リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
1 (完全版1-21 : 旧版1-33)
- バイストン・ウェルの記憶
- フェラリオのだらしなさ
- 空に棲む魚の話
- 男の死に体
- 死に損ない
- 生き神様考
- フェラリオ交響曲
- ガダバの結縁
- ガロウ・ランの神話
- 英才教育…規範 / 恣意
- 卑屈にしている暇はない
- バイストン・ウェルの黴菌
- アマルガンの民衆史観
- ドラ・ロウ
- テレパシーでからかう迫水
2 (完全版22- : 旧版34-70)
- コモン界の黒歴史
- トゥム、ネイラ・ザン、ノム
- 大和こころと桜ばな
- 純粋に戦いを楽しむコモン
- 理由はない
至誠 に悖るなかりしか- 「守るだけでは勝てないから」
- 至誠と桜花
- 勝つために戦うこと、戦争を始めないこと
- 俗に言う八方眼
3
- バランモン
- 妥当ではある
- 我に返る迫水
- 心の物語
- ためらいがちな語り
- 語本来 ~作中2ch語
- 迫水の終生のテーマ
- リュクス姫様 / コドールとハッサーン
- バッベルの巨樹 / バルシュの大木
- エイサップの条件
「62 異世界人」(旧)
「39 王とノストゥと」(新)つづき
これは言うまでもなく2000年頃のベストセラーについての言及。今はそれほど聞かなくなったかもしれないが、全くというわけではまだない。
「63 ダーナとダム」(旧)
「40 ダーナとダム」(新)
接収した工場の機関砲を急いで据え付けて試射もせずに接近中の敵とそのまま実戦、はあまりに無理と思われたのか、完全版では試射まではしてみる一くだりが挿む。その大慌ての中でノストゥのことも頭から消し飛んでしまうのだった。
完全版ではこの章の始めから果樹林や田んぼの周辺のシチュエーションの描写を挿みつつ、開戦するとダム隊を迎え撃つダーナ隊の騎兵戦術がみっちり加筆。ここはいま頭の中で概念的に追っているけど、その興味があればあらためて手許で図に描きながら追い直してみるといいかもしれない。「戦術巧者だ……」との富野文。
「64 床山の名誉」(旧)
「41 名のあるところ」(新)
「儂の子等は、まともすぎた。ガロウ・ランの力にすがる術でも知っておれば、男になれようものを……」
「しかし、民は、シュムラ・ドウ様を嫌っていましたぞ?」
に続き、
完全版で加筆された「ガロウ・ラン観」のうちでもここに来て痛快な一言。ちなみに完全版のメタバはシュムラを呼ぶのに「様」は付けない。
上に続く文、『二人は、老いたのである。』から、強大なガダバの存在は二人に暴虐な支配者になることを忘れさせ、治世者にした……
これは文意が逆転してみえる。わたしには、ここまでの文脈からなら旧版の方が正しいように思う。読み方では、ゴゾら親達は若いままの行動原理を老いるまで実践せずに治世者になってしまったが、暴力という「簡単な論理」は子らに引き続き実践するよう「任せた」。任せたところが子の世代は貧弱であった、という意味かな。
文意が逆になっても文脈上、意味が通じる(だいたいわかる)とはな……。言葉の面白さではある。著者は御自分の文章を長年をおいて読み取りかねる、「これは書き誤りだな」と判断しているらしいリライト箇所がいくつもある。読者としてはもともと合ってる気はするとか、さらに間違ってる気がする等の面白さもあった。
『男をうごかす力になっている女の色香以前の属性というものはなにか』
ゴゾ・ドウは知っているのだが、口にするのは難しい。言葉にしてしまうのは面倒なので、笑った。フッフフ……ハハハ! これは完全版の加筆。
この『属性』について、はるか以前の章(旧16新11)では迫水の台詞を借りて「女の魔性」と呼んだだろう。旧版のそれはいかにも陳腐な表現で、まだしも2010年頃の現代には「女性性」とでも呼ぶのがセオリーだった。その「女性性」なる言葉にせよ、女性の具体的にどんなところも意味してはいない、所詮ナンセンス語だとわたしは思う。
俗に言う八方眼
完全版では文中に当たり前に書き流していていちいち八方眼の説明はない。
八方眼はバイストン・ウェル物語の主人公に伝統の特技、聖戦士のお家芸ともいえる。オーラバトラー戦記(5巻)でも「俗に言う八方眼である」と書き出される。そのさい、「少なくとも百八十度の視野」「百八十度以上」とも書かれる。ジョクもクリスもこれを発揮するがその修業などはない。シリーズ戦い抜いた末に終盤で身に着けている。
新旧でその描写が異なることもあって、わたしはカランボーが完全版でいつ退場したのか憶えてなかったが、どうもこの瞬間の錯綜状況を何か読み飛ばしていたらしい。カランボーについて作中で触れられるのもこの章が最後。
完全版の文中で最後に触れられる箇所は、わびしいが、完全版では前章にノストゥとカランボーのささやかな会話シーンが追加されていたのでもあった。フェラリオの話はしないことはこの通読の最初からいってる。
「65 アマルガンとリンレイ」(旧)
「41 名のあるところ」(新)つづき
そんな事実あったっけ? なかったと思う。完全版では、『あのサンダルが、リーンの翼を顕現するかどうかは不明なのだが、迫水は、リーンの翼とは無縁だとは思えないという』とある。迫水の信心。
カランはシュムラ軍との戦いで大いに働いたはずで、不可解な言い草。その後の二週間あまりで、ミラヤマを飛んでドラバロまで送り戻されたような扱いは考えられない。完全版ではこの台詞は「サッド・アデタプトなんか」と聞いたことのない人物のことになっている。
「66 ゴゾの前」(旧)
「42 ゴゾの前の闇」(新)
丘の斜面に横断幕を巡らすというのは、つい最近べつの小説で読んだばかりの気がする。それと思い当たるようなものは『ガーゼィ』くらいしか読んでいないと思うが、ガーゼィのそれらしき箇所が今ちょっとわからない。憶えておく。ずっと注意して読んでいるつもりでもこれで、無念だ……。
