戦の今後の局面を危惧する。
姉のマリアが、ザンスカール帝国の女王になっていくなかで、保身を考えるようになってしまったクロノクルは、ものごとに実直に反応する士官にそだっていた。 そんなクロノクルが、ウッソという少年と白いモビルスーツの関係を知れば、彼は、また、少年時代のヤクザな気持ちにもどってしまうのかもしれなかった。
クロノクルの過去、少年時代の様子は前の章で少しだけ描かれた。士官である現在の「実直な反応」としては、敵兵器の凄さを認め、彼の役職上の立場としては、その脅威が彼の属するイエロージャケット部隊の今後の仕事(任務)にどんな影響をもたらすか、に思いを走らせている。
そこでもし「実直でない反応」をするとたとえば、こんな仕事やってられるかっ! 怖いんだよ! 俺はもう帰りたい!! のように言うと、なかなか実直ではない。正直な気持ちではある。
クロノクルが少年時代のテンションに戻ってしまうという、「ウッソ・エヴィンと白いガンダム」の関係(!)を彼が呑み込んでしまうと、今の実直さもすっ飛んでしまうかもしれない。富野ヤクザといえば「やられたらやり返す」暴力応酬のことで言うことがあるが……これを見て、そんなのありかよ!と不条理を呪ったり、ウッソ・エヴィンめ! このインチキ小僧ーッ!のように激昂するとヤクザやチンピラに近くなると思う。ウッソとシャクティの関係のことはクロノクルのストーリー線上にまだ昇ってこない。
今のような言い方はプラクティカル・マジックよりか、プラグマティックというんだ。そんないかがわしく訳されてはいないよ。『呪文がきいたのだ』と書いてある。
オアイーヴは目をつぶって立ち尽くしているので、"呪文"は、唱えていないようにみえるかな……心の中で必死に気持ちを呟いているけど。魔法がきく過程は地の文で綴られている。だから合ってる。
小説を書くにかぎらずあらゆる作業進捗報告で、この文、――「やっておきました」と書き込むと実際に行われる効果ある。今案外ゆったり読んでいる。オアイーヴ可愛いな。
ついでに、わたしは邦訳を対読はしていないけどあるものは隣でたまにチラ見でき、室住信子訳はなかなか気が利いてるし読むには日英どっちでもいい。
とにかく、タニス・リー作品には必ずこれが出てくることと、徹頭徹尾これが後年まで作者のテーマになっているのが「タニス姉貴はガチ」という理由でもある。
実践的だから、という実践的なことに欠点もなくはなくて、欠点はある。何より「実践すると死にます」という話をするんだから無意味に大勢にばら撒くには悪い物語群だ。言えば、「死んでもいい」目的があるときにはリーを読んでいれば捗る。それか死なないか、死んだら自力で生き返る人。
この世に、熱情的に生きられる人は成人のもしも10パーセントくらいだとしたら、「熱情を説き続けること」は残りの90パーセントにとっては望んでも決して報いえない、不毛さの害にもなりかねない。また、熱の人も何の目的や甲斐も得られない日々にこの種の教唆を聴き漁り続けると心を蝕まれる。処方箋としては、そのときにはダンセイニみたいな態度の方がいい、と上記。「信じるな」という語りの徳もファンタジーの方法としてある。本当を説き続けないからといって、嘘じゃない。
小説を読んで癒やしになるとか、力になるとか、そういう読み方を勧めているわけではない。「読書は娯楽だ」と思ってる人にとっても、娯楽として読めない鬱になることがある、のこと。とくに、古典的な共感呪術を基礎にしているものはその理論で効いているはず。その後、80年代末頃を境に創作の方法は変わったらしい。
The Winter Players Indifference kills faith, and lack of faith puts out the torch of God that burns in each of us. 云々。これらにかぎらず、上でも触れたが、faithとかindifferenceは初期の作品には頻出するので一々その箇所を書き留めたりはしない。タニス・リーのファンタジーで魔法の使い方は一貫していて、ジャンルがSFでもそこは変わらないくらい、基本。
タニス・リー魔術の特徴は実践的なことで、プラクティカル・マジックというとこれのことだ。小説作品は架空の創作なのになんで「実践」か? という話はわたしはしない。それには今後もそれを書く気ない。
