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野阿梓 通読 1 ヶ月前
『ガンダムとはなにか、何故この作品がガンダムなのか』
これもうガンダムと違くない? と思っていたら、やはり最後にはガンダムだった、と頷かされるようなものがガンダム作品として面白いんだよ。それと、シンボリズム。
『∀ガンダム』の作品からガンダムを省くのはあまりにナンセンスだろう。はっきり言ってわたしは、キエルとかグエンとかハリーとかはその後、どうなろうがどうだっていいよ。興味ない。
このあと、あきまん先生の『月の風』と、佐藤茂作品の『DEKU』を積んでる。
佐藤茂『∀ガンダム Episodes』読了。
地球降下前のロラン達の訓練過程などは少し興味がある。
でもわたしはそもそも、「ガンダムの出てこないガンダムキャラクターのスピンオフノベル」なるものは一様に嫌っているのでそれ以外ではない。それはジークアクスなどでも、今後なんらかの新作でも同じ。
宇宙世紀にせよアナザーにせよ、ガンダムぬきでそのSF世界観が続くようなガンダム作品は、ない。それをしようとするとすでに陳腐になる。Gレコはそのうちに入らない。Gレコはガンダムの話ではないから。
わたしの感想では、これらの∀ガンダム創作群は、『ローラ・ローラは男だった』という未来の一説から分かれて派生しているジャンルらしい。
ローラが男?と聞いて眉をひそめる史劇ファンのスペースノイドは少なからずいるにはちがいないが、稗史巷談のうち。『ローラはいなかった』というのはif。
福井版も読了。まあこちらは再読だし。『花咲爺』のフォークロアか、『始まりの樹』にしても神話的なアプローチがもっとあったかと思ったけど、なかった。
福井文は富野作品、それも小説作品中の表現について仄めかしている箇所が無数でいかにも「富野オタ」という気分が濃く、ガンダムオタクの気のない佐藤氏と対照的だが、福井氏が富野的なマインドかといえばどうか、という口は二十年くらい聞き飽きたことだろう。
ここの通読の経緯では、∀やUC当時の富野理解は『イデオン』重点というもので、『王の心』から∀に至る流れ、などは反映してない。90年代後半頃の時代一般的なものも思わせた。わたしは福井作品を今これ以上追う気はない。
「ナノマシン・ハザードの怪物」のようなものなら、たとえばGレコのムタチオンなどはそれに近い表現されている。
少年愛や同性愛を扱っても∀の耽美なところは、井荻麟の詞にも西城秀樹にも谷村新司にも濃厚なので、佐藤&福井両氏が全然それには近寄らないのは惜しいところ。作家の性質はあるんだろう。
わたしはちょうど今年あたり野阿梓を読んでいたりしたので、そこは物足りない。
あと、耽美とはべつに「戦場まんがシリーズ」のような雰囲気も足りないな。それらは作家の個性よりは世代か。
佐藤版5巻読了。巻末解説に、このノベルのイラストは萩尾望都を要望したのは富野監督で、ダメモトで言ってみたらOKを貰ったので「こうなることならぼくが書きたいと思った」など書いてある。佐藤氏を蔑ろにする文意ではない。
でも富野監督が∀に「萩尾望都」とまず言ってみたという理由は、とてもよくわかる。当時、安田朗を擁していながら。結局そういう耽美的なものは佐藤版にも福井版の文章にもないので、今となっては「富野由悠季×萩尾望都」は一度読んでみたかったとは思う。
佐藤版。最終巻に来てロラン行方不明でイングレッサのお家騒動や政略結婚などを始めるが、スピンオフ小説にしても『∀の癒し』など読んだあとに富野読者としては今更こんなところでこんな話、どうでもいい。
ガンダムの話でモビルスーツをさしおいてナノマシン・モンスターなども陳腐で、辟易する。『競漕海域』を読んだあとで著者のモチベーションはどこにあるのか分かるので、想像できなくはなかった。
