リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
ハッサーンのことを書いてふと思い出したのは、『リーンの翼』の後の時代に出てくる迫水の後妻、コドールには、アニメと小説を読むだけでは良い印象を持たれないと思うが、彼女の抱く地上界への切ない憧れの気持ちには、ハッサーンの面影があるんだ……。そう思うと彼女ももう多分憎めないな。
4章おわり。フェラリオとフェラリオ中だが章の区切りなので今夜ここまでにする。
〝なら、好きにやる……〟こういうところがわたしは本当に可愛いと思うが、自堕落な子だ。 これらの美しい場面は、自堕落は別としても少しでも長く読みたいという情は察せられ、そういう読者は旧版も読んでいいのではないか。そう言えばいいのか。
わたしは、趣味をいうと口淫って好きじゃないのだが、前後にいくところまで書き込んでいるのは旧版のほうが良い。
ほか、迫水の父についての言及が処々に補強されているのも完全版の意図のひとつだろう。 よくいう、富野由悠季の父子関係がどうとかではなく、もともと旧版の迫水の素性が常人離れした部分があって、幼い頃から古流剣術だったり戦陣訓の話にしても当時の青年軍人としても周囲以上に理想的で熱血だったりするので、生身のエピソードが足りないと思われたんだと思う。
「5 剣」(旧) 「4 剣」(新)
前半まで。完全版の字数を詰めるリライトをしている以外にほぼ大差ないが、あえて手を加えないことに感心するような気分。少し気になったところは、完全版に、一度萎えた迫水にハロウが乳房で愛撫にいくというテクニックが加わっている。旧版では愛撫、とのみ。
旧版で迫水が叩きつける「切り札」の台詞は、完全版ではごくごく穏やかなニュアンスに崩されている。迫水はフェラリオの種族について未だほとんど無知だが、その蔑視を吐き捨ててしまったことは、省略するには惜しいかな……。
わたしは今夜もう疲弊していてここまでにする。
お互いの間で本当は言ってはいけないこと、言わない約束のことを「切り札」というのは、わたしはちょうど最近、ジークアクスのマチュとニャアンの関係の想像をしているうちに、例の割れたスマホのことを切り札と思っていた。のを自分で思い出してしまった。
公式にどうという解説があったわけじゃないけど、あのスマホは割れたままにしておくのはマチュとニャアンの間の「絆」になってるんだろうな……というのはわかる、かな。そのことはむしろ、シュウジには関係ないことだろう。三人の関係にもそれぞれ、重なる部分とズレてる部分がある。
サイコBLの話を一日考えていて、やはり今ちょうど迫水のところでもあったので思い出す。
ハロウ・ロイの肉体のなされるままにされ、足腰立たないほど弛緩してしまった迫水は「これでは男ではない」と愕然、慄然と思う。これまでの章にも、迫水の思念のうちには、――男は犯されるものではない、男の狂態は晒してはならない、男として死に体だ、――とバイストン・ウェルに来てたびたびに自戒と慚愧をくり返している。
女性に対してはとくに、女が乱れてはならないとは思っていない。
女のように男が乱れてはならない、というと女性蔑視のようにも思われそうではあるし、実際に時代的には男女の隔て観はある。それとまた、美意識として「女の乱れぬくことは美しい」とは常に語られても、男の崩れは様にならない、滑稽に落ちるという文化も、男女の身体の作りの生理的事情も実際問題ある。
女性蔑視だけのことではないというが――今度は女性から見ると、「女は乱れていい、男は別だ」と格好を繕おうとする男は、やはり腹立たしいかぎりの態度ではあり、そんなガードは引き捲って男も乱れ狂わしてこそ女冥利でもあろう。ハロウが衝動的に怒りを覚えるのはやむないくらいだと思う。
迫水の男女観は、そうは言ってもやはり相当に古い。1945年当時の青年軍人の標準からも異常なほど古武士的だろうとは前章までも思った。上に、ジークアクスの連想を書いたばかりだが、2025年現在の少年だったらもっと自由な態度だろう。……とは、現在、ふつうに概ね言われることだろうと思う。
事実はどうか知らん。女と男が区別なく語れることが「自由」か? 現代の男子高校生だって「女と男ではちがう」意識はないわけがないとわたしは思うし、文化としても、視覚映像ジャンルのキャラクター男女差の描かれ方などはむしろ誇張され、強調されて見えていたりする。男装女装などについてもあれこれ言える話題はあるだろう。
男の子・女の子はイーブンだよ、と言いたい人は良いとして、「それはそれとして、そのコードはあるよね」という踏まえで、女子の口から「もっと自由になっていい」のような台詞を男の子がどう聴くだろうと想像しても可愛い。男子から女子に手引きする場合には言えたことでも、それを後に女子から男子に手ほどきし返されれば、男子には加わる愧じらいはあるんじゃないか。
ボーダーに目を向けるよりは、セクシャリティという言葉遣いを選んだほうが、上の話については多分いいだろう。前回連想するのは『∀の癒やし』より。フェラリオと、リンレイについての場合はまた、どうだったろう。
しかし、そんなかすかな想念も、遠く聞えてくる迫水の気合に砕かれてしまう。 迫水の気合が耳に届くたびに、ハロウの体の中の空気がほんのりと動き、沈潜する。 これは、ハロウに空になれと呼びかけるフェラリオの国の長老ジャコバ・アオンの言葉に似た響きがあった。 〝なぜだろう……〟 ハロウは、漠然と思う。(旧)
そんな想いは、とおく聞こえてくる迫水の気合いに砕かれて、さざめけば、その波立ちが、空になれと呼びかけるフェラリオの国の長老ジャコバ・アオンの言葉に似た響きに感じられて、〝なぜだろう……〟と、漠然と思うのだった。(新)
水の妖精のようなエ・フェラリオの体内の感応を、さざめき、波立ち、とリライトする手慣れた気分は好き。 ハロウ・ロイは、自分は迫水に触れて浄化されはじめたのではないか……(ないかしら)と思えるようになっていたが、それがわずかの後に彼女の命取りになるのだろう。
そういうとこ読むことを精読として今度の通読は始めたの。おそらく、両版を持っていて読んでいる人でも、その一々に仮に目を留めはしても、書き留めてはいないだろう。
富野由悠季の文体はどういうものか、という解説が、主流の文芸評とか雑多な読書レビューに任せて永久に明かされないような不審感ってある。
ここなどは、見るからに複数の文章にわたる描写の内容を「――て、」「――ば、」「――が、」「――て、」と繋げて一文にしてしまう。上では「だらしない文章」とも書いてしまったけれど、やわらかく弾力的に口述をつづけていく独特のリズムを作っているのは90年代以降に好きそうで取り入れているらしい。当時に何がきっかけでそうなのかは、わたしはわからない。たとえば、そういう例にはなる。ほかにも見たいところはあるはず。
そうだな、「口述」だよ。この文体。そういうイメージ。
旧版5章まで。完全版では章を改めずに続く。今夜ここまで。
量的にはほとんど読み進めていないけど。上のようなことを迂闊に書き込むのはネットで無用なことだ。「文体」とか書いたらそれだけでもうね。 ここの、稽古の後のキャプランからの「餓鬼の剣術」との痛い指摘は完全版で省略だが、わたしの記憶にはあるし、後章に補足だったかな。ヤエーッと大声で稽古しているだけで敵からは観察してくれと言わんばかり、とのような。
「6 報復の血」(旧) 「4 剣」(新)つづき
迫水の新しい戦闘支度には旧版では革の帽子に鉄片を仕込んだ兜様のもの、完全版では飛行帽の上に革兜を被ってこの革兜の仕様が同様のもの。この、元からの飛行帽をいつまで持ち歩いていたかはわたしは記憶にない。
