『シュメールの世界に生きて』(1986, S・N・クレーマー 久我行子訳, 1989) 『聖婚 ―古代シュメールの信仰・神話・儀礼―』(1969, S・N・クレーマー 小川英雄・森雅子訳, 1989)を読み返し。
イナンナとドゥムジの神話とそのバリエーションは、あまりにも基本。これらのシュメール文学の復元が進んだのは20世紀以後の成果で、当事者であるクレーマーの語りや自伝を読み返すのはとても楽しい。ただ、それより先に遡る近現代の文学によみがえっていた古代ロマンのようなものをたどるにはまずは『金枝篇』のようなものから入ったほうが、21世紀の今でもやはり良いと思う。いきなりシュメールからだと熱情がわかりにくいだろう。
死せるドゥムジと彼の復活のテーマはメソポタミアからパレスティナに拡がった。従ってエルサレム神殿の門の一つで、エルサレムの女たちがタンムズを嘆き悲しんだことも驚くには当たらない。また、ドゥムジの死と彼の復活の神話がキリストの物語にその刻印を残した、ということも全くあり得ないことではない。とはいえ、両者の間には深刻な精神的な隔たりがある。キリストの物語の中の幾つかのモティーフはシュメールの原型に遡り得るし、そのことはかなり前から知られてきた。例えば、冥界で三日三晩過ごした後に神が復活すること、またユダが彼の主人を裏切ることによって得た三〇シケルという金額は軽蔑と侮りを表わす言葉であること、呼び名としての「牧人」「聖油を注がれた者」、そして恐らくは「大工」さえもが共通であること、ドゥムジと同一視された神々の一柱ダムは「医者」であり、悪魔払いによって治療する技術をゆだねられていた――ということも見落せない事実である。これら全てに加えて、残酷なガラたちの手によって味あわされたドゥムジの拷問は、ある程度キリストの苦しみを想起させる。即ち、彼は縛りつけられ、はがいじめにされ、力づくで洋服を脱がされ、裸で走らされ、鞭で打たれ、叩かれた。とりわけ、我々がこれまでに見てきたように、ドゥムジは人類のために犠牲になる身代りの役割を演じているという点で、キリストに似ている。もし、ドゥムジが冥界において愛、生殖、豊饒を司る女神イナンナの身代りにならなかったならば、地上の生命あるものは全て亡び去っていたであろう。しかし、両者の間の相違点はその類似点よりも顕著であり、重要であることは明らかである。というのも、ドゥムジは地上における神の王国について説教する救世主では決してなかったからである。 しかし、キリストの物語は何もないところから創り出されたり、発展したものではなかったことも確かである。それは先駆者もしくは原型を持っていたに違いないし、それらのうちでも最も尊重され、影響力のあったものの一つが、牧人の神ドゥムジと彼のあわれをそそる運命のもの哀しい物語であったことは疑う余地がない。その神話は二〇〇〇年以上もの間、古代オリエントの全域にわたって流布し続けていたのである。
というか、ユダヤの宗教の教義の解釈にそんな文章があるとは、わたしには一見して信じがたくて、あるとしたらそれはどういう意味で言われるのかは別に興味はあった。が、何を調べるべきかは定まらなくてその後忘れていた。
「あなたは、この世のすべてが自分のために創られた、とでも思っているの」 (永久帰還装置)
傍若無人さ。ちょっとの言い換えで「脳天気」になる。「脳天気と正義」については前回。
だからといって自分や父のことも小さな、どうでもいい存在なのだ、とは感じなかった。自分と自分の属している世界だけは特別だ。他から見ればまったく特殊ではないにしても、そんな客観的な世界とは独立して存在する。世界が自分のために創られたかどうかは別にして、自分の世界というのは確かにあるのだ。頭ではそう考えたこともあった。しかしその事実を肌で感じたのは生まれて初めての経験だった。視座によって世界は変わるとは思っていた。考え方、物の見方だ。しかしいまのように、眼の位置という意味での視点をちょっと上にしただけで、こんなに世界がちがって感じられるという発見はレムエルには驚きだった。 (猶予の月, 1992)
これは「実在」について、というべき。「実存」かな。
「だれでも同じさ。好きでこの世に生まれてきたやつはいない。人間にできるのは、この世が好きになれるか、嫌いなままでおわるか、だ」 (ルナティカン, 1988)
切りがないそうした妄想を断ち切るには、わたしは、自分がいまなにを望んでいるのか、すなわちどのような世界に生きたいと望んでいるのか、そうした自分の望み、願い、祈りを基準に生きるしかないだろう。 ようするに、狂っているのは自分か、それともそれ以外のなにかなのか、そのどちらをわたしは望むのか、ということだ。 (ぼくらは都市を愛していた, 2012)