佐藤小説の人物はややデフォルメが強いが、ソシエが事あるごとにギャバンの名前をいうのはアニメならドレスのことで一度区切りをつけた後の時間なので、何度もくどい印象がする。
佐藤茂『∀ガンダム 5 月光蝶』
一:運河
二:燃える月
三:黒獅子王
四:月光蝶
五:十年後
福井版のターンXのサイコミュ(ダイレクト・インターフェイス)のことから、ターンAについても、この小説中では独自の意思があるとする方向で書かれている。「∀に意思(意識)があるか」という話は去年、映画や富野エッセイ・小説等範囲から広く掘ってみて面白い収穫があった。その話は現代でも尽きない。
福井小説では、「∀の心」はあるかないかを早々に「ある」と決めたぶん、では∀は何を考えているのか?は「歴史の巻き戻し」として単純なテーマになっているのかもしれない。当の∀は∀で狼狽したり、ロラン少年の身を案じてやきもきしているような老ガンダムの心情までは興味になっていないだろうか。
佐藤版4巻読了。福井版も、だいたいアグリッパとの邂逅のくだりまで併読。
佐藤版のほうが、作中の出来事はおおむねTVアニメに近い順序で追っていくがアニメそのものではない。佐藤版で短く省略されたザックトレーガーでの事件は、福井版では大幅に増量してアニメの展開とも異なる方向へ舵を切る。
福井晴敏の文体は福井氏独自のものだが、このあたりの文章表現は富野由悠季の小説の表現を仄めかしているし、ガンダムシリーズより『イデオン』を意識しているのは読み取れるだろう。核や化学兵器や、嬉々として「根絶やし」を書き込む福井文のことを悪趣味と感じる富野読者の気分はわたしはわかるが、今とくにそのアンチなわけでもない。
併読だと、佐藤文のほうが女子の裸体や恋愛に終始しているラブコメ調に感じる……のはやむないとして、佐藤版はこちらもこちらでムーンレィスの歴史教育(国史)のような胡散臭い話題も取り上げ始めた。
『敵は海賊・猫たちの饗宴』読了、次は『ルナティカン』。
この間、佐藤版のぎりぎり陳腐なラブコメ調に悩まされつつ、振り返ってみれば『競漕海域』で認識されて本作に求められてるなら、月の運河人の生活習俗などは、いかにも本領、のはずだったんじゃないだろうか。
それでまた、それほど高度な心理がわかる・わかることが互いにわかる、くらいだったら、なんで二千数百年も前に分かれた二つの文化が、通訳なしにそれほど流暢に言葉が通じるのかがまた不可解さを強めるという……。カタコトで上のやりとりが通じているとは思えないだろう。
福井版
この前後ではすでにグエンに対して、本文の表現(ロラン・ディアナ目線)が次第にネガティブ評価を示しているにもかかわらず、この台詞については、読者も「そうだ、そうだ」という、グエンよく言った、という感想を抱くだろうと思う。
それは、相手の程度に合わせるとか保護するという態度自体が、ムーンレィスの傲慢だ、ディアナの傲慢さだという気持ちで共感すると思う。そこは正しくない。
グエンはそれを指摘したには違いないし、言われてディアナとロランは黙った。作者は、ここで自分の論法の誤りを認めるで黙るディアナの謙虚さこそ正しい、というあくまでディアナ支持をするけど、わたしに言わせればそれも正しくない。
福井版下巻、四章まで。まだ佐藤/福井両版の交互併読ができるみたいだが、福井版の足が早くなってくるほうが(当然ながら)早い。ギャバンのエピソード等には退屈し始めた。
あと、ヒーリングがストーリー中に重要な役をもっていること。
わたしはどこが好きかというと、グノーシス世界の再創造とかの話ではなくて、カラーラが精神世界でアンドレアの記憶を盗み見るところ。テレパスFT。
あとわたしは、四大元素の精霊王とかドラゴン達のようなものが出てきて世界の仕組みを説く話は常にそいつらに反感を抱く、とは以前にも書いた。地上の生命に善意的な精霊がのさばってくると、なんであれ世界滅ぼしたほうがいい側に気持ちが傾く。
