迫水隊の若者達が迫水に軽口もきいてくれるほど馴染んだ、信頼関係、結束、のことから「戦闘集団」について論じる一文が始まる。旧版では、
完全版では2-5はおおむね脱線として、戦闘集団についてナポレオンが言ったことに要約されている。
フェラリオがいるような世界で細菌がどうとか……地層中に古生物の化石が発見されるか等いうのがナンセンスだ。人間の夢がそれを思い描くようになって仮に数千年しか経っていないとしても、数百万年や数億年の歴史を含めた世界を創成するかもしれん。
スィーウィドーについては、『逆襲のシャア』(ベルトーチカ・チルドレン)の中でスペース・コロニーの「スウィート・ウォーター」のことを「スウィーウィドー」と書き違っている箇所がある。
「28 スィーウィドーのこもれ陽」(旧) 「19 スィーウィドーの狭間」(新)
スィーウィドーの森の説明のなかで、その巨大な樹が支えているという天の水、コモン界の上にある水の世界のことをウォ・ランドンというのだが、この「ウォ」には、小さな「ォ」ではなく「ウオ・ランドン」と記してあることがよくある。
『リーンの翼』中、「水の世界(ウォ・ランドン)」のようにルビしてある場合には区別が付かない。ルビでなく本文に「ウオ・ランドン」とあるのは1巻の序文から早々にあるが、2巻の間には「ウォ・ランドン」ともあり、作中ではどっちの場合もある。旧版4巻28章のここではずっと「ウオ」と書かれている。『ファウ・ファウ物語』にも「ウオ」と書いてあるのが見られるがシリーズの後の作品になるほど「ウォ」に統一されていくようでリーン完全版は全て「ウォ」になっているようだ。
この前の「フイルム」でもそうだけど、富野監督くらいの年配の方だと文に「ウォ」と書いても音読では「ウオ」と発音しているような場合がよくあるんじゃないか……みたいにはわかる。それは推すけど、それとしても、ウォ・ランドンのネーミング元は「ウォーターランド」のようなわりと安直なところだとは思うが、「ウオ」というと「魚」の連想を誘うような、燐を鱗とも呼ぶ言い伝えにつながるのかな……のような空想もわたしはする。
わたしのこのたびの通読では、アーマゲドン史観とかアポカリプスについての経緯を参照。その話はずっとしているともいえるが。最近でもこういう記事を読むにつけ、どういう作家の過去の経緯かは少しおさらいしておきたいとは思った。少なからず印象が違うと思う。
旧27/新18章おわり。旧版3巻読了。完全版1巻はまだ数章つづく。このあと旧版のあとがきも読んで終わりにする。 章末を少し遡る。
戦いの激しさのわりに戦死者は少なく済んだ。だが、完全版ではそれでも、負傷者を抱えて集団が山岳地帯を脱出する困難は「むしろ死んだほうがましだという様相」について一言足した上で、
しかし、人類史は戦争の歴史と認識している迫水には、そのような様相をみても、まだ自分の戦い方に問題があるから、戦傷者をださない指揮官になりたいとは思っても、戦争を回避する方策はないのか、と考えることはなかった。
と括られる。かなり重要な加筆部分かと思う。迫水達はこれでゲルドワの地を去る。饗宴の後に迫水が夢見るのは、一度だけ父に連れていって貰ったことのあるという、
いずれにしても迫水の郷里ではなく父の郷里だが、夢に描く光景は新旧でだいぶ違う。これも新版での要所のひとつ。
憧れ、もある。
「国を思う馬鹿真面目さがあっただけです。それが、自分の取柄でしたが……」
『特攻を志願した青年が、ついに自分のその生真面目さに、たとえ謙遜であろうとも、馬鹿という形容を使ったのである』としてこれを驚愕すべきことという。続いて、
「世界観」の語が使われる。まえに氷川竜介氏の日本アニメ論を新書で読んだが、氷川さんが日本アニメ史の転機として語るときには「世界観主義」という用語を使ってそれを強調する。その主役の一人が、当の富野由悠季でもある。
この、アニメの話前提での「世界観」の語の使い方については氷川本などはとくに参考になる。アニメ話でなければ、その考え方は「コスモロジー」と呼んだり、「ヴェルトアンシャウウンク」のように呼んだりするとも、すでに触れた。
さらにいうと、では、「富野由悠季は世界観主義の作家か」というと、とてもそうは思えないことも言っている。エモーショナルなもの、のようなことをどういう前後文脈から言うのかなども、前回復習した。
「異世界ものストーリー」(現代日本から異世界に行く話)について、人気でもあり定番でもある型が、現代の歴史学の成果によって更新されている歴史観を、中世や古代相当の思想しか持たない世界に投入することで圧倒的な武器になるという「歴史学は武器」信念は、今現在でもおそらく基本的に覆ってはないだろうと思う。
現代から、銃砲などの兵器や、農作技術や、経営マニュアル等などを抽出して武器にする個別話題は、今問題にしてない。「古代的な世界では、古代戦術の考え方が逆に有利なんだ」という逆転の提示も今はそれなりに説得的に広まっていると思う。もっとも、それ自体は近代思想である。
『バイストン・ウェル物語』は異世界に機関砲を持ち込むことが主要な問題だったことはない。「魂の物語」がメインテーマで、歴史解釈がどうかもその魂の話のついでにされることだ。