「69 ベッカーラの炎」(旧)
「43 ベッカーラの炎」(新)後半
コム・ソムが空から撒くビラについて、旧版では、『勿論、印刷の機械などはない。』として、
完全版では、
文字の書ける兵士がカーボン紙を使う。それも、「携帯できる印刷機」がないので、印刷機自体はこの世界にすでにあるのかもしれない。印刷機については後の巻の展開でさらに触れられていたような気もする……どうだったか。
わが恋は火中の車 かた輪ぐるまよ
ただに怨を載せて燃えける
完全版では「火中 」「怨 」にルビが書き足されている。「うらみ」ではないのか。歌に対する迫水の感慨は新旧で異なる。
旧版の「体験できた」についてはこれまでの「ロマンチシズム」等を引いて、迫水は地上で体験できなかった青春をバイストン・ウェルにきて初めて得られたことと、また小説執筆当時(80年代)の、1950年代や60年代生まれの戦後世代にとって自分らは「体験」から切り離されている、何もない、という一般的な風潮も思わせるだろう。
それはいいとして、2010年の解では「それを悪しきものにしなかった、よかった」という総論にして穏やかなものだ。当たり障りのないくらい。そのどちらを採るかには、今後まだ論じたいことがあってもいいだろう。
歌の真意なら、やるせない怨みを込めてでも激情に生きたい、生きるべきこと、じゃないのか? それはまだくり返していい。
「70 地上」(旧)
「44 地上」(新)
すでに笑いを挟むような余地のないクライマックスなのに妙にユーモラスに感じるのはやむない。根っから爆弾野郎だったよな、愛すべき。旧版のここは、すでに原爆が二度使われた事実を迫水は知らないおかげで「間に合った」と安心できたのだと書く。それは悲しい。
「チョンタルの血の歌」が完全版では省略。その変更に伴って、それに続く、
は完全版ではここでは語られない。それはきっと後篇に保留されることになるだろう。迫水の故郷を見届けたリンレイが消え、喪失感が迫水を生身の意識にもう一度引き戻し、生々しい怨み・怒りを吐き出させる。浄化された魂になりかけたところで『我に返った』みたいでもある。
歌の詞はリンレイのなかに戻ること、迫水はリンレイのなかに戻らなければならないと教えているのかもしれないが、それを裏切って迫水は再度の飛翔を欲望する。リーンの翼は、その迫水の欲に答える。
として、完全版2巻と、旧版全6巻まで終わり。新旧対読はここまでとし、完全版はこのまま3巻へ続き。
バランモン
第三巻再開。第一章から。
ワーラー・カーレーンのシュエル・リドンのスンガリカというか、スンガリカのシュエル・リドンというのかも知れないが、そこにいるジャコバ・アオンのところ。
バランモン。コモン人の学者、賢者、知識者一般をいうようだ。この口ぶりでは知識者を「バランモン」と呼ぶ習慣はフェラリオでなくコモンのものらしい。作中の登場人物がそう呼んだり呼ばれたりしているのを見たことがないけど。インテリとは頻繁に呼んでいるけどな。
バランモンはインドのバラモンのイメージかどうかはわからなくても連想は当然するだろう。わたしは、もう何か月も前になるけど、「英雄叙事詩の時代」が語られるとき印欧語族のケルト人のそれと、メソポタミアはシュメールの叙事詩のスタイルが似ていることから「英雄時代に共通する社会体制」なるものを予想しえ、それは社会の三区分制だというクレイマーの言及しているデュメジル等の話を思い出す。王侯、祭司、庶民。そのうちの祭司の階級に当たるとみなされるバラモンとかドルイドだと思っている。バイストン・ウェルはまさに英雄時代。
このあとすぐにバランモンのムツトウが登場する。
バランモンは旧版の範囲では登場しなかった、迫水が会ったことがないタイプのコモン人で、流浪の学芸家、「哲学をかたる寄生虫」とも言われている。処によっては尊ばれるが、アマルガンのような(実戦主義の)武者には嫌われている。
インドの話の続きだと、ミリンダ王みたいな王侯の顧問をしている学者もいる一方、諸方を流浪しては議論を好む乞食学者もいたとかの……。そういえば『十王子物語』をトピックを立てたきり中断して忘れているけど、ああいう伝奇に出てくる。
出生によるカーストとしての知識者階級ではなさそうか。婆羅門か仏僧かのような、宗教はない・神はいない、ということにバイストン・ウェルはなっている。日本的にわかりやすいイメージの語彙にはないのか。修験者や修行者というわけでは必ずしもなさそう。道人とか上人ではどうだろうか。
歴史については「フェラリオの語り」に歴史学者の居場所を取られてしまうのではないかと言ってた。フェラリオとバランモンに学的な交流はなさそうでもある。
水輪
水輪は「みずわ」とも読むようだがここは「みなわ」と読みたい。本文のそこにルビは振っていない。
少女のミ・フェラリオは羽の生えたフェアリータイプなのに水界では人魚のような伝説もされる。
「みなわ」にこだわるのは三善晃「音楽詩劇 オンディーヌ」から
妥当ではある
クスタンガの丘の結界を形成する嵐の壁の実在についてと、かまいたち現象との関連を語る1ページほどの文章はわたしには意味がよく掴めない。言わんとしているらしいことはわかる。文章が支離滅裂で前後のつながりが読み取れない、怪文だと思う。
嵐の壁にコモン界のものが接触することは過去にない、というのはジャコバの記憶違いで、実は頻繁にあって珍しいことではないのでジャコバの記憶に残らなかったが、やはり金輪際なかったと言っていい。
それとはべつに、
かまいたち現象が確認されたとき、
しばらく悩んでみてもあまり「妥当」な推論には思えず、行方不明者とかまいたち被害者の関係は、とくに語っていない。それとはまたべつに、不思議に思える思案の筋道を「不思議ではない」と決定する論法は以前の章でもあった。
ファンタジーにこういう書き方はあるだろうか?
