魔法を発動するときに、 Lilune set her doubts aside. のように書くことは作家にとってその都度、重要だったと思うが、翻訳者は必ずしも原作者の作品歴を通して研究しているわけではないし。ここでは、わたしは逐一チェックしてもいい。毎回するとくどいけれど。
He got up, and the rain again stopped, as if in sympathy for his task. リアは立ち上った。雨はまたやんでいる。リアのこれからの仕事をあわれんでいるかのように。
ここは、『あわれんでいる』(かわいそう)ではなく、共感魔術(呪術)的な意味で、彼の行動とその場のシチュエーション(天候)があたかも連動(共鳴)しているかのように、のこと。
本書のこだまともこ訳は、ちらちらと原文と較べ読んでいると原文に忠実でない書き変えが多く、意図を汲んで日本語に書き変えているかも少し怪しいところも点々と見受ける。だいぶラフな翻訳か。リーのジュブナイル作品にも民俗や神話伝承のような趣味が多分に盛り込まれているが、とくにオカルト的な文脈ではこの邦訳は物足りない。ただ、1983年にこの軽い読み物程度の訳に求めることでもなかったと思う。
そもそも作中に登場したことはないからどっちだっていいが、コモン人にとってもその暗黒世界を呼ぶか、そこに住む悪鬼的存在のことを呼ぶか場合によって異なる。目の当たりに見たものは誰もいない、それくらい伝説的な名でしかない。「バイストン・ウェル物語」ではこの地下界一帯のことは基本的にどうでもいい。
「ガロウ・ランの片割れ……トゥム……ネイラ・ザンの変化(へんげ)が……」
前巻、旧25新16に、トランス状態になったリンレイが口走る台詞にあった。小説中では、わたしは他に見たような覚えがない。
ボッブ・レッスの存在はキャラクターとしては作中にろくに登場したことはないだろう。オーラバトラー戦記のクライマックスとか。姿形も定かでない。
「35 惨殺という景色」(旧) 「22 揺れ地」(新)つづき
表現の違いだけでなく、ラとザの位置が入れ違っているのだが、たぶん完全版のほうが正しいのだろう。ボッブ・レッスに住む者たちについてはガロウ・ラン以上に不明。ノムについては、前章にもガダバには悪霊のような伝承があるとされていた。
シュムラ陣営の軍議から多少。
ダム・ボーテによる分析・予測には若干の修正。
完全版ではこの軍議の中で、リンレイの船団が遅れていることは開戦前にすでにガダバ側に報知されている。
開戦前、リンレイとビナーの身内談合の中、彼らの目からのアマルガン評。リンレイの旧側近の長老格のビナーは、アマルガンを発見した人物だが、その際には、フェラリオの力を借りてでも国盗りをたくらむというアマルガンの発想を買ったのだといい、
アマルガンがフェラリオの力を借りて国盗りを企む男と知った時から、アマルガンを押し出して、キェの国を再興することを目論んだのである。(旧)
旧版ではこれだけだが、完全版ではそのアマルガンの「発想」について、
ガダバが急進してきたのも、ガロウ・ランと結託したのではないかという噂があれば、フェラリオとの合力も考えられないではないのだが、それはコモン界の歴史でも、黒歴史として封印されていることであって、いやしくもコモン人が考えるようなことではなかった。 その禁忌にさわろうとしたアマルガンをビナーは、革新的だと感じたのである。(新)
禁忌に触れること(タブー破り)、黒歴史と言う。黒歴史と聞いてはさすがに読者も驚くが、2010年頃に富野文ではもはやガンダムシリーズと無関係にその語が使われる。しかも、今現在に至っても、文中で黒歴史の語を(スラング的にでなく)使いこなせるのは富野由悠季その人以外にないだろうと思う。
