リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
1 (完全版1-21 : 旧版1-33)
- バイストン・ウェルの記憶
- フェラリオのだらしなさ
- 空に棲む魚の話
- 男の死に体
- 死に損ない
- 生き神様考
- フェラリオ交響曲
- ガダバの結縁
- ガロウ・ランの神話
- 英才教育…規範 / 恣意
- 卑屈にしている暇はない
- バイストン・ウェルの黴菌
- アマルガンの民衆史観
- ドラ・ロウ
- テレパシーでからかう迫水
2 (完全版22- : 旧版34-)
- コモン界の黒歴史
- トゥム、ネイラ・ザン、ノム
- 大和こころと桜ばな
- 純粋に戦いを楽しむコモン
- 理由はない
至誠 に悖るなかりしか- 「守るだけでは勝てないから」
- 至誠と桜花
- 勝つために戦うこと、戦争を始めないこと
- 俗に言う八方眼
トゥム、ネイラ・ザン、ノム
「35 惨殺という景色」(旧)
「22 揺れ地」(新)つづき
表現の違いだけでなく、ラとザの位置が入れ違っているのだが、たぶん完全版のほうが正しいのだろう。ボッブ・レッスに住む者たちについてはガロウ・ラン以上に不明。ノムについては、前章にもガダバには悪霊のような伝承があるとされていた。
前巻、旧25新16に、トランス状態になったリンレイが口走る台詞にあった。小説中では、わたしは他に見たような覚えがない。
ボッブ・レッスの存在はキャラクターとしては作中にろくに登場したことはないだろう。オーラバトラー戦記のクライマックスとか。姿形も定かでない。
サンライズ筋の記事だとトゥム、ネイラ・ザン、ノムはコモン界よりも地下にある界、その階層についてる名前としてある。
そもそも作中に登場したことはないからどっちだっていいが、コモン人にとってもその暗黒世界を呼ぶか、そこに住む悪鬼的存在のことを呼ぶか場合によって異なる。目の当たりに見たものは誰もいない、それくらい伝説的な名でしかない。「バイストン・ウェル物語」ではこの地下界一帯のことは基本的にどうでもいい。
二回言う迫水、三回目。完全版ではやはり「貴様らぁ!」一回に省略となる。
旧版のここは3回だった。
床山
「36 朝のあたたかさ」(旧)
「23 リンレイとアンマのあいだ」(新)
と口にしてから旧版では「床山」なるものの実体を表すのは次の37章まで待つ。完全版ではここですぐに床山組織の解説と、その長ハッサバ・ノゥムの登場となる。
ゴゾ・ドウ直属の御庭番のような忍者集団について、旧版でもわからなくはないと思うものの、初読の読者はこの時点で「ゴゾが理髪師を呼んだ」としか思わないだろうから、意味不明なだけで、間を置くことの意味はあまりなかったものと思う。
完全版では23章のここにあるハッサバとの対話。そのうち、
このゴゾの自意識というか、聖戦士観も併せて面白い。前回登場時には、歴史的にガダバの民だけが北辺の地に押し込められて南進を阻まれてきたことを「フェラリオ達の偏見」と断じ、リーンの翼とはその偏見の延長上の顕れとみなす、と激烈な怒り、正義感さえ表明していた。そんなものには立ち向かってみせる、との。
大和こころと桜ばな
この歌は『リーンの翼』を通しても後にくり返し印象を深め、響かせていくと思う。旧36新23/ここで初出。
ここでは、海辺を疾駆する迫水の脳裏になんの理由もなくそれが浮上する。旧版では文中に説明がないが、完全版では、はじめて体当たり攻撃をした神風特別攻撃隊の四隊の命名がこの歌にちなむ、としたあと、
とまで釘を刺してある。それも、今の迫水の気分にはなんら関わることでもない。
イジキタナイ桜
わたしがこの場合にまず連想するのは「同期の桜」という歌について、いくぶんか陰険な批判がされることは、今はよくある。その印象があってこのまえも三枝オペラの「神風」なども苦笑や反感が混じって真面目に聴けないこともある。それもまだ今年中の話だったが、ほかにもある。
富野作品中の出典に戻ると、『破嵐万丈 薔薇戦争』から、ギャリソン時田いわく
旧版ではこの少しあとにくり返して、