「物や人の真の名前を知るとそのものを支配する」のような作動原理は、実践魔術に必ずしもいらなくてリー作品にはあまり出ては来ない印象。言葉に対して無関心なわけはないが、呪文や、儀式様式の無意味さについては結構手厳しい批判が入ることはある。伝統やしきたりにはとにかく逆らえ、破れ、というくらい反逆徒だけど、命名や呪文にしても全く使われないわけではない。Birthgraveはそうだし、このあとすぐVolkhavaarなんかにも出てくるはず…。
マリア・アーモニアとアベニール
このまえ「マリア・アーモニア」の名前はいかにも新興宗教っぽくてありがちな名前だ、といっていたけど、小説Vガンダム中にそのアーモニアの由来そのものの説明は結局なく、1巻でウッソがフォンセ・カガチのめざすところ(動機)にある文化混淆的な趣味の一つに挙げていたくらい。
アベニール1巻で、「アベニールってなにか」と初めて訊かれたときにゲイズ・カレッカ少尉が、『そのへんの新興宗教の教祖さんとか自称預言者というのが、使いそうな名前じゃないか』と半笑いで返す。わたしはこういうところを混ぜて憶えていたのかもしれない。カガチではなくか。
マリア団体の成り立ちをよむと、ヒーリングができるようになったマリアの活動を宗教団体として政庁に申請するまえに、もともと余所の新興宗教にいたスタッフが、ビデオで売っていたりしたマリアのそれまでの言葉と、キリスト教等の既存宗教の文脈を突き合わせて辻褄の合う「教典」なるものを作ってくれた。最低限、何を説いているかはっきりしないと団体として認められない。
それまでは、マリアの言葉というのはアドリブで「お告げ」のように喋っていたが、それが時代の空気にあったというのも、マリア発明の独創的な内容というよりは当時のスペースコロニーではありふれた、もともと皆知ってるような教えだったのだろう。宇宙で暮らす人々は大地との絆を失っているのです、とか、母胎的・女性的なものが大事ですなどは、どこのスペースコロニーでも言われていそうなことで、無学なマリアが人に話すにしても不思議でないと思う。ただ、最初からそんなことを語るために宗教を思い立ったわけではなかった。
こっちからわたしの連想するのはコードウェイナー・スミスの『鼠と竜のゲーム』。それをいうと今度はまたアウトロースターの「猫と少女と宇宙船」。富野読む気ないのか…。
ベックメッサー
これはワーグナーのリスニングからの続き。
クンパ大佐は劇中でずっと「他人のあら探し 」をしていて、言うことはかなり手厳しいところもある。アイーダに言う、道具の使い方云々とか……。
レコンギスタ運動はもとは彼が仕組んだ騒動とはいえ、劇冒頭のラライヤ事件から始まる一連は彼の意図ではなく、想像以上にナンセンスだ。ときには生真面目に、あまりに地球人が馬鹿馬鹿しいので苛立ちもする。
スコード世界の中枢キャピタルにいて、出身不詳の余所者なのに各国のタブー破りの監視をする調査部の長に就いてる、あからさまに怪しい人物だが、その物腰で誰からも敬意は払われている。実のところは、アーミィの士官達からも煙たがられているのだが、人から敬遠されることについては気にしてない。そのくせ、ジュガンごときが「あのなあ」とタメ口になると、あとでかなり気分を害している。
このあと『アベニールをさがして』では、読むのはこれからだが、ここではベケットの古典的な価値とか、不条理劇の面白さの説明などはまた、全くないと思う。読者は知ってる前提だ。そこは日向オノレ君がアケモちゃんの気を引きたい一心で懸命に喋っているところ。たぶんこんな感じ、
「実のところ今だってさ、正確にいえば僕たちが必要なんじゃない。テンダーギアは優しいマシンだし、他の人間にだってこの任務はやってのけるに違いないよ。僕たちより上手くできるかどうかは、別としてさ。インスパイアー・エンジンや、アラフマーンのスペシャリストがいるわけじゃないんだ。ベストン・クーリガの呼びかけは日本人、むしろ人類全体に向けられたものだった。ただし、今現在この場では、この場でアラフマーンにもっとも近い位置にいるのは僕たちだ。これは僕らが好むと好まざるとにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。そうだろ?」