『ほとんど最初の一年は狂っていた』 「おれは一時間だった。長岡駅を出たときだ。出張で東京からもどってきたところだという記憶はあるんだ」 『それ以上に、火星の、あいつのことが強く思い出された。おれも似たようなものだ』 「そのとき、な。どちらが本当か、一時間ほど突っ立ってたよ」 『おれは入院した。会社はくびだ。保険屋だった。偽りの記憶だ』 「擬似記憶、疑似体験がTIPに入っているんだ」 『TIPに入っているのかどうかはわからない。しかしTIPを自覚すると、おれは正気になった。狂ってるのは世界のほうだ』 「冷静だな」 『狂った世界でも世界は世界だからな。気のもちようでどうにでも生きられる』 (機械たちの時間, 1987)
おれは完全に狂っている。 この世界を基準にすれば、まちがいなくおれは狂っている。だがそれを決めるのは世界じゃない。表か裏か。どっちが表でもいいのだ。両方表にはなれない。正しいのはそれだけだ。どっちが表かを決めるのはおれだ。 おれは正気だ。世界が狂っている。崩壊しようとしている。正気の証だ。 (同上)
タクシーで帰ろうと、三上は外へ出てタクシーを探した。患者待ちのタクシーがいてもよさそうだったが、見つからなかった。 そのかわり、バスが列をなして待っていた。バス乗り場という標識が立っている。 まさかな、と思いながら、開いているドアからバスに乗ると、「どちらまで」と運転手が言って、メーターをたおした。 こりゃあ、大型だなと思い、広い車内の中ほどの席に腰をおろして、狂っているのは世界のほうだと三上は気づいた。 (過負荷都市, 1988)
ケイ・ミンはぞっとする。もしそうなったら、自分は狂うかもしれない。そのときは、自分の精神を平静に保つ方法は一つだ。すなわち、狂っているのは自分ではない、世界のほうなのだと、そう思うしかない。でもそれこそは、とケイ・ミンは思う。精神に異常をきたした者がやっていることではないか。 (永久帰還装置, 2001)
数回、自殺を試みた。実際にたぶん死んだのだとは思うが、気がつくと、十六の春だ。それは、死んだことにはならない。失敗と言うべきだろう。自分を殺すことを試みても、だめだ。 死ぬべきは、殺すべきは、自分ではなく世界のほうなのだ。 (ラーゼフォン, 2002)
病的なのは世界のほうだ。おれたちの頭じゃない。 (アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風, 2009)
「人はだれでも、この世は自分のために創られたと信じる権利がある。創っていると信じる権利があると言い直してもいいかもしれない」 (宇宙探査機 迷惑一番, 1986)
これは神林作品で絶えずくり返すことだが、神林作品以外の世間一般で必ずしもこう言い切るわけではない。「そんな権利はない」という人や、社会のほうは珍しくない。
〈タルムードにあったじゃない。『人はだれでも、この世は自分のために創られたと信ずる権利がある』と。この世はあなたのために創られた幻だって信ずる権利はあるわ。でもあくまでも信じる権利、なのであって、真実はそうじゃないってことよ。なにを信じようとあなたの勝手よ。でも現実は、あなたがいようがいまいがたいしたちがいはないわ〉 (七胴落とし, 1983)
タルムードにあったじゃない――という、麻美が作中ここでなんで唐突にタルムードを言い出すのか、本当にタルムードにあるのかはわからないと前回言っていた。
「われわれは死んだのかもしれん」以下は後に『死して咲く花、実のある夢』(1992)の主題になる。このたびの再周はごく消極的に、日を空けて飛び飛びにしか読み続けていないから8か月で8冊ほどしかまだ進んでいないぞ。
アカタテハがオレンジ色の花の上に降りようとしている。吸蜜しているようにも見えない数瞬でまた立って、ひらひらくり返すのを先程、道で見ていた。ほとんど意味はない。「三回パン」みたいな印象を残していた。
『宇宙探査機 迷惑一番』では「あれ」「あいつ」(傍点つきのあいつ)と書かれることもあるが、当の問題人物……というか、問題人格の、おおむね呼ばれ方しては〝私〟だろう。
この後も、神林作品ごとに「あれ」「それ」等の変遷がしばらくあるので、その折にメモ。
〝巴御前も、かくや!〟
というときの「かくや」は、「このようであったろう」だから「かくやありけむ」だが、やはりそんな余計な補足はいわない。高校生と一緒に読むなら優しいかもしれないけど、わたしは今そういう友達はいないね。
章おわり、この章も新旧の切れ目は同じ。今夜ここまで。
完全版は、今これは電子だがページ数がかなり分厚いので、読み続けているといつまでも終わらないような気になるかもしれない。一日一章くらいのつもりで良いんだと思う。
バイストン・ウェルの地形は、地上界の自然の地質学的常識が通じるかは怪しいという話だが。しばらく前に『王の心』のときにも火山性の土地でのエピソードがあり、そのときにこの章の連想をしていた。キャロメット老人についても思い出していたな。