完全版で『そんなことはいってない』と言われていることが書いてある。この章が終わる頃にはその昂揚感が虚無感に覆われることはおなじ。
カランボー・シン
「37 アンマ」(旧)
「23 リンレイとアンマのあいだ」(新)つづき
迫水隊の少年カランボー・シンはここで初出。最近、身辺に置いているらしい。この種の活劇小説では年少の腕白小僧が突飛な活躍をしたりする要素のはずだが、『リーンの翼』のカランボーはそんなに活躍らしいことはしなかったと思う。完全版を読み返している間は、注意していてもどこでフェードアウトしたのかよく分からなかったような覚えがある。
「破嵐万丈」シリーズのサランボー・ナムと名前が似ているような気がしたが、とくに関係ない。
旧版5巻、40章にカランボーのことを「黒人の少年」とある。カランボーの肌の色のことは完全版にはない。
カランボー・シンの「シン」は迫水の真次郎から取って付けたようないきさつだったように思うが、まだあとかな。
「38 靴の翼」(旧)
「24 靴の翼、海へ」(新)
グロン・ガザエル船長=完全版ではガッザ・ガザエルとの話には完全版の方に若干の増補があり、ガッザはインテリという印象に加えて、迫水はまた日本の戦争のことを思い出す。
南方での戦線を拡大していくにあたり、日本は正しく戦局を認識していたか、またきちんとした戦争目的を語って国民を動員していたかと尋ねれば、ガッザ船長以下の考え方だったのではないか。だが、迫水はその責任が政治家・経済人・職業軍人たちにある、とまでは思い至らない。
このテーマは『リーンの翼』作中ですでに何回めかのくり返しだと思うが、完全版に改めて補ってある。これは2010年頃だが……先日、「戦後80年富野にきく」とかの配信の中でも聴いたばかりだけど、富野監督の「父は当時のインテリだったはずだが、戦後になっても南方の戦局を正しくは認識していなかった」というエピソードになっていた。その話のたびにニュアンスというか、重点が少しずつ違っているような気はする。
そのラジオの配信のかぎりでは、リスナーはとりとめない話を聞かされて要点もよくわからなかったと思う。
その戦争について『国に騙された』と戦後に口にする高齢者のことは、わたしは個人的に一人でなく耳にしたことはある。それが父にとってもトラウマだったのだろう――という富野監督83歳の理解は、そう思えたのは30歳くらいと言っていたが、『∀の癒し』等を読んでももっと苛烈なことを言っているし、本当はもっと御歳になってからだと思う。
戦後生まれの高齢者も、時局や戦争目的については普通の人は正確に理解などしなくても戦争を語れ、戦争に突き進むことはできるという話だ。ちょうど連想はしたので書いておくが、ここまで。
ストーリーでの話の要点は今それではなく、迫水はバイストン・ウェルにきて「戦局」なり「戦争目的」を正しく捉えているのか、それか、捉えようとしているのか。また、迫水がこの幻想世界でそうしようとしているのは何故か、の迫水の理由だ。
バイストン・ウェルは幻の世界じゃないのかと疑いつつ、ここで生きる理由を真剣に求めねばならなくなった、という物語のこと。あるいは青春。
富野御大が説く物事の真理、などを聞きたければ作品は読まずに信者をやってればよい。わたしは、それはどうでもいい。
純粋に戦いを楽しむコモン
「39 海の壁」(旧)
「24 靴の翼、海へ」(新)つづき
軍に憲兵組織を作りそれをアンマが引き受けるという話をする中で、味方を監視するのは「ガロウ・ランみたいだ」とメルバルは感想をもらす。バイストン・ウェルの騎士はもともと干渉を嫌うし、軍人でない駐屯地付近の民間人にまで監視するというのは不気味に思えるらしい。
このガロウ・ラン観は旧版・完全版ともに書いてある。迫水(旧)によると、
たんに気分的に姑息だ、というのとは違うようだ。戦いの場で生き死にすることも魂の楽しみ方だからか? 完全版では、
やっぱりメルバルにはわからない。北欧神話でいうヴァルハラみたいな無心で気ままに戦いのかぎりを尽くすことがコモンの戦争に対する考え方らしかったのだが、そんな在り方ができなくなってきている。