「34 揺れる大地」(旧) 「22 揺れ地」(新)
迫水はアマルガンと合流、迫りくるシュムラ・ドウ率いるガダバ正規軍、約三倍もの敵を特殊な地形で迎える。この章の内容は完全版の再編で文章の組み替えが目まぐるしい。省略部分の大きな点では、戦いの前に迫水がアマルガンの求めで全軍の前で「法定」を披露する場面が削除。劇的なシーンで惜しいといえば惜しい。
「アトラ・ハシース物語」杉勇訳 から再開。今、読み始め、第一部第三欄まで。
「世界観」という言葉にはそもそもこういう使われ方がある。これは『Uボート』から。
このごろ、店では二つのグループが出来ていた。おやじのクルーがみずから名のるところの〝古ザック〟と〝若い行軍兵〟とに。後者は世界観を叩きこまれた連中で、総統への信頼を目にたたえ、おやじの表現では、あご筋肉を張る連中。鏡の前でベラ・ドンナばりのすごい目つきを練習し、流行だというだけで必要もないのに女の尻をつねり、ぱんぱんのズボンではずむような踊り方をする。体重をやや前に傾けて。
ギルガメシュ叙事詩終わり。本書の解説の内容はこのたび、わたしは既に再三くり返しの内容になっているのでざっと読む。
叙事詩自体の感想といえば、このストーリーを現代に知らない人はいない……一般教養としては、大体知っているだろう。わたしはこれがどんな場面で朗誦なり、演じられたものかの想像をする。それといつも思うのは、古代には人口に膾炙したという物語が文明の興廃とともに一度は忘れ去られたということの、驚き。それも名を変え遠くは近世まで残存していたとも聞くが。二千年、三千年間の時間の経緯を想像してまた呆然とすることも。それはこの叙事詩について思うときたびたび。今夜これだけ。
第十の書板まで。
もともと愛情はもってるつもりはないところにこの空虚な人物から「おまえはあの娘を愛している」と言われて、そんなわけあるか、そうではないと言いたいところをここはぐっと押さえる、という多重屈折ぶり。最初から愛はなかったのはたしかだが、この「屈折」を設けられることに意味があるかのよう。
リルーンがコーリングの術でひとの心に支配的影響を投げると同じく、ラルドナーの心にザスティスが影響を投げていたのはそれなりに同じだろう。今は、前回『The Storm Lord』からの続きで読んでいるから思い出した。
dark and paleと書かれている間は気づかないし、宮廷貴族に囲まれて空笑いしているときにも気づかないけど、ここに来て正体を表すような面白さだな。ラルドナーに似ているかというと、似てないが、clever and stupid, clever foolishとも。
The Duke smiled a pale and hateful smile.
このシニカルな領主はファンタジーの人物として珍しいわけではないが、リーの作品中では続きで思い出すものがある。くり返し意識的にこういう書き方を作っているから同年頃の執筆中に連想はしてるはず。
13まで。
魔女について"One's sufficient."ともう一度くり返すが、この台詞がどういうわけか前の文に紛れ込んだのかな。何かの言葉遊びの意図にしては、今書いたように発話者が不明に見えておかしい。
それに続く、「で? だったらどうだ?」と高飛車に続けるところはとくに省略される理由もなく、たんなる脱文かな。
門番とのやり取り、"Are you telling me I can't enter the town?"のあとに、
"One's sufficient."