「ごめん、聞いてなかった」
「確かにね。事の賛否を互いに一々検討して考えぬくことも、人間の条件だ。笛吹中尉はサージェイのダイサンカのビジターであるからには、わが身に少しの反省もなく任務に邁進できる。フール・ケアさんはすぐにアウトサイダーを言って、ただちに逃げ出す。でも、問題はそこにはない。「僕らが」「現在」「ここで」何をなすべきか、考えねばならないのは、それだ。だがさいわいなことに、僕らはそれを知っている。そうだ、この広大な混沌の中で明らかなことはただ一つ、すなわち、僕らはアベニールをさがしているということだ」
「そりゃそうね」
みたいに、めちゃくちゃ語りたくなるのだがだからといってオノレとアケモちゃんが手に手をとって宇宙に飛び出していくかというと、発進しない。オノレは、ネットゲームでやっているシェイクスピア時代の英語が好きのように書いてあったけど、シェイクスピアを熱読しているかは、わからない。高校生に演劇史や文学史が語れるわけはないだろ。わたしは面白いので、やろうかな。今度は英語を直にと、折角するなら福田恆存作品の延長でつづきだ。
Toward Star
そういえば先日、『アベニール』の想像上のサントラとしてはどうかで、Vガンダム続きイメージで千住明でもどうか、同時期の『沈黙の艦隊』なんか聴くと案外いけそう、という話をしていた。
そのときに大谷幸といっていたのは『アウトロースター』のことで、アウトロースターのOSTも昨日少し聴き直してみたけど、わたしはどうも……今そういう気分でもなかった。伊東岳彦のトワードスター世界もったいなすぎるので、わたしも今でも多少の未練はある。
その繋がりだとゴドーを待ちながらというと、『宇宙英雄物語』の連想の方があるけど、挿絵だけをネタに富野小説であえて語ることはとくにない。インティパ世界ってエーテル宇宙じゃん、でもバイストン・ウェルとの関連や連続を語った方がこちらは強いし。
『ゴドーを待ちながら』第二幕、おわり。これは手元にしておいても良い本だ。わたしはこの頃の演劇がそんなに得意分野ではないけど、これをどうやって上演するのかが非常に面白いやつ。今は富野通読の話が主……。
富野作品と不条理劇のようなことは、直接にはあまりないだろう。富野アニメにしても小説にしても、作品自体は不条理な作品はめざしてなく、右肩上がりに上昇していってカタルシスという考え方だと思う。劇中、点々と意味不通な台詞の応答や、何も起こらない、のような要素は感じられてもそれに専念してそれをしようとしているとは思わない。
このたびの通読では前回Vガンダム中のウッソに、強い目的意識をもつことへの疑い、のような台詞が、ちらっと混じった。『Vガンダム』全体がその話になっているかは、べつだが、その順序は憶えておくといいと思う。それはないわ、じゃなくて、ある。
エンジェル・ハィロゥのようなエリアでは、心に思うことが率直に現実に起こる。人の思うことは他人の思いに溶け込んでくるし、全面的にファンタジー世界に突入している。その場では、「何ができるか」より「何を望むか」ではなかったか、もしも意思の強さが問題なら、人類を抹殺する意思が強ければ意図としていいのか、のように反省させられると、そこはむしろ幻想文学がもっぱらにする領域になる。「語り」の興味では、寓意や目的を志向しない・語らないとか、何かをしようと言いながら何も始まらないとか、信じてはいけないと語る、物語の方法もある。
ゴドーを待ちながら
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(1952)を読む。安堂信也・高橋康也訳(2009新装版)。『アベニールをさがして』この後の章にその話が出てくるから、そのついで。今夜、第一幕まで。訳注に構わなければこんなのすぐ済む。
ニュータイプなどは一山幾らで扱うフォンセ・カガチが個性としてもっとも優れている・偉大だわ……のように思うやつは一定いると思う。ありふれてると思うが、木製帰りにしてもカガチを「ニュータイプ」と認めて語られることはない。その場合は、宇宙人になりきって異質の倫理観を振りかざすようになった人々、などいう。