この場合、「純粋に戦いを楽しむ者たち」というのは古き良き騎士の時代、という意味合いになる。牧歌的な戦争ともいうか。ギンガナムのような戦闘意識とごっちゃにしてもいいが、戦士として戦いを楽しむことの良い・悪いを離れて考えるには訓練が要る。
コモンの魂の在りようについては、この『リーンの翼』の序文にもある。地上界でいう出世や栄達の道とか、人間関係のしがらみや、またその中で堕落することも含めて「人の道の真似事を演じてみせること」を好むのがコモン。なので、利害にうるさくてせせこましいことはやめないが、そうしたものが人の世の習慣だと思いこんでいる者たち。ガロウ・ランは全くそうではない。
魂は、魂の遊び場であるというバイストン・ウェルでなにも政治や、商売や、愛憎の振る舞いを真似してやらなくてもいいはずなのだが、それをやらないと気が済まないような魂にプリセットされた在り方、この世界に生まれついたときにすでに持って生まれた宿業ともいうのか、その振る舞いを魂のマスカレイドともいう。
なにか、この2章ほどの新旧版比較は、内容を再構成してリライトしているというよりは、同じシーンを別視点から書き変えているような遊びで、話のわかりやすさのような意味ではあんまり必要とも思えない。折角なのであらためて別の書き方をしてみるような、筆のすさびだ。
やれて?
迫水とリンレイの会話の新旧ニュアンスは話がややこしい。完全版は、迫水の会話のテレパシー要素を強調する意図があって迫水がリンレイに「様」付きで敬称を使うのをやめろと求めるにつき、テレパシーで意識に敬称をつけるのもやめろという。
言葉でなく心でももっと心を許せと求める十九歳女子の女王というのも難しいひとだ。
旧版では、この会話の途中からリンレイが男言葉から女言葉に変わり、迫水がおや、と思うのだが、完全版では男言葉のままで通す。その結果、『大人の世界、政治の世界は難しい』とぼやく迫水に、
という違いになって終わる。較べて読むと、「やれて?」という口調を2010年にくり返したくなかったためにこの一連は男言葉で通すことに書き変えたのではと思う。
章おわり。旧版4巻読了。この章の後半は旧版内容にわりとそのまま沿った文章に徹していた。
「40 翔べない戦士」(旧)
「25 翔べない戦士」(新)
事件の直後、旧版では迫水は朝まで林の中を徘徊し、このまま死ねればと自棄的なことを何度も考えた末、元の船団の場所に戻ってきてしまい、その時間の無益さに絶望をくり返すのだが、完全版ではこの不毛な時間経過はカットされている。
完全版ではその過程の代わりに、軍議の場での迫水は、聖戦士ではあっても一戦闘部隊長で、組織の高度な意思決定にあずかる立場にはないことを再認識するくだりが挿まれる。
ジニアス・テジャス
貴族でありインテリであり明晰な軍人であるジニアス・テジャスのキャラクターに迫水は(リンレイも)若干凹んでいるらしい、このような人物のために軍は変質していくのだろうという予見を持っている。
このジニアス(ジーニアス)はかなり早い頃から作中に名前は出ていて、レッツォ砦を攻める折から船長達の名前の一人に挙がっているが船が遅れたために一人だけ姿を現さなかった。出番を残してあったのだろうが、わたしは今読み返していて彼の印象は覚えてない。
「41 ミラヤマ」(旧)
「26 ミラヤマ」(新)
「リンレイこそ聖戦士ではないか?」
との見識を披瀝するについて、旧版ではジーニアス(ジニアス)の達見を評価しながら、そこに真の洞察力はない、彼は所詮多少苦労をしてきた程度の元貴族にすぎない、凡俗にすぎないと断定している。
完全版ではこの段階でそこまでいわず、貴族的な口のききかたが鼻につくとリンレイやガッザ(ガザエル)に反感を抱かれても頓着しない鷹揚な人物、という言い方にとどめている。
アマルガン・リンレイの海陸からの圧倒的な戦力でミラヤマは陥落した――と言ってから戦闘が始まる。
まず戦端を開くのは艦隊からの城壁への艦砲射撃。旧版では、さしたる効果は語られておらず