との台詞は誰が発したのかよく分からない。邦訳をめくったが、この文は省いてあって訳されていない。続いて背の低い方が揚げ足を取って答え、背の高い方が無関心げに肩をすくめて、続き、"Well," went on Shorty, "what if I am?"の台詞も邦訳になし。
Volkhavaarのときも見たのは邦訳書に時々文章が脱落していても、訳者の手落ちとはかぎらない。底本に用いたテキストによって脱文とか脱語があるのかもしれなかった。もしくは補訂か。上のところは、台詞の意味は分からなくはないものの前後の続きから会話が続いていないように見える。その台詞を省いた方が合っていそうなところだ。
第六の書板まで。
シロッコは木星で何を見たか 1 / 2 / 3
この「はじめに」の中に、
いわば翻訳者はこの場合編集者でもあり、まあ多かれ少なかれそれらのばらばらな材料から首尾一貫したイメージを浮き上がらせるためには、かなり主体的な再構成をせざるをえない。
いま本文の文脈はあえて切って、最近筑摩世界体系のシュメールの部で、クレイマーについて、
彼の研究上の特色、すなわちシュメール語を読む際にそれの文法の詳細な分析よりはむしろ自身の主観によって理解することが多いという点(これは文学作品を「なめらかに」読むために有効ではあるが)を鋭く批判して、多くの点でクレイマーの解釈とは異なる見解を提出した A. Falkenstein, (「イナンナの冥界下り」解説から)
わたしは今回、クレイマーの自伝からシュメールの内容を読み返し始めているので言われていることの想像はできるように思う。日本語の文章では自ら「主体的」というか、「自身の主観による」といわれるかでは読者の印象は違うだろう。それも、このジャンルの学者は全員がそれをよくよくわかって言っているに違いない。
第三の書板まで。
矢島文夫訳、このたびは上記の電子版。今、読み始め、第一の書板まで。
Part Twoまで。 Part Twoの間の村人の怖がりようもまた上の印象がするのだけど、そればかりを言ってても仕方ないけどね。
むしろこの電子版が、Dark Castle / White Horseの二作がカップリングになっているのがまた、分からなくもない。読み返したい、短いにもかかわらず180ページほどが読みきらないのは隣の『リーンの翼』も今、同じだな……。
『リーンの翼』完全版1読了。
やれやれという気分だな。旧3でレビューを書き込んでいないが……無精にすると後からあらためてする気を起こすには壁になる。今夜はもういいだろう。
旧33新21つづき。 恐獣との戦闘のあと、旧版ではビラッワルとの会話が完全版ではあらためてメラッサに振り替えられてあるのだが、
影のように目立たないながらも、ずっと迫水のちかくにいる青年で、機転は利くのだが、迫水のことをどう思っているのか、いまだに想像がつかない相手なのだ。
このメラッサ(ムスターマ)は新旧版の浮沈の間で影の薄いキャラ、のように前回書いたが、「影の薄いこと」をキャラにしつつある。
全章の通読一回おわり。エリアーデ『世界宗教史』は21-22まで今読んだ。
『エヌマ・エリシュ』を通し読み、世界宗教史は21-22まで読む。次は、『ギルガメシュ叙事詩』。
第Ⅵ、Ⅶ粘土板まで。エヌマ・エリシュおわり。このあと『ギルガメシュ叙事詩』は、このまえその矢島訳電子版を購入したのでそちらを読む。イシュタルの冥界下りも併収。
やはり時間がかかったが、後でもう一度、通し読みしよう。今夜はここまで。
第Ⅴ粘土板まで。
時の鏡Ⅰ-風の地平- (1986/1993) RESOUNDING SPHERE Ⅱ 菅野由弘作品集2 CDより
岩亀裕子(龍笛)、宮田まゆみ(笙)約29分 作品集の曲の中に印象が埋もれてわたしは憶えていなかったが菅野邦楽的現代曲でも好きな系統、「蜘蛛」よりもサウンドに傾いて聴けるものだ。この一連では、CD音源なので音質に難を感じないで済むこともありあらためてチェック。
前回の「星群Ⅱ」同様、これは1993年にカウントすべきかな。どうもそうっぽいけど、もう一回聴いてもいいと思う。
コレスポンデンス'86~増田感の音響彫刻「古霊樹」と電子音響による新しい空間造形のために (1986)
打楽器のリスナーとしてはわたしはこういう音楽自体は聴くけど、これは当時の野外演奏でもあり、流石にちょっとノイズが気になる
特製の飲み物以外、食べ物のようなものは口にしたことがないリルーンは、また今はバースグレイブの連想を多少するな。連想するというだけでその話は別なことは覚えているし、この後の話も覚えていないけれど。
第Ⅳ粘土板まで。
このあとの、「かれ」なのか「彼女」なのか異文があって定まらないなどは、当時にしてもすでに、原文の伝える物語の意味がよく分からなくなっているということだろう。
わたしは楔形文字のことは読めないが原文の音(のイメージ)を辿りたければオンラインで読める。ウィキペディアから頁下部のリンクにある。今これで十分ではないか?