『ごく一般的なニュータイプ』『五万人ほどのサイキッカー』などが平然と語られる場所でサイキックとニュータイプがどう違うのか等、初歩的な疑問すぎて訊けそうにない。近未来SFや遠未来のテクノロジー万能社会に微弱なプレコグやPK能力者が普通に認知されていていまだ説明がついていないことは普通のことだ。
ニュータイプは同時代に対して普通じゃないタイプをいうが、サイキック自体はサイガ・ババ級の能力者もきっと民間にいる。フールケアに常識や慎みのないのはいずれにしても問題だ。小型核融合炉やEMOがあってなんでピアスがだめだ。
『どういう男とだっ!』と鉄仮面がひとり叫ぶとき、もし聞こえていたらそこを指摘されるのはセシリーにはこの瞬間にもいささか不本意だろう。シーブックには本懐と思える。
『シーブックならいいのよ!』とは胸を張って言えないと思うな。『機械ごときに!(つべこべ言われることじゃないわ!)』と押し切ってしまうか……弁論部。
普通の倫理観
ふつうの人
ふつうじゃない人
『ピアスくらいいいだろ』という感想はアベニールではこの後くどいくらい続くので、忘れる。
「沈黙の艦隊」オリジナル・サウンドトラック(1995)も、ついでに聴く。高橋良輔監督のOVA、千住明作曲、演奏ワルシャワフィル。指揮者のアンソニー・イングリスは上のTHOUSAND NESTSもと、このあと菅野よう子のあれこれでアニメ音楽リスナーもたびたびみてる名前だと思う。
スターバスターかパブッシュ艦隊みたいか、事あるごとにナショナリストと罵られる連想かな……。わたしはアベニールを千住明の想像したことはないと今さっき書いたばかりだったが、画が伊東岳彦でなければ案外いけるかもしれない。
盤の説明がややこしい。これのこと。これとべつに、ボブ佐久間作曲のラジオドラマ音楽と、そのドラマもたいへんお勧めなのだがわたしは原作漫画のファンというわけではそんなにないのが不思議。これは別の話。
「機動戦士Vガンダム」~交響組曲第二番 THOUSAND NESTS 千住明、を聴く。これもあらためて書くことないだろう……ガンダム関連アルバムではずっと人気だし、わたしも好きなやつ。わたしは千住明アルバムをそんなに蒐めたりはせずにきたけど、ドラマのテーマ曲集ベストとか、持ってても聴かない。交響組曲第何番という作家の通し何番で時折に集成してくれたほうがわたしはいいな。カレンダー組曲なんかはもってる。
つぎ「アベニールをさがして」の音楽のイメージ……のように思うと、千住明という気はわたしはしないかな。当時の雰囲気だと田中公平でも大谷幸でもありそうな気はする。
富野由悠季をユーモア作家だと思っている人って今意外に……でも、そうだろう。人間性の文学性の深みとか、現代思想家のように語られなければならないのか。言われてることは大半「ユーモア」で片がつきそうでもある。
Vガンダムおわり、つぎアベニール。4月までにガンダムシリーズまで終わってしまえと思っていたようだけど、まだ『密会』を忘れていた。まあ、ネット封鎖とかは今もう気にすまい。
ジグザグ機動などは「戦術」の一端として、本当にセオリーなんだろうと思うけど、それを見たカミーユやファラが、いつものように「人の感性を逆撫でするように動く」「小癪なかんじ」と思って、次に、ああなるほど、と腑に落ちる節を挿むのは恒例じゃないか。
戦場の哲理シリーズ
富野小説中の戦闘場面中、兵士が語り伝えているらしき伝説・迷信・ジンクスはくり返し出てくるものもあり、通読なら書き控えておくとよかったかもしれない。三つ四つはすぐに思いつく。
「砲声が聞こえる間は生きている」のような事実は、そこから踏み込んで「構えている間は死神こない」「恐怖を殺して只中に飛び込む」「あとは本能に任せても間違わない」のように展開することもあり、しまいに行くと本当に「哲理」の語りになる。「ビームの直撃は恐怖を感じない」のように分岐して別の展開もする。
富野やガンダムにかぎらず、現実の過去の戦争体験記や戦記小説からの引用を求めれば無数だろうし、作れば後からでも作れる。富野作品に出てくるやつ~の関心だと、思いついても具体的な用例箇所は逐一目で探す必要になるので、面白そうなことは通読時に拾っておくことだ。今度おぼえておこうか。