と書くだけだったが、完全版では迫水の日本海軍の戦術論を入れて、五〇隻からなる艦隊から大々的に一斉砲撃を敢行、コモン界では未知の艦砲で市壁を突き崩して突入孔を開くスペクタクルに語り変え。
敵の将を射てばあとは雑兵の群れである、と続くまで同様。アクション内容は同じはずだがこうまで書き変えて字数は大差ないはずだ。
上を下に書き変える意図は、言葉と言葉を見比べて「ははあ……なるほど」と考えれば分からなくはないと思う。また、上を下に書き変えなければならない理由は、文字を見比べるだけで依然としてはっきりわからないと思う。
富野文の新旧の「調子」についてはあらためて語ることができないものかな。旧来富野ファンでも、著者の上下三十年くらいの間の御文章を「一貫して変わらないもの」という前提で小説やエッセイを語っているものだ。
たくさん作品を読んでいるとある時機を経てこういう節回しに変わっていくという変化は漠然と見えるものだが、作者にとっては蓄積した進展であっても、読者のうちには「古いほうが好き」という感想を許さないものでもない、というのが文学研究の面白いところでもある。
作者の内的な経緯と、他からの評価も必ずしも一致してはないが、その変遷は「ある」ということをまず指摘できる。文学研究は「良い書き方」「すぐれた書き方」の価値観を語ること、ではないらしい。文学者でなければそこ読み分けてくれないので、集中してデータを蒐める人が専門的にする。
小説の創作教室やアニメ専門学校の脚本コースではなくて、人文科学という話ね。わたしの文学観についてはまた今度べつにしよう。
新26 ミラヤマ戦の最中に砦からの黒煙を気にしたときに、『とっくの昔に飛行眼鏡をかけなくなった自分に気づいていた』。一抹のノスタルジーと現在の戦闘状況の中ですぐさまそれを打ち消す揺り返しが去来する。日本海軍はきちんとした装備をさせてはくれなかった。
飛行帽を最後に被っていた時点は、憶えているかぎりでは新版4章でのキャプラン家の屋敷のあたりだった。飛行眼鏡は飛行帽と同じくいつかどこかで捨てたのではないか。旧版の挿絵では「革の帽子に鉄片の兜様のもの」はだいぶ後まで同じデザインで通っているようにみえる。
「41 ミラヤマ」(旧)つづき
「27 ふたりだけ」(新)
新旧版の章の境がまた不規則。新版26章末にはリンレイが突然年相応の女子らしいおちゃめを出すが、旧版にはない。
完全版ではここで、『リーンの翼の靴がないために迫水の生体力が減殺してしていて、』と靴による生体強化を明示しているが、そのことはこれまでの文中、あくまでまだ仄めかしに留まっていて「事実」とはしていないことを忘れたかのような書き込みで少し惜しい気がする。
でもその同じ箇所で、コモン人に神の概念がないために「信仰」についても一言説明を加えるのは、完全版の前回のくだりを引いていて差し引きで良し悪しとも言えないのか……。
理由はない
八百万の神についての日本人の曖昧観念を説明できず、「世界を司る神」については尚さら語る言葉をもたない迫水に対して、魂を信じないのか?と詰め寄るアマルガンの言葉には異様な迫力がある。この話自体はすでにくり返している「魂のマスカレイド」観かもしれないが、重要に思える一言は旧版のほうにあるように思う。
だから神などを余分に空想しなくても善にも悪にも懸命に生きるのだ――というコモンの在り方を続ける。それを知っていることに理由はいらない、というのはバイストン・ウェルという「世界観」を教えられるなり、示されて、世間の通則上それを受け入れて生きているのとは違う。
ここでは歴史とか歴史観について、バイストン・ウェルは「伝承の世界」だと言ってきたが、その伝承とやらもあやふやなフェラリオ経由の知識を語り伝えている、のではなく、「そうだと知っている。理由はないと断言すること」は、もうひとつここに強調してもいいと思う。
旧版ではここで章が切れて、次章「42 ふたりだけ」。
陸戦隊なのに「半舷休息」と称するのは苦笑するところだと思うが……。迫水の海軍意識がそんなところに残っているんだろうか。富野語なのか?