開戦。ここは完全版に、合戦描写の加筆がかなり多い。較べてみると旧版にも「硫黄谷」というシチュエーションは書いてあるが、完全版には戦場の具体的な展開――足場としての亀裂、礫石、陣地として辛うじて整地した馬道、視界(硫黄煙)をざっと書き上げてあって、同じ場面が鮮明になっている。戦術では迫水隊の拳銃の連射と、「長槍」の存在は旧版には全くない。速力でまさる騎馬攻撃で敵の中核にまで達したところでそれ以上の吶喊は踏みとどまり、ここで防御の槍衾を敷く。作戦の第二段階を待つ。
「24 追撃」(旧) 「15 追撃戦」(新)
それはもはやガロウ・ランのものではない。(新)
ここまでの、「ガロウ・ラン観」の変化の経緯をつぶさに読んできていると、ここで「おお」という気に読者もなる。
「経験値」という概念が普及しているのはファミコンのドラゴンクエスト由来だと思う。たとえば、TRPGだったら値より点といいたいところだろう。1984年の原作当時にはなさそうな語彙だが、2010年頃に読むにはいささか古臭い言い方のような不思議さを感じる。「律」でわかりますみたいな。
経験律と経験則は違う意味になると思うが、完全版のように「経験値」と書くと、その律か則のような抽象的な思案はさっぱり省く。「経験値」という言葉じたいは比較的近年に使われ始めた……コンピュータゲーム由来のような語なのかと思うけど、べつにゲーム感覚はなく、常用語にはなっているだろう。
わたしは、「富野文で風土って言うっけ??」と、この7月の余談の最中に思い当たって、小説作品を通読しているわりに全く思い出さなかったことに気づいた。あるのはある。
ここのツイートで『合体怪獣には風土がない』というのは、たとえばジャンボキングのようなパーツの組み合わせになって過去の怪獣が再登場したとき、各パーツはたしかに元怪獣のそれぞれの最強部分を抽出して足し合わせたものだが、この際にはそれぞれの生い立ちのエピソード(各回の物語)が揮発するので、ここでそんなに時間をかけて語られることがもうない。強いけど、しょせん再生怪獣だということになっちゃう。ゾンビ以上の思い入れもない。この場合は、「週替りの放送回」が怪獣それぞれの持つ生まれの土地で、風土だのような言い。
(ドゥー・ムラサメちゃんに、ガンダムシリーズ他で強化人間その他がやる「負け台詞」を全部装備してやると、すごく強そうに見える、という雑談だった。) 経過 1 / 2 / 3
旧版3巻23章、聖戦士として自分が頼られている快さを感じた瞬間に、また再び、迫水の地上体験から日本軍の質、特攻までの反芻が始まる。あたかも、何かのきっかけがあると迫水のフラッシュバックが始まるようだ。
戦争指導者のインテリジェンス(インテリゲンチア)と、ガロウ・ラン的なもの(完全版)の解読を試みる。文章の内容はまた、前回のほぼくり返しで、旧版では2巻と3巻の境目が間にあるのでくり返しているかもしれないが、完全版では、ここもやはり「ガロウ・ランの憑依」と書くのみで手短に省略される。
較べて読んでいると「またか」と思われるところでもあるけれど、旧版を読む際には、前回には「日本の精神土壌」、ここでは「日本人の土着のメンタリティ」を、「風土」と書き込んでいるのは新たな進展のよう。風土の語も作中に既に五回ほど使われているが、明確にこの文意で使われるのはここ。
わたしは富野文で「風土」という言葉はどう使われるのかなと思って読んでいたのでこの順序もチェック。
こういうところは直感的にわかる。
「直截」が「直裁」に改め。……なんでだ? それと別に、漢字がひらがな表記になるのは全文の全面に処理されている。
ここで引いている「英雄凱伝モザイカ」のサウンドトラックは、わたしは和田薫音楽の初期の好盤なのと、そのうちダークファンタジーの系列、というイメージでフェイバリットに入っている。OVAの趣向が、アモン・サーガとモザイカがどっちがどっちだったか思い出せなくなるが、今は、こういうロマンチックな趣味で現代音楽も聴くのが好き。 1 / 2
廃盤は廃盤だが、必ずしも高額でもないので中古市場に出ていたらお勧め……のように人にも言いたいところだが、趣味の物件ではあるしね。デジタルで配信されるようになればその紹介もしないのだが、今は、その折々に興味として書き込んでおく。
前回はまだ別宮貞雄を聴いていたが、昨夜は、三枝成彰の音楽を少し聴きかえしていた。 アモン・サーガ (1986) 1 / 2 これはやはり『リーンの翼』というイメージはしないが、こういうものもあった、との思い出し。
こういうところがやはり、面白いね。「劇場版」では∀にしてもGレコにしても、微妙に足し引きしてニュアンスが違ってる。「分かりやすくしてくれてありがとう」、でもなくて、実際べつの話をしているが、同じ劇の別版、ないし新版ではある感じとよく似ている。
近年、令和リメイクというのか、平成アニメのTV→映画新版というシチュがわりと続いた時期がありながら、それもカルチャーだというのが親しまれているから、読みたければこれらは楽しめると思う。