刊行順では『〈骨牌使い〉の鏡』のほうが一年近く早いのか。そちらを先にしようかな……今どのみち、全作品網羅しようという勢いではないんだが。骨牌、は電子書籍で上下すでに入れてある。
このあと、『ヴァルキリープロファイル 上』(2000)。上巻のみで途絶しているのは知っている。わたしは、そういうのはもともと問題でない。それと、これ以後もこれらのゲームは全てプレイしてない。
『遥かなる波濤の呼び声』読了。下巻は一日以内で読んだ。
感想はすでに上で書いたがややこしすぎるのでは……グノーシスを省いても海洋アドベンチャーを読みたい気になる文章だと思ったが、退屈する前に終わった。「あとがき」を読めば率直にあれもこれも書いてあるし。
あとがきに書いてある『パンツァードラグーン』のサントラについては、東祥高の再リスニングのときに去年か一昨年か触れた。
前回、『機械じかけの神々』より。
先日から『遥かなる波濤の呼び声』(1994-95)。まだ、富士見ファンタジア文庫。
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このうちの、『真・女神転生 エル・セイラム』(西谷史, 1994-96)については、野阿梓作品中の連想から。
それと、この前日に読んでいた古泉迦十『火蛾』(2000)に言及している。
タニス・リーというか、間接的には久美沙織作品を読んでいた関連で、最近の「グイン・サーガ」の展開を知ってみようかと思った経緯から。他が積みすぎていて、グイン・サーガには今すぐいかない。
タニス・リー等の関連から最近読み始め、前回『機械じかけの神々』。五代先生の全作品を頭から全通読していく……ようには、今ちょっと間に合わないと思うけど、感想を呟いていたら積んできたので独立トピックで続ける。
『白い女神』は、古代宗教のたとえばアフロディテとかアルテミスのような「大女神」からの関心ではないか。いま、世界宗教史のトピックではそれは個別に取り上げられないと思うが、ヴィーナスの神話やそれらその頃の一連のうちだ。
"I, Claudius"は1976年にBBCでTVドラマ化されている。Electric Forestの"Tri-V style"と何か関係あるかはわからないが、読み返すにはちょうどいい機会だ。
これは蔵書中にあって本当に読んだのかわたしは疑問になるが、開いて一章読んだところでもう面白い。なんでロバート・グレーヴスに興味を起こしたのかは、たぶん『白い女神』についてではないか。それも、いま題名しか憶えていない。
白い女神、だったら今ここのタニス・リーについても別の意味で大いに関係あったろう。最近、ジェイン・ヨーレンを少し読んでいたがヨーレンにも同名の小説があって、このあたりの裾野はしばしば重なるのは普通。
I, Claudius
You, Claudio...というと、"I, Claudius"という響きを反射的に連想してしまう。ロバート・グレーヴス。何か関係があったっけ。以前なんの経緯だったか忘れたが、手元にある。今読んでみようか。
ウェルズの「マーダーボット」シリーズをこのまえ読み始めていたけど、これとは違うがTVドラマの引用で基礎学習しているような節が似てはいて面白いかな。
"Tri-V style"の話法が強烈に印象的なのは、何とも表現のしようがないな。「独特の魅力」などとは、映画の真似なのでいいようもない。
タニス・リーは実際に当時のTVドラマの愛好者だったらしいが、わたしは今から遡ってそこにどんな引用元ネタや言及があったとしてもわからない。でもこの、必要最低限の台詞だけでぴしゃりとやる、相手の言葉を鏡写しに返す言い方が、昔の映画のヒロインっぽいのもたんに本人が人見知りとかコミュ経験がないからというのは楽しい。