「The Castle of Dark」より。先日言及していたところの、畳みかけからの返し。リアは吟遊詩人として竪琴を手に入れ、放浪の旅の用意ができた。魔法に駆られたような数か月がすぎ、辺りの景色はもう冬が迫っており、財布は軽いというこのとき。
When the nights grew colder and the rains of autumn began to blow with the red leaves along the hills, Lir briefly faltered inside himself. For he knew he was crazy, abroad with not two coins to rattle together and tomorrow’s bed and meal uncertain. Still, even when the frost sheathed the grasses, and he glimpsed two grey lions slinking through them after prey; even when the pools froze and the villages were remote from each other and the snow came, even then Lir wandered with his harp across the land. He did not turn back to his former life. Did not think to. Never would.
「陰惨、妖艶」に多く読み慣れると、読者ものほほんとした感想になる。
このリストは「ダークファンタジーのための」としているが、具体的にわたしの読んでいたのはタニス・リーの「The Birthgrave」三部作のこと。
結局、タニス・リーの小説作品そのものはこれまでに映像化されたことはない。単発のTVドラマになったような情報もあることはあるが、そのイメージになるようなものは実質的にゼロ。そういう参考になるものは英米にも実例はない。
わたしはファンタジー小説を読みながら、とくにヒロイック・サーガをテーマに同時にその日頃に「日本の現代音楽作品」を捜している習慣になっている。過去に蒐めたアルバムからも聴き返してみつつ、あれこれと聴いたあとで「これ」と思うところを当てられると気に入るのだけど、感覚的に合わないと耳障りで、アルバムを通して聴けないか、読書の邪魔になって読み進みが滞るのでわかる。総当たりに対してわたしの音楽的気分、耳フィルターによる。
初期のヒロイック・ファンタジーより、
これらを今はピックアップしていた。現代感覚として古典へのオマージュはありながら、端々にお茶目感はありつつ、ロマンチックなところ。
「鳥の響展」アルバムを聴き直す。こういう感じ。吉松隆は最近になってわたしの興味が上がってきたんだったけど、それも滞りがちになっていた。わたしの気分の中にこういうものがあったらしいのと、『ストームロード』の映画的な印象は今こういうの。
この春『ガーゼィ』を読み返す中で、ガーゼィの翼は「翼の靴」というアイテムは必要なく、クリスがいればクリスの足に直接生えるので、ひるがえってリーンの翼も、本当のところ靴は要ったのか要らなかったのだろうかと考えていた。旧版範囲のストーリーでは、これから後その話にもなっていく。
本当のところは翼の靴はいらなくて、心で飛べれば迫水も、迫水自身でいるだけで翼を顕現できたんじゃないか。『リーンの翼』はそういう物語にすればよかったと著者も思ったから、後のガーゼィではアイテムとしての翼の靴はあらかじめ廃止になったんじゃないか、とも、わたしは想像もしたんだった。
靴というアイテムは「象徴」、という考え方もある。もっともリーンの翼自体が象徴だと思えば象徴の象徴のようで冗長な装置かもしれない。