スペースコロニーの雪はスペースコロニーの畑と無縁だしね。コロニーの農作物は農業コアのようなところで集約生産される。『F91』の牛乳の話題のように、なんとか人手を入れようという理念はあるが、自然と人のかかわりを語らせればあらかじめ作り事にはなってしまう。でもシャクティもまたそれはすこし厳しいと思うよ。Gレコのように下れば、宇宙には宇宙の夢も物語もあると言いたいと思う。
自然との関わりで築かれる人の規範、というようなまとめになるな……。上で「行動規範」について言葉だけ掠めたので参照しておく。先々に、「宇宙にある海の夢」のような言い方を聴くとき、こういう箇所を憶えていると印象が違うだろう。
シャクティ流のこだわり
シャクティ語のその後の展開は、5巻になると、月面都市に降る雪についてシャクティ独自のこだわりを見せる。「こんなの雪じゃないわ」と呟くところ、雪については彼女に一くさりの蘊蓄と、こだわりがある。
これは事実。シャクティのこだわり処は、
「雪」というより、「物語」にシャクティの押したいポイントがあるようにも思える。人工の雪は軽いのよ、軽い物語しか語れないのよ、雪ってもっと物語るものだし、雪が降って震えるのは、体ではなく心なのよと思ってるようでもある。
偉大なるエンジェル・ハィロゥ
「偉大なるエンジェル・ハィロゥ」に対してはこのあと「偉大なるプロト・フロンティア」のような偉大なるイメージもある。ずっとあとにGレコの頃に「偉大なる脅威」なんてトラックにもある。偉大さ、というか、偉大なるさ較べ。「圧倒する」とかで求めても面白いかな。
「雄偉なる」のようでは必ずしもこの語感は出ない、やはり偉大なるだ。
規範形成と夢の話は、今ここで別の話だが、ファンタジー(幻想文学)の話をするには有益なので機会があったら今度しよう。ダンセイニなんか夢の話をしないで語れない。
「主義」と「行動規範」の言葉の使い分けみたいなことは前にいった。そこは、単にまぎらわしいからの理由。
主義について、マリア主義は何主義なんだとか、貴族は主義じゃねえだろとか、そういうことはこのたび、とくに言わんかった。
行動規範
三日月のブーフゥ、ザンネックとのサイキックバトルになっていくが、初会合のこれのここ、わたし面白い。大方はファンタジー的表現だと思って読まれるだろうけど、頭脳ファンタジーはともかく「行動規範」という言葉を使うのがことに面白い。「鈴の音」を聴いた瞬間にこうなって、続いて敵のビームが来る前に、ノータイムで回避行動に移る。ウッソの深い意識から発した衝動がそうさせる、という。
行動規範は、ここは明らかに意識してこの語を使ってる。こんど通読中に「規範」という言葉は点々とあったが、「行動規範」ととくにいうと、小説ではオーラバトラー戦記のあいだに二度、軍人のそれと民間人のそれのような文脈であり、このあとアベニール中に一箇所ある。おおむねただの「規範」。こういう言い方もある。
日常、あらゆる場面場面で瞬時の行動を求めるとき、人間はそのたび毎回、その場で得るデータを根拠に考えて「判断」をしているわけではないし、そもそもその場で何が適切か曖昧な状況というのが常だ。道で大声を上げている者がいたら反射的に振り向くか、振り向かずにそのまま歩き抜くのような行動は、人によっては同じではない。わたしは行動という興味はもともとあるのと、ここ十年くらいは、幻想文学と夢の話がつづいて、こういう言葉には敏感になっていた。
『小股の切れあがったジュンコ』『ガラッパチのシュラク隊』とか、1990年代でも現用語としてはなかなか……使いづらくなってはいただろう。MAVじゃあないが、界隈のジャーゴンとしてでもまだ使ってみたい語だガラッパチ。
シュラク隊はガラッパチか。上のクロノクルの少年時代の「ヤクザな気分」と同じ意味でシュラク隊のコニーのような性格の底にあるはぐれ者・無頼の気分のことも、ヤクザ気質、とも呼んでいた。それは、ヤケのヤンパチ。シュラク隊の女達の気分は『Vガンダム』の主要な見せどころのひとつだからこまごま書いてある。
メカのデザインがゴチャゴチャしていくことを(ちょっと違うが)この巻の表現では「バロック化」と書いてある。それがわざわざ巻末に参考文献として入れてあるけど、ガンダム界隈でバロック化なんて用語は聞いたような覚えがない。「『恐竜的進化』なんて今どき、言わんだろ」みたいなことはきく。