Ⅳ71から
ティアマトは(見なくても分るので) ふり向きもしないで(かれに)呪文を投げつけた。 彼女は原初の人間のように(?) 心にもないことを唇にのせ、(こういった。)
呪文(呪詛)について、「心にもないことを言う」との表現は魔術の話として目をひかれる。もっともシュメール語と翻訳の日本語の差がわからなくては、読者としてはひそかに思っているだけで口にできないことだが……。
英訳と対照すると「偽りを発した」という以外の修辞的な意味はないみたいだけど。根も葉もない言いがかりを飛ばす、はわたしの最近の読書や思案の中でもとくに興味のあるところ。
完全版で迫水の会話中のテレパシー要素に逐一書き込みが加わっていることは、後に、バイストン・ウェル滞在が長くなれば迫水はコモンの言葉による会話になじみ、かえって地上の、日本語を忘れていくという筋でもあった。これはずっと後の話を先取りしてしまうが。
魔法を発動するときに、
Lilune set her doubts aside.
のように書くことは作家にとってその都度、重要だったと思うが、翻訳者は必ずしも原作者の作品歴を通して研究しているわけではないし。ここでは、わたしは逐一チェックしてもいい。毎回するとくどいけれど。
ここは、『あわれんでいる』(かわいそう)ではなく、共感魔術(呪術)的な意味で、彼の行動とその場のシチュエーション(天候)があたかも連動(共鳴)しているかのように、のこと。
本書のこだまともこ訳は、ちらちらと原文と較べ読んでいると原文に忠実でない書き変えが多く、意図を汲んで日本語に書き変えているかも少し怪しいところも点々と見受ける。だいぶラフな翻訳か。リーのジュブナイル作品にも民俗や神話伝承のような趣味が多分に盛り込まれているが、とくにオカルト的な文脈ではこの邦訳は物足りない。ただ、1983年にこの軽い読み物程度の訳に求めることでもなかったと思う。
サンライズ筋の記事だとトゥム、ネイラ・ザン、ノムはコモン界よりも地下にある界、その階層についてる名前としてある。
そもそも作中に登場したことはないからどっちだっていいが、コモン人にとってもその暗黒世界を呼ぶか、そこに住む悪鬼的存在のことを呼ぶか場合によって異なる。目の当たりに見たものは誰もいない、それくらい伝説的な名でしかない。「バイストン・ウェル物語」ではこの地下界一帯のことは基本的にどうでもいい。
前巻、旧25新16に、トランス状態になったリンレイが口走る台詞にあった。小説中では、わたしは他に見たような覚えがない。
ボッブ・レッスの存在はキャラクターとしては作中にろくに登場したことはないだろう。オーラバトラー戦記のクライマックスとか。姿形も定かでない。
トゥム、ネイラ・ザン、ノム
「35 惨殺という景色」(旧)
「22 揺れ地」(新)つづき
表現の違いだけでなく、ラとザの位置が入れ違っているのだが、たぶん完全版のほうが正しいのだろう。ボッブ・レッスに住む者たちについてはガロウ・ラン以上に不明。ノムについては、前章にもガダバには悪霊のような伝承があるとされていた。
シュムラ陣営の軍議から多少。
ダム・ボーテによる分析・予測には若干の修正。
完全版ではこの軍議の中で、リンレイの船団が遅れていることは開戦前にすでにガダバ側に報知されている。
コモン界の黒歴史
開戦前、リンレイとビナーの身内談合の中、彼らの目からのアマルガン評。リンレイの旧側近の長老格のビナーは、アマルガンを発見した人物だが、その際には、フェラリオの力を借りてでも国盗りをたくらむというアマルガンの発想を買ったのだといい、
旧版ではこれだけだが、完全版ではそのアマルガンの「発想」について、
禁忌に触れること(タブー破り)、黒歴史と言う。黒歴史と聞いてはさすがに読者も驚くが、2010年頃に富野文ではもはやガンダムシリーズと無関係にその語が使われる。しかも、今現在に至っても、文中で黒歴史の語を(スラング的にでなく)使いこなせるのは富野由悠季その人以外にないだろうと思う。
「34 揺れる大地」(旧)