章おわり。旧版では章末にムラブとミン・シャオの幕間が入る。
この剣戟のシーケンスは段取りはそのままにタイミングが変わっていることがある。
最後に矢の斉射をかわす際には迫水は数メートルを跳んだ(旧)のが十数メートル(新)に割増されている。
また呼吸について、どこで息を吸って吐いたか補われている。剣法小説では呼吸は必ず重要なのだが、わたしは読者としていつもよく分かって読んではいない。 完全版では、最初にガロウ・ランから分捕った青竜刀はこの戦いの初めに左右に持ったあと、ゲリィを救ったときにはもう捨てているらしい。いつ捨てたのか迫水も憶えてなく、以後出てこない。
ハロウ・ロイを哀悼なんて富野読者がネットですべきでないが、結局のところわたしは最後までフェラリオについて気にかけていた。
「7 聖戦士」(旧) 「5 聖戦士の居場所」(新)の冒頭
迫水は前夜の戦いでガロウ・ランを六人斬った、人殺しの感覚がようやく蘇り始める。殺人体験についてはバイストン・ウェルで各シリーズにくり返すが、迫水の反芻する殺人の感覚は文章上でも生々しい(うどん粉)。
はっきりPTSDという問題になると、現在は一般書でも戦争の心理学に一ジャンルがあり、昨年までに瞥見なりとおさらいはした。そういうの読み聞き知るにつけ現代に基礎知識として知られておかれたい、不安はあるものの、わたしは富野作品の枠を出て紹介する気ない。70年代頃には小説界にテーマとして浮上しているらしいことは言ってる。1983年というのはそれでもかなり踏み込んでいると思われる。それを言えば、迫水とクリスの過程は比較するのに興味深いものだった。
その話のあと完全版は次のシーンへ移ってしまうが、旧版ではその夜、迫水は反復する殺人感覚を酒飲みに紛らしながら、アマルガンに対してこれまで聞かなかった事々を問いただす。半ば鬱憤をぶつける。
旧版7章の内容はかなり長いが、これまでのくり返しの内容も多く含むから省略になっているんだろう。部分部分はこの後の章に散らばっていくのかもしれない。再読なので、その箇所があれば気づく。
アマルガンの素性を訊ねる。義賊アマルガン、という世間的な押し出しの裏に、アマルガンはアマルガンでまだ公開しない正体と思惑があるらしい。そのあと話が転じて、日本軍の「戦略」についての話が始まる。
日本軍の話はこれまで、当時青年の精神的テンションを重点にしたが、ここでは、あの戦争をするにあたり戦争に勝つための戦略というものがあったかと、その責任は指導するインテリ層にあったのではないか。飛行機熱と血気に逸っても俯瞰的な視野を持てなかった青年が迫水であるは、くり返し。
強剛な武人であるとともにその同じインテリ臭を感じさせるアマルガンという男に警戒心を抱く。また自らは生まれの素性も、インテリ的な気質も厭う節のあるアマルガンはリーンの翼を「力の象徴」として語る。旧版はここらでリーンの翼の意味が浮上してくるみたいだが、完全版では前倒しで点々とその言葉は聴いていたようだ。
酔っているところにゲリィ・ステンディが差し入れ。ゲリィが手にするカンテラは、虫籠に数十匹のホタルを詰めたもの。シリーズでこのホタルランプは、ダンバインに出ていなかったかな。またよく憶えていないけど。
このホタルは実用品なのだが、文字で読むかぎりではなかなか風流な代物。海外ファンタジーだと、この種の生き物照明といえば「ツチボタル」(グローワーム)のほうが定番で、わたしはその出典を小説で見るごとに手元に収集していることがある。
近代までの剣客・剣豪の話にも、あたら達人でも初めて人を斬ったあとに、その夜、刺し身を食っていて嘔吐してしまい、それで再起も難しくなったのようなエピソードは点々とあり、古くから知られていないわけではない。
それが社会問題になると認識されていなかった。古くには宗教が戦士達の心のダメージを補っていたらしいことも、それを研究テーマとして意識されているのもごく最近のようだ。
リーンの翼とガーゼィの翼の意味に違いはあるみたいだな。ゴゾ・ドウがそれをどう評価していたかが今から気になる。
「8 コラール・シーへ」(旧) 「5 聖戦士の居場所」(新)続き
ハロウ去って入れ替わるようにゲリィ・ステンディが迫水の側に出入りするようになる。ゲリィが、迫水とハロウとの関係を気づいていただろうかはこれまで迫水は気にしていたが、旧版ではなお曖昧にスルーされるところ、完全版ではゲリィの態度からどうやらそれと分かってしまい、またも無念を味わう迫水である。
男の子の恥や慚愧はもはや一テーマになってきたので雑談トピックで続けていた。こちらは迫水の恥を追う、……という通読じゃないけど。
入江には一行と合流を待つ帆船が待機している。バイストン・ウェルに来て初めて海と、「帆船じゃないか!?」目撃する迫水には少なからず感動もの。船の連中は待ち飽かす間、デッキでドンチャンと飲み騒ぎしている。
〝裸踊りか!〟(旧)
わたしはこのあいだ『∀ガンダム』劇場版二部作を見たところで、この台詞あったのを覚えていた。
章おわり。バイストン・ウェルでは重要アイテムである火薬「ガダ」の呼び名は完全版では先行。
ゼラーナの面々と合流し、またフェラリオが出てくる。迫水はまた初めて目にする、ミ・フェラリオは存在自体がコモンの風紀を乱す動物、むしろ害虫だが、そのうちでもコム・ソムはまことに毒にも薬にもならない、賑やかし。
迫水から気分が移ってベルリの恥について思いふけっていたあと、今ふと、『リーンの翼』のゲリィ・ステンディとノレドはまた、似ているような気がした。
読んでいた前章がたまたまパチンコならぬロープ投げのところで、海賊のフェラリオに悪態づいて清々した顔をしているのを微笑ましく思う、いい娘だ、と思うその「いい娘さ」の気持ち。アイーダにきゃんきゃん言われても、パチンコで当てたくらい本気なものか、嫌ってくれてケッコーです、のような顔をしている。
キャラクターを属性で分解して似ているとか系統というのは必ずしもいえない、言うのは控えたいことは前も言った。それはそれとして、きっと同じ顔して喋っているときに気持ちを想像する「縁(よすが)」にはなる。また、読者にその連想があるとして、年譜的には、ゲリィの面影の一部をノレドに補充するという順序になる。
「9 海賊」(旧) 「6 海賊」(新) 同じ場面で始まるが、新旧で内容はがらっと変わる。荒くれ船員のマブに絡まれるまでの船上。
旧版には迫水の心裡に徐々に浮上する空疎さが書き込まれる。「死に損ない」と初めて意識するが、今生きて、生き延びようとする自分を「浅ましい」と感じながら、それがなぜか自分の心を掴みきれない。
完全版には、出帆までの段取りと、船上生活ですること、この世界の火薬(ガダ)と火器事情がたっぷり補充。
帆船ゼラーナの材質について、
書き分けの意図は不明。強獣という概念はまだ登場しない。
「グへへへ……、大丈夫ですかな? 地上人さんよ」
新旧とも珍しく全文一致のマブ。
仲裁に入る船長のグロンが迫水の喧嘩のしように「狂暴なもの」を注意する。これの新旧は一見してほぼ同文に見えるが、上の、章冒頭の「死に損ない」のくだりがあるとないとでは読者の受け取るニュアンスが違うようだ。
旧版を読むかぎりでは迫水の狂暴さは、ギルト感情の反映だと読むだろう。完全版ではそれがない代わり、迫水の元の性癖と説明して、一生自制しろと言われる。その癇癖を性格にしてはいけない、とも。
この違いはごく微妙でわかりにくいが、「性癖」とか「性格にする」とかいう表現は富野作品の後期作に現れる、規範などの関心に近いもので、多分大事なところだと思うな。
というより、富野作品以前にわたしのもと興味分野だ。