実存=その存ることに理由はないこと
本を置いてからしばらく考えていると、一度掴んだようなバイストン・ウェルの態度がまたふっと分からなくなるような感じがくり返す。「宗教ではない」と言っているが、実存のような話はしている。その存ることに理由はない。
富野文で実存って滅多に出てこないと言ったが、前回その話したのはアベニールで、宇宙の宗教のはなしだった。
「特攻に志願した後で厠の中で泣く」という青年像は、特攻を扱う昭和以来の作品には定型だけど、実話として一人でトイレに籠もった談話とその理由を書いているのは『イカの哲学』を今やはり思い出す。
特攻文学の典型には召集前は詩集を読み映画にも通った文学青年の青春像も紋切り型で素直に同情しがたい。
「42 ふたりだけ」(旧)
「27 ふたりだけ」(新)
日本の戦争についてまた反芻し、明治以来の歴史についてもの箇所は、文旨はすでに作中で十何回目かにくり返しかもしれないが、それを一巡して「まさに忸怩たるもの」の前に、旧版では、
からの一節がある。今の迫水の興味はそれら日本の記憶ではなくて、迫水自身の生きざまの問題だけである。五省のうち前の四つまでは今も実践を欠いていない自信がある。だが「至誠」とは……、という筋道が完全版では省略されているようにみえる。軍国少年のそれはずっと前の章は「ロマンチシズム」のうちで書いてあった。
ロマンチシズムの中のセクシャリティのようなことをいっているときはリンレイに初めて会ってリンレイの凄みに圧倒されかけていた頃。それから時間が経過して今リンレイに対して思うことは、『白人女を抱いてみたかっただけではないのか』との身も蓋もなさを再び認め始めている。の、作中経過。
後章(旧48新30)の結末まで読み合わせると、旧版の「至誠」についての五行ほどを完全版で省略することはなおさら不適に思う。わかりにくくなってるのでは……。想像できるのは、この一連の事件を通じて明かされる論理の流れがストーリーとして出来すぎている、押し付け臭い、のように感じるところがあって、読者に「なるほど」と理解させるようなピースをあえて削って仄めかす印象にする、作為を殺す、ような気持ちだったんじゃないか。
「43 見えない敵」(旧)
「28 フェラリオの刺客」(新)
こういうところがたびたびとても面白い。前に同じようなことでは、イナゴのようだった荒くれがイナゴになったこともあった。
比喩表現が隠喩になったといえば文章はそうだが、ここは殺陣で、演出の「間を抜く」ような連想が何か兆す。
「守るだけでは勝てないから」
旧43新28 フェラリオの刺客
見えない敵から一方的に攻撃を受けているとき、『防御で、勝つことはないというのが戦いの原則である』とする。だから攻めに転じる。正体のわからないものへの恐怖を払う方法は、攻撃に転じ、一刻も早くこの事態を終わらせる以外にない
これは新旧版ともに同じく、ここまで戦ってきた迫水には皮膚感覚にまで染み付いている。1985年の時点で戦いの原則として書かれていて、2010年でもあらためて書いている。そのあとでたとえばGレコのベルリが作中の戦闘の折に「守るだけでは勝てないから」と叫んだとして、たしか当時のネットの言説で「Vガンダムでは終わりのないディフェンスでいいと言っていた富野はポジティブになった」のようなものも見たことがあるけど、読者としては素直に間の経過が抜けてることはわかる。読者・視聴者は自分の見たものから判断することはいつでも許されるのであながち間違いではないが、資料はある。