「22 揺れ地」(新)
迫水はアマルガンと合流、迫りくるシュムラ・ドウ率いるガダバ正規軍、約三倍もの敵を特殊な地形で迎える。この章の内容は完全版の再編で文章の組み替えが目まぐるしい。省略部分の大きな点では、戦いの前に迫水がアマルガンの求めで全軍の前で「法定」を披露する場面が削除。劇的なシーンで惜しいといえば惜しい。
古代オリエント集(アッカド)続き
「アトラ・ハシース物語」杉勇訳 から再開。今、読み始め、第一部第三欄まで。
「世界観」という言葉にはそもそもこういう使われ方がある。これは『Uボート』から。
ギルガメシュ叙事詩終わり。本書の解説の内容はこのたび、わたしは既に再三くり返しの内容になっているのでざっと読む。
叙事詩自体の感想といえば、このストーリーを現代に知らない人はいない……一般教養としては、大体知っているだろう。わたしはこれがどんな場面で朗誦なり、演じられたものかの想像をする。それといつも思うのは、古代には人口に膾炙したという物語が文明の興廃とともに一度は忘れ去られたということの、驚き。それも名を変え遠くは近世まで残存していたとも聞くが。二千年、三千年間の時間の経緯を想像してまた呆然とすることも。それはこの叙事詩について思うときたびたび。今夜これだけ。
第十の書板まで。
もともと愛情はもってるつもりはないところにこの空虚な人物から「おまえはあの娘を愛している」と言われて、そんなわけあるか、そうではないと言いたいところをここはぐっと押さえる、という多重屈折ぶり。最初から愛はなかったのはたしかだが、この「屈折」を設けられることに意味があるかのよう。
リルーンがコーリングの術でひとの心に支配的影響を投げると同じく、ラルドナーの心にザスティスが影響を投げていたのはそれなりに同じだろう。今は、前回『The Storm Lord』からの続きで読んでいるから思い出した。
dark and paleと書かれている間は気づかないし、宮廷貴族に囲まれて空笑いしているときにも気づかないけど、ここに来て正体を表すような面白さだな。ラルドナーに似ているかというと、似てないが、clever and stupid, clever foolishとも。
このシニカルな領主はファンタジーの人物として珍しいわけではないが、リーの作品中では続きで思い出すものがある。くり返し意識的にこういう書き方を作っているから同年頃の執筆中に連想はしてるはず。
13まで。
魔女について"One's sufficient."ともう一度くり返すが、この台詞がどういうわけか前の文に紛れ込んだのかな。何かの言葉遊びの意図にしては、今書いたように発話者が不明に見えておかしい。
それに続く、「で? だったらどうだ?」と高飛車に続けるところはとくに省略される理由もなく、たんなる脱文かな。
門番とのやり取り、"Are you telling me I can't enter the town?"のあとに、
との台詞は誰が発したのかよく分からない。邦訳をめくったが、この文は省いてあって訳されていない。続いて背の低い方が揚げ足を取って答え、背の高い方が無関心げに肩をすくめて、続き、"Well," went on Shorty, "what if I am?"の台詞も邦訳になし。
Volkhavaarのときも見たのは邦訳書に時々文章が脱落していても、訳者の手落ちとはかぎらない。底本に用いたテキストによって脱文とか脱語があるのかもしれなかった。もしくは補訂か。上のところは、台詞の意味は分からなくはないものの前後の続きから会話が続いていないように見える。その台詞を省いた方が合っていそうなところだ。
第六の書板まで。
新刊記事からの刺激連想で、ここ最近の思い返し。この本はまだ読んでいない。
シロッコは木星で何を見たか
1 / 2 / 3
主体と主観
この「はじめに」の中に、
いま本文の文脈はあえて切って、最近筑摩世界体系のシュメールの部で、クレイマーについて、