海洋小説にはこの、マストの見張り台に登るくだりが必ずあるのだが、毎回毎回みているくせにわたしは一向に帆船の仕組みも、各部の名前も憶えようとせん。帆船の本はそのへんにあるはず、海賊史とか。
「海賊をやるのか?」 「あの船はやる。手ごろな敵だ」 「商船ではないのか?」 「そうだ。軍艦をやるだけの力は、ゼラーナにはないな」
このやり取りに旧版ではとくに解説はない。見えているのは商船らしいが、商船を襲うことに迫水に躊躇いがあるかのようか。「商船みたいだがやっていいのか?」
完全版では、「ガダバの船らしい」という迫水には意味不明の言葉が先に聴こえてきて、上のやり取りには……アマルガンの発言はちょっと矛盾するようだが意味を考えている暇はない、という書かれ方になる。迫水の台詞は、「あれはもしかして軍艦か?」という意味に近くなる。まるで作者自身が自分の文章を読み返して戸惑い、台詞の解釈を変えたみたいだ。
これは面白い……。マニア的な興味にすぎるかもしれないけど、これは興味のある読者に読んでみてほしいな。それか、数十年後に「富野由悠季全集」のようになったときに、註釈をつけてこまごまと解説を付す。その頃には古典として翻訳の関心にもなるだろうか。もっとも、わたしの生存中ではもうなさそうだ。
章おわり。この通読はあえて「1日1章」と決めなくていいはずだけど、時間的にはこうなるのでもあるね。これだとまだ何か月もかかってしまうが、時間がかかっていけないことは別にないしな……。富野話題にかかりきりだと、Xの雑想とposfieのまとめのような記事を別にどんどん増やしていくようでもある。
「10 機銃」「11 ガダバの軍艦」(旧) 「7 ガダバの機関砲」(新)
海賊行の戦利品の山分けをしている仲間のうち、ここで主にしゃべるムスターマ(旧)は前章で「メラッサ・ムスターマ」とフルネームが一応紹介されていた。すでに忘れていたが、完全版ではメラッサと書かれている。同一人物。
海賊が略奪をすれば起こるべきことが起こる。二日に分けてゲリィと男女論のディスカッションをする間に、ゲリィと打ち解け、迫水の理想的でどっちかというと奥手な女性観をやり込める間にゲリィが溌溂としてくる。
続けて海賊行、海戦の描写はむしろ完全版のほうが用語が細かいほどだが、経過は同様。旧版では章が替わるところ。今夜はこのまま読み終える。
衝角攻撃。ラム。海賊ロマンの必須、必殺技みたいなものだが、ゼラーナの衝角について、
較べて読むと旧版の方はちょっと意味がわかりにくかったのか、材質自体が変更されてしまった。 衝角に続き移乗攻撃のセオリー。前後の文章は新旧間で複雑にミックスされるうち、
イナゴのように飛び跳ねた船員達が四半世紀後にはイナゴになってしまう!
章おわり。旧版一巻読了。あとがきがある。
戦いが殺戮になり狂騒に入っていく中に、迫水の意識にゆらぎが交じる。そのさい、
〝このままだと、勢いだけで人を斬ってゆく。その時は、背後の敵に気づくことはあるまい……〟
これは、ここだけで済むことかもしれないが、最近、「機動と戦士」のような話の中でずっと追っていた文面に似ているから覚えておきたい。後ろの敵も見えているかな。
この章での戦後始末は、すでに何度も言及してきたバイストン・ウェル事情だけど今読み返すと、新旧に微妙な違いがあり、旧版では迫水やアマルガンがすでに声で喋っているように無頓着に書かれているが、完全版では、ここへきて互いの意思疎通は「テレパシーで意識に伝わってくる」という事情が、切実に戻ってくるようだ。
「12 荒れる海」(旧) 「8 集結」(新)前半
何もかも見慣れぬ異世界で古流の撃剣の研鑽に没頭しかけていたところ、突如として見慣れた近代兵器が飛び込んできて、それも生死の境目を乗り越えると、翌日には即物的な必要から拳銃も機関砲もアマルガンらの関心の的になっている。
その国や、その世界の技術力を語るにあたって、製品を製造するにはまず工具から必要なのだ、という目線を導入するのは富野作品の「ハードさ」として後まで続いている。「リアルさ」……というと、現代も多々ある異世界ものでも、軍事行動は必要の連続で、工作設備も資材も要るし、運搬も考える。それに当たる人員については配置と管理、教育、通信や命令伝達の必要があって……と続いて、「それは産業である」と看破するまでは、創作中の「リアル要素」として、深く考えないでも踏襲されているだろう。ハードとはかぎらない。
ガッザとアマルガンの会話中には、『そのような施設を建造して、戦争が終わった後はどうする?』とまで視点が延びている。そんな会話をしているのは単なる流れ者や海賊ではないらしいのは見えている。
日本史に戻って、たとえば種子島に火縄銃が伝来して全国に普及する速さには、日本刀の鍛造技術の基盤があり、その技術者集団や工作施設のもとが備わっていたような事情を、旧版ではその集団の「民度」ともいう。民度という言葉には、現在にネット住民の習慣にはきっと別のニュアンスがかかることもあると思うが、こういう場合には、あまりアレルギー的に拒まないで素直に読む。完全版にはない。
旧版では工具の説明から迫水がし、ドライバー、ねじ回しの説明にも若干苦心するが、完全版では、鍛冶のカサハランが最初から部屋におり、ガダバから押収した工具箱も手元にあるので、製品の外見を観察しながらまず工具の製造を説くところから始めなければならない難儀は省かれる。
先の戦闘で敵船を奪ったんだから、銃器だけでなく工具くらい敵船にあったのは、それはそうだ。もっと思えば、敵船の士官を尋問していれば今している無用な憶測は省けるので、あえて峰打ちをしたものを無造作に皆殺しを命じたアマルガンも、武者としての風習はともかく、この結果だけをいえば迫水の態度はそんなに間違ってもいなかったのではないかとも。
アマルガンとの腹を割ってサシの対談に入ると、世界や文化についてアマルガンもインテリジェンスを隠さなくなってくる。迫水の提供するのは中世の「魔女狩り」諸々のエピソードについて、
「ガロウ・ランだ。サコミズ……。ガロウ・ランそのものだ」 「弁解させて貰うならば、耳学問なんだ。すべてが本当のことではないかも知れん」 「そういう言い方をするサコミズも、俺はガロウ・ランの手の者と感じてしまうぞ」
そういう言い方……といえば、蓋然的な言い方に終始する原作者などのことをわたしは今思い出す。『これは矢立肇が言っていることなので信憑性にはひとつ疑問符を付けて聴くべきなのだがな』と言い含めて、重い話を始める等。
ここには昨日わたしは別の方向から連想があった。
「13 集結」(旧) 「8 集結」(新)つづき
章の始めから、浸水した船底から荒くれ男達がバケツリレーで延々と排水作業を続ける。無為にも思える不毛なこの作業のエピソードは結構面白く、完全版で短く省略されるのは仕方ないとしても惜しい文章。
続けて、アマルガンとの対話ふたたび。これもかなり長いが完全版では省略。前章の対談と気分的に似ているからかもしれないが、前巻9/6章のときに触れた「死に損ない」意識にかかわるからとも思える。完全版では、早くから虚無感描写を強めていくのを抑えようとしているのかもしれない。
ガダバの国崩しをする決意をアマルガンに吐き出させる。アマルガンの手勢なるものはガダバに対して微々たるものでしかないが、訊ねる迫水にも何を失うものがあるわけではない。「何年かけてやるつもりだ?」と訊くのは自分自身に皮肉混じりだが、
「命のある間に……」 「凄いな」
ここの応答の凄みは、カットされるのが惜しい……。男として見込む、ともに戦ってくれということだ。それでもアマルガンと迫水の間の隔ては埋まらず、何かでもいい、多少でもいいから、生き死にを賭けるに見返りを求めたい、とぶつけるまで。