完全版後編の話も少し先取りをすると、結局『リーン』の中では靴は必要なもので、心ひとつでは飛べない。後には迫水とエイサップとで靴の取り合いのようなこともする。六十年間、迫水は戦場に出ていないほとんどの時間は靴を履いていないはずだが、魔的な道具と使い手の肉体との絆のような切れない関係があるのか……のように今ばくぜんと考えておく。
余談 1 / 2
オットバの剣をかわす迫水の慣性に反する動きに、オットバはリーンの翼の顕現!?と察してその瞬間に退散する。ヒーローが変身する前に襲い、「変身する」と気配を察したらすぐさま消えてしまう、したたかすぎる敵だ。
このときの迫水についても、空中で二段ジャンプのようなありえない動きをしたのは、目に見えていない状態のリーンの翼が羽ばたいたとも思えるが、迫水の常人離れした身体強化のせいで、直角にターンするような……慣性を無視して見えるほどの運動をしたのかもしれない。航空機でいうと大Gのかかるとんでもない機動をしたかのような。
読み返し。少し場面を戻って、オットバの鞭を払う迫水の剣について、左手でそれをすることに旧版では「いまの迫水の腕力」と言っているのは戦いを重ねて鍛えられているからにも読めるが、以前の章ですでに、迫水の身体能力の強化や治癒力にはリーンの翼の顕現がかかわっているのではないかと仄めかされていた。ここは、完全版ではその曖昧な示唆は省略されている。
クレイマーの本については、
という批判をされることが、当然ながらある。彼の研究の動機に文学志向的なものがあるからだ、とは自伝に述べているし、研究スタイルにしても、たとえばロシアの研究者は古代人の経済観念や技術史的な興味に強かったようなエピソードも加えていた。
もう少し突っ込むと、フレイザー批判や、もしかすると柳田批判のようなときにも同じような語調をたびたび聴いているかもしれない。井筒批判などもそうかな。
エリアーデについても言える。
リー通読の中間まとめのような意味もあって日本史を思い返していたが、そのうち「ロマサガ」という案を音楽のイメージに思いついていた。タニス・リーのほかの作品ではちょっと、どうかと思うけど、ストームロードにはそんな節もある。
その続きに吉松隆の「平清盛」組曲を聴き返し、映画音楽的なイメージでは、こっちがもっとあると思った。これは良いものを思い出した。吉松隆も少し積んでいるので再開してみてもいいか……。
英国の作家を読んでいるので英国の音楽を聴くかというと、わたしはまずそんなに知らないし、わたしの思い入れる連想を作るには、情緒的にはむしろ日本情緒でもいいよ。「遊びをせんとや」の日本語の歌が入るとまた違和があると思うけど、戦い旅していく間にも少女の面影のようなものはあった。そのロマンチックなのはいいね。
鐙
今ふと気づいたが、『リーンの翼』作中、馬具の鐙 はこの世界にあるものとして普通に使われている。
『ガーゼィの翼』では鐙は存在せず、クリスが導入する。この「鐙の発明」は異世界ファンタジーのお約束エピソードになっているようで、わたしはそういう話を何度も小説中で見るのが今は何となく厭気が差すのだった。歴史知識とか、文化的優位性で戦争に勝てるみたいな意気揚々とした作者の気分は少し嫌いだ。近代戦術とか、兵站の概念とか、衛生観念の導入とか。色々あるな。
『オーラバトラー戦記』は馬や馬術があまり話題にならないが、鐙らしいものはどうもあるようだ。
テラビィ
テラビィ・ザムは、旧版2巻中に本文から彼とわかる挿絵がある。迫水隊の中ではイラストで個人が描かれている古参メンバーの一人。
旧31新20。ここの「ベッカーラ」は新旧とも「ミラヤマ」の誤り。前回ドラ・ロウについてまとめたので、それより。やっぱり著者自身が地理を把握してないみたいじゃないか……。この巻頭の地図は完全版の際に新作されたんだろうしな。
文は新旧とも誤りで、訂正されていない。読者は注意して読んでいれば気づくが、今めくると同様の混同が後の文にもあるのでさらに混乱させると思う。その攻略戦になったらわかるかな。
現在まとめ。現在まだ作業中というか、作業用なので、世の中一般の文芸論や作家論に通用するわけではない。