「23 ミン・シャオの怪」(旧) 「14 追って来る者」(新)
リンレイは、言った。 ちょっとひややかで、それでいて真面目だった。リンレイは、意識してやったのではない。そうしてしまったのだ。 リンレイの迫水に対して初めて示した女らしさだった。(旧)
リンレイは生真面目にいった。それは幼女の仕草であって、リンレイも意識してやったことではない。(新)
少女時代を海賊として男性のロールで振る舞うことに慣れていたリンレイ、という文章が続くのは同じだが、「女らしさ」と「幼女の仕草」とでは意味が違う。
同じ場面で、やった動作は同じで、迫水をチャームしてしまったことも同じ。ニュアンスが違う。劇でいうなら解釈というか、「演出のちがい」に出るのかな。当の著者が映像の演出家だしなあ……。
旧版23章まで。ミン・シャオとムラブの挿入エピソードだけの短い章、新旧に内容の変更はほぼない。城壁のメルレンについての注意書きが省略されたくらい。今夜これだけにする。
『オーラバトラー戦記』『ガーゼィの翼』中ではいずれも「ひや」とルビしてある。完全版でも、この前の章では「ひや」と振ってあった。これ自体に深い意味があるとは思えないが、上の意味でメモっておく。
「22 ゲルドワの風」(旧) 「14 追って来る者」(新)
〝今度はガダの火箭がある。奴が空を飛ぼうが必ず……〟
旧版には「火箭(ひや)」、完全版には「火箭(かせん)」のルビが振ってある。どっちでも読むし、時代物やファンタジーの小説では同じ程の頻度で使われると思うが、なぜ変えてあるのかは不明。こういうところのルビは著者の意図ではないのかもしれない。
17まで。血湧き肉躍る話になってきた。でも全体的にとりとめない迷走の話のつづきではある。
とりとめないというのは上にもいったが…… やはりヴァズカーの前身のようには思っていて、ヴァズカーを先に読んでいるとラルドナーの性格がよりシンプルに見える。生まれの宿命は、それとして、話の解決にローランダーの良心とテレパシーに頼むところが多いな。やはりこういう話は面白く、熱心に話をしてみたいが、今する機会も場所もないね。
『シュメールの世界に生きて』S.N.クレーマー 久我行子訳、読了。 続き、もう一冊同著者の『聖婚』を今読む。
16まで。
章おわり。旧21/新13の章の切れ目は同じ。
それは、この地の特異な匂いの感じさせることなのかも知れなかったし、迫水の感じすぎなのかも知れなかった。 しかし、こうしてキャロメットと接していると、なにかもっと異なった恣意的な悪意といったものが、周囲に漂っているように感じられて仕方がないのだ。
また「恣意」だが、「恣意的」という使い方をされるときには富野文もあまり気にしなくていい……ようなことを上で一度は書いたが、ここの「恣意的」の用法も直前と同じように、やはり怪しい。
自然物でない、人為あるものの意図、少なくともその志向を感じるというようだ。志向性と言ってくれたほうがわたしは分かるかもしれない。
もう一回、ロマンチシズムを今挙げてみよう。世の中でいう普通の言い方をやめてわたしなりにいえば、ロマンとは「自分は何のために生きるかについて思うとき」と前回いった。それはわたしの言い方だ。
上の迫水についても、完全版では「恣意」を省いた代わりに、文章には「生き方」を書き込んでいるだろう。生き方を求めようとすることに食いついていく読者には、アレ…のような他人事のようには、簡単には放さないと思う。
ガロウ・ラン的な恣意の放出はとくに、邪悪であると言っていきたい。放出……発動かな。もうちょっとトミノ界隈的なボキャブラリーの良いところを捜したいね。
後のブレンパワードくらい経ているので「エモーショナルなもの」というと富野文脈では分かりやすいが……エモーションを恣(ほしいまま)にするは、単語としてはあたりまえなので、とくに作劇以外の話には通じない。
「健やかさ」というのとは違う。その発露を塞がれると鬱積するのはたしかだが、「恣意」と言う中に健康とか健全という価値評価は含んでいない。
リンレイと会って女性観の激変・革新だった迫水の内的体験のおさらい……レッツオ以後の章を詳しく読み込んでいればくり返しになるが、女性観の話をちょっと外れて、この中に、前回挙げた「恣意」の語の使い方の、別の例がある。その復習をしてみる。
地上界の日本にあった迫水は、ただ護国の為に心血を注いで身を挺する、という行動様式の中に自分を封じ込めていけばよかった。 恣意するものが、直線的で許された社会にいたと表現できる。(旧)
だから、日本にいてただ護国のために心血をそそいで身を挺するという行動様式のなか、自分を封じ込めていくだけですんだ生き方は楽であった、とも理解できるようになった。軍国主義的な生き方は、直線的だったということなのだ。(新)
いかにもわかりにくい。完全版では表現から除かれているくらいなので、説明のためにとはいえ、挙げるには悪い例といえる。