Vガンダム4読了。このあいだの「カスバ」の話は、アメリアじゃなくてどうも月面都市セント・ジョセフのようだったな。わたしのはんぶん記憶だし……。
この直前に、『ダウンタウンの各階層ごとには、それぞれの民族が、それぞれのマーケットや歓楽街を形成して……』というユートピア感の話がチラとあって、この時代の宇宙都市にも民族があることには触れてる。今これくらいでつぎ、か。
上でもふれた「言葉」や「道具」のような個々の話題は、こないだのシオの文学観のような一連の続きでもあり、それは小説媒体だから挑んでもいるので、アニメのキャラが出ないとか、キャラの代わりに富野の思想を代弁しすぎ、みたいな読者の通念からは踏み込んでこない。わたしは話し相手がいない。
もっとも、ガンダムはロボットアニメで、レーベルは角川スニーカー文庫で、読む層は上から下まで無差別な想定のガンダムの場で、富野が『子供相手に子供騙しはしない』と言ってたとしても、最初からジュブナイルの枠を超えて十代の読者に分からない話を説明抜きにするのは大人げなさだ。
ジュブナイルというのは子供騙しの意味ではなくて、ジュブナイル自認でも必ずしも恋や冒険や成長を描かなくてもいい。恋や冒険や成長は、そのテーマなら十四歳とか十七歳という年齢でも未経験で十分に受け止める、というレーティングにすぎない。というのは、先日も隣で書いた。個人の嗜好では、四十歳や六十歳がジュブナイルを読んでいても全然構わない。
一方で、この作品の主題の感情はせめて二十歳くらい…という読者の制限もときには求めないと、無造作に踏み入ってきた層には、それを価値あるものとして受け取ってくれないだろう。青少年の保護よりも作品保護の意味で。
実年四十でも十五歳水準で停まってる人もいるし、五十歳感覚で居ながら社会的見地からレーティングを意識してジュブナイルを語っている人もいる。その二者は一見おなじに見えることがある。1970年代から80年代、90年代というのは事実として野放図の感はあっただろう……のような思いは浮かぶ。わたしはガノタというよりは、ファンタジー文芸一般のうち富野愛読者あたりに退いてる。上の線引きがあって不毛なやりあいに混ざる気がない。
Vガンダム3まで。『ガイア・ギア』のときに少しだけ掠めたが、モビルスーツの空戦描写はこの小説Vガンは面白いと思ってるのだけど、それは一瞬ですぎ、3巻の内容はすし詰めでアーティ・ジブラルタルからあれよあれよの間にカイラスギリー艦隊とぶち当たり、それ自体前代未聞の椿事を高速で飛ばして子供達のサイド2まで行ってしまう。しかも、その高速進行で肝心のドラマを飛ばしている気はしないのが結構すごいところ。
まあ読者によってはそう思うかもしれない。間に挟む富野ドキュメントが「余談」「脇道」と思って、ストーリーの筋道と関連づけられないで読み飛ばすというのは……むしろ大半かもしれないけど……、ここはべつにそんなファン同士の安易さや馴れ合いは関係ない。著者に体当たることで、わたしは長年フレンドもフォロワーもゼロでする通読は作業だ。
ずっと彼のことを考えてる。3時間か4時間しか寝ない。彼には気づかれていないと思っていたら、彼の方はとっくに察してる。相手は侮れないと思いつつ、どこかで侮っていたとわかってまた見直す……。の、ようなところな。なんの初期症状なんだ。会った瞬間に未知の未来をサイキックに予知したのかもしれないが、それ自体べつの言葉で一言でいえんか。
主人公オアイーヴを全面的に後押ししたくなる、というのはやはりジュブナイルには好ましいことだ。そこが心が壊れてると、『オアイーヴにもグレイにも共感しないがわたしはどうも、わたし自身ナイワスのような役だと思っている…』のような読み方になってしまう。
タニス・リーの吸血鬼って血を吸うとはかぎらない。『薔薇の血潮』って血吸ってたっけ…。吸血鬼短編のアンソロジーに収録されてるが、いつものリー作品なだけで作中とくに吸血行為にこだわってないようだ、とかね。
「曖昧なときはまず収集する」が原則。見過ごすと次に出遭う機会は何年後にもなるから、怪しいものは拾っておいて後で整理した方がよい。