富野作品中に時おり語られる「戦いの原則」「戦場の哲理」については一度リストアップしてまとめようかと思いながら、実入りが薄そうでしていない。富野の独創とは全く限らないこととか、内容が怪しいことはたびたびあるが、作中に出たものとその出所。「守るだけでは~」についてはその一つだと数えるのが今はよい。
ざっと考えても、術理と哲理という作中の扱いのちがいがある。
たとえばここでは、『地摺りの足さばきは、かかとで地面の障害物をさぐるようにする後退術である』とあるのは、だいぶ前の章でも同様の足さばきの説明で見たと思うが、あくまでこれは術のうち。
意味としては「攻撃は最大の防御」というのがもっと人口に膾炙した言い方だ。日本軍の攻撃精神、でもいい(戦陣訓、1巻4章に既出)。
迫水は生死の境をくぐり抜けて肌に染み付いているというが、ベルリの当初のそれは、恐怖にひしがれそうになりながら教科で教わった原則にしがみついた、しかないだろう。ベルリが哲人だとは言ってない。
出所を求めるには戦陣訓とするのがよい。
「44 ノストゥ・ファウ」(旧)
「28 フェラリオの刺客」(新)つづき
完全版では上のように変更されているが、旧版でまず「三匹だと」と訊いたのは「生きて帰ったのが三匹」の意味。完全版では動揺して二回訊いたことになる。
ハッサバ視点の段とマッシャ視点の段がなぜか新旧で順序逆に書き換えられている。それはリズム的なもの以外に考えられないが、完全版ではこの間に、変装としてではあるもののバイストン・ウェルの農民(と農奴)の服装について書かれている。そんなに詳しくはない。
「45 ワムの宿」(旧)
「29 ワムの宿」(新)
ノストゥの容態に差がある以外、あらすじに新旧の変化はない。もともとこの短い間奏的な場面は面白くて、『オーラバトラー戦記』にも「宿場」という場面設定はあった。「剣と魔法」世界のお約束とはいえるし……時代劇の舞台でもある。
出世払い云々のやり取りについては『シーマ・シーマ』に似た場面もある。武器はもたずとも口八丁の世渡りに見せる気概は兵士に負けていない。ピリッと緊張した会話を書けるものかな。
「46 ダッタンバへの狼火」(旧)
「29 ワムの宿」(新)つづき
前章でのアマルガンの評価も、敵として観察したハッサバの評価も、リーンの翼の条件はサコミズという地上人そのものの特殊性にある、と判断しているのに、では翻って「靴」は何だったのか? という読者の困惑感はきっとこのあたりで強まるだろう。
マッシャを斃し、その斬殺の嫌悪感に耐えたあと靴を取り戻すとき、
靴が「生温かい」と感じた理由が新旧で変わっている。靴のご利益による生体力が……という説明には意図するものがあるみたいだ。
「47 憂鬱」(旧)
「30 蠢動」(新)
ダーナの観測にアマルガンがふと怪訝な顔をする理由。
で、それを問いただすアマルガンにダーナは「意外にデリケートなのだ」(旧)と感じる。この感想は完全版にはない。「猪突する武者の気性」を自認する者に「デリケート」という評価はかけ離れているだろう。わたしは旧→新の順に交互に読み進めているが、旧を読んだ感じではアマルガンの「インテリ」の面を言っていると思った。荒武者の気性を持ちながら、それを自覚して抑えて振る舞うことができる。
この台詞は旧版にない。
「48 蠢動」(旧)
「30 蠢動」(新)つづき