「The Birthgrave」より。主人公の「私」は花畑で襲われる。逆恨みを募らせていた部族の娘は激昂するあまりナイフで切りつけてしまう。
ぱっと散った血飛沫が薄紫の花を紫に染め、赤は真紅に。こういうときは色彩表現というだろう。色を書いているんじゃなく、色の表現を借りて描いている。この技巧は全体に撒いてあるわけではなく、重要場面のここぞというときに取ってあって使われる。
「The Castle of Dark」より。先日言及していたところの、畳みかけからの返し。リアは吟遊詩人として竪琴を手に入れ、放浪の旅の用意ができた。魔法に駆られたような数か月がすぎ、辺りの景色はもう冬が迫っており、財布は軽いというこのとき。
こちらはリフレイン技巧で聴覚的。「陰惨、沈鬱、残酷」というダウナーなくり返しは章全体や、作品の全体に暗く覆っている。ここでは段落の前半にリピートする。その後を取って、切り返していく。これも全体に毎回するわけではなく、要所で一回だけ使う(得意の節回し)。
「訳者あとがき・解説」の書き方・読み方には、その当時の文芸観・価値観が反映していることがある。それは、必ずしも訳者の人が偏っているわけではない。
英文の韻律、リズム、語呂合わせによる言外の意味の含みや促し……という音韻や文化を、別の言語文化、日本語に訳すにはどうしても限界があるので、せめてここに描かれているモノ(映像)の数々を味わってほしいと書いてある。訳すときにはそれも苦心の上でニュアンスを盛ろうとしたのだが。翻訳者として謙虚にあとがきしたところ。
読者はそれを読んで、原著はおおむね視覚的作家だと受け取り、また視覚的表現は現在世界基準なんだ、として受容したような経緯が振り返ると80-90年代頃にちらほらと見られるように思う。FT読者の映像信仰(映画化への憧れ)、享受層が同じ漫画・アニメの同時期の傾向など、平成年代の一般論に当てはめられると、何か困ったような気持ちに今はさせられることもある。
井辻先生は時々、映像的な感覚や「目に浮かぶような表現」に偏った評価を挿むのでその価値観は折々に適切かどうか考える必要がある。
絢爛な文体、修辞のところにいう「倒置」は、wasが先に来るという意味だが、これはイントネーションに加わる。ストーリーの要所で、言葉をくり返し、表現を重ねながら、くり返しくり返しリフレインして歌うような特徴は、どうしても詩人であり、視覚よりは聴覚音声的に重みがある作家だと今わたしが読むときには思っている。
タニス・リーの読者全般には、上の印象と、浅羽莢子訳の調子の印象が非常に強い。浅羽さんはそれに苦心したと言っているので浅羽さんが普通にする文体ではなく、シリーズ作品のイメージではあるけど、リーの文章の本質でもない。
リーの修辞技巧
『闇の公子』冒頭から。こうした比喩のおびただしい列挙は「平たい地球」シリーズには散りばめてあるが、シリーズ以外のタニス・リーの他作品では、そんなにしてない。これは、シリーズのモデルにしている千夜一夜物語の文体のほう。このたびはその模倣をしてみせている、という本人コメントも訳者あとがきに載っている。
千夜一夜物語に(過剰に発達した形で)見られるようなこの文章の形式は、古典を読んでいると何かしら、時代を隔ててくり返し目にするもので、その伝統がある。そのことについては、矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)に載っている「女性讃美の文学的伝統」の章にまとまった解説があり、古い本だが今も手引きになる。
リーの小説を読みながらその日その日聴く音楽がなくて退屈してたので、何か捜すとショスタコーヴィチ、などと書いてあるのでばかやろう!ショスタコなんて言っても現代の他に何にでも言えてつまらないと思った。でもそれは積む。