富野読者でも、ここで富野監督が意識的に幻想文学を書いていると思う人はあまりいないだろう。「ボケておられるのか」と思うと思う。ジャコバはかなり耄碌している……地の文はよくわからないことを「理屈の上で妥当」としている。不思議の国のアリスみたいなものとも違うし、先例を何に求めるといえばいいかも思いつかない。ゴリゴリした狂文。
我に返る迫水
これは驚くべき。完全版で読んでいる読者は不審に思ってもいいだろう。『リンゴの唄』について旧版ではたしかに迫水はそんなことを思いながら昇天していったみたいではあったが、完全版2巻を読み返せば、そちらでは上のような感想を呟いているのは迫水ではなく、リンレイの意識だったはず。
サコミズの故郷の地上界を見、その明るい歌を聴きながら少女リンレイは感動して蒸発していったようだった。迫水の方は、その瞬間までほとんど自我も拡散して自分が誰だったかもあやふやな魂に浄化しかけていたものが、リンレイの消滅に心引き裂かれ、愕然として我を取り戻し、リンゴの歌だとぉ! つい今しがたまで戦争をしていたのにこんな能天気は許せん、こんな日本に誰がいるものか! 俺は日本人を捨てた! と激昂したことでオーラロードが再び開いた。
オーラロードを通っている間の迫水の意識は混迷していて間のワーラーカーレーンの光景なども素通りしていく。わけもわからないままその界に突入したのだろうけど、
と侮蔑するジャコバ・アオンには唾棄し返し、見知らぬ船上でリンレイ似の少女の声を聴いて目覚めたあとには、上の感情的経緯はけろりと忘れていたらしい。ダークサイドの怨念の塊のようには、意外にも迫水はなっていなかった。驚くべきこと。
前回、∀ガンダムのときに引用したが、上の「我 のありよう」については『王の心』と引き較べるのがよい。だが、『王の心』は入手が難しくなりつつある作品でもあり、べつに∀作中でそのように言われていることでもないから、今は富野作中のエゴについての延長というしか。ここで「我に返る」と書いておくのは適当か。
「我であるもの」は純粋に戦いを楽しむもの、我執ゆえに戦うためには戦う相手としての他者を求める。それはコモン。我を脱却してしまうとコモン界からもいなくなる。
アマルガンが新国家建設を後の者に託してその地を去った心境は、とても興味深いが、後に出てくるのを待とう。
『リンレイ・メラディをガダバのゴゾ・ドウの刃から守ることができなかったことを恥じた聖戦士サコミズは、雲のような巨人になって霧消し』云々と、伝えられる中にリンレイや迫水だけでなく「ゴゾ・ドウの末路」も色々と曲がって伝わっていることもわかる。ゴゾ・ドウはベッカーラ以前に没したはずであったが、やはりラスボスとして語り直され、リンレイとは刺し違えたということになったのだろう。
刺殺の場には迫水、アマルガン、もう一つのサンダルを履いて飛来したリンレイ、の三者しか居ず、リンレイの遺体は残ったようだが迫水は蒸発し、アマルガンは跡の事情を取り繕うしかなかったのだろう。
読み返すと旧版ではリンレイがその場に登場したときサンダルの翼が顕現しており、挿画も描かれているが、完全版にはサンダルについての文はない。なぜ突然リンレイが乱入してきたのか不明だし、例のサンダルはその後どうなったか新しい方だけを読んでいると記憶があやふやになっていたかな……。
わたしは『リーンの翼』旧版はカドカワノベルズ(新書判)でこれまで読んでおり、文庫版で読んだことはない。その違いはないんだろうと思っていた。イラストについては湖川友謙による本しか見てないけど、「サンダルの翼が描かれている」の違いなどはあったのかな……? それは文章にあることだけど。
ほかは……イラストでテラビィの人相が特定できる程度の情報源としてしか言及はしてなく、あとは好み。『オーラバトラー戦記』については読者によるイラストの好き嫌いがありそうだ。
ヒロポンの記憶
食後の甘い紅茶と蜂蜜菓子に元気を回復させられた迫水は、桜花出撃前にのまされたヒロポンのような作用をまた連想する。
迫水はヒロポンについて作中でこれまで三回ほど思い出しているが、そのつど「まるでヒロポンだ」と以前も思ったことを忘れているようだ。旧版五巻ではその巻のうちで二回思い出し前後で事実のつじつまが合わなくなるほどだった。でもまたヒロポンを思い出す。ヒロポンを使った後でヒロポンのことを忘れるという中毒なのかも。
逆撫でするがおさめる
バランモン会話の続き。
「蓋然的な言い方」については既に再三再四。『リーンの翼』に入ってからも幾度か挙げたはず。
富野的な用法の中では、「蓋然的な言い方は無責任で腹立つ」「大人の世慣れた、空疎な言葉使い」という否定的な意味だけでなく、「気持ちを逆撫ではしても承服するしかない」「ウソは言わなくて済むものね?」という有用さを暗に語っていて、富野監督自身がよく使っている。
『何々、という言い方があります』と言われるたび人をイラッとさせるが、否定はさせないという使い方をする。独善ではないかと思えるのだが…等。
ウソを言うためというより、それをもってファンタジーやマジックも成立させる技術にしようというテーマが窺われる。小説作品を読んでいると年代的な(年齢的な)変化は微妙だが、若い頃(三十代)にはまだそれほど表に現れてこない。積極的に用途を考えているのは90年代になってからのよう。
現実世界ではたとえば、「われわれ民族の方針の正しさは神の認めるところで、このたびの侵略が神意にもとることなら神罰があったはず。現に罰されないのは、神が認めているからだ」とか、優生学などを語るときには問題がある。
神意は実証はされないが反抗を塞ぐにはその言い口が見え透いていても実際に通用している言い方だ。その論法を批判する人が少数いたとしても、ネットの大勢はそれを通説、事実、として信じるのは今も同じ。
これはまるでフロー教の教義。「空を飛ぶこと」と「世界平和」がなぜ関係あるのか? 宇宙に行くため?