また、収集基準の境界でいつもいつも悩むようなのは、分類の立て方を怪しむ。「吸血鬼」のような名前がもともと適切でないか、文化的にすでに意味を失っている等で、切り分けるか、あらたに命名し直す。こういうときにパワーワードも使う。ここまでは前回。
FTを蒐めているところで「魔法」なんて分類を設けてもすぐに爆発しそうだな。「不死」なんて多いのか、実はそれほどでもないか……キャラクターでなく作品の要素でいうと「吸血鬼小説」には「不死テーマ」が必ず付随しているような気もするし、「文学は人間を不死にするもの」のように言い張ればあらゆるジャンルの作品が不死属性にもなる。
これはまた、これを使うユーザーごとの特殊な興味で、必要に応じてデータを作っていくべきこと。それも、できるだけタグの数は増やさず、重複内容は整理するよう念じながら、「分類作らないと困る、不便だ」との内圧が昂じてきたらそのときの合図だ、というのが同じ法則だろう。だから今は憶えておいて、面倒だからしない。「ドン・キホーテ」というジャンルだけは設けているな。
作業場を読メからブクログに移った利点のひとつに、登録アイテムのタグ管理が細かくできて著者名による以外にもたとえば作中要素を抜いて「タニス・リー 吸血鬼」とか「タニス・リー 白雪姫」とかスペース区切りで属性分類ができる。作品数が多く、あの感じの例のあれはどれだっけ……という短編タイトルを思い出せないことがよくあるから、これは活用すべき。
このタグはユーザーの個人的な設定項目だから好きに振っていいが、使い途としてはカテゴリに含まれるアイテムが二件以上あって初めて役に立つ。あまりに一般的で多すぎると逆に役に立たない、表示欄が混雑するから「ドラゴン」より「龍」、収集内容を限るより広く採ったほうが用になるので「龍」より「竜」で始めたほうがよさそう、など想像できる。これらの要点はphelenのアーカイブ作成方針なんかのときにも注意書きしたのが使える。
She had succeeded, worked the magic without spells, by her will alone.
上でも書いているので続けて書いたりはしない。言いたいことはわかるはず。わたしのここのは「いま何章まで読んだ」の報告だけでいいと思ってるけど、作品自体それほど長くはないし、黙ってればすぐ読み終えてしまうかな。
シャクティが無口な子か……、というと、「言葉を使うのが苦手」というよりか、「シャクティ語でしゃべっている」ようなことは、1巻最初から書かれてはいる。シャクティの言葉使いは、今のところウッソにしか解読できない、カサレリアの近所のおばさんにも通じないのはわかっているけど。ウッソは、彼女独特の語彙や表現力にはしばしば感嘆してる。人形みたいに無感動な子ではない。
シャクティは、大人の常套句を自分がまねるのは「恥ずかしい」と思うし、「自分の気持ちをちゃんと説明してない、とりあえずの表現」の言葉使いにためらう。
ここの再読では歴史観についてじわじわ触れているが、ここでいうとき「史観」というのも「道具」だ。人類はどんな歴史を辿って今どこにいる、という認識も、史観Aまたは史観Bのどちらが上手く現状を語れるかという、道具の使いこなしの問題としてのみ俎上にのぼる。その結果が作中グロテスクに積んでいくが、
ひとまずここまでの筋道があってウッソ2巻になる。わたしは発行当時からだけど、初読では「グロい」という感想になるのは仕方ないとして、バイストン・ウェルほどじゃない。今の再読だと、今までにないくらいスリリングな感覚をおぼえるね。
シャクティ語 リスニング
ぶらぶらしてる少年の投げやり、という意味だ。ここのヤクザ。
クロノクルのヤクザ
2巻15章。クロノクルはビクトリーの戦闘を望観しながら、そのマシーンを操縦しているのが彼をシャッコーから振り落とした少年ウッソということは想像もつかない。白いモビルスーツの性能に戦慄しつつ、対リガ・ミリティア戦の今後の局面を危惧する。
クロノクルの過去、少年時代の様子は前の章で少しだけ描かれた。士官である現在の「実直な反応」としては、敵兵器の凄さを認め、彼の役職上の立場としては、その脅威が彼の属するイエロージャケット部隊の今後の仕事(任務)にどんな影響をもたらすか、に思いを走らせている。