生きているかぎり、個人のなかの欲求とか欲望というものはある。この文中では、「自分」と書いてあるところは新旧に共通してそれかもしれない。「自由」という語は、完全版では近い段落に「自由恋愛などは…」とも、かすかにあるが、自由から隔離されていることが許されていた、といえば、現代の読者にはなおわかりやすいだろうか。
完全版1巻の402ページ「聞きなれた声のおかげて、」このたび再読で初めて完全版の誤植らしいものを見つける。意外。旧版のカドカワノベルズも校正はかなりまめで信頼できる。
強獣。小物はここまでもちらほらと登場していたが、この章で主役になる巨大な強獣「ドラゴロール」について。龍に似た強力で狂暴な生き物。ガロウ・ランの間にはドラゴロールの急所についての言い伝え等もあるが、あやふやで真偽は全く確かでない。
同族らしき龍種には『オーラバトラー戦記』に登場するドラゴ・ブラーがいる。ドラゴ・ブラーは龍に似た蛇体に翼をもつ翼竜。ギィ・グッガの手勢に飼われているが、ガロウ・ランにしてもドラゴを飼い慣らした例はなくて、たしか作中が初めてとされていた。
ドラゴロールは後のシリーズ『ガーゼィの翼』にも再登場する。ガーゼィではドラゴロールは無限平野ガブジュジュの地に棲む「最近生まれた種」らしいといわれていて、生態が全く分かっていない。巨大な狂暴なだけに留まらず、自然の生物とは思えないようなある種の能力も備えている。ドラゴロールの上位種という「ゲッグ」も存在する。ゲッグには知恵さえ備える。
「21 徒党」(旧) 「13 ゲルドワの噂」(新)更に続き
書き出しから、やはりなんで書き改めているのかわからない。どっちにしても、山並みの峨々や巍峨という「鋭く尖った印象」ではなく、「広々として果てしなく荒涼としていること」、渺茫とか茫漠とかいう。草木の一つもない、というわけではなく、山裾には原生林が続いている。
ギリシア、インド、ゲルマンの英雄時代とシュメールのそれとが、社会構造・宗教・叙事詩文学と挙げていくほど「驚くほど似ているように思われた」から発して、シュメール人は、もとメソポタミアに先住、先行する集団の高度な文明地に侵入してこれを征服した人々だっただろう――との推測をさせるものはその英雄詩にある、という大まかな筋書き。
先シュメール文明には2020年代の今もなお、学問の場でははっきりしていないだろうと思うけれど、この思考の飛躍が今読んでも面白いと思う。飛躍といって、空想を語っているわけではないが。紀元前三〇〇〇年頃から古代ギリシア・インド頃の時代間や、地上界と異世界の間について「英雄サーガの成り立ち、語られ方のパターンが似ている」と思う発想のところ。その発想自体はゴゾ・ドウにも似ている。
いま、エリアーデの『世界宗教史』からの横道で、シュメール学者サミュエル・クレーマーの自伝『シュメールの世界に生きて』を読み返している。このうちの六章「英雄たち」のところは、ここの『リーンの翼』の前回のはなし……ガダバの結縁のような話の、「英雄時代」を考えるときに面白い。
内容を紹介すると長くなるが、章は、ギルガメシュ叙事詩(ギルガメシュ物語)のアッシリア語版とシュメール語版の発見・研究史のあらましから、エンメルカル、ルガルバンダも加えてシュメールにおける「英雄時代」が浮かび上がってくる――というところ以降。古代インド・ヨーロッパ語族の……という語り出しではあるけど、ここにはたぶん必ずしも歴史学のセオリーではなく、クレーマー自身の"インスピレーションの得方"がスリリングなところがあって、また思い出せば再読しておく。
イナンナとドゥムジ
『シュメールの世界に生きて』(1986, S・N・クレーマー 久我行子訳, 1989)
『聖婚 ―古代シュメールの信仰・神話・儀礼―』(1969, S・N・クレーマー 小川英雄・森雅子訳, 1989)を読み返し。
イナンナとドゥムジの神話とそのバリエーションは、あまりにも基本。これらのシュメール文学の復元が進んだのは20世紀以後の成果で、当事者であるクレーマーの語りや自伝を読み返すのはとても楽しい。ただ、それより先に遡る近現代の文学によみがえっていた古代ロマンのようなものをたどるにはまずは『金枝篇』のようなものから入ったほうが、21世紀の今でもやはり良いと思う。いきなりシュメールからだと熱情がわかりにくいだろう。
というか、ユダヤの宗教の教義の解釈にそんな文章があるとは、わたしには一見して信じがたくて、あるとしたらそれはどういう意味で言われるのかは別に興味はあった。が、何を調べるべきかは定まらなくてその後忘れていた。
傍若無人さ。ちょっとの言い換えで「脳天気」になる。「脳天気と正義」については前回。
これは「実在」について、というべき。「実存」かな。
狂ってるのは世界だ
この世は自分のために創られたと信ずる権利
これは神林作品で絶えずくり返すことだが、神林作品以外の世間一般で必ずしもこう言い切るわけではない。「そんな権利はない」という人や、社会のほうは珍しくない。