その傍ら、そういえばサガフロとかのイメージ先はあるんだから、逆にタニス・リーを伊藤賢治(または浜渦正志)の音楽連想で聴きながら読み返してもいいんじゃね?との逆想になり、その日はそうしていて面白かった。イトケンミュージックは2010年代頃にはスクエニ公式でバンドアレンジも、オーケストラアレンジも増えていてわりと豊富にある。ただ、それを聴きながら歩くと耳について、帰ってきて小説など読む気はしなかった。
ロマサガ
タニス・リーの話題でネットを検索してヒットする半分くらいは、ロマサガの中の幾つかの元ネタだ、とのこと。最近ではエルデンリングとか。リーについてする話題少ないのだ。
わたしはまたSaGaシリーズのそこそこ程度にプレイヤーではあったけど、その話はループだと思う。おおむねオアイーヴの名前で、キャラクターの性格などはあまり関係ない。その頃当時の、ハヤカワFTかSFのキャラやタイトルや用語をゲーム中にお遊びとしてちょくちょく引用していて、それはFFシリーズ等もそう違わないだろう。
小林智美氏のイラストのイメージがリー作品の翻訳での文庫カバーの印象と合うこともある。少女漫画の有名な作家が何人も担当していて並べて壮麗ではあり、ファンにはこの印象が強い。もっともリー作品も英語のペーパーバックなど求めると、その画はわりとマッチョに描かれていたりするし、80年代にそういう繊細華美なイメージを推しているのは日本先行みたい。二十年くらい経ってから英語版もカバーが耽美めいてきた。
サガシリーズで明確にリーの影響/オマージュを公言しているのはサガフロのアセルス篇。『闇の公子』の、地下にある妖魔世界の城について、それと傲岸不遜な妖魔貴族達の振る舞いのことか。こうしたファンタジックなビジュアルはおおむね無国籍ながら、それでもやはりヨーロッパ風の建築や衣裳を元に描かれるものだが、「平たい地球」のイメージ元について言えば千夜一夜物語で、作者のイメージはペルシア風だったかもしれない。妖魔のことだから自由だ。
出版事情では後からいえば、それよりもサガフロのリージョン世界の設定自体、『バイティング・ザ・サン』(1976, 邦訳2004)のような未来都市空間(ディストピア)に似ていたかもしれない。そこでは、自分の肉体を作り変えて何にでもなれ、テレパシー装置の娯楽では美男美女になれて剣を振るってモンスターを退治するゲームに飽き飽きしながら想像力がそこから出ない少女が自暴自棄に走っていたから、それも読み合わせているともう一層耽美を加えて浸れる。
上に挙げた「マジック・マスター」との対比をもう一度見てみる。ファンタジーとは何か、の方向性からして全然違うが、異化することも受容と言ってこのトピックに取り込むことができた。わたしが。
このトピックの関心では、タニス・リーの影響を受けた作品か作家が誰かよりも、上のような発想の創作経緯に至ったものは直接に系統関係の有無を問わずタニス氏の族とも言える、と言い替えうる。これから読む日本人作家にそういうのがあれば、それだ、と思えばいい。
もはや平たくない地球で
「黄の殺意」によるとこの大地はもう平たいことをやめて球になってしまっているらしいが、それだけの手がかりでこの世界に「世界観」があるとはわからなかった。
全四集のパラディスまでにリーはフランス史を熱心に研究したとのこと。その結果、フランスという地理と歴史の舞台に物語とキャラクターを配置しようと考えた、のではなく、物語を語ることでフランスを新たに捏造しようと考えていたらしい。
上のところまでは前回、既に書いた。リーにかぎったことではないが、海外作家の理解は未知が未知に連鎖して基本的なことが全然わかっていなくて受容されているのかもしれない。
今、あらためてもうひとつ足すと、『ファンタジー作家にとっての恐怖は、ある日、このさき作品を書いていくモチベーションを失ってしまうことだ』という吐露をふっと漏らしていることはまた気になる。この意欲旺盛で多作なリーが……。このときはまだ85年だが、88年のパラディスに準備しているものは多分この頃からある。
ひとつには、これは連作短編集の一篇で、これひとつで宙ぶらりんな結末に見えても集を通して全体で完結性が見えるかもしれない。