このあとシャーン・ヤンがもっと物分りの悪い殺伐な悪態をくれて、ゲリィがやはり見透かしたような微笑をくれる、女達の諸相があって続く。
合流する五人の船長たち。ケラックス(ケラック)のシリスに続き、
実際のところ、わたしも迫水の仲間達の名前についてはこのあと登場のクロス・レットくらいしか覚えていないが、必要そうなら手元には控えていくかもしれない。
オーラバトラー戦記のときと、ガーゼィの翼のときにもその話をしていて、この大人数の仲間達の出入りを追跡していてもわたしはそれなりに面白いんだけど……。
Wikipediaの記事などでは主要人物以外は微細にわたって扱わないほうがいいのが、今わたしの考えでもある。それは無用にゴミゴミしすぎる記事編纂の問題。小説作品の子記事の一覧ではやるのはよした方がよく、やるんだったら専門で立てる。だけど、それでなくても混雑している界隈(サンライズとかガンダム等の)、屋上屋を架しておいて一人で管理するのいやだ。Zawazawaで地下にいるのは何らかのつもりはあるけどね。
〝……真に、惨《ざん》……〟
完全版では、ひらがなで「まさに、」と、均されている。旧版だけを読んでいれば、この訓みにはまた異訓があったんじゃないかと思う。
喰い込んだ弾丸の摘出と手当ては完全版では省略。そのいきさつはしばらく後の文に補充、ゲリィが手当てしたことになっている。
13/8章おわり。今夜ここまで。
バイストン・ウェルの星の光に似た燐光、リンについて、前巻で軽く触れられた。その後、完全版7章の冒頭に「深海魚の鱗」の言い伝えについてはあったが、迫水には理解できない。
この章のうち、鱗の字を書いて旧版では「星のように見える鱗(りん)」、完全版では「鱗(うろこ)」とルビが振ってある。
「14 城掛り」(旧) 「9 城掛かり」(新)
前章で、完全版には船の左舷に「左舷(ひだりげん)」とルビが振ってあったのだが、今度は旧版の右舷に「右舷(うげん)」と振ってある。両版とも、右舷も左舷も文中にルビなし大半使われていて気にしなければどうでもいい齟齬だ。
旧版では特攻の「神風」には〝神風(しんぷう)〟とあえてルビが施してある。
すでに再三再四にわたる特攻とは何かの背景がまた説かれるが、その前に、迫水の遺書について新旧の感想。新旧どちらも、迫水は自分の書いた遺書の文面に今ひとつと思える悔いがあったのだが、旧版では、『最後に靖国神社にて再び会えるだろう』のようなことを書きたくなかった自分を自覚していて、その気持ちを奇妙なものだと書きながら思っている。迫水に反戦思想などがあって軍への反感などからそう思ったわけではない。
完全版では、遺書を『快なるかな我任務。快なるかな我飛翔』と大仰に締めくくったのは余分だったと後に(バイストン・ウェルで今)回想している。
まず旧版から延べてみると、日本人について
完全版では、2の「理想と現実が乖離したときに精神性に置き換える悪癖」のところを、歴史上、儒教を取り入れた頃から涵養されていた日本の精神土壌に遡って説き起こす。ということは、素朴に想像して五世紀頃の古代からになる。 徳川時代の朱子学にはその理念思考の素養があったとし、西洋思想の吸収の際にもそれが素地になった。
3のインテリ達は既存の思想・近代戦術を学んだことで、その狭い思考に捕らわっている一方で、そこから次の考えかたを思いつくことができない、新しい思潮を生むことができない知識者特有のジレンマに陥る。その精神のバランスを保とうとするための運動として彼らは精神論を語る、という解説になる。完全版ではこれを、地上人の中に入り込むガロウ・ランの憑依、と言っていく。
(旧軍の特定の個人名を挙げてはいないものの断定的・断罪的な言い方を言い替えて想像上のガロウ・ランに紛らすことに換えた、と言ってしまってもいいと思う。わたしはこの作中でその糾弾にもそれほど意味があるとは思ってない。それよりも、文章の言い方をもっと巧んできたと思うほうが面白い)
開戦。の瞬間に、砲撃をかばって迫水はゲリィを抱き伏せる。立ち上がる数秒間に、少女の肌と肉体にはっきり欲情するが、やはり旧版のほうが渦巻く思いが事細かい。できることなら、口付けしたい、さらに許されるのならばハロウ・ロイのようなそれまでゲリィに求めたいと思うが、一瞬でその己を叱咤する。
完全版では、そんな欲望を自覚でき、それを否定していけるから生き延びると思える。でないと生きている意味がない。両版ともに捨てがたい。
ついでながら、この際はそんな場合ではないが、そんな迫水の情念が目の前のゲリィにテレパシーでもろにぶつかっていないのか想像してしまうところ。わたしは最近そんなサイキックラブの話ばかりしていた。このときのゲリィは半ば茫然自失になっている。
「俺は、あれを黙らせる」
前巻にもあったが、二回言う迫水のここも、完全版では一回に収める。
完全版のリーンの翼には、左右の主翼とべつに、内側に「ひよこの羽のようなもの」が生えている。これはアニメ準拠だったかどうか今おぼえていない。
(追記)旧版では後の18章になって描写される。
章おわり。今夜ここまで。
「生き神様」ってこれだったか。別の筋道で最近読んでいた「おりん」からだが、元々日本の風土にあるものだからその連想はある。同じものだ。
「見返りがほしいんだ」と訴える時の迫水がそれだともいえる(旧13)。また、昨夜のうちに一度気がかりながらそのまま過ぎたが、前章「城掛り」の冒頭あたり、迫水の「開き直り」についても新旧の内容に差異があり、ここは旧版のほうに強く見えることだと思う。
〝靖国神社で会おう〟という特攻青年の、バイストン・ウェルという異郷で死に場所を求められるかの覚悟について、
これは、一見、当り前の考え方でありながら、重要である。人は、己のためになら死ぬことはできる。人は、身内を守るためには死ぬことはできる。人は、信じることのためには死ぬことができる。が、他者のために死ぬことはできない。
これは富野話題と別箇に、独自のテーマに考えるべきだな。例の「僧兵と覆面」のような宗教と戦争の関心にかぎらず、また中世仏教よりも根深くあるということだろう。ここでは、精神土壌といったか。
中世仏教については、そのためのストーリーを当時に語るための努力だといってもいい。それは時代の特色だ。
また、夜中に目ざめて思いがけない連想が繋ぐ。覚めている間は繋がりきらない考えが夢を挟んで繋ぐことが最近多い。昼間朦朧とぐったりしていることが多いが普通のキャパ超えているんだろう。
「15 リンレイ・メラディの城」(旧) 「10 リンレイ・メラディの城」(新)
城将というか砦の主マラ・ブランの、負傷した瞬間に哀れったらしく豹変する様子は同じように書かれているが、完全版では「人間でない異様な気性を感じた」と書き込まれる。ガロウ・ランということだろう……。
もうひとつ、二度目の騙し討ちで殴りかかったマラの右腕を斬り離したときに、迫水の直心影流の瞬発的な発動についてはすでに書かれていたが、完全版では、
迫水の瞬発力と筋力は、間合いがない距離でそれができるまでになっていた。
あえて言ってしまえば居合みたいな技のようか。この上達ぶりはリーンの靴のせいだろうかとは書かれていたが。
――本文に書かれてもいないのに想像で「居合」とか書きたくない。実戦剣術の話をしているし。間合いなしで、と加筆されている、のこと。
リンレイ・メラディとの出会いはおよそ考えられるかぎりで最悪の場面での初対面。「対面」というのかな? そこでそういうことを言うのもなんともだ。わたしは、そんなことで人に嫌われてもいいが。