タルムードにあったじゃない――という、麻美が作中ここでなんで唐突にタルムードを言い出すのか、本当にタルムードにあるのかはわからないと前回言っていた。
「われわれは死んだのかもしれん」以下は後に『死して咲く花、実のある夢』(1992)の主題になる。このたびの再周はごく消極的に、日を空けて飛び飛びにしか読み続けていないから8か月で8冊ほどしかまだ進んでいないぞ。
シュメール文学で知られるS・N・クレーマーの『聖婚』を読んでいる。今、神話や宗教史の話ではなく――『脚韻などは知らないが素朴に二回くり返し、三回目にもう一度念を押す古歌スタイル』は、べつに現代に真似たいわけではないが頭の中に何日も残るものだ。
アカタテハがオレンジ色の花の上に降りようとしている。吸蜜しているようにも見えない数瞬でまた立って、ひらひらくり返すのを先程、道で見ていた。ほとんど意味はない。「三回パン」みたいな印象を残していた。
『宇宙探査機 迷惑一番』では「あれ」「あいつ」(傍点つきのあいつ)と書かれることもあるが、当の問題人物……というか、問題人格の、おおむね呼ばれ方しては〝私〟だろう。
この後も、神林作品ごとに「あれ」「それ」等の変遷がしばらくあるので、その折にメモ。
というときの「かくや」は、「このようであったろう」だから「かくやありけむ」だが、やはりそんな余計な補足はいわない。高校生と一緒に読むなら優しいかもしれないけど、わたしは今そういう友達はいないね。
章おわり、この章も新旧の切れ目は同じ。今夜ここまで。
完全版は、今これは電子だがページ数がかなり分厚いので、読み続けているといつまでも終わらないような気になるかもしれない。一日一章くらいのつもりで良いんだと思う。
バイストン・ウェルの地形は、地上界の自然の地質学的常識が通じるかは怪しいという話だが。しばらく前に『王の心』のときにも火山性の土地でのエピソードがあり、そのときにこの章の連想をしていた。キャロメット老人についても思い出していたな。
開戦。ここは完全版に、合戦描写の加筆がかなり多い。較べてみると旧版にも「硫黄谷」というシチュエーションは書いてあるが、完全版には戦場の具体的な展開――足場としての亀裂、礫石、陣地として辛うじて整地した馬道、視界(硫黄煙)をざっと書き上げてあって、同じ場面が鮮明になっている。戦術では迫水隊の拳銃の連射と、「長槍」の存在は旧版には全くない。速力でまさる騎馬攻撃で敵の中核にまで達したところでそれ以上の吶喊は踏みとどまり、ここで防御の槍衾を敷く。作戦の第二段階を待つ。
「24 追撃」(旧)
「15 追撃戦」(新)
ここまでの、「ガロウ・ラン観」の変化の経緯をつぶさに読んできていると、ここで「おお」という気に読者もなる。
「経験値」という概念が普及しているのはファミコンのドラゴンクエスト由来だと思う。たとえば、TRPGだったら値より点といいたいところだろう。1984年の原作当時にはなさそうな語彙だが、2010年頃に読むにはいささか古臭い言い方のような不思議さを感じる。「律」でわかりますみたいな。
経験値
経験律と経験則は違う意味になると思うが、完全版のように「経験値」と書くと、その律か則のような抽象的な思案はさっぱり省く。「経験値」という言葉じたいは比較的近年に使われ始めた……コンピュータゲーム由来のような語なのかと思うけど、べつにゲーム感覚はなく、常用語にはなっているだろう。
わたしは、「富野文で風土って言うっけ??」と、この7月の余談の最中に思い当たって、小説作品を通読しているわりに全く思い出さなかったことに気づいた。あるのはある。
ここのツイートで『合体怪獣には風土がない』というのは、たとえばジャンボキングのようなパーツの組み合わせになって過去の怪獣が再登場したとき、各パーツはたしかに元怪獣のそれぞれの最強部分を抽出して足し合わせたものだが、この際にはそれぞれの生い立ちのエピソード(各回の物語)が揮発するので、ここでそんなに時間をかけて語られることがもうない。強いけど、しょせん再生怪獣だということになっちゃう。ゾンビ以上の思い入れもない。この場合は、「週替りの放送回」が怪獣それぞれの持つ生まれの土地で、風土だのような言い。
(ドゥー・ムラサメちゃんに、ガンダムシリーズ他で強化人間その他がやる「負け台詞」を全部装備してやると、すごく強そうに見える、という雑談だった。)
経過 1 / 2 / 3
旧版3巻23章、聖戦士として自分が頼られている快さを感じた瞬間に、また再び、迫水の地上体験から日本軍の質、特攻までの反芻が始まる。あたかも、何かのきっかけがあると迫水のフラッシュバックが始まるようだ。
戦争指導者のインテリジェンス(インテリゲンチア)と、ガロウ・ラン的なもの(完全版)の解読を試みる。文章の内容はまた、前回のほぼくり返しで、旧版では2巻と3巻の境目が間にあるのでくり返しているかもしれないが、完全版では、ここもやはり「ガロウ・ランの憑依」と書くのみで手短に省略される。