わたしは今回、クレイマーの自伝からシュメールの内容を読み返し始めているので言われていることの想像はできるように思う。日本語の文章では自ら「主体的」というか、「自身の主観による」といわれるかでは読者の印象は違うだろう。それも、このジャンルの学者は全員がそれをよくよくわかって言っているに違いない。
第三の書板まで。
ギルガメシュ叙事詩
矢島文夫訳、このたびは上記の電子版。今、読み始め、第一の書板まで。
Part Twoまで。
Part Twoの間の村人の怖がりようもまた上の印象がするのだけど、そればかりを言ってても仕方ないけどね。
むしろこの電子版が、Dark Castle / White Horseの二作がカップリングになっているのがまた、分からなくもない。読み返したい、短いにもかかわらず180ページほどが読みきらないのは隣の『リーンの翼』も今、同じだな……。
『リーンの翼』完全版1読了。
やれやれという気分だな。旧3でレビューを書き込んでいないが……無精にすると後からあらためてする気を起こすには壁になる。今夜はもういいだろう。
旧33新21つづき。
恐獣との戦闘のあと、旧版ではビラッワルとの会話が完全版ではあらためてメラッサに振り替えられてあるのだが、
このメラッサ(ムスターマ)は新旧版の浮沈の間で影の薄いキャラ、のように前回書いたが、「影の薄いこと」をキャラにしつつある。
全章の通読一回おわり。エリアーデ『世界宗教史』は21-22まで今読んだ。
『エヌマ・エリシュ』を通し読み、世界宗教史は21-22まで読む。次は、『ギルガメシュ叙事詩』。
第Ⅵ、Ⅶ粘土板まで。エヌマ・エリシュおわり。このあと『ギルガメシュ叙事詩』は、このまえその矢島訳電子版を購入したのでそちらを読む。イシュタルの冥界下りも併収。
やはり時間がかかったが、後でもう一度、通し読みしよう。今夜はここまで。
第Ⅴ粘土板まで。
時の鏡Ⅰ-風の地平- (1986/1993)
RESOUNDING SPHERE Ⅱ 菅野由弘作品集2 CDより
岩亀裕子(龍笛)、宮田まゆみ(笙)約29分
作品集の曲の中に印象が埋もれてわたしは憶えていなかったが菅野邦楽的現代曲でも好きな系統、「蜘蛛」よりもサウンドに傾いて聴けるものだ。この一連では、CD音源なので音質に難を感じないで済むこともありあらためてチェック。
前回の「星群Ⅱ」同様、これは1993年にカウントすべきかな。どうもそうっぽいけど、もう一回聴いてもいいと思う。
コレスポンデンス'86~増田感の音響彫刻「古霊樹」と電子音響による新しい空間造形のために (1986)
打楽器のリスナーとしてはわたしはこういう音楽自体は聴くけど、これは当時の野外演奏でもあり、流石にちょっとノイズが気になる
特製の飲み物以外、食べ物のようなものは口にしたことがないリルーンは、また今はバースグレイブの連想を多少するな。連想するというだけでその話は別なことは覚えているし、この後の話も覚えていないけれど。
第Ⅳ粘土板まで。
このあとの、「かれ」なのか「彼女」なのか異文があって定まらないなどは、当時にしてもすでに、原文の伝える物語の意味がよく分からなくなっているということだろう。
わたしは楔形文字のことは読めないが原文の音(のイメージ)を辿りたければオンラインで読める。ウィキペディアから頁下部のリンクにある。今これで十分ではないか?
Ⅳ71から
呪文(呪詛)について、「心にもないことを言う」との表現は魔術の話として目をひかれる。もっともシュメール語と翻訳の日本語の差がわからなくては、読者としてはひそかに思っているだけで口にできないことだが……。
英訳と対照すると「偽りを発した」という以外の修辞的な意味はないみたいだけど。根も葉もない言いがかりを飛ばす、はわたしの最近の読書や思案の中でもとくに興味のあるところ。
完全版で迫水の会話中のテレパシー要素に逐一書き込みが加わっていることは、後に、バイストン・ウェル滞在が長くなれば迫水はコモンの言葉による会話になじみ、かえって地上の、日本語を忘れていくという筋でもあった。これはずっと後の話を先取りしてしまうが。