そこでもし「実直でない反応」をするとたとえば、こんな仕事やってられるかっ! 怖いんだよ! 俺はもう帰りたい!! のように言うと、なかなか実直ではない。正直な気持ちではある。
クロノクルが少年時代のテンションに戻ってしまうという、「ウッソ・エヴィンと白いガンダム」の関係(!)を彼が呑み込んでしまうと、今の実直さもすっ飛んでしまうかもしれない。富野ヤクザといえば「やられたらやり返す」暴力応酬のことで言うことがあるが……これを見て、そんなのありかよ!と不条理を呪ったり、ウッソ・エヴィンめ! このインチキ小僧ーッ!のように激昂するとヤクザやチンピラに近くなると思う。ウッソとシャクティの関係のことはクロノクルのストーリー線上にまだ昇ってこない。
今のような言い方はプラクティカル・マジックよりか、プラグマティックというんだ。そんないかがわしく訳されてはいないよ。『呪文がきいたのだ』と書いてある。
オアイーヴは目をつぶって立ち尽くしているので、"呪文"は、唱えていないようにみえるかな……心の中で必死に気持ちを呟いているけど。魔法がきく過程は地の文で綴られている。だから合ってる。
The Spell had worked.
小説を書くにかぎらずあらゆる作業進捗報告で、この文、――「やっておきました」と書き込むと実際に行われる効果ある。今案外ゆったり読んでいる。オアイーヴ可愛いな。
ついでに、わたしは邦訳を対読はしていないけどあるものは隣でたまにチラ見でき、室住信子訳はなかなか気が利いてるし読むには日英どっちでもいい。
とにかく、タニス・リー作品には必ずこれが出てくることと、徹頭徹尾これが後年まで作者のテーマになっているのが「タニス姉貴はガチ」という理由でもある。
実践的だから、という実践的なことに欠点もなくはなくて、欠点はある。何より「実践すると死にます」という話をするんだから無意味に大勢にばら撒くには悪い物語群だ。言えば、「死んでもいい」目的があるときにはリーを読んでいれば捗る。それか死なないか、死んだら自力で生き返る人。
この世に、熱情的に生きられる人は成人のもしも10パーセントくらいだとしたら、「熱情を説き続けること」は残りの90パーセントにとっては望んでも決して報いえない、不毛さの害にもなりかねない。また、熱の人も何の目的や甲斐も得られない日々にこの種の教唆を聴き漁り続けると心を蝕まれる。処方箋としては、そのときにはダンセイニみたいな態度の方がいい、と上記。「信じるな」という語りの徳もファンタジーの方法としてある。本当を説き続けないからといって、嘘じゃない。
小説を読んで癒やしになるとか、力になるとか、そういう読み方を勧めているわけではない。「読書は娯楽だ」と思ってる人にとっても、娯楽として読めない鬱になることがある、のこと。とくに、古典的な共感呪術を基礎にしているものはその理論で効いているはず。その後、80年代末頃を境に創作の方法は変わったらしい。
faith
The Winter Players
Indifference kills faith, and lack of faith puts out the torch of God that burns in each of us. 云々。これらにかぎらず、上でも触れたが、faithとかindifferenceは初期の作品には頻出するので一々その箇所を書き留めたりはしない。タニス・リーのファンタジーで魔法の使い方は一貫していて、ジャンルがSFでもそこは変わらないくらい、基本。
タニス・リー魔術の特徴は実践的なことで、プラクティカル・マジックというとこれのことだ。小説作品は架空の創作なのになんで「実践」か? という話はわたしはしない。それには今後もそれを書く気ない。
「物や人の真の名前を知るとそのものを支配する」のような作動原理は、実践魔術に必ずしもいらなくてリー作品にはあまり出ては来ない印象。言葉に対して無関心なわけはないが、呪文や、儀式様式の無意味さについては結構手厳しい批判が入ることはある。伝統やしきたりにはとにかく逆らえ、破れ、というくらい反逆徒だけど、命名や呪文にしても全く使われないわけではない。Birthgraveはそうだし、このあとすぐVolkhavaarなんかにも出てくるはず…。