また、後の作品の話になるが『水底の仮面』(ヴェヌス1, 1998)のストーリー前半はこの「ゴルゴン」の筋をそっくり踏襲しているようで、ロマンチストの青年、「石の顔」の娘、その現実を知って一度は打ちひしがれること……のあと、後半はそのロスを奪還する愛の物語になって、それならタニス姉貴だ、という小説が一冊書き足される。
さらに、そもそもこの「ゴルゴン」のシチュエーションは、リーの「The Birthgrave」の要素のひとつで、その世界の未婚女性は(イスラム女性のするような)面布で顔を覆う風習があり、主人公の語り手もそれを着けて全編を覆面して過ごすことの、再話だった。それは女子からの語りだがこのたびは上のように男性目線から全然違うストーリーとして語られる。でも真実は同じかもしれない……。英国の選考委員は作家の代表作は当然承知して選考すると思えるから、この理由はその代表作が未訳の日本人読者にはそもそも解説抜きでわからないのと違うか。ちなみにバースグレイブはネビュラ賞授賞作。
ゴルゴン
『ゴルゴン』(1985)は連作短編集で、表題作は世界幻想文学大賞短篇部門賞を得ている。わたしは何かの受賞作だからといって特別それに関心を惹かれるものではないのは、全作品を順に通読したいと志すとあまり関係ないからだが、それでないときも選考委員が誰でどういう授賞理由なのか知らないと、その賞にどんな価値があるのか結局ずっと考えている。
この短編「ゴルゴン」はギリシアの小島に訪れた主人公が神秘的な仮面の女性に会い、その素顔をどうしても見たくなる話だが、主人公の彼が味わった真の恐怖は、仮面の下の顔が恐ろしいことは彼女が自分で言っており、その顔の恐ろしいこと自体ではない。彼、職業作家なのだが、現実に彼女の身の上を知りそんな現実を目の当たりにしてしまったことで自分のしてきた仕事、今後する仕事のことも野心も無価値に思えてしまい、仕事ができなくなったことが作家にとっての恐怖だった。
ざっくり結末を書いてしまえばそういう小説だ。ネタバレにそれほど被害のある作品でもない。目の付け所が独特で、ファンタジー小説家が怪奇体験に出会う形式はジャンルにたびたびある。クトゥルフのシリーズには幾つもある。そういう場合、幻想家はその怪奇に魅せられ、異界の虜となり行方不明になるか、発狂していくのが常なのに、ここでは生命には見た目、別状なく帰ってきて、そのかわり作家生命を絶たれていた。
ひどく皮肉だが、幻想大賞かというと、どういう基準なのかわたしにはよくわからない。芸術家の話ではあっても話は幻想的でもないと思う。さらに、作者を考えると何かタニス・リーっぽくない。上でも書いた、これは「スリルの喪失」の話なんだが、リーの80年代のたくさんの作品は、そこから逆転して「スリルを取り返す」という結末に向かうところにパワフルさがあった、はず。
リーの世界創作(コスモロジー)
視覚映像文化、日本アニメ史における世界観主義のことについては氷川竜介氏の近著のどれかを読めば説いてある。ここでは小説、日本ではなく海外FTを含めていうとき、ル・グウィンが自分のファンタジー観・文学観について語った『夜の言葉』からコスモロジーという言葉をそれに当てている。
1940年代生まれくらいの同世代ではたとえば、マキリップなどは先輩ル・グウィンのようなお手本にはよく従っていると思う。タニス・リーについては、リーは「文庫本の巻頭に地図がついてないFT作家」という特徴がある。
『昔々、あるところに……』というほどの漠然とした時空間だけを設定しておいて、あとは話の赴くまま、キャラクターの行くところに折々に町や、城や、森や平原がアドリブで生えてくるような書かれ方で、物語のフォーカスが当たっていないその他全域には、誰も見ていなくても世界が広がっているような気はしない。
地上があり、天の星界があり、地下にはドルーヒム・ヴァナーシュタがある以外、地上の国々の歴史や地理関係はない。物語が語られ、アズュラーンが行くところに世界ができていく。