時代の趨勢をすでに見取りながら、人間一代の間に聖戦士にまみえるのは血の踊ること、と豪語するゴゾ・ドウについて、新旧版では評価が大きく分かれる。旧版では、老いてなお今こそ心底血が燃え始めた、という妖気ともいえる覇気を描く。ハッサバは「若い……」と讃嘆する。
完全版では、結局のところ自分個人の闘争心という狭い了簡に収まってしまう器の狭さ、文人としての知性徳目、人心掌握に至らなかったという老いの部分が浮き出る。ハッサバにも「飽きたからこそやってみせようというのなら、それもいいだろう」との、諦観を交えながら闘志をかき立てることになる。ゴゾ・ドウの文人知性については「ガダバの結縁」等以降すでに読んできた。
至誠と桜花
旧48新30まで、約6(3)章にわたる暗い道のりの追跡行が終わる。発端の呟きは「至誠に悖るなかりしか」、この章末はふたたび「桜花」の和歌に返る。旧版ではここにその歌を吟じる理由は書いていない。心の中のわだかまりが消えていることを知った、とのみ。
完全版では、なんでそんな歌がこんな時に、と自分で呆然としながら、「それはアンマへの返歌であることは否定できない」と言って閉じる。返歌、というからにはアンマから迫水へまず投げかけたクエスチョンに対していうので、アンマのそれは、前夜の慟哭した「なぜ信じてくれなかったのか」「聖戦士がどうしてそんなに自信がないのか」だっただろう。
海軍五省のうち「至誠」について、前章の旧版のほうにやや詳しい。
そのいずれも、バイストン・ウェルに迫水は持たない。だからあえてアマルガンなりリンレイを仮の対象として筋を通そうとしてきた。それは誠と言えたのか、が曖昧な疑問符になっていた。追跡行をへてアンマに再会してやっと言えたことは「今日まで俺を生かしてくれた人々に、俺のできる限りのことはして見せなければ」という戦意表明になった。それが迫水の中で前後相通じたことに、迫水自身が知ることなく、言った、という経緯。旧版の上の箇所が、完全版では抜いてある。その代わりに「アンマへの返歌」と書き足してある。
迫水はバイストン・ウェルの者ではない。死に損ないの自分の情熱を燃やし尽くすためだけに闘うにしても、バイストン・ウェルの人々に対して究極的に責任をもてないという意識を自覚しつつあったんだ。それでは至誠とは言えん、確かに。
異世界から来てこの世界のために戦う戦士がどれくらい誠実であるべきかという問いは、2025年とかの今でもできると思う。まず問われているかというその意味も含めて、だな。
「53 あぶりだし」(旧)
「33 夜明けから」(新)後半
ダム・ボーテの指揮の凛烈なことを、
「も」と「は」による文の書き変えだが、「かくや」の意味は異なり、完全版が正しい。
旧版この章末(53)、迫水はノストゥの容態を見て不審に思い、クロスとアンマに問い合わせた上で「ヒロポンか……?」と初めてフェラリオを覚醒剤で操作している可能性に気づき、バイストン・ウェルにあってもそうした悪辣な手段が戦争で横行していることに愕然とする。クロスとアンマはここでは麻薬を知らないことになっている。
ここだけを読むとショッキングな場面だが、旧版のこの巻の前の方の章で迫水はフェラリオが麻薬漬けの可能性はアンマに語っており、読者から見ても今更驚愕する迫水がおかしい。
完全版ではクロスとアンマはノストゥが麻薬中毒なことはとうに承知している。迫水はクロスとアンマに禁断症状に適当な薬はないか訊ね、フェラリオと天の水についてやリーンの翼の光の回復力などをアンマがまくし立てたりするが、旧版のちぐはぐを修整した跡で、やはりぎこちなく不自然な会話をしているみたい。