さばけて言うと、人に趣味の有無はあろうけど、小説の読者にとっては、嫌悪感だけで読んでいるとはかぎらない。女性の読者には普通にはしんどいと思うが、女性のFT作家でももっと酷い場を書く人はいるし……。
細かい差異を書くと、短剣の処理が異なる。ひどい意味で彼女との「絆」の始まりなので、旧版にはその生々しさがよりある。マラが完全版ではやや饒舌で、「コモン女」とくり返すのを聞いてもはっきりとこれはガロウ・ラン扱い。旧版も別の意味でガロウ・ランを想起はしているので、その違いをいうと曖昧なところだが、これがくたばるまでにより見苦しいのでそれで幾分気が紛れるのでもある。
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ハッサーンのことを書いてふと思い出したのは、『リーンの翼』の後の時代に出てくる迫水の後妻、コドールには、アニメと小説を読むだけでは良い印象を持たれないと思うが、彼女の抱く地上界への切ない憧れの気持ちには、ハッサーンの面影があるんだ……。そう思うと彼女ももう多分憎めないな。
4章おわり。フェラリオとフェラリオ中だが章の区切りなので今夜ここまでにする。
〝なら、好きにやる……〟こういうところがわたしは本当に可愛いと思うが、自堕落な子だ。
これらの美しい場面は、自堕落は別としても少しでも長く読みたいという情は察せられ、そういう読者は旧版も読んでいいのではないか。そう言えばいいのか。
わたしは、趣味をいうと口淫って好きじゃないのだが、前後にいくところまで書き込んでいるのは旧版のほうが良い。
ほか、迫水の父についての言及が処々に補強されているのも完全版の意図のひとつだろう。
よくいう、富野由悠季の父子関係がどうとかではなく、もともと旧版の迫水の素性が常人離れした部分があって、幼い頃から古流剣術だったり戦陣訓の話にしても当時の青年軍人としても周囲以上に理想的で熱血だったりするので、生身のエピソードが足りないと思われたんだと思う。
「5 剣」(旧)
「4 剣」(新)
前半まで。完全版の字数を詰めるリライトをしている以外にほぼ大差ないが、あえて手を加えないことに感心するような気分。少し気になったところは、完全版に、一度萎えた迫水にハロウが乳房で愛撫にいくというテクニックが加わっている。旧版では愛撫、とのみ。
旧版で迫水が叩きつける「切り札」の台詞は、完全版ではごくごく穏やかなニュアンスに崩されている。迫水はフェラリオの種族について未だほとんど無知だが、その蔑視を吐き捨ててしまったことは、省略するには惜しいかな……。
わたしは今夜もう疲弊していてここまでにする。
お互いの間で本当は言ってはいけないこと、言わない約束のことを「切り札」というのは、わたしはちょうど最近、ジークアクスのマチュとニャアンの関係の想像をしているうちに、例の割れたスマホのことを切り札と思っていた。のを自分で思い出してしまった。
公式にどうという解説があったわけじゃないけど、あのスマホは割れたままにしておくのはマチュとニャアンの間の「絆」になってるんだろうな……というのはわかる、かな。そのことはむしろ、シュウジには関係ないことだろう。三人の関係にもそれぞれ、重なる部分とズレてる部分がある。
男の死に体
サイコBLの話を一日考えていて、やはり今ちょうど迫水のところでもあったので思い出す。
ハロウ・ロイの肉体のなされるままにされ、足腰立たないほど弛緩してしまった迫水は「これでは男ではない」と愕然、慄然と思う。これまでの章にも、迫水の思念のうちには、――男は犯されるものではない、男の狂態は晒してはならない、男として死に体だ、――とバイストン・ウェルに来てたびたびに自戒と慚愧をくり返している。
女性に対してはとくに、女が乱れてはならないとは思っていない。
女のように男が乱れてはならない、というと女性蔑視のようにも思われそうではあるし、実際に時代的には男女の隔て観はある。それとまた、美意識として「女の乱れぬくことは美しい」とは常に語られても、男の崩れは様にならない、滑稽に落ちるという文化も、男女の身体の作りの生理的事情も実際問題ある。
女性蔑視だけのことではないというが――今度は女性から見ると、「女は乱れていい、男は別だ」と格好を繕おうとする男は、やはり腹立たしいかぎりの態度ではあり、そんなガードは引き捲って男も乱れ狂わしてこそ女冥利でもあろう。ハロウが衝動的に怒りを覚えるのはやむないくらいだと思う。
現代少年のこと
迫水の男女観は、そうは言ってもやはり相当に古い。1945年当時の青年軍人の標準からも異常なほど古武士的だろうとは前章までも思った。上に、ジークアクスの連想を書いたばかりだが、2025年現在の少年だったらもっと自由な態度だろう。……とは、現在、ふつうに概ね言われることだろうと思う。
事実はどうか知らん。女と男が区別なく語れることが「自由」か? 現代の男子高校生だって「女と男ではちがう」意識はないわけがないとわたしは思うし、文化としても、視覚映像ジャンルのキャラクター男女差の描かれ方などはむしろ誇張され、強調されて見えていたりする。男装女装などについてもあれこれ言える話題はあるだろう。
男の子・女の子はイーブンだよ、と言いたい人は良いとして、「それはそれとして、そのコードはあるよね」という踏まえで、女子の口から「もっと自由になっていい」のような台詞を男の子がどう聴くだろうと想像しても可愛い。男子から女子に手引きする場合には言えたことでも、それを後に女子から男子に手ほどきし返されれば、男子には加わる愧じらいはあるんじゃないか。
ボーダーに目を向けるよりは、セクシャリティという言葉遣いを選んだほうが、上の話については多分いいだろう。前回連想するのは『∀の癒やし』より。フェラリオと、リンレイについての場合はまた、どうだったろう。
さざめき
水の妖精のようなエ・フェラリオの体内の感応を、さざめき、波立ち、とリライトする手慣れた気分は好き。
ハロウ・ロイは、自分は迫水に触れて浄化されはじめたのではないか……(ないかしら)と思えるようになっていたが、それがわずかの後に彼女の命取りになるのだろう。
そういうとこ読むことを精読として今度の通読は始めたの。おそらく、両版を持っていて読んでいる人でも、その一々に仮に目を留めはしても、書き留めてはいないだろう。
富野由悠季の文体はどういうものか、という解説が、主流の文芸評とか雑多な読書レビューに任せて永久に明かされないような不審感ってある。
ここなどは、見るからに複数の文章にわたる描写の内容を「――て、」「――ば、」「――が、」「――て、」と繋げて一文にしてしまう。上では「だらしない文章」とも書いてしまったけれど、やわらかく弾力的に口述をつづけていく独特のリズムを作っているのは90年代以降に好きそうで取り入れているらしい。当時に何がきっかけでそうなのかは、わたしはわからない。たとえば、そういう例にはなる。ほかにも見たいところはあるはず。
そうだな、「口述」だよ。この文体。そういうイメージ。
旧版5章まで。完全版では章を改めずに続く。今夜ここまで。
量的にはほとんど読み進めていないけど。上のようなことを迂闊に書き込むのはネットで無用なことだ。「文体」とか書いたらそれだけでもうね。
ここの、稽古の後のキャプランからの「餓鬼の剣術」との痛い指摘は完全版で省略だが、わたしの記憶にはあるし、後章に補足だったかな。ヤエーッと大声で稽古しているだけで敵からは観察してくれと言わんばかり、とのような。
「6 報復の血」(旧)
「4 剣」(新)つづき