リーの作品でも先日読んでいたThe Storm Lord (Vis 1)などは正直、地図が欲しい。めちゃくちゃ地名が多い。
『ハリー・ポッター』シリーズを読んだ結果、魔法学校を書き始めた日本のラノベがあるのかは知らない。なくはないだろう。「魔法は学校で習うもの」という不自然でないほどの認識はもともと行き渡ってたかもしれない。わたしは『ゲド戦記』を読んでいてさえ「魔法は学校で教えたくない」のような一定の距離感はある。ダンセイニのラモン・アロンソ(『魔法使いの弟子』)か、バルバヤートとシャイナみたいな内弟子を思い描くほう。
小野不由美の十二国記は、タニス的ではないと思う。わたしは読み返してなくて久しいが……近くにある。まず思い出す印象はバイストン・ウェルみたいなものの方に似ている。キャラクターは憶えていないが、まず世界地図と社会構造が設けられてありその上でシミュレーションする、世界観先行ならその族ではない。今の話の流れなら、どっちかというとル・グウィンのコスモロジーの兄弟に思える。
最近『火狩りの王』を読みさしていたけど、こういうものは日本人が日本人を咀嚼してくり返しが進んでいるものだろうと思う。あえて海外FTの影響を云々はいらない。
「90年代のアニメのノベライズ」というのは、ここ数年幾つも求めてみているが、そもそもファンタジーもののオリジナルアニメというのはすぐにはそれと思いつかないほど少ない。
グイン・サーガのような時代ではなく、海外FTにインスピレーションを得て日本FTを書き始めた作家というのは結局のところそんなに居ないのでは。それこそ、『ロードス島戦記』(1993完結)のように当時一世を風靡する和製タイトルが現れればファンタジーはそういうもんだという認知はされている。日本人作品を読んで日本人作家が書く自己消化に入っているだろう。上のような例を挙げられるのは90年代前半で十分だろうと。
こうしたファンタジー←→オカルトの相互意識は、作品の「表現の絢爛華麗な華やかさ」や「妖麗なキャラクター、物語の奇想」などをもてはやされるほどには、翻訳を通じて移植されない。日本に受容や影響を語るなら本来そうしたコア部分かもしれない。
カリスマの終焉
タニス・リー作品の魔法は必ずしも呪文や物事の起源や真の名を呼ぶことは必要なく、しぐさや術式は必要なく、作動原理はどうであれ「それは起こった」と書かれたときにはそれは起こっている。プラグマティックな実践魔術ともいえるが、起源はむしろ古い。むしろ真正の魔術とも思う。マジカルな語りなら、その語りの意図こそ問われるべきでなかったかの疑問はついて回る。
アズュラーンの直接の前身だったヴァズカーは飽き果てるほど血みどろの生きざまをしながら、自分の創造者である母親を殺すことを目的に旅をしていった。魔法に長け、一方で、魔法で何でもできるとわかれば次には一歩先に倦怠に陥る。超能力のテレパシーを使って他者を従わせることは自分が圧制者に成り代わることで、それがどんな憎い相手でも相手の心を破壊してしまった苦悩を負うことになる。思いひとつで世界を変えられるなら、そんな不法に暴力的な魔法をあえて使おうとも思わないアパシーのような境地と紙一重に導く。意思の力を確信したあとに、無関心、無気力から抜けられない目的喪失の長い時間が続く。失ったスリルの再生こそ本当にどうしたらいいかわからないことだ。
無慈悲に身に迫る脅威や恐怖、生死ぎりぎりの戦いに駆る敵対者、追い求めても報いない恋人、等など、数ある呼び名のアズュラーンが世界にいると世界はスリリングになる。
そのアズュラーンの血と涙のありかが言い当てられると「平たい地球」の創作神話は終わってしまうのだろうという危惧はずっと語られていた。補足篇で地球が平たかったことがあらためて確認されたのだったが、その後シリーズが替わり、パラディスの最初のエピソードの中では天使の見せる大地は、残念なことに球体をしていた。
愛すべき恐るべきアズュラーンは去っていったが、タニス・リーの作品中でいえば、似たような人物はその後もたびたび姿を見せ、そのときは名前もルシファーと名乗っている。
日本人にルシファーを語る動機は、本当のところを言うと、ないし、この世に神はいなくても悪は実在するとの確信は、ときに恐ろしいほど強い信仰の源にもなることは、そう書いてあるのを読んでも往々にして理解に遠い。信じがたいものをも信じることができるのは、ファンタジーを読み終えた読者の特権になる。
demonを妖魔とすること
パラディスに触れるまえに「平たい地球」について一旦おさらいする。
天空の神々は創造を終えたあと世界を退去し、今は誰にも崇拝されない「暇な神」になっている。今、この世界の諸々の物事を創ったり、人々の運命を振り回すのは活発に活動中の闇のプリンス達で、アズュラーンを始めプリンス達は、無慈悲で容赦ない横暴のため人間世界で大変に恐れられ、また罵られている。
または、やはりそんなに実在が知られていない。無慈悲で冷酷だからこそ、あんなことも、こんなことも人の口に昇ればアズュラーンの仕業とされ、アズュラーンの血も涙もなさはアズュラーンのカリスマとして語られてもいる。「アズュラーンに慈悲はあるか、血も涙もあるか?」はアズュラーンの地位を揺るがす問いでもある。意外に人間に優しいじゃん?……と言われると、権威がない。
アズュラーンのようなものは普通にgod(s)というし、godの厄介な意味を狭めたければdeityでもいい。demonは悪魔というより魔神や、精霊や、自然の諸勢力を司る闇の霊とも言えそうなものを、「妖魔」という。日本のファンタジー界で妖魔の語がどんな使われ方をしたかも、どう辿ればいいのかわからないが興味あること。鬼でも妖精でもない。
小説家としてあらためてデビューした古川日出男氏の初期の作品には、「マジック・リアリズム」のワードが著書案内にしばしば添えられていて作中にも言及される。ファンタシイ(FT)よりは純文学の作家でマジック・リアリズムを追及する者であるとの売り出しだったようだ。
1960か70年代頃にマジック・リアリズムの作家はフェミニズムの作家とも親和性があった。マジック・リアリズムは日本では定期的に流行語になり、1990年頃に一回復活している。アンジェラ・カーターが亡くなった頃でもある。
ただ、古川作品の作中で実際には、ストーリーテリングの妙技よりは「異能者設定による能力者バトル」のことを言っていると思え、わたしは00年代の初頭で今のところ読み返しが滞っている。
マジック・マスター
どっちかというと鈴木銀一郎著の後続シリーズ「マジック・マスター」の小説二部『赤い髪の魔女』『闇の騎士団』について今記す。「モンスターメーカー」の時代設定は「神話の時代の終わり」に置かれ、こちらはそれより数百年ほど下ってみえる。
「マジック・マスター」の世界は英雄の時代、この頃にはもう人間の世界に神々の直接関与や、魔法も炎や稲妻が飛び交うものではなくなっている。だが、この時代に姿を消した神々の存在は、人智を超えた運命としてやはり人間を支配している。その下で人々は戦う。
ケルトの英雄物語やシェイクスピアに着想しているからライトノベルだがハイな雰囲気に近い。運命の皮肉を語る話はダークファンタジーだが文体はライトでユーモラスという面白さ。それで、こうした経済史や都市の勃興などは今のトピックであるタニス・リーに書けない類の小説だろうと思う。『マジック・マスター』二部とパラディスの比較はちょうど同年代に対照的なファンタジーの方向にも見え、少々こじつけめいているが日本国内作品にこんな例もあった。
90年代のゲーム小説では『ドラゴンライダー』を名作として挙げたいが、今それが本題ではないので早く飛ばす。「モンスターメーカー」シリーズのために「世界観を提示するための小説」として書き始められたという。
「世界観」という語については後で触れる。本作にはトールキンやマキャフリイのオマージュは置いておいて、独自には、歴史学あるいは歴史観をファンタジー作中に導入していること、その史観にしてもオークという種族の多産と貧困という経済問題に目をつけ、「なぜ戦争がくり返すか」に切り込んでいく。ただし、それはこの世界を説明するための外枠であって、核としての物語は、
を語る。見事だと思う。
砂の王
『砂の王』は古川日出男さんのプロフィールには載っていないデビュー作品で、ゲームボーイの『ウィザードリィ外伝Ⅱ』を原作にしている。ウィザードリィはコンピュータRPGの古典タイトルだが、漫画や小説化、「ウィザードリィ友の会」のようなファンブック展開ではドラクエ等に遅れた。その一端のノベライズ。
序文を寄せているベニー松山氏によると当時、すでに夥しい数のゲーム小説が出版されているが、単なるゲームのリプレイ、体験日誌にとどまらず文章で物語を語る小説としての最低限の条件に達しているものは少ない。
と書いてある。ここでいわれる流麗かつ重厚な文体によって綴る幻想物語には、わたしはリーの平たい地球を連想するものがあって、それは『砂の王』が千夜一夜物語のような東方世界を舞台にしているから、だけではないだろう。結局、『砂の王』は続巻が出ることなく終わったが、後に新規に書き下ろしとなった『アラビアの夜の種族』になると、タニス・リーかのような気配はもうない。
90年代のゲーム小説から
タニス・リーを少し離れて、日本FTの興隆には同時代のゲーム文化の影響は少なくない。ようするにコンピュータRPGから「剣と魔法」の世界に馴染む世代になってきてそのジャンルが浸透、広まった、との考え。
その90年代頃の流れで思うときに、ゲーム発の作品でありながら文芸として独自の作品であることが成立し始めた先駆として、
を思い出す。三つという数に意味はない。コンピュータゲームのノベライズという意味でなければ、ロードス島戦記などももともとゲーム発祥の小説だが、いまタニス・リーの話題ではそんなに関係ない。『ドラゴンライダー』にはまたリー作品のようなイメージは皆無だがテーマには多少、近いものもある。
小説ドラゴンクエストⅣ
82年頃から始まるリー翻訳を読みながら育ち、自ら創作にも取りかかったFT作家は、居るとは思うが、その旨ご自分で公言していないことにはわたしは一人びとりについてはよく知らない。書かれた作品から想像するというもの。
同ジャンルの日本人の作家でタニス・リーの邦訳書に解説を寄せているのはひかわ玲子さんくらい。『銀色の愛ふたたび』(2007)にその文がある。だからといって、ひかわさん自身の作中にリーからの直接の影響などがあって寄せておられるかは、あまりないと思う。わたしは最近、「女戦士エフェラ&ジリオラ」シリーズ(1988-)をちらと瞥見したけど、これや「三剣物語」などにしても、タニス的な……というほどのところは特に。
剣と魔法のジャンルのイメージには、80年代のアニメ(OVA)文化が別にかかわっている様子は感じられる。
ひかわさんと同世代で、タニス・リーへのリスペクトをあからさまに打ち出した実績のあるのは久美沙織『小説ドラゴンクエストⅣ』を挙げる。これはよく知られているように、アズュラーンにみえる(またはエルリックか)というピサロを描き出し、そのことは著者も公言しておられるから、まずこれが一番目立つといってもいい。
デスピサロの章にかぎらず、全編にわたって耽美に書き換えられたドラクエは、いのまたむつみカバー&挿画と相まってファミコン世代の少年に相当に刺さったことだろう。その頃のファミコンはだいぶ「男の子向けの玩具」で、しかも当時のドラクエは社会現象にもなろうかという大きなタイトルで、そこにこう来るのはすごいことだ。賛否等はともかく、これを読んで幼い心にファンタジーが芽生えたという少女少年は居なくはないと思う。
小説ドラゴンクエストのⅠ~Ⅲについては今省く。これに先立つ久美作品『精霊ルビス伝説』までは一昨年に再読した。Ⅴ以降も続けて担当されているがやはりⅣを挙げておくべきだろう。
あまりこのスタイルは神林作品には用いられないが、ずっと後になって『猶予の月』(1992)、『ラーゼフォン 時間調律師』(2002)などに幾ばくかの残響が感じられるとも思っていた。それは今度読み返す。