バランモンの話はわたしにはとくに面白いみたいだけど、あまりかかわると横道に逸れる、はまるので、程々に切り上げるのがよいみたい。信じてはいけません! と言う。
使う人次第です
この上まだバランモン話が面白いが――
迫水の去ったシッキェの地は急速に軍事国家になりつつあり、その尖兵たる兵器オーラバトラーなるものの第一号の名が「サッコウ」、という話は当の迫水の気分を甚だ害するのだけど、ムツトウ師は聖戦士伝説が大衆に訴える影響力、社会心理についての知見を披瀝するだけで迫水本人への悪意はないらしい。そこで『皮肉なものですなあ』のように言わない。
「……!!」と迫水は思うが、堪えて技術的な関心に話を戻しつつ、
「道具は使う人次第」という台詞は、これは昔ながらのアニメファンの身に馴染んでもいる信条で、善人には正しく使われるが悪人に渡れば悪事に使われる、鉄人28号みたいなつもりでモビルスーツ(軍用兵器)も語るのはおよそ平成頃まで通じてガノタにも引き継いでいる。たとえばホワイトドールもそれで語ろうとするので……『∀』はロランの無条件の善良さありきのストーリーだ、と後から言う人もいたりする。
Gレコまで下るとそれにはもう躊躇う。この『リーンの翼』は2010年。
バランモンはあくまで知識者としての楽観的態度。人間は集団になれば相争うもの(性悪説)であるから、オーラマシンのような強力なものは、使う者が善人であれ悪人であれ、誰が使おうといずれは戦争の道具になるのでは……とは思ってもみない(想定しない)。あえてシニカルな言い方をするつもりもなかった。
――ではある。
(本来的に闘争的なのだ とは言っていない)
再開。また併読が爆散しがちになってここは滞っている。迫水は近い数年間にメッオに落ちてきた地上人軍人達と次々に対面して情報を得るが、オーラバトラーの推進力の話と大戦末期事情の推説等が混じり合ってとりとめなく、わたしには関心をもちきれない。
オーラシップの話では、燐気舟由来のオーラ機関は浮遊するまではオーラ力で浮遊するんじゃなかったか。爆発的な推力を得るには昆虫の気門様の器官からの排ガスを噴射するという。それは追々読み返そう。
通読なので、シッキェ艦隊の襲来を目の当たりにした迫水が海岸の要塞(砲台)を艦砲射撃する光景にミラヤマ戦の記憶を呼び覚まされるところは記憶に新しい。コモン界には城壁に向けて艦船を並べて砲火を浴びせるという考えはなかった。現在のシッキェの国には迫水の知る人物は既に去ってしまったのだろう。世渡りの上手いジニアス・ティジャスなどは今もそこにいて存分に采配を揮っているんじゃないか? が、再会して確かめることはなかったと思う。
第二章まで。ロウリィと金本のやり取りを読み返しているだけでわたしはほのぼのした気分になるのだが、普通は読者にそんな好印象のある連中じゃないだろう。大方はエイサップとリュクス以外に興味なくて「クズ二人」についてはせいぜい読み飛ばすか。
1941年生まれの富野監督が2005年頃当時にしても時代錯誤的な青年達の空走を書こうとして、それも何か「00年代のオタクは、こうじゃないよな」的な物足りなさを今読んでも思う。このあとのネットスラングなどの違和感は相当あったが、まあそれは追々。
心の物語
「第三章 新国家に生きる」
オーラバトラー開発史はひとまず置き、章題の通りメッオの新しい国家建設の展望を語る。迫水と語っているのはおおむね最近にコモン界に落ちてきた地上人、おもに軍人達。二十世紀世界の政治批判、その分析というディスカッションが続く。歴史が苦手な読者のことも、逆にこういう座談的なノベルが大好きな読者というのもわたしは想像つくのだが、文中の批評が妥当かどうかよりも、語る態度自体がときに高踏的で無責任でもありがちだとはあらかじめ承知したほうがいいと思う。
小説なので本来注意するのは、この忙しい生活の中で迫水の気持ちがどこにあるのか、徐々に変わっているならどこが変わっているのか見落とさずに追っていくのは、かえって、案外むずかしい。
ふわっと読んでいると、読者の印象は「最初と最後だけ」……特攻隊員であったこととオウカオーで昇天したこと、だけを結びつけて、あとリンゴの歌と天皇がどうのこうの、とだけを記憶して終わってることになってそうではある。すべて、地上と地上のことだけ憶えている、そのような印象になっているとしたら『バイストン・ウェルの物語を憶えている』とはいわない。
コモン人も地上人もおなじ人か
迫水の心の動くところ、心情、感情に注意すること。バイストン・ウェルは魂の物語。
蓼科中尉がコモン界の政治を解説し、ドイツと同じようにヘリコンの地で民族が独立したがるのは、条件が同じなら人間はそう振る舞うという『人間の問題』ではなく、各集団の勢力関係の間で国家が何を志向して振る舞うかには法則があるという『政治の問題』だという。――
異生物。根本的な条件が違うかもしれない。ただし、この言動は迫水には容認ならない。
コモン人も地上人もおなじ人でなければ、リンレイとの関係は迫水にとって「幽霊相手」だったことになってしまう。ハロウ・ロイとの記憶も生々しいのだから迫水にとってはこの点では妥協しない。重要なところ。
道徳形而上学