較べて読んでいると「またか」と思われるところでもあるけれど、旧版を読む際には、前回には「日本の精神土壌」、ここでは「日本人の土着のメンタリティ」を、「風土」と書き込んでいるのは新たな進展のよう。風土の語も作中に既に五回ほど使われているが、明確にこの文意で使われるのはここ。
わたしは富野文で「風土」という言葉はどう使われるのかなと思って読んでいたのでこの順序もチェック。
こういうところは直感的にわかる。
「直截」が「直裁」に改め。……なんでだ? それと別に、漢字がひらがな表記になるのは全文の全面に処理されている。
ここで引いている「英雄凱伝モザイカ」のサウンドトラックは、わたしは和田薫音楽の初期の好盤なのと、そのうちダークファンタジーの系列、というイメージでフェイバリットに入っている。OVAの趣向が、アモン・サーガとモザイカがどっちがどっちだったか思い出せなくなるが、今は、こういうロマンチックな趣味で現代音楽も聴くのが好き。
1 / 2
廃盤は廃盤だが、必ずしも高額でもないので中古市場に出ていたらお勧め……のように人にも言いたいところだが、趣味の物件ではあるしね。デジタルで配信されるようになればその紹介もしないのだが、今は、その折々に興味として書き込んでおく。
前回はまだ別宮貞雄を聴いていたが、昨夜は、三枝成彰の音楽を少し聴きかえしていた。
アモン・サーガ (1986) 1 / 2
これはやはり『リーンの翼』というイメージはしないが、こういうものもあった、との思い出し。
こういうところがやはり、面白いね。「劇場版」では∀にしてもGレコにしても、微妙に足し引きしてニュアンスが違ってる。「分かりやすくしてくれてありがとう」、でもなくて、実際べつの話をしているが、同じ劇の別版、ないし新版ではある感じとよく似ている。
近年、令和リメイクというのか、平成アニメのTV→映画新版というシチュがわりと続いた時期がありながら、それもカルチャーだというのが親しまれているから、読みたければこれらは楽しめると思う。
「23 ミン・シャオの怪」(旧)
「14 追って来る者」(新)
少女時代を海賊として男性のロールで振る舞うことに慣れていたリンレイ、という文章が続くのは同じだが、「女らしさ」と「幼女の仕草」とでは意味が違う。
同じ場面で、やった動作は同じで、迫水をチャームしてしまったことも同じ。ニュアンスが違う。劇でいうなら解釈というか、「演出のちがい」に出るのかな。当の著者が映像の演出家だしなあ……。
旧版23章まで。ミン・シャオとムラブの挿入エピソードだけの短い章、新旧に内容の変更はほぼない。城壁のメルレンについての注意書きが省略されたくらい。今夜これだけにする。
『オーラバトラー戦記』『ガーゼィの翼』中ではいずれも「ひや」とルビしてある。完全版でも、この前の章では「ひや」と振ってあった。これ自体に深い意味があるとは思えないが、上の意味でメモっておく。
「22 ゲルドワの風」(旧)
「14 追って来る者」(新)
旧版には「火箭 」、完全版には「火箭 」のルビが振ってある。どっちでも読むし、時代物やファンタジーの小説では同じ程の頻度で使われると思うが、なぜ変えてあるのかは不明。こういうところのルビは著者の意図ではないのかもしれない。
17まで。血湧き肉躍る話になってきた。でも全体的にとりとめない迷走の話のつづきではある。
とりとめないというのは上にもいったが……
やはりヴァズカーの前身のようには思っていて、ヴァズカーを先に読んでいるとラルドナーの性格がよりシンプルに見える。生まれの宿命は、それとして、話の解決にローランダーの良心とテレパシーに頼むところが多いな。やはりこういう話は面白く、熱心に話をしてみたいが、今する機会も場所もないね。
『シュメールの世界に生きて』S.N.クレーマー 久我行子訳、読了。
続き、もう一冊同著者の『聖婚』を今読む。
16まで。
『雲多く、風強し。昼から「急な雨注意」の予報が出ている。通りから入った道で、塀の上に黄緑色のスズメガが滞空している。風をものともせず飛んでいってしまった。目で追ったあと、しばらく行くと、後からスズメガが戻ってきて、顔の前で一、二秒浮かび、プイとまた行く。人違いだったらしい』
章おわり。旧21/新13の章の切れ目は同じ。
また「恣意」だが、「恣意的」という使い方をされるときには富野文もあまり気にしなくていい……ようなことを上で一度は書いたが、ここの「恣意的」の用法も直前と同じように、やはり怪しい。
自然物でない、人為あるものの意図、少なくともその志向を感じるというようだ。志向性と言ってくれたほうがわたしは分かるかもしれない。
もう一回、ロマンチシズムを今挙げてみよう。世の中でいう普通の言い方をやめてわたしなりにいえば、ロマンとは「自分は何のために生きるかについて思うとき」と前回いった。それはわたしの言い方だ。