前回、『ガーゼィ』の間にも史観闘争のことに少しだけ触れたが、わたしは昨年まで、「歴史観の争奪戦」がテーマになっている日本のSF作家も数人見てて、アニメ監督では押井守を挙げていた。押井作品はそればかりをやっているわけではないけど……『獣たちの夜』『雷轟』のようなとくに小説作品を読んでみると、山田正紀みたいな作家との親和性はわかりやすい。今のは、富野的な立場ではむしろそれでないなと思うほう。
4月頃には『ドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる』とわりと軽く飛ばしているけど徐々にシリアスになる。
余計にこまごまと書き込んでいるようだけど、わたしはわたしなりに富野ファンの界隈など知っていても、読者としてあながち無用な指摘だと思ってない。むしろ『リーンの翼』の作中、アマルガンの性格は地上人の迫水に大らかで豪放、くらいに典型的な豪傑的性格としか大半の読者は読んでないんじゃないかと思う。「裏がある」と言えば野心家だ、というくらいか。
だがアマルガンはむしろ、登場した当初から得体の知れないほどインテリで、どうにもインテリ臭がするので自分でそれを隠そうとする、武人的に振る舞ってみせようとするような男だった。性格がそれで、なおアマルガンの思想はきっとそんなに理解されていない。
ここでは大衆の狡猾さ、英雄をスケープゴートとすること、という社会現象の見方(読み解き方)を紹介しているのだが、まず「スケープゴート」という言葉にはぽんと口にするには時々使われ方の怪しいことがある。
自分は人の上に立たず、名を求めないことで決して権力に根絶やしにされることもないという「民衆の強靭さ」については、決して、古代からも知られていない人間集団の性質ではない。古代中国やローマなどでも「王侯の権勢の虚しさ」を笑いつつ、雑草のように生きる無名の民衆としての自負――のようなものは、たとえば文学の中に見られるそれは、いつの時代にもある。
ただし、歴史の記述方法として、民衆を主役として民意なるものはいずこにあるかを歴史理解のテーマにすることは、比較的新しいことだ。歴史の法則は天意よりか民意にあるとして……そうした近代の史観を持って現れたのが前回はゴゾ・ドウだったろう。アマルガンもまたバイストン・ウェルに今までなかった歴史観でもってバイストン・ウェルの「現在」を理解しようとしている。
それは、作中ここまでのエピソードからするとゴゾやアマルガンが各々の人生の遍歴から磨き出してきた信念だったと思われていたが、どうやら最近になって地上界から人間がたびたび降りてくることが増え、そのインタビューから「地上の思想」を直接に学んでもいる想像もできる。迫水以前にもアマルガンはそれらに会っているだろうことと、ガダバにも地上の歴史学を教えている者がいると思える。
「27 祭」(旧) 「18 祭」(新)
ドラバロにリンレイを据えて本陣に奉る話、そのアマルガンのもくろみについて、アマルガンの諸国を巡って知っていた大衆の民意なるものの考え方とともに、完全版では加えて、近年になり地上界から地上人・地上の文物・発明品が続々と流れ込んでくるようになって『世界そのものがいびつになってきたのではないか?』という危機感が書き足される。
アマルガンの動機に彼個人の野心だけでない、世界のゆがみを正して世界を平穏にしようという、漠然とながらある種の使命感のあるのが『リーンの翼』新旧版で無視できない違いだろう。
『宇宙探査機 迷惑一番』読了。つぎ、『今宵、銀河を杯にして』。
『迷惑一番』の水星にはランクマー市がある。敵は海賊、だったかにもフリッツ・ライバーの引用があったように思うけど、今となってはどういう気分なのかよくわからない。わたしはたまたまそのへんは読んでいても、古典に詳しいわけでもないしな。周回しているなら時々メモする。そういえば、ファファード&グレイ・マウザーの未訳の巻も積んだきりまだ読んでいない。
旧版のここの「恣意的」はもう誤用とするべきだろう。完全版で削除されているからそう言うのでもないが。
替りに、「意図的に」「作為的に」でも意味は間違っていないが言い方が弱い。凶暴な、それも悪意にコントロールされてと言いたい。「攻撃的」「殺意的」とも言えばその志向性も含むが、富野文の語法という感じはもうしないな。
探してみたが、この意味では富野小説作品中でも「情念」の用例の方が多い。むしろリーン以外では「恣意」のこんな突飛な使われ方は見当たらないくらいだ。
文芸一般に情念というと、たとえば江戸時代の幽霊話で、自然の現象では説明つかないし、倫理や筋道も通っていないのに、ただ憎いや、悲しい、愛しいだけの想いで、そこに忽然と幽霊が立ち上がったり、クラクラと炎が燃え立ったりするとき、物質や肉体を超えても「情念だけの世界」が語られる、のような言い方に使われることがある。
なので、情念と言ってくれればわかりやすいが、なおそうは簡単に言わない。エモーショナル、エモーションという英語にはまた英語独特のニュアンスが被るので今避けよう。
しかし、その爆発の力は、人の目に見えない時間の中で、内爆を起こし、バイストン・ウェルの、いや、ゲルドワの地の醜悪な恣意を吸い込んでいた。 それが、ミン・シャオの恣意を核にして凝縮し始めていたのだ。
この上もはやくどい繰り返しのようだが、前回から続き、こうなるともう「恣意」の普通の意味ではほとんど意味がわからなくなる。恣意だから、放恣に、放散するものじゃないのか。それを核に一点に凝縮させる恣意、とは何だ?