諸国を放浪しているアメリカ人学生のジョン・ロンは、この地ですっかりバランモンと化していてバイストン・ウェルでカント哲学を語ったりする。哲学というよりは『道徳形而上学』――形而上学、の部分はなお保留せざるをえないけれど、『語るべきことは倫理、道徳だ』(モラル)というポイントはわたしは近頃になって非常に興味がある。
モラルをいかに語るかは興味あるけどちょっと外部に参考書がいる。そして、「自分は実践者ではない」と語るジョン・ロンはやはり迫水と同行せず、別れてゆく。
蓼科中尉やジョン・ロンにしても、彼らはやはり地上人であり、地上界で自分達がなしえなかった思想の実験をバイストン・ウェルのコモン界に来て自由に展開しようとしているのではないかのきらいはある。
アピアが新思想に感動するのはまことに純真なことだが、コモンにはコモンの風土に根付くものはないのかと訊ねると怪しい。文中にそう書いていないが、アメリカが戦後の日本にしたことを今ヘリコンでやろうとしているのは彼らではないかのように。
この世界は夢か
話のあとにジョン・ロンは、
リンレイを幻想にはすまいとし、一方で迫水自身が聖戦士など幻想かもしれないと言う。
迫水に返って、『リーンの翼』のストーリーでは、迫水は特攻の死に損ない意識から発して、この世界バイストン・ウェルは究極的には自分にとって夢・幻ではないのか? という疑念が常にあったことは、前巻までの新旧対読で注意してきた。アマルガンに対しても常に食い下がっていったのはそこだ。ここで、なぜ生きるのか。
ガダバとの戦いの果て、迫水は聖戦士としてバイストン・ウェルに帰属することを選び得たようだったが、再び帰って来た今はまた曖昧になっているのか。ただし、その疑いを自覚して言葉にするようになっているのは、以前とは違う迫水に変化しつつあるように言っておきたい。
ためらいがちな語り
迫水とアピア(メッサラ族)の結婚にあたってオルッメオ族から族長の家系の少女ロドウ・ハッサが祝辞を述べる。メッオの民にとっては、
の二つの意味があり、国民意識を醸成するものとして新聞報道もされた。まだ十歳にならない少女ロドウの紙上デビューはまたちょっとしたアイドルだ。
コモン人の熱狂ぶりを見たイギリス人ジェフリー・スコット公爵は『幼女の祝辞は奇妙なものだ』という疑問というか感慨を投げるので、人々の新国家建設の熱気を擁護したい迫水は積極的に答えようとする。
『リーンの翼』はヒロイック・ファンタジーで、ロマンは大事なことは前巻までもわかっているがロマンチシズムがロマン主義になり、国家主義になろうという時に来てスコット卿が不審がるポイントが、文章ではどうもわかりにくい。若い迫水相手とはいえ、スコット卿自身がとりとめない話をする上に、迫水が(英語ではなく)テレパシーを介して応対するので余計な混乱もする。
大地と女性
ここは神話よりは、民俗学/民族学の知識で社会人類学的な方位。リチュアルやフォークロアに基づいて社会と人間の関係を説明しようとする。ドイツ人の受け売りとあるように学問では既知の考え方で、有名なフレイザー等の本には「女性=畑」のような型は多く載っているだろうし、宗教学概論でも諸々の事例を挙げていた。
この説明としては、『けがれを知らない幼女』(=ロドウ)つまり未婚の処女が、新郎新婦に祝福を与えるで、(アピアではなくロドウが)メッオの土地を体現するもの、無垢の大地(畑)の身代わりとして演じるということを言っている。
原文から目を離して読者としては、バイストン・ウェルのコモン人にそんな大地感覚があるのかは作中で語られたことがないので不明だけど、あるんだろう……。太陽は燐の塊。「宗教」「神話」「民俗」がどう違うのかはわたしは意識的に区別するが、今その説明は省く。それはエリアーデとかの通読で続ける。
これはキリスト教以前の宗教だからキリスト教徒はこんなことを知らないか、というとドイツにもフランスにも、イギリスの農村にも近代まで結婚式にはあった風習で、田舎ではとくに教会ぐるみでもあっただろう。キリスト教にはキリスト教なりの因循があるだろうし、スコット卿もそんなことは知らないわけではないだろう。
スコット卿にも迫水の結婚の国家的な意味がわからないはずはないが、彼の気分をいえば、幼女の祝辞は村祭りの精霊か、女学生がする地元のカーニバルの女王みたいな田舎臭さに見えて、どうも壮厳じゃないね、というところにあるのは窺われる。迫水はまずそこが察せなくてクソ真面目に解説した。
『こうした土俗の儀式は、国民国家社会主義といったイデオロギーを必要としない契約です』と迫水が言ったために、ちょっと待てとスコット卿が口をはさむ。
まず「大地と女性」のような定式には、各国各時代の風習や昔話からおびただしい例を引いてくることができるが、無数の民話を挙げているその研究が、反例についても少なくないだろうに、なぜその例をとくに強調して挙げるのかといえば、自説を補強するために好都合な事例ばかりを選んでいるからもっともらしく見えるのではないかという、比較研究につきものの恣意的な引例の問題が言われることがあった。
「人間の営みを大きく理解する上で有用な定式」として提唱するには、有用な考え方だとは思われる。しかし、その蓋然的な定式から派生してどういう言説が生じてくるかには注意を要する。それは現代では常識として置いておこう。
テレパシーを誤読する
迫水は大尉の受け売りから完璧にコピペで回答したのだが、国民国家の頭文字から卿はセンシティブに反応して「ナチのことか」と問い返す。
今ナチスの話はしていません、メッオの土俗をどう考えたいかという話です、と迫水は言ったつもり。だが、迫水のテレパシーでは「考え方」と「思想」のボキャブラリーを区別しない。スコット卿は「?」と困惑したあと、文脈を誤読してナチスの解説を始める。
「科学的な社会主義の理解」ここでは社会人類学の成果が、ドイツでは情緒的な受け止められ方をして、当時のドイツのナショナリズムと結合する。ナチ政権に至る土壌を形成する……つまりナチの政治思想のプロパガンダに使われたという歴史の語られ方は、現代のわたしらには中学生でも知っているような常識、通説として飛ばす。
同語を言い換える
問題はスコット卿の言葉遣い。
素朴に土着のものなら政治イデオロギーと無縁に存在すると言いたいなら、ナチスを例にするなら、まさにそうしたものが国家社会主義か、国家民族主義のカンバンに使われてしまって……と言いかけたところで、迫水に未知の言葉だったために、「ナショナリズム」を「国家主義」と言い換えて「わかるだろう?」というと、迫水はナショナルではなくロマンの方に食いついてきて脱線する。スコット卿はロマン主義の解説を始める。
ジェフリー・スコット公爵は1944年のロンドン空襲の際にV1ロケットに遭ってバイストン・ウェルに落ちてきたという。現在メッオにいる地上人の中では年嵩の古参に当たる。その後の地上の歴史の情報共有はしているが、ナチスなどを語るときにはあくまで1940年代の人物による理解だと思いたい。1950年代や60年代の小説を読んだりはしていない。
文芸や芸術運動としてのロマン主義がドイツやフランスでは政治と連動していき、一方でイギリスのロマン主義はそうならなかったといいたい。もとに戻って、現在メッオの大衆がロマン的国家主義になっているかといえば、そのロマン主義的だから駄目だというかは不決定だ。
イギリス人に言わせればロマン派というのは霧と墓場と夜の憂愁……つきつめれば「孤独」でもあるが、スコット卿は孤独については言わない。ゴシックホラーは通俗文学で大衆文化だよのように言うときにも、大衆的なことが駄目だと言ってるわけでもないだろう。
説得しない会話
ファンタジーやフィクショナルものが嫌いなわけじゃなさそうだ。ただし、ポップカルチャーが「公」の顔になる、「公」の顔をするのはいやだねのような気持ちを今の青年に分かってほしいと思って言葉を探している。迫水は文学青年ではない。
「お祭り騒ぎにしやがって」のような不快感があるんだろう。大衆というものはいつも権威的なもの、公という権威に媚びるものだが、新興貴族とはいえ貴族だからこそ反権威的な気分もあるんだろう。
国家におけるロマン主義は単なる看板かといえば、きっと、
「精神性はありますよ」
「精神的なことが良いことじゃないよ」
のような噛み合わない会話が続く。精神的なことが洗練されたことじゃあるまいに、と。
迫水は「他人の受け売り」「勘違い」「思潮を考えるセンスがない」。スコット卿もとりとめなく自分の知っていることを並べた上で、テレパシーの曖昧さや誤訳、言葉の意味理解の行き違いでちぐはぐな会話をし、お互いに「???」と疑問符を浮かべながら、ロマンの定義か、ロマンの是非かはその場はウヤムヤに過ぎていく。バランモンとの対話とはまた違ったが、富野文としては「ためらいがちな語り」をする。
国内の工場の基礎技術習得のために桜花の模造品を作らせるプランは、やはり奇妙にわたしは思える。とにかくその図を描いている夜、迫水は突然に涙をあふれさせて慟哭する。
前巻までにくり返した地上界の日本軍の回想とはもうだいぶ違う。エリート官僚やインテリを非難する思いはこれまでもずっと続いていたはず。天皇を隠れ蓑に使った、というのも既に言ったことがある。
言葉遊び、美辞麗句を使うことで直面した現実から逃避し、止まないことを、
本文ではこのあと東條英機の述懐を上げて続く。『戦陣訓』を書いた男などはこういうものだと述べているが、それでもまだ、作中の迫水はその東條の後の発言は知らないし、それが美文だったからといって「至誠」への思いも崩壊したようには、言われていない。このときは一人でただ自室で怒号し、涙するのみだった。
『国家に騙されていた……』の発言は、戦中を経験した世代の方々が戦後になって過去を語るときに、広く共有した態度のようで、わたしもそういう回顧は直に聞いたことは幾度かある。
「戦争中は自分も一緒になって旗を振っただろうに、それ自体が責任転嫁的でないか」というのはまさに当時を知らない者だから言える、それこそが時代錯誤(歴史観の欠如)だとは書いておく。騙されていたと振り返ることは正しい。
戦中世代だけでなく、戦後生まれの人でも自分の親がたびたびそう言っていたのを聞いて育ったというのは、富野監督はそれよりやや年が上だが「父について」語るときに零すことがある。
そのように育った場合、どんな国家観・社会観を抱くに至るかでは、『二度と国家が人を騙してはいけないぞ』とは、その結果考えるとはかぎらない。『俺はもう騙されてはいない』とは、いつの時点でも大半は考えていることだろう。その経緯からでも、人間は騙されるべき性質のものであるから、いかに集団を騙し導くことだけが組織を語ることだ、のような次世代の学生の運動に通じることも思える。
模造「桜花」の一機はこの当時、新国家建設時代の記念として保管してあり後にエイサップ達に見せているアイテムでもあるから。
第四章。
ブログ文化がまだ盛んだった頃を「現代」としているのでロウリィのネットの行動は今2026年の読者の感覚とはだいぶ違う。といっても、その感触なら『リーンの翼』完全版の出版時点2010年頃でも、最初からそうだったように思えなくもない。もともと違和感がある。
作中でも、当時若者文化の最先端という行動をしているわけではなく……ロウリィはロウリィなりに時代錯誤的な、『十年くらいは古いのでは』という感じはする。わたしの感触は、日米関係や軍事についてにはかまわず、ネットの情報に対するナイーブさのようなもの。リテラシーの質感は時代かもしれないし、彼は二十歳くらいだし。
ロウリィの行動に添って読むことになかなか気が進まない一方、ロウリィもオンラインユーザー由来の曖昧な情報処理に悪戦苦闘しながら、
歴史感覚に悩まないで心理的なポイントを言えば、
を確立することが彼の現在の課題、と一文で書き述べてしまう。富野小説を読む読者は大方、前後のけばけばしい文章に目を流されて続けてロウリィがどんな気持ちなのか、彼の動機に興味を置き続けることが難しいんじゃないだろうか。
語本来
作中の、架空の2ch語から。
『その心性のありようは質 が悪い』というタチの悪さの文脈は本文に任せるとして、
書き込みユーザー(書き手)の意図にかかわらず、言葉(文字)にはそれ自体の本来を含んでいるし――という言及について、富野監督もやはりそういうことは思うのか。思うはずだろう、とは思う。
教育の文脈で言われるような心性を涵養するとかいう話、ではなく、今は富野小説を読んでいるにあたって、富野文中の語法にも語の一般的な用法、語本来の意味からも離れた使われ方、時には全く間違っているんじゃないかと思えるような言葉遣いをされることはファンには知られているわけで、……最近ここでよく扱うのは「蓋然的」とか……そういう自覚はおありなんだ。じゃあやっぱり、わざとやっているんですねのように覚えておく。
たちの悪さ
今それは飛ばしたけど、当時の2chを例に「たちの悪さ」と富野文のここで言っているのは、
という点を挙げていて、荒んだ暴力的な言葉づかいをたくさん使っているということではない。
大ざっぱにロウリィはこうしたバーチャルさを嫌うに及んで「実行してみるかない仲間たち(ジスミナ)」を夢想するが、そうする間もロウリィ自身は同じバーチャル感覚に浸りきっているし、ロウリィの気分では実行することが先にあって何を実行するかはまだ決まっていない。
『煽りではない』
平和憲法の本文に解釈の余地はなかろうと思えるものも政治的にどうでも解釈される
というレベルに較べれば、銃刀法か何かを根拠にアキバで若者をしょっぴくみたいな次元は問題にならない。
ここはちょっと違うなと思う。当時のネット語の「煽り」は相手の書き込みに対して意図的に挑発的か、侮辱的な言いがかりのレスをつけて、相手が乗ってくればスレで寄ってたかって盛り上がる遊戯の習慣。『リーンの翼』のここでは、『集団の気勢を上げるための(仲間を)扇動するスローガン』と解しているようだ。
2ちゃねらーの感覚でこの文章を読むと少し変な気分になると思う。もともと字義通りではないし、「らしい」と紹介した行動とも違う。スレを加熱か加速させる、祭りという意味では同じだが。ともかくロウリィは「これは掛け値無しにシリアスな現実だ」と言いたかったのだが、『煽りではない』もリアルジスミナに通じたかどうか。
2010年の小説を2026年に読んでいるだけなのに変な注釈だ……。そんなこと言うわたしも真面目にネットに耽っていたことはないし、小説としてどうしても完璧な考証を期すことは誰にもできまい。深入りはせずに、ロウリィやエイサップの話に集中しよう。
ごく最近出版の、現代日本語の用法の言語学の本をめくったとき、20年は昔のネット語も現代語研究の中で手短に紹介しなければならないらしい事情には一読してげんなりした。その項に続いては、「ケータイ語」とか。
正調の常用語でいえば、
『今良い話をしているんだから余計な茶々を入れるな。煽ってんじゃねえよ。こういう馬鹿がいるからスレの空気が悪くなって荒れるんだ、クソが』
のように半ギレになった人がいたら、『そいつ煽ってねーよ。興味あるからその話つづけてよ』というのは『煽りではない』という言い方になると思う。穏当な宥めかな。そんな執り成し対応は普通されないと思う。黙ってNGしとけが鉄則のはず。
あぽ~ん
小説の『リーンの翼』中の2ch語の表現はやはりフィクションのもので、どんな世代の読者が読んでも多かれ少なかれ「変だわ」という気にはなると思う。
まず、あぼ~んではなくあぽ~んというのを読者は見たことがあるか、どうか。その意味説明にも違和感があるが、著者の富野由悠季は2ちゃねらーではあるまいし、あくまで一通りの取材の上で、現実の2chとは違う作中に通じるネット語を創作したのかもしれない。
そのうえで、ここで『質の悪い言葉だ』と評しているのは、著者による評言なのか、この場面での主人公格を担っているロウリィの気分なのかというと、後者だろう。
富野監督はネットに詳しくないとは言い切れず、仮に詳しかったとしても小説の中で創作を加えていいし、フィクションまじりにせよ根本的なところの批評は妥当だと思う。その批評はネット上の言葉の使われ方のバーチャル性を指摘しつつ、一見して浅はかで見境のない行動にロウリィを衝き動かしていくものを書いている。
ロウリィの動機は「父親への反発から発する反米思想」「自己中心的な性格」「承認欲求」などの説明は、作品に対して単純化がすぎる。が、アニメでは到底わからないし、小説を読んでも大半の読者にそこまで彼の身に添って読むほど文芸に興味がないんだろう。
小説『リーンの翼』は、3巻ではここまでのバランモンや、漂流地上人の各人談話・思想や、現代ネット語といった諸々の言葉の使い方・語りの間をくぐり抜けながらその先に再びヒロイック・ファンタジーの確立を目指す。
テロリストにロマンを認めるべきかは、今2026年2月にはハサウェイの話になってしまい、同情・共感すべきことでハサウェイと比較ではロウリィに分が悪すぎる。彼の気分をせめて理解できろとも言われまいか。
どういうタチかというと、当時でいういわゆる非リアを自認するのに理論武装が要るオタク、という同類だろう。『そのへんの学生のアウトドアとか、その手の女をひっかけるのに使うんじゃねぇよ』。
金本の人物導入だがこれまでのロウリィの経緯のまとめでもある。ロウリィはネットの板の住民を「格好わりぃ」と思ったからテロは実践・実行あるのみが本当だと思ったので、そこに至るまで何かの大義から発したとか生活苦や官憲横暴への怒りのような現実から発したわけではない。
道路で四駆を走らせることについては、富野小説では『破嵐万丈』シリーズの4にそんな節があった気がする。
オフロード
運転手の青年を脅迫しながら占拠した4WDでカーチェイスさせるところ。
第四章おわりまで。
「第五章 オーラマシンのもとに」
実弾の数を製造できなければ実戦的な訓練ひとつ行えないということから、そのための工場が必要で、またその実績ある企業を外国から誘致もする等の経過は、リアリズムを欠いた空想からは出てこない、書けないだろうと思い富野作品の特徴に今は挙げるだろう。
一方で、現実世界の社会基盤のあれこれをノウハウとして異世界に移植してみればいい発想は、「異世界もの」ジャンルにむしろありふれたテーゼになりきっているかもしれず、異世界を安易に文化汚染しては足をすくわれる、いけない理由も深く訊ねなくても約束事で済むのが1990年代頃だったのではないか。それは『ガーゼィ』で前回。
『リーン』のホウジョウ建国記を読んで富野作品の独自性がどこにあるのかを言える読者もそんなにいないだろう。どこを取って読めばいいのか?
本章中、起こっている事件の間隔は何年単位で進んでいき、十年がまたたく間にか過ぎる。ひとつひとつを取り上げていけば目にも留まらぬ時間の渦の中のようだ。
アピアとの子シンイチは乳児から七歳になり十歳で急死する。明朗な少女だったアピアはいつしか妻らしい婦人になり、一子の死後は鬱にしずんでいく。
オーラバトラー開発記は本章のメインテーマではそんなにないが、マリアはパジャマリアになり、新型機の計画も。マットウタの上空戦で迫水のオーラバトラーから(思い出したように)リーンの翼が顕現し、圧倒的不利な戦況で五十機近い敵を殲滅。この機械化時代でも聖戦士伝説が生きていることを世界に印象づける。
バイストン・ウェルの地上人の最年長者のスコット大佐はこの戦いで戦死。戦死であって老衰で死んだわけではない。蓼科中尉らは現役で健在。ポーランド人が落ちてきた頃には東京オリンピックの頃、学生運動闘争の頃で、日本は戦後二十年になっていた。
迫水の終生のテーマ
二十年がすぎる間に迫水の仕事はものすごく忙しかった。休む間もない、妻子の顔を見に帰る間もないほど。読者としては、迫水が何に忙しかったかを一々挙げ尽くせない文章量だが、迫水が何を中心軸にしているかでは、
ここでは、コモン人の部族社会を一新して考えなければならない仕事は軍・産業・民生に及び、戦争だけではない経済から医療から教育からとシステムを整えていくほど、社会の体裁が社会主義や全体主義になっているじゃないか――ではなく、『人は性善説でうごくのか、性悪説なのかといった問題だ』という。
これも富野読者に区別がわかりにくいポイントかもしれない。迫水のこれまでのテーマについては、前巻までのガダバ編までではあくまでも彼の個人的なロマンチシズムに集約できたと思う。今のテーマが「組織と人間」になり、それは終生というから死ぬまで。
この巻の後の章には、「エメリス・マキャベルの終生のテーマ」もある。それは、「正しい戦争はあるのか」「軍人にとって命令は常に正しいことか」等。追っておこう。
新しい国ホウジョウを「覇権主義」にはしてはならないという自戒を、迫水や地上人らがたびたびする。彼らは第二次大戦までの反省が身に染みてあってそう言っているが、読者には、「覇権主義がなぜいけないのか」は、日本の教育一般としてインプットされているとしても、主体的に説明できる人はそうはいない。
このたびの富野通読では、富野作中で「国家の覇権主義への傾斜」を警戒し拒む気持ちは『王の心』に書かれていて参考になった。1995年の作品でありこういう時に前後を繋げておきたいが現在、絶版が壁になるところ。
それをして本当に憎むべきはジャコバ・アオンなのか??は、こんどその章まで追ってから考えよう。簡単にそう思ってしまってはヒロイック・ファンタジーは面白くないかもしれない。ジャコバは所詮とるにたらないフェラリオとも言える。