上の迫水についても、完全版では「恣意」を省いた代わりに、文章には「生き方」を書き込んでいるだろう。生き方を求めようとすることに食いついていく読者には、アレ…のような他人事のようには、簡単には放さないと思う。
ガロウ・ラン的な恣意の放出はとくに、邪悪であると言っていきたい。放出……発動かな。もうちょっとトミノ界隈的なボキャブラリーの良いところを捜したいね。
後のブレンパワードくらい経ているので「エモーショナルなもの」というと富野文脈では分かりやすいが……エモーションを恣 にするは、単語としてはあたりまえなので、とくに作劇以外の話には通じない。
「健やかさ」というのとは違う。その発露を塞がれると鬱積するのはたしかだが、「恣意」と言う中に健康とか健全という価値評価は含んでいない。
恣意(つづき)
リンレイと会って女性観の激変・革新だった迫水の内的体験のおさらい……レッツオ以後の章を詳しく読み込んでいればくり返しになるが、女性観の話をちょっと外れて、この中に、前回挙げた「恣意」の語の使い方の、別の例がある。その復習をしてみる。
いかにもわかりにくい。完全版では表現から除かれているくらいなので、説明のためにとはいえ、挙げるには悪い例といえる。
生きているかぎり、個人のなかの欲求とか欲望というものはある。この文中では、「自分」と書いてあるところは新旧に共通してそれかもしれない。「自由」という語は、完全版では近い段落に「自由恋愛などは…」とも、かすかにあるが、自由から隔離されていることが許されていた、といえば、現代の読者にはなおわかりやすいだろうか。
完全版1巻の402ページ「聞きなれた声のおかげて、」このたび再読で初めて完全版の誤植らしいものを見つける。意外。旧版のカドカワノベルズも校正はかなりまめで信頼できる。
ドラゴロール
強獣。小物はここまでもちらほらと登場していたが、この章で主役になる巨大な強獣「ドラゴロール」について。龍に似た強力で狂暴な生き物。ガロウ・ランの間にはドラゴロールの急所についての言い伝え等もあるが、あやふやで真偽は全く確かでない。
直径二、三メートルもあろうという胴(旧)
ふた抱えはあろう胴体(新)
同族らしき龍種には『オーラバトラー戦記』に登場するドラゴ・ブラーがいる。ドラゴ・ブラーは龍に似た蛇体に翼をもつ翼竜。ギィ・グッガの手勢に飼われているが、ガロウ・ランにしてもドラゴを飼い慣らした例はなくて、たしか作中が初めてとされていた。
ドラゴロールは後のシリーズ『ガーゼィの翼』にも再登場する。ガーゼィではドラゴロールは無限平野ガブジュジュの地に棲む「最近生まれた種」らしいといわれていて、生態が全く分かっていない。巨大な狂暴なだけに留まらず、自然の生物とは思えないようなある種の能力も備えている。ドラゴロールの上位種という「ゲッグ」も存在する。ゲッグには知恵さえ備える。
「21 徒党」(旧)
「13 ゲルドワの噂」(新)更に続き
書き出しから、やはりなんで書き改めているのかわからない。どっちにしても、山並みの峨々や巍峨という「鋭く尖った印象」ではなく、「広々として果てしなく荒涼としていること」、渺茫とか茫漠とかいう。草木の一つもない、というわけではなく、山裾には原生林が続いている。
ギリシア、インド、ゲルマンの英雄時代とシュメールのそれとが、社会構造・宗教・叙事詩文学と挙げていくほど「驚くほど似ているように思われた」から発して、シュメール人は、もとメソポタミアに先住、先行する集団の高度な文明地に侵入してこれを征服した人々だっただろう――との推測をさせるものはその英雄詩にある、という大まかな筋書き。
先シュメール文明には2020年代の今もなお、学問の場でははっきりしていないだろうと思うけれど、この思考の飛躍が今読んでも面白いと思う。飛躍といって、空想を語っているわけではないが。紀元前三〇〇〇年頃から古代ギリシア・インド頃の時代間や、地上界と異世界の間について「英雄サーガの成り立ち、語られ方のパターンが似ている」と思う発想のところ。その発想自体はゴゾ・ドウにも似ている。
いま、エリアーデの『世界宗教史』からの横道で、シュメール学者サミュエル・クレーマーの自伝『シュメールの世界に生きて』を読み返している。このうちの六章「英雄たち」のところは、ここの『リーンの翼』の前回のはなし……ガダバの結縁のような話の、「英雄時代」を考えるときに面白い。
内容を紹介すると長くなるが、章は、ギルガメシュ叙事詩(ギルガメシュ物語)のアッシリア語版とシュメール語版の発見・研究史のあらましから、エンメルカル、ルガルバンダも加えてシュメールにおける「英雄時代」が浮かび上がってくる――というところ以降。古代インド・ヨーロッパ語族の……という語り出しではあるけど、ここにはたぶん必ずしも歴史学のセオリーではなく、クレーマー自身の"インスピレーションの得方"がスリリングなところがあって、また思い出せば再読しておく。