意思、ではなさそうだが思惟、に近い。情念と言ってしまえばよさそうなものを、「意」の字は採りたいらしい。 リンレイのところでは情欲、欲動のように近くおもったが、ミンは身体が四散したところで欲(よく)する身体がない。
そのうえで、完全版17章の文中にもまだ
ガブロラウたちの予測した位置に敵将の幕舎を
というところは修正されずにガブロラウの残滓が残っている。
この話って、「城の話」ではあるがそれと別に、「昼と夜に隔離されて育った子供」太陽を見たことがない女の子と月を見たことがない男の子のような古い話の型もやはり踏襲していると思え、わたしは最近ジョージ・マクドナルドの「昼の少年と夜の少女」(1879)を読み返していてその時にこの「闇の城」を連想していた。
ただしこちらは、おとぎ話シチュエーションがそれを思わせるくらいでそこに神秘的な意味合いはない。リルーンが可愛いの一心でけっこうだ。
いま手にある電子版は Dark Castle, White Horse として二作がカップリングになっている。英語を読むけど、邦訳で既読。前回、Volkhavaarのときもそうだったが、既訳があると気になってちょくちょくそれを覗いて進まない癖があるので、それはあまり気にせずに原文の方を読む。Kindleリーダーの辞書機能を引くより邦訳をめくった方が早いことはある。
本作中の「シニシズム」についての表現。メモ。
それが「冒険の動機」として別の現れを取るときには、
The Storm Lord読了。ちょっと時間をかけすぎた。毎回言っているが……。このあとAnackireに続けるか、ジュブナイルのDark Castleに一回気晴らしに逸れるか。どっちでもいいし、併読してもいいんだけど。
22、23まで。
21まで。
「ギルガメシュとアッガ」まで。
より新しい本では『シュメール神話集成』(ちくま学芸文庫, 杉勇・尾崎亨訳, 2015)があるが、これの電子版は227MB――ということは書籍データとしてはあまり活用できないやつだ。今これは用いない、その場合は紙書籍から。
半世紀も経っているんだからその間に内容の更新・訂正もたくさんあるはずだが、ここまでやったならその推移もあらためて見ることができる。わたしはその専門じゃないし、今その興味でもないが。このシリーズは古代エジプトの集成もある。
尾崎亨=五味亨先生なのか。じゃあ内容は同じらしい。訂正箇所はきっと少なからずあるだろうけど、ということ。
幻想世界の生物(人間以外の)の起源のようなことを考え始めるとすぐに困難に突き当たるのは目に見えているが、人の意思によって成っているような世界なら人類以前にどうだったか等……。それも、何百万年とは遡れるような気はしないにもかかわらず、あたかもこの世界で永年進化してきたような、歴史ありげな動植物、魚がいて、菌もいる。
いっそ強獣くらい超自然・不自然に見えるものなら、「地上界の人々の太古から抱く恐怖のイメージ」のように説明つくかもしれない。バイストン・ウェルの獣や樹木や花々も、生きているように見えてはいても、いずれも人の思い描く幻のような産物かとも思う。
コモン人には歴史学がない。コモン界で人々が古くからどのように暮らしていたか、昔にどんな事件があったかについて「伝承」はあるが、それらの人の営みが時に沿ってどのように進展(あるいは停滞)しているか、その意味を訊ねることをしていない。ただ、コモンの営みは何千年もさほど大きくは変わらずだったと伝えられている。ごく最近になり、ゴゾ・ドウのようなある種の歴史理解をもつ人物、故事の記録上にみられる事象にはある法則性があって強大な勢力を誇った文明が崩壊するときはこうだとか、英雄と呼ばれる人々が登場する時代にはこうだ、といったある一定の観点から時間を見つめ直す、解釈する思想を備えた人が現れ、その史観にもとづく支配権の再編、覇権を求め始めた。
バイストン・ウェルの地層を掘って古生物の化石が見つかるようには思いにくい。また一方、地上界にとっても、……地上には地上人のもともと住む地球があり、太陽系があり、銀河があり……といった宇宙観が、バイストン・ウェルと無縁にどれくらい実在しているのか――のような疑問には、バイストン・ウェル物語のうちでは、シリーズを通して地上の実在性が問われることは少ない。けれど、前のような「地上の歴史へのガロウ・ランの介入」が言われ始めるなら、この先は地上も含めて一つながりの「語り」の内にする、と言わんとはしていると思う。それを読者や、作品理解の上にも、今も全然そういう取り上げ方はされない、とは思う。
『ガーゼィ』では、ハッサーンは細菌の存在を知らなかったが、「目には見えないものが病気の原因になる」という説明にはオーラのような「見えない力」については巫女として想像できる素地があったので理解してくれていた。
『リーン』のここも、ホコリのように舞い上がるカビやキノコの胞子がその生物の種子のようなものだろうということはきっと古くから知られているし、中には毒もある。細菌の概念がなくてもコモン人には「菌」はそういうものを言うと思えばそれは不可解でもない、か。
ガス灯の青い光の中に埃が舞いあがる。 「ウッ!」 「ボロボロだ……」 「静かにやれ! 悪い菌があるかも知れんぞ!」
完全版では「黴菌」。バイストン・ウェルのコモン人に病原菌、細菌の概念があったのか。
アンマ・ガルレアが迫水を気にしているのは前からわかっているが、彼女の発する「匂い」を嗅覚で察してそれは動物の牝の匂いだという。ただし、
それでは、アンマは、死にゆくために、この作戦に参加したに等しい。 死力を尽す敵というものは、遠慮会釈もなく敵の隙を突いてくる。その原始的な道理の世界に別の気分を持って参加する結果は、明らかであった。
で、迫水は彼女に一言釘を刺しに行く。これに近い言い方って富野アニメでも時々見てはいるようで、たとえばレコアのような人はそれが目に見えるのだろうけど、ほかに、Gレコのバララに対してマスクが『戦場に嫉妬を持ち込むと死ぬぞ』と呟くときの気持ちも、これと並べると台詞の聴こえ方が違うんじゃないだろうか。
〝あれは、化生(けしょう)だ。人じゃあない。人の生理などは持っていない……〟
ここでの「化生」はお化けの意味。作品年次が前後するが、『ガーゼィの翼』の本文中に「化粧」と書いてある文が多分誤りだと書いたけど、「化生」についてここにも用例があるので多分そうだろう。ガーゼィのそこは、超自然の存在で、人の生きている現実に即していないもの、のような意味。
ここ、旧版26章で迫水隊のメンバーのガブロラウがわざわざ性格を紹介されて部隊を先導するが、ガブロラウは前々章で壮絶な爆死を遂げたはずで、死んだはずの彼がまた活躍するのはここは本文が誤り。
完全版では、前章でガブロラウの死について迫水があらためてリンレイに確認していたのと、ここでのガブロラウ云々は削除、あとのガブロラウの台詞はミグニに引き継がれているようだ。そのためか、いまの冒頭の推察の半ばにミグニとの短い会話が新たに挿入してミグニの存在を前に出しているみたい。
「26 カタビタンの胎動」(旧) 「17 カタビタンの胎動」(新)
周囲の「気」を察知すること……これは前から書いてある。それに、前章のリンレイと同時に経験した超常的ともいえる洞察についてセックスの神秘と、バイストン・ウェルが不思議の世界であることと、リーンの翼も加担していることも加えれば「不思議ではない」と断定する理屈は富野作品に特徴ともいえる、すごい強弁の仕方だとわたしは思うが、そこまで言われれば仕方ない。不思議だと言ってるんだからわざわざ説明しなければいいのに。
このうちにある「悟性の高まり」のようなときの「悟性」について、富野文の悟性もまた特殊な意味を含まないといけないかもしれないが、今そこは掘るまい。ニュータイプのような超感覚知覚も悟性のうちとして語られる。
「日頃その気分をつなぐ…」というのは、わたしは音楽は概ね野外、道歩きの間にイヤホンで聴いていて、実のところクラシック音楽はその騒音環境にはあまり向いていない。
映像作品のサウンドトラック盤は多少の音響効果が被っても気にならず、それが多くなりがち。前回、昨年からの経緯で和田作品がお気に入りに入っていたけど「個人的に同時に読んでいた」以外に直接関係はない。菅野由弘作品の通しリスニングも、こことはいまひとつイメージが繋がらないし……。
タニス・リーは本人の見た目の印象でパンク・ロックの人じゃないのかとわたしは思っていたが、わたしがまずジャンルをよくは知らないし、その形跡もあまり分からないことだ。リーの映像化作品というのは実質的に皆無で、その劇伴音楽のような既存のイメージは、ない、と思っていいだろう。
小説を読みながら音楽作品のイメージを探すのは、連想に連想を連ねる面白さと、文を読んでいないときにも日頃その気分をつなぐ感じでするが、タニス・リーのWikipediaページのInfluences項をみると、クラシック音楽への言及ではまずプロコフィエフ、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、ヘンデル……と続いていて、まるで参考にならない。そんな列挙ならおよそ誰の何作品についても言えそう。
ただ、ショスタコーヴィチの交響曲についてはAnackireの場面についてと具体的な理由が書いてあり、これからAnackireの予定ではあるから憶えていてはいいかと思った。たまたま、「ショスタコーヴィチ没後50年」らしくNHKラジオで一連の番組を録音したりはしていて聴くなら事のついでではある。NHKラジオやクラシック音楽界隈は毎年、どの季節にも誰かの生誕か没後30年か50年か100年を記念している。
あとこの項にある「影響関係」はやはりあんまり参考になりそうにない。古典的名作以外は、「当時の英国のTVドラマ」というのはそのパロディ要素はかなり大きそうでしかもわたしに分からないことだが、ちょっと辿るすべを持たない。まあまずそこまで真っ先にマニアックに行くまい。ショスタコーヴィチの準備くらいは、今しよう。
She longed for him to silence her, take her and use her, although she did not truly understand these desires.
これもジャンルの古典的な書き方かな。
「イナンナの冥界下り」まで。
迫水隊の若者達が迫水に軽口もきいてくれるほど馴染んだ、信頼関係、結束、のことから「戦闘集団」について論じる一文が始まる。旧版では、
完全版では2-5はおおむね脱線として、戦闘集団についてナポレオンが言ったことに要約されている。
フェラリオがいるような世界で細菌がどうとか……地層中に古生物の化石が発見されるか等いうのがナンセンスだ。人間の夢がそれを思い描くようになって仮に数千年しか経っていないとしても、数百万年や数億年の歴史を含めた世界を創成するかもしれん。
スィーウィドーについては、『逆襲のシャア』(ベルトーチカ・チルドレン)の中でスペース・コロニーの「スウィート・ウォーター」のことを「スウィーウィドー」と書き違っている箇所がある。
ウオ・ランドン
「28 スィーウィドーのこもれ陽」(旧)
「19 スィーウィドーの狭間」(新)
スィーウィドーの森の説明のなかで、その巨大な樹が支えているという天の水、コモン界の上にある水の世界のことをウォ・ランドンというのだが、この「ウォ」には、小さな「ォ」ではなく「ウオ・ランドン」と記してあることがよくある。
『リーンの翼』中、「水の世界 」のようにルビしてある場合には区別が付かない。ルビでなく本文に「ウオ・ランドン」とあるのは1巻の序文から早々にあるが、2巻の間には「ウォ・ランドン」ともあり、作中ではどっちの場合もある。旧版4巻28章のここではずっと「ウオ」と書かれている。『ファウ・ファウ物語』にも「ウオ」と書いてあるのが見られるがシリーズの後の作品になるほど「ウォ」に統一されていくようでリーン完全版は全て「ウォ」になっているようだ。
この前の「フイルム」でもそうだけど、富野監督くらいの年配の方だと文に「ウォ」と書いても音読では「ウオ」と発音しているような場合がよくあるんじゃないか……みたいにはわかる。それは推すけど、それとしても、ウォ・ランドンのネーミング元は「ウォーターランド」のようなわりと安直なところだとは思うが、「ウオ」というと「魚」の連想を誘うような、燐を鱗とも呼ぶ言い伝えにつながるのかな……のような空想もわたしはする。
わたしのこのたびの通読では、アーマゲドン史観とかアポカリプスについての経緯を参照。その話はずっとしているともいえるが。最近でもこういう記事を読むにつけ、どういう作家の過去の経緯かは少しおさらいしておきたいとは思った。少なからず印象が違うと思う。
旧27/新18章おわり。旧版3巻読了。完全版1巻はまだ数章つづく。このあと旧版のあとがきも読んで終わりにする。
章末を少し遡る。
戦いの激しさのわりに戦死者は少なく済んだ。だが、完全版ではそれでも、負傷者を抱えて集団が山岳地帯を脱出する困難は「むしろ死んだほうがましだという様相」について一言足した上で、
と括られる。かなり重要な加筆部分かと思う。迫水達はこれでゲルドワの地を去る。饗宴の後に迫水が夢見るのは、一度だけ父に連れていって貰ったことのあるという、
いずれにしても迫水の郷里ではなく父の郷里だが、夢に描く光景は新旧でだいぶ違う。これも新版での要所のひとつ。
憧れ、もある。
世界を捕えるための認識のありよう
『特攻を志願した青年が、ついに自分のその生真面目さに、たとえ謙遜であろうとも、馬鹿という形容を使ったのである』としてこれを驚愕すべきことという。続いて、
「世界観」の語が使われる。まえに氷川竜介氏の日本アニメ論を新書で読んだが、氷川さんが日本アニメ史の転機として語るときには「世界観主義」という用語を使ってそれを強調する。その主役の一人が、当の富野由悠季でもある。
この、アニメの話前提での「世界観」の語の使い方については氷川本などはとくに参考になる。アニメ話でなければ、その考え方は「コスモロジー」と呼んだり、「ヴェルトアンシャウウンク」のように呼んだりするとも、すでに触れた。
さらにいうと、では、「富野由悠季は世界観主義の作家か」というと、とてもそうは思えないことも言っている。エモーショナルなもの、のようなことをどういう前後文脈から言うのかなども、前回復習した。
「歴史学は武器」信念
「異世界ものストーリー」(現代日本から異世界に行く話)について、人気でもあり定番でもある型が、現代の歴史学の成果によって更新されている歴史観を、中世や古代相当の思想しか持たない世界に投入することで圧倒的な武器になるという「歴史学は武器」信念は、今現在でもおそらく基本的に覆ってはないだろうと思う。
現代から、銃砲などの兵器や、農作技術や、経営マニュアル等などを抽出して武器にする個別話題は、今問題にしてない。「古代的な世界では、古代戦術の考え方が逆に有利なんだ」という逆転の提示も今はそれなりに説得的に広まっていると思う。もっとも、それ自体は近代思想である。
『バイストン・ウェル物語』は異世界に機関砲を持ち込むことが主要な問題だったことはない。「魂の物語」がメインテーマで、歴史解釈がどうかもその魂の話のついでにされることだ。
前回、『ガーゼィ』の間にも史観闘争のことに少しだけ触れたが、わたしは昨年まで、「歴史観の争奪戦」がテーマになっている日本のSF作家も数人見てて、アニメ監督では押井守を挙げていた。押井作品はそればかりをやっているわけではないけど……『獣たちの夜』『雷轟』のようなとくに小説作品を読んでみると、山田正紀みたいな作家との親和性はわかりやすい。今のは、富野的な立場ではむしろそれでないなと思うほう。
4月頃には『ドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる』とわりと軽く飛ばしているけど徐々にシリアスになる。
余計にこまごまと書き込んでいるようだけど、わたしはわたしなりに富野ファンの界隈など知っていても、読者としてあながち無用な指摘だと思ってない。むしろ『リーンの翼』の作中、アマルガンの性格は地上人の迫水に大らかで豪放、くらいに典型的な豪傑的性格としか大半の読者は読んでないんじゃないかと思う。「裏がある」と言えば野心家だ、というくらいか。
だがアマルガンはむしろ、登場した当初から得体の知れないほどインテリで、どうにもインテリ臭がするので自分でそれを隠そうとする、武人的に振る舞ってみせようとするような男だった。性格がそれで、なおアマルガンの思想はきっとそんなに理解されていない。
ここでは大衆の狡猾さ、英雄をスケープゴートとすること、という社会現象の見方(読み解き方)を紹介しているのだが、まず「スケープゴート」という言葉にはぽんと口にするには時々使われ方の怪しいことがある。
自分は人の上に立たず、名を求めないことで決して権力に根絶やしにされることもないという「民衆の強靭さ」については、決して、古代からも知られていない人間集団の性質ではない。古代中国やローマなどでも「王侯の権勢の虚しさ」を笑いつつ、雑草のように生きる無名の民衆としての自負――のようなものは、たとえば文学の中に見られるそれは、いつの時代にもある。
ただし、歴史の記述方法として、民衆を主役として民意なるものはいずこにあるかを歴史理解のテーマにすることは、比較的新しいことだ。歴史の法則は天意よりか民意にあるとして……そうした近代の史観を持って現れたのが前回はゴゾ・ドウだったろう。アマルガンもまたバイストン・ウェルに今までなかった歴史観でもってバイストン・ウェルの「現在」を理解しようとしている。
それは、作中ここまでのエピソードからするとゴゾやアマルガンが各々の人生の遍歴から磨き出してきた信念だったと思われていたが、どうやら最近になって地上界から人間がたびたび降りてくることが増え、そのインタビューから「地上の思想」を直接に学んでもいる想像もできる。迫水以前にもアマルガンはそれらに会っているだろうことと、ガダバにも地上の歴史学を教えている者がいると思える。
アマルガンの民衆史観
「27 祭」(旧)
「18 祭」(新)
ドラバロにリンレイを据えて本陣に奉る話、そのアマルガンのもくろみについて、アマルガンの諸国を巡って知っていた大衆の民意なるものの考え方とともに、完全版では加えて、近年になり地上界から地上人・地上の文物・発明品が続々と流れ込んでくるようになって『世界そのものがいびつになってきたのではないか?』という危機感が書き足される。
アマルガンの動機に彼個人の野心だけでない、世界のゆがみを正して世界を平穏にしようという、漠然とながらある種の使命感のあるのが『リーンの翼』新旧版で無視できない違いだろう。
『宇宙探査機 迷惑一番』読了。つぎ、『今宵、銀河を杯にして』。
『迷惑一番』の水星にはランクマー市がある。敵は海賊、だったかにもフリッツ・ライバーの引用があったように思うけど、今となってはどういう気分なのかよくわからない。わたしはたまたまそのへんは読んでいても、古典に詳しいわけでもないしな。周回しているなら時々メモする。そういえば、ファファード&グレイ・マウザーの未訳の巻も積んだきりまだ読んでいない。
旧版のここの「恣意的」はもう誤用とするべきだろう。完全版で削除されているからそう言うのでもないが。
替りに、「意図的に」「作為的に」でも意味は間違っていないが言い方が弱い。凶暴な、それも悪意にコントロールされてと言いたい。「攻撃的」「殺意的」とも言えばその志向性も含むが、富野文の語法という感じはもうしないな。
探してみたが、この意味では富野小説作品中でも「情念」の用例の方が多い。むしろリーン以外では「恣意」のこんな突飛な使われ方は見当たらないくらいだ。
文芸一般に情念というと、たとえば江戸時代の幽霊話で、自然の現象では説明つかないし、倫理や筋道も通っていないのに、ただ憎いや、悲しい、愛しいだけの想いで、そこに忽然と幽霊が立ち上がったり、クラクラと炎が燃え立ったりするとき、物質や肉体を超えても「情念だけの世界」が語られる、のような言い方に使われることがある。
なので、情念と言ってくれればわかりやすいが、なおそうは簡単に言わない。エモーショナル、エモーションという英語にはまた英語独特のニュアンスが被るので今避けよう。
凝縮する恣意
この上もはやくどい繰り返しのようだが、前回から続き、こうなるともう「恣意」の普通の意味ではほとんど意味がわからなくなる。恣意だから、放恣に、放散するものじゃないのか。それを核に一点に凝縮させる恣意、とは何だ?
意思、ではなさそうだが思惟、に近い。情念と言ってしまえばよさそうなものを、「意」の字は採りたいらしい。欲 する身体がない。
リンレイのところでは情欲、欲動のように近くおもったが、ミンは身体が四散したところで
そのうえで、完全版17章の文中にもまだ
というところは修正されずにガブロラウの残滓が残っている。
この話って、「城の話」ではあるがそれと別に、「昼と夜に隔離されて育った子供」太陽を見たことがない女の子と月を見たことがない男の子のような古い話の型もやはり踏襲していると思え、わたしは最近ジョージ・マクドナルドの「昼の少年と夜の少女」(1879)を読み返していてその時にこの「闇の城」を連想していた。
ただしこちらは、おとぎ話シチュエーションがそれを思わせるくらいでそこに神秘的な意味合いはない。リルーンが可愛いの一心でけっこうだ。
いま手にある電子版は Dark Castle, White Horse として二作がカップリングになっている。英語を読むけど、邦訳で既読。前回、Volkhavaarのときもそうだったが、既訳があると気になってちょくちょくそれを覗いて進まない癖があるので、それはあまり気にせずに原文の方を読む。Kindleリーダーの辞書機能を引くより邦訳をめくった方が早いことはある。
pain and loss
本作中の「シニシズム」についての表現。メモ。
それが「冒険の動機」として別の現れを取るときには、
The Storm Lord読了。ちょっと時間をかけすぎた。毎回言っているが……。このあとAnackireに続けるか、ジュブナイルのDark Castleに一回気晴らしに逸れるか。どっちでもいいし、併読してもいいんだけど。
22、23まで。
21まで。
「ギルガメシュとアッガ」まで。
より新しい本では『シュメール神話集成』(ちくま学芸文庫, 杉勇・尾崎亨訳, 2015)があるが、これの電子版は227MB――ということは書籍データとしてはあまり活用できないやつだ。今これは用いない、その場合は紙書籍から。
半世紀も経っているんだからその間に内容の更新・訂正もたくさんあるはずだが、ここまでやったならその推移もあらためて見ることができる。わたしはその専門じゃないし、今その興味でもないが。このシリーズは古代エジプトの集成もある。
尾崎亨=五味亨先生なのか。じゃあ内容は同じらしい。訂正箇所はきっと少なからずあるだろうけど、ということ。
幻想世界の生物(人間以外の)の起源のようなことを考え始めるとすぐに困難に突き当たるのは目に見えているが、人の意思によって成っているような世界なら人類以前にどうだったか等……。それも、何百万年とは遡れるような気はしないにもかかわらず、あたかもこの世界で永年進化してきたような、歴史ありげな動植物、魚がいて、菌もいる。
いっそ強獣くらい超自然・不自然に見えるものなら、「地上界の人々の太古から抱く恐怖のイメージ」のように説明つくかもしれない。バイストン・ウェルの獣や樹木や花々も、生きているように見えてはいても、いずれも人の思い描く幻のような産物かとも思う。
幻想世界の史的転回
コモン人には歴史学がない。コモン界で人々が古くからどのように暮らしていたか、昔にどんな事件があったかについて「伝承」はあるが、それらの人の営みが時に沿ってどのように進展(あるいは停滞)しているか、その意味を訊ねることをしていない。ただ、コモンの営みは何千年もさほど大きくは変わらずだったと伝えられている。ごく最近になり、ゴゾ・ドウのようなある種の歴史理解をもつ人物、故事の記録上にみられる事象にはある法則性があって強大な勢力を誇った文明が崩壊するときはこうだとか、英雄と呼ばれる人々が登場する時代にはこうだ、といったある一定の観点から時間を見つめ直す、解釈する思想を備えた人が現れ、その史観にもとづく支配権の再編、覇権を求め始めた。
バイストン・ウェルの地層を掘って古生物の化石が見つかるようには思いにくい。また一方、地上界にとっても、……地上には地上人のもともと住む地球があり、太陽系があり、銀河があり……といった宇宙観が、バイストン・ウェルと無縁にどれくらい実在しているのか――のような疑問には、バイストン・ウェル物語のうちでは、シリーズを通して地上の実在性が問われることは少ない。けれど、前のような「地上の歴史へのガロウ・ランの介入」が言われ始めるなら、この先は地上も含めて一つながりの「語り」の内にする、と言わんとはしていると思う。それを読者や、作品理解の上にも、今も全然そういう取り上げ方はされない、とは思う。
『ガーゼィ』では、ハッサーンは細菌の存在を知らなかったが、「目には見えないものが病気の原因になる」という説明にはオーラのような「見えない力」については巫女として想像できる素地があったので理解してくれていた。
『リーン』のここも、ホコリのように舞い上がるカビやキノコの胞子がその生物の種子のようなものだろうということはきっと古くから知られているし、中には毒もある。細菌の概念がなくてもコモン人には「菌」はそういうものを言うと思えばそれは不可解でもない、か。
バイストン・ウェルの黴菌
完全版では「黴菌」。バイストン・ウェルのコモン人に病原菌、細菌の概念があったのか。
アンマ・ガルレアが迫水を気にしているのは前からわかっているが、彼女の発する「匂い」を嗅覚で察してそれは動物の牝の匂いだという。ただし、
で、迫水は彼女に一言釘を刺しに行く。これに近い言い方って富野アニメでも時々見てはいるようで、たとえばレコアのような人はそれが目に見えるのだろうけど、ほかに、Gレコのバララに対してマスクが『戦場に嫉妬を持ち込むと死ぬぞ』と呟くときの気持ちも、これと並べると台詞の聴こえ方が違うんじゃないだろうか。
化生
ここでの「化生」はお化けの意味。作品年次が前後するが、『ガーゼィの翼』の本文中に「化粧」と書いてある文が多分誤りだと書いたけど、「化生」についてここにも用例があるので多分そうだろう。ガーゼィのそこは、超自然の存在で、人の生きている現実に即していないもの、のような意味。
死せるガブロラウ
ここ、旧版26章で迫水隊のメンバーのガブロラウがわざわざ性格を紹介されて部隊を先導するが、ガブロラウは前々章で壮絶な爆死を遂げたはずで、死んだはずの彼がまた活躍するのはここは本文が誤り。
完全版では、前章でガブロラウの死について迫水があらためてリンレイに確認していたのと、ここでのガブロラウ云々は削除、あとのガブロラウの台詞はミグニに引き継がれているようだ。そのためか、いまの冒頭の推察の半ばにミグニとの短い会話が新たに挿入してミグニの存在を前に出しているみたい。
「26 カタビタンの胎動」(旧)
「17 カタビタンの胎動」(新)
周囲の「気」を察知すること……これは前から書いてある。それに、前章のリンレイと同時に経験した超常的ともいえる洞察についてセックスの神秘と、バイストン・ウェルが不思議の世界であることと、リーンの翼も加担していることも加えれば「不思議ではない」と断定する理屈は富野作品に特徴ともいえる、すごい強弁の仕方だとわたしは思うが、そこまで言われれば仕方ない。不思議だと言ってるんだからわざわざ説明しなければいいのに。
このうちにある「悟性の高まり」のようなときの「悟性」について、富野文の悟性もまた特殊な意味を含まないといけないかもしれないが、今そこは掘るまい。ニュータイプのような超感覚知覚も悟性のうちとして語られる。
「日頃その気分をつなぐ…」というのは、わたしは音楽は概ね野外、道歩きの間にイヤホンで聴いていて、実のところクラシック音楽はその騒音環境にはあまり向いていない。
映像作品のサウンドトラック盤は多少の音響効果が被っても気にならず、それが多くなりがち。前回、昨年からの経緯で和田作品がお気に入りに入っていたけど「個人的に同時に読んでいた」以外に直接関係はない。菅野由弘作品の通しリスニングも、こことはいまひとつイメージが繋がらないし……。
タニス・リーは本人の見た目の印象でパンク・ロックの人じゃないのかとわたしは思っていたが、わたしがまずジャンルをよくは知らないし、その形跡もあまり分からないことだ。リーの映像化作品というのは実質的に皆無で、その劇伴音楽のような既存のイメージは、ない、と思っていいだろう。
小説を読みながら音楽作品のイメージを探すのは、連想に連想を連ねる面白さと、文を読んでいないときにも日頃その気分をつなぐ感じでするが、タニス・リーのWikipediaページのInfluences項をみると、クラシック音楽への言及ではまずプロコフィエフ、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、ヘンデル……と続いていて、まるで参考にならない。そんな列挙ならおよそ誰の何作品についても言えそう。
ただ、ショスタコーヴィチの交響曲についてはAnackireの場面についてと具体的な理由が書いてあり、これからAnackireの予定ではあるから憶えていてはいいかと思った。たまたま、「ショスタコーヴィチ没後50年」らしくNHKラジオで一連の番組を録音したりはしていて聴くなら事のついでではある。NHKラジオやクラシック音楽界隈は毎年、どの季節にも誰かの生誕か没後30年か50年か100年を記念している。
あとこの項にある「影響関係」はやはりあんまり参考になりそうにない。古典的名作以外は、「当時の英国のTVドラマ」というのはそのパロディ要素はかなり大きそうでしかもわたしに分からないことだが、ちょっと辿るすべを持たない。まあまずそこまで真っ先にマニアックに行くまい。ショスタコーヴィチの準備くらいは、今しよう。
これもジャンルの古典的な書き方かな。
「イナンナの冥界下り」まで。