迫水の新しい戦闘支度には旧版では革の帽子に鉄片を仕込んだ兜様のもの、完全版では飛行帽の上に革兜を被ってこの革兜の仕様が同様のもの。この、元からの飛行帽をいつまで持ち歩いていたかはわたしは記憶にない。
章おわり。旧版では章末にムラブとミン・シャオの幕間が入る。
この剣戟のシーケンスは段取りはそのままにタイミングが変わっていることがある。
最後に矢の斉射をかわす際には迫水は数メートルを跳んだ(旧)のが十数メートル(新)に割増されている。
また呼吸について、どこで息を吸って吐いたか補われている。剣法小説では呼吸は必ず重要なのだが、わたしは読者としていつもよく分かって読んではいない。
完全版では、最初にガロウ・ランから分捕った青竜刀はこの戦いの初めに左右に持ったあと、ゲリィを救ったときにはもう捨てているらしい。いつ捨てたのか迫水も憶えてなく、以後出てこない。
ハロウ・ロイを哀悼なんて富野読者がネットですべきでないが、結局のところわたしは最後までフェラリオについて気にかけていた。
「7 聖戦士」(旧)
「5 聖戦士の居場所」(新)の冒頭
迫水は前夜の戦いでガロウ・ランを六人斬った、人殺しの感覚がようやく蘇り始める。殺人体験についてはバイストン・ウェルで各シリーズにくり返すが、迫水の反芻する殺人の感覚は文章上でも生々しい(うどん粉)。
はっきりPTSDという問題になると、現在は一般書でも戦争の心理学に一ジャンルがあり、昨年までに瞥見なりとおさらいはした。そういうの読み聞き知るにつけ現代に基礎知識として知られておかれたい、不安はあるものの、わたしは富野作品の枠を出て紹介する気ない。70年代頃には小説界にテーマとして浮上しているらしいことは言ってる。1983年というのはそれでもかなり踏み込んでいると思われる。それを言えば、迫水とクリスの過程は比較するのに興味深いものだった。
その話のあと完全版は次のシーンへ移ってしまうが、旧版ではその夜、迫水は反復する殺人感覚を酒飲みに紛らしながら、アマルガンに対してこれまで聞かなかった事々を問いただす。半ば鬱憤をぶつける。
旧版7章の内容はかなり長いが、これまでのくり返しの内容も多く含むから省略になっているんだろう。部分部分はこの後の章に散らばっていくのかもしれない。再読なので、その箇所があれば気づく。
アマルガンの素性を訊ねる。義賊アマルガン、という世間的な押し出しの裏に、アマルガンはアマルガンでまだ公開しない正体と思惑があるらしい。そのあと話が転じて、日本軍の「戦略」についての話が始まる。
日本軍の話はこれまで、当時青年の精神的テンションを重点にしたが、ここでは、あの戦争をするにあたり戦争に勝つための戦略というものがあったかと、その責任は指導するインテリ層にあったのではないか。飛行機熱と血気に逸っても俯瞰的な視野を持てなかった青年が迫水であるは、くり返し。
強剛な武人であるとともにその同じインテリ臭を感じさせるアマルガンという男に警戒心を抱く。また自らは生まれの素性も、インテリ的な気質も厭う節のあるアマルガンはリーンの翼を「力の象徴」として語る。旧版はここらでリーンの翼の意味が浮上してくるみたいだが、完全版では前倒しで点々とその言葉は聴いていたようだ。
酔っているところにゲリィ・ステンディが差し入れ。ゲリィが手にするカンテラは、虫籠に数十匹のホタルを詰めたもの。シリーズでこのホタルランプは、ダンバインに出ていなかったかな。またよく憶えていないけど。
このホタルは実用品なのだが、文字で読むかぎりではなかなか風流な代物。海外ファンタジーだと、この種の生き物照明といえば「ツチボタル」(グローワーム)のほうが定番で、わたしはその出典を小説で見るごとに手元に収集していることがある。
近代までの剣客・剣豪の話にも、あたら達人でも初めて人を斬ったあとに、その夜、刺し身を食っていて嘔吐してしまい、それで再起も難しくなったのようなエピソードは点々とあり、古くから知られていないわけではない。
それが社会問題になると認識されていなかった。古くには宗教が戦士達の心のダメージを補っていたらしいことも、それを研究テーマとして意識されているのもごく最近のようだ。
リーンの翼とガーゼィの翼の意味に違いはあるみたいだな。ゴゾ・ドウがそれをどう評価していたかが今から気になる。
「8 コラール・シーへ」(旧)
「5 聖戦士の居場所」(新)続き
ハロウ去って入れ替わるようにゲリィ・ステンディが迫水の側に出入りするようになる。ゲリィが、迫水とハロウとの関係を気づいていただろうかはこれまで迫水は気にしていたが、旧版ではなお曖昧にスルーされるところ、完全版ではゲリィの態度からどうやらそれと分かってしまい、またも無念を味わう迫水である。
男の子の恥や慚愧はもはや一テーマになってきたので雑談トピックで続けていた。こちらは迫水の恥を追う、……という通読じゃないけど。
入江には一行と合流を待つ帆船が待機している。バイストン・ウェルに来て初めて海と、「帆船じゃないか!?」目撃する迫水には少なからず感動もの。船の連中は待ち飽かす間、デッキでドンチャンと飲み騒ぎしている。
わたしはこのあいだ『∀ガンダム』劇場版二部作を見たところで、この台詞あったのを覚えていた。
章おわり。バイストン・ウェルでは重要アイテムである火薬「ガダ」の呼び名は完全版では先行。
ゼラーナの面々と合流し、またフェラリオが出てくる。迫水はまた初めて目にする、ミ・フェラリオは存在自体がコモンの風紀を乱す動物、むしろ害虫だが、そのうちでもコム・ソムはまことに毒にも薬にもならない、賑やかし。
ゲリィとノレドの「いい娘」
迫水から気分が移ってベルリの恥について思いふけっていたあと、今ふと、『リーンの翼』のゲリィ・ステンディとノレドはまた、似ているような気がした。
読んでいた前章がたまたまパチンコならぬロープ投げのところで、海賊のフェラリオに悪態づいて清々した顔をしているのを微笑ましく思う、いい娘だ、と思うその「いい娘さ」の気持ち。アイーダにきゃんきゃん言われても、パチンコで当てたくらい本気なものか、嫌ってくれてケッコーです、のような顔をしている。
キャラクターを属性で分解して似ているとか系統というのは必ずしもいえない、言うのは控えたいことは前も言った。それはそれとして、きっと同じ顔して喋っているときに気持ちを想像する「縁 」にはなる。また、読者にその連想があるとして、年譜的には、ゲリィの面影の一部をノレドに補充するという順序になる。
死に損ない
「9 海賊」(旧)
「6 海賊」(新)
同じ場面で始まるが、新旧で内容はがらっと変わる。荒くれ船員のマブに絡まれるまでの船上。
旧版には迫水の心裡に徐々に浮上する空疎さが書き込まれる。「死に損ない」と初めて意識するが、今生きて、生き延びようとする自分を「浅ましい」と感じながら、それがなぜか自分の心を掴みきれない。
完全版には、出帆までの段取りと、船上生活ですること、この世界の火薬(ガダ)と火器事情がたっぷり補充。
帆船ゼラーナの材質について、
書き分けの意図は不明。強獣という概念はまだ登場しない。
新旧とも珍しく全文一致のマブ。
仲裁に入る船長のグロンが迫水の喧嘩のしように「狂暴なもの」を注意する。これの新旧は一見してほぼ同文に見えるが、上の、章冒頭の「死に損ない」のくだりがあるとないとでは読者の受け取るニュアンスが違うようだ。
旧版を読むかぎりでは迫水の狂暴さは、ギルト感情の反映だと読むだろう。完全版ではそれがない代わり、迫水の元の性癖と説明して、一生自制しろと言われる。その癇癖を性格にしてはいけない、とも。
この違いはごく微妙でわかりにくいが、「性癖」とか「性格にする」とかいう表現は富野作品の後期作に現れる、規範などの関心に近いもので、多分大事なところだと思うな。
というより、富野作品以前にわたしのもと興味分野だ。
海洋小説にはこの、マストの見張り台に登るくだりが必ずあるのだが、毎回毎回みているくせにわたしは一向に帆船の仕組みも、各部の名前も憶えようとせん。帆船の本はそのへんにあるはず、海賊史とか。
このやり取りに旧版ではとくに解説はない。見えているのは商船らしいが、商船を襲うことに迫水に躊躇いがあるかのようか。「商船みたいだがやっていいのか?」
完全版では、「ガダバの船らしい」という迫水には意味不明の言葉が先に聴こえてきて、上のやり取りには……アマルガンの発言はちょっと矛盾するようだが意味を考えている暇はない、という書かれ方になる。迫水の台詞は、「あれはもしかして軍艦か?」という意味に近くなる。まるで作者自身が自分の文章を読み返して戸惑い、台詞の解釈を変えたみたいだ。
これは面白い……。マニア的な興味にすぎるかもしれないけど、これは興味のある読者に読んでみてほしいな。それか、数十年後に「富野由悠季全集」のようになったときに、註釈をつけてこまごまと解説を付す。その頃には古典として翻訳の関心にもなるだろうか。もっとも、わたしの生存中ではもうなさそうだ。
章おわり。この通読はあえて「1日1章」と決めなくていいはずだけど、時間的にはこうなるのでもあるね。これだとまだ何か月もかかってしまうが、時間がかかっていけないことは別にないしな……。富野話題にかかりきりだと、Xの雑想とposfieのまとめのような記事を別にどんどん増やしていくようでもある。
「10 機銃」「11 ガダバの軍艦」(旧)
「7 ガダバの機関砲」(新)
海賊行の戦利品の山分けをしている仲間のうち、ここで主にしゃべるムスターマ(旧)は前章で「メラッサ・ムスターマ」とフルネームが一応紹介されていた。すでに忘れていたが、完全版ではメラッサと書かれている。同一人物。
海賊が略奪をすれば起こるべきことが起こる。二日に分けてゲリィと男女論のディスカッションをする間に、ゲリィと打ち解け、迫水の理想的でどっちかというと奥手な女性観をやり込める間にゲリィが溌溂としてくる。
続けて海賊行、海戦の描写はむしろ完全版のほうが用語が細かいほどだが、経過は同様。旧版では章が替わるところ。今夜はこのまま読み終える。
衝角攻撃。ラム。海賊ロマンの必須、必殺技みたいなものだが、ゼラーナの衝角について、
較べて読むと旧版の方はちょっと意味がわかりにくかったのか、材質自体が変更されてしまった。
衝角に続き移乗攻撃のセオリー。前後の文章は新旧間で複雑にミックスされるうち、
イナゴのように飛び跳ねた船員達が四半世紀後にはイナゴになってしまう!
章おわり。旧版一巻読了。あとがきがある。
戦いが殺戮になり狂騒に入っていく中に、迫水の意識にゆらぎが交じる。そのさい、
これは、ここだけで済むことかもしれないが、最近、「機動と戦士」のような話の中でずっと追っていた文面に似ているから覚えておきたい。後ろの敵も見えているかな。
この章での戦後始末は、すでに何度も言及してきたバイストン・ウェル事情だけど今読み返すと、新旧に微妙な違いがあり、旧版では迫水やアマルガンがすでに声で喋っているように無頓着に書かれているが、完全版では、ここへきて互いの意思疎通は「テレパシーで意識に伝わってくる」という事情が、切実に戻ってくるようだ。
「12 荒れる海」(旧)
「8 集結」(新)前半
何もかも見慣れぬ異世界で古流の撃剣の研鑽に没頭しかけていたところ、突如として見慣れた近代兵器が飛び込んできて、それも生死の境目を乗り越えると、翌日には即物的な必要から拳銃も機関砲もアマルガンらの関心の的になっている。
その国や、その世界の技術力を語るにあたって、製品を製造するにはまず工具から必要なのだ、という目線を導入するのは富野作品の「ハードさ」として後まで続いている。「リアルさ」……というと、現代も多々ある異世界ものでも、軍事行動は必要の連続で、工作設備も資材も要るし、運搬も考える。それに当たる人員については配置と管理、教育、通信や命令伝達の必要があって……と続いて、「それは産業である」と看破するまでは、創作中の「リアル要素」として、深く考えないでも踏襲されているだろう。ハードとはかぎらない。
ガッザとアマルガンの会話中には、『そのような施設を建造して、戦争が終わった後はどうする?』とまで視点が延びている。そんな会話をしているのは単なる流れ者や海賊ではないらしいのは見えている。
日本史に戻って、たとえば種子島に火縄銃が伝来して全国に普及する速さには、日本刀の鍛造技術の基盤があり、その技術者集団や工作施設のもとが備わっていたような事情を、旧版ではその集団の「民度」ともいう。民度という言葉には、現在にネット住民の習慣にはきっと別のニュアンスがかかることもあると思うが、こういう場合には、あまりアレルギー的に拒まないで素直に読む。完全版にはない。
旧版では工具の説明から迫水がし、ドライバー、ねじ回しの説明にも若干苦心するが、完全版では、鍛冶のカサハランが最初から部屋におり、ガダバから押収した工具箱も手元にあるので、製品の外見を観察しながらまず工具の製造を説くところから始めなければならない難儀は省かれる。
先の戦闘で敵船を奪ったんだから、銃器だけでなく工具くらい敵船にあったのは、それはそうだ。もっと思えば、敵船の士官を尋問していれば今している無用な憶測は省けるので、あえて峰打ちをしたものを無造作に皆殺しを命じたアマルガンも、武者としての風習はともかく、この結果だけをいえば迫水の態度はそんなに間違ってもいなかったのではないかとも。
アマルガンとの腹を割ってサシの対談に入ると、世界や文化についてアマルガンもインテリジェンスを隠さなくなってくる。迫水の提供するのは中世の「魔女狩り」諸々のエピソードについて、
そういう言い方……といえば、蓋然的な言い方に終始する原作者などのことをわたしは今思い出す。『これは矢立肇が言っていることなので信憑性にはひとつ疑問符を付けて聴くべきなのだがな』と言い含めて、重い話を始める等。
ここには昨日わたしは別の方向から連想があった。
「13 集結」(旧)
「8 集結」(新)つづき
章の始めから、浸水した船底から荒くれ男達がバケツリレーで延々と排水作業を続ける。無為にも思える不毛なこの作業のエピソードは結構面白く、完全版で短く省略されるのは仕方ないとしても惜しい文章。
続けて、アマルガンとの対話ふたたび。これもかなり長いが完全版では省略。前章の対談と気分的に似ているからかもしれないが、前巻9/6章のときに触れた「死に損ない」意識にかかわるからとも思える。完全版では、早くから虚無感描写を強めていくのを抑えようとしているのかもしれない。
ガダバの国崩しをする決意をアマルガンに吐き出させる。アマルガンの手勢なるものはガダバに対して微々たるものでしかないが、訊ねる迫水にも何を失うものがあるわけではない。「何年かけてやるつもりだ?」と訊くのは自分自身に皮肉混じりだが、
ここの応答の凄みは、カットされるのが惜しい……。男として見込む、ともに戦ってくれということだ。それでもアマルガンと迫水の間の隔ては埋まらず、何かでもいい、多少でもいいから、生き死にを賭けるに見返りを求めたい、とぶつけるまで。
このあとシャーン・ヤンがもっと物分りの悪い殺伐な悪態をくれて、ゲリィがやはり見透かしたような微笑をくれる、女達の諸相があって続く。
合流する五人の船長たち。ケラックス(ケラック)のシリスに続き、
実際のところ、わたしも迫水の仲間達の名前についてはこのあと登場のクロス・レットくらいしか覚えていないが、必要そうなら手元には控えていくかもしれない。
オーラバトラー戦記のときと、ガーゼィの翼のときにもその話をしていて、この大人数の仲間達の出入りを追跡していてもわたしはそれなりに面白いんだけど……。
Wikipediaの記事などでは主要人物以外は微細にわたって扱わないほうがいいのが、今わたしの考えでもある。それは無用にゴミゴミしすぎる記事編纂の問題。小説作品の子記事の一覧ではやるのはよした方がよく、やるんだったら専門で立てる。だけど、それでなくても混雑している界隈(サンライズとかガンダム等の)、屋上屋を架しておいて一人で管理するのいやだ。Zawazawaで地下にいるのは何らかのつもりはあるけどね。
完全版では、ひらがなで「まさに、」と、均されている。旧版だけを読んでいれば、この訓みにはまた異訓があったんじゃないかと思う。
喰い込んだ弾丸の摘出と手当ては完全版では省略。そのいきさつはしばらく後の文に補充、ゲリィが手当てしたことになっている。
13/8章おわり。今夜ここまで。
バイストン・ウェルの星の光に似た燐光、リンについて、前巻で軽く触れられた。その後、完全版7章の冒頭に「深海魚の鱗」の言い伝えについてはあったが、迫水には理解できない。
この章のうち、鱗の字を書いて旧版では「星のように見える鱗 」、完全版では「鱗 」とルビが振ってある。
「14 城掛り」(旧)
「9 城掛かり」(新)
前章で、完全版には船の左舷に「左舷 」とルビが振ってあったのだが、今度は旧版の右舷に「右舷 」と振ってある。両版とも、右舷も左舷も文中にルビなし大半使われていて気にしなければどうでもいい齟齬だ。
旧版では特攻の「神風」には〝神風 〟とあえてルビが施してある。
すでに再三再四にわたる特攻とは何かの背景がまた説かれるが、その前に、迫水の遺書について新旧の感想。新旧どちらも、迫水は自分の書いた遺書の文面に今ひとつと思える悔いがあったのだが、旧版では、『最後に靖国神社にて再び会えるだろう』のようなことを書きたくなかった自分を自覚していて、その気持ちを奇妙なものだと書きながら思っている。迫水に反戦思想などがあって軍への反感などからそう思ったわけではない。
完全版では、遺書を『快なるかな我任務。快なるかな我飛翔』と大仰に締めくくったのは余分だったと後に(バイストン・ウェルで今)回想している。
まず旧版から延べてみると、日本人について
をいう。これは日本人の民族性である。そこに戦時、
を暴き、当時の「インテリ達」が見せた日本人の民族性に加担した狡猾性を、戦後の今から遡ってあらためて指弾されるべきだ、という。これらの全文は断定的で、旧非を断罪するものとして書いてある。
完全版では、2の「理想と現実が乖離したときに精神性に置き換える悪癖」のところを、歴史上、儒教を取り入れた頃から涵養されていた日本の精神土壌に遡って説き起こす。ということは、素朴に想像して五世紀頃の古代からになる。
徳川時代の朱子学にはその理念思考の素養があったとし、西洋思想の吸収の際にもそれが素地になった。
3のインテリ達は既存の思想・近代戦術を学んだことで、その狭い思考に捕らわっている一方で、そこから次の考えかたを思いつくことができない、新しい思潮を生むことができない知識者特有のジレンマに陥る。その精神のバランスを保とうとするための運動として彼らは精神論を語る、という解説になる。完全版ではこれを、地上人の中に入り込むガロウ・ランの憑依、と言っていく。
(旧軍の特定の個人名を挙げてはいないものの断定的・断罪的な言い方を言い替えて想像上のガロウ・ランに紛らすことに換えた、と言ってしまってもいいと思う。わたしはこの作中でその糾弾にもそれほど意味があるとは思ってない。それよりも、文章の言い方をもっと巧んできたと思うほうが面白い)
開戦。の瞬間に、砲撃をかばって迫水はゲリィを抱き伏せる。立ち上がる数秒間に、少女の肌と肉体にはっきり欲情するが、やはり旧版のほうが渦巻く思いが事細かい。できることなら、口付けしたい、さらに許されるのならばハロウ・ロイのようなそれまでゲリィに求めたいと思うが、一瞬でその己を叱咤する。
完全版では、そんな欲望を自覚でき、それを否定していけるから生き延びると思える。でないと生きている意味がない。両版ともに捨てがたい。
ついでながら、この際はそんな場合ではないが、そんな迫水の情念が目の前のゲリィにテレパシーでもろにぶつかっていないのか想像してしまうところ。わたしは最近そんなサイキックラブの話ばかりしていた。このときのゲリィは半ば茫然自失になっている。
前巻にもあったが、二回言う迫水のここも、完全版では一回に収める。
完全版のリーンの翼には、左右の主翼とべつに、内側に「ひよこの羽のようなもの」が生えている。これはアニメ準拠だったかどうか今おぼえていない。
(追記)旧版では後の18章になって描写される。
章おわり。今夜ここまで。
生き神様考
「生き神様」ってこれだったか。別の筋道で最近読んでいた「おりん」からだが、元々日本の風土にあるものだからその連想はある。同じものだ。
「見返りがほしいんだ」と訴える時の迫水がそれだともいえる(旧13)。また、昨夜のうちに一度気がかりながらそのまま過ぎたが、前章「城掛り」の冒頭あたり、迫水の「開き直り」についても新旧の内容に差異があり、ここは旧版のほうに強く見えることだと思う。
〝靖国神社で会おう〟という特攻青年の、バイストン・ウェルという異郷で死に場所を求められるかの覚悟について、
これは富野話題と別箇に、独自のテーマに考えるべきだな。例の「僧兵と覆面」のような宗教と戦争の関心にかぎらず、また中世仏教よりも根深くあるということだろう。ここでは、精神土壌といったか。
中世仏教については、そのためのストーリーを当時に語るための努力だといってもいい。それは時代の特色だ。
また、夜中に目ざめて思いがけない連想が繋ぐ。覚めている間は繋がりきらない考えが夢を挟んで繋ぐことが最近多い。昼間朦朧とぐったりしていることが多いが普通のキャパ超えているんだろう。
「15 リンレイ・メラディの城」(旧)
「10 リンレイ・メラディの城」(新)
城将というか砦の主マラ・ブランの、負傷した瞬間に哀れったらしく豹変する様子は同じように書かれているが、完全版では「人間でない異様な気性を感じた」と書き込まれる。ガロウ・ランということだろう……。
もうひとつ、二度目の騙し討ちで殴りかかったマラの右腕を斬り離したときに、迫水の直心影流の瞬発的な発動についてはすでに書かれていたが、完全版では、
あえて言ってしまえば居合みたいな技のようか。この上達ぶりはリーンの靴のせいだろうかとは書かれていたが。
――本文に書かれてもいないのに想像で「居合」とか書きたくない。実戦剣術の話をしているし。間合いなしで、と加筆されている、のこと。
リンレイ・メラディとの出会いはおよそ考えられるかぎりで最悪の場面での初対面。「対面」というのかな? そこでそういうことを言うのもなんともだ。わたしは、そんなことで人に嫌われてもいいが。
さばけて言うと、人に趣味の有無はあろうけど、小説の読者にとっては、嫌悪感だけで読んでいるとはかぎらない。女性の読者には普通にはしんどいと思うが、女性のFT作家でももっと酷い場を書く人はいるし……。
細かい差異を書くと、短剣の処理が異なる。ひどい意味で彼女との「絆」の始まりなので、旧版にはその生々しさがよりある。マラが完全版ではやや饒舌で、「コモン女」とくり返すのを聞いてもはっきりとこれはガロウ・ラン扱い。旧版も別の意味でガロウ・ランを想起はしているので、その違いをいうと曖昧なところだが、これがくたばるまでにより見苦しいのでそれで幾分気が紛